はてなキーワード: 1994年とは
2015年問題:「団塊の世代」(1947年〜1949年生まれ)が2012年から65歳を迎え始め、2015年にはすべての団塊の世代800万人(※出生数)が65歳以上になる
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2010年問題:「団塊の世代」が2007年から60歳を迎え始め、2010年にはすべての団塊の世代が60歳以上になる
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「高年齢者等の雇用の安定等に関する法律」により60歳未満定年制が禁止されており、60歳が日本の標準的な定年であった。
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1986年[注釈 2]の高年齢者等の雇用の安定等に関する法律の改正で60歳定年が企業への努力義務に、1994年[注釈 3]の改正で60歳未満定年制が禁止(1998年[注釈 4]施行)されたことで60歳が日本の標準的な定年になった。2000年[注釈 5]に企業に対して、65歳までの雇用確保措置を努力義務化された。2004年[注釈 6]に企業に対して、65歳までの雇用確保措置の段階的義務化(2006年[注釈 7]施行)、2012年には企業に対して、希望する労働者全員を65歳まで継続雇用することが義務化がされた(2013年施行)[9]。
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2000年までは7年後という近い将来に大勢の社員が60歳で定年退職するので人手不足が予想されていた。
https://twitter.com/Kanthan2030/status/1638351231625363457
米国に近づくとダメになるとか、日本は中国と戦争を準備中とか、ちょっと気の早いこと言ってるけど言いたいことは良く分かる。
今、日本は緊急事態条項の加憲に向けて、審査会開かれてるもんね。
米国(民主党も共和党も)は自衛隊を日本国軍に変えて「米軍の前線部隊」みたいな使い方をしたいんでしょ。米軍を動かさなくても日本軍が血を流してくれるし、日本軍が「アジア・中東地域」でヘイト集めるタンク役にもなってくれるし。
日本は経済成長の余地が無いから、権力者的には戦争ビジネスに参加した方が美味しいよね。
日本のメディアは米国民主党が抑えている。トランプとプーチンのネガティブキャンペーンにも多くの国民が簡単に洗脳された。
英語なんてまるっきり読めない人ばかりだから、西側で展開されてる認知戦の意味も理解できない。
こりゃ、騙しやすいよね。
ここ40年位の日本のゲームの歴史をハードの性能などを交えて取り敢えずプレステ辺りまでを解説して下さい
ここ40年間の日本のゲームの歴史は、多くの革新と発展がありました。以下は、主要なゲームハードウェアとその性能に関する概要です。
ファミリーコンピュータ (Famicom) / Nintendo Entertainment System (NES) - 1983年発売
任天堂が開発したファミコンは、8ビットのプロセッサ(1.79MHz)を搭載し、最大52色のグラフィック表示が可能でした。これにより、スーパーマリオブラザーズやゼルダの伝説などの名作ゲームが生まれました。
セガ・マークIII / Sega Master System - 1985年発売
セガが開発した8ビットの家庭用ゲーム機で、プロセッサは3.58MHzでした。最大64色のグラフィック表示が可能で、アレックスキッドやファンタジーゾーンなどのゲームが人気を博しました。
PCエンジン / TurboGrafx-16 - 1987年発売
NECとハドソンが共同開発したPCエンジンは、8ビットのCPU(7.16MHz)と16ビットのGPUを搭載し、最大482色の表示が可能でした。このハードは、R-TYPEや悪魔城ドラキュラなどのゲームで知られています。
スーパーファミコン (Super Famicom) / Super Nintendo Entertainment System (SNES) - 1990年発売
任天堂が開発した16ビットのゲーム機で、3.58MHzのCPUと最大32768色のグラフィック表示が可能でした。スーパーマリオワールドやゼルダの伝説 神々のトライフォースなどの名作が多数リリースされました。
セガ・メガドライブ / Sega Genesis - 1988年発売
セガが開発した16ビットのゲーム機で、7.67MHzのCPUと最大512色のグラフィック表示が可能でした。ソニック・ザ・ヘッジホッグやストリートファイターIIなどのゲームが人気を博しました。
セガが開発した32ビットのゲーム機で、2つの28.63MHzのCPUを搭載していました。最大対応色数は1677万色で、バーチャファイターやパンツァ
セガが開発した32ビットのゲーム機で、2つの28.63MHzのCPUを搭載していました。最大対応色数は1677万色で、バーチャファイターやパンツァードラグーンなどのゲームが特徴的でした。また、CD-ROMを採用し、高品質なサウンドやムービーの再生が可能でした。
ソニーが開発した32ビットのゲーム機で、33.87MHzのCPUを搭載し、最大対応色数は1677万色でした。CD-ROMを使用し、ファイナルファンタジーシリーズやメタルギアソリッドなどのヒット作が登場しました。3Dポリゴン技術の進化により、リアルなグラフィック表現が可能となりました。
任天堂が開発した64ビットのゲーム機で、93.75MHzのCPUを搭載していました。最大対応色数は1677万色で、スーパーマリオ64やゼルダの伝説 時のオカリナなどの革新的なゲームがリリースされました。カートリッジを採用していたため、読み込み速度は速かったものの、データ容量が限られていました。
以上が、おおよそ40年前からプレイステーションまでの日本のゲームの歴史とハードウェア性能の概要です。この期間には、技術革新やゲームデザインの進化が急速に進み、多くの名作ゲームが生み出されました。
おれ、chatGPT使えるようになって真っ先に望月新一のABC予想についての海外数学コミュニティでの受け止めについて聞いてみたんだけど、その時はまあまあちゃんとした内容(通り一遍ではあるが)が返ってきた。いま望月新一について尋ねてみたらこんなのが戻ってきた。
望月新一(もちづきしんいち)は、日本の漫画家であり、推理小説家でもあります。彼は、特に『名探偵コナン』の作者として知られています。
望月新一は、1965年6月4日に青森県青森市で生まれました。彼は若い頃から漫画や小説を書くことに情熱を持っており、高校生の頃から漫画家としてのキャリアをスタートさせました。
1994年に、望月新一は『名探偵コナン』を連載し始めました。この漫画は、高校生探偵の江戸川コナンが、毒を飲まされて小さくなってしまった身体を利用して、事件を解決するストーリーです。この作品は、世界中で大きな成功を収め、アニメ化や映画化など、さまざまなメディアで展開されました。
望月新一は、漫画だけでなく、小説でも才能を発揮しています。『名探偵コナン』の小説版をはじめ、数多くの推理小説を執筆しています。
また、望月新一は、漫画や小説以外にも、音楽にも興味を持っており、自ら作曲した楽曲を使用したアニメーション作品もあります。
いや数学者だろ、とツッコミを入れたら以下。もっともらしいがデタラメ多い、というか、望月拓郎とごた混ぜになっている。
望月新一(あきら・もちづき)は、日本の数学者であり、代数幾何学を専門としています。主に、モチヅキ理論やモチヅキ加群、モチヅキ因子などの研究で知られています。
代数幾何学は、代数学と幾何学の融合であり、代数方程式の幾何学的な対象である代数多様体を研究する数学の分野です。望月新一は、代数多様体の幾何学的性質を研究する際に、代数的手法を用いて新しい理論を発展させました。
具体的には、望月新一は、代数多様体上の「D加群」と呼ばれる特殊な加群を研究し、それを用いて、代数多様体の幾何学的性質を解明しました。また、望月新一は、代数多様体上の「モチヅキ因子」と呼ばれるものを定義し、これを用いて、代数多様体の双有理幾何学に関する新しい理論を構築しました。
ティモテと言えば太古の昔のアニメ「らき☆すた」でも「ティモテーティモテー」などとネタにされた
まず1980年に発売予定だったが、成分の一部が日本では認可されていなかったため輸入がストップ。
サンミュージックは新人アイドル中山圭子のデビュープロジェクトをティモテとのタイアップで推し進める計画を立てていたがティモテの発売停止により頓挫。
中山圭子はデビュー自体はできたがほとんど注目されず、翌年にはサンミュージックを退社している。
そして辞めた中山圭子の代わりに急遽デビューすることになったのが松田聖子である。
その後1984年に発売開始。市場占有率20%を超える大ヒットを飛ばすも徐々に訴求力が低下1994年に撤退。
鈴木は陣営外の人にも話が通じる右翼として有名だったが、実は朝まで生テレビの成立に大きな関りがある。鈴木が居なければあの番組は無かったんである。
また風桶式に鈴木が居ねばネットの団塊叩きも無かったんである。ちょっと説明しようと思う。
鈴木の親は民族主義新興宗教の「生長の家」の熱心な信者だった。その為大学時代は六本木にあった生長の家道場の寮に住み込みんで大学に通うと共に国粋宗教活動と学生運動に身を投じ、全共闘の左翼学生と殴りあいをしていた。最近話題の宗教二世だったのだな。
この道場は乃木坂の緑の中にあった。https://goo.gl/maps/tv9eakNek34ZLQXU6
今では生長の家の3代目がエコロジー志向になったので建物も塀も取り払われて開放的な森として一般にも開放されているが、一昔前は周囲の階段が「おばけ階段」と呼ばれるほど鬱蒼とした場所だった。
日本会議の中核メンバーも多くここに入寮しており実はこの寮は戦後の右翼運動の胎盤みたいな場所なんである。安倍政権で日本会議が急接近した事で政治にも影響を与えた。米議会は安倍政権と日本会議の関係を問題視していたのでこの寮の輩出者も分析把握されているかも知れない。
この敷地内には日本教文社という出版社もあってこれは生長の家の教祖谷口雅春の著書を出版して思想と教義を広める為に設立された出版社だ。しかしフロイトの『精神分析入門』や『夢判断』、ユングの選集などをいち早く出版するなど、実は学術分野でも存在感を示してきた社でもあった。
余談だが防衛庁(当時)の庁舎は2000年まで六本木にあり(現ミッドタウン)、更に60年代まで門が開いていたので近所の人は庁舎内の売店で買い物をしていたそうである。六本木、赤坂の物価より安い上に生長の家道場と防衛庁庁舎は目と鼻の先だったので鈴木も利用して安いパンツ等の購入に重宝していた。
ところがある日、左翼学生による防衛庁突入事件があり、それ以来門は閉められ部外者が売店を使用することは出来なくなった。
六本木交差点の先や青山まで行ってハイソ価格のパンツを買うしかなくなってしまった為に怒り沸騰、全共闘と衝突した際には「お前らのせいでパンツが安く買えなくなっただろ!」と叫んで相手を殴っていたとの事である。相手も何を言われているのか不明だったろう、と鈴木は述懐していた。まー、面白おかしく話を盛ったんだろうけど。
1970年に三島由紀夫の市谷駐屯地東部方面総監部占拠と割腹自殺事件が起きて世間を揺るがしたが、三島の介錯、つまり斬首をしたのが森田必勝。森田もまた割腹し介錯された。この森田必勝は鈴木の後輩で、思想的に鈴木の影響を強く受けていたという。
この為に鈴木は強く動揺、やがて右翼として生きる事を決意する事になる。やがて勤めていたサンケイ新聞も退職してしまう。(デモでの狼藉で解雇されたとの話)
鈴木はこの事をずっと気にしていて十字架を背負っているかの如くだったが、2000年頃になると「森田氏」と敬称を付けて呼ぶようになった。十字架を下したのかもしれない。
余談だが、小泉政権時代に男性か女性か判らんと評判になった井脇ノブ子という政治家が居たが、彼女は学生時代、右翼学生運動のマドンナで、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の様に数万の男塾みたいな学生の先頭に立ち、当時新右翼学生運動のプリンス的立場だった森田との交際の噂もあったとの事である。
1977年google:image:『おまえらがかわいいけんなぐるんや!』は井脇31歳の時の刊行だが表紙写真の井脇は暴力教師だかダチョウ倶楽部上島だか素人には見分けがつかない。
鈴木らは「新右翼」であり、これは全共闘などが含まれる新左翼に対抗する為に生まれ、政治権力に癒着した旧右翼らと違う軸を志向した。そもそも対抗する相手の新左翼自体が、日本共産党が暴力路線を放棄する事に反発して生まれたもので、要するに暴力vs.暴力。
最初から硬派なバンカラと軍国路線で、彼らが卒業して政治結社を結成するようになると国防色(カーキ)の街宣車を使うようになった。これが80年頃になると威圧感を与える黒塗り街宣車と旭日旗、日章旗、軍歌を流すというスタイルが定着した。
鈴木が代表を務める一水会も黒塗り街宣車で軍歌を流して通行人を威圧して居たが、やがて鈴木はこのスタイルは良くないと考え出す。こんなスタイルでは話を聞いてくれる人が居ない。
という事で今の機動隊バスのような爽やかなブルーに塗り直して大音量の軍歌も怒鳴り声も止めた。これは今で言うとテニスサークルヤクザとか好青年暴走族みたいな強烈なミスマッチである。(考えれば機動隊バスが国防色止めたのも同じ動機だ)
すると傍目には社会党などの街宣車に見えるから、すれ違う右翼街宣車に怒鳴られる事もあったそうである。「あー、てめえらふざけんじゃねえぞおいゴラ!」「あ、一水会さんでしたかどうもすいませんでした」って事が度々あったそうだ。
ただ、話を聞いて貰えないスタイルが流行したのは大人の事情もある。威圧感があって相手が震えあがるというのは、例えば企業相手の抗議に行くときは相手が折れてやり易い訳だ。
更に活動費というのは支持者の寄付と機関紙の購買費で稼ぐのだが、相手が折れた先に機関紙の購買も持ち掛ければ受諾されやすい。そこで心付けを渡してくる相手もいる。
するとシノギの手段としてヤクザが参入してくるようになる。民事介入暴力だ。ヤクザは元々旧右翼と不可分だったが、それが新右翼のスタイルを模倣して参入するわけ。威圧感を高める為に街宣車もカーキや灰色じゃなくて黒塗りの方がいいし、車格も小さいライトバン等より大型のワゴンやバスの方がいい。こういうのを警察用語で右翼標榜暴力団という。当時沢山いたヤクザが参入する事で「業界」のパイも大きくなった。
鈴木はこういう威圧じゃなくて議論や対話を好むスタイルだったので、敵のはずの新左翼側とも交流があり、新左翼出版社から自書を出版して居たりもした。それで「一般人の方も向いている面白右翼」という評判が高くなっていた。
そこで1985か86年に全共闘上がりの活動家と鈴木含む新右翼の大討論会というのを開催する事になった。司会はあの田原総一朗である。
この当時は全共闘とか学生運動というのは完全に過去のものになっていて嫌悪さえされていた。流行っていた思想はポストモダンで、モダンの内容も踏まえずに言葉の戯れを繰り出すのが流行していた。これは凄惨な内ゲバを繰り返して自滅したのに青臭い異議申し立てさえすればよいという立場で「議論」の場に居座っていた学生運動的なものに参加したくない、そうではないものが新しい価値ある態度なんだという、以前の政治的なものへの強い忌避、反感がベースにあった。あの田中康夫も事あるごとに全共闘残滓の異議申し立て的態度や代ゼミ講師的ノリをコキ下していた(湾岸戦争で日本が参戦を求められた事に衝撃を受け転向)。
そんな時代背景では政治議論なんてものはカビが生えた扱いで部外者には面白い訳がない。
そう思われていたのに、いざ討論会をやってみたら部外者にもかなりウケがいい。やってる方も面白い。
それでこれはいけるぞと踏んだ田原総一朗がテレ朝に持ち込んだ企画が朝生だったんである。
当時、エロ一本鎗だった深夜放送枠でフジTVが色々実験的な番組を放送し始め、その深夜枠のいい加減さも相俟って好事家的視聴者層にウケていた。そこにCNNの放送権をゲットして社会路線で行きたかったテレ朝が乗ったのだろう。
こういう経緯だから最初の頃の朝生は体制派vs.反体制派orリベラルという構図が鮮明だ。田原は最近「朝生は最早保守だ左翼だという時代ではないというのが朝生を始めた動機だ」みたいな事あちこちで言ってるんだが、この経緯を見ればこれが嘘って事は判るだろう。ボケちゃってるんじゃないの?討論なんてウケない時代に「激突全共闘と新右翼」討論会の成功で行けると踏んだのが朝生なのだから。
そしてこの討論会は鈴木の左右を超えた交流と議論好きの人格が無ければあり得ず、田原も来なかった筈なのだから、鈴木の存在が朝生を産んだと言って差し支えないんである。
こういう風に鈴木の活動と波及した社会現象は停滞して煙たがられていた政治議論を活性化した。すると全共闘上がりの人士らは元気になって「異議申し立てが必要だ」「もう一度騒いでもいいだろ」と言うようになった。これらを受けて刊行されたのが1994年の『全共闘白書』である。
この動きに対し、同世代の松原隆一郎が文藝春秋社の雑誌『諸君!』で批判を加える。更にこれを受けて諸君!誌では「うるさいばかりで無責任 上と下からぶっ叩け全共闘世代」という特集を組んで、その名の通りに上の世代と若手の執筆者が全共闘叩きをする記事を寄せた。
つまりはこれがネットで長年繰り返された団塊批判の始まりなのだ。この全共闘的振舞いへの批判から団塊Jr.世代(増田もそう)の日本を支配するオヤジ世代へのルサンチマンと甘えが被さり、「団塊世代」全体を叩くという風にスライドしてきたのである。そこでは例えばいい年になっても漫画を読んでるというスタイルを確立したのが団塊だ(劇画市場の成立)とか子供部屋が個室とか結婚は好きな相手とすれば良いしなくても良いという常識とか若者向け流行歌の市場とか個人のプライバシーとか時給制アルバイトとかが団塊世代がわがままをしたせいで出来たって事にも向き合わないで済んだ。
些か「風が吹けば桶屋が儲かる」的だが、鈴木の活動が無かったら全共闘上がりが活性化して『全共闘白書』が刊行されることも、それに対して下の世代が反発する事も無かったのである。そしてそれがネット民の甘えを吸収して団塊叩きに変化する事になったのだ。
最後に現在も統一教会との関係で取り沙汰される朝日新聞襲撃殺人事件の赤報隊に関して。
1990年代に新右翼を名乗る男の脅迫で柳美里のサイン会が中止されるという事件が起きた。鈴木はSPA!誌に連載を持っていてそれを批判したところその男が抗議してきた。その中で男が赤報隊の名を語った為、鈴木は「赤報隊とは面識がある、名前を騙ったお前を赤報隊は必ず殺すだろう」と伝え、懺悔の言葉を引き出す事に成功し、それを連載記事に書いた。
すると、直ぐに警察が何らかの容疑で令状を取り事務所を捜索して書類の類を皆押収してしまったのである。赤報隊の情報を得る為の別件事件だ。これに鈴木は怒って赤報隊の情報は二度と官憲に提供しないと書いてそれきりになってしまった。
結局赤報隊と鈴木の面識が脅迫犯へのブラフだったのか真実だったのかは不明なんである。
ヤクザの根絶やしを目的とする暴対法が施行される事になった時、任侠右翼とも付き合いがある野村秋介に鈴木はヤクザの人権を守れデモに参加しようと強く誘われたが、鈴木は「イヤですよヤクザなんて」と気乗りがしなかったが、野村は親分肌なので断れない。仕方なしに参加したら呉智英らに「アウトローの人権とは笑止」などと言われてしまった。
結果としてはメッシがサッカー史上最高の選手ってのが確定するようなアルゼンチンの勝利でしたね。メッシ選手は大会MVPかつ得点ランキング2位、W杯史上最多出場です。いまだにペレガーとかマラガーとか言ってる人は無視して構いません。メッシが史上No.1です。開催前はやれ招致に纏わる汚職だとか(あのプラティニが逮捕)やれ労働者の人権軽視だとか色々と取り沙汰されてましたが、蓋を開けたら色々なレベルで史上最高クラスの大会であったことは間違いありません。そして、ここでは競技レベルでどうして面白い大会になったのか語ります。
端的にいうと、選手のコンディションが高くなる要因が幾多もあったからです。
今までのW杯はシーズン終了後にクタクタとなってオフに入るってタイミングでの開催だった訳ですが、今回は異例の秋開催で欧州はシーズン真っ只中です。そのおかげで選手たちのコンディションレベルは概ね高くなりました。一部「シーズン中だったから怪我人が続出した」とか意味不明なこと書く人もいますが無視して構いません。Jリーグは知りません。
W杯は基本的に6月から7月の北半球での開催なのでクソ暑く、後半になってくると足が止まる選手ばかりでした。またワールドカップは放映権の問題で真昼にキックオフとかもザラです。1994年の決勝のブラジル対イタリアは悲惨でしたね。最後はバッジョは倒れそうな披露でPKもまともに蹴れなくなりました。しかしカタールは11月開幕かつエアコンをガンガン掛けるという大盤振る舞いでピッチコンディションはむしろ動いていないと寒いぐらい。今回の決勝、アルゼンチンもフランスも最後まで攻め続けられた理由の一つ。
今までは21~23人しか帯同できず、また交代枠も3人だけでしたが、コロナのゴタゴタで知らんうちに欧米の交代枠が3回5枠に引き上げられてW杯にも引き継がれました。選手も26人呼べます。延長になれば更に1人枠が増えるし、また脳震盪を申告すれば更に交代可能です。これを最大限に利用した監督が日本の森保監督(本番で覚醒)で、劣勢になった後半にシステムを大幅に変更し、格上相手に逆転を2回もやりました。
今までのワールドカップは会場が変わると長距離の移動、最悪飛行機に乗らないといけず、中3日の試合間隔だとしても、そのうち1日は移動で終わってしまうとかもありました。本当は激しい消耗をした翌日ですから、たっぶり寝たあと、クーリングやマッサージをして回復しないといけないのに。そしてバスや飛行機って乗ると疲れるんですよね。今回のカタールW杯は短時間の移動で済みました。
サッカーは昔から欧州と南米が中心ですが、アジアやアフリカの競技レベルも上がりつつあり、これまて本戦では笑いものだったサウジアラビアは大会唯一でアルゼンチンに黒星をつけて、オーストラリアや韓国もGS通過。今回クソだったチームはカタールとウェールズぐらいでしたね。
ワールドカップでは昔から「欧州開催の大会では欧州が強い」「南米開催の大会では南米が強い」という傾向がありました。今回は中東だったのですが、全体的に南米の国がアルゼンチンとブラジル以外は大人しくて、サウジアラビアやモロッコはホームみたいなもんでしたね。この2国の躍進の理由だと思います。日本や韓国、オーストラリアもカタールの気候は知っていた選手多かったと思います。それがグループステージで拮抗した戦いが増えた理由になったと思います。
さて、ここで2026年のカナダ・メキシコ・米国開催について考えてみると、競技レベルが大幅に下がる要素が目白押しですね。
欧州での厳しいリーグを終えて疲労が蓄積したあとの参加です。次回も過密日程のプレミア中心のイングランド代表には期待しないほうがいいでしょう。
地球温暖化の影響でそろそろ気温40度が観測される地域も増えてきました。たまに「欧米の夏は湿度が低いから体感温度が~」とか語る阿呆がいますが、あっちは緯度が高いところは日差しが強いというかもはや痛いですし、そもそも米国(マイアミ)とかメキシコ辺りは普通に蒸し蒸ししてますよ。とてもサッカーみたいに消耗が激しいスポーツをやる気候とは思えません。
米国って時点で死ぬほど広くて会場間の移動は飛行機必須ですが、ましてカナダやメキシコも加わるので異なる国をまたぐんですよ。2014ブラジルも割と大変だったらしいですが、それすら超えて史上最も移動距離が増える大会と言えます。なお2018年のロシアはほとんどのスタジアムが西側にありましたね。
参加国が1.5倍ですよ。1.5倍。まあ普通に言うと「ワールドカップに出れるレベル」に達していない国が出てくる事になります。レベルが高いと言われてる欧州ですら今回ギリギリで通過してきたウェールズがあんなクソだったし、開催国特権で参加したカタールがあんな情けない感じだったし、少なくともグループステージでは見る価値のない捨て試合が急増する事は否めません。
上と同じ事を言ってるようで違う事を言ってます。つまりワールドカップの予選が大幅にヌルゲーになってしまうのです。もうぶっちゃけ日本は海外組呼ばずに国内組だけでも余裕で通過できます。これが何故悪いかというと、ワールドカップの予選という熾烈な競争の舞台こそ代表が成長できる一番の場なのです。欧州はイタリアが2大会連続で落ちたり、オランダみたいな強国ですら通過できないほどの厳しい予選です。南米は10国しか参加してないのにレベルが死ぬほど高いので、2002年はブラジルすらやばかったし、アルゼンチンも何度か予選落ちの危機があった(記憶)。
5月24日(月)のゲストは、古美術鑑定家の中島誠之助さんでした。
大学を卒業後、マグロ漁船に乗りインド洋でマグロ取りの仕事をしていたという中島誠之助さん。
その後、叔父さんが古美術鑑定家をしていた事もあり、その仕事を手伝っているうちに、歴史や古いものが好きだった事もあり、古美術鑑定家としての道を歩んでいく事に。
若い頃からの経験上、買い物で「これは儲かった!」と思う品物は必ず損をする。自分が本当に好きな物を買うと、それに同調してくれる人が出てくるそうです。
そして、1994年に始まった「開運!なんでも鑑定団」では、番組がスタートする時に、番組のスタッフが訪ねて来て、鑑定士として番組へ出演のオファーがあり、現在もメンバーとして活躍されています。
色々な物を見てきた中島誠之助さんですが、許せない品物は、最初から人を騙そうと思って作られた物。そういう物は、約束通りに作られているので、すぐに分かる。
「開運!なんでも鑑定団」で、300万円と鑑定した物が、数ヶ月経つと必ず偽物が出てくるそうです。
聞いてるかア〇ゾンマケ〇レ・・・
今年で36歳になるんだけどさ、今大騒ぎしてる統一教会の30年前のニュースは全く覚えてない。夕食時にはテレビでニュースが流れてたから、見てるはずだろうけども5、6歳の子供の時では記憶に残らんか。
じゃあ、記憶に残ってる一番古いニュースは何ぞやと考えてみたけど、おそらく1994年の水不足のニュースだな。その前年に米不足があって、当時の生活にも直撃したけど(親がブレンド米の話をしてたのを覚えてる)、ニュースもなると全く覚えてない。
その点、水不足のニュースだと毎日琵琶湖の水位が2cmずつ下がっていってワーワー言ってたり、香川で毎日10時間以上断水してたり、そのせいで床屋が店中にあるとにかく水が入る入れ物なら何でも水を入れても置いたって映像が流れてたのをよく覚えてる。
https://www.uniqlo.com/jp/ja/special-feature/price-revision
今から28年前の1994年、私たちは、それまで一部のアウトドアメーカーが扱っていた機能的で高価な素材のフリースを、1900円(税別)という誰もが手に取りやすい価格で発売しました。これまで本当に多くのお客様から支持をいただき、ご要望に応えて進化を繰り返し、「フリースはユニクロそのもの」と言えるほど、大事な定番アイテムに成長してきました。そんなフリースの価格を見直さざるを得ない理由をお伝えします。
価格が上がる大きな要因は、製造コストの変化です。私たちは発売時から、中国を中心とした海外のパートナー工場様と一緒に工夫を重ね、価格を変えずに、毎年、素材やデザインを改良してきました。この間、生産や販売に関わる人件費は上昇を続け、その上、近年の急激な原料費や物流費の高騰に直面しました。あらゆるコストが上がる中、私たちには、価格を維持するために品質を犠牲にするという選択はありませんでした。ユニクロはお客様に長く愛される普段着を作る会社だからです。それが私たちのLifeWearであり、サステナビリティの考え方の基本です。「安かろう、悪かろう」では、ユニクロの服ではありません。今年のフリースフルジップジャケットは、素材に回収ペットボトルから作られた100%リサイクルポリエステルの身生地を使い、ファスナーなどの付属品もできる限りリサイクル素材を使用しています。また、昨年よりも生地の目付けを約50g/m2アップし、より快適な着心地を目指しました。
今期、フリースフルジップジャケットを含む一部商品が新しい価格になりますが、価格の変更を最小限に抑えるために、品番数で全体の約8割にあたる商品の価格は据え置きました。このような決断と努力を重ねることで、私たちは将来にわたってより良い商品を世界中のお客様に提供し続けられると信じています。
貼ったの母親じゃん
とくに事件性なし
たぶん拉致被害者とかだろ
生きてるとは思うが、念のため合掌
1994年9月、当時27歳の嵐真由美さんは出産のために東京都墨田区にある実家に戻っていました。
そして9月2日の19時ごろ当時1歳の娘を実家に残して外出し、そのまま行方不明となってしまいます。
「同級生に会いに行く」とだけ言い残して行方不明となった真由美さんは、そのまま戻ってくることはありませんでした。
「洋子のはなしは信じるな」
この言葉が広まったきっかけとなったのは、ニュース番組「スーパーJチャンネル」でした。
この番組では、未解決事件を番組独自で調査する人気コーナーがありました。当時この事件も未解決事件として取り上げられ、そこでこの事件が取り上げられることになったのです。
番組取材班は真由美さんの実家に取材に出向きます。テレビで特集し拡散することで真由美さんが見つかる可能性もあると考えた家族は、この取材を受け入れました。
しかし、インタビュー映像を取っていたディレクターがある異変に気づきます。
話題になったのは真由美さんの父親がインタビューを受けているシーン。それまで特に変わった様子はなかったものの、突然母親と思わしき人物が父親の背後、カメラにも映る場所に「洋子のはなしは信じるな」と書かれたメモを張り付けたのです。
「洋子」とは真由美さんの姉のことで、実家に暮らしていた洋子さんもこの取材でインタビューを受けていたのです。
カメラにもばっちり映ったこのメモについて、番組スタッフも違和感を感じますが「不可解なものがあったほうが視聴率がとれそうだ」というディレクターの判断により、そのまま放送されることとなります。
統一教会自体は解散命令が出ればいいと思うけどさ、デマならデマで批判するべき話だから。
名称変更は統一教会が関わりが政治関与の話で唯一、直接的に出てる話だから捨てたくない気持ちも分かるけどね。
紀藤弁護士や前川氏は、統一教会の名称変更を拒絶できる理由として、
周知性や実態が変わってないと言ってるんだけど、すごい無理があるように思う。
97年時点で考えても、旧統一教会は世界平和統一家庭連合とするだけの正当に言い張れる理由が十分にある。
文鮮明が作った韓国発のカルトなわけで、海外にも多数拠点があって宗教活動してる。
そんな統一教会は1994年に「Family Federation for World Peace and Unification, 」(FFWPU)に名前を変えた。
本家の名前が変えてると教主の文鮮明が言ってる中で、日本支部側も名前を変更したいという話に「実態が変わってない」
っておかしくね?
例えば、キリスト教の本部が「クリスト教」に変えたら日本側も「クリスト教」に変更するのは自然だよね。実態が大きく変わってるじゃん。
前川の本音は、反社会的な活動をしてるから名称変更を受け付けない!だし当時の水際対策としては悪いことじゃなかったんだけど、
大事なのはこれを国民がちゃんと知っておくこと。統一教会はこの手順でつぶすのだと理解しておくこと。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%84%9F%E5%95%86%E6%B3%95
1984年、後に明覚寺の管長となる男性が千葉県野田市に水子菩薩を扱う訪問販売会社を設立[30]。地元の曹洞宗の寺と協力して販売していた男性が、1987年に醍醐寺の末寺として茨城県大子町に1987年に宗教法人「本覚寺」を設立し、関東一帯にそのグループを展開した[30]。1988年に真言宗 醍醐派を離脱し独立の寺として霊視鑑定を行っていたが、消費者センターに苦情が寄せられて詐欺商法だとして損害賠償請求が次々と起こったため、一時的に活動を中止した[30]。その後、休眠状態にあった和歌山県の高野山 (高野町)[31]にある「明覚寺」を買収し、関西地区で同様の活動を再開したが、こちらでも損害賠償請求が多数起こった[30]。愛知県警は明覚寺系列の満願寺(名古屋市)の僧侶らを摘発した[30]。1999年12月16日に、文化庁は「組織ぐるみの違法性が認められる」として和歌山地方裁判所に宗教法人明覚寺に対する解散命令を請求し、和歌山地裁は2002年1月24日に解散命令を出した[30]。明覚寺は最高裁まで争ったが棄却されて解散になった[32]。犯罪を理由にした宗教法人の解散命令としては、オウム真理教に次ぐ2番目のできごとであった[30]。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/giji_list/index.htm
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/shuukyo/gijiroku/1329788.htm
第2段落でございますが、「「修行目標」が定められていたこと自体、詐欺行為が組織的なものであったことを裏付ける事実というべきである」。その2つ下の段落でございますが、「さらに、抗告人が相談者から供養料が振込入金されることを確認し、その金員を管理していたことについては、抗告人も自認しているところ、この事実も詐欺行為が組織的なものであったことを裏付ける事実というべきである」。以上の理由から、抗告人の主張はいずれも採用できないということで、結論といたしまして、原判決は相当であり、本件抗告は理由がないからこれを棄却するという決定を行っているところでございます。これに対しまして明覚寺は、10月4日に最高裁に対しまして特別抗告を行っておりましたが、資料3-2にございますように、本件抗告理由は、民訴法第336条第1項に規定する特別抗告ができる理由で特別抗告をしていないと判断して、棄却する旨の決定を行ったところでございます。以上によりまして、明覚寺は解散をいたしまして、資料3-3の法人登記簿の3枚目の一番下にございますように、平成14年9月27日、和歌山地方裁判所の解散命令の決定の確定により解散となったわけでございます。
阪神・淡路大震災が発生し、このときばかりとオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした1995年の春のことです。和歌山県高野山に拠点を置いていた宗教法人・明覚寺グループの「霊視商法」詐欺事件が明るみに出ました。
この明覚寺グループは、茨城県大子町に本拠地を置く本覚寺グループをルーツにするもので、関東一円で霊感詐欺商法を展開していたのですが、被害者たちの訴訟が増えて1994年から1995年にかけて中部から近畿に転身して霊視詐欺事件を起こしていました。
ルーツである本覚寺時代の霊視商法というのは「相談料3000円」という宣伝文句で客を引っ張り込んで相談に来た主婦などを巧みに誘導して霊視鑑定し、祈祷料や供養料を要求するものでした。
問題視した消費者センターは「相談料という宣伝文句は、占いの見料に相当するもので商取引にあたる」と主張。すると「相談料・お布施として」という文句に変更し、あくまでも”宗教活動行為”であることを主張しました。
本覚寺の管長(宗派を管轄する長)は、西川義俊という男で、大阪府立大学経済学部を卒業したあとに大手製薬会社の営業マンとして働き、やがてコンドームなどを販売する訪問販売会社「協和」を設立しました。
1984年からは千葉県野田市を本拠地にし、地元の曹洞宗の寺と組んで、「水子菩薩」を売り出して蓄財。一方では京都の真言宗醍醐派の寺に通っては修行(笑)し、1985年「修験道教師」となりました。翌年には剃髪して得度に至たります。
これらは、”宗教は最大のビジネスである”と考えていた西川の予定の行動で、西川は日本仏教指導会という団体を開設、「仏教商法」に手を染めることになる。1987年に醍醐寺の末寺という位置づけで本覚寺を本山とし、関東一円に昇運寺、法輪寺、迎春寺、実証寺、春光寺、幸福寺、明星寺、光明寺などの”道場”を開設していきました。
いずれも宗教法人格は持っておらず、謂わば「霊感商法のための営業所」のようなものでした。それぞれの道場には霊能者はいましたが、その多くは避妊具訪問販売員が霊能者に扮していたものでした。
→安倍晋三が登壇し始める。
→佇む山上徹也。
→山上徹也行動開始。
まぁ、これが定番かな。
応援団エピソードと同志社大学合格のエピソードも入れて欲しい。
兄の死、妹の結婚。弁護士の叔父に協力によって5000万円が返還され、一筋の希望が見えるも、母はその金をまた寄付して地獄へ逆戻り。この辺が効果的に生きるように、家族愛的な伏線は事前に必要かもな。
その後、十数年が経ち、ホームセンターで購入したもので火薬を精製。暗殺のためのトレーニング。最上階のワンルームマンションで銃を密造。
奈良の山奥で試射しながら、精度を高める。
ここら辺までに三浦瑠麗氏は登場させて欲しい。
で、統一教会施設への銃撃、岡山での襲撃断念を経て、7月8日事件当日の模様。
福島みずほに対する東浩紀氏や三浦瑠麗氏の強引な歪曲シーンも欲しい。
ここまで書いてみたけど、もっと構成や切り口に工夫を凝らせば物語としての魅力は高まるかも。
安倍晋三の背負ったカルマみたいなエピソードがあっても良いのかな?
ユリイカ並みの3時間30分はやり過ぎなので、2時間15分くらいでまとめるのが理想。
で、肝心のタイトル名なのだけど、バイオレンスだったりセンセーショナルなネーミングは見る気が湧かない。
心の移ろいなど、精神性にクローズアップしたものが良いと思う。
そういう訳で、私が考えたタイトル名はコレ↓
『かなしいもの』
統一教会は、社会における家族の重要性を強調しており[4]、それを反映して1994年5月に名称が世界平和統一家庭連合に変更された。日本で、2015年6月2日に所管する文化庁に変更申請書を提出し、同年8月26日付で名称変更が認証された[36]。
で、宗教の名称変更なんだけど文化庁へ宗教法人の規則を変更した申請を出す必要がある。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/shukyohojin/kanri/henko.html
ここくらいしか手続きの中で省庁が却下できる部分がないから前川喜平が言う止めてたって話は多分これ。
でも、内容的に 宗教法人の規則に則って正常に規則変更してることが証明されてると却下しにくいように思う。宗教法人のプロセスの適正さを確認してるような審査っぽいし。
規則変更の許可が通った後はもう素通り。登記とかの手続きは届出で終わるので書類不備以外に断れない。
一連の流れの中で大臣の認可は存在しない。だってただの規則や登記の変更だもの。いちいち大臣は出っ張ってこない。
下村がトップダウンの命令で忖度させた可能性は否定しないよ?でも証拠は存在しない話になってくるから陰謀論との判別ができないけど。
ここからは大いに想像なんだけど、昔の省庁の手続きはかなり恣意的な運用が可能だったよね。
90年代の省庁でイメージしてほしいんだけど、法律に書いてない部分でもお役所の気分次第でいくらでも対応可能だった。
90年代に変更申請を出しても、前川喜平が言ってたように課長の気分で却下することは簡単だったのだろう。
それが00年代以降、コンプライアンスを重視する姿勢が高まった。お役所はよりお役所仕事を厳守するようになっていった。