はてなキーワード: 名人とは
【コミッション】SKIMAは初心者にも扱えて親しみやすいという話
https://anond.hatelabo.jp/20181001195910
当記事を読む際、こちらも合わせて読んでいただきたい。SKIMAの良いところを書き記した記事である。
SKIMAという、イラストなどの技術に対して料金を払うクラウドソーシングサイトをご存知だろうか。
coconaraと同じくソーシャルサービスやCDパッケージのイラストを個人に対し発注できる場所で、coconaraのイラスト特化型と言っても良いかもしれない。
もちろんそういうサイトには購入者や出品者の当たり外れ、相性の良し悪しが有る。だが、今回の件は相性の問題ではなく、完全なる黒の話。
SKIMAにごく最近追加された、adoptというコンテンツがある。
adoptとは「出品者が自分のキャラクターを売って、購入者がキャラクターの使用権と著作権を買う」という文化で、キャラクターの養子縁組とも呼ばれている。
最近流行りのバーチャルユーチューバーで例えるなら、イラストレーターが出品者で、購入者が企業または演者という形に近い。
勿論、adoptは版権のキャラクターや他人のキャラクターを無断で売ってはいけない。
小説、イラストなどに少しでも興味を持っている人間ならば、法的に、また倫理的にしてはいけないことであることは、理解できることだ。
だが、これを理解できない出品者がいた。
葉星ヒトミである。
業界ではそこそこ悪名が知れた絵師だそうだが、筆者は今回の件で初めて知ったため、他の悪行については自身で調べて欲しい。
先に葉星ヒトミが何をしたのかについて話しておく。
葉星ヒトミは、個人または企業の依頼で製作したキャラクターを第三者に売ったのである。
まず、個人の依頼についてだが、プレイバイウェブ(PBW)というものについて説明しよう。
PBWは、FF11、TWなどのオンラインロールプレイングゲームをアナログにしたRPGで、自身で完全なる一から登場人物を作り上げてプレイする、大型参加のTRPGのようなものである。(別名人力RPG)
参加者の多くは、イラストレーターに自身のキャラクターのイラストを描いてもらい、ライターに自身のキャラクターの小説を書いてもらう。
pixivで企画に参加したことがある者にはなかなか親しみがあるかもしれない。
葉星ヒトミは当時haboというペンネームで、PBWの大手トミーウォーカーでイラストレーターとして依頼を請け負っていた。
葉星ヒトミは目を惹く色使いと丁寧な仕上がりで参加当時好評の高かったイラストレーターだったそうだが、大量受注の末に納期の延期という失敗をしてしまい評価は降下。更にアカウントを取り直したためにトミーウォーカーから出禁を受けた。
その時に描いたキャラクターが、SKIMAに売られていたのだ。
キャラクターやデザインというものは、具現化した者だけでなくアイデアを出した者にも著作者人格権が与えられる。
更に、PBWのイラストのページでは、
「使用権(非営利目的での使用)は依頼者が、著作権はイラストレーターが、その他の権利はトミーウォーカーが所有する」
「非営利目的での外部サイトの公開は可能ではあるが当作品のものであるとわかるように明記すること」
といったような文章が書かれている。
つまり、葉星ヒトミがそのキャラクターを売ることは完全なる違法なのだ。
商業キャラクターに関しても、大半は該当キャラクターの出るアプリケーションゲームは終了しているが、著作権は帰属しない限りその企業が持つことになる。その点は不明ではあるが、前述のことを考えると、恐らく帰属していないだろう。
以上のことが発覚し、葉星ヒトミの商品を買った被害者たちは葉星ヒトミへの事情説明や返金を要求していた。
しかし、葉星ヒトミ本人は「著作権はこちらが持っている」と豪語し、被害者達を無視しツイッターに勤しむ。罪を認めたのはトミーウォーカーが動いてからだった。
その後も謝罪と言いながら、「睡眠障害とうつ病を患っていたので許してください」といった類の言い訳をしてした。
主な活動拠点としているツイッターには事の次第を表明することはなく、返金が済み次第消す予定のSKIMAに謝罪文と言う名の言い訳を公開し、Tumblrにはそれと全く同じ文章を公開。事件の全貌には触れることはなく、事の次第を巧妙に隠している。
「なんだか怒らせてしまってすみません」「療養の機会が来たとポジティブに考えます。購入者様を恨みはしません」など、相手のことを全く気遣いしない文章で被害者の神経を逆撫でしつつ、剰え自分が罪を犯したのにも関わらず「イラスト界隈から干される」などと、犯罪の自覚はまるでなく、自分が被害者のように振る舞うことに徹する。
ツイッターで検索をしても、葉星ヒトミに添削を頼んだ方が「●枚中2枚しか添削されてないのにそれ以降連絡がこない」と嘆いていたり、「そもそも返金のメール自体こない」と呟いている方が何人か見受けられるのにだ。
その上、「リプライは不具合で通知が来ない場合があるため連絡はDMで」と、表面上での対応を徹底的に避けている。大量にリプライが来ているならまだしも、そのようにピンポイントで不具合が起きるとは考えにくい。そもそも、それが事実ならば運営に問い合わせるべきである。
しかも、謝罪(という名の言い訳)をしているのはSKIMAの利用者にだけである。
キャラクターを勝手に売られたPBWプレイヤー達について言及することは一切なく今なお隠蔽を図っている。
葉星ヒトミはトミーウォーカーから弾かれているため連絡手段がないと言われるかもしれないが、葉星ヒトミはツイッターをやっている。ツイッターという広大な湖で、PBWプレイヤーを見つけることは容易かと思われる。
見つけて謝罪をしなくても、それこそTumblrやツイッターで触れておくべきではないだろうか。
昨今、精神の病に対する理解が少しずつ改善されていっている中で、たとえ疾患が本当であったとしても、それを盾に自身を守ろうとすることは、睡眠障害者やうつ病患者に風評被害極まりないものである。
今回の事件は、イラストの価値が正常に戻りつつある時期に、コミッションという文化自体を廃れさせかねないものだ。
自身も拙作ながらコミッションをやっている身として、葉星ヒトミのような怪物が二度と現れないことを祈るばかりである。
SNSを見るに葉星ヒトミの神経は本人が思っているよりも随分と図太いため、すぐにも違うペンネームで活動しそうだが、「葉星ヒトミに依頼をしたら自身のキャラクターを奪われるかもしれない」ということは、重々心の中にとどめておきたい。
ある一人の出品者が犯した罪の話は一区切りできたので、あとは購入者、プレイヤー、その他被害者などに任せたい。
実はこの話には続きがある。
(追記:これより先はSKIMAの話になるが、SKIMAについては上記の記事と合わせて読んでいただきたく思う)
SKIMAがずさんだったという話だ。
今回のadoptというコンテンツにおいて、他人の既存キャラクターやマイナーな版権キャラクターを投稿されることは容易に想像できた。
なのに、SKIMAは検閲を行うことなく葉星ヒトミによる大量の転売を見逃していた。
この事件が発覚したのは、葉星ヒトミのadoptへの連続投稿を不審に思った数人が画像の出典先について調べたからだった。
購入者がSKIMAに対応を促すが、SKIMAは「葉星ヒトミが著作権は自分にあると発言している」と一蹴。
直接トミーウォーカーに通報し、トミーウォーカーからのSKIMAへの勧告で漸く返金まで漕ぎ着けたのだ。
その後も被害者達への積極的な協力はなく、被害に気付いている購入者がいくらいるのかはわからない。
事件について責任は一切感じていないようで、公式でしっかりとした内容を記したアナウンスなどもしていない。
今回の特異な例を除いても、クラウドソーシングサイトにおけるトラブルは、大なり小なり免れないことである。
それを運営が円満に解決するために仲介料というものは存在するのだが、仲介料の意味が完全に形骸化している事実が露見された。
「安い仲介料で何を言っているんだ」と思われるかもしれないが、SKIMAの仲介料は20%である。10000円の依頼があったとしても、出品者には8000円しか入らず、2000円がSKIMAに取られるのである。
2000円もあれば鳥のモモ肉450gパックは4個は買えるはずだし、牛の切り落とし300gは5個は買えるはずだし、豚のロース100gは10枚は買えるはず。
ペンタブの替え芯をワンセット買えるし、SAIが買えるし、2000円を20回貯めれば安い液タブが買える。
上記に具体例を記した通り、出品者には決して安くはないのだ。
調べてみると、「今後SKIMAで活動するのは控えようか」「adoptの件もあったし購入は控えようか」と、SKIMAを離れる気の方や、何も言わずにもう離れている方がいるのがわかる。筆者もその一人だ。
イラスト特化型ということもあってとっつき易かったが、人口は少ないが発展するかもしれない場所はいくつかあるし、今度の10月にも創作者のための新しいクラウドソーシングサービスは始まるようだ。
自称ではなく、正真正銘のイラスト特化型の元祖として、SKIMAの運営が改善されることを願う。
(SKIMA公式がアナウンスを正式に入れたため、SKIMA公式のDMは一部外させていただいた)
http://tw4.jp/gallery/master/?master_id=02499
https://m.imgur.com/a/KvdLUOY(※被害者はブロックしていないため、葉星ヒトミが被害者をブロックしている可能性がある)
折口信夫への旅 第1部 ~小説「身毒丸」をめぐって(歌舞伎批評家・山本吉之助)
http://www.kabukisk.com/geitohito33.htm
という折口信夫『身毒丸』解説文の中に、日本の師弟関係がなぜ理不尽で暴力的になるのかについての興味深い示唆があったので、
もしかして既によく知られていることかもしれないが、自分は初めて知ったので、覚え書きとして残しておこうと思う。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。
例えば最も古い感情を残している文楽座の人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。
そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。
なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)
それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠は身毒丸 を自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます。
しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます。
「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います。
身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸の脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。
一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。
春琴の教え方は 非常に厳しく、
「あかんかかん、弾けるまで夜通しかかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、
時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います。
『昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである
本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、
摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていた
それは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという
また文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある
玉次郎若かりし頃「阿波の鳴門」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、
その時キット極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない
「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。
しかも玉次郎を殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。
彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくがごとく礼拝した
「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります。
世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。
ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。
そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。
自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。
つまり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます。
(中略)
神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります。
だから理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。
それは神に対して意地を張るということでもあ ります。
折口信夫は座談会「神道とキリスト教」において次のようなことを語っています。
神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。
神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。
既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。
しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。
『神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しかも唐突に発しました。
例えば地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。
このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。
みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。
そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。
古代人の 生活というものは、風雪災害や飢饉・病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。
そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまことに殉教者以上の経験をしたことになるのです。
貴種流離譚というものが民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。
民衆が貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。
神は別に何もするわけではないのです。
しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜の贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。
これが古代人が神に対する時の態度です。
源内法師は身毒丸に無慈悲な折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに、無辜の殉教者の姿を見たのです。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。
まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。
それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
折口がこのように語る時、折口は日本伝来の師弟関係のなかに、理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係をそこに重ねて見ているのです。
神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちをします。
我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽なものに思えます。
しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。
過酷な仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。
折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。
つまり、
神の理不尽な怒り(地震・台風・洪水・旱魃・冷害や飢饉・病気など)
→それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩む
「神よ、この清い私を見てくれ」
これが、古代の神と民衆の関係であり、師弟関係はこれをなぞっていると。
なるほど、自分がそういう目にあうのはいやだけど、ドラマや物語で接するとなんとなく納得してしまうのは、そういう古代からの宗教的な感覚が今も心の中にあるからなのかもしれない。
私は五輪へのe-sports導入に断固反対だけど、これは会長&増田の言い分が変だと思うわ。
別に実際に人を殺しているわけじゃない。死ぬのはゲームの中のキャラクター。
ゲーム内でも人を殺しちゃいかんのか? ゲーム内での殺人技術を競っちゃいかんのか?
それはリアルの人物に向かってフルーレを向けたり大外刈りかけたりするよりタックルするより危険な行為か?
リアル人間にハイキックしたりリアル人間同士で殴り合ったりする方がよっぽど野蛮だろ……
でもそれなら、e-sportsは導入するが、倫理に背くものは排除する、といえばよくない?
格闘ゲームとか、人殺し要素のない冒険ゲームとか、レーシングゲームとかを導入すればよくない?
なーんか会長さんの言ってることは筋が通ってないように思う。
しかしそれはそれとして、e-sportsは断固として五輪に導入すべきではない。
なぜならそれは不公正だからだ。
サッカーを例にしよう。仮にある業者が、サッカーボールの供給を一手に握っていて、有力選手は事実上そのメーカのものを使わないといけない状況だとする。
しかしそれでも、私的に作った規格外のボールを使って草サッカーすることは自由である。新しい業者が規格を満たしたボールを作って競争に参入することも自由である。ルールブックは万人に開かれており、特定のメーカのものを使わなければならない、という決まりはどこにもない(あるメーカの技術力が卓越しているおかげで寡占状態になっているとしても、より優れた技術をもって参入する余地は常に残されている)。
あるいは、e-sportsではないがマインドスポーツを例にしよう。囲碁もチェスも将棋も、ルールを知ってさえいれば誰でもどんな道具を使ってもプレイできる。ノートに線を引いてそれを盤面にしてもよいし、頭の中だけで完結させてもよいし、地面に木の枝で書いた盤を使ってもよい。
ルールが同一であるならば、名人や竜王と地面に駒を書き入れる子供たちは同じゲームを遊んでいることになるはずだ。たとえ使う盤がどんな業者に作られていようとも。ネイマールや本田圭佑と、スラム街でボロボロのボールを蹴る子供たちもまた、同じくサッカーをプレイしていることになるはずだ。
e-sportsの問題は、この公平性がまったく存在しないことだ。特定のゲーム会社から特定のタイトルを購入しなければ、そもそも遊べない。お金がない囲碁好きの子供でも、ノートに書いた盤面に白と黒の点を書き入れていけば囲碁を遊べる、というような余地はどこにもなく、まずゲームをスタートするためには特定の業者から特定の商品を購入する必要がある、そんなものを公的団体が競技として公認すべきじゃないと思う。
これは単なる理想論ではない。一歩間違えば癒着にも繋がる。なにせ、ある競技を採択するかどうか、が、そのままある特定の民間企業を優遇するかどうか、につながるのだ。寡占状態にあるので事実上そうなってしまう、という話ではなく、ある競技を採択することは論理的にある民間企業を優遇することとイコールになる、というのは大きい。
IOCが高潔な組織というのならばまだしも、そうでないことは幅広く知れ渡っているというのに、なんでこんな腐敗臭に満ちたものを競技として採択しなければならないのか。
スポーツあるいはマインドスポーツは、皆に開かれているべきだと思う。ルールの策定の段階である程度権力が絡むのは仕方ないにせよ、そもそも特定のメーカによる特定の商品を購入しないと遊べない、ようなものを、公的なスポーツの大会であるオリンピックやアジア大会などに持ち込むべきではない。
もちろん、ゲーム会社が自社のゲームを使った大会を企画するのは、経済の自由、趣味の自由として大いに肯定されるべきだ。何も悪いことではない。日本法でそういうレジームが賭博にあたる場合があることについては、不当なので賭博罪に関する条文を改正する必要があるとすら思う。
しかし、e-sportsは公的なスポーツ大会にはそぐわない。むしろ積極的に排除されるべきだ。ゲーム内で人を殺そうが殺すまいが、それは公平なスポーツという理念に反しているのだから。
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
* * *
では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。
リーグ表:https://www.shogi.or.jp/match/junni/2018/77a/index.html
◎豊島
○広瀬
☆三浦
去年度は終盤に失速した豊島が◎。ここは固いところと思う。
棋聖戦・王位戦に挑戦するなど好調を取り戻しており、稲葉・広瀬・三浦戦など5局で先手番を引いたのも大きいと見る。
○は広瀬。順位戦PO進出、竜王戦1組昇級・1組優勝、朝日杯準優勝など堅実に結果を残しており、順位戦でも非常に安定している。
豊島との評価の差はあまりないのだが、豊島・稲葉・三浦戦など5局で後手番なので対抗とした。
注目どころは三浦。順位が8位なのもあり評価は低そうだが、去年度は5勝5敗と指し分け、特に最終局の渡辺戦は非常に強い内容だった。
棋聖戦挑決進出・竜王戦2組優勝など完全に騒動前の実力を取り戻しており、名人戦に挑戦した2010年から見ても衰えは見られない。期待を込めて☆としたい。
◎阿久津
○糸谷
▲佐藤康
A級順位戦は挑戦より降級に注目が集まることが多い。古くは大山が降級即引退を表明していたことで有名だが、近年でも森内、渡辺明の降級は大きな話題になった。やはり予想するのであれば降級も予想しなければ片手落ちというものだろう。
◎は阿久津に打った。やはり前回のA級順位戦で全敗したというのは大きなマイナスだ。去年度のB級1組でも昇級は叶えたものの終盤に3連敗と失速し、今年に入ってからの成績は5勝10敗と不調に陥っている。
昇級組が活躍するA級は面白い展開になることが多いので期待はしたいが、高い評価はしづらいところだ。先手番が4局、うち1局が振り飛車党の久保戦というのも痛い。
○は糸谷。佐藤天・稲葉・豊島・久保など近年昇級組が挑戦争いに絡むことが多い中で、阿久津・糸谷をそろって低評価するのは勇気がいるのだが、相対的に考えると順位差もあってこの評価になってしまった。
糸谷も今年5勝8敗と阿久津と同様に調子を落としている感があり、過去の順位戦も堅実だが圧倒的な成績という印象がない。猛者が揃うA級では厳しい戦いになるのではないだろうか。
▲は佐藤康。名人2期をはじめ順位戦での実績も十分で、去年度は6勝しPO進出した。
しかし順位戦以外では9勝13敗、各棋戦でもこれといった活躍は見られず、年々厳しい戦いとなっているのは否定できない。糸谷・阿久津戦がラスト2局に控えているが、そこが勝負となるのではないだろうか。
感想戦では、天彦名人の敗因はよくわからない、という結論だったらしい。
ニートのおれは2chと棋譜速報で観戦していたんだけど、2chはソフト評価値がべたべた貼られてはファンタ連呼の通常運転。
でも昨日はガチ勢の人が一人いて、AWSクラスタ使った局面評価を貼ってて面白かった。
ネラーなんて粒ぞろいのアホだから、彼もしくは彼の貼る評価は「スパコン」と呼ばれていた。もちろんスパコンではないので、ガチの人は最初のうちはいちいち否定していた。
計算速度は桁違いで、個人用PCでせいぜい数億ノード(=局面)しか読めないところ、200億ノードとか読む。
ゆとりがApery使って羽生-600とか貼る局面を、羽生-1300とか評価する。凄い。
最新の評価関数で毎局面数億ノードも読めば、間違いなくトッププロより強い、強いはずだ、強いんじゃないかな?。
でも最近の羽生は、その程度のソフトの読みをさくっと越える場面がままあるという困ったちゃんだったので、圧倒的ノード数の「スパコン」は畏怖と期待をもって迎えられた。
肝心の将棋は、スパコンが羽生-1300と評価した局面から、天彦名人が並みのソフト検討陣ならさすがアマピコと称賛する指し手を続け、羽生が勝った。
スパコン目線では天彦名人は悪手連発だったのだろうが、それは人類には理解できない。
前述したように感想戦でも結論は出ない。間違いなく羽生自身もわかっていない。
ただ羽生は、恐ろしく難しい局面であることだけは理解できていて、あえてそこに誘導したのだと思う。
切った張ったの挙句に優劣不明の局面に至ることで対局相手を消耗させる(何故か自分は消耗しない)、という、鬼畜羽生らしい勝ち方だった。
羽生衰えたと言われて久しいが、まだまだ羽生は、1分将棋にならない限りはスタミナ負けしない。
ちなみにあの「スパコン」は、もちろん電脳戦よりも圧倒的にハイスペックで、コンピューター将棋選手権よりも圧倒的に持ち時間があったので、つまり公開された限りで歴史上最強の将棋指しだった可能性があると思う。
その場に居合わせて本当に良かった。
もちろんやれば誰でもできるんだけどね。
超絶の強さの羽生竜王にも初期は谷川、同年代の村山、佐藤、森内、そして竜王をめぐり10以上年下の渡辺というライバルが多くいるように
藤井六段はたんに史上最年少棋士というだけで本来ラノベ主人公級なのに連勝記録、最年少棋戦優勝をうちたて
さらに人格者の師匠に、姉弟子は女王気質の強豪女流、妹弟子に一歳下の女流棋士を目指す美少女と主人公フラグが立ちまくっている
これに対抗するには「詰将棋意味ないです」発言で詰将棋王藤井とはレゾンデートルをかけた戦いを繰り広げる増田五段が第一候補で
29連勝をストップした「蒼い彗星」こと天然キャラの美青年佐々木勇気六段、特に特徴はないがとにかく強い佐々木大地四段
そこで今年プロになった長谷部四段はどうだろうか?まだ強さは全くわからんが
一方升田九段は多くの伝説のエピソードを残すと同時に現代の目でも斬新な戦法を指し
毎年の新手、新戦法に対し贈られる「升田賞」にその名を留めている
大山の系譜は行方八段、佐藤名人など何人もの名棋士を輩出し若手にもその系譜は複数人いる
ところが一方の升田は基本弟子を獲らなかったためプロ棋士になった弟子は唯一人あの桐谷七段だけなのだ
そこで長谷部四段だ
大師匠は今言った升田唯一の弟子にしてネタキャラ引退棋士、”優待生活の”桐谷さん、師匠は桐谷七段の弟子で棋界屈指のドルヲタ(現在は指原で有名hkt48ファン)大平六段
長谷部本人は升田将棋に憧れ、同世代では升田唯一の系譜のプロ棋士であり、プロ棋士不毛の地栃木から栃木棋界の期待を一身に棋界にはいるという
現代は系譜など関係ないと言うが、これだけ(藤井の師匠の)杉本七段にスポットがあたり板谷一門からタイトルをなどといっているのだから
長谷部四段が同年代で唯一の升田の系譜だというのは十分キャラになるだろう
ということでこの長谷部四段に注目したい
長くなったので分割したやつのつづき。前のは → https://anond.hatelabo.jp/20180402204454
11話まで。
「よりもい」ってのは「宇宙よりも遠い場所」のひらがなの部分だけを読んで「よりもい」。この手の略称は「はがない」以外に定着した試しがない。
正直にいうとストーリーはそれほど好みじゃない。序盤で「わたしを馬鹿にしやっがって、ざまあみろ!」みたいなシーンがあったけれど、なんとも思わなかった。
ツイッターで「抑えるべき感情をあらわにした、その正々堂々たる姿勢に感動した」という旨の感想を見て、なるほどなあと思った。
あのシーンに感動しなかった理由はふたつ。ひとつは、単純にああいうストレートな物言いをあまり好まないこと。
もうひとつは、情熱に満ちた人を小馬鹿にする人間というのは、自分の言ったことをたいして覚えていない、深く考えないことがほとんどだから、「ざまあみろ!」と言ったところで、「クソ!してやられた~!」なんて思わないということ。何事もなかったかのようにスルー。いじめられた側はいじめの記憶が脳に焼きついているけれど、いじめっ子はまったく覚えていないことがよくある、というのに似ている。
こんな考えだからか、ストーリーにはあんまり入っていけなかったし、最後どうなるかがそんなに気にならない性格なんでラスト一歩手前で視聴終了。じゃあ、なにを観ていたかというとアニメーションの出来の良さとギャグシーンだ。
まず、キャラデザ。美形のキャラと美形じゃないキャラがちゃんと描きわけられている。かといって、美形じゃないキャラもちゃんとかわいく描かれている。このバランスの良さがすごい。
つぎに、テンポの良さ。軽すぎず重すぎず、適度にギャグシーンが挟まれ、見やすさと納得感をうまく両立させている。最後に映像の鮮やかさ。地味なシーンでもアニメーションの鮮やかさが加えられ、青春の輝きがうまく描写されている。
まあ一言でいうと、マッドハウスのアニメーションが好きだなあ~!ってことだ。マッドハウスは好きなんだけど、なかなか好みの内容のものをやってくれないからフラストレーションがたまる一方(森見登美彦はもういいよ……)。でもマッドハウスにはこれからも期待してるし楽しみにしている。
七話まで。
アクションシーンは手間がかかっているわりに楽しくないし迫力もいまいち、もっさりしているように感じた。コクピットの露骨なエロ要素は、変に視聴者を絞っているだけだからやらないほうがいいし、やるならもっと徹底してやってほしい。
一話から六話までのストーリーは主人公の挫折と苦難と達成の話でそれはいいんだけど、スランプに悩んでいてそれを解決しようと積極的に行動している主人公が、うじうじしているように見えるのはもったいないと思った。
設定をつくり込んでいるのは好意的に見ると察することができるけど、画面からその設定の奥行きが匂ってこない。なにかのメタファーっぽい設定(パラサイトと呼ばれるパイロット、男女がエロ態勢で操縦するロボ、パパと呼ばれる上層部など)もそんなのもういいよ……としか思えない。
いまどき、うじうじして許されるのはシンジ君くらいだし、メタファーをやって許されるのはイクニ監督だけだ。つまり九十年代の覇者の特権だ。
あと、キスってなあに?ってのは古臭いしEDのセンスもちょっと古い。大人と子供がどうたらってのもどうでもいいし七話の展開はいまさら一話みたいな展開をしてどうするさっさと話をすすめてくれ一話完結だとしてもおもろくねえよ次回予告を見ても話がすすみそうにないしもういいや。
たぶん深夜アニメを見慣れていれば見慣れているほど中途半端さを感じるんじゃないかと思う。
七話まで。
留年という萌えにまったくつながらない設定をどう調理するんだろう?という興味で観つづけたけど、余計な設定でしかないというのが結論だ。
留年設定もそうだけどキャラの関係性もいまいちだし、話の起点が留年以外になにもなく、その結果、下ネタに頼らざるを得なくなるという始末。日常系で露骨なエロは悪手だ。
あと、無駄にもにょもにょ動いてたのはなんだったんだろう?その八割以上がかわいい動作でもないし、演技でもなかった。手間をかけていたわりに作品の魅力に全然つながっていない。
この作品は、かわいければそれでOK!という萌え玄人にしかおすすめできない。
六話まで。
バトル系のラノベアニメとしてよくできていると思った。展開は少年マンガのように熱いし、将棋のことをほとんど知らないから解説の多さも鬱陶しくないどころか、ありがたく感じる。
ローキューブが切り開いた(?)ネタ系のロリも貪欲に吸収していて、作品のエッセンスになっている。念のためにいっておくが、作者はロリコンではない。将棋とロリ系作品を研究した成果がこの作品だ。
でも、いまいち好みじゃなかった。窮屈さを感じた。
どういうことかというと、ありえなさそうな、おもしろい設定・状況のほとんどに現実の将棋界の根拠があるのがなんか嫌だった。
たとえば、マントをつけて試合に挑む棋士。ありえねえ~とおもしろがっていたら、どうもこれは将棋ファンならだれでも佐藤天彦名人が元ネタになっているとわかるらしい。
ほかにも、試合中に喋りまくったりするのも一応は可能らしいし、一番ありえなさそうな、女子小学生が住み込みで弟子入りですら実例があるらしい。用意周到すぎる。
なんでこんなに用意周到に現実とリンクさせてるかっていうと、現実の将棋界がおもしろいからってのももちろんあるけど、ネット上でのツッコミ(叩き)を避けるためだ。
ありえない設定・状況・展開に「こんなのありない!現実的ではない!このアニメは糞!」となんの考えもなしで書き込む輩が大量発生するけれど(ここ五、六年でさらに増えたような気がする)、それを避けるためだ。こういういまの状況は窮屈だ。木を見て森を見ないどころか、木も森も見ず、枝がたった一本折れているのを見ただけで、みんなで寄ってたかって糞!糞!と叩きまくる。SNSの時代の窮屈さ。それに巧みに順応している原作小説ひいてはアニメ作品にも窮屈さを感じてしまった。
七話まで。
一言でいうと萌え以外のポテンシャルが低めのダリフラ。設定を詰めこみすぎて、うまく回せていない。
とくに序盤はダメで、いちおうフックらしきものはあったけれど雑然とした展開の犠牲になっていたし、急な展開に無理やりキャラが動かされている印象があった。やっぱ序盤でコンセプト・ストーリーの展望をはっきり打ち出すのは大事だよ。
それでもなんとな~く観つづけたのは古き良き萌えアニメの匂いを感じたからであって、途中からストーリーや設定が見えてきたものの、なんとな~く観るのをやめてしまった。
でも嫌いじゃないし録画はまだ残しているし、春アニメがつまらなかったらなんとな~く視聴を再開するかも。
五話まで(一話未視聴)。
ネットでの評判がよかったのでひさしぶりにプリキュアを観てみたけれど、なんかいろいろテーマ性やらメッセージ性やらが、これでもかとてんこ盛りで鬱陶しかった。
力のプリキュアがフィジカルの問題で苦悩する、つまりみずからの強みが強いがゆえに自分自身を苦しめる、というのは女児向けアニメには難しすぎるよ。
でも、今年のプリキュアが世の中の大半の教育者よりもまともなのはよくわかった。道徳教育よりは断然まともなんで、作中キャラと同年代の中学生に観てもらえればいい影響があるんじゃないかと思う。
こういうことを書くと、子供を馬鹿にしすぎだ、完全に理解はできなくともなにか大切なものは伝わるはずだ、とか言う人がいるけれど、ガキの頃に観た「オトナ帝国の逆襲」になにか大切なものを感じたかと問われれば「とくに感じなかった!」と言い切ることができる。たしかに、しんちゃんが東京タワーを駆け上るシーンは印象に残ってたけど、ただのお涙ちょうだいモノとの区別がつかなかった。まあガキだったからしかたない。「オトナ帝国」で感動・感心するのは大人だけの特権だ。
子供が楽しんで観れて、大人も唸るテーマ性・メッセージ性を組みこむバランスは、女児向けアニメのなかではやっぱり「プリパラ」が頭ひとつ抜けてうまい。とくに、このあいだ最終回を迎えた「アイドルタイムプリパラ」の後半部分の夢を巡る物語はとくにうまかったと思う。
アニメ作品としては良作になるのかもしれないけど女児向けアニメとしてはちょっと間違っていて、キャラデザが萌えに寄っていて好みだっただけに残念だった。
【小泉さん】二話まで。食べるとき不必要にエロい顔するのいい加減やめてください。ラーメン屋行ってとなりにああいう奴がいたらどう思うよ?
【バイオレット】二話まで。京アニの高級感ただようアニメーションが好きな人は好き、嫌いな人は嫌いってだけの、ある意味とってもわかりやすい作品。
【シトラス】二話まで。百合という枠・様式に甘えすぎ。内輪で評価されても外では通用しない。
【ビートレス】二話まで。この原作小説をアニメ化するのに必要なクオリティが全然足りていない。まあディオメディアだしね……。原作ファンには同情する。
【たくのみ】二話まで。こういう雑学系のやつはマンガで事足りる。あと不必要にエロくするのはいい加減やめてください。
【戦記】二話まで。硬派なの?軟派なの?どっちかに振り切ったほうがいい。サクサク進みすぎて戦記物なのにあっさり感がある。
【ハクミコ】三話まで。マンガ喫茶で既刊全巻読んじゃった。そのほうが手っ取り早いしおもしろい。
【恋雨】三話まで。マンガ喫茶で既刊全巻読んじゃった。そのほうが手っ取り早いしおもしろい。
【メルヘン・メドヘン】二話まで。ダメなアニメ化の典型。二話までの展開は20分あれば余裕でやれる。「俺様ならもっとおもしろくアニメ化できるぜ!」なんてズブの素人に思わせちゃいかんだろ。