はてなキーワード: ももちとは
それはもうすごく嬉しかった。ずっと「彼氏」という存在を求めているのを知っていたから、それはもう自分のことのように嬉しかった。最初は。
その子から直接惚気を聞く分には全く苦じゃなかった。笑顔で幸せそうに話すその子を見るたびに、どうしようもなく温かな気持ちになったし、柄にもなく私も恋愛したいなと思ったほどだった。たまに寂しいなと感じる時が無かったわけではないけど、こうして惚気を聞かせてくれるならまぁいいかと、その子から呼び出しもラインも私にとっての楽しみだった。
決定的だったのはインスタ。
いつも使っているオープンなアカウントとは別に鍵をかけたアカウントを作ったのだと、彼氏との出来事を綴るのだと教えてもらったアカウント。私の他にももちろんフォロワーはいるけど、オープンなものより遥かに少ない。本当に限られた人にしか教えてないのだと目に見えて分かったから、信用してくれてるようですごく、いや、すっっっっっごく嬉しかった。だって、親友だと思ってる子が思い出を共有してくれてるようなものだよ?そりゃもう嬉しい。はずだったよ。
教えてくれた時に言っていた当初の目的通り、そこのアカウントには彼氏との幸せな日々が綴られ始めた。何気ない日常からお出かけした時の素敵な写真まで、とにかく画面から幸せが溢れてくるようだった。
そう、「幸せ」。
これが私には耐えられなかった。
あんなに嬉しかったのに。惚気を聞くことがあんなに楽しみだったのに。写真という媒体で伝えられた途端、耐えられなくなった。
最初は、「幸せそうだなぁ」。次に、「なんでこんなぽっと出のやつにとられなきゃいけなかったんだろう」。次に、「なんで?なんで?なんで?」
最後に、「羨ましい」
言っておくが、別に同性愛者でもないし、この子は本当に友達として親友として大好きなだけだった。でも、その感覚さえ間違っていたのではないかと思うくらい、私はこの子が恋愛対象として好きだったのかと思えてしまうくらい、彼氏がひどく羨ましく思えてしまった。
出会ってもうすぐ10年経つ。部活で出会い、なぜかすごく仲良くなり、お互いが病んだ時はすぐに駆けつけ、一緒にめちゃくちゃ遊んで、「彼氏いらない!」と2人でたくさんカップルの真似事をした。今だって、あの頃のように頻繁には会えないけど、お互いの誕生日は特別で、困った時や元気が欲しい時に1番にラインする相手はその子だ。
そんな、笑顔が素敵な私の大事な大事な親友を、私は「彼氏」に奪われてしまった。インスタを見てたらそう思ってしまったのだ。
1度そう思ってしまったら、止められない。幸せそうな写真を見るたび彼氏への憎悪がつのる。でも、親友の幸せは私の幸せ。潰せるわけがない。苦しくて仕方がなかった。その子に愛される彼氏が憎くてたまらなかった。そういやその子からの相談ラインも減った。嫌なことがあると私にラインするのではなく、今はもう彼氏の家へ行くのだとそのインスタの文面で思い知った。彼氏というポジションだけでなく、私が元いた「頼っても許される友達」ポジションまで奪われた。もともとその子にとって私はそんなポジションじゃなかったのかもしれないけど。
苦しくて憎くて悲しくて、どうしようもなくなった時、別の友達に相談した。
絶望した。んなわけねぇだろ。そもそもそれならもう解決してる。どれだけ経ってると思ってるんだ。
相談したせいで、余計惨めになった私は、今こうしてここに書いている。きっと数日後に後悔するし、また惨めになる。わかってるけど、吐き出さずにはいられないのだ。
わかってる。「友達」でしかない私という存在をいとも簡単に超え、その子の1番になった彼氏にただの醜い嫉妬をしていること。「友達」だと与えることができない幸せを彼氏が与えていることにただただ拗ねているだけだということも。分かっているけど、この感情を止められないのだ。
誰よりも大切で大事で大好きな「親友」。だからこそ絶対幸せになって欲しい。いつかこんな時が来ることなんてどこかで分かってたはずなのに。彼氏ができたくらいでこれなら、その子が結婚する時なんてどうなるのか。ドレス姿見せて欲しいけど、嫉妬に狂う様なんて見せたくないから式場には行けないかも。
今現在も付き合いたてと変わらず幸せな君たち。きっとこれからもインスタには幸せそうなツーショットが溜まっていくだろう。私は今日もそれに「いいね」する。憎しみと嬉しさを込めて。
大好きです。ずっとずっと幸せでいてね。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』を見てきたので感想。いつものごとくネタバレ気にしてないのでネタバレ嫌な人は回避推奨です。あらすじ解説とかもやる気ないので見た人向け。
なんと100点。点数の基準は「上映時間+映画料金を払ったコストに対して満足であるなら100点」。とは言え、これ、評価難しい。良いところと悪いところと混在しつつ、今の自分だからこの点数なんだけど、ちょっと違う自分だったらこの点数は著しく下がっていたんじゃないかと思う。いつにもまして主観的な点数であり他の人におすすめする自信がない。
アニメとしての出来は良かった。演出や音楽なんかも水準以上の仕事をしてたんだけど、キャラデザと脚本と声優の3点がそれ以上の出来だった。しかしそもそもの企画で疑問な点も多々ある。
大体の話原作マンガ『はいからさんが通る』からして相当ボリュームが大きい作品なのだ。TVアニメ42話やっても完結できてないのがその証拠で、その原作を100分ちょいx2の前後編にまとめるということが最初から無理難題。
だから素直に作れば駆け足どころかダイジェスト気味になり、点数なんて30点前後になるのが当たり前だと思うのだ。今回の劇場版は、その問題に対して、脚本とか演出技術とかをぶっこんで善戦してたことは確かなんだけど、それってつまり「ハンデを克服するための戦力投入」に他ならないわけで、100点から先に積み上げていく役に立ったかと言えば難しい。
原作ジャンルは一応ラブコメということになると思うのだけど、原作『はいからさんが通る』には実は様々な要素が詰め込まれている。主人公紅緒と伊集院少尉の間のラブロマンスを中心としつつも、大正期うんちくマンガの側面、スラップスティックなギャグの要素、膨大な登場人物の群像劇、そして女性の自立というテーマももちろん重い。
今回の映画企画では、これを前後編で本当にうまくまとめてある。駆け足感は否めないものの違和感は感じない。このへん優れた原作→映画脚本の特徴でもあって、印象は原作に忠実なものの、実を言えば改変は結構大胆にはいってる。
今回映画で例を上げれば、大震災後の炎上する廃墟をさまようのは映画では紅緒、少尉、編集長という3人なのだが、原作ではさらに鬼島を入れた四人だ。三角関係の描写とその解消をクライマックスの中心に持ってくる構成をシンプルに伝えるため、鬼島は退場させてあり当然セリフも再構成で圧縮されている。
しかし一方でそういう技術的な圧縮だけでは全く追いつかないわけで、群像劇的なキャラクターを絞り、ギャグパートもほとんど捨て去って、映画で残すのは「主人公紅緒を中心とした(はっきり言っちゃえば伊集院少尉と青江編集長との三角関係)ラブロマンス」と「大正ロマン期の女性の自立」というふたつの大きなテーマに絞った。その判断は正解だと思う。
正解だと思うんだけど、じゃあそのふたつが現代的な視点で見て満足な出来に達しているかといえば――この部分が評価に迷った原因だ。
『はいからさんが通る』の原作からそうなので、映画(だけ)の問題点というわけではないのだけれど、個人的な見解で言うと登場人物のメインどころのうち三人がダメんピープルだ。
初っ端から最大戦犯のラリサ=ミハイロフ。ロシア貴族である彼女は、満州出征中に部下を救うために突出して倒れた伊集院少尉を見つけ、その命を救う。しかし戦争の傷跡で記憶を失った伊集院少尉に、自分の旦那(死亡済み)の面影を見出し、都合よく嘘記憶を刷り込みして、自分の夫として病気の自分の世話をさせるのだった。
いやあ、ないでしょ。どんだけよ。しかも病弱な自分を盾にして伊集院が記憶を取り戻したあとも関係を強要するのだ。クズでしょ(言った)。一応言葉を丸めてダメんピープル(女性なのでダメンズではない)と呼んでおく。
じゃあ、そのラリサの嘘の被害者たる伊集院少尉(主人公紅緒の想い人)はどうなのかと言えば、彼もまたダメんピープルなのだった。記憶を失っていた間はまあいいとしても、記憶を取り戻し紅緒と再会したあとも、病弱なラリサの面倒を見るために彼女のもとにとどまり続ける。命の恩人だと言えばそりゃそうなのかもしれないが、周囲の誤解をとくでもなく、未来への展望を示すのでもなく、状況に流されて、紅緒のことが大好きなくせに「他の女性を偽りとはいえ面倒見ている関係」を続ける。続けた上でそれに罪悪感を覚えて、紅緒から身を引こうとする。
それだけなら海底二千マイルゆずってもいいけれど、ラリサが死んだあとは紅緒のもとに駆けつけるあたり、手のひら返しの恥知らずと言われても仕方ない罪人である(言った)。っていうか伊集院少尉とラリサの関係は明らかに共依存でしょ。カウンセリング必要だよ。
とはいえ、主人公紅緒もけして潔白とはいえない。病気のラリサに遠慮をして、二人の間の愛情を誤解して別れを告げられ、告げたあと、心がフラフラしている時期に、少尉の実家を助けてくれた編集長にほだされて交際を宣言。他の男性(伊集院少尉のこと)を心に宿したまま、編集長と結婚式まで行ってしまう。それは伊集院少尉に対してもそうだけど、青江編集長に対してはより罪深い。その嘘はやっぱり問題だと言わざるをえない。
――こういう恋のダメピープルトライアングルが炸裂して、映画の前半は結構ストレスが溜まった(この辺個人差はあると思う)。このダメんピープル共が。問題を解決しろ。
両思いの恋人がいい雰囲気になって決定的にくっつきかけたところで、理不尽なトラブルが起こり二人は引き裂かれる! どうなっちゃうの二人!? 以下次週!! で、次週になってトラブルを乗り越えて、またいい雰囲気になると今度は二人が(独りよがりの)善意から身を引くとか、ずっとお幸せにとかいい出して、誤解のすれ違い。神の見えざる手によってやっぱり二人は結ばれない!
「北川悦吏子だ!」といったけどそれは北川悦吏子女史の発明品というわけではなく、自分の中での代名詞が彼女だと言うだけなのだけど。もっと言うのならば、年代的にみても北川悦吏子が『はいからさんが通る』やら『キャンディ・キャンディ』に影響を受けた可能性は高く、むしろ原点はこちらだ。イライラは軽減されないが。
そんなイライララブロマンス時空において癒やしは青江編集長である。
光のプラスワンこと青江冬星はまっとうで良い人なのだ。登場時は女性アレルギー(と大正時代的な女性蔑視)があったものの、雇用主として新人編集者である主人公紅緒を導き、支え続ける。その人柄に触れて、紅緒に対する愛情を自覚したなら、変にこじれぬように即座に自分の口から誤解の余地のない告白を行う。これ以上イライララブロマの炎症を防ぐその手腕。良いね。
しかも「お前の心に伊集院がいるうちは土足で踏み込まない」「いつかその気になったとき思い出してくれれば良い」といって加護者の立場に戻る。見返りを求めず、高潔で、慈悲深い。癒やしのキャラだ。
読めば分かる通り自分は編集長推し(原作当時からだ)なので、そのへんは差し引いてほしいのだが、ダメんピープルの中にあった彼が一服の清涼剤であったのは確かなのだ。
この映画のおそらく二大テーマである「紅緒を中心としたラブロマンス」はダメ人間どもの間違った自己犠牲でイライラするし(加えて言えば、何の罪科もない編集長の貧乏くじも納得し難いし)、「大正ロマン期の女性の自立」については、無邪気と言えば聞こえはいいが無軌道で体当たり主義の紅緒の迷惑を編集長が尻拭いし続けるという構造なので、本当に自立しているのか怪しく、どっちもそういう意味ではスカッとしない。
でも、そうじゃないのだ。そうじゃなかったのだ。
上映終了後、イライラ&60点だと思っていたら、意外なことに結構穏やかな満足感があったのだ。この気持ちはなんだろう? 不思議な気持ちで、言語化に時間がかかった。
なぜなのか考えた。
やったことや構造を追いかけていく限りイライラキャラではあるはずなのに、可愛い。
現代的に変更したキャラクターデザインと、作画と、なによりその声が印象的なのだ。
作中、紅緒は本当によく「少尉」という言葉を口にする。二言目にはそれだ。
このおてんば娘は作中のセリフの大半が「少尉!」なくらい連呼なのである。伊集院少尉のいるシーンでは脳内その声でいっぱいなのだ。声の表情というか、演技が本当に良かった。
少尉の事で頭がいっぱいで、東京から満州に行き、馬賊の親玉に体当たりで話を聞き、少尉を探して駆け巡る。東京に戻ったあとも諦めきれず、その面影を探して、亡命ロシア貴族にまで突撃を掛ける。紅緒は、たしかに、周囲を顧みない行動主義で、無鉄砲なおてんば娘で、そこにはイライラさせられる要素があるにせよ、少尉を求めてさまよう姿は、涙を一杯にたたえた幼子のように見える。
それでようやくわかったのだけれど、結局紅緒は子供だったのだ。
愛する伊集院少尉とはぐれて、彼を探すために声の限りにその名を呼ぶ子供だった。
それが胸を打ったし魅力的だった。スクリーンのこちらからも彼女を助けたいと思った。
『劇場版 はいからさんが通る 後編 ~花の東京大ロマン~』は迷子の紅緒をハラハラドキドキしながら見守り、応援する映画なのだ。
「大正ロマン期の女性の自立」というテーマに対してイライラするのも当たり前だ。彼女は行動力だけは溢れていて、家を出てしまうわ、死んだ(と思いこんでいた)婚約者の実家に行って支える手伝いをするわ、女性ながら出版社に就職するわするのだが、どれも力が足りずに周囲に迷惑を掛けてばかりで、そういう意味では「自立」はしきれていない。むしろトラブルメーカーだ。でもそんなのは、子供だから当たり前なのだ。
彼女はその実力不足から失敗してしまうけれど、チャレンジをするのだ。失敗はチャレンジの結果であり、チャレンジをするという一点で彼女の幼さは正しい。
前述したとおり自分の推しは青江編集長なのだけれど、彼は作中、何らミスらしきことをしていない。つまり罪がない。罪がない彼が、恋愛において自分の望んだ愛を手に入れられない(紅緒は最終的に伊集院少尉とくっつく)のが納得がいかなかった。その理不尽さにたいして原作読了時は腹がたったのだけれど、今回映画を見終わってしばらく考えたあと、仕方ないのかもと、やっと思うことができた。
なぜなら紅緒は(この映画の物語の期間では)未熟な子供だからだ。その子供である紅緒が、青江編集長という加護者とくっついてしまうと、その保護力のお陰で自立できない。青江編集長は全く悪意はなく、むしろ大きな愛情で紅緒を守るだろうし、その実力がある人だろうけれど、その愛情は空を羽ばたく紅緒にとっては重すぎる。
『はいからさんが通る』は紅緒が自立していく物語ではなくて、未熟な子供である紅緒が、自立のスタートラインに立つまでの物語なのだ。だから作中で自立してないのは当たり前なのだ。
無鉄砲で子供で、何かあればすぐべそべそと泣き、でも次の瞬間笑顔で立ち上がり再び駆け出す紅緒は、この映画の中でとても可愛らしく魅力的だった。
その紅緒は自分の心に嘘をつくという罪を犯し、同じく自分の心に嘘をつくという罪を犯した伊集院少尉と結ばれる。伊集院少尉も少女漫画の約束として「頼りになる加護者」として登場したが、罪を犯して紅緒と同じ未熟者のレイヤーに降りてきた。降りてきたからこそ「これから自立するいまは不完全な紅緒の同志」としての資格を得た。
青江編集長は同志ではなくてやはり保護者だから、どんなに良い人でも、「これから一緒に成長していく同志」にはなれない。
考えてみれば、紅緒が少尉を好きになった理由は「優しい目で見てくれたから」だった。けっして「助けてくれたから」ではない。彼女にとって助けてくれる(実利)は重要ではなく、ただ単にそのとき自分を見ていてくれれば十分だったのだ。
そういう意味で、青江編集長はスパダリであり、伊集院少尉はスパダリから降りて結婚相手になったといえる。宮野Win。「立川オワタぁ!」とか「ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか♪」とか言い出さないんで、格好いい主要キャラみたいな演技だったからな。
そういうふうに言語化が落ち着くに連れて、紅緒の親友・環がしみじみと良かったな。と思えた。
「殿方に選ぶのではなく自らが殿方を選ぶ女になるのですわ!」と女学生時代気炎を上げていた彼女。大正デモクラシーにおいて「女性の自立」を掲げて紅緒とともに時を過ごした親友である彼女。
でも、彼女と紅緒の間にあるのは思想の共鳴なんかではなかったと思う。
「女性の自立」と言葉にしてしまえばそれはどうしてもイデオロギー的な色彩を帯びざるをえないけれど、本作においてそれは、そこまで頭でっかちな教条的なものでもなかったのだろう。
劇場版サブタイトルの元ネタはおそらく菊池寛の短編小説「花の東京」から来ているのだろうけれど、そこで描かれた女性(の自立と言っていいのかなあ)も、現代のフェミニズム的な意味でのそれではなかった。どちらかと言えば「どんな環境でもめげずに生き抜いてゆく」という、ただそれだけのことだった。
それはもしかしたら、現代の価値観ではむしろ非難される態度かもしれない。なぜなら、男性が支配的な社会で「めげずに生きる」というのは、ときにその男性支配社会に迎合しているようにも見えて、原理主義者には利敵行為とされるかもしれないからだ。
でも人間は結局与えられた環境でベストを尽くすしか無い。まだまだ男権社会的な大正期社会も、作中クライマックスで描かれる関東大震災で崩壊した東京も「与えられた環境」だ。
その与えられた環境の中で酔っ払って肩を組み、愚痴を言い合いながらも諦めずに笑い合う同志として、紅緒と環のコンビは尊い。
ことによると、紅緒と伊集院少尉のそれよりも確かな絆があったのではなかろうか?
いつどんなときでも、どんな環境でも、うつむかず、意気軒昂と拳を突き上げて、笑顔で生きていこう! 女学生時代の無鉄砲な友情のそのままに、二人は大正という時代に自分の人生を描いた。
「女性の自立」と主語をおけば、それは成功したり失敗したりしてしまう。でも彼女たちが持っていたのは、成功したり失敗したりするようなものではない。どんな環境でもくじけうず、へこたれず、転んでも立ち上がって歌を歌いだす。それはイデオロギーではなく心意気の問題なのだ。彼女たち二人のあいだにあったのはモダンガールとして時代を先駆ける思想などではない。ただ単に、お互いがかけがえのない友達で、楽しかったのだ。
「女の子は元気よく未来に向かって生きる!」。紅緒が愛しく思えたのは、多分その一点だったし、伊集院少尉が彼女を愛したのもその一点だった。本作では描写が欠如していた伊集院少尉も、そのテーマに沿うなら、大震災後の東京で意気軒昂と未来をつくるべきだ。紅緒同様「未熟者の仲間」になった彼はそれが出来るし、その義務もある(でないと編集長はほんとうの意味で道化者になってしまう)。
男女の不均衡ってやっぱ異性に対する欲求の強さから来てると思うんだよね。
個別論はともかく一般論としては、男性は女性と接する機会があると嬉しいのに、女性は男性に接するのは色々準備やタイミング整った状態であってほしい。
電車で隣になるのとか、店員さんが異性かとか、そのレベルからもう違う。
女性ももちろん男を求めてるけど、男性の求める強さや頻度とはやっぱ比べ物にならん。
男性があれほどに女性とお近づきになりたがるのを見ると、差別とか上下関係とかの前に、健啖家がラーメンや牛丼やとんかつをモリモリ食べてるのを見た時の「なんでそこまで食欲旺盛で胃腸が強くいられるんだ……」と圧倒されるような感心するような気持ちと近いものを感じる。
妹は一軍の下もしくは二軍の上くらい、妹の彼氏はたぶん一軍。私は三軍の陰キャ。母も父もたぶん三軍ではないし人付き合いも苦手じゃないから家族の中で私だけがコミュ障。
私も妹も実家暮らしで、家は地方の政令指定都市から電車で1時間くらいの田舎だから、その政令指定都市に住んでる妹の彼氏は家に遊びに来るとそのまま泊まっていく。寝るのは妹の部屋だから私にはなんの関係もないし、両親も割と歓迎ムードにある。
でも私は、風呂上がりにきっちり整えて脱衣所からでなきゃないし、夕ご飯も一緒に食べるからなんとなく食べ方とか気にしてしまうし、なにより家に他人がいるってだけでなんとなく落ち着かない。
学校がある日とかは学校で時間つぶしたり、友達と夜ご飯を食べたりしてそろそろ寝たかなって位の時間に家に帰ればはち合わせたりしないしいいんだけど、最近全休の日が多くて大抵の遊びに来る日は家にいてしまう。友達はみんな政令指定都市に住んでるから遊ぶのもそっちまで出なきゃなくてその為だけに往復2時間は時間的にもお財布的にもきびしい。
私が人付き合いが得意じゃないのを妹は知ってるから、彼氏が遊びに来る日にごめんね、って言われる。両親にも家族に申し訳ないって言ってたらしい。たぶんここの『家族』ってほとんど私の事だと思う。
彼氏くんはいい人だしちゃんとあいさつもするし礼儀正しいから嫌いな訳では無い。妹のことももちろん嫌いじゃない。
インターネットで起こりがちな一種類の現象を表す言葉はいくつかあるが、どうも端的ではないと感じる
・知らなかったこと、知ったことに衝撃を受ける(ネットde真実)
・世の中が間違っていると感じる
・行動する
→ 一部過激化する
例えば学生運動では、大学というコミュニティを媒体に似た状態が起こっている
(テレビは難しいところだが、番組、局が階層化されているので案外感化されにくいのではないだろうか)
インターネットにおける感化の特徴は
・インターネット上で感化される
昔のネットユーザーがインターネットに閉じこもるタイプだったのに比べ、今はもう少しオープンなユーザーが増えたためだと考えられる
なので一番端的なのは「インターネット上で感化される」ではないかと思う
インターネット上で感化されやすいのは、偏った情報を扱っているサイトがあるためだ
理由は簡単で、インターネットは個人が情報をまとめやすいスペースだからに違いない
また偏ったコミュニティーへのアクセスも非常にしやすいため、感化がスムーズに進む
他国ではもっとあからさまにフェイクニュースなどが存在するらしいので、感化の度合いは大きいかもしれない
こういったものはまとめて「汚染情報感染者」みたいな用語で呼びたいがまだ妥当な用語が見つかっていない
・民間療法
・宗教
・ニセ科学
・騙されないようにする
等があると思うが
これは近年のインターネットでは昔に比べ解消されつつあると思う
個人サイトは減ってきているし、SNSも完全に偏った一覧にすることは難しい、そもそも今の基本はアプリだ
これだから女はクソ
これだから男はクソ
同性だと関わる機会が多いので多面性があることを知っている。
性格が合わない友達とは付き合わなくなるので性格が合う同性が周囲にいることになる。
異性ももちろん同性と同じように多面性があり、性格の合う合わないがある。
異性と関わりが少ない人間はそのことに気付いておらず、理想化してしまう。
現代美術を理解してることと頭の良さは関係ないんだけど、なんでこういう人が多いんだろうね。
>一般人は印象派以前の藝術も理解できないんだけど、あれらはまだ大衆的な要素を内在してるから、そっちだけを受け取ることはできる。
言ってることがよくわからない。理解っていうのは神話とかの寓意性のことかな?それとも絵画史の流れや歴史的な背景とかかな?研究者でもなければ解説で補えばいいんじゃないかな。
>それまで大衆的な要素+芸術的な要素だった美術絵画(彫刻)が、現代アートへと移行する時に大衆的な要素を切り捨てたのね。より純粋な藝術に進化するために。
さらによくわからない。コンセプチュアルアートやミニマルアートが派生してきたことについて言っているのかな。現代美術はどちらかというと、大衆的な美意識を取り込んできた歴史だと思うんだけどな。
>だから、それまで大衆部分だけを受け取って喜んでた一般人は急にわからなくなりヒステリーを起こした。
>だけど、藝術理解者は印象派以前にも藝術部分しか見てないから一般人が何を騒いでるのかわからない。
もっとわからない…。歴史的に見ても、新しい表現表現がでてきて反発するのはまず芸術家というか、君の言う「藝術理解者」そのものなんだよね。
>一般の人って、工芸品の凄いやつが現代アートになるとか勘違いしがちだけど(オタク=アート論もその変奏)、全く質の違うもの。
>工芸品って、部屋をひすたらゴミひとつなく綺麗に掃除するようなもの。クリエイティブじゃない。
>日本のエリート(東大京大文系理系とか)って教養がない極東の田舎者だから、クリエイティブを理解できない。すぐに「工芸品」を持ち上げる。怖いんだろう。自分に理解できない藝術が。佐藤可士和デザインですら大多数は理解できないんだもの。あんな教科書的なものですら。
うーん、話がごちゃごちゃだね。工芸品も現代アートになるよ。オタク=アート論は関係ないよ。工芸ももちろんクリエイティブだし、掃除とは関係ないよ。
ただ、役所的なところで工芸というかテクニック重視のものが持ち上げられるのは仕方ないね、わかりやすいし理解も得られやすいからね。
佐藤可士和デザインは受け入れられていると言えるでしょう。個人的に残念だったのはザハかな。
>とにかくアジアって文化後進国なのね。トップの日本ですらこうなのだから。東京"国立"博物館がデュシャンと日本美術を脈絡なく展示してホルホルしてるレベルだもの。
アジアを文化後進国と見なすような西洋中心的な視点から脱却しよう、というのがまさに今の現代美術のメイントピックの一つだと思うんだけど、大丈夫?
>まず日本に生まれた時点で、現代アートを理解するには圧倒的に不利。
それはそのとおりなんだけど、「アメリカに生まれた時点で萌えアニメを理解するのは圧倒的に不利」と言ってるのと同じなんだよね。それはそうでしょう。
? 例えば聖人の像なんかは大衆啓蒙用だよね。想定してる歴史の範囲が狭すぎるのかな。
>民主主義の恩恵で、一般人も美術館で億の作品を数百円で見れるようになっただけで泣いて喜ぶべき。
>そしてあれは、将来のお客さんとアーティストの入り口としてやってるの。1000人に1人、将来アートに貢献する人材がいるかもしれないと信じて。
そんなこと考えてる人いないと思うなあ。
>金持ちにもアーティストにもなれない一般人はまあ、おこぼれで"文化的"コスプレしてインスタグラムでもやればいいんだと思うよ。
『ようこそ実力至上主義の教室へ(以下:『よう実』と表記)』というアニメがある。
あまりにアマゾンビデオが勧めてくるので1話と2話冒頭だけ見た。
端的に言えば中高生向けディストピア作品という感じ。それに昔天海祐希がやっていた『女王の教室』の要素もちょっと含まれているか。
中学生時代特撮ヒーローものに復学した派生としてエヴァンゲリオンのようなアニメに興味を抱いたのだが、そのころの自分に見せたら一発でのめり込んでいたことだろう。
まあ自分の実家のある地域は田舎過ぎて放送されていなかったんだけど。
ここからが本題なんだけど、『よう実』を見ていたら現代社会が急に怖くなってきた。
『よう実』の舞台は一般社会から隔絶された全寮制の高校で、スマホ型の端末に電子マネーが支給される。
その電子マネーは学内にある娯楽施設など(服屋とか映画館、カラオケ、コンビニ、ゲーマーズ風の店)で使うことが出来る。
んで1話のラスト、「お前らの態度悪すぎだから電子マネー支給基準を満たしてない。だから1円もやらね。」みたいなことを担任教師が言い放つシーンがある。
あのシーンで感じたことは、「態度の悪さ」というのがどこまでを示すのかということである。ついでに担任は遅刻欠席私語携帯弄りを例に挙げていた。
2話冒頭では「リアルタイムで生徒の動向を把握している」というセリフもあった。
つまり「態度の悪さ」というのは授業態度の悪さももちろんあるだろうが、電子マネーの使いっぷりや私生活の悪さも「態度の悪さ」として勘案されている可能性があるということだ。
例えば電子マネー。舞台となる学校では学校支給の電子マネー以外では買い物することは出来ない(学内で諭吉などの現金を扱っている描写もない)。
生徒の動向を担任や関係者がつけまわしているという描写もなかった。
ということは考えられることはただ一つ、生徒一人一人の電子マネーの利用実態が支給基準を決めるところに筒抜けということである。
言い換えれば生徒の消費行動を通じ、学内の統治者(?)が生徒の一挙手一投足を監視しているのである。
加えて生徒に支給される携帯端末は通信機能も有し、おまけにカメラまで搭載している。
これらの端末を使えば生徒間のやり取りや寮(劇中の寮は普通のワンルームマンションみたいな感じだった)での行動まで丸裸なのではないか。
それらのビッグデータを総合し「お前ら態度悪いから電子マネーやらねー!クソして寝ろ!!!」ということも可能なはずである。というか授業態度だけでは「態度が悪い」と断言できないはずである。
携帯端末や電子マネーのデータが筒抜けで、それらがクラス単位でのビッグデータとなり「態度が悪い」と判断されたと考えるのが自然であろう。
翻って現実社会ではどうか。自分も電子マネーを日常的に使っている。(関東在住なので)PASMOを使ってバスや電車に乗っている。
やろうと思えば『よう実』世界のように自分の行動を一挙手一投足監視することも可能ではないか。
少なくとも「最寄り駅は○○駅」とか「コンビニやキオスクではよく××新聞を買っている(から政治思想はこうだ)」といったことは筒抜けである。
また、自分は幸いスマホやガラケーは持っていないが、デスクトップパソコンは持っている。そうしないと増田には投稿できないし、アマゾンも使えない。
アマゾンビデオを見られるということはアマゾンプライムに入っている。実際、アマゾンでよく買い物をしている。今日もティーパックをポチった。
dアニメストアにも入っている。使う検索エンジンはFirefoxデフォルトのGoogleだ。Youtubeだってよく使う。
アマゾン、Google、Youtube、dアニメ、これら4つのサービスの利用履歴を洗うだけでも趣味嗜好や行動形態は相当絞り込めるはずである。
その結果『よう実』世界のように、「この人の態度は悪い」「この人は社会不適合者だ」といったことを閲覧・検索・購入データから判断される可能性もなくはない。
スマホに至っては常時身につけて歩くものである。GPSやカメラ機能でどこにいるかといったことまでもが筒抜けになるのは想像に難くない。
2話冒頭まで見た感じだと、『よう実』は監視社会は身近に迫っていること、またそれを可能にする事物はもうすでに日常に潜んでいることをテーマにしているように感じられた。
精神疾患を患っており、ここ一年で何度も警察のお世話になった身である。警察としては監視対象にしたい人間であることは疑いようのないことだ。
その際、日々使っているサービスにより監視されてしまうことが起こってしまうのではないか…といろいろ気をもんでいる。
いっそ東京の自宅を引き払い、パソコンもイエデンワも捨て、回線も解約し、セオドア・カジンスキーみたいに山奥の掘っ立て小屋で一人暮らすしかないのではないかとすら感じている。
私には大好きな神絵師がいる。2万フォロワー越えの、(主観)神絵師である。そしてその神絵師は私とは違うcpを推している。私がABを推しているとしたら、彼女はCBというふうに。
ここまでは良い。よくある話である。
問題は、私が固定派だということだ。
固定派腐女子の方が読まれているなら分かっていただけると思う。推しcpが違う…しかも、攻め違い。これは固定派にとって大変重大な問題である。
私は私の推しcpが絶対唯一無二のcp(運命cp)であると考えているタイプの固定派である。
たいへん生きづらい私は快適なSNS生活を送るためにもちろん、他cpは即ブロック&ミュート。逆cpもまた然り。そうして自分の心の安寧を保ってきた。 もちろんどんなに素敵な絵を描く神絵師でも秒でブロックして生きてきた。そうしなければ殺意でどうにかなりそうだったから。
推しcpが溢れるTL。私はとても穏やかな心持ちでSNS活動をしていた。
件の神絵師を見つけるまで。
その日は突然訪れた。TLにとある絵が流れてきたのだ。私の推しである美少年キャラが描かれたイラストである。
う、美しい…!あまりにも美しすぎる。
その絵を見た私は思わず感嘆のため息を漏らした。繊細で柔らかく、透き通るような色使いで描かれた推しキャラはまるで、ヴィーナスを彷彿とさせるような美しさである。ヴィーナスなどと書いたが、正直な話私はあまり絵画には明るくない。ただ、そのイラストに描かれた推しキャラは形容し難い美しさであり、それは美の女神ヴィーナスを彷彿させるほどであったわけである。当時の私がヴィーナスを彷彿させたかは置いといてだ。
直球どストライクな絵柄に私の胸は貫かれた。
こんな美しい絵を描く人間がこの世に存在するのかと関心すらしていた。もちろんすぐにイラストは保存した。
「他にどんな絵を描いているんだろう?」
きっと美しい推しを沢山描いてくれているに違いない。こんな神絵師と出会わせてくれたフォロワーありがとう。きっとサムネイルもヘッダーも美しいんだろうな。とか呑気なことを考えながら、私は興奮気味に神絵師のプロフィールを開いた。
しかし、私の目に飛び込んできたのはサムネイルでもヘッダーでも無かった。
私は発狂した。
一瞬にして天にも登るような多幸感は打ち砕かれ、まるで奈落の底に突き落とされたような絶望感が私を襲った。
私は何かの間違いではないかと、その一言を無視して画像欄を開いた。
私は2度目の発狂をした。
固定派にとってその画像欄はまるで地獄絵図である。死すら感じた。他cpの絵しかないわけではなかった。他cp以外にも普通の、普通のキャラ単体イラストももちろんあった。
だが、私は少しでも他cpを見ると体調を崩してしまう。これから神絵師が他cpを描かないとは当たり前に言えないし、私が単体イラストしか踏まないという補償はない。これからの体調のために、万が一を思い私は泣く泣くその神絵師をブロック&ミュートした。
それで全てが終われば良かった。
しかしそれでは終わらなかった。
その神絵師の絵を見た日から、ふとした時に件のTLに流れてきた絵を思い出すようになった。頭に浮かぶあの、美しいイラスト。私は「憎き他cpの神絵師の絵など…」とすぐにそのイラストを打ち消すようにしていた。他cpを親の敵のように憎んでいた私は、他cpの神絵師が描いた絵すら許せないタチであった。
だから、そうやって他cpの神絵師または絵を、想ってしまう自分が許せなかった。
モヤモヤは何日も続いた。なんなら保存した件のイラストを眺めたりもした。「いけないわこんなこと…」と思いながらも何度も繰り返しイラストを眺めては複雑な感情を抱いた。
他cpを描く神絵師のことなんてきっぱり忘れよう、とデータフォルダに保存されたイラストを消そうともした。無理だった。こんなにも美しいイラストを、消せるわけがない。まるで禁断の恋をした、思春期の乙女のような気持ちだった。
「他の絵も見てみたい」
その願いに近い感情を認めるのは困難であった。散々憎んだ他cpの神絵師の絵を、わざわざ探して見に行くなどというのはプライドが許さなかった。推しcpを愛するものとしてのプライド。固定派としてのプライド。何より他cpの神絵師の絵を見に行くことは、他cpを認めてしまうようで、自分がしてきた行いや他cpに抱いた感情を無かったことにすることと同じだと思えたからだ。断固として見るわけにはいかない。そう固く胸に誓っていた。
見た。
人間は欲深いとはよく言ったものである。己の願望には従うしかなかった。ただ少し言い訳をさせていただくと、すぐに見たわけじゃない。
その時は自分の固い意志に従い、なんとか神絵師を忘れられるようにSNS活動に励んだ。そして神絵師の存在も忘れかかってきた頃、新しい覇権ジャンルにハマり没頭。神絵師と出会ったジャンルは私が心から愛するジャンルだったので、ちょいちょい見たり描いたりすることはあったが、神絵師と出会った当時ほどの熱はその年以降生まれはしなかった。気づけば絵をはっきり思い出せることもなくなり、「そういえばあんな絵もあったなあ」というぼんやりとした感情しか思い出せなくなっていた。あれほど見たいと思っていた他の絵に対する思いもほとんど無くなっていた。
そして今年。
神絵師と出会った日からゆうに3年が経っていた。色々あり、私はその例のジャンルに再熱。再び楽しい固定派ライフを楽しんでいた。
そんなある日私は機種変更をするためにデータフォルダの整理をしていた。その時目に入ってきたあの懐かしいイラスト。見るべきではないと瞬時に思ったものの、惹き付けられた目を離せるほどの意思がその時の私にはなかった。恋焦がれ、繰り返し眺めたあのイラストは、3年経っても変わらず美しく、輝いていた。再び燃え上がる感情。
「あの美しさをもう一度だけ…」
3年越しに打ち砕かれた誓いだった。
我ながら馬鹿だなと思う。
実は当時の私は、ブロックする前に彼女のIDをメモしていた。ブロックしてしまえば、他cpの単語で検索しても出てこないから、と。この行動だけを見ると、「やっぱりあとあと見る気だったんじゃないの?」と言われるだろう。否定は出来ない。固い意志がどうのこうのと書いていたが多分見る気だったと思う。
メモされていたIDを打ち込み、神絵師のユーザーページを開く。
うわ美……………………………………………………うま……………………………
絵を見た私はまるで激しい波に打ち付けられたような衝撃に襲われた。3年越しに見た神絵師の絵は3年前よりさらに美しく洗練されていて、それはもう、泣きそうなくらいに美しかった。
美の波に私は飲み込まれ、再びその美しさに胸を撃ち抜かれた。
他cpのイラストを上手く避けながらキャラ単体イラストだけを眺め、保存した。他cpのイラストが目に入ってくる度、殺意に駆られたが、だからといって絵をスクロールする指を止めることは出来なかった。完全な敗北である。
今でも昔と何ら変わりなく、他cpへの殺意は消えていないし隙あらば殺したいと思っている。しかし、その他cpの神絵師の絵だけはどうしても認めざるを得なかった。神絵師の絵があまりにも、涙が溢れてきそうなくらい美しかったから。この世に彼女以上に美しい絵を描く人間はいないと思ったから。彼女の絵を愛してしまったから。
他cpも他cpを選ぶ彼女も嫌いだが、彼女の絵は大好きだ。だから、「大好きな神絵師」というより「絵だけ大好きな神絵師」という表現の方が適切だと思う。
=====
タイトルの通り昔あるジャンルのあるCPでサイトをやっていた。
キレのあるギャグとぶっ飛んだ発想で大好きな神サイトがあった。
そのCP自体はジャンルの中でも王道というところからはそれていたので
界隈の狭さなどもあり拍手で感想を言い合うというようないわゆる
“サイト管理人同士の交流”みたいな感じで仲良くしてもらっていた。
それで、神がある時オンリーイベントで本を出すことになった。
人様のご本は買ったりしていた。
その時のイベントには行けなかったので神の本は通販で買うことに。
今のように誰にでも書店に当たり前におろせる時代ではなかったので
神は人気であらせられるので自家通販ともなれば申込みが殺到して大変だろうな…
○○です~と名乗ってお返事や反応のお手間を取らせてはいけないな、と
こっそりと購入し存分に楽しませて頂いた。
その後、ある時神が再びイベントに出ることになった。
個人主催のオンリーで、かつ、●●会館みたいな会場の部屋を他のジャンルの
オンリーと仕切りで区切って共同開催!みたいな規模のイベントだった。
その作品の原作の連載が終わってしまったこともあり、もうこういうオンリーイベントが
開かれるのも最後かもしれないな…と思い切って遊びに行くことにした。
その時神のスペースにも行き、僭越ながら初めて直接ご挨拶させて頂いた。
「あっちょっとまっててください!」と奥から何かを持ってきてくださる。
神の手にあったのは私が以前通販で名乗らずにこっそりと購入した一冊目のご本。
その本は通販で完売済みなので今回のイベントでは新刊の販売のみだったにも関わらず
「どうしても○○さんに読んでほしくて…勝手に取っておいたんです。貰ってください」
このまま御本人には言わずにおこうと心に誓った。
じゃあ一生黙ってろよって感じかもしれないけれども、
たまに思い出して心が暖かくなる出来事なのでいつかどこかには残しておきたかった。
貴重なご本を2冊所持してしまうことになり、
自分が通販で買った際にその時は名乗らずともきちんと後日なりに
感想をお伝えしてればこういうことにはならなかったのかもしれないけど、
でも自分に読んで欲しい!って思ってもらえていることがとても嬉しかった。
その後自分もサイトを閉じてしまい特に個人的に繋がっていたわけでもないので
そのまま神とも疎遠になり、そのままだ。
今でもオタクをしているのか、オタクだとして何のジャンルにハマっているのか、
ハマっているとして同人活動はしているのか、SNSなどはやっているのか、何も知らない。
でも今でもたまに今どうしているのかなあ元気かなあ元気ならいいなあって思い出す。
ジャンルの切れ目が縁の切れ目と言ってしまえばそれまでだけど、
でも昔はそういうのがほとんだったように思う。
特に仲違いしたとか何かあったわけでなくても好意的でもいつの間にか
でもそういった疎遠には上記のような…たまに思い出す郷愁のような感じで悪い印象はない。
今はSNSとかがあってジャンルとかが変わっても付き合いがなくなっても
それっていいことかもしれないけど逆にずっと付き合い続けると疲れたり、
ちょっとした発言ひとつで幻滅したり、場合によっては縁を切ることになったりもするときもある。
いつの間にか疎遠になってもずっと心の中でいい印象のまま変わらずいられることって
ちなみに今でもその同じ本を2冊とも大切に取ってある。
たまに見返す宝物である。
俺はそもそも何も考えてないよ、ただ他人を嫌な気持ちにさせたいだけなんだよ
犯罪被害者は辛いし可哀想だよね?同情しちゃうよ でもそれは置いておいて、追い打ちをかけたいんだ
レイプ被害者に「セックス気持ちよかった?」「感じてたんだろ、売女」って言いたいんだ、言われたあとの顔を見たいんだ
Twitterで過去のトラウマや恨み、遭遇した酷い目について語ってる奴らももちろん頷けるよ、同情とかで まあそれは別の話でクソリプ送るんだけどね
「はい、嘘松」「お前が悪いだろ、被害者面してんじゃねえよ情弱」って言いたいんだよ
俺は別に何が嫌いかとかは無いんだ、嫌いなものはむしろ無いレベルよ
だけどアンチに荒らされて悲しんでるのや、叩かれて怒ってるやつを更に煽りたいのよ
同時期入社で最初の一月は普通に接していたのに、ある日の打ち合わせで会議室に二人になった時ものすごいヒステリーをぶつけられ(社内全員が聞いてるぐらい)その日から普通の会話の端々で非難されたり、突然叫びだしたり正直基地外としか思えない。
仕事で使うデータをくれと言っていたのにくれなかったことを指摘するとまた絶叫。全く反省もなく突然関係のない話題を持ち出す。
マジで辞めてほしいし死んでほしいしこういうババアどうすりゃいんだろ?
このババアだけが問題ならまだいいんだけど、過去に酷いパワハラを受けた経験がありそれを思い出してつらくなる。
会社の人は味方になってくれているし上司でもないのでそこは救い。
追記:スレッドに謎の議論がくっついているけどこのババアは中学生の子供を持った既婚者。ちなみに過去にすごいパワハラをしてきた男性上司も既婚者。子供って親より絶対的に下の立場だからこういう親をもつ子供はかわいそうと思う。今まで未婚でキツイ人ももちろんいたけどなんというかベクトルが違う。未婚か既婚かは関係ないと思う。
共通点は立場が上の人間には過度にこびへつらうが立場が下だと思った人間には何を言ってもいいと思っている事。仕事を依頼するときだけは下出に出る事。
なのではないか。
キズナアイの炎上は、最初の発言者の問題もあるのだろうし、これまでの経緯もあったりするんだろう。
それ以外にも、反応が苛烈なのは表題のような動きがあるからではないか。
日常生活における女性の「嫌い」という言葉に対する反応は、スルーするのでなければ、大抵極端に分かれやすい。
今回の反応もその延長線上にあるように思える。
そしてさらに、そういう対応を社会(これももちろん女性からだけではない)から求められているからではないか。
特段プライベート的な行動だけではなく、例えば会社やコンビニの様な店での対応の仕方などに、そういう要素を感じたことはないだろうか。
家庭の中でも妻からの、娘からの対応が、そのようになってはいないか。
そのようにもとめてはいないだろうか。
……と思ったけど、なんか似たような話を昔ジェンダー論の本で読んだ気がしたんでここらぐらいにする。
FGOを始めたのは去年の2月だった。始めたきっかけは単なる暇つぶし程度のものだ。
最初の頃はストーリーが楽しかった。先を読みたいのとガチャ石を集めたいのでキャラクターの育成は後回しでどんどん話を進めて行った。楽しかった。ちなみに、各種イベントは参加する意義がわからずスルーばかりしていた。
だが、その手が止まることになる。5章でのことだ。
FGOにはフレンドというシステムがある。他人が育成したキャラクターをちょっと拝借してバトルができるのだ。4章まではフレンド頼りでなんとでもなってきた。しかし、自分のキャラも育っていないとどうしようもなくなってくるのが5章くらいからだった。
野良フレはお互いに承認のいらないフレンドで、多分全プレイヤーのうちアクティブな人から優先してランダムで十人ほど選択肢に現れ、それを選べばキャラクターを借りることができる。ただし、必殺技は使えない。
相互フレはお互いにフレンド承認をしてなることができるフレンドで、必殺技も使えるしフレンドを借りた側貸した側両方に入るフレンドポイントも野良フレと比べて倍以上になる。
初心者の自分には相互フレがいなかった。チキンな俺は、見知らぬ人に申請をするのすら躊躇っていた。そして、必殺技の使えないフレンドではきつくなってきて、5章で詰まることになったのだ。
じゃあ、自分のキャラクターを育てればいいじゃないか?それが真っ当な意見だろう。しかし、このゲームはそれが非常に辛くできている。
特に自分は、一生懸命貯めたガチャ石でそこそこいいキャラクターを引いていたため、それを育てようと必死だった。しかし、いいキャラクターというのは育てるのも辛いキャラクターだったのだ。
このゲームで育成をする大基本は、種火と呼ばれる経験値カードを集めることだ。この経験値カードを育てたいキャラクターに使うことで育成ができる。
この種火は種火クエストで手に入れるのが近道だ。だが、俺の手持ちの育っていないレアキャラクターでは種火クエストを周回するのは非常に辛かった。10ターン以上は優にかかっていて、たまに10ターン以下でクリアできるとガッツポーズをするほどだった。しかしそれでもクエストを1回クリアした程度ではレベルは1も上がらない。
さらに、これらの困難を乗り越えてキャラクターのレベルを上げたとする。しかし、そこに待っているのはレア素材を使わないと解放できないレベルキャップだ。
このレア素材、本当にレアで、ストーリーを進めているうちに手に入った分はあったが、足りない分はそのアイテムが落ちるフリークエストを周回しなければならない。アイテムが落ちる確率は激渋で、10周回って一つ落ちるかなみたいな世界だ。
俺は最初の頃にガチャで引いた狂スロットを頑張ってレベル50まで育てたが、そこまで育ててもこいつの打たれ弱さは改善せず、ついにこいつをメンバーから外すことになった。せっかく引いた星4の高レアキャラクターだったのに。
これらの困難によって俺のキャラクターはほとんど育たず、そしてシナリオをクリアするのにも時間ばかりがかかりどんどん辛くなって行って、結果FGOをやめてしまった。
念のため言っておくが、育成要素およびシナリオ要素に課金はできない。
それ以降は思い出したかのようにたまにFGOを触るけど、結局育成が辛くてやめてしまうという悪循環ばかりで、1年以上が過ぎた。
その日も、思い出したかのようにFGOを触ってみてはやはり種火周回に10ターン以上かけていた。でも、その日ふと気まぐれを起こした。
低レアだけど周回用に育てておけ、と攻略サイトなどでよく言われている星1のキャラクター、アーラシュを先人の言う通りに育ててみる気になったのだ。
それまでの俺は、育てるなら高レア優先だろうとばかり思っていた。低レアなんて育てても使わなくなるだけだろうし、だったら低レアに貴重な種火を使うよりも高レアを優先すべきだ、と。攻略サイトでは低レアでも使えると言っているけど、実際はみんな高レアに上位互換がいるのだろうと思っていた。だから、低レアを育てるのは無駄だと考えていた。
だが、俺は間違っていた。それは半信半疑でアーラシュを育ててみて、すぐに分かった。
アーラシュを育てるだけで、種火の周回にかかるターン数が7ターンくらいになった。
カラクリは簡単だ。アーラシュの必殺技は全体攻撃の必殺技で、しかも非常に強い。自爆技だから強くしてあるのだろうけれど、一度必殺技を使ったら死んでしまうところまで含めて強い。死ぬのが強い理由はあとで説明する。だが、この必殺技で俺が3ターンかけて倒していた3体の敵が、1ターンで倒せるようになった。残りの敵は6体だ。
そう思い始めた俺は、次は星1のスパルタクスを育てることにした。今度は次の3体が1ターンで片付くようになった。
そして最後に思い出したのだ。俺には、狂スロットがいると。こいつも全体攻撃キャラだった。最後に出てきて必殺技を打つだけだったら打たれ弱さは関係ない。こいつを場に出すタイミングだって、アーラシュに自爆技で敵を倒しつつ死んでもらえば、そのタイミングで控えから前線に出すことができる。
そう、アーラシュのおかげで全てが噛み合うのだ。
あとは必殺技ゲージ系の装備を整え必殺技ゲージを増加させることができる孔明を野良フレから借りて手順を考えたら、種火クエストの3ターン周回パーティが出来上がっていた。
ずっと詰まっていた5章だったけど、自前のキャラクターが強くなったら難なくクリアできた。次の6章も敵が強くてめげそうだったけど、アーラシュの種火周回パーティで頑張ってレベル上げをし、足りないレア素材も周回を頑張って集めた。育成を始めたら今まで無視していたイベントでレア素材が簡単に手に入ることに気づき、イベントにもしっかり参加するようになった。
そして、イベントをやっていない期間にストーリーを進め、6章と7章の熱さに泣いた。第一部ラスボスのいる終端特異点でももちろん泣いた。
今となってはFGOにどっぷりだ。
今日の13時までやっていたギル祭もしっかり取り組み、ボックスを50箱空けその他の素材も回収した。超高難易度のクエストだけはまだ育成が足りてないのか3つほどクリアできないものがあったが、個人的なやりきった感はある。
俺がFGOを楽しむには、アーラシュという星1の低レアキャラクターが必要だった。
男女平等についてはかなり深く考えさせられるんだけど、ずっとあった違和感の正体がこれだって気づいた。
女性が活躍するには、女性が作り上げた社会が必要なんじゃないかなってこと。
やっぱりフェミのいう女性の社会進出って、今あるレールに女性専用特急を乗せろって言ってるようにしか思えないんだよね。
もしそれを女性のみでなしえないのだとしたら、それは男女差別ではなくて、性差、つまり今ある社会というのはなるべくしてなった結果でしかないということだと思うんだけど。
ここまでの経緯が男性に抑圧されてたとか、そういうのはとりあえず価値観の側面なのでおいておく。
男女差別も人種差別ももちろん反対だけど、どうも権利を主張する一部は既得権益を俺様にもよこせといっているだけにしか思えない。
今ある社会で、女性が妊娠期間を経て尚、男性と同等の扱いを受けるのって、平等じゃなくて完全に養護じゃない?
かといって女性が作った社会を男性に邪魔されないように国から守ってもらうのも養護だし、女性が女性だけで完全に社会を確立できるようになって初めて平等と言えるんじゃないかな。
そしたら今度はそこでは活躍できない男性が男女差別だって言い始めるね。
差別ってなんだ?