はてなキーワード: つくばとは
「これ以上負担をかけないでくれ。このままだと、父さんも母さんも過労死してしまう」
愚痴る相手もいないので、せめてこの場を借り発散させてほしい。
私の両親は学校の先生だった。常に多忙で、食事や看病など日々の世話は、祖父母にみてもらっていた。
冒頭の言葉を投げかけられたのは確か中学生の頃だ。父からの説教は珍しいことではなかったが、〈過労死〉のインパクトは強かった。
私は日頃から親に負担をかけないよう、手のかからない良い子でいるよう努めていたつもりだった。部活で悩んでいた時も、学校でいじめられた時も、愚痴だって全部我慢した。親に反抗するなんて以ての外だった。
その時の父はきっと大層イライラしていて、つい口走ってしまったのだろう。(母の名前も出たが、父が説教する時の主語は基本「父と母」である。母本人の意向を無視していることも多い)
それでも私は真面目に考えた。何か気に障ることをしてしまったのか?家の手伝いが足りなかった?成績が少し下がったから?外出の誘いを断ったから?そんなちいさな不満の積み重ねが父の負担になった?
私の存在そのものが負担なら、いっそ消えてしまったほうがいいのではないか?と、この頃から漠然と思うようになった。
ここでタイトルの話に入る。
父は授業や部活顧問のほか、生徒指導の担当として、非行に走る生徒や素行不良、不登校の子のサポートを行っていた。
そういう仕事なので熱血も何もないが、イメージが伝わりやすいと思い、少し大袈裟だが〈熱血教師〉という言葉を使わせてもらう。
父はよく生徒指導の話を私にしてくれた。
例えば、暴走族が学校に入ってきたと思ったら、かつて指導した子が笑顔で挨拶しにきたこと。
不登校生徒が夜になると、父とお喋りをしに職員室にやってくること。
大人になった元不良少年が、先生のおかげで更生できたと感謝の手紙をくれたこと。
そんなことをいつも誇らしげに語っていた。
家庭に問題があったり、居場所がなくて道を外した子供たちの親代わりになって導いた、教育者として立派な仕事だと私も褒めそやした。
が、胸の内は複雑だった。
実の子供である私は、手を煩わせないようにいつも良い子でいるのに。甘えたくても「今疲れてるから」で後回しにされるのに。私が父の帰りを待っている間も、彼は問題児たちの世話をしているのだ。
他所の子供の面倒を見るのが教師の仕事。それは理解している。家庭を優先的すると保護者からクレームがくる。だから仕方ない。学校行事に親が来ないことは当たり前だったが、それは気にならなかった。
でも、〈手のかかる子〉の話はどうしても耐えられなかった。
私の父親が、顔も知らない子供に取られてしまったようで、嫉妬のような恐怖のような感情を抱いた。父の仕事は立派だとは思う。けれど私の前ではその話はしないで欲しかった。
そんなに手のかかる子が好きなら、いっそ私も家出して消えてしまおうか。親はとても不安になり、血眼になって探してくれるだろうと、ふと魔が差したこともあったが、できなかった。
その後も良い子を続けた私はそれなりの大学に入学できたものの、今までストレスを堰き止めていたダムが決壊したことにより、現在は鬱の寛解と再発を繰り返しながら社会の底を這いつくばっている。
私はとうとう〈手のかかる子〉になり、両親の不安の種となってしまった。
こうして文章を書きながら自分の弱さを省みる。厳しくも根気よく育て上げてくれた家族に対し、本当に申し訳ない限りだ。
未だに実家に寄生を続ける私に、定年近くなった父はこう言った。
「我が子も満足に育てられなかった自分が、他の子供をちゃんと教育できているか、もう自信がない」
私は何も答えられなかった。
バブルのさなかに昭和天皇なくなって地方から送り出したはずの冬スポーツ全国高校大会が自粛になって
(決勝だけやらずに同校優勝になったスポーツもある)
それはまぁ今のコロナとかわらない部分もあったよ
地方にディスコなんてなかったけど文化祭でディスコナンバーかけてそれっぽい感じに踊ったな
大学生になったら就活でもないのに合コンにスーツ(女性はボディコンスーツ、男性はダブル)きていきたがったな
つくば万博やナウシカ映画館でみてるだけのほうが楽しいんじゃないかって雰囲気もあったのが
口コミでもしかしてディズニーランドいけばたのしいのでは?って気づき出したね
アニメファンとそれ以外を兼ねるなんて雑誌買い集めないといけないから無理
発売日に週刊少年ジャンプ持ち込んでくるやつは神扱い(銀さんがその雰囲気少しある)
ファミコンはいいけどセガサターンとか高くて大人でもそうそう買えないけどバブルのせいかレーザーディスクだのディスクシステムだの全部そろえてる人が神
なのに静岡はそのころからアニメのチャンネルが1つしかないらしい
そんなもんよ
ひきこもってたのしめるの最高
私は22卒で就活中なのですが、こんなエントリを見ると地方就職を躊躇ってしまうよ。
メーカーの研究開発職志望なので、基本的に地方の工場か研究所に配属の予定だよ。
選べば、千葉・埼玉・つくば・川崎くらいの場所を選ぶこともできるよ。
そのくらいの地方なら大丈夫?それでもやっぱり関東圏にした方がいい?
大手は全国に工場研究所があるから地方転勤はある程度避けられないよ。
まあコロナ渦の就職氷河期のポンコツ学生なんで、大人しく「全国どこでも大丈夫です!」と元気よく答えるよ。
意外と大丈夫なそうという自信が着きました。
車は教習所でしか運転したことないので内定取ったら練習頑張ります
くだんの彼は情シスらしいので、研究職とは地方転勤への仕方ない感や覚悟が違うだろう。
ここ最近のおたくカルチャーの躍進が俺の心にカタルシスを与えすぎてヤバイ。
ゴミゴミタレント俳優起用擁護勢もアニメ馬鹿にしてる実写勢もことごとく叩きのめしてあまりにも爽快すぎる。
もう自然な演技(笑)だの半沢直樹で実写勢内部からすら自己崩壊してるしいよいよ趨勢が決まってきたな。
碌に見てもらうことすらできない邦画実写映画のごみどもよ消え去れ。
多様性(黒人を監督にするアニメ制作会社)でもジェンダー関連(日本一興行収入稼いでる女性映画監督はアニメ監督)でもすでにアニメに負けてるのに全く気付いてないし。
気づかずに偉そうな馬鹿だらけ。
ざまぁみろ。キモオタどもに地に這いつくばらされる気持ちはどうだ。
きもちいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい。
ここ最近、リベラルアカをTwitterで開設して遊んでみているが、結構楽しいので紹介しようと思う。
まぁやることは簡単だ。
キーワードは今なら「ジェンダー/フェミ/性的役割/LGBT/反ネトウヨ/在日/日本解放/∃/プロテスト」あたりだ。
これをまとめてリスト登録する。このリストは適宜修正すると良いだろう。
鍵リストなら登録された側からは見えないし、よしんば見えてもリスト名を「信頼できる人」とか「フェミニスト」とか「人権関係」とかにしておけば問題ない。
ここら辺の連中はメンタルが知覚過敏なので「どこから見つけてくるんだよ…」と戦慄する程のコンテンツ収集力を見せてくれる、重要なアンテナだ。
後はそいつらの紹介文をコピーして人権とか倫理的に当たり障りのない内容に直して代入、適当なヘッダーとアイコンを作る。
誰にでもある「尊重されたい」という思いがポリコレを支えているからだ。
だが、皆が「尊重されたい」と考えるだけでは集団は回らないし、何よりも「運動で消費した時間」は帰ってこない。
「尊重されたい」という思いに問題はなく、その為の運動は悪ではない。
しかし人権を盾に誰もが甘えているのでは運動は形にならず、出来上がるのは無駄な運動に興じてただ年を重ねた無力な自分だけだ。
つまり、ポリコレには根本的に認知と現実の不協和をおこしやすいという欠陥がある。
正しいことをやっても過程が間違っていれば結論はおかしくなって当然だ。
だが、Twitterで呟きを連打するポリコレ狂人どもは既に手の打ちようがないレベルで詰んでいるので今さら引き返せない。
ポリコレフィッシャーマンはこの認知の歪みを利用し、破滅に向かう他人を見て楽しむ趣味だ。
反ポリコレの理論は基本的にはこの人権社会では成り立たないと思って良い。
何故なら「個人の人権を尊重する」ために賢い人が考えて政治的に調整した結果がポリコレだからだ。
ポリコレは正しい、何故ならポリティカルでコレクトだからだ。このトートロジーある限り、ポリコレに従えば道徳でマウントを必ず取れる。
この優位性を活かして、「別になんの解決にもならないけれど、苦しんでるやつの気持ちの受け止めだけ行う肯定文」ツイートを社会学・フェミニズム用語と絡めて連打する。
そこでいいねかリツイートした奴がカモ候補だ。十人に一人はポリコレ狂人か病みアカである。
また、病みアカは大体イカレポンチ同士で横の繋がりがあるので、そこを釣り堀に定める。
後はそいつらの承認欲求をひたすら満足させるツイートを投げるだけである。
ここで大事なのは「あなたはそのまんまでいいんだよ」という主張を一切崩してはいけない、という点だ。
そもそも詰んでるからポリコレ狂人とか病みアカに成り下がっているのであって、そのまんまではダメに決まっている。
彼ら彼女らには現実と向き合い、人生を損切りして、地べたに這いつくばって生きるべき時がもう来ているのだ。
こうして見つけたカモ候補に承認という餌をやることで、コイツらは「正しいことを言って承認されている」にも拘らず「クソとしか言えない現実にしばかれる」という認知と現実との不協和で頭がバグる。
後は七転八倒する面白コンテンツと化したポリコレ狂人を飽きるまで楽しく観察するだけである。
最初の釣り餌が思い付かなかったらリストから適当な発言をコピペして語尾を変えるだけで良いからだ。
コピペのやりすぎで論理矛盾を突っ込まれたら「申し訳ないです、勉強中なので…」と述べてから、相手の主張をおうむ返しにしていれば大抵満足して黙る。
ポリコレは政治的な折衷の結果の産物、なぜそのように折衷されたかは誰も論理的に説明できないので、説明する側も決定打は打てない。
つまり、論理矛盾を突っ込む側のやりたいことは実のところ単なるマウンティングなのだ。
昔から子供が嫌いだ。まず、うるさい、それから汚い。子供特有のキンキンした声が苦手。それから、床をドタドタ走る時の衝撃も。子供はそこいらのおっさんなんかより断然汚い。よだれのついた手であちこちを触るし、汚い路面に這いつくばったりもする。潔癖症の自分はそういう汚い手をこちらに伸ばされるとゾッとする。もちろん、普段はこんなことは言えない。だから押さえ込んで生きている。だけど、最近友だちが趣味の集まりに頻繁に……
俺は絶対に電車で席を譲らない。なぜなら俺が底辺だからだ。例えば小さな子を連れた母親。子供は足が痛いとぐずっていて、母親は見るからに疲れ切っている、そんな状況でも俺は譲らない。どうしてかって、大変そうに見える親子連れは結婚して出産している勝ち組だからだ。俺は家に帰っても1人、自分のでもない子供のために税金を払い、老人に子育て世代に経営者に搾取され続ける人生だ。赤の他人の中出しに気を使う余裕などない。老人についても同じだ。老人は高度経済成長期にぬくぬくと甘い汁を吸って生き、俺たちが貰うであろうものよりはるかに高い年金を搾取しながら生きてるからだ。大体出歩いてる老人なんか、ショッピングだとかフレンチだとか美術館だとかに向かう金持ちだから俺が席を譲る必要はない。
いかに自分が可哀想か余裕がないかを述べながら、なぜ自分が善人たれないか自己弁護に走るやつ多いよな。批判されると「はぁぁぁああぁあ!!?!私が悪いってことぉぉおおおお!??!!???」とキレる。こういうやつらに優しくする必要はない。
ということで、自転車にリクセンカウルのアタッチメントを取り付けるべく格闘すること5時間近く。
結局駄目だった。
リクセンのワンタッチバッグを高い金出して買ってしまったので、何がなんでも取り付けたかった。
クソ高い電アシケッタにはクソ高いバッグがお似合い…と思い、ケッタのオプションフロントカゴは買わずにリクセンに挑戦したのだった。
でも。私の電アシケッタはハンドルポストもステムも変則的なのでした。そしてとても滑るのでした。
ゴムシートを使っても魔法のテープを使ってもマウント部分がキュルキュル滑ります。
あとケッタにデフォで付いているサイコンが邪魔で、そもそもリクセンのフロントアタッチメントを取り付ける場所は無かったのでした。
だから頑張ってマウンターを買ってサイコンを付け替えました。配線がタイト過ぎて非常に難渋しました。
そんなに必死でやったのに。
途中でワイヤー受けのネジを飛ばしてしまい、這いつくばって探しまくったりしながらやったのに。
というかワイヤーが通らない。鬼の様に通らない。
通っても巧く固定されない。外してやり直し。ワイヤーが通らない。
リピート。
これでいいかな?と思ってアタッチメントにバッグを取り付けると下がりまくった挙げ句にすっぽ抜けてしまう。
バッグでの自重ですっぽ抜けるのなら、フロントカゴとしての機能はゼロというかマイナスである
(ちなみに今日取り付けていたのはKF864。最初に買ったKF810は径が足らずに取り付け不可の為返品。
次に買ったKR810もやっぱり径が足らず。長いネジをM4からM6まで買って試してみたが止まらなかった)
自力ではこれ以上無理なのでした。
(そしていつまでもフロントにカゴが付かない不便さとの格闘。リアに物積んでワイヤーで固定するの面倒)
後はもう、ケッタを売ってくれたお店に行って頼んでみるしか方法がありません。
プロならなんとかしてくれるんでしょうか。
無理な気がします…。
泣きたい。
もう朝だ。お風呂に入って寝よう。
( ※ 元増田の内容にほとんど触れず自分の話ばかりするのでご了承ください…)
10 年前から難治性の病気持ち。病気を抱えつつもなんとか働いてきたが、悪化により 2 年前に退職。現在は障害年金と、足りないぶんは貯金を切り崩して生活している。
生活費を抑えるために、以前住んでいたまぁまぁ広い部屋を解約し、学生時代よりも安くてボロい騒音漏れまくりの部屋に住んでいる。
食べられる物もかなり限られており、お坊さん以上の超粗食をしている。
上記に加えて、病気の苦痛が 24 時間 365 日降りかかってくる。
自分は子供の頃から、常に将来への投資ために現在を犠牲にして生きてきた。学生時代は青春を捨てて勉強した。社会人になってからはスキルアップのために、病気の苦痛に耐えながらも プライベートを削って一生懸命勉強した。「この職業で大成したい」という夢があったから。
そうやって人一倍努力してきた・真面目に生きてきたのに。病院にも欠かさず通って、つらい治療にもずーーーっと耐えてきたのに。幸せに近づくどころか 病気は悪化していくばかりで、ずっと辛酸を舐める年月を送っている。
一方で、若い頃に遊び呆けていた友人たちは、今はそこそこ以上に幸せそうに暮らしている。毎日ちょっといい店で飯食ったり酒を飲んだり、休日は外で散財したり、新しいガジェット買ったり、結婚したり。
あまりにも理不尽だ。真面目に生きるって何だろう。なんで自分はずっと報われないんだろう。そう考えるたびに悔しさで涙が出る。
もしも自分の人生がこのまま好転せずに終わっていくならば、このあまりに理不尽な世の中、真面目に一生懸命生きてきた自分を不幸のどん底に突き落とす世界に、何かしら一矢報いないと 死んでも成仏できる気がしない。
そう思ってふと、「ああ、無差別殺傷事件起こすような無敵の人って、こういう気持ちなんだなぁ」と思った。絶対自分はやらんし、犯罪を決して肯定しないけど。でも気持ちは何となく分かった。世界に復讐したいんだろうな、と思う。
よく RPG とかで、世界に絶望して世界を滅ぼそうとするボスを倒しにいくストーリーあるじゃん? ああいうボスの気持ちが今ならまぁまぁ分かる。
もし目の前に、「世界消滅スイッチ」とか「いい思いしてる奴 全員抹消スイッチ」みたいなのがあれば、押しちゃうかも分からん。だって自分を不幸にする世界に復讐したいもん。でないと悔しくて死にきれんもん。
こういうこと書くと、一人で死ねって言われるんだろうな。
報われたい人生だったよ。自分の人生イージーとか言ってる連中が恨めしいよ。
( ※ 繰り返すが、犯罪は絶対にしない。この理不尽な世界に復讐したいという気持ちを抱えたまま底辺を這いつくばって生きていく。)
ではお前は絵を描く人間を「線描き」と呼ぶか?
単語群を構成する単語を一文字ずつに分解して、ようやく「字」だ。
「字書き」ってなんだ? オメーは単語すらミスタイプしてるクソ低脳と言いたいのか?
ストーリー以前の意味不明な文字が印刷されたゴミクズを刷ってるバカどもと言ってんのかよ?
百歩譲って「字書き」と呼ばれるにふさわしい人間がいるとしたら武田双雲や相田みつをだろ。ああいうのが神字書きだよ。
同人女の感情シリーズが「字書き」と蔑称で呼ぶキャラクター達は、物語を描いているにも関わらず、作者は「字書き」と呼ぶ。
何故か? 作者が漫画を描く人間というオタク内上位カーストに属するからだ。
同人女シリーズの作者など絵描きと、絵描き以外はムダクズゴミと思っている消費専門のオタクどもは小説や評論、詩など文章で同人活動をする人間をヘラヘラと「字書き」と呼びやがる。
絶対に相手を同じ人間とは認めてねえんだ。「貧乏人さん」って呼ぶのと同等だろ。
みんながそう呼んでるから? そうかそうかー。みんなが呼びゃあどんな悪口でもどんな酷いあだ名でも正しいよなー。わかるぅー。
無意識下にまで染みこんだ見下しと差別意識のサイコーのお手本だわ。
や、意図的な呼び方かもしれねえな。「デザイナー」を「お針子さん」と呼んで馬鹿にするのと同じ、対象の矮小化だからな。
そんなつもりない? 語呂が良いだけだと? ニガーも黒んぼもシナチョンも語呂が良いが、オメー面と向かって言えんのか?
今回の部数のリアリティのなさが示すように、作者は小説や評論同人に興味はない。
上位カーストの素晴らしい人間である漫画描きの自分が、ストーリーどころか文章以前のゴミしか作れねえのに神だの嫉妬だの言ってる「字書き」というカスどもの滑稽な姿を小馬鹿にしつつ、あなた方ふぜいにも救いはあるんですよ、漫画描きの私ならそんなことすら描けますよと薄笑いを浮かべているのが透けて見えるのだ。
最悪だ。上流階級様が貧民の暮らしを「まあ。貧乏人どもが、カビたパンをめぐって大騒ぎ。でも貧乏人の中にも心正しい者もいて、時には貧乏人だとしても、パン屑を分け合い、うるわしい友情を築けることもあるのよ」と、ブリオッシュ片手に憐れんでくださるわけだ。
漫画が描ける上級オタクの方々が、「字書き」という可哀想な存在を見世物にしてバズり食い物にする。
お前らみたいなゴミカス以下に言及してやった優しさに感謝しなきゃ上位カースト様の折角のお慈悲が無駄になるもんなあ這いつくばって喜ばなきゃなんねえよな。
んで、このウェブ漫画の流行により、小説同人/評論同人の人間は「字書き」という僭称で呼ばれるのが当たり前である、という流れが作られる。
上位カースト様がそう決めてくださったんだからしょうがねえやな。
字書きみてえな無価値な人種の存在を認めてくださるありがてえ作品でごぜえますだって靴でも舐めなきゃな。
「あら、何が気に入らないの? 字書きみたいな卑しく価値のない生き物の生態を、わざわざ漫画にしてあげたのに。変な人ねえ」
人生が向いてない
私は今、床に倒れ込み大泣きしながらこの文字を書いている。きちんと意識している回数だけでもここ4日は毎日泣いているし、それ以前の日だって、毎日のように泣きながら暮らしている。
生きたくない。死にたい。死にたいと考えている。でも死ぬのは怖い。首を吊るどころか手首に傷をつけるのさえ怖い。痛いのはすごく嫌。でも生きるのはとてもつらい。
現在、無職である。社会人2年目にして無職。去年は一年間きちんと働いていたが非常に激務であり、契約が切れると同時に退職した。あと1年続けませんか?と何度も声をかけていただいた。しかし、この激務をもう1年間耐え続ける体力も精神力もなかった。適性もないと思っていた。漠然と、何か別のことをしたくて、それなら早いほうがいいと思って、辞めた。
そして現在無職である。一応就職活動をしているが今までとは全く異なる業種を受けており、ことごとく落ちている。その仕事がしたいわけではない。働き方が希望の条件に合いそうだから、それだけである。しかし実際働いたらキツイだろうし、実際勉強もしてるが難しい上に興味もないのでチンプンカンプンでやる気がまるで起きない。このやる気のなさが面接官に感じ取られているのだろう。就職エージェントに勧められるところを一通り受け、していない勉強をしていると嘘をついている。実際のところ全くできないのに。とてもゴミクズである。知っている。知っているのだ。そりゃ正直働きなくない。でも働かないとお金もなければ世間体も保てないから仕方なく働こうとしている。こんな気持ちじゃそりゃ落ちる。わかってる。もう死んでしまいたいのだ。
本当に働きたい人は何をどうしても、がむしゃらに頑張るんだと思う。でも私にはその気力がない。3月末に退職して現在8月、やりたいことがあるわけでもない。虚無。虚無の毎日である。
頑張れない。一向に頑張れない。
これは仕事の有無のせいなのかと言われたらわからない。仕事をしていたときは仕事場で一人で泣いていた。辛くて辛くて、死にたいと思っていた。仕事をしていても、やめても、死にたいという気持ちは一向に拭えない。
小学3年生の時には既に死にたいなと思っていた。10歳の誕生日「とうとう10年も生きてしまった」と焦り、20歳の誕生日には「子供のうちに死ねなかった」と人生を嘆いた。将来の夢は昔から無い。親に「公務員になったら安定するから公務員になったら?」と言われ、そのことを小学校の卒業文集に書いたらこっぴどく怒られ、いまだにそのことを言われることがある。言われたとおりにしようとしただけなのに。
漫画家やイラストレーターになりたいという夢もあったが、そのような技術も才能もアイデアも、なにより根気も無かったのでとっくに諦めてしまった。今は趣味で絵を描く程度だ。そんな死をずっと思い続ける、無気力な人間だ。
生きる適正がない。言われたこともできないし、自分なりにもこなせない。どうしていいかわからない。相手の気持ちがわからない。指示待ち人間で、言われるまで何も動けない。
ここまで救いようがないなら死ねばいいが、でも怖いので死にたくもない。食べる量だけ多くてどんどん太っている。動くのも中学生の部活いらいまともに運動をしていない。運動のしかたもわからなければ、運動をする気力もない。めんどくさいという気持ち。変わりたいという気持ちが弱い。きっとそうなんだと思う。それこそ中学生のころは本当に毎日泣きながら暮らし、日々死にたいとブログに綴っていた。そのブログはとっくに消してしまったが、10年も経って今、同じことをしている。
身近な人に「相談してね」と言われてもなんと言っていいかわからない。その人の前でただただ泣き崩れてしまう。論理的に考える頭がないので、乱文でもこうして文字に起こすことで自分なりに考えをまとめようとしているところだ。
実際、何を「相談」していいのかがわからない。私は何を悩んでいて、どうしたいのかがわからない。言えることは「私は死にたいが死ぬのが怖いので、なんとか生きていきたい」だと思うが、そもそも「なんで死にたいの?」なんて聞かれたらわからない。生きるのが向いてないから。じゃあなんで生きるのが向いてないと思う?みんなみたいにうまく立ち回れないから………… みたいな掘り下げをしていると本当に鬱々としてくる。いやだ。あぁ、ここで私の得意技である現実逃避。自分と向き合うことが怖い。理屈ではわかってる、わかってるけどそれは相当なストレスで、楽したいから避けている。
結局、自分と向き合うことができない人は自分の人生なんか生きられないんですよね。でもその自分との向き合い方もわからない。今自分で自分を正論でめった刺しにしているのが辛い。また泣いている。
身近な人にほど相談は難しい。自分の素性を知られたくない。駄目な人って思われたくない。きっとバレているのに。それでも言いたくない。不特定多数に見られるインターネットのほうがよっぽど気が楽である。
転職エージェントに言われることは「自信がないから自信を持って」ということだ。面接官にも言われた。身内にもそれは言われるし、自分でも思う。自分には自信がないと。自分の課題はそこなんだと思う。
でも、そこまで誇れることも何もないのだ。本当に空っぽの人間なのだ。さも自信がある人間のように、ウソで塗り固めることすらできない。そんな国語力はない。
理想ばかり高くて、そこに追いつけない自分とのギャップで病む。本当は私は素晴らしい人なのになぜ……という気持ちがきっとどこかであるからそうなってしまう。
ここからは人のせいにもしてしまうが、人から認められることなんてないし、そもそも親は私のことを小さい頃からずっと「バカ」と言い続けてきたし、ブスな上に努力もせず、ボーッとしてる上に人付き合いが苦手でいじめに合い……周りから奪われる自信と、それをはねのける自分の精神力の無さが原因だと自分では思っている。
みんなうまく生きているのに自分だけこんなんじゃ自信なんてなくなる。自分が信じられないのに他人を信じるなんてできなくて相談も何もできない。信じたいとは思っている。でももしこの人に嫌われていたら?などと考えてしまう。無限ループ、無限ループ、無限ループ。
そもそも何を相談したらいい?人生の根底にある自信の無さ?気力を得る方法?身近な人に相談したらその人の気力を奪うだろう。そして嫌われるだろう。孤立するだろう。近寄ってくるのはきっと弱みに付け込むカルト宗教の人たちだろう。もう嫌だ。
ここまで読んでくださった人、もしくは最初の一行目を読んだだけでブラウザバックした人はみんな思っただろう。精神科に行け、メンタルクリニックに行けと。
そう言われたとて、何を相談したらいいかわからない。昔から病院どころか保健室さえ苦手だった。症状をうまく説明できない。プレゼン能力の無さ。病院の待合室では症状を伝える練習を脳内でぐるぐるするタイプだ。
考えるより行動したいが重い腰が上がらない。もはや家から出るのも怖くなってきた。あぁ、負の連鎖。
さすがに床は体が痛くなってきたのでベッドに移動した。あぁ、このまま眠って、息を引き取りたい。穏やかに死にたい。苦しみたくない。もう、生きるのをやめたい。
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■追記(8/19)
このエントリーに反応をしてくださった方々、ブックマークしてくださった方々、ありがとうございます。
こんな文章、タイトルだけで未読スルーするでしょと思っていたので、まさか反応をいただけるとは…と思い少し驚きました。優しいお言葉をたくさん頂いて、気持ちが救われております。
私は相変わらずの生活です。ここ最近は本当に寝付きが悪くて、寝ている時も心がザワザワと不安になって夜中何度も目が覚めたりしますね……この症状は去年もあったんですが最近ひどくなってきまして… 人生への焦りかな……今も心がザワザワしている
とりあえず前回投稿してから今日までは床に這いつくばって泣いたりしてないので、少しマシになってるといいなと思いつつ生きております。生きてる!!!
生きてるならいいかな なんだかんだ、コロナにならないようにマスクするし手洗いうがいもしているしね。健康第一。
コメントにもありましたが人間いずれみんな死ぬんだから、私も今慌てて死ななくてもいいのかな…。
いまだに希死念慮は拭えず、お世辞にも前向きとは言えない気持ちで日々を過ごしていますが、それでも自分のペースで生きていけたらいいなと思います。今日この時点ではまだ大きな病気も無いですし…。最近、両足の薬指に血豆ができたくらいで。
またいつか、誰にも吐き出せない暗い気持ちの波が押し寄せてきたらここに長文を書きに来るかもしれません。もしくは、次はハッピーな報告でもできたらいいな。
私は、茨城県南のつくばではない市に住んでいる。茨城在住ではない人は茨城について魅力度と納豆ぐらいのイメージしかないだろうが、つくば市は茨城の市というより「筑波研究学園都市」として馴染みがあるだろう。約300の研究機関、2万の研究者を擁し、そのヤバさたるや時に「悪の組織」などと言われるレベルである(実際には多分悪の組織ではない。JAXAの見学とか楽しいし)。秋葉原からつくばを45分で繋ぐつくばエクスプレスが走り、キャンパス敷地内をバスが走るクソやべえデカさの難関国立筑波大学があり、国際会議場があったりもする。茨城にこんな重要そうな場所があっていいのかと思う。
私は、つくば市に原因不明の憧れを持っている。上につくば市の良い(と思われるところ)を挙げたが、それらが理由ではない気がするし、幼い頃から日常的につくば市に行っているのでつくば市への幻想は砕かれていると思う。実際にはホイホイその辺の歩道をロボットが走っていたりはしないし、他の市よりは発展してはいるものの都会を名乗れるほどではないし(なんなら筑波山ふもとあたりはクソ田舎)、国際会議場のレストランの冷やし中華はマズいし、あと交通の便がめちゃくちゃ悪い。つくばエクスプレスはあくまで東京との行き来に便利なのであって、現地民が使うには駅の場所が微妙だし高い。乗ったことないけど通学で使ってた友達がやりづらそうにしてた。あとイーアスへの交通の便も悪い。
それなのに、私はオシャレな街を思い浮かべるとき、渋谷や横浜、名古屋などではなく、曇り空の洞峰公園近くの道路や、日が落ちた後の竹園などを思い浮かべる。3DSのNintendogs+catsの街みてぇな雰囲気のところに住みてぇなと常日頃思っているのだが、それと同じノリでつくばのことが思い浮かぶ。もしかしてつくばってなんかの開発のモデル都市とかになってたりする?よくわからん
自分の住んでいる市が嫌いなわけではない。故郷なわけだしむしろ好きな方。研究学園都市に比べればクソ田舎だが。
田舎者なので先程挙げた渋谷などのようなゴリゴリの都会への馴染みが薄いというのもあるかもしれない。それに比べてつくばの安心感たるや。両親は結婚する前、つくば近郊で働き、つくばのアパートで同棲していた。私は幼い頃はつくばにピアノのレッスンに行き、その発表会をイーアスのホールでやり、シネプレックスつくばに映画を見に行き、国際会議場まで入試を受けに行った。多くの場所がメチャクチャ馴染みがある、かといって自分が住んでる市ほど詳しくはなく、僅かな「特別な場所」感が残っている。つくばは私にとって東京よりも身近な都会なのだ。クッソ高えビルとか巨大な画面のついたビルとかヤバいほど歩いてる人とかに慣れていない私にとってはこのぐらいがちょうどいい。私の家の前歩道の白線すらないし。
これからも世界に羽ばたいてくれ筑波研究学園都市。あとはバス多くしてどっかにアニメイトとかデカめの映画館とか建ってくれたら最高。上映館が少ない映画は柏か水戸まで行かないと見られないことが多いし、シネプレックス死にかけてるし。
住みたいかと言われれば交通の便から微妙だけども、いつか1日かけてつくばをゆっくり見て回る日を設けてもいいかなと思っている。観光名所などではなく、幼き日のピアノ教室だったり、今はもうないアジトオブスクラップの近くのパン屋だったり、母が馴染みだったと言って連れていってくれた洋食屋やケーキ屋だったり。そこで美味しいオムライスを食べながら、受験説明会の時に国際会議場で食べた冷やし中華はクソ不味かったなあと感慨に浸りたい。
客単価が低い
金払いが悪い
対価以上のサービスを求める
まずもって常識がねえし話も通じねえ
自分が正しいと信じて疑わないので根拠を持って話したところで解決にならない、クレーム処理は時間の無駄
「いつも使ってやってんだろ」
1〜2回使っただけでお得意様ヅラすんな
「金払ってやってんだろ」
サービスを受ける対価として代金を支払うのは当たり前だしこっちもボランティアじゃねえんだからそれ以上を求めんな
「慰謝料出せ」
懇切丁寧なサービスに対して根拠のない被害妄想なさるならそもそもサービス受けんな自宅待機してろ
お金に余裕があり、心も豊かで、正当な価値観を持ち、サービスへの対価を正しく評価できるお客様はクレームは絶対に言わない。
常識的なお客様が私たちにお伝えくださるのは、「貴重なご意見」
安物に群がる貧乏人は黙って霞でも食ってろ
日本財団が設営する不気味な大型野戦病院 - 政府は医療崩壊を想定済み 2020-04-08 23:30
tps://critic20.exblog.jp/30978192/
>>病院を一つ新設しようとすれば、病院法に基づく申請と認可の手続きがあり、
>>複雑な書式と審査のプロセスがある。建築基準法の規制もある。開業まで何年もかかる。
>>それらを全てすっ飛ばし、異次元の規制緩和でつくばの山の中に野戦病院が建つ。
>>政府は、ここに9千人の首都圏のコロナ患者を収容する思惑なのだ。
>>そのときは、夏だが、すでに首都圏の借り上げ諸ホテルが満杯状態になり、収容しきれなくなった大量の軽症者が自衛隊車両のピストン輸送で運び込まれるのだろう。
>>おそらく、つくば野戦病院の敷地内には大型の遺体安置所と火葬場が併設され、
Vtuberの台頭からか猫も杓子もテレビゲームで遊んでいるように感じられる。特にここ数年オンライン環境が一気によくなったからか、もはやオンラインマルチという言葉が消えるのではないかというくらい皆マルチプレイゲームで遊んでいる。ように見える。寂しがり屋のクソオタクである自分も例にも漏れずインターネットの友人とオンラインマルチゲームで遊ぶ。
友人と同じゲームで遊ぶのはやはり楽しい。理由は謎だ。興奮や苦楽を共感するということそのものが人間のなにか原始的な欲求を満たすのだろうか。とりわけ対人ゲームにおいては実際のプレーでは苦虫を噛んだような顔をしていることのほうがほとんどの気もするが、それでもやめれず人を誘ってしまう。人がやっていて楽しそうだなと思って始めたゲームもいくらかある。
ただ大抵は自分の腕前と、ゲームをやる際の友人への接し方で悩んでしまう。幼少期の頃に正常な情緒を同世代との交流の中で育まなかっただろうか。
いや、正確にいうとようやく悩めるようになったというべきか。おおくのゲーマーが気狂いであるのと同様に私もそうなので、ゲームに対して「この下手くそが故で地面を這いつくばるような状況から抜け出したい」以外の感情が介入することについて基本的には一切の想像力が働かない、したがって「こうしたらいいよ」とアドバイスすることが裏目に出る状況を基本的に想定できなかった。
無論ゲームに対するスタンスは各個人のそれを尊重すべきであるというのはよくわかる。私も一人用ゲームは基本的に二周目をしたくないので、取り返しのつかない要素などは事前に調べるし、分厚い攻略本を開きながらコントローラーを握ったことさえある。それを「攻略本読みながらゲームやって何の意味がw」といわれる筋合いはないと思っているし、つまりは他人に言える義理もない。さほどストイックでもなく、好きな武器やキャラクター、戦法を採用して、それでやれる範囲でしかしない(そのやれる範囲がどこなのか、という興味は尽きないと言った感じ)。ただゲームに対する自我形成だけはきちんとしているという自認はある。したがって基本的には相手の気分に合わせたいと考えている。例えばその時一緒にやるフレンドが別に向上心のかけらもなく、ただ今からゲームの都合上どうしても行かないといけないクエストにただ一人で行くのが嫌なだけで私を誘っていたとしても、その目的に応じる。私がこのゲームを上手くなるための修行のようなものは別によそでやればいい。そのゲームがうまければうまいほどここに関する余裕を作ることができる。腕前の都合上余裕がなさそうだなとおもったら素直に申告する。
であるため、問題として立ち上がってくるのは、相手のゲームに対する自我がきちっと形成されているかどうかについてはこちらは知りようがないという点に尽きる。
しばしば、女性は相談する時基本的に解決策を求めているのではなく同情してほしいだけ、という話題がのぼるが、根本的な問題点はおそらく同じで、そこに個人の考えを持ち込むなら性別は全く関係ないと思う。自分の不満に対する解像度が高いか低いかそれだけだ。
私は同情のために「相談」を持ちかける人々に対して、さほどマイナスな感情を持ってはいない。調べればより正確な情報がインターネットに転がっていようとも「今の大剣の装備って何が強いんですか?」と仲間内に訊くことも、また一つのコミュニケーションであると理解できる。ただ向こうが外面的にとってきたスタンスと内情が合致せずコミュニケーションがミスマッチを起こした時の処罰が、当人ではなくこちらにむいてくる時が非常に困る。
「どうしたらよかったのか?」「いまのは何故負けたのか?」と訊いてくる友人がいて、そこに素直に自己が分析した理由をぶつけて上手く行くかは、正直言って五分だ。これは理由を聞いたとて解消できるかどうかはその時点ではほとんどの場合わからないのだから、心底同情はする。ただ、(相談を持ちかけられて受諾するような万全の姿勢であればまだしも)ゲームに負け、自身の機嫌もとってやらないといけない中、こう立ち回るとよいよ、まあ初心者にはできなくて当然だけどね、と厚かましく語れば「わかりきったことを何度も言われて嫌になった」「免罪符として下手だとぼやいているだけで上手くなりたいと思ったことなどない」「もう他のうまい人とやったほうがいい」などと嘆かれることもまったくないとはいえないので、はっきりいってかなり参る。
その上で競技性のあればあるほどゲームに関する「腕前」はかなりセンシティブな話題に突入しがちだ。攻略上有利になるための情報を交換するためにつないでいるボイスチャットのその声が頭に入らない、あるいは必要なコールを忘れる、というのはもはやゲームの腕前とは遠い。ゲームによってはマルチタスクを要求されるため、そもそもそこから苦手な人にはそれ自体が苦痛という面もある。ゲームによっては聴覚や視覚、反射神経を問われるような内容もある。電子スポーツと言われるようになっただけあり、スポーツと似たような、悲痛なほど根本的な問題に直面することもある。それこそ「足音を聴くしかない」とか「忘れないようにするしかない」とか「ちゃんと仲間が教えていたんだが……」とか。
私自身も人間的スペックがそう高いわけではなく同じミスを何度もしたり昨日できていたことが今日できていないとかはザラにあるので、結局「そこ」なんだと気づいた時の絶望感といったらない。であるからこそ、他人に指摘する時結局そこしかないのではとおもった時の苦痛も比ではない。
本音を言えば相手が何ができて何ができないのか、なにがしたくて何を求めていないなんて知ったことではない。勝手に自己解決して欲しいし、求める何かがあれば自分から表現をして欲しい。注意が欠落しがちで、マルチタスクが苦手なら、それを自覚してそのように立ち回ってもらいたい。ただし、たとえゲームが上手かったとしても、我々は基本的に気狂いの馬鹿であるためすぐ「そんなの言わずとも当然だと思ってた」みたいな態度をとってしまいがちで、私自身はこれは好ましくないと感じている。それに娯楽を通して自分がどうありたいかなど、簡単に自己分析できることではないだろう。であるため、丁寧にやれることはやりたいと思って実行しているが、パーフェクトコミュニケーションヒューマンではないのでしばしばこういうことになり、メンタルマッチョではないので心に明確な疲労が累積する。
ゲームというのは基本的には報酬があるとわかっている負荷を楽しむものだと感じる。あちらを立てればこちらが立たないという状況を我々は「ゲームバランス」と呼び、基本的には一方的にこちらが有利である状況を好まず、解消し甲斐のある困難を求める。それがいわゆる攻略というものであり、キャラクターや世界観に深く没頭する以外では、我々にとってゲームの話題はこれしかない、とどうしても思ってしまう。したがって我々にとってほとんどの場合、攻略について語るのはその話題しかないからで、別に相手に上手くなってもらわないと困るからということはないと思う。困るとすれば、それはゲーム上の成績云々ではなく、単純に「何か自己が払うコストで解消できそうな悩みに対して行動を起こさずうじうじとし続けている人間」を見続けることに対する純粋なストレス程度だろう。優しくあやしても信じずアーアーヘタデスワといって殻にこもり、かといって攻略を話題にすればうまい人とやりたくないなどと言われる。そりゃあ私だって、初心者に調子にのらせられるようなゲーム展開に持っていけるほど腕があればどれほど気持ちの良いことか。
結局どうして欲しいのかといえば、私とゲームしないのが一番などを向こうは言った。ここで私がその人とゲームをしなければ、私は自分よりうまいやつとしかやらず、身内の下手くそさに辟易して一緒に遊ぶ相手を選ぶ嫌なやつか?他人の腕前も、そこに対する信念の強さも、これほど興味のないこともないのに。向こうの立場に立ってみればそう上手くもないやつが懇々と指示厨してくるので辟易するだろうといったところだが、あの手合いの人間のこちらの対応にあぐらをかいてくるような態度にもややうんざりとしてきた。小学校の時分、友達の家でやったマリオパーティ64をもうちょっと辛抱強くプレーしていたなら上手くやれたのだろうか。よくわからん。
ゲームが上手くなればそのもやもやの半分は解消できる気がしてしまい、ゲームが下手くそでつらいなあ、となってしまうのだった。
少し前に某芸能人が原因で「性風俗オチしなきゃいけないなんてかわいそう!」とネットで話題になった。
自分も性風俗にあまりよくない印象があった(性病とか)ので頷いていたのだが、性風俗で勤務されている複数の方々が「勝手に憐むな、わたしはプライドを持って仕事をしている。お金に困っているから仕方なく就いたわけじゃない」と毅然とした態度で「かわいそう」を否定されていた。
えっ、そうなんだ!と驚いたと同時に、なぜ自分が「性風俗を仕事としている人はかわいそう」という感想を持ったのか思い返してみることにした。
自分は性風俗でお世話になったことはないし、友人親族に性風俗店に勤めている方はいないので性風俗界隈が身近じゃない。漫画やドラマで触れた性風俗店はいわゆる遊郭なので現代の性風俗店とはだいぶ異なるだろう。
じゃあなんでかわいそう?
思い当たるのが性風俗に勤めている方々の実録エッセイやツイートだった。そこに書かれているのは、お金にとても困っていて、親と確執があるためまともな教育を受けられず、惨めな思いをして、ときに性病や性暴力(コースにないプレイを強要など)に苦しみ、底辺だけど地べたに這いつくばってでも頑張っている、性風俗で働いている方々(性別に関係なく)の姿だった。
あ〜…自分がビジネスを真に受け過ぎただけか。実際に苦しむ方々がいないわけじゃないけど、他の職業だって苦しむ方々がいるし(友人が土木関係なのだが脚の骨を仕事で粉砕していてそのレントゲンを見せてもらった。印刷会社に勤める友人はその友人が、ではないけど印刷機に髪が巻き込まれた方のエピソードとか)、どうも自分は「性」というだけで過敏に反応していたのかも。
辛くない仕事はないんだろうけど偏見でさらに他人が「酷い仕事」のレッテルを貼ることはできてしまうから、気を付けないとな…