2020-07-29

ゲームが下手でつらい

Vtuberの台頭からか猫も杓子もテレビゲームで遊んでいるように感じられる。特にここ数年オンライン環境が一気によくなったからか、もはやオンラインマルチという言葉が消えるのではないかというくらい皆マルチプレイゲームで遊んでいる。ように見える。寂しがり屋のクソオタクである自分も例にも漏れインターネットの友人とオンラインマルチゲームで遊ぶ。

友人と同じゲームで遊ぶのはやはり楽しい理由は謎だ。興奮や苦楽を共感するということそのもの人間のなにか原始的欲求を満たすのだろうか。とりわけ対人ゲームにおいては実際のプレーでは苦虫を噛んだような顔をしていることのほうがほとんどの気もするが、それでもやめれず人を誘ってしまう。人がやっていて楽しそうだなと思って始めたゲームいくらかある。

ただ大抵は自分の腕前と、ゲームをやる際の友人への接し方で悩んでしまう。幼少期の頃に正常な情緒を同世代との交流の中で育まなかっただろうか。

いや、正確にいうとようやく悩めるようになったというべきか。おおくのゲーマーが気狂いであるのと同様に私もそうなので、ゲームに対して「この下手くそが故で地面を這いつくばるような状況から抜け出したい」以外の感情が介入することについて基本的には一切の想像力が働かない、したがって「こうしたらいいよ」とアドバイスすることが裏目に出る状況を基本的に想定できなかった。

無論ゲームに対するスタンスは各個人のそれを尊重すべきであるというのはよくわかる。私も一人用ゲーム基本的に二周目をしたくないので、取り返しのつかない要素などは事前に調べるし、分厚い攻略本を開きながらコントローラーを握ったことさえある。それを「攻略本読みながらゲームやって何の意味がw」といわれる筋合いはないと思っているし、つまり他人に言える義理もない。さほどストイックでもなく、好きな武器キャラクター、戦法を採用して、それでやれる範囲しかしない(そのやれる範囲がどこなのか、という興味は尽きないと言った感じ)。ただゲームに対する自我形成だけはきちんとしているという自認はある。したがって基本的には相手の気分に合わせたいと考えている。例えばその時一緒にやるフレンドが別に向上心のかけらもなく、ただ今からゲームの都合上どうしても行かないといけないクエストにただ一人で行くのが嫌なだけで私を誘っていたとしても、その目的に応じる。私がこのゲームを上手くなるための修行のようなもの別によそでやればいい。そのゲームがうまければうまいほどここに関する余裕を作ることができる。腕前の都合上余裕がなさそうだなとおもったら素直に申告する。

であるため、問題として立ち上がってくるのは、相手ゲームに対する自我がきちっと形成されているかどうかについてはこちらは知りようがないという点に尽きる。

しばしば、女性相談する時基本的解決策を求めているのではなく同情してほしいだけ、という話題がのぼるが、根本的な問題点はおそらく同じで、そこに個人の考えを持ち込むなら性別は全く関係ないと思う。自分の不満に対する解像度が高いかいかそれだけだ。

私は同情のために「相談」を持ちかける人々に対して、さほどマイナス感情を持ってはいない。調べればより正確な情報インターネットに転がっていようとも「今の大剣の装備って何が強いんですか?」と仲間内に訊くことも、また一つのコミュニケーションである理解できる。ただ向こうが外面的にとってきたスタンスと内情が合致せずコミュニケーションミスマッチを起こした時の処罰が、当人ではなくこちらにむいてくる時が非常に困る。

「どうしたらよかったのか?」「いまのは何故負けたのか?」と訊いてくる友人がいて、そこに素直に自己分析した理由をぶつけて上手く行くかは、正直言って五分だ。これは理由を聞いたとて解消できるかどうかはその時点ではほとんどの場合からないのだから、心底同情はする。ただ、(相談を持ちかけられて受諾するような万全の姿勢であればまだしも)ゲームに負け、自身の機嫌もとってやらないといけない中、こう立ち回るとよいよ、まあ初心者にはできなくて当然だけどね、と厚かましく語れば「わかりきったことを何度も言われて嫌になった」「免罪符として下手だとぼやいているだけで上手くなりたいと思ったことなどない」「もう他のうまい人とやったほうがいい」などと嘆かれることもまったくないとはいえないので、はっきりいってかなり参る。

その上で競技性のあればあるほどゲームに関する「腕前」はかなりセンシティブ話題突入しがちだ。攻略上有利になるための情報を交換するためにつないでいるボイスチャットのその声が頭に入らない、あるいは必要コールを忘れる、というのはもはやゲームの腕前とは遠い。ゲームによってはマルチタスクを要求されるため、そもそもそこから苦手な人にはそれ自体苦痛という面もある。ゲームによっては聴覚視覚、反射神経を問われるような内容もある。電子スポーツと言われるようになっただけあり、スポーツと似たような、悲痛なほど根本的な問題に直面することもある。それこそ「足音聴くしかない」とか「忘れないようにするしかない」とか「ちゃんと仲間が教えていたんだが……」とか。

私自身も人間スペックがそう高いわけではなく同じミスを何度もしたり昨日できていたことが今日できていないとかはザラにあるので、結局「そこ」なんだと気づいた時の絶望感といったらない。であるからこそ、他人に指摘する時結局そこしかないのではとおもった時の苦痛も比ではない。

本音を言えば相手が何ができて何ができないのか、なにがしたくて何を求めていないなんて知ったことではない。勝手自己解決して欲しいし、求める何かがあれば自分から表現をして欲しい。注意が欠落しがちで、マルチタスクが苦手なら、それを自覚してそのように立ち回ってもらいたい。ただし、たとえゲームが上手かったとしても、我々は基本的に気狂いの馬鹿であるためすぐ「そんなの言わずとも当然だと思ってた」みたいな態度をとってしまいがちで、私自身はこれは好ましくないと感じている。それに娯楽を通して自分がどうありたいかなど、簡単自己分析できることではないだろう。であるため、丁寧にやれることはやりたいと思って実行しているが、パーフェクトコミュニケーションヒューマンではないのでしばしばこういうことになり、メンタルマッチョではないので心に明確な疲労が累積する。

ゲームというのは基本的には報酬があるとわかっている負荷を楽しむものだと感じる。あちらを立てればこちらが立たないという状況を我々は「ゲームバランス」と呼び、基本的には一方的こちらが有利である状況を好まず、解消し甲斐のある困難を求める。それがいわゆる攻略というものであり、キャラクター世界観に深く没頭する以外では、我々にとってゲーム話題はこれしかない、とどうしても思ってしまう。したがって我々にとってほとんどの場合攻略について語るのはその話題しかいからで、別に相手に上手くなってもらわないと困るからということはないと思う。困るとすれば、それはゲーム上の成績云々ではなく、単純に「何か自己が払うコストで解消できそうな悩みに対して行動を起こさずうじうじとし続けている人間」を見続けることに対する純粋ストレス程度だろう。優しくあやしても信じずアーアーヘタデスワといって殻にこもり、かといって攻略話題にすればうまい人とやりたくないなどと言われる。そりゃあ私だって初心者調子にのらせられるようなゲーム展開に持っていけるほど腕があればどれほど気持ちの良いことか。

結局どうして欲しいのかといえば、私とゲームしないのが一番などを向こうは言った。ここで私がその人とゲームをしなければ、私は自分よりうまいやつとしかやらず、身内の下手くそさに辟易して一緒に遊ぶ相手を選ぶ嫌なやつか?他人の腕前も、そこに対する信念の強さも、これほど興味のないこともないのに。向こうの立場に立ってみればそう上手くもないやつが懇々と指示厨してくるので辟易するだろうといったところだが、あの手合いの人間こちらの対応にあぐらをかいてくるような態度にもややうんざりとしてきた。小学校の時分、友達の家でやったマリオパーティ64をもうちょっと辛抱強くプレーしていたなら上手くやれたのだろうか。よくわからん

ゲームが上手くなればそのもやもやの半分は解消できる気がしてしまい、ゲームが下手くそでつらいなあ、となってしまうのだった。

  • ゲームじゃなくて人間が苦手なだけだった

  • キチガイはタイマンのゲームやるのがもっとも平和的な解決だと思う

  • マリオメーカーで作った難しいコースを何日もかけてどうにかこうにかクリアして公開したら 2週間後に見たらクリア率80%超えてた時の情けないやら悔しいやら絶望するやらがごちゃ混ぜ...

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