要するにジブリで働いていたということだけが自慢の人なんだろう。
ジブリで宮崎や高畑の近くで働いたことがあるんだぞ!というのが自慢の種、飯の種なんだよ。
そういう人が宮崎駿という人をある意味で矮小に描いたドキュメンタリーを見たときに怒りを覚えるのはわかるような気がする。
宮崎駿は神であってくれねばならないんだ、そういう人にとっては。
でなければ、神の側近くで侍っていたということが自分の存在価値である人間にとっては大いなるダメージなのだ。
媚びへつらう。
ということを彼は批判している。
実際に媚びへつらっているのかどうかは知らない。
でも媚びへつらってあの映像が撮影できるなら幾らでも媚びへつらってやる、と思わねばドキュメンタリーなんて制作できないだろ?
なぜそんなことが理解できないのだろうか?
あの映像があるおかけで、大叔父というキャラクターが高畑勲を描いたものであるというのが実感を持って理解することが出来た。
例えば、書籍や雑誌などで鈴木敏夫がインタビューに答える形で、いや実は大叔父っていうのは高畑勲を描いたものなんですよ、と発言していたとしてもピンとは来なかっただろう。
しかし映像の中で宮崎が絵コンテを見せながら、これパクさんに似てるでしょ、と嬉々としているのを見せられれば1万字の文字で説明されるよりも遥かに伝わるものがある。
あの映像は貴重なんだ。
その貴重さがなぜ理解できないんだろうか?
その貴重なものを撮影するための手段として、媚びへつらいが必要ならなんぼでもやってやる、と思えなければ人に何かを伝えることなんて出来ない。
多分そういうところを理解できない人は創作というものは出来ない。
ものを作るということは並大抵のことじゃないんだ。