はてなキーワード: TVとは
1995年は私が美大に入学した年で、テレ東の夕方のアニメでも、日曜の朝のアニメでも話題にできる環境にいました。
だから、どっぷりエヴァに浸っていた。学食でエヴァの話ができる環境なのです。
まあ、美大生なのに他人様が作った作品をどうのこうの言っている状態は、意識高い系の美大生からするとガキっぽかったかもしれませんが、まだ1年生ということもあって、それはそれで楽しかった。
そして、TV版の終盤のグダグダ。でも、そのグダグダさえ楽しかった。
限られたテレビという時間の中ではよくあることだし、終盤おかしくなっていくアニメなんて沢山ある。
しかし、TV放送終了後に、なぜか話題になっていくエヴァ。時代はルリルリではないのか?
そして、劇場版。
TV版の総集編を映画館でわざわざ観させるって凄いなと思ったし、わざわざ観たくないと思った。
期限内に終わらせられなかったら、どんなに素晴らしい作品でもボツではないのか?と。
いや、美大生化は違うかも。こいつスゲーなというようなやつは、よく期限内に提出できなくて、
先生に頼み込んでなんとか時間を伸ばして仕上げてくるやつで、単に私がそういうやり方が嫌いだっただけかも。
そういう、交渉してまで作品にガッツク根性的なものに対する嫉妬だったかもしれない。
その後、就職氷河期世代となった私は、職を何度か変えながら、今はMacで何かを作る仕事をしている。
まあ、私の名前が出るような作品もなく、何者にもなれていない私ですが、何とか食っていけています。
ここ10年ぐらいは、日本酒にハマっていますが、エヴァのTV版再放送に獺祭が出てきたときは引いた。
気持ち悪い。
最近は、アマプラでヱヴァを観ました。別の世界線の話なのだろう。
TV版終了後に持て囃していた人たちは、このリメイクをどう観るのだろうか? 私は蛇足でしかない感じた。
いや、別の監督によるヱヴァの世界だったら楽しめたような気がする。
同じ監督が作るから、その作品を見るときに、わざわざ記憶に残るエヴァを引っ張り出し、
ダラダラと、書き連ねていたら、わかってきた。
この抵抗感は、多分、TV版当時の楽しかったモラトリアムな時間の記憶と共にエヴァがあるからなんだろうと。
当時の私のPowerMac 7500の起動時には、アスカのエヴァ起動時のドイツ語が流れ、
システム終了時には、ミサトさんが「メインケーブル切断!」と言っていたし、
エラー音は、伊吹マヤの「不潔」だったり、リツコの「探しても載ってないわよ」だったりした。
エヴァ一色だったわけではなく、高校受験と大学受験とで、いろいろオアズケになっていた90年代のガンダムを観まくったし、
ガンプラや戦車のプラモデルも作っていたし、FSSのガレージキットにも手を出していた。
コスプレをする気はなかったけど、ミシンを買って、丈の長いシャツを作ったり、
SC-88Proを買ってDMTやったり、ギター買ったりキーボを買ったり、
フイルムカメラを買ってユニットバスを暗室にしてモノクロ現像したり
バイト先の女子にも手を出して、飲みに行ったり、私の部屋で手料理をふるまったり。
受験というものから開放され、3年生の後半ぐらいから意識しだす就職というものまでの、2年半のモラトリアム。
ただただ充実していた。自分の中では超満足している。
だから、いちいち戻りたいとも思わないし、やり直したいということもない。
ただ、話題のシン・エヴァンゲリオンは楽しめるのではないかと思っている。
そして、一緒に酒を飲みたいかも。
長文じゃないので安心してほしい。
最近シンエヴァが劇場で公開され、つい先ほどNHKで庵野秀明氏への特集(という言い方で良いのか)が放映されたらしい。
エヴァはTV版から現役リアルタイムで見始め、劇場版はQまでは全て劇場で見ている。
ただシンエヴァもNHKの特集もまだ未見である、という前提で。
庵野氏や宮崎氏などを始め人格がアレだとか命を懸けてどうこう、などという感想が
twitterで延々流れてきていてなんというかもやもやとイライラとなんとも言えない感情が混ざって
仕方ないのでここに吐き出す事にする。
宮崎氏などはよく言われているがプロダクトの為に酷い事をする、無計画で人を犠牲にする、などと
言われ作り上げるものは素晴らしいが人間としてはどうなんだ、というような事がよく言われている。
でこれに関して毎度思う事なのだが自分のエゴを最大限投影し、人を生贄に捧げる事を酷いと
優れたプロダクトの為に自分や人を生贄にしなければ作れないからそうしているだけなのだろう。
もっといえば宮崎氏や庵野氏(他にもそういう人はいると思うが)ですらそこまで生贄を
積上げないとそれだけのプロダクトは作れないという事が現実としてあるだけだろうに。
人格がアレだとか酷いとか言う奴はそもそも何かどうしようもない大事な事の為に
もっといえば「本当に大事な事の為」という瞬間をまだ知らない、見た事がない、
多分見えない目が悪い連中なのだと思う。
どうしようもなくコレ!というものが目の前にあった時に自分と他人を数人生贄に
捧げる事でそのプロダクトが完成するぞ、と確信を得られたとしてその選択を取らない
人間がどれだけいるのだろうか。
更に言えばそこで生贄を積めない人間はプロダクトに対して果てしなく不誠実な人間だと自分は思う。
人生においてこれだというものを作れる機会、作れる人がどれだけいるのか。
それが見える人間と見えない人間の絶望的な差がそこにありそれが見えない人間が
草を生やしながらやいやい言っている姿を見るのが辛い。
止めろとは言わないが辛い。
自分はそこまでの能力は当然ないが「そうあるべき」という姿自体は見た事があるので
それを強く思っている。
必要な時は自分を、周囲の人を生贄に捧げてでも目的を達する人間であってほしい。
そういう人がもっと増えてほしいなと思っている。
ホッテントリになってる早稲田の人研のインタビューで書いてるように、
鏡を見ても「現実の自分と理想の自分の乖離」みたいなのを感じない人は問題ないんだよ
でも、その身の丈を自覚してないというか、山月記の肥大した自尊心というか、
「現実を見ろ」「俺が用意した鏡を見ろ」
とは言ってるんじゃないかと思うし、それはそれで自戒を込めてだったり、
ちょっと嫉妬というか、悪い言い方をするなら、庵野氏は優れすぎてたんだよ
それは「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」の前からすでにそうだったと思う
なんというか、はしゃいでるオタクとか、若い世代とか眺めては、
そこは俺がとっくに通過した地点であって、おまえら甘いなあ、
みたいに思ってたと思うし、
シンエヴァは知らんけど、旧劇とホッテントリのインタビューを読んで、
非常に面白いと思うんだけど、どこか自惚れというか、そういうのも感じられる
謙遜しているけど、庵野氏自身としては最善を尽くして出し切った感があっただろうし、
内容に対して、BBSなどで「庵野○ね」みたいに書かれて腹立ちもあっただろうけど、
内心は「勝ったな…」「ああ…」だったと思うんだよなあ
ちょっと話が脱線するけど、Amazonなりネットのレビューを見ていて面白いのは、
例えば「主人公が酷い目に逢いすぎるので☆1つです」みたいな評価を下す人がいて、
視聴者や読者の感情を作品で操作できてる時点で「作者の勝ち」だと自分は思っていて、
まあ、それは炎上マーケティングと似て非なるものだとも思うんだけど、
つまり、毒にも薬にもならないぐらいなら、猛毒を盛った方が作品としては面白い
というか、不愉快であれ、胸くそ悪いであれ、印象には残るわけだ
印象に残らない作品よりはよっぽどいいと思う
あるレベルを越えるとマスの客は単に不愉快なので逃げてしまって、露悪趣味の客だけ残ってしまうわけだけど、
それはそれでニッチを狙ってるともいえるわけだけど、売れる作品ではなくなってしまう
話を戻すと、現実を見ろ云々だけじゃなくて、庵野氏としては天然か意図的かは知らないけど、
それは上述したように、毒を混ぜないとつまらない作品にしかならないから
だから、「現実を見ろ」という主張をエヴァには混ぜたけど、他の作品には混ぜてないかもしれない
それは庵野氏にとっては主張自体もどうでもいいというか、それも作品を盛り上げるためのスパイスでしかない
庵野氏自身は「現実を見ろ」と昔から深くは考えていないのかもしれないけど、
エヴァに「現実を見ろ」という主張を混ぜたら、観客はどう思うかな?炎上するかな?
そういう作中に作者が込めた意図的な挑発に単にのる人は、作品にのめり込み過ぎてる人、つまり、現実を見ろの対象であって、
そうではなくて、作り手側の立場で考えられる人はエヴァのラストもそんなに怒らないと思うんだよね
自分で言うのもなんだけど、自分もエヴァのラストには怒らなかった
というか、TVの25、26は作画崩壊ネタにも思えたし、エヴァはループしてラブコメになってるのも良かった
「え?ここまで視聴者を引っ張り回して、なんの謎も解決しないまま、全部夢オチというか冗談でしたで終わっちゃうの?」
と怒る人は怒るんだろうけど、
なんかそれがガイナックスらしさというか、DAICONフィルムらしさというか、まあ、無責任だとは思うんだけどw
結論としては、庵野氏自身に「現実を見ろ」という信念みたいなものは多分ないんだと思うんだけど、
エヴァに敢えて「現実を見ろ」という演出を込めたら、BBSに「庵野○ね」とか書いてる奴らは顔真っ赤にするかなあ、
だから、そこを楽しめる人でないと怒るんだと思うんだよなあ
あと、自主制作の帰りマンも庵野氏がウルトラマンやっちゃってるけど、あれは自主制作だから許されるんであって、
流石の庵野氏も円谷プロからも依頼されたシンゴジラでは、そういうことはやらんわけだよ、当たり前だけど
でも、自分としては円谷プロは今の東京オリンピックと同じように、お家騒動とかでゴタゴタして会社は傾かせるし、
インタビューで、今のウルトラマンは過去のウルトラマンのメタファーでしかない、みたいに言ってるように、
あの辺が限界だったんだろうなあとか、庵野氏は大人になった、丸くなったんだなあ、とか思って、
それがちょっとつまらない一因でもあったんだけど、まあ仕方がないとは思うんだよね
インディーズで売れない時代にライブで負傷者を出すようなステージパフォーマンスがあってもいいけど、
というか良くはないけどw
売れて日本でいうならミュージックステーション?に頻繁に出るぐらいの知名度を得たのに、
インディーズ時代のノリでステージパフォーマンスで負傷者出したら、マスコミとかに叩かれて消えてしまうだけだと思う
だから、シンウルトラマンも庵野氏がウルトラマンになることは絶対ないんだろうけどw
インタビューで語ってたように、初代ウルトラマンって沖縄問題とかイデオロギーとかのメタファーだった、
どっちかというと左翼的というか、学生運動的な臭いもあったと思うのだけど、
彼なりの初代ウルトラマンのようなイデオロギーのメタファーのウルトラマンが観れるんだろうなあと期待はしてる
ただ、自分としては上述したように、初代ウルトラマンのイデオロギー、左翼的とも言える面は面白いんだけど、
プロ市民とまではいわないけど、普段から少しはそういうことをぼけっとでも考えている人なら、
初代ウルトラマンみたときに、あー、難民問題みたいなもんだよな、バルタン星人、とか思ったりするわけなんだけど、
当然、子供はそんなこと考えないで構わない、正義が悪を倒すのを観て消費してくれればいいし、
大人になって改めて観て、初代ウルトラマンを作る側が何を考えていたのか、意図してたのかを考えてみるのもいい
というか、そういうイデオロギーを作品にスパイスとして込めておくことで、そういう奥深さが演出できる
そこに意味を持たせすぎると、「〜するべき」みたいなべき論を伝える説教臭い作品になるわけで、
そこから視聴者それぞれが自分勝手に自分の人生と重ねたり色々自由に考えて自由な感想を持ってくれて構わないと思うんだよね
だから「現実を見ろ」も庵野氏のスパイスのあくまで一つであって、それは昔から使っていたのかもしれない
使ってても視聴する側が気が付かないだけということもあるし、それはそれで構わないんだと思う
面白くない、というか酷い出来というのが正しいと思う。
シンジが着替えの服にトウジの名前を見つけて察するシーンも、崩壊した世界を見てパニックになったのはなんだったんだ?
カヲル君が「贖えない罪はない」と慰めるシーンの意味も変わってこない?カヲル君ひょっとして第三村の存在を知らなかったの?
知らないと結論するしかないんだけど、ゲンドウに次いで世界を理解してる感じのカヲル君が人間の生き残り(それもシンジの友人たち)の存在を知らないってある?
第三村での描写は「絶望のシンジを立ち直らせるには自然の中で1時間くらい使えば納得するでしょ。」という演出の都合みたいなものしか感じられなかった。
黒綾波が死んだ時も「ああ死亡フラグ積み重ねてたから回収ね」って感情が動かなかった。
同じ1時間を使うなら、もっとシンジの内面を描いてほしかった。
第三村も生き残りも無しにして、3人が壊滅した街をずっと何日も移動する話にして良かった。
シンジが生きる気力は無いけど飢えでレーションに自分から手を出して「死にたいけど生きようとしてしまう」って流れで似たようなこと出来たと思う。
黒綾波の死がピンとこないのは一緒に過ごした時間が少ないからで、3人で寝食を共にするというエピソードがあったら心に響いたのではと思う。
シンエヴァは全編通してラストから逆算して作ってるからキャラの心情描写とか展開に粗が多い。
「エヴァを完結させるにはこうするしかない」って意図や計算が見える演出ばかりだった。
アスカがケンスケと付き合ってるという話も納得するところはあるけど、それより「制作の都合でそういうことにされてしまった」感がある。
最後のシンジとマリは「こうするしかないよね」と言われたら、はいそうですねと返すしかない。
最終決戦前に銃で撃たれるシンジとかばうミサトさんという下りは何のために?と思った。そもそもピンク髪のクルーはQでは「自己中な最近の若者」
って描かれ方だったのがシンで急に「家族のかたき!」って殺意向けるのが唐突に感じる。
トウジをニアサーで死んだことにして、桜に銃持たせて「命の恩人であると同時に兄のかたき」みたいにしたほうがすっきりしない?
シンジがエヴァに乗るための禊の儀式なんだろうけどそもそも必要ないと思う。
というかピンク髪の「超ヤバー」とか若者言葉のセリフもそうなんだけど、序破Qシン通して何?この世界観から浮ついたセリフって感じるのが多かった。
マヤの「これだから若い男は」もあとで回収するためだけのセリフだったし。しかも特に感動しない。
ぽかぽかって言う綾波もバズりたい!名台詞にしたい!って意図しか感じなかった。
アスカが「バカシンジ」「コネメガネ」とかマリが「姫」「ワンコくん」って呼び方も軽くイライラしてた。
ここぞ!ってときに本名で呼ぶだめの前フリなんだけどしつこい。
後半、ミサトさんの特攻はなんか変だと感じた。「これから特攻するので、総員退避だけど艦長だけ残ります」って事前アナウンスだとこれから死にます自殺します感が大きい。
「総員退避しました→あいつが居ない!→まさか…!?」みたいな流れが鉄板だけど効果的じゃなかったのか。
ゲンドウとの戦いで背景が撮影所になるシーンでぞっとした。そういう演出はTV後半があって旧劇もしつこいくらい精神内面描写があったから良かった。
新劇の演出でやると酷い違和感しか感じない。なんかどこかのタイミングでシンジが客席に向かって「映画を見てるみなさん!僕に力を貸してください!」
とか言いそうで怖かった。
シン詰まんなかったって書くと「じゃあどんなのが良かったんだよ」って返されるけどそれは俺の仕事じゃない、と思いつつ考えると、神様が出てくる話でよかったのでは。
エヴァ考察では使徒と人間を作った神的な存在があると指摘してるものもあったので、最初はネルフVSヴィレだったのが、人類VS神という展開になるって話。
ゲンドウとシンジの関係は共闘を通して修復される。Qで出てきた新クルーも活躍できる。というかそのためにあんなキャラ増やしたのでは。
最終決戦で話が全宇宙、全銀河レベルになって視聴者置いてけぼりなのはグレンラガンでもトップでもアベノ橋でも旧ガイナックスの18番だし。
シンは公開日初日に見て酷いという感想だったんだけど、今のところ評価する感想が多くて居心地が悪かった。これだけ書けて満足でした。
先週シンエヴァを観た
・旧劇場版2作、新劇場版序破Qは観たがそれぞれ1回ずつしか観てないので細かい設定は覚えてない
【雑感】
・まずは「無事に終わってよかったなぁ」という感慨が何よりも先にあって、シンジ君が成長して声変わりするとかマリとくっつくとかに関しては「そうなんだー」って感じで特に異論はない。無事に終われない可能性だっていくらでもあったんだしそれに比べればなんぼか
・子どもがレイに渡した絵本が『オチビサン』ってそういうとこだぞ庵野お前ホントそういうとこだぞ
・バンダイはワンダースワンとGUNPEYのセットを販売してください(アスカカラーの赤で)
・人間ドラマ苦手なのに無理をするから長台詞になりがちなのはしょうがない
・QのCG(特にヴンダーまわり)がわりとしょっぱいなー、でも時間なかったっていうからしょうがないかなーと思ってたけど9年後のシンエヴァもCGわりとしょっぱかったので時間のせいじゃなかったのかなーって
・後半はまぁ書き割りってことでわざとちゃちい感じの戦闘シーンにしてるのかとも思ったけどどうなんだろうね
・ていうか終盤ほぼギャグだよね、ドクロの顔のエヴァとか首なし白素体がゾロゾロ歩くとことか笑うとこだろ
・ミサトさんは死んだ旦那の名前そのまま息子につけたりしないやいって思っちゃう
とはいえミサトさんがシンジくんを庇って撃たれたら自動的に涙が出るし最終的には「無事に終わってよかった」「おめでとう」「おめでとう」「ありがとう」という感じではあった
なんだかんだで楽しめたので25年分の供養にはなったと思う
学ばせることができるのは○○したら自分が損するということだけ
でも○○したら自分が損するさえ子どもが学べれば社会ではやっていける
そのことを真摯に見つめないと不幸なことになる
CU特性とは?
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-23659359/23659359seika.pdf
「CU特性」とは,ニューオーリンズ大学のフリック博士が提唱しているCallous-Unemotional Traits の日本語訳です.フリック博士によれば,CU特性はサイコパスとも関連のある特性で反社会的行動を表す児童に特徴的なものだとしています.また,注意欠如多動症(Attention Deficit / Hyperactivity Disorder; ADHD)との関連も報告されています.
赤ちゃんには道徳心も仲間意識(差別意識)もあるぞ
科学読み物やTVで取り上げられた有名なのはこれ。イェール大学のヤツ
下記はイェール大学の乳児認知センターで公開している実験の動画
[Yale University] The Infant Cognition Center: Research in Action
他に科学読み物で取り上げられてたのはワシントン大学のこんなのとか
- 赤ちゃんは公平さを好むが、自分たちがより利益を得る場合には、公平さはそれほど重要視しない
- 白人乳幼児40名に研究者2名がおもちゃを配った。1名はおもちゃを公平に、もう1名は不公平に分配した。
その結果、70%の乳幼児はおもちゃを公平に分けた研究者をより好んだ- 実験対象にアジア人と白人の乳幼児を混ぜ、その中の何人かの白人乳幼児に、より多くおもちゃを配るという実験をした。
その結果、前の実験結果とは異なり、白人の乳幼児は「自分たち」をひいきする「不公平な」研究者をより好んだ[Frontiers in Psychology] I“I pick you”: the impact of fairness and race on infants’ selection of social partners
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2014.00093/full
○ その親切な行動、50%が遺伝!?
あなたはどのくらいバスで席を譲ったり、募金をしてますか?「親切さ」にも様々ありますが、今回ご紹介するのは見ず知らずの人に対しての親切さ(利他的行動)です。
バスでお年寄りや妊婦さんに率先して席を譲る人もいれば、寝たふりをしてしまう人もいますよね。
見ず知らずの人にどのくらい親切に振る舞うのかには、大きな個人差があります。これは、生まれもったものなのでしょうか?それとも、成長の過程で身に着けるものなのでしょうか。
研究によると、見ず知らずの人に対する親切さは、50%が遺伝要因による先天的なもの、50%が環境要因による後天的なもので形成されているそうです。
他人に対する考えや行動も遺伝するの!?と驚くかもしれません。しかし、他にも「他人に共感する(empathy) 」は、70%が遺伝要因によるという報告があります。
研究の結果、ドーパミンの代謝に関わる「COMT遺伝子」のrs4680というSNPが「G」である人は、「A」である人よりも、自分が持っている金額に対して高い割合の金額を募金する、つまりより親切に振る舞うと分かりました。
というSNPにはGG,GA,AAの遺伝子型がありますが、日本人平均と比べると
[mycode]
(当たり前の例)
[Psychology] Anxiolytic Treatment Impairs Helping Behavior in Rats
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2016.00850/full
[Current Biology] Harm to Others Acts as a Negative Reinforcer in Rats
https://www.cell.com/current-biology/fulltext/S0960-9822(20)30017-8
日本語記事:「誰かを助ける」のに理由はいらない(哺乳類なら):研究結果 (WIRED)
https://wired.jp/2016/07/01/rats-empathy/
シンエヴァの感想を色々読んだ結果、どーしても文章として感想を残しておきたくなったので、この文章を書こうと思うよ!
ボクがガンダムシリーズで1番好きなのはVガンダムで当時ガイナックスは制作のお手伝いをしていたようです。
エヴァの話じゃないの?って思うかもだけど まあちょっと付き合ってもらいたいかなぁ
Vガンダムは鬱だった富野御大総監督で制作されたガンダムで、御大はめっちゃ嫌ってるらしく
DVDBOXには「 買ってはいけません!!」とか書いてあったりする。
富野御大は嫌っていても個人的には御大の最高傑作だと思うし、多分御大自身 二度と作れないと思う作品 それがVガンダム。
Wikipediaによると庵野くんはVガンダムにハマってて ボクの記憶だと確かニュータイプに寄稿してた気もする。(うろ覚え)
なんでエヴァの話でVガンダムの話になってるのかって言うと ボクが思うに庵野くんはVガンダムに触発されて
自分自身の世代を”コピー世代の最初”と思っている庵野くんに、多大な影響を与えたんじゃないかな。
自分自身のオリジナルといえる物語を作りたくなったんだと思う。
エヴァでオリジナルな物語を作ろうとしたとき、庵野くんは自分の中に伝えたいなにかを見つけることができなかった。
だから唯一持っていた自分自身というオリジナルをエヴァに投影してしまった。
自分自身を切り刻みながら作った映像は人を惹きつけたけど、最後まではできなかった。
TV版エヴァはそうして最終回を迎える。きっと後悔したんだと思う。自身を差し出してまで作った映像を完結させられなかったことに。
もう一度終局するため作った旧劇版エヴァは確かに物語を終わらせたとボクは感じていたから
そして新劇版エヴァはシン・エヴァンゲリオンを持って完結しました。
ボクはTV放映前からエヴァをかなり楽しみにしていて、東京ゲームショウのガイナブースに行ったりもした。
父親が家を購入して引越しのタイミングが初回放送と重なってて録画できないじゃん!ってかなり怒ってた記憶がある。
結局録画できたんだけどねw
あの頃からシンエヴァ完結まで随分月日が経ったなってホントに実感する。
ボクがシンエヴァを観に行ったのは庵野くんが経た月日、ボクが経た月日がどういったものだったのか
確認したくて観に行きました。新劇を作るってことはきっと、あの時とは違うなにかを観せてくれると思ったから。
ボク自身がそれをどう感じるのか知りたくて。とても楽しみにしてました。
庵野くんよかったねって思うとなんでぼくにありがとうになるの?
シンエヴァの感想を色々読んだ結果、どーしても文章として感想を残しておきたくなったので、この文章を書こうと思うよ!
ボクがガンダムシリーズで1番好きなのはVガンダムで当時ガイナックスは制作のお手伝いをしていたようです。
エヴァの話じゃないの?って思うかもだけど まあちょっと付き合ってもらいたいかなぁ
Vガンダムは鬱だった富野御大総監督で制作されたガンダムで、御大はめっちゃ嫌ってるらしく
DVDBOXには「 買ってはいけません!!」とか書いてあったりする。
富野御大は嫌っていても個人的には御大の最高傑作だと思うし、多分御大自身 二度と作れないと思う作品 それがVガンダム。
Wikipediaによると庵野くんはVガンダムにハマってて ボクの記憶だと確かニュータイプに寄稿してた気もする。(うろ覚え)
なんでエヴァの話でVガンダムの話になってるのかって言うと ボクが思うに庵野くんはVガンダムに触発されて
自分自身の世代を”コピー世代の最初”と思っている庵野くんに、多大な影響を与えたんじゃないかな。
自分自身のオリジナルといえる物語を作りたくなったんだと思う。
エヴァでオリジナルな物語を作ろうとしたとき、庵野くんは自分の中に伝えたいなにかを見つけることができなかった。
だから唯一持っていた自分自身というオリジナルをエヴァに投影してしまった。
自分自身を切り刻みながら作った映像は人を惹きつけたけど、最後まではできなかった。
TV版エヴァはそうして最終回を迎える。きっと後悔したんだと思う。自身を差し出してまで作った映像を完結させられなかったことに。
もう一度終局するため作った旧劇版エヴァは確かに物語を終わらせたとボクは感じていたから
そして新劇版エヴァはシン・エヴァンゲリオンを持って完結しました。
ボクはTV放映前からエヴァをかなり楽しみにしていて、東京ゲームショウのガイナブースに行ったりもした。
父親が家を購入して引越しのタイミングが初回放送と重なってて録画できないじゃん!ってかなり怒ってた記憶がある。
結局録画できたんだけどねw
あの頃からシンエヴァ完結まで随分月日が経ったなってホントに実感する。
ボクがシンエヴァを観に行ったのは庵野くんが経た月日、ボクが経た月日がどういったものだったのか
確認したくて観に行きました。新劇を作るってことはきっと、あの時とは違うなにかを観せてくれると思ったから。
ボク自身がそれをどう感じるのか知りたくて。とても楽しみにしてました。
最近、人の外見を揶揄するのはよくない、という話題をよく見る。
自分の外見にコンプレックスがある身として喜ばしいことだと思うが、現実でその考えがすぐに浸透するわけでもなく、私も思うところがありここに書いてみた。
TVを見ているとき、祖父は何かと出演者の外見を話題に上げる。
やれ「あの人は太っていて醜い」だの、「どうも顔がブサイクだなぁ」だの。
バラエティでもニュースでもスポーツでも、どの番組も同じように、他人の外見をあげつらう話題ばかりで、
私自身、そういう話題が苦手なこともあり家族団らんの時間がちょっと不快だ。
コロナで学校以外の外出も減り、家族でいる時間が増え、祖父のそういった発言を耳にする機会が増えているので困っている。
でも困っていても仕方ないので、どうして祖父が他人の外見ばかり話題にするのかを考えてみた。
思うに、祖父は耳が悪いが故に、話を聞き取る、言葉を理解する力が落ち、テレビを見ていても字幕だけでは内容に追いつけず、かろうじて挙げられる話題が「出ている人の見た目」についてだけなのでは?
もちろん、補聴器は所持しているが、耳がキンキンするだのと言ってあまり使用しない。
以前補聴器の増田を読んだこともあり、せっかく高いお金を払っているのだからちゃんと補聴器のサポートに通ってみては?と言っているのだが行ってくれない。
まだしばらくこの状況が続くと思うので、なんとか改善したい。
TV版、旧劇場版を全く見たことなくて序破Q→シン・エヴァだけを見た人間のネタバレ感想です。
序を見てみようと思ったきっかけは覚えてない。最初から話を語り直すよという点が後発組としては見やすいというか、せっかくだから見てみるか!くらいの軽い気持ちだったんだと思う。
序の感想は「あれ、思ったよりも全然わかりやすい?」だった。もっと難解な話だと思ってたので、意外にとっつきやすくてびっくりしたし、何より絵が見てて楽しい!戦闘シーンにワクワクした。
破の感想は「あれ!?なんかめちゃくちゃ面白くない!?」だった。爽快感があった。ウジウジしてることで日本一有名な中学生のシンジくんが、アスカとレイと協力して使徒を倒してて感動したし、ラストシーンは自らの意志でレイを救うために突き進んでて、そんな明確な自我の発露できる子だったんだ?!ってびっくりした。あそこでかかる翼をくださいは怖かった。
でも、Qの感想は「…やべえ何だコレ全然わかんねえ!」だった。まじで一気に何もわからなくなって、シンジくんばりに放り出された気分になった。ピアノ弾いたことないはずなのにがっつり連弾できとるの嘘やろ?になって笑ってしまった、カヲルくんとのピアノのシーンばっかり印象が強くて、あとは正直なにも覚えていない…!
そして今回のシン・エヴァの公開。インターネットが考察や感想で賑わいまくっていて、せっかくならネタバレを経ずにちゃんと見たいなと思い、映画館に行くことを決める。そしてあまりにも話を忘れていることに気づいたので、まずはもう一度序破Qを全部復習した(まじで大半を忘れていたので、見てよかった)。
9年ぶりのQはやっぱしんどかった。見ててとにかく「ディスコミュニケーションは本当に良くない」ってそればっかり思った。シンジくんには、本人にはどうしようもない14年間の空白があるのに誰もそれを埋めてくれなくて、突き放したり否定的な言葉を投げつけるばっかで、ようやくすべてを説明してくれたのはよく素性を知らないカヲルくん。とにかく優しい彼にすがるように何か前に進まなきゃ!ってなるシンジくんだけど、あろうことかカヲルくんは目の前で首ぶっとんでしんじゃうし、あまりにもひどすぎる。いや誰かもっと序盤で説明したれよ!みんな、頼むからもっとコミュニケーションをとってくれよ…。でも、「たぶんそういう『他者とのコミュニケーション』がままならないゆえに苦しんでいる話だよな…それをいっちゃあおしまいだよな…」って思って、最後に何を見せてもらえるのかを待とう、って改めてQを見直しながら決意。
そうして復習してから見たシンエヴァなんですが、すごく面白かったです。そして冒頭に、「これまでの新劇場版」を丁寧に振り返る数分間があってずっこけました。復習タイムのいらない親切設計だとは知らなかった。
今回、一番の感想としては、先述の「ディスコミュニケーション」が徹底的に解決されていたところにとても感動したというか、安心させてもらえた。
ものすごく真正面から、愚直過ぎるのでは?って思うくらい丁寧に、他者とのコミュニケーションの有り様が描かれていて、見ていてこちらまで肩の荷が下りた気持ちになった。
まず第3村の描写、あれこそがずっとシンジくんに足りなかったものだと思った。どうしようもなく傷ついて一人でいたいとき、突き放さず、過剰に干渉せず、でも一人きりにはしないあの距離感。大人になったトウジやケンスケ、内面は大人のアスカがシンジに接するあの姿は、Qまでの世界の中でシンジが一度も与えてもらえなかったものだから、あの時間が物語を終わらせる上で、シンジを立ち上がらせる上で重要なのは納得感しかなかったし、見ていてこちらも癒やされる感覚があった。あの尺は絶対必要だったと思う。でも、加持さん死んどるのはつらすぎた…。
「これが最後だと思うから」って明確に言葉に出してシンジと会話をしに来るアスカ。いやお互いにめっちゃ話通じてるやんけ…ってなって泣いた。
甲板でのミサトさんとのお別れのシーンは、「行きなさいシンジくん!」の呪いから、静かにお互いを解放できている感じがして、どうしたって泣いた。もう会えないことが薄々わかってる、いってきます/いってらっしゃいは辛い。そのあとミサトさんが犠牲になるのもえーなんで!?って思ったけど、後を託されたリツコが全く動じずに「ベストを尽くすわ」って引き受けるところ、そのものわかりの良さが辛くて泣いた。
ゲンドウとの対話は、お父さんいつからそんな喋れるようになったん!?ってくらいめちゃくちゃどストレートに心情吐露するからただただびっくりしたし、「いやそれでこの物語成立する?大丈夫?カタルシス生まれる?」って一瞬ヒヤヒヤして醒めた感じになりかけて見ていたのに、それでも!幼いシンジを抱きしめて謝るシーンは、やっぱりぼたぼた涙が出た。おとうさーん。。気づくのおせ~よ!!!
最後にシンジの内側からユイが出てきて守ってくれるところも、そんな都合よくていいんかー!?とも思ったけど、抱き合う両親を後にして自分の人生に改めて旅立つことができたシンジくん…って思ったら、いや何よその解放と祝福、って気持ちでまた泣いてしまった。
レイ、アスカ、カヲルそれぞれと会話してじゃんじゃんケリをつけていくところも、シンジくんがそんなふうにしっかりとした自我を持って、他者のために自分の言葉を使おうとできてる事実が尊くて泣いた。
つまり、かなりしょっちゅう泣いて見てました。でも別に「泣かされてる!お涙頂戴だ!」って感じではなくて、物語の持つ情動というか、エネルギーのうねりみたいなもの、エンドマークに向かって絶対にこのでかい塊を運んでいくんだっていう意志、そういうものを感じたりもして、ええもん見たな…って涙だった。半ば説明がつかないような、見てると勝手に出てくる涙って感じだった。
ラストシーン、あのシンジくんが!?大人になった姿…!14歳の姿から逃れて、自立した大人として最後に現れるのって、なんて力強く、全力の「今を生きること」の肯定なんだろうと思う。そこでマリが隣にいることには、何故かわからないけど、とてもすんなりと納得がいった。そして何より、海が青くて嬉しかった。
鑑賞後に色んな考察を読んだけど、リアルタイム世代の人とは見ているものやバックグラウンドが違いすぎるから、その観点の違いだけでも面白かったです。アスカの名前が変わったことと、旧劇場版のラストとを絡めて、惣流/式波ふたりともきっと救われている、っていう考察が複数読めたのが特に嬉しかった。そして宇部興産は全然わからなかったので知識が増えました。戦闘シーンが物足りないという意見はなるほどと思った。たしかに序破で感じた絵的なカタルシスはなかったかもしれない…というか、シン・エヴァの戦闘シーンは全体的に画面内の情報量が多すぎて、ついていけなかったかも。。
大量の新用語とかカヲルくんの立ち位置の謎っぷりとか理解できてないところも正直たくさんあるんだけど、それでも「楽しかったなー!」って思った。
こんなふうに屈託なく(といったらいいんだろうか?)楽しまれる作品であることを、果たして過去に監督や作品自体や、はたまたファンが望んでいたのかは正直わからないんだけど、
新劇場版しか知らない人間のひとりとして、最終地点を物語として楽しめた!という感想でした。見てよかったなと思う。せっかくだからなにか感想を書こうと思ったらけっこう長くなってしまった…
自分を全肯定してくれる家族がいた、帰ることのできる安全基地があったから今の自分がある。
うろ覚えだけど某有名人の著書にそんなことが書かれていた。それを読んだ時私は絶望した。
その人は自他共に認める愛されキャラのコミュ強だ。大ファンという訳ではないのだけれど、以前TVで人付き合いに対して自分にはないマインド語っているのを見て以来この人の思考が知りたいとずっと思っていた。
人付き合いが苦手で慢性的な生き辛さ感じている自分が何か得られることがあるかも知れないと思ったからだ。先日その人の本が出版されたと知り早速読んだ。そこにあったのが冒頭に書いた内容だ。
「ああ土台が違う」そう思った。
私の読むべき本ではなかった、所謂『毒親育ち』の私は安全基地なんて今も昔も持っていないのだ(当然この著者は悪くない、私のマインドの問題だ)
あの眩しい明るさの根っこは無条件で愛されたという記憶なのだ。もちろんそれだけではない、この人の努力や失敗があって今の人格があるのだと思う。
何不自由なく甘ったれた環境でぬくぬくと育ってきた。いわゆる親ガチャには成功したほうだと思う。幼い頃から小説ならいくらでも買ってもらえたから、どこかに出かけるたびに本屋に寄るようねだり、1冊ずつ買ってもらっては読みほした。当然本好きに育った。中高生の頃ぼんやりと、自分はきっと本と関係する業界に就くのだろうと思った。大学生になってもその想いは変わらないまま、最近就活を迎えた。
愕然とした。
好きな雑誌?ほとんど本か漫画しか読んだことがない。やりたい企画?企画ってそもそもなんなんだよ。どうやって作ればいいんだよ。会いたい人?そもそも本以外の趣味なんてなく、TVもほとんど見ないのに芸能人のナニガシなんてわかるわけがない。
そして気づく。そもそも私より本をたくさん読んでいて、それ以外の趣味もたくさん持っていて、コミュニケーション能力があって、弁舌の立つ人間が、おそらくこの世界には五万といること。
正確に言うと、ずっとずっと昔からぼんやりと気づいてはいたのだ。編集者になるには多様な興味関心が必要だと、なんとなく察していたのだ。でも見ないふりを続けてきた。だって今まで苦労したことない甘ったれなのだ。最後にはなんとか帳尻を合わせられるだろうと踏んでいた。とうとうここにきて露見した。最早取り返しのつかない状況で、取り返しのつかない人生を送ってきたことをはっきりと自覚したのだ。
もういやだ死にたい そしてほとぼりが冷めたあたりで生き返りたい
──岡野大嗣
やっと自分の愛が、こんなにもちっぽけでつまらないものであったことに気づく。
集英社も講談社もポプラ社もそもそもESすら出せなかった。今日なんとか新潮社を出したけど、書いている最中には小説を一番好きだと宣いながら好きな作家にはあまりにも有名な作家ばかりをあげる自分の情けなさにほとほと嫌気がさしていた。ねえ、俺は今まで文芸誌ひとつまともに読まずによく平気な顔で本好きを名乗ってこれたね?
文藝春秋を出したいけれど出せる自信がない。小学館を出したいけど受かるわけがない。
でも、ああ。
今自分が何も持っていないことに気づけてよかった。本当に何もかも手遅れになる前に自分がこんなにもくだらない存在であることに気づけてよかった。とにかく頑張ろう。内定を貰っている友人もいるけど、貰っていない友人もいるから。今切り替えればきっとどこかには繋がるはずだから。自分は一生本に携わって生きると確信していたから、今どうすればいいのかさっぱりわからないけど。でも何とかなるって信じたい。私の未来はまだ全部台無しになったわけじゃないんだって。今から、……新しい未来が開けるはずだって。
来週の合説を予約した。とりあえず小学館のESを書く。3時間ほど泣いたら何かの諦めがついたから今この文章を綴っている。1年後の自分が、10年後の自分が、これを見て笑ってくれますように。
そしてここまで読んでくれた君にどうか一つお願いがあるんだけど、こんな情けない実情は恋人にも友人にも言えやしないから、ここまで読んだよしみで罵倒なり励ましなり残していってくれやしないだろうか。私に人との繋がりを感じさせてくれないかな。
〇脚本面
・シンジのリハビリ回である村パート、いうてトウジ・ケンケンに話しかけられてぽつりぽつり返答する程度の描写(ほぼアヤナミの田植えやんけ)から
どこをどう汲み取ると「ゲンドウと対峙できるほど成長した碇シンジ」に対する納得感が得られるのか.
・せめて「村の住人にニアサー張本人であることが露呈したうえで受け入れられる」ならまだしも(それが見たいかというとかなり陳腐だが....)
・前作で大怪我負ったシンジがようやく軽いトレーニング程度できるようになったくらいで、そこから特に進展なくいきなり対ゲンドウ戦に入って
・アヤナミレイ液化がキーとして、いうほど会話してたか????
・ゲンドウ勝利後のアスカ・カヲル・レイ、完全に消化試合のような尺と進行
・旧劇場版ラスト出してきて、「僕も好きだったよ」の一言でケンケン宛に郵送すな
・マリ、どちらかといえば他者というよりかなり都合のいいアニメキャラそのものでは
・村パートで止め画カット(田植えと水量測定)に声だけで進行するやつ出すとは思わなかった。劇場版でやるか?TVでやるならまだしも
・3DCG、これは好みでいいと思うが、やはりネルフ本部から棒立ちMark.07(あるいは冒頭の猫ドローン)が出荷されるシーンで笑う
・マイナス宇宙・ゴルゴダオブジェクト→ウルトラマンからの円谷撮影スタジオ、これ「こういうの好きだよな庵野監督」以外で必然性を説明できる人いるのか?
・特撮スタジオ出してメタ演出(ミサトの部屋にエヴァ二体は笑うが)、のわりにゲンドウ独白パートが比較的すなおな演出になっているの、
ちぐはぐな印象が凄い、そこは普通にやるんだ.
・巨大綾波レイ頭部、あれ演出上ああいった質感と言われたらそうかもしれない、だとしたら首から下は旧劇場版作画を使用している意味がわからん、
どちらかといえば顔だけつくったが身体はどうにも前回のやつ使うしかない+作劇上あとは手は動かせないとまずいよね、の結果が、
あの「頭部と手だけ分離している綾波レイ」なのでは
・どう贔屓目に見てもアニメの表現力が旧TVシリーズより下手したら苦しい感じなの、これカラーの生産能力の問題なのか、
本邦全体としてもうアニメを描ける人が少なくなってきているのかどっちなんですかね。
〇シンエヴァ
シンエヴァを見た。
ワクワクもドキドキもハラハラもしない、感動もない。ただ「綺麗に風呂敷畳んだね、見てる人に殴りかかるんじゃなくて、言葉で説明できるだけの理性はついたんだね、監督おとなになって偉いね」という意味で「良かった」と思った。EOEでぐちゃぐちゃにされた子供の頃の恨みみたいなものが成仏していたのに気がついた。シンを見て成仏したのではない。自分はとっくにおとなになっていて成仏していたのだ。そういう映画だった。
徹頭徹尾オタクが気にしてること、気にしそうなことを説明して潰しにかかっていたのは笑いそうになった。ミサトさんが無責任で酷いって気にしてたんですかね? 昔のエヴァならあんな違和感たっぷりの説明的なセリフ垂れ流さなかったでしょうよ。アスカやレイ、カヲルがベルトコンベアで流れてくる商品を選り分けるように、事務的に淡々と処理されていくのは本当に白けた。有名声優が何人も説明的なセリフを言うだけに参加してるのもシュールだ。
それでも終わっただけで「良かったよ」って言えたのは、多分今のエヴァに新鮮な楽しさや驚き、痛みや苦しみを描く力なんて無いとどこかでわかって、諦めていたからだと思う。ちゃんと終わらせること以外期待してなかった。
リアタイ世代で録画を何度も見て、映画もおこづかいをはたいて全部劇場で見た子供だった私も、大人になって見えてなかったものが見えるようになった。良質なエンタメにもたくさん出会った。少ない知識に狭い視野で、初めて見たショッキングなエンタメだったからのめり込んで、特別に思った時期があったのだろう。そういう期限は切れていた。期待しないようになっていた。
余談だが子供だった自分はアスカが生きたまま腸食い散らかされるのがあまりにも怖くて、ショックで眠れなくなったりうなされたりした。生きたまま食われるなんて考えたことも無かったので、本当に怖くて震えた。思えば初めて見たグロっぽい暴力的で悲惨なシーンだったのかもしれない。EOEまでは本当にいろいろと心に傷を刻んだ作品だった。
とにかくエヴァは畳まれた。シンエヴァは畳むために作られたものだ。物語として楽しくする気なかったでしょう? 嫌いなエヴァオタクと、終わってないことに言及されること消すために時間とセリフがあった。
監督ももうエヴァは見えないところにしまって、自由になりたかったんだろう。だから面白くなくてもファンやエヴァオタクががっかりしてもどうでもいいのだ。破まではエンタメとして良いものに作り変えようという気が見えたけれど、もうそんなのはどこにもない。
監督がエヴァオタクを嫌いっていうのは有名な話だ。インタで自分でも言っている。今も嫌いだろうと欠片も疑っていない。
でも彼の会社はエヴァの版権使用料がないとスタッフが食っていけなかったんじゃないかと思う。彼を慕い、憧れ、優しいスタッフと理解ある嫁を食わすには、大嫌いでもエヴァオタクからキャラクターで金を搾り取るのが一番儲かる。
ところがゴジラが当たった。ウルトラマンも撮らせてもらえる。もうエヴァがなくても稼ぐあてが出来た。だからエヴァはとっとと畳んで開放されても良い。というわけで前は急げで完成に至ったのではないだろうか。モチベ上がったでしょう。キャラクターをサクサクとエヴァオタクが金を払う気がなくなるような処理しをして片付けた。もうこっちくるんじゃねえぞってなもんで。
シンゴジの時はじめて心から嬉しそうな監督を見たからね。監督はあっちに行くし、エヴァオタには付いてきてほしくないのだ。ちなみにオタクにいちいち「エヴァ」ってつけるのは、監督は特撮オタに関しては嫌いではないし、彼自身オタクだから。アニメと特撮のオタク。エヴァに散りばめられたオマージュのおおさからして、けっこうディープなオタクだと思う。
シンエヴァの感想をいくつか読んだら、それぞれのキャラクターの処理について不満を漏らすと、案の定卒業しろよとかキモいと叩かれていた。まとめサイトに晒し上げられていた。流石にそれは酷いくないか?今までキャラ萌え的な商売しまくって、金を搾り取られた人たちが嘆いたって良いだろう。だって公式はそういう商売をしてたじゃん。中学生が脱衣する麻雀、ヒロインといちゃつけるゲーム、シンジをカヲルで落とせるゲーム。それを元にした漫画。同人作家にカヲルとシンジのBL描かせて監督が対談までしてる書籍もある。その他にも把握しきれないくらい色んなモノが出ている。エヴァくらい節操がなく金のためにキャラを売っていた作品も無いだろう。
キャラクター商品はキャラクターが好きだから買うものだ。キャラクターが好きだから金を出す人たちからずっと搾り取ってきた。それで飯食ってたんだよ何年も。Qから8年も食いつないでるんだよ。ゴジラがあっても、大半はエヴァの収入があったから8年完成させずにすんだんでしょう。もういらないからポイしたわけだが。所詮オタクは一方通行で金をつぎ込むだけで、優しくされるどころか捨てられたって文句は言えないものだ。でも悲鳴くらい上げても良いんじゃないの?25年前から根本的に変わらない作品にずっとついてきて、どんなにエグい商売でも金はらってきた猛者たちだぞ?流石に期待しなかったから文句もない私より愛があっただろう人たちが叩かれてるのは可哀想だ。好きじゃない人ほど簡単にさよならできるもんなんだから。
私は良かったと思ったから当初は否定的な感想や、点数の低い映画レビューを見ていなかった。けれど絶賛よりもTLに流れてくる苦言に、全部なるほどと納得したので見てみた。そうしたら感情的におかしくなって叩いてるとかアンチとかじゃなく、理路整然と嘆いていて、反論もなくそのとおりだと思ったものが多かった。ただ私にはそれに怒ったり悲しんだりする好意がもうエヴァにはない。良かったねー、終わったねーって流して終わった。
良かったで流した層、怒って細かく説明してる層が多くて、ほとんどの人が一回見ればリピートしない映画ではないだろうか。それでも何度かリピートしていろいろ考えてる人たちが少数いるけど、お金あるなあという感想だ。考察や小ネタ拾いは楽しくて好きだが、シンエヴァはそれをするには料金に見合わないと思ってしまう。そろそろ大抵の空白や説明のないところは、思わせぶりなだけでなんもない可能性が高い思いようになった。きちんと描けるなら描いてるだろうし、監督には無理だと思う。その上でエヴァは出来ないものはそれっぽく空白にしとけばファンが勝手に考察して想像して楽しんでくれるから、開き直って描いてないだけ。監督は25年かけても描けないものを描けるようにはならなかった。ピュアで傷つきやすく、作品が成功したために人間的に成長しなくても生きていけるようになった子供のままの人。それが痛いほどわかるのがシンエヴァじゃないか? 意味があるのかわからない考察をするなら、円盤をアマゾンで安く買えばいい。そもそも今回の映画、考察合戦する相手も少ないのでは。
監督とは反対に、声優は成長をひしひしと感じる人が多かった。声優の演技力にだいぶ助けられた映画だった。監督はそれに気がついただろうか。親子を多用するくせに父親も母親も描けないところに、それっぽい色を付けたのは声優陣だ。パンフのコメントは感慨深く読んだ。皆さんお疲れさまでした。緒方さん、宮村さん、山口さんは特にお疲れさまでした。シンジの声は最後まで緒方さんが良かったです。
貞本さんが参加されてなかったのは残念でした。彼の人間性とかは知らん。描く絵が好きだし、監督が投げ出したものを漫画版できちんと描ききったのを高く評価している。漫画版はキャラクターの心情もちゃんと丁寧に描いていたし、なによりきちんと完成させた。それが出来るか出来ないかが、本当のプロとアマチュアの差だと思う。貞本さんだってエヴァオタのいろんなものにさらされた人だったでしょうに、仕事を完遂した。傷ついたのは監督だけではない。エヴァの根本は監督の私小説だが、作品としてはたくさんの人の力で出来ているものなのだから、負の影響だって受けた人はたくさんいるでしょう。傷ついたからと膝を抱えて元気になるのを待ってても良いような環境にあった人は少なかっただけ。
Yahooやはてなブログでの高評価を見て期待して劇場に足を運んだ
でも自分としてはこれは単なる未完成か投げっぱなしENDにしか思えなかった
本当にこれがあの好きだったエヴァシリーズの最後の映画なのか?
納得がいかなかったのでここでぶちまける事にする
前半の村パートは分かりやすかったのに対して後半のネルフとの決戦は半分以上意味不明だった
知らない用語が次々と出てきては、はい次と進行していきぽかんと置いてきぼりを食らった
本当に熱心なファンであれば設定を熟知してなるほどと理解できているのかもしれない
でもTV版と旧劇と新劇を見た程度の自分にはとんとついていけなかった
ゴルゴダオブジェクトがどうのこうの希望の槍カシウスがとか一体何のことなのか
最終的に劇場の中で理解は諦めてなんとなくのストーリーを追うしかなくなったのである
勿論TV版や旧劇場版にもこういう訳の分からない用語と言うのはあったがこれほど酷くは無かったように思う
綾波とアスカ、どっちが好きかと言えば自分は断然アスカ派である
それを差っ引いて聞いて欲しい
ケンスケやトウジが年齢を重ねて落ち着いており、シンジに対して優しさを示したのに対する対比かと思えるほどの当たりの強さだった
シンジが突然未来の世界に目覚めたのに対してアスカはその間も生きていた訳である
ならその分の成長と言うかシンジに対する心情の軟化があっても良かったのではないか?
シンジの親友二人の成長に対してアスカはよく言えば昔のまま変わらずであり悪く言えば何も成長していないと感じられた
セリフでは先に大人になったのとか言っていたが全くそうは思えなかったのである
そして最終決戦で使徒化してまで13号機を封印しようとしたのに失敗し、逆にゲンドウに利用されて取り込まれる
旧劇の様な八面六臂の活躍を見せる訳でも無く、本当にえっと思うような退場であった
その上シンジの事は好きだったと過去形でケンスケといい関係になっているのである
これはもう半分NTR物を見せつけられている気分になったしとてつもないショックであった
エヴァと言うのは極端に言うとシンジと綾波とアスカの物語である
100歩譲って加持さんならまだ分からなくもなかったが何故ここでケンスケなのか
ぽっと出の奴とまでは言わないがケンスケとそういう関係になったアスカは見たくは無かった
その上最後にシンジを迎えに行くのは綾波ですらなく謎の人物のマリである
本当にマリって言うのは誰なのか
しかし最後に重要な役割を果たす割にはこのマリという人物の人となりや目的、バックボーンなどの殆どが不明なのである
綾波はクローンで命令だしアスカは親に見捨てられて褒められたいと言う動機というかキャラクター性がマリにはない
最終盤でなぜかユイや冬月やゲンドウの近くに描かれていたりはしたが何故年を取っていない様に見えるのかの説明もなく余計に謎が増えただけである
分かる事と言えば何やら突然出てきてシンジの臭いを嗅いだと思えば若干寒いセリフを言い続けるエヴァパイロット
この掘り下げも何もない様なキャラが最終盤でシンジを迎えに行く重要な役に割り当てられ挙句に成長したシンジと仲睦まじい様子を見せられてもぽかんとするしかなかった
アスカはマリの事をコネメガネと呼んでいたがそのコネが何なのかすらも判明しなかった
そしてもう一度見ようだとか考察しようだと言う気力が湧いてこないのは何とも言い難い感情であった
何にせよこれで四半世紀続いたエヴァは終わったらしい
タイトルは半分釣り。劇場版シン・エヴァンゲリオンの感想をいくつか書く。
・一番印象的だったのは、シンジを支え、見守るのは、旧来の命令や強制しかしないオトナ達ではなくて、セカンドインパクト後に生まれた、かつての同世代の若い世代だったという事だ。
農村部の描写は、安野モヨコのマンガ・アニメの「大きなカブ(株)」と重なると思うけど、今、庵野秀明を支えているのはエヴァを見てた若い世代なんじゃないかなと思った。現在向精神薬を飲んでいる自分としては、動けないシンジの代わりに、アヤナミレイ(仮)(そっくりさん)が農村で人間性を取り戻していく過程がリアルに感じられた部分。シンジの回復とそっくりさんの消滅もそういう事かなと。
・裏宇宙でのゲンドウとシンジの描写が、急に安っぽい特撮のような背景になるのは、あそこで物語の位相が庵野秀明の内面描写に移ったからかな、と思った。今回、絵コンテを使わずにプレビズでレイアウトを決めてた辺りも、庵野秀明がパンツを下ろして内面を語る為には、従来のアニメ描写の仕方ではなく、実写映画(というかドキュメンタリー)の手法を使いたかったんじゃないかな。
だから終盤のキャラを見送るシンジは、プロデューサーの立場で、25年に渡って苦労をかけてきた各キャラをねぎらう立場だったんじゃないかな。元々は24年前のEoE(旧劇場版)で消費されてしまう筈だったキャラ達は、その後もスタッフ・キャスト・観客の中で生き続けてきたから、それを演じてきた(という体で)各キャストに見せ場と居場所を最後に与えたような気がする。それがこの作品が卒業式のように感じられた理由かもしれない。
・マリエンドは、個人的にはもうEoEと貞本版マンガでアスカエンドはバッドエンドもグッドエンドも見てしまったので、第3の終わり方としてよかったと思う。
・個人的に残念だなと思う点を上げれば、いくつかの戦闘シーンは大雑把に見えたこと。物量と情報量を上げればものすごい物が見えるわけではなく、逆に大味になってしまった気がする。
でも最初のTV版から見続けて26年経って、こんな作品を見られて本当によかったと思う。エヴァンゲリオンという作品とシンジとアスカとレイとカオルは、アニメの歴史に刻まれたと思うし、今後も神話にはならなかったとしても伝説にはなるんじゃないのかな
遅ればせながら『シン・エヴァ』観ました。個人的な感想メモ(ネタバレあり)。ちなみにTV版から観ている39歳男です。
・旧劇場版でシンジとアスカがお互い傷つけあったのは「二人は他者だから、触れ合えば傷つくのは必然なんだ」と受け止めてた。それに対する『シン・エヴァ』の回答は「あれは二人の相性が悪かったせい。それぞれ別の人とくっつけば幸せになれるよ」ってことだと理解した。マジか、と思いましたね。あまりに身も蓋もなさすぎて。しかし言われてみれば確かにそう。こうなってみると、もうこの終わり方しか考えられない。
・旧劇場版のアスカって、エヴァの全編を通してみてもトップクラスに酷い目にあってたと思う。肉体的にも精神的にも。見ていて居たたまれなかった。なので、浜辺のシーンで惣流のほうのアスカも救済してくれて嬉しかった。
・それにしても、まさか渚カヲルがゲンドウの分身(別人格)だとは思ってもみなかった。これが一番衝撃的だったかも。
・でもよく考えると、TV版の時点でカヲルはレイに「君は僕と同じだね」って言ってるんだよね。レイがユイのクローンだとして、じゃあカヲルは誰の分身なのかと考えれば、論理的にはゲンドウしかありえない。なんで俺は25年間その可能性に気づかなかったのか、ということのほうが今となっては不思議。
・カヲル君の「歌はいいねえ」という台詞とシンジ君のウォークマンが、25年の時を経てゲンドウというキーワードでひとつに結びつけられる展開は震えた。
・あそこに置かれていた鉄道車両は、庵野さんの故郷の山口あたりで昭和時代に走っていたやつが多かったと思う(あとは天竜浜名湖鉄道?)。あの村が箱根のそばに2029年ごろに存在しているとすると、明らかに時空が歪んでいる。この時点ですでに庵野さんの心象風景に片足を突っ込んでいると理解した。あの村全てが仮想空間とも受け取れる。
・作画もあの村の場面の一部だけ、なんか質感が違いましたよね?
・TV版から存在していた夕闇の電車の中での自分との対話シーン。あれはあの旧型国電の中でやってたのか。あの車両は庵野さんの地元の宇部線で長く走ってた形式。なので単に懐古趣味で旧い電車を出してたのではなく、自分の故郷の、おそらく青春時代によく乗っていた電車の中でずっと自問自答していたわけね。なんというか、本当にエヴァって私小説だ。
・村の人がレイを「そっくりさん」と呼び続けるの、普通に気持ち悪いよ! 初日だけならともかく、その後もずっと。同僚に対してその扱いは酷くないか。レイ視点だから悪意がないように受け取れるけど、実際にはあれは村社会の新人イビリなんじゃないの。エヴァは「誰が誰をどういう名前で呼ぶか」について極めて意識的な作品なので、こういう「気持ち悪さ」も織り込み済みでやってそう。
・レイはやっぱり個体によってかなり人格が違う。にしてもTV版の「ばーさんは用済み」のあの子だけは極端に性格悪かったな。あれは何だったのか。
・ミサトさんは「自分は大人じゃないけど、それでも大人の役をきちんと果たすんだ」と決めた人。TV版と旧劇場版ではそういうちゃんとした大人はミサトと加持ぐらいだったけど、新劇場版ではリツコとヴンダーのクルー達も付いてきてくれていて、そこが良かった。
・にしても生命種の種を満載した船で最終決戦に突っ込むのは、リスク管理としてやばすぎ。そいつらはどっか安全な場所に厳重保管しておくべき。
・ミサトさんが息子とずっと会わないと決めたこと。それってユイやゲンドウと同じ過ちを繰り返してるんじゃないの、と思えて複雑だった。ユイも「自分の選択を息子はわかってくれる」みたいなことを言って死んだけど、息子の側からしたら親に捨てられたと思っただろうし、その葛藤を描いてきたのがまさにエヴァという物語なので。これは「シンジの物語が終わっても全てが解決するわけじゃない。親子の葛藤は次の世代にも続いていく」というメッセージだと受け止めた。
・新劇場版の全体を通して、リツコさんの物語はほぼカットされちゃった。新劇から見た人にとっては、あの人はミサトさんの有能な副官というだけの存在になるのかな。まあ尺もあるし仕方ないか。
・新劇場版での冬月が何をしたかったのか全然わからない。旧劇場版まではユイとの再会だよね? 今回は違うの? あんた何なの?
・ゲンドウとシンジの取っ組み合いのケンカは笑った。庵野さんって、映画の前半で綿密にリアリティーを積み上げておきながら後半で暴走するよね。『シン・ゴジラ』の無人在来線爆弾のときも思ったけど。
・「ユイ、お前はずっとシンジの中にいたのか」って、そんなの当っったり前だろうがー!! そんな凡庸な結論に至るまでに人類を3回も滅亡の淵に追いやるんじゃねえよ。
・庵野さんはエンディングの巨匠だと思っている。「全ての子供達に、おめでとう」と「気持ち悪い」。観た人の記憶に刻み込まれるエンディングを2つも作ったのは神業。
・そして今回のエンディングも後世に語り継がれる素晴らしい出来だと思った。俺は泣きました。
・大人になったシンジ君、イケメンだなあ。声は神木君だしパートナーは素敵な人だし。この話って結局「ただしイケメンに限る」ってやつじゃねーの、という思いもよぎる。
・チョーカーを現実世界でもずっとつけてたのは、思春期の呪縛はそれだけ強いものなんだという意味合いかな。それとも単にマリがチョーカーを外す場面が撮りたかっただけ?
・マリは鶴巻和哉の色が濃いっていう評を見たけど、確かに『フリクリ』から飛び出てきたみたいなキャラ。『フリクリ』も大好きなので嬉しかった。鶴巻さんもありがとう。
・でもこの結末って言ってみれば「夢オチ」だよね。それでも自分も含めて肯定的な感想が多いってことは、要するにたいがいの人は登場人物の人間関係に決着がつくことを何より重視していて、そこに整理がつけば夢オチでも構わないと思ってるってこと…?
・「One Last Kiss」最高。天才の曲。宇多田ヒカルのエヴァ関連の仕事は全て文句のつけようがない。こんな荒唐無稽な物語にかっちりハマりつつ、なおかつ宇多田ヒカルらしさを失わない曲をよくぞ3曲も作ったものだと思う。宇多田ヒカルさんもありがとう。
・で、『Q』で出てきたトウジの制服は何だったの? とかそういうことを考えだすとキリがないので、もう考えない。
劇場で自分の前の席に高校生の集団が座っていて、終わった後で「どうだった?」「わかんねー(笑)」と、まさに自分が高校生で旧劇場版を観た時と同じような会話を繰り広げていた。そのことに何だか感動してしまった。