はてなキーワード: 自由主義とは
http://anond.hatelabo.jp/20160524045830
この増田が色々言葉遣いが悪いというか感情的な部分もあるのでブコメも脊髄反射的なのが多いけど
http://seramayo.hatenablog.com/entry/2016/05/23/121352
問題点は3つある。
■「女であるのが悪いのかとか受精卵が云々」とつながる話がまったくない
現代の日本は民主主義だし、自由主義的な考え方も浸透してるし俺もそういう点はいいことだと思ってる。
でも国立大学は学生に学歴を与えるために学問を収めさせてるわけじゃない。
学生に教育を施すことで社会がより良くなるために学問を修めさせてるわけだよ。
もちろん、そういう学問を修めたけど結果として失敗して
全然関係ない職業についたとか、学歴に比べると社会的に評価の低い職についてしまった。
っていう「失敗」によって専業主婦になったっていうならぜんぜん問題ないと思う。
少なくともおおっぴらに責めるのは違うかなとは思う。
他にもベンチャー企業を立ち上げて儲けようと思ったとけど失敗して借金塗れになったとか、ポスドクの人が悪いのかって言えばそれも悪くないと思う。
投資をマクロな視点で見て、その一部がある程度失敗するのは仕方ないし当然ではあるよね。
けど、あえて専業主婦になったっていうならそれは違う。
京大の音楽学科に入ったけど就職先がなくて専業主婦になったんならわかるよ。
けど違うよね?
それは国立大学では少なくともおおっぴらにするべきことではないと思う。
私立なら違うとは思うけど。
それともう一つこの人は言っちゃならないことを言ってる。
社会貢献とは、わたしの勉強法やわたしの高校時代の様子をお前の子供に教えてやることなのか(教えてやらなかった)。研究を続けたら続けたで、音楽学は即座には社会の役に立たないことを、お前はどう説明するのか。なぜか音楽学を音楽社会学としか言わないお前にとって、たとえばシューマンのオラトリオの楽曲分析は、社会貢献だと言えるものなのか、どうなんだよ、つまるところ、自分と同じ苦労をどうにか味わわせたいだけじゃないのか。自分の言葉で答えてみやがれ。
これってさ、「即座には社会の役に立たない学問」を必要ないって言ってるのと同じことなんだよね。
大学で文系の学問とかを設立してるのって即座に役に立つわけじゃないし、目に見えやすい社会貢献をしてるわけじゃない。
でも、今現在一応文系の学問によって社会が豊かになるとか文化が豊かになるとかそういう社会的な貢献ができるから国立で文系学部があるわけでしょ?
少なくともおれはそう思ってる。
もちろん即座に反映されるようなもんじゃない。
でもどっかで文化的に貢献してるはずだし、私達の心を豊かにしてくれている、あるいは将来的にしてくれる可能性は高い。
それをこの人は自分が音楽学を学んでいるにもかかわらず否定している。
というか考慮すらしていない。
これは大学に通ったことがある人の態度としては最低中の最低、下の下だ。
今現在、音楽学に携わってる人を馬鹿にするような行為だと思う。
国立大学に通ってる人は(自分で選択して)専業主婦になってはいけないとかいう言うわけじゃない。
けど上位に立てる可能性がある人間はノブレス・オブ・リージュを求められるもんだよ。
重ねて言うけど、挑戦して失敗したんなら全く文句はない。
あるいはまともな人生を遅れる可能性が低いと思って、違う選択をしたんならそれもまぁ仕方ないかなと思う。
けど、選択肢がありながらこっちの方が私が幸せだから専業主婦を選んだのはあまり開き直れることじゃないと思う。
なんかあの記事を書いた人の思想に旧態依然としたジェンダー観とか文系を本当は必要ないって思ってるような嫌な思想が見え隠れしてるんだよね。
記事のいくつかで女性であることがわるいのかみたいなこといっててそれに騙されてそうな人がいるけど正直胸糞悪い記事。
つうか受精卵がどうとか言ってるけど専業主婦を選択した話とかと全くつながってないんだよね。
あれは何なの?
騙されて味方になる人が増えると思ったから無理やり入れたの?
あの記事内容薄くて本人のバックボーンが全然見えないからもう少し詳しく聞けば事情があるのかもしれない。
かつては田中角栄を「金権政治」と批判していた石原慎太郎が、田中角栄の本を書いて、「角栄がいかに素晴らしい政治家だったか」を吹聴して歩いている。
そのこと自体にそれほど関心はなかったのだが、先日たまたま慎太郎が
「角栄は素晴らしい政治家だったのに、アメリカに逆らったから、ロッキード事件で人格まで否定された」といった趣旨のことを新聞紙上でのたまっていた。
アメリカに逆らったからかどうかは置くとしても、田中角栄はロッキード事件で政治生命を絶たれた、というような、雑な理解をしている人は多い。
酷いのになると、ロッキード事件のせいで首相を辞めたのだと思っている奴までいる始末だ。
ちょっと当時のことを調べれば、事はそんな単純な話ではないこと位、すぐわかるのに。
まず、「ロッキード事件のせいで首相を辞めた」は完全な間違い。
今太閤と呼ばれたの田中角栄が総理に就任したのが1972年7月。その時の支持率70はパーセントを超えたという。
その後、日中国交回復を成し遂げたあたりまでは良かったが、その後支持率は降下しはじめる。
なぜなら、自らの主導した「列島改造計画」による地価高騰やオイルショックによって引き起こったインフレ(当時「狂乱物価」といわれたらしい)に
そこに追い打ちをかけたのが、文芸春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究」と児玉隆也の「悲しき越山会の女王」という論文だ。
いわば「文春砲」のルーツである。まあ、こちらは「週刊文春」じゃなくて、月刊の「文芸春秋」だけれど。
ちなみに、そのひと月前には、石原慎太郎の田中角栄批判論文ものっていたらしい。
もともと金権政治家との評判が高かったところへ、事前の期待ほどの成果を上げず、国民の失望を買いつつあった田中角栄は、
「外国人記者クラブ」の会見で袋叩きにあい、その後、辞任を表明する。
アメリカ上院でロッキード事件が発覚したのは、そのあとの話である。
田中角栄という人は、多分、焼け野原になった日本の復興を推し進め、同時にその利益を
雪に閉ざされた故郷新潟に力づくで誘導することで、首相に上り詰めた人なのだろう。
自由主義経済第2位の経済大国を率いていくためのプログラムは、組み込まれてはいなかったんじゃなかろうか。
ロッキード事件があってもなくても、早番行き詰っていたのだろう。
慎太郎は、ロッキード事件で角栄の人格まで否定されたというが、
別にロッキード事件で政界から石もて追われたとか、そんなことがあったわけではない。
ロッキード事件後も、「闇将軍」として自民党で一番結束の固さを誇る派閥を率いていたし、
中曽根康弘なんかは、その内閣があまりにも田中角栄の影響力が強すぎて、「田中曽根内閣」などと揶揄されていた。
以下、個人的な思い出になるが、田中角栄がロッキード事件の第一審で有罪判決を受けたころのことは
幼心になんとなく覚えている。
「元総理の現職国会議員が有罪判決を受ける」という、日本憲政史上初めてのニュースにテレビは沸き立っていた。
一方で、田中角栄という人は、選挙で絶大な強さを誇り、新潟三区でトップ当選し、選挙民が万歳する様子も
必ずニュースで放映されていた。
自分の父親は、朝日新聞を信奉して世の中をみる昭和のインテリ気取りだったから、
こうしたニュースを苦々しくながめ、
「ああいうのが日本を悪くする」「新潟は田舎だから、あんな奴がいつまでもトップ当選するのだ」などと言っていた。
田中角栄にとどめを刺したのは、ロッキード事件でもアメリカでも文春でもなく、
闇将軍の下についていては、何時までたっても総理大臣になれないことに不満を持った竹下は、
配下の裏切りに心乱れ、毎晩オールドパーを浴びるほど飲んでいた田中角栄は、創政会立ち上げの20日後、
脳梗塞に倒れる。
脳梗塞で言語障害が残った彼に、その力を再び発揮するのは不可能だった。
石原慎太郎という人は、まさに同時代を政治家として生きていたのだから、こうした経緯を知らないはずはないのだが、
意図的なのか、都合のいい忘却体質なのか、こういうことを全て無視して適当なことを言う。
本人が言うだけならいいのだが、それをありがたがって拝聴するバカがいるからタチが悪い。
歴史のねつ造、というのは、主に第二次大戦以前のことについてよく言われるワードだが、
石原慎太郎の角栄に関する発言を見ていると、「ああ、こうして日々新たな歴史がねつ造されていくのだな」というのが良くわかる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/bylines.news.yahoo.co.jp/bradymikako/20160325-00055564/
このエントリーを見てなんとなく(いや、それ以外も参考にしてだけど)
金融緩和に反対派
ラディカル・フェミニストもここにいる。
保育問題等を解決して欲しい的なことを言う
→表現の自由周りでは過激(いや、まぁ左派リベラルなら普通そうだが)
→そのため共産党系左翼のラディカル・フェミニストと対立する。
極端な反原発の人は少ない
反安保は半々くらい?
また、共産党系左翼の人は自由主義左翼を右翼とみなしている節がある(共産党が最も左に位置するからある意味当然か?)
ラディカル・フェミニストもなぜか共産党系左翼と被る→これはよくわからない。
ラディカル・フェミニストと自由主義左翼は表現の自由をめぐって対立しがち→いわゆるフェミvsオタク
目に見えにくいが、フェミニストではないただの共産系左翼vsオタクの時もある。
俎上に上がるのは山本一郎くらい。しかも別にはてなユーザーじゃない。
南京・慰安婦周りの話では共産系左翼が自由主義右翼、または保守と争い続けている。
育休中、ふと思う。
昔の日本で広く許された、圧力を持った価値観(行かず後家、クリスマスケーキ、男は家庭を持って一人前etc)や見合いなどの配偶者形成、配偶者以外との再生産が許される風俗などは、再生産を共同体の責務とするならばかなり強力で実効性があったのでは無いか。
個々人の幸福を追求することが許され、古くからの価値観を野蛮だと切り捨てたのは良いが、社会の再生産能力は落ちている。
個人主義的、自由主義的な社会では、政策により企業と個人へ再生産へのインセンティブを付与する必要があるのだが、
古い価値観を捨てる一方でそれを怠った結果が、超少子高齢化社会の原因では。
古い価値観が失せる時代、つまり再生産を社会の責務とするならば、政策により再生産のインセンティブを付与する方に舵をきるべき時代
社会の政策決定や企業の経営方針を決められる立場へ出世するのは、自身は再生産へ時間的リソースを割かずに、仕事を頑張った男性が多かった。
彼らの生存バイアスは今も多くの企業で当たり前の価値観として生き続けている。
多くの政治家や企業経営者に対し、彼らは30年後にはいないから未来を見越した選択をしないという批判はズレているのでは無いか。そもそも社会への認識がずれたまま、「良い方向へ」舵を切り続けた結果が今の社会ではないか。
国会での「日本死ね」対応を見ても、認識がズレたままなのだと思う。
1人の人間の生産と消費は大きく、人口が減れば能力の高い人材は減る。経済的にも人口を減らすのは得策では無いのだと思う。
子どもを持ちたい、育てたい各個人においても子どもを持つことのデメリットやリスク、コスト、障害が多すぎてまるで足枷だ。
そもそも子孫を残すことは共同体の責務なのか?
と言われて「何を言ってるんだ。負の感情と向き合ってないのは規制賛成派だろ」と思った人は思い上がってるよ。
規制反対派が向き合ってるのは負の感情のうちの「人を殺してみたい」とか「幼い女の子とセックスしたい」とかそういう部分だけでしょ。
表現規制反対派はよく「ヘドが出るような下劣な表現でも他者の権利を尊重しない範囲でなら尊重されるべき」と言うけど、自由主義という観点からすると確かにその意見の方が”正しい”のかもしれない。
ただ一方で、「ある程度までなら『許してやって』もいいが、その限度を越えて力ずくで抹殺したいような意見・表現もある」というのも立派な(?)負の感情で、誰にでもあるものなんだよ。
そういう弾圧したいという負の感情に向き合わずに単に自由を主張するだけだから、規制に熱心に賛成しているわけでもないが熱心に反対しているわけでもない第三者からは、
『「自由は尊重されるべき」という社会の中で弾圧すべきという負の感情を主張している人たちが、
『子どもは性欲の対象ではない』という社会の中で子どもに性欲を抱く負の感情を主張している人たちに反発されているだけなんだな。
結局はどっちもどっちか」
と思われるだけなんだよ。もっと弾圧したいという負の感情とも向き合ってそれを発展的に解消させる方策を考えるべきなんじゃないの?
■図解
↓
↓→→→→→→→→→→→→→→→→→→→↓
↓ ↓
ソーシャルリベラリズム(社会自由主義) リバタリアニズム(自由至上主義)
↓
↓(派生)
↓
王政へのカウンターとして生まれた思想なので自由や平等、個々人の権利を重んじる
という懸念から社会主義の考えを取り入れて、福祉とか経済介入をしよう的発想
ソーシャルリベラリズムで福祉を取り入れた結果財政がやばくなってきたので福祉とかちょっとやめよう
みたいな
という懸念から、もっと自由を拡大したほうがいいわ。中途半端すぎ。
という発想
とにかく全部自力でやらせろという考え方。自由至上主義と訳す。
ネオリベラリズムは財政問題から派生した思想なので基本的に経済の話しかしません。
左翼と右翼で対立軸を考えがちですけど、細かく見るとリベラリズム内の同族争いです。
つまり、「自由を尊重するか」、「社会的公正を尊重するか」というリベラリズムの最初期からある主張が衝突しちゃってるんですね。
ちなみに我々はこの「自由」か「公正」かというのをあらゆる事柄で使い分けてます。
例えば
・ゲームでは「グロ」に対しては個々人の権利を尊重する傾向にありますが「エロ」に関しては自由を尊重する傾向
・漫画では「グロ」も「エロ」も自由を尊重する傾向にあります。但し、少年漫画、青年漫画、成年漫画等の共通概念を使って暗黙の了解で社会的公正も尊重しています。
・テレビでは多数の人間が見る為に「自由」を抑えて「公正」を尊重する傾向にあります。
etc...
「自由」か?
「公正」か?
というのを我々は常に考え続けてるわけですなぁ。
もう誰も覚えていないと思うけど、3年ほど前、ここに、"Hello world!"というタイトルのエントリを投稿した。あの話の続きをしようと思う。
※このお話はたぶんフィクションです。実在の人物や団体とはあんまり関係ありません。
※前回のあらすじ:高校中退→工場派遣→プログラマ→ホームレス→自立支援施設→プログラマ→海外放浪→職業訓練→世界一周アプリを作る
あれから3年、いろんなことがあった。またプログラマとして働いたり、またホームレスになったり、福島で除染作業員をしたり、本当にいろいろあったけど、 今回の主題にはあんまり関係ないのでざっくりはしょる。今回の主題は世界一周についてである。
僕はいつか世界を巡る旅をする。10年くらいかけて。わりと本気で。その計画を立てるためのアプリケーションも作った。でもそのアプリは正式リリース以降、開発が頓挫している。開発を進めるにあたって、致命的な問題があることがわかったからだ。それは、開発者である僕自身が、この世界について何も知らないに等しい、という問題だ。
開発者は、システム化する対象に関して、誰よりも精通していなければならない。業務用アプリケーションの開発なら、 その会社の業務フローについて、社内の誰よりも詳しくなくてはいけない。システム開発とはそういうものだ。そして今度の対象は世界だ。すべての国だ。それを僕自身が知らなくてはならないのだ。
しかし世界は巨大で、そして複雑だ。
国連加盟国は現時点で193か国。それぞれの国の下に州や省や県があり、その下に市区町村があり、そういった階層的な行政単位以外にも、歴史的背景から自治区になっているところや特別行政区、連邦直轄領もあり……。
そういや連邦ってなんだろう。なんとなく知っているようでいて、詳しくはわからない。王国と共和国ってどう違うんだろう。国の形ってなんでこんなにいろいろあるんだろう。いやそもそも国ってなんなんだ。どうすれば「国」になるんだ。
国連に加盟していればいいのか。いや国連非加盟の国もあるじゃないか。国家の三要素(領域、人民、主権)を満たしていればいいのか。しかしそれを満たしていることを誰が認定するんだ。他国からの承認があればいいのか。その他国は誰が国だと承認したんだ。政治的問題から国なのか国じゃないのかはっきりしない地域だってたくさんある。国とか国じゃないとか最初に言い出したのは誰なのかしら。
それは世界一周アプリの開発中に国データをちまちま作っていたときにも思ったことだ。もしかして「国」というのは、僕が思っていたほど絶対的で、はっきりしたものではなく、相対的で、曖昧なものなんだろうか。
わからない。わからないことだらけだ。こんなもの本当にシステム化できるのか。複雑ってレベルじゃねーぞ。これが仕事だったら「うんこー☆」とかいいながら全力で投げ出しているところだ。しかしこれは仕事ではない。これは仕事ではないので、真剣に取り組まなければならないし、投げ出すわけにはいかないのである。
だけど、 どうしたらいいんだろう。世界はあまりに巨大で、複雑で、茫洋としている。何かとっかかりが必要だと思った。基点が必要だと思った。人でも物でも事柄でもいい。それをとっかかりにして、基点にして、少しずつ裾野を広げていけばいいのではないか。そう思って、自分の記憶を探ってみる。僕の基点、時間軸と空間軸の原点、それは子供のころ、ブラウン管の向こうに見た、落書きだらけの大きな壁だった。
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した。僕が9歳のときだった。ニュースは連日連夜、この話題で持ちきりだった。興奮気味に壁を壊す人たち、全身で喜びを表現する人たち、泣きながら抱き合う人たちもいた。世界中が大騒ぎになっているようだった。僕はその映像を、意味もわからずただぼんやりと見ていた。
それからしばらくして、社会科の教科書の世界地図が大きく書き換わった。ソ連という国がなくなり、新しい国がたくさんできたのだという。国がなくなる? 国が新しくできる? その意味もまたよくわからなかった。
時間軸は一気に飛び、ベルリンの壁崩壊から20年以上たったころ、僕は生まれて初めて日本を出た。半年かけて海外を放浪した。特に目的もない旅だった。だからその場所に行ったのも、ほんの気まぐれだった。
ベトナムのホーチミン市にある戦争証跡博物館。ベトナム戦争の記憶を後世に伝える博物館だ。旅の途中にふらりと立ち寄ったそこで見たものを、僕はいまでもフラッシュバックのようにありありと思い出せる。
銃器、対戦車地雷、その他さまざまな武器弾薬が「こうやって使われていたんだ」といわんばかりに、実際に使用している場面の写真と並べて展示されている。銃を突きつけられて悲壮な顔をしている男性、道ばたで血まみれになって死んでいる子供、虫の死骸のように雑多に並べられた人の死骸、そんな凄惨な写真がこれでもかと並ぶ。
何か、自分の中で価値観が急速に書き換わっていくのを感じた。頭の中がぐちゃぐちゃになって、いろんな言葉が浮かんでは消えていく。
「資本主義」
「共産主義」
「イデオロギーとは何だ?」
そのとき同時に頭の中に浮かびあがってきたのが、子供のころに見たベルリンの壁崩壊のニュース映像だった。あれから20年以上たってようやく僕は、あの人たちがどうしてあんなに泣いたり喜んだりしていたのか、少しだけ理解できたのだ。
あの博物館で僕がもっとも強く感じたのは、「戦争は悲惨だ」という事実ではなく、「どうしてここまでのことになったのか?」という疑問だった。人が人を虫けらのように殺す、その理由が知りたい。そこには絶対にそれなりの経緯があるはずである。東西冷戦とは何だったのか、僕はまずそれを知らなければならない。
しかしこうなるともう最初から世界史をやり直したほうが早いんじゃないかと思った。よし、時間軸を一気に人類の歴史の始まりまで巻き戻そう。
まずは大河流域で文明がおこる。チグリス・ユーフラテス川、ナイル川、インダス川、黄河。うわー、すげー懐かしい。そして農耕が発達する。食料を安定して収穫・保存できるようになると権力が生まれる。そこからは世界各地で似たような権力闘争が延々と繰り返される。
特に印象深いのが「カノッサの屈辱」だ。十代のころ、学校でこれを習ったときは意味がわからなかった。この人たちは何をそんなに必死になっているんだろうと思っていた。いまならわかる。目的は、権力そのものなのだ。人の頭を踏みつけること、人を思い通りに動かすこと、それ自体が目的であって、権力によって得られる富や名声は二の次なのだ。それは自分の経験を振り返ってみてもわかる。ヤンキーの世界でもエリートの世界でも、どんな場所でもどんな階層でも、人間が集まれば、始まるのはいつも頭の踏みつけあいである。それが直接的か間接的か、下品か上品かという違いはあれど、やっていることは同じだった。だから世界史に記されたこのくだらない争いの数々も、いまは実感を持って理解できる。
そして絶対的な権力者である神によって凍結されていた歴史が、ルネサンス以降、急速に動き始める。宗教改革、名誉革命、フランス革命。それまで聖職者や王侯貴族が持っていた権力が少しずつ引き剥がされていく。そしてフランス王国はフランス共和国に。ああそうか、王国と共和国の違いって「王様」がいるかいないかなのか。さらに現代の「国」という概念、国民国家というのも、このころに生まれてきたもののようだ。人類の歴史から俯瞰すれば、ここ200年くらいの「流行」にすぎないのだ。
しかしフランス革命って華々しいイメージだったけど、こうして改めて調べてみると、革命政権の恐怖政治によって何万もの人間が処刑されていたり、何度も王政に戻っていたり、混沌としすぎていて、華々しいなんてとてもいえない血まみれの革命だったのだと気づかされる。
そんな混沌の中、産業革命を経て、歴史はさらに加速する。権力のあり方も変わる。聖職者や王侯貴族に変わって資本家が台頭してくる。資本主義が加速する。貧富の差が拡大していく。賃金労働者は悲惨な労働環境で搾取され続ける。暗澹とした空気の中、社会主義・共産主義という思想が台頭し始める。ロシア革命が起こる。世界初の社会主義国、ソビエト連邦が誕生する。
いままで社会主義ってあまりいいイメージはなかったけど、こうして順序立てて成立の経緯を追っていくと、歴史の中での必然性がわかる。みんな、もう誰も頭を踏みつけあわずにすむ世界が欲しかったのだ。だから既存の権力や富や労働のあり方を強制的に変える。そしてそれが国の形を変える。そうか、国の形ってこういうふうに決まるのか。
しかし計画経済ってなんだろう。どうしてそんなものが必要になったんだろう。と思って、初心者向けの経済学の本を何冊か読んでみた。めちゃくちゃおもしろかった。経済ってこういうものなのかと思った。市場経済では必ず景気は好況と不況を繰り返し、いつかどこかで恐慌を引き起こす。そんな繰り返しをさせないために、計画経済では政府の計画にしたがって商品を生産する。そうか、そんな経済の形もあるのかと思った。ずっと現代日本で生きてきた僕にとっては、市場経済があたりまえすぎて、市場の自由がどうの規制がどうのといわれても、これまでピンとこなかった。「あたりまえ」のことは、対比されるものがないと、それを知覚することさえできないものなのだと知った。
その市場経済へのアンチテーゼとしての計画経済は、しかし破綻する。いつ、どこで、誰が、何を、どのくらい欲するか、なんてことを計算し尽くすには、リソースが足りなさすぎたのだ。結果が出ているいまだからいえることなのかもしれないけど、少数の頭のいい集団の演算能力よりも、多数の平凡な人間の無意識的な分散コンピューティング(見えざる手)のほうが演算能力は遥かに高いのである。
そして社会主義自体も破綻する。ソ連型の社会主義では一党独裁を必要とする。しかし絶対的な権力は絶対的に腐敗する。それは歴史が証明している。独裁政権は必然的に暴走していく。これも僕は経験として知っている。「いじり」がいつも「いじめ」に発展するのと同じだ。他人をおもちゃにできる、自分の思い通りにできる、これは権力である。そして「いじり」は場の空気によって正当化されるので抑制がない。抑制のない絶対的な権力は暴走する。だから 「いじり」はいつも「いじめ」に発展する。企業内のハラスメントや家庭内の虐待も同様だ。人間は好き勝手にできる状況に立たされたとき、好き勝手に振る舞うものなのだ。そうか、チェックアンドバランスってそのために必要なのか。絶対的な権力は絶対に生み出してはならない。権力は絶対的に抑制されなければならないのだ。三権分立を唱えたモンテスキューさんマジパネェすわ。
こうして自由主義・資本主義の矛盾への疑問から生まれた社会主義・共産主義は、自身に内包していた矛盾によって自壊していく。そして時間軸と空間軸はまた原点に戻る。冷戦の象徴であり、永遠に世界を二分し続けるかのように思われていたベルリンの壁が、ささいな行き違いからあっけなく崩壊する。ほどなくしてソビエト連邦から次々に構成国が離脱し(国が新しくできる)、連邦は解体される(国がなくなる)。
天秤の片方から社会主義・共産主義が脱落したことにより、その後、世界はまた自由主義・資本主義へと大きく傾いていく。混合経済の社会主義的な部分が次々と取り払われていく。その結果が、派遣法改正だったり、リーマンショックだったりするのだ。そしてそれらは僕の人生にも多大な影響を与えている。そうだ、これはひとごとではない。遠い昔にあった「歴史」でもない。僕がいま生きている「現代」の話なのだ。
そうか、世界ってこういうふうに動いていたのか。少しずついろんなことがわかってきた。国とは何か。イデオロギーとは何か。なぜ法の支配が必要なのか。なぜ憲法が必要なのか。しかしそれよりも何よりも、ひとつ重大な事実を確信した。それは、世界のすべてを知ることは絶対にできない、ということだ。
ミクロの領域――個人の感情や行動、これはわかる。マクロの領域――世界の市場や情勢、これもわかる。しかし両者がどのように関連しているのか、個人の感情や行動が、どのように影響しあい、どのような力学が働いて、世界の市場や情勢を動かすのか、逆に、世界の市場や情勢が、個人の感情や行動にどのような影響を与えるのか、それを計算し尽くすことは、誰にもできない。それは人間の演算能力の限界を遥かに超えているからだ。
「俺は世の中の仕組みをわかってる」「裏の論理まで知ってる」と嘯く人にはたまに出会うけど、そういう人が本当に世界の仕組みを知っていたことは一度もない。本当にただの一度もなかった。陰謀論はマクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路をショートさせただけの反知性主義にすぎない。僕はそんなチートに興味はない。僕は真正面から、正攻法で、その回路を解析したいのだ。そうでなければ意味がない。
ああ、そうか、経済学とは、それを解き明かそうとする学問なのだ。マクロとミクロの間にある巨大で複雑な回路。それを解析するのが、経済学や、その他の社会科学なのだ。僕はそれを、もっと深く学ばなければならない。
進むベき方向性は見えてきた。しかしここからどうするか。独学ではもうこのへんが限界のような気がする。つぎはぎだらけの学習じゃなく、もっと体系的に学びたい。でもどうやって学べばいいのかがわからない。僕はまず、学び方を学ぶ必要があるのだ。それには、どうしたらいいのか。
大学に行く。どうしてそんな選択肢が浮かんできたんだろう。これまで僕の中にそんな選択肢は存在していなかった。そのはずだった。これまでずっと金も時間もなく、ただ日々の生活に追われるばかりで、そんなことを考える余裕は一切なかった。そんなことを考えるくらいなら明日の飯の心配をしたほうがいい。ずっとそう思って生きてきた。
何より僕には自信がなかった。自分みたいな中卒の人間が高等教育を受けたところで何の意味もないと思っていた。そんなの僕にはまったく関わりのない知識階級の人間の世界だと、大学なんて僕にはまったく何の関係もない、別の世界に存在するものだと思っていた。
でも思い返してみれば、その認識は少しずつ変化していた。いろんな仕事をしたり、あとさき考えず旅に出たり、プログラムを組んだり、文章を書いたり、そしてそれを不特定多数の人の目に晒したり、ずっと何かに追われるようにそんなことを繰り返してきたけど、その過程で、僕は何か大切なものを拾い集めてきた気がする。それはたぶん、自尊心と呼ばれるものだ。幼いころに失い、ずっと欠けたままだったそれを、僕はこの歳になって、ようやく取り戻すことができたのだ。
だからいまは自分が高等教育を受けることに意味がないだなんて思わない。大学が別の世界に存在するものだなんて思わない。ああそうか、だからいま、このタイミングで、「大学に行く」という選択肢が、僕の前にあらわれたのか。
あとはこの選択肢を選び取るかどうかだ。
いまの時代、大学に行くなんてそんなにたいしたことじゃないのかもしれない。だけど少なくとも僕にとってそれは、とてつもなく勇気とエネルギーが必要なことだ。ホームレスになることよりも、右も左もわからないまま海外に飛び出すことよりも。
現実的な問題もたくさんある。資金、学力、人生の残り時間。いろいろと考え始めると、解決しなければならない問題が多すぎて、わけがわからなくなってくる。もうどうでもいいじゃないかと投げ出したくなってくる。でも僕の中の何かが、そうさせてくれない。僕の中の何かが、そうじゃないだろうと責め立てる。
これには覚えがある。この熱には覚えがある。これは、あの旅の途中、自分の中に発見した、マグマのような熱量だ。感情になる前の感情。行動になる前の行動。名前なんてつけようもないほどプリミティブな衝動。僕はいままさに、それに直面している。そしてその熱量からは、どうあがいても逃げられない。それだけは確信できる。
だったらもう、覚悟を決めるしかない。本当にもう、そうするほかどうしようもない。
僕は大学へ行く。
そうやって覚悟を決めてみると、ものすごく気が楽になった。気分が軽くなった。
ああどうしていままでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。その想いはずっと自分の中にあったのに。
根本的な問題として共産党と名乗る政党がこんなに議席を持ってる日本が異常なんだけどな
共産党(communist party)の支持率が5%あると言うと大概の外国人は仰天するし、地方議会で三桁人、国会で数人に議席数があると言うと絶句されるぞ
http://anond.hatelabo.jp/20150827013726
厳然たる事実だよ
自由主義国家で、○○共産党(コミュニストパーティー)と名乗る政党が存在する国はせいぜい10かそこらしかなく、国政選挙の得票数も数百とかそのレベル
「元共産党」なら多数あるが、そもそも名前を変えざるを得ないほどに共産党の名前が欧米ではネガティブなことの裏返しでもあるし、未だに共産主義革命を公言してるところなんて皆無と言って良い
もちろん私だって、露出狂を取り締まることに異論はない。(実は露出狂を取り締まる理由が『見たくない人を保護するため』ではないという事実はさておき)
だが、”見たくない人への配慮”は一歩間違えば差別の道具になる。
極端な例を挙げるならば、在特会の会員が「在日朝鮮人を見たくないという私の気持ちにも配慮してください」と主張することだってできる。
もちろん、いくら日本が右傾化しているといってもこの主張は現状では通らないだろう。
だが、「同性愛を見たくない人もいるんだから、同性愛描写は異性愛描写と違い、見たくない人に対して特別な配慮をすべき」だったらどうだろうか。もちろん、この主張自体は同性愛差別だ。
ただ一方で、現在の社会にはホモフォビアが依然として存在する。同性愛をやたらと否定する団体か何かが強く規制を訴えたら、何かの拍子にその手の規制が通る可能性は十分にあるし、現にロシアでは実行されている。
そもそも、どんな表現だって”見たくない人”は一定割合いるのだ。幸せな家族の描写を『自分の家族はああではなかった』『家族はこうでなければならないという押しつけを感じる』という人もいる。
男女の対等で幸せな恋愛描写を『自分はどうせ恋愛なんて出来ないのに』と思う人だっている。
そういう『誰か一人でも、見たくないと思う人がいるもの』を全てインターネットやテレビや公共広告から排除したら何も残らない。『見たくないものでも、過度に心理的に傷つける物でなければ、その存在自体は受け入れる』というのが(自分だけではなく他者の自由も最大限に尊重するという意味での)自由主義ではないだろうか。
それをすっ飛ばして「見たくない人にも”十分な配慮”をするべき」と主張する人は、『自分たちの主張は単に気に食わないもの・弱者・マイノリティの排除を求める差別主義になっていないか。本当によりよい社会をつくるために為されているのか』
と自問自答するべきだと思う。
私は本気でそう思う。具体的には、「オタクは表現の暴力性や、性の商品化・記号化について罪悪感を持つべき」と言っている人と同じくらい本気で思う。
以下引用
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150522/p2
・・・たぶんWW2以降の世界的な社会民主主義の流れで、冷戦、対共産主義のために資本主義、自由主義陣営側が、再分配を強化していく流れがあったと思うのです。なんで、弱者による圧政と専制みたいな感じで、人権などのロジックを使って、これまで虐げられてきたり抑圧されていた層が権益を獲得していく時代だったと思うんです。
けれども、アメリカのアファーマティヴアクションが経た流れと同じで、これを進め過ぎた結果、逆差別が起こってくるようになってきたんですね。
弱者というロジックを使って既得権益の化け物と化して、リソースをフリーライドする方法が社会に蔓延る様になってきた。
また、それでも高度成長などの社会のパイが極端に倍々ゲームで増えていく時期には、それでも問題が多い隠されたので特に問題はなかったんです。けれども、成長がマイナスか、現状維持になって、かつ人口がマイナスに転じてくる時点で、リソースの配分は、正しくフェアでなければいけないという風になってきたんですね。
わかると思いますが、アファーマティブアクションは明確なる逆差別なので、そもそもフェアではありません。アメリカにおける黒人差別を例にとるとわかりやすいのですが、歴史の長きにわたって黒人が差別されたので、現在は黒人を優遇しようということです。けれど、そうすると、黒人以外の層、、、現代の白人、特にプアホワイトなどといわれる貧困層は、逆差別を受けるわけです。
その人たちからするとひどい話で、過去のご先祖様のやったことを、現代の人が責任を取らされているわけです。これ、自分がその立場になったら、やり切れないですよね?。仮に、歴史的に考えれば、それが妥当で正しくても。いやでも、白人が黒人を虐げてきたのは歴史的な事実だから、いま責任を取るのはフェアだ、といったとします。まぁ、これはある一定の妥当性があるので、アメリカ社会でも受け入れられてアファーマティヴアクションが続いているわけです。。。。
しかしね、、、これで何が起こったかというと、プアホワイトや白人層が、軒並み宗教や右翼にシフトしたんですよね。特に中産階級を形成していなかった貧困層の右翼への転び方は、すごかった、イラクやアフガニスタン戦争を遂行したブッシュ大統領の共和党の支持層は、まさにここですね。
えっと、何が言いたいのかというと、(1)勝利至上主義で、ちゃんと現実と闘って頑張った人が報われるべき!というのは、一つ目の正しさです。けれども、そうすると、(2)負けてしまった人々やそもそもマクロ的に頑張れない層が、才能の差によってもたらされたものをケアしろ!といってきます。これは、2つ目の正しさです。
そうして、(1)で頑張った人の努力を奪って再分配を(2)にするとします。そうすると、(2)の層は、その再分配を糧に、頑張る人と、何もしない人が出ます。ようは、(2)が、(1)に転じる人が出てくるんですね。そうなると、(2)で頑張らずに努力しなかった人へ、強い批判が集まります。特に、(2)から脱出した人が、凄い批判社になります、たいてい。これがスパイラルで何周回もしていきます。
ということをしていくと、社会的に不公平感が生まれてきて、特に頑張った層の中でも、それほど恵まれていない層が、右翼化するんですね。なんで、こんなにがんばっているのに、(2)の何もしない奴らに譲歩しなきゃならないんだ!!!って。さらに、(2)のなかでも、頑張らなかった層の中には、がんば『れなかった』人もいるわけです、社会マクロ的な要因や才能の差にしても、、、、そうすると、なんでできるやつにおれが責められなければいけないんだ!と怒り狂う。そんで、この人がルサンチマン化した左翼化になるようなんですね。あっ、ちなみに右翼化して、外国人や移民排斥などの、さらに弱者を探して叩くケースもよくあります。ちなみに、どちらかというと、ヨーロッパをみていると、現代の全地球的な傾向は、移民排斥をベースとした右翼の台頭が、基本のトレンドです。
労組に詳しくないけれども、一時労組の人とお付き合いがあったので許して欲しい。
そして実態や事実でなく個人的な印象なのでさらに申し訳ないのだが、私も増田の書いている事に共感する。
推測だが、伝統的に左翼的労組は相手を国家や体制という極めて大きいものと想定し、安保破棄や基地撤廃など獲得目標も極大化させ、負けて当たり前の勝負を挑む事で自己保身と承認を図ってきたのではないだろうか。
自ら「悪」と印象付けた大きなものに挑む事で正義に殉じる闘士を演じ、周囲の一部から称賛を得てきたのだと思う。
その歪な成功体験から抜け出せず、あるいは労働組合の本来の意義が理解から抜け落ち、また自由主義経済の結果に全く対応できず今の惨状に至っているのだと思う。
事ここに至っては、大きな事業所においては第二労組を結成し、本来の労働問題にのみ真摯に取り組む組合員を増やさなければ労働者の立場は日に日に弱まっていくだろう。
「万国の労働者よ団結せよ!」おそらくこのようなスローガンが間違いで、同じ職場の同じフロアーや課の人と団結というか協力して、職場環境や労基法の順守について取り組む事が今最も求められていると思います。
徴兵制や、個人の財産封鎖、その他嗜好性の把握などに繋がると憶測するメディアは多い。
国家権力にとって、
マイナンバーが国民統治の為の非常に使い勝手の良いツールになることは間違いない。
マイナンバー制の導入を防ぐには、
それ自体が人権侵害(あるいは何某かの憲法違反)になることを立証する以外にないのだけれど、
マイナンバーを使えば、
もし今後、マイナンバーを使った国の施策に反対したいのならば、
それになるかの選択肢がある。
マイナンバー=徴兵制みたいなミスリードに惑わされてはいけない。
さもなくば、我々市民はミスリードによるおかしな糾弾に力を使ってしまい、
本当に解決しなくてはならない問題への取り組み、
腐敗の道を歩んでしまう。
最終的な腐敗のシナリオは、
この記事は別にマイナンバーそれ自体をたたく為の記事ではない。
冷静に考えて、
今はそうならない様に、
ODAを強化するなどして仲間を増やしたりしてそれを防いでいるけれど、
そして、
恐らく、何よりも恐ろしいことに、
本当に良く分かっている。
敢えてそういう状況を作っている。
今は、
なんだか悲しい。
正義の為に人は、人を殺す。
彼らはなぜ人を殺すのか。
戦争をするのか。
それは、
銃で撃たれて死ぬのではなく、
同志は、
圧倒的な自由主義によって、
圧倒的な為替の差、
圧倒的なビジネスモデルの偏りで、
ファーストフード店で1時間も働けば1つのTシャツを手に入れられる先進諸国の人々と相対して、
彼らは1日中働いてもそのTシャツを手に入れられるかどうかわからない。
出来上がった格差の元に、
目の前で同志が死んでいるとしたら。
富は更に強固な富を作ろうとする。
それでも勇者は断った。
正義の為に。
半分でも断るんだよ。
今、先進国が、
半分どころか数分の一か、数百分の一か。
これは、グローバリズムの片りんだ。
そこで思考の停止を生む。
なぜ起こすかを深く考えて、
その背景をたどらなくては、何も解決しない。
何も解決をする気の無い人々に操られれてしまう。
このグローバル社会を生きなくては、
大きな力にはあらがえないが、
大きな力の中で自ら考え、自ら行動することはできる。
だから、
しっかり考えよう。
イスラム国に助命嘆願をした国内イスラム法学者が叩かれてるらしい
http://anond.hatelabo.jp/20150122200634
有名中東研究者の人は「この件で政府批判するのはテロリストの味方しているのと同じ」と釘を刺し
NHK含め報道番組では解説者たちが「この件で国内が揺さぶられることはテロリストの思う壺」と話し、国民に一枚岩になることを要請する。
マスコミはただ単に政府の方針を伝えるだけではなくて「身代金を払うのはテロリストの味方になることだ。新たなテロの資金源になる」と解説し、それが普遍的で唯一正しいメッセージだと視聴者に植えこませようとしている。
英米は身代金を絶対に払わない、相手に絶対に譲歩しないという立場を表向きしているが、他の国では柔軟に対応し人質解放を目指す交渉をしている。
「イスラム国に絶対に譲歩しない」は唯一の解決方法ではないし、自由主義国家では国民がそれぞれ解決方法を提案できる。
イスラム国に揚げ足取られて殺害予告動画に使われた安倍総理の中東訪問について、もっと他にベターな選択肢はなかったのか、と疑問を発することもできるし、批判したっていい。批判したからといってテロや暴力を肯定し、イスラム国を支持することには絶対にならない。「反日」「売国」になると思う人がいれば、日本語が不自由か、それこそテロリストのイスラム国と同じ圧力で従わせる性質を持っているのだろう。太平洋戦争中の窮屈さもこんな感じだったんじゃないか。こんなもんだったと言うべきか。
あと、国内ネットでは「譲歩できない」と吹き上がってるけど現場では普通にあらゆるカードを想定して動くのが普通だよね。表に出す出さないは別だけど。