2015-06-23

見たくない配慮を求める人は、差別主義とどう違うか自問自答するべき

もちろん私だって露出狂を取り締まることに異論はない。(実は露出狂を取り締まる理由が『見たくない人を保護するため』ではないという事実はさておき)

だが、”見たくない人への配慮”は一歩間違えば差別の道具になる。

極端な例を挙げるならば、在特会の会員が「在日朝鮮人を見たくないという私の気持ちにも配慮してください」と主張することだってできる。

もちろん、いくら日本右傾化しているといってもこの主張は現状では通らないだろう。

だが、「同性愛を見たくない人もいるんだから同性愛描写異性愛描写と違い、見たくない人に対して特別配慮をすべき」だったらどうだろうか。もちろん、この主張自体同性愛差別だ。

ただ一方で、現在社会にはホモフォビアが依然として存在する。同性愛をやたらと否定する団体か何かが強く規制を訴えたら、何かの拍子にその手の規制が通る可能性は十分にあるし、現にロシアでは実行されている。

そもそも、どんな表現だって”見たくない人”は一定割合いるのだ。幸せ家族描写を『自分家族はああではなかった』『家族はこうでなければならないという押しつけを感じる』という人もいる。

男女の対等で幸せ恋愛描写を『自分はどうせ恋愛なんて出来ないのに』と思う人だっている。

そういう『誰か一人でも、見たくないと思う人がいるもの』を全てインターネットテレビ公共広告から排除したら何も残らない。『見たくないものでも、過度に心理的に傷つける物でなければ、その存在自体は受け入れる』というのが(自分だけではなく他者自由も最大限に尊重するという意味での)自由主義ではないだろうか。

それをすっ飛ばして「見たくない人にも”十分な配慮”をするべき」と主張する人は、『自分たちの主張は単に気に食わないもの弱者マイノリティ排除を求める差別主義になっていないか。本当によりよい社会をつくるために為されているのか』

と自問自答するべきだと思う。

私は本気でそう思う。具体的には、「オタク表現暴力性や、性の商品化記号化について罪悪感を持つべき」と言っている人と同じくらい本気で思う。

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