はてなキーワード: 新潟三区とは
かつては田中角栄を「金権政治」と批判していた石原慎太郎が、田中角栄の本を書いて、「角栄がいかに素晴らしい政治家だったか」を吹聴して歩いている。
そのこと自体にそれほど関心はなかったのだが、先日たまたま慎太郎が
「角栄は素晴らしい政治家だったのに、アメリカに逆らったから、ロッキード事件で人格まで否定された」といった趣旨のことを新聞紙上でのたまっていた。
アメリカに逆らったからかどうかは置くとしても、田中角栄はロッキード事件で政治生命を絶たれた、というような、雑な理解をしている人は多い。
酷いのになると、ロッキード事件のせいで首相を辞めたのだと思っている奴までいる始末だ。
ちょっと当時のことを調べれば、事はそんな単純な話ではないこと位、すぐわかるのに。
まず、「ロッキード事件のせいで首相を辞めた」は完全な間違い。
今太閤と呼ばれたの田中角栄が総理に就任したのが1972年7月。その時の支持率70はパーセントを超えたという。
その後、日中国交回復を成し遂げたあたりまでは良かったが、その後支持率は降下しはじめる。
なぜなら、自らの主導した「列島改造計画」による地価高騰やオイルショックによって引き起こったインフレ(当時「狂乱物価」といわれたらしい)に
そこに追い打ちをかけたのが、文芸春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究」と児玉隆也の「悲しき越山会の女王」という論文だ。
いわば「文春砲」のルーツである。まあ、こちらは「週刊文春」じゃなくて、月刊の「文芸春秋」だけれど。
ちなみに、そのひと月前には、石原慎太郎の田中角栄批判論文ものっていたらしい。
もともと金権政治家との評判が高かったところへ、事前の期待ほどの成果を上げず、国民の失望を買いつつあった田中角栄は、
「外国人記者クラブ」の会見で袋叩きにあい、その後、辞任を表明する。
アメリカ上院でロッキード事件が発覚したのは、そのあとの話である。
田中角栄という人は、多分、焼け野原になった日本の復興を推し進め、同時にその利益を
雪に閉ざされた故郷新潟に力づくで誘導することで、首相に上り詰めた人なのだろう。
自由主義経済第2位の経済大国を率いていくためのプログラムは、組み込まれてはいなかったんじゃなかろうか。
ロッキード事件があってもなくても、早番行き詰っていたのだろう。
慎太郎は、ロッキード事件で角栄の人格まで否定されたというが、
別にロッキード事件で政界から石もて追われたとか、そんなことがあったわけではない。
ロッキード事件後も、「闇将軍」として自民党で一番結束の固さを誇る派閥を率いていたし、
中曽根康弘なんかは、その内閣があまりにも田中角栄の影響力が強すぎて、「田中曽根内閣」などと揶揄されていた。
以下、個人的な思い出になるが、田中角栄がロッキード事件の第一審で有罪判決を受けたころのことは
幼心になんとなく覚えている。
「元総理の現職国会議員が有罪判決を受ける」という、日本憲政史上初めてのニュースにテレビは沸き立っていた。
一方で、田中角栄という人は、選挙で絶大な強さを誇り、新潟三区でトップ当選し、選挙民が万歳する様子も
必ずニュースで放映されていた。
自分の父親は、朝日新聞を信奉して世の中をみる昭和のインテリ気取りだったから、
こうしたニュースを苦々しくながめ、
「ああいうのが日本を悪くする」「新潟は田舎だから、あんな奴がいつまでもトップ当選するのだ」などと言っていた。
田中角栄にとどめを刺したのは、ロッキード事件でもアメリカでも文春でもなく、
闇将軍の下についていては、何時までたっても総理大臣になれないことに不満を持った竹下は、
配下の裏切りに心乱れ、毎晩オールドパーを浴びるほど飲んでいた田中角栄は、創政会立ち上げの20日後、
脳梗塞に倒れる。
脳梗塞で言語障害が残った彼に、その力を再び発揮するのは不可能だった。
石原慎太郎という人は、まさに同時代を政治家として生きていたのだから、こうした経緯を知らないはずはないのだが、
意図的なのか、都合のいい忘却体質なのか、こういうことを全て無視して適当なことを言う。
本人が言うだけならいいのだが、それをありがたがって拝聴するバカがいるからタチが悪い。
歴史のねつ造、というのは、主に第二次大戦以前のことについてよく言われるワードだが、
石原慎太郎の角栄に関する発言を見ていると、「ああ、こうして日々新たな歴史がねつ造されていくのだな」というのが良くわかる。