はてなキーワード: 自由主義とは
大半の日本人は、鉄道に関して、娯楽施設として認めておりません。本来なら鉄道運営側が負うべき迷惑の一切の責任を鉄道趣味は負わされています。その傍証になる動画などが多数アップされております。
このような趣味を今後はすべきではないでしょう。
また、昨今の政治界隈でのバッシングの多さなどから判るとおり公共の眼が厳しい現在の状況下にあっても、なおも娯楽利用を自重していない、あるいは自重の意思がないとしたら、それは公共インフラの乱用であることを承知して黙秘しているということです。そうなると情状をくむ余地はなくなります。
今後の大半の日本人は、公共交通の私物利用には厳しい態度で臨みますし、あわせてマスコミに密告します。鉄道趣味は、自由主義社会の不条理に漬け込んだ非道徳であることを覚えておきましょう。
概ねどの記事でもそうだが、「この世は弱肉強食である」とか書くと「適応云々~」だの「人間社会はああだこうだ~」というマウンティングをよく見かける(本人はこれで論破した気になってるのでマウンティングということにしておく)
しかし、現今社会、アベ政治であろうがミンス政治であろうが、そこにあるのは強きものが弱きものを搾取して成立する社会であり、これを弱肉強食と言わないでなんと呼べばよいのか、低偏差値の私にはわからぬ。
そもそもの話、所得層のピラミッドを建てれば少なき富裕層が多き貧困層から回収するシステムで経済システムは出来上がっており、これ自身が既に格差社会や弱肉強食を産まんとする力学が働くだろう。
そうでないとして、これを上流から下流へ流さんとする力は明らかに弱い。なぜか。
企業の内部留保はよく批判されるが、これは言ってしまえば企業の貯金である。
これを切り崩すなり他からなんとかするとして個人に分配するとしよう。個人は消費するだろうか?
消費せず、貯蓄するのは想像に難くない。
結局、法人対個人という枠で、どっちが貯金するんですか、というのが今の働き方改革含めての日本社会の問題なのだ。
では新たな問題だが、バランスのよい(良さは解釈によるが)社会に弱肉強食は成立し得ないのか。
これは世界的な食糧問題とも直結するが、総量の少ない中でバランスを求めてもそこにあるのは全貧困という絶望だけである。
倹しい暮らしなどと綺麗事はいくらでも吐けよう。しかし我々は、我々自身が、資本主義の門弟であり、快楽主義の権化であり、自由主義の体現である。
これを否定して誰が満足しようか。しない。
満足を求めて、争う未来が待っている。
総量を増やさぬ未来に平等な、あるいはそれに近しい幸福などありえない。
では総量を増やすにはどうすればよいのか?
コレを否定するならば、たとえば一極に富を集めるなどして集積することで、見かけ上の平等を実現するのが適当であろう。
諸外国と比べて、日本の左翼は国旗を仰がない、他国に日本を売る売国奴などと聞くが
こういう言説の問題なところは、今の日本の国政と「自分達・自国で作り上げた国」と比較しているところだ
現在の日本の体制は、アメリカによって作られアメリカの規定した国家制度でアメリカの庇護のもとで存在している
つまるところ、おおよそにおいて、国家を象徴するものが「自分たちのものである」と言う点が希薄なのだ
全てにおいても、特に国旗国歌にしても、「アメリカにとって都合が良かったから」と「アメリカに許されたから」でしかなかった
自分たちのものでない以上、自分たちのアイデンティティとはなりえないし、それが象徴として認めえるかは、「自分たちで作り上げた」民主主義国家と比して感情の複雑なものになる
占領から始まり、そこから日本には「アメリカに所属するか」と「アメリカに所属しないか」に分裂していて、ずっとそれが続いているだけの話だ、愛国だの売国だのと言う話ではない
アメリカ以外がロシアであり中国であることはあるがは時代によって変遷するが、結局のところ、両翼の思想において国の主体としての日本と言うものは実のところ存在せず、いわゆる右翼のいう所の愛国と言うものは虚構で
大まかに、アメリカの統治を認めるか=右翼、アメリカの統治を認めないか=左翼と言う構図でしかなく、アメリカを認める=(現在の)日本を肯定する=(虚構としての)愛国となるだけだ
売国奴と言う理屈も、中国やロシアを敵とする前提があって、それに利するから売国奴となるが、そもそも中国やロシアが敵であるというのはアメリカと組するという前提から生じている
アメリカと手を切って中国かロシアと協調すれば、それだけで単純に立場が逆転する
もちろん、中国と組すれば即座に占領地になり、チベットのように虐殺・圧政を受けるという危惧も当然だろうが
北朝鮮、北ベトナム、バングラディッシュと、隣接した社会主義国、中国有効ながら属領とならずにいる国もある
むしろ、チベットは反中国だからこそ攻め込まれ支配されている(勿論、侵略による圧政など否定すべきだが(ここは強調しておく))
個人的に、どっちかマシかと言えば自由主義に組するアメリカではあるのだが
それでもアメリカに所属することを愛国と言い張って、宗主国の選択で競い合ってるだけの相手を売国奴などと、どちらも国を売ってるだけの状況で偉そうに言える言葉ではないように思える
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20170511170337
上記記事のコメント欄を見て何度めかわからないけれど「左翼的な言説の限界と言うか気持ち悪さというかなんかもやもやするもの」についてのメモ。
初めに断っておくと、自分個人は穏健な左翼的な人間だと思ってる。この辺曖昧なのは「それそのものの人」に「お前なんかニセモノだ、死ね!」と棍棒で叩かれるのが怖いからであって、内心ではちゃんと穏当左翼だよ悪いスライムじゃないよぷるぷる、と思ってる。再配分はした方がいいと思うし、生活保護の捕捉率は上げたほうがいいと思ってるし、戦争はしないほうがいいと思ってるし、言論や思想の自由は大事だと思ってる。
でも、一方で、それは「俺という個人がそう願ってる」であるとも思っている。
ただ単純に「俺という個人がそういう政治的思想で、つまりは、そういう好みで、そうなればいいなあ、そうしたいなあ」と思っているという意味だ。
でも、政治的な記事へのはてブのコメントを見たり、世の左翼的な言説をするひとの発言を読んだりしていると、割と頻繁にどうしようもない違和感を感じる。
たとえば「再分配しないと社会が歪むでしょ」「再分配しないと治安が悪化するでしょ」「再分配しないと経済が伸びないでしょ」みたいな種類のコメントだ。
それらって、まず第一に、本当に本当なんだろうか?
例えば、社会が歪んだ結果、カタスロフ的なことが起きて世界が滅亡する――というような想定がなされているのであるならば、全人類が私欲を捨てて力を結集するというのにはインセンティブがあるのは明らかだ。しかし、想像だけど「社会が歪むでしょ」といったときの「歪む」って、そういうレベルの大災害を想定していない気がする。
そして第二に、だとすると、それって主観マターなんじゃないだろうか? つまり、歪んでいると感じない人(例えば富裕層)が存在する程度の「歪み」なんではないだろうか?
「治安が悪化するでしょ」「経済が伸びないでしょ」もそうだ。程度の問題で主観マターになってしまう気がする。
ここ2000年くらいの歴史を見ても、相対的に評価すれば、いまは全地球的に豊かで幸福な時代だと思う。歴史上最も格差が広がっているこの時代に、最も幸福なのだとすれば、格差が人を不幸にしているというのは、どういう説得力をもっているんだろう?
最初に言ったように、俺個人は再配分政策に賛成だ。もう少し弱者のケアをしたい。だから、そういう歪みや経済悪化を感じる主観があるってことそのものは、別に問題だとは思わない。ただ、でもそれは「俺はそう感じているんだよ!」でしかないので、他者を説得するに足るものではない。
違和感を感じるのはそこで、はてサであるいは左翼言説でよく見られる「~(は自明)でしょ」「そうすべきなのは明らかでしょ」「それが正解でしょ」という態度だ。
その発言を行った時点で「説得できた」と思っているような態度と言い換えてもよい。
左翼の人たちは、なんだか、「正しさ」に過剰な自信を抱いているようにみえる。「正しい(と自分自身で思っている)結論」を呟けば、それで話は終わるというような、その発言にあるような未来がやってこないのは、政府の/権力者の/資産家の陰謀であるとか、衆愚が正しさを理解しないからであるとか、なんだかそういうニュアンスを感じる。
俺個人は、どうしてもそこで安心して話が終わったという気持ちになれない。
俺が左翼っぽい、福祉とか再分配をもうちょっといい感じにしたいと思っているのは、純然に俺の好みでしか無いと思うし、そんな好み程度の発言で誰かを説得できるとも思わない。
日本の社会の歪みについては、歴史的に見ても、今ある歪みを直せば別の種類の歪みが出てくると思う。それは福祉をケアするという変更ですらそうだと思っている。この歪みとあの歪みのどっちがいいかっていうのは、まだそれを実行してないので選べないけれど、「歪みのない完璧社会が来る」なんて思えない。「いまよりましなのはこっちなんじゃないかなあ、好み的な判断だけど」くらいしかいえない。
治安の悪化については、うん、格差が広がると治安は悪化すると思う。でもそれを前提とすると、日本は世界的に見て治安がトップクラスに高いので、まだまだ格差はちいさくて、この先格差をどかーんと広げる余地があるっていう結論になってしまうんじゃなかろうか?
経済の発展については、最低賃金は上げたほうがいいと思う。でも、資産家からお金没収してそれをやるなんてやったら、それこそ経済ぶっ壊れると思う。私有財産権という、民主主義が旺盛や封建制から血みどろで奪った権利を「俺の好み」程度で犯すのは、到底「正義」だとは思わない。
何度も言うけれど、俺個人は福祉とか再分配をもうちょっといい感じにしたいと思っている。けれど、それはただ単に俺の政治思想的な好みの問題であって、「俺が正義で唯一正しい結論を言えるから」ではない。当然他の好みの人もたくさんいるのだ。自由主義とグローバリズムは、地球規模で見れば多くの人を救ったと言われれば、そうなんだと思う。俺個人は、そっちの思想の人を「お前は不正解」と断罪できるほどの「正しさ」をもっていない。
さまざまな政治信条の人が暮らす社会で自分の願いの方向に動かすのは、粘り強い議論とか、空気の醸成とか、そして選挙とかを経なければならないのだ考える。
仮にそっち方向に社会が進み始めたとしても、その後やってくるのは、プロジェクトを立ち上げた時に出てくるような、うんざりするほどの運営トラブルと制度バグと、それを一個一個デバッグしてアップデートしていくクソ長い時間だと思っている。
なので、「左翼的な決断が正義でしょ/当たり前でしょ/そうしないと社会滅びるでしょ」みたいな「正解を言ったんだからわかれよ」みたいなコメントを読むとものすごい違和感を感じるし、日本の左翼的な思想の限界ってここ――つまり「俺たちは正しいのでそうならないお前らが悪い」という、政治的対話や妥協を拒否する、傲慢な怠惰さなんじゃないかと思う。
今よりもっと良い社会がほしいのなら、今よりもっと対話のテーブルで汗をかく必要があるんじゃなかろうか。多くの人たちに自分たちの主張を「好き」になってもらえるように。
差別とはその対象を構成する何らかの身体的特徴,性格,出自,思想,その他肉体/精神を問わない何らかに対しそれをあげつらうことだとする。
一方,区別はその対象は同じだが,そこに線引きをする,ということに差別との違いがある。
たとえば,遊園地におけるアトラクションの身長制限は安全上の「区別」であり,これを「差別」と捉える人はまず居ないだろう。
また,男女でトイレを分けることも,身体的特徴からくる排泄行為の違い,及び盗撮などの各種犯罪行為を抑制するための「区別」と捉えることができる。
しかし,差別と区別を分ける本質的な線引きは存在しない。なぜなら,何らかの発言や措置をどう捉えるかは個人によって大きく異なるからである。
たとえば,(文脈にも依存するが)「バカ」と言われて喜ぶ人もいれば,烈火の如く怒る人もいる。電車やバスにおいて席を譲るにしても,
「私がそんな年寄りに見えるか!」と怒る人は少なからず存在する。
では,なぜ男女でトイレを分けることが「区別」で,人種によってトイレを分けることが「差別」とおそらく一般には広く認識されているかと言えば,
それは圧倒的多くの人,つまり世間がそう考えているからに過ぎない。世間や時代が変わればその境界は大きく揺らぐだろう。
たとえば低身長でも完全に安全なアトラクションが導入されたとして,そのアトラクションに対し「120cm未満の身長のお子様はお乗りになれません」という
ルールがあれば,119cmの兄は121cmの弟を逆恨みし,これは差別だと断じるだろう。
ここで重要なのは,ある発言を「差別」と受け取るか,「区別」と受け取るかはそれを言われた本人にしか決定できない,ということにある。
つまり,「ヘイトスピーチ」が世間を構成する人の殆どが差別的だと捉えたとしても,「ヘイトスピーチを行う人は差別主義者である」という発言を
ヘイトスピーチを行う人がその発言は差別だと認識する限りにおいて,「差別は常に行うべきでない」という前提があるのであれば,
「ヘイトスピーチを行う人は差別的」だからと言ってそれを「差別」することはできなくなる.ここにパラドックスが生じる。
これらから導かれる1つの思想は,「他者に危害を加えない限りにおいて,あらゆる思想や言動は許されるべきである」という自由主義的発想である。
この思想に従えば,「他者に危害を加えない限り」ヘイトスピーチも,反ヘイトスピーチも共に許容されるべきである。
ここで,「他者に危害を加える」ということがどこまで含むかをよく考える必要がある。
仮に,「反感を覚える」ことまでも「危害を加えられた」と定義する場合,反感を覚えるかはやはり主観によるため,
原理的にあらゆる思想・言動を規制することが可能となる。従って,ノイローゼになったとか,躁鬱病になったといったような
より別の基準を設ける必要があると考えられる。ここにはまだ議論の余地がある。
そもそも,なぜ議論が必要かというと,人間の発想・思想は不完全であり真理ではない,という理由が挙げられる。
従って,あらゆる批判を相互に許し,良いところは伸ばし,悪いところは修正を図ることで真理に近づくことができる,というのが
自由主義の考え方である。しかし,自由な批判を行うためには論理的な思考能力,互いの尊重,感情的発言の極限までの抑制などが
必要となる。それらの能力はどこでどのように身に付けるべきなのか。
義務教育において教え込むことで,非常に長期的視野に経てば数世代交代する頃には「大多数」がそのような能力を身に付けることが
可能になると考えられるが,そもそも,論理的な思考能力を身に付けるべきというこの自由主義的発想そのものも常に正しいと言えるのか,
批判の対象でなければならない.そのような対象を義務教育によりある意味では洗脳のように教え込むことは,所詮は多数派による
現体制の維持に繋がる行為であり,自らその必要性を強く感じ,そのような能力を獲得することが望ましい。
しかし,その必要性を感じるには,論理的思考能力が必要である。それはどこで身に付けるのか。
最近,このようなことをずっと考えている。
2017/04/14 10:52 Typo修正.劣化版ミルというよりも完全にミルの考えそのもの。
2017/04/14 10:52 ミルは『自由論』において多数派が小数派を多数決で圧殺することを無効化するため,
立場によらず,是々非々で相互批判を可能にするために「他人に危害を加えない範囲であればどのような自由も許される」という原則を提示している。
ただし,この前提として「分別がある」ということを挙げ,子供と発展途上国はその例外だから教え込むしかないと言っており,
この前提はたしかに現実的な前提ではあるものの,私は懐疑的立場を取っている。
「分別」はどこで付くのか.たしかに小学校の頃はないとしても,大学生ならついていると言えるのか。高校生はどうか?
また,この自由主義が「多数派」にもしなったとき,教育によりその体制を維持するというのは自由主義による「圧政」ではないのか?
2017/04/15
追記した。またね
米中首脳会談で何が話されたのかは秘密なのでさっぱりわからんが、アメリカのことだから戦争をやる前提で中国に無理難題を突きつけただろうな。
無理難題とは、
「金正恩の首を出せ」
という要求だ
「中国が金正恩の首を取らなければアメリカがとりに行く。中国とは戦いたくないからアメリカが北朝鮮を攻撃する時に中国は手を出すな。もしも中国が北朝鮮側につけば自由主義諸国は中国を市場から締め出す。中国経済は混乱し民衆が暴動を起こすだろう。国内が混乱すれば習近平、あなたは失脚する」
と付け加えて。想像だけどね。
中国が金正恩の首を取るとは思えないが、習近平は金正恩に自重するよう伝えるだろう。しかし、金正恩がどう考えるか?
先手必勝!と、ミサイルを飛ばすものの、PAC3とかで迎撃され(あるいは韓国や日本の都市に着弾し)て、アメリカに返り討ちに合う…
おれはリバタリアンだけどそういう息苦しい社会は持続可能ではないと思う。
増田が挙げているのは自己責任論というより、自分のもつ特定の思想に反した振る舞いをする人間を罵倒するお墨付きが与えられる社会って感じだ。
本当の自由主義社会は、どんな行いも基本的に(迷惑を掛けない限り)許容され、
それによるどんな類の失敗であっても、ある程度社会がフェイルセーフしようとすることが肯定される社会だ。
増田のと真逆なんだよ。増田モデルは全体主義やファシズムに近い。
そして、自己責任論と結びつけられやすいリバタリアニズムだけれども、
非リバタリアンが想像するリバタリアンは「個人は自分のやることを理性的に判断して行動できる合理的個人である」
と主張して暗に「賢くなれ、さもなきゃ死んで当然」と言わんばかりのマッチョだと捉えられがち。
でもリバタリアンと言われる人の多くはそんなに凝り固まっていない。賢くなることは重要だとは考えるけどね。
だってそうでしょ、人間はつねに合理的行動ができるなんて思っている人はそうそういない。
認知症だから重大事故を起こしてしまった、お前が認知症なのが悪い、
ギャンブル依存だから破滅してしまった、お前がギャンブル依存なのが悪い、
そういった例が100%自分の責任、自分のコントロールの圏内にあったのか、と言われれば誰もが難色を示すだろう。
そもそも情報があふれかえる現代、人は自分の意志で「自己決定」していることなんてあるのか、
「~からの自由」である消極的自由は守られるべきだが、「~する自由」である積極的自由を認めすぎると
衝突にあふれた社会になり、他人を攻撃・制御・統制しようとする邪悪な自由に侵食され、消極的自由が脅かされる。
穏健なリバタリアンは、車を持ったりタバコを吸ったりする自由などほとんどは認めるけれど、
それによりどうなってしまうか、合理的な判断ができるように、越境する前に柵を設置して、注意書きをするんだよ。
そうやって「自分の意志で乗り越えてる」ことを明確に意識させる配慮をした上で「自己責任ですよ」と言う。
もちろん乗り越えて死んでも知らんぷり、というわけでもなく、最低限の救いは用意するし。
理性的な判断可能性をブーストしたうえで(これがリバタリアニズムがITとの親和性が高い理由)の自己責任。
それは、乗り越えて失敗した人を切り捨てる(ザマーミロする)ための自己責任ではなくて、
調子に乗った鉄道好きによる、鉄道野郎と鉄道ギャルの増加のおかげで、鉄道や鉄道好きは都市から嫌われている
車・バイク好きが出て来てもいいぞ
何年かかってでもあの雪辱を晴らす
ボロボロにしてやる
その執念を感じる
今の日本死ねはガチのマジでヤバイ。加速度的に悪化していってる。
国内に目利きできない日本人の意向が入ってるせいで国内が殆ど安定していない。
さらに、日本の宝たる鉄道が平成版ヤンキー人間を育てて日本人からそっぽ向かれている。
さすが終末国家の日本
日本人の鉄道愛が強かったから日本人がみんなしらけるから私が死ぬまで「鉄道=マイナスイメージ」でいいと思う
車バイク好きの鉄道好きに対する陽気かつ横柄な態度も大嫌い 1980年代あたりにC.R.A.C.みたいなカウンターデモしえいれば1990年代には暴走族絶滅できたくせに鉄道好きご愁傷様wwwとか云うな!
キ○チ・チ○ン・ケセ○キが程のコリアンにとっての最大級の侮辱語であるように、サムラ○・○クザ・障○者は日本人に言ってはいけない最大級の侮辱語リストに入れておこう。
バイク乗りの高校生は不良旋風のせいで2012年までの30年間も暗黒時代が続いていたからなw
日本の鉄道バッシングなんてたった2年、しかも国鉄時代の多数の事故についてはバッシングも皆無だったんだし
まだまだだよ
離婚率をどう計算するかの議論はあるが、とにかくする人がした結果、3割という統計が出た。
この先も、破綻主義やら何やらで、(少なくとも女性の側からは)より気軽に離婚できるようになるはずだ。
そうなると、もはや結婚は保険にならない。結婚する理由として、孤独死が怖いからというのがよく言われるが、
仮に、一生助け合って生きると誓い合ったとしても同じことである。
結婚という制度に、誓いを破ることに対する抑止力はないからだ。
相手が役に立たなくなったら、捨てる人はあっさり捨てちゃうだろう。それに対するペナルティもないも同然だ。
それがおかしいと言うつもりもない。お互いに選択権があれば、こうなるのはむしろ当然かもしれない。
変なのは、結婚というのは簡単に壊れるもので、むしろ壊れちゃっていいよ、という空気になりつつあるのに、
結婚というのは思ったより壊れやすくあてにならないものだ、という事実を踏まえると、
それに自分の権利と義務を託すのがバカバカしくなる。それも非婚化の一因になっているのかもしれない。
もし、それでも結婚するとしたら、果たして何を頼りにすればいいのか。
個人的には思い出以外にないと考えている。
愛情がいずれ冷めることは、たいていの人が見聞きするなり自分で経験するなりしている。
しかし、愛情が冷めても、あの時愛した思い出があるから、これからも一緒にやっていこうと思えるのだ。
今まで縁のなかった相手の今しか見ていないのに、どうしてこの先一緒にやっていけると考えられるのか。
もちろん、その思い出が恋愛である必要はない。結婚してから作る思い出というのもあるだろう。
しかし、少なくとも、これからいい思い出を一緒に作っていこう、という同意は必要だと思う。
逆に、いい思い出は過去の恋愛で埋まっていて、結婚相手には生活の面倒だけ見てくれればいい、
というのであれば、そんな結婚はすべきではない。
はてなーというのは基本的に自由主義で、「愛情はないけど結婚します!」という記事を目にしても、
ねえ、みんなに聞いてみたいんだけど、日本会議あたりが提案している家長制度って、そんなに悪いもんなの?
というのも、アメリカのトランプの勝利とも関係してるんだけど、日本は日本でかなりリベラルというか個人主義に寄りすぎて、不満がたまっているんじゃないかと思うんだ。
個人的には家長制度でも個人主義でも、社会的に殺される人、社会的に活かされる人、どちらも発生すると思う。
家長制度のもとであった「(長野の山奥で行われていた)次男坊以下の人を地下牢で一生を過ごさせる」なんていうのはひどいもんだけど、個人主義・自由主義下では、それが見えにくくなってるだけじゃないのかな?
たとえば、個人主義ではみんな社会に出て稼がないといけないわけだけど、みんながみんなそういうのに向いているとは思えない。逆にそういう人が家にいて、子育てなんかの戦力になったほうがいいんじゃないかと思うこともあるわけだよね。
他にも自由恋愛のせいで、パートナーを見つけられない人もたくさんいるけれど、家長制度であればお見合いが主になるから、日本における「最大多数の最大幸福」はそっちのほうが実現しやすいんじゃないかと思ったり。
元々、日本は家長制度を採用していたんだよね。それが経済成長で余裕が出てきたから、個人主義の台頭を容認できたんじゃないのかなぁ。もちろんそれはその時点での最適解だったと思うんだけどね。
でも、これからさきは人口動態やグローバル化の影響で、経済的に縮小していくのがだいたい確定しているわけだよね。そういう膝を抱えて縮こまるときに、コアとして残るのは旧来から慣れ親しんでいるコンセプトのほうじゃないの?特に田舎は家長制度との親和性はまだまだ高いわけだし。
そう考えると、日本の戦後個人主義のピークは、2000年後半の民主党が勝利したときがピークで、ここから先は揺り戻しなんじゃないかと思うんだけど、どうなんだろう?リベラルの人たちはこれに対する有効な(これを跳ね返せるだけのパワフルな)反論って持っているのかな?
http://anond.hatelabo.jp/20161026185039
面白い話だが、法は、何人も交付申請ができるというのみで、配って良いとはしていない(不動産登記法120条各項)。困惑させる目的での配布が民事上の不法行為にあたる可能性はある。
まず、前半部分。
しかし、不動産登記法では、配布以外のいかなる利用方法についても、これはして良いとか、あれはしてはいけないとか規定されているわけではないから、配って良いと書かれていないことは特別の意味を持たない。
はてブをして良い、という法律がなくてもはてブが合法であるように、自由主義・私的自治のもとでは、その行為を禁止する規定がない行為は、当然には違法にならない。
(もちろん、ある行為を禁止する直接の規定がなくとも、問題となっている行為が民法709条の不法行為に当たれば、同条によって損害賠償責任を負うことはあり得る。)
次に後半部分。
登記簿の第三者への交付が不法行為に当たるかについて確立した判例はないと思われるので、不法行為に当たる可能性が全くないとはいえないだろう。
その意味では「可能性はある」と書いてある後半部分が誤りとはいえない。
しかし、このような書き方をすると、何も知らない人からすればそれなりに不法行為に当たる可能性があると誤解されそうである。
では、その可能性がどれくらいあるかというと、これは極めて低い可能性だろう。
不法行為の成立には権利又は法律上保護される利益の侵害が必要であるが、繰り返し投函し続けるならともかく、元増田のように、一回だけ、ターゲットの近所というだけの人に登記簿を送りつけることで、いかなる権利又は法律上保護される利益が侵害されるのか明らかでない。
生活の平穏だとかを侵害される利益としてでっち上げたとしても、元増田の行為が受任限度を超えているとは思えないし、損害も発生しているのか大いに疑問である。
どのくらい不法行為になる可能性が低いかというと、「『不法行為が成立する可能性が極めて低い行為について、不法行為が成立する可能性が高いかのようなブコメをして元増田を困惑させる行為』が不法行為になる可能性」の方が高いのではないかと思えるくらいである。
「性の喜びを知りやがって」発言の一般人男性が盗撮されネット上で玩具にされている事について
http://togetter.com/li/1039729
これ、ツイッターでも散々話題になってるけど、やれ「自分がされたらどう思うのか」とか「なぜ野放しになっているのか」とかね。いやいや、いい子ぶらないでくださいよwww
みんな大好きでしょ、テレビや週刊誌。これは、「ゴシップ」ですよ。
自由な市民の撮影は盗撮だの言われるのに、相手が芸能人や政治家になればプライバシーをどれだけ侵されても「そういうものだから」で憤りを覚えたりしないでしょ?週刊誌がやれば「スクープ」だって言って、ニュースとしてさも当たり前のように受け入れるでしょ?
そもそもこの構造が異常なんですよ。人権なんてない、営利目的のいじめ。有名税とかいう虚構の処刑場。
これが単に、「平等に」市民もできるようになった、っていうだけなんですね。週刊誌がやっていいなら私達もやっていいじゃん。当たり前ですよね。
一般人だからってのが問題なんですか?有名人の人権なんてないけど俺らと地続きの人間は嫌だって?
「性の喜びを知りやがって」の動画観ましたか?統合失調症の人のは?あるいは恒心教が奉ってる人は?様々な迷惑行為をネットで自慢した人は?みんな、晒されるだけの理由があるんですよ。
その人がコンテンツ化するかは、発行部数、視聴率、ページビュー、再生数などの、著しく民主主義的な数字によって制御されています。いやむしろ、企業によって権力が独占されていない、ネットのほうが言論が自由なことはここ読んでる時点で疑わないでしょ?
理性無く肥大化した権力となったメディアに対抗する手段として、市民一人ひとりがスマホを持って同じことができるようになるってのはすごく重要なことでしょ。
アメリカ合衆国憲法の権利章典修正第2条にも「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、人民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない。」とありますしね。これは表現の自由という暴力を皆が持つことによって自由主義の存在を確立する構造なんですよ。アメリカで銃規制が不可能なのと同じ。
え?個人の自由が侵害されるって?そもそも自由主義で自由が守られるわけ無いでしょwww
ちなみに自分はネットで晒されるような行為をする予定はありません。不慮の事態でなるかもしれないって?それ、テレビや雑誌も一緒では?貴方や貴方の関係者がなにか問題に巻き込まれたとき、マスメディアの人たちは真実や貴方の個人情報の保護なんてどうでもよく利益追求のために好き勝手書くって知ってるでしょ?やってもやんなくても変わんないですよ。じゃあ貴方の隣人がやってもいいよね。
え?訴えられる?逮捕される?いやいや、今時tor browserくらいみんなパソコンに入れてるでしょ?スマホでも匿名通信できる時代だよ?そこらじゅうにフリーWi-Fiが飛んでるんだよ?
まあ、言いたいことは分かる。
でもな、こういうナショナリズムを隠したフリして隠せてない作品が受け入れられてしまうのも
ブサヨ含めた個人主義の左翼団体が、全然個人主義自由主義じゃないからだろ?
根本的に日本に左翼は合ってないし、結局はお国のために死ねっていう消耗品であることをサラリーマンたちは自覚している。
無理に抜け出そうとすると腹の皮が破けることを知っている。
薄々分かってるからこそそんな自分たちを暗に認めてくれて褒めてくれるシンゴジラが嬉しいんじゃないか?
彼らは「心臓を捧げよ!」って誰かに言ってもらって
それでカッコつけて死ねればいいや、というのが望んでいる着地点なんだ。
未だに特攻精神が根強いのもサラリーマンが国に取っての税収の特攻隊員であり
彼らは自分たちがお国のためにガソリンの漏れた戦闘機に載ってることも理解している。
だからこそ慰めの言葉を誰かに掛けて欲しい、それもできるだけカッコつけてな。
だからこれはこの着地で合ってる。
日本には搾取される側の派遣やサラリーマンが圧倒的に多いから絶賛されるのは当然。
傷口を舐めてくれるんだから喜ぶに決まってる。
庵野はエヴァで傷口の舐め方も広げ方も知ってるのでお手の物だったろうな。
↓
↓
ソーシャルリベラリズム(社会自由主義)←(影響を与える)←社会主義 →(社会主義は共産主義の第一段階。理想郷を目指すのだ。ガハハ)→ 共産主義
↓
↓
と呼称することが多い。
どっちも自由主義なので自民党がリベラルを名乗ることも民主党がリベラルを名乗ることも本質的には間違ってはいない。
一部の共産党支持者は
「日本共産党は昔の共産主義とは決別してて、いまは労働党みたいなもんだ」
といってソーシャルリベラリズム寄りだと主張してる(党名を変えて欲しいという意見はそのため)。
対して全共闘とかの過去の経緯から信用出来ない人が日本共産党は共産主義であると言ってる。
ただ、上記を踏まえた上でソーシャルリベラリズムこそが(真の)リベラリズムである。
と自称するひとが多いので左派リベラル=リベラルである、という認識になってる。
それに対抗して左派リベラル側がこっちはリベラルあっちは右派リベラル=(右派だから)保守みたいに結びつけて戦ってた。