はてなキーワード: ねじとは
彼女の一日は日頃の感謝と安全祈願を込めて愛用する道具のお手入れから始まる。
縦ロールは自律でセット。
お支度を済ませてお嬢様は軽やかに言った。
「それでは行って参ります」
決戦場となる体育館に三名のサバイバリストがつどう。彼女たちは一辺が5mの正三角形の頂点に立った。
「最後の戦いが二対一なんて酷くありませんの?」
縦ロールのお嬢様はやんわり抗議する。
ルール上、禁じられた行為ではないが、今までタイマンばかりだったのに唐突な感は否めない。
しかし、姫カットお嬢様とセミロングお嬢様にも言い分はあった。
「あなたが「ふつう」でしたら、こんな戦い方はしませんけど……」
「おわかりですね?」
縦ロールのお嬢様は物憂げにうなづいた。
「そうですわね……分かっていますわ。美しさは罪、ということですわね?」
「ぜ、ぜんぜん分かっていませんね!!」
セミロングのお嬢様は脱力した。姫カットのお嬢様には彼女よりも耐性がある。
「あと、これは最後の戦いではありませんよ。
「私のはナイr……」
最初に武器――ねじ込みクロスを使って作った十字槍だ――を構えたお嬢様に、
「なかなか安定感がありますわね」
セミロングお嬢様の持つ500mmのSGP25Aパイプは1本で1.2kgになる。
服の中はもう少し短いものも多いが、これらを14本と多数の継ぎ手を抱えた彼女は20kg以上嵩増しされていた。
彼女が戦いを急いだ背景には重くてしんどいという切実な理由もあったりする。
「力で引けないならば!」
両縦ロールが地面に打ち込まれ、チェーンブロックのレバーが引かれる。
「ぐぅ……!」
有無をいわさぬ機械のパワーにセミロングお嬢様は顔をしかめた。
「私のことを忘れすぎです!」
戦闘態勢を整えた姫カットのお嬢様が鉄鎖引きの横合いから参入する。
「忘れてなどいませんわ!」
チェーンブロックのロックがいきなり外され、踏ん張っていた鉄パイプさんは自分の力で後ろに吹っ飛ぶ。
「えいっ!」
さらに工具の本体側が迫る姫カットお嬢様の左手に投げつけられる。
さきほどまで熱心にお手入れしていたのに酷い仕打ち。
それでも物言わぬチェーンブロックは健気にお役目を果たし、姫カットお嬢様に攻撃回避の労をとらせた。
その眼前に縦ロールお嬢様は駆け寄っている。
「いただきですわ」
いつもなら接近戦は姫カットお嬢様の望むところだが、回避直後は流石に体勢が悪い。
膝を突かんばかりの彼女に、掌底が打ち下ろされる。それを跳ね上げて袖を絡めようとする動きを許さず、右のミドルキック。
ガードをしてもダメージが加算される。
「ぐぅ!」
今度は姫カットお嬢様が下から右貫手を繰り出すが、左縦ロールが一閃。
貫手を弾き飛ばして、巻き毛が背後に回り込む。
インシュロック使いの首筋に死に神に鎌を突きつけられたような寒気が走る。
予感が現実にならなかったのは、セミロングお嬢様が槍を投げて敵を後退させてくれたおかげだった。
「わずらわしいですわ」
さきほど伸ばした左縦ロールが巻き戻ると同時にチェーンブロックを姫カットお嬢様の背中に肉迫させている!
「……っ!」
鉄鎖に背中を強打され、姫カットお嬢様の息が詰まった。一対一なら勝負ありであるが、
「やああああっ!」
白い鋼管を構えたお嬢様が自分に注意を向けるため、喚声をあげて突っ込んでいく。
縦ロールお嬢様は再度フックを投げつけて、敵の接近を止めた。
唇をシミターのように吊り上げた彼女は、右の縦ロールを綱引きの相手に指向する。
彼女は咄嗟に半身の構えを強くし、敵への投影面積を最小限にした。
ゴアッッ
真横にいる姫カットお嬢様は、右縦ロールが一瞬かすみ、発生した疎密波が縦ロールの前後に広がる様を目撃した。
縦ロールの中から「何か」が高速で飛び出し、セミロングお嬢様を襲う。
「きゃあっ!?」
スカートのブリーツに仕込んだスウェージロックのシームレスパイプが甲高い音を立ててひしゃげる。
ふとももと脇腹への被弾は一発ずつが肌にまで突き刺さった。
「くあっ!」
「おほほ!コイルガンのお味はいかがかしら?おかわりたーんとありますわよ?」
説明しよう!
縦ロールお嬢様は電線を断続的に仕込んだ縦ロールを次々に急速回転させ、
発生した磁場でロールに装填したニードルを順次加速させ高速で撃ち出したのだ!!
凄いね人体。
よく知らない兵器。気持ち悪い。セミロングお嬢様が青サバより血の気の引いた顔で叫んだ。
「そこ!変な混ぜっ返しをしないでください」
アホボケとクールボケに対してツッコミは自分一人。セミロングお嬢様は二対一が別の構図に思えてきた。
漫才によって敵の注意を分散させる意図は理解していたけれども。
「やっぱり三人は姦しいですわ」
縦ロールお嬢様はもう一人への隙ができるのを承知の上で、左ロール砲をセミロングお嬢様に向けた。
まずは配管工を倒す。
姫カットお嬢様が左縦ロールに結びつけた透明なインシュロックの輪かざりを引いたのだ。
彼女は事前に縦ロールのパワーとスピードを把握している。ただで真横の通過を許しはしない!
ニードルの散弾が縦ロールお嬢様にとっての二人の敵、その間に着弾する。
「今です!」
事実上1ターンに三回以上動ける天衣無縫のお嬢様を倒すためには同時攻撃が必要だった。
サバイバルゲーム開始以来はじめて、彼女の顔から余裕が失われる。至急チェーンブロックを波打たせて波動の鞭にセミロングお嬢様を襲わせる。
――はずが、標的は脱皮を済ませていた。重量級の上着をフックに巻き付けて身軽になったお嬢様が突っ込んでくる。
右縦ロールを地面に突き刺しての回転キック。
だが、今度は姫カットお嬢様が上着を脱ぎ、縦ロールの台風に覆い被せた。
大量のインシュロックが織り込まれ、末端がお嬢様の手に握られた、それはまさに投網。縦ロールお嬢様の回転は自らを縛り付ける結果に陥ってしまう。
「うきゅ~」
目がぐるぐる状態の珍獣を狩人たちは押さえつけた。姫カットお嬢様はインシュロックを通したマウントベースをいくつもいくつも床に接着しまくる。
ひとつひとつは5kgf程度の耐過重だが、何十個もつけられては、さしもの縦ロールも動かせなくなる。
「やっておしまい!」
「すみません、縦ロールさん!!」
セミロングのお嬢様は、超硬(タングステンカーバイド)のジグソーブレードを装備したレシプロソーを取り出すと、哀れな獲物に向けた。
「およしになって!何をなさるつもり!?」
至近距離からの悲鳴を浴びたセミロングお嬢様の手が危なっかしく震える。
「うう、罪悪感が……」
「反対側は私が切ります。彼女を自由にしてあげましょう、この縦ロールから」
そう言って姫カットお嬢様は本来はコンクリート切断用のダイアモンドホイールを装着したサンダーを取り出した。
戦闘前に情報交換をした二人のお嬢様は、残る一人は動く巻き毛によって、おかしくなっていると判断していた。
同様の症状を示していたポニーテールのお嬢様が、セミロングのお嬢様に倒されてから、すっかり彼女に懐いている様子からも、そう思ったのだ。
二対一で卑怯と罵られても異常をきたした仲間を放っておくわけにはいかない。
「うぅ……」
強力を通り越して凶悪なツールにざっくりと縦ロールを切り落とされたお嬢様は喪失感と開放感を同時に覚えた。
自分が縦ロールに洗脳されていたと、彼女を引き起こした二人に洗脳される。
「わたくしは今まで縦ロールに操られていましたの!?」
縦ロールあらためウェーブロングのお嬢様は憑き物が落ちた顔でつぶやいた。
「今までなんてことを……」
思わず姫カットお嬢様とセミロングお嬢様は彼女ひしと抱きしめた。
「よかったですね」
「友情の勝利です」
「ありがとう、わたくしの最高のお友達!……ところで、決着がまだですわね?」
「「え?」」
ぴちゅーん
アフロのお嬢様と同じく、縦ロールの使用に耐えてきたウェーブロングお嬢様の肉体も強靱だった。
二人まとめての裏投げという豪快な決まり手で、増田お嬢サバイバル大会は幕を閉じた。
ちなみに縦ロールは毎朝牛乳を飲んで体操していたら動かせるようになったそうな。
「残り1名!
ありがとうございました」
前回
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次回
ぶぶぶぶぶぶ
室内から巨大な羽虫が飛び回っているような音がする。
古代の巨大昆虫メガネウラが乱舞していれば、こんな感じかもしれない。
扉の前に立ち尽くしたセミロングのお嬢様はつぶやいた。
「とっても嫌な予感がします。でも……」
室内にはレシプロソー(電動ノコギリ)を両手にたずさえたポニーテールのお嬢様が無言で立っていた。
彼女の得物は短いノコギリの分数千回におよぶ高速前後振動によって、
小さな力でも硬く大きなものが楽々解体できるかなり禍々しい代物だ。
対するセミロングお嬢様の武器はお召し物の中から取りだしたるSGP鋼管25A(B1)-500L、2本!
二刀流であることは同じだが、文明度では大きく水を開けられている。
「甘く見ないで!」
これはこれで怖い。ザ鈍器といった風情だ。
「……」
このシチュエーションで彼女が一番おそれるのは鋼管の投擲攻撃だった。
鳶道具もとい飛道具は使わなかった。
「ふっ!」
鋼管の先端には螺旋の溝が切ってある。すなわち長ニップルになっていた。
そのため、六角形やトゲ突きの棍棒と同じく対象へのダメージを広げる効果が期待できた。
ちぃぎゅぃんっ!
耳を聾する音を響かせて、長ニップルが弾かれる。ポニーテールのお嬢様がはじめて口を開いた。
チャンバラがはじまった。
お互いの得物にダメージが蓄積していくが、その程度が視認できるのは
鉄パイプの側のみ。絶えず震動するノコギリはなかなか把握しづらい。
(それに……)
ポニーテールのお嬢様は替え刃を持っていると鉄パイプウーマンは確信していた。
「……!」
ぢゅいぃいいいんっ!
高々と宙を舞ったのは鉄製ちくわの方だった。
もう片方の鉄パイプを挟み込むように切って上下のつながりを完全に断ったのだ。
「鉄パイプに魂はありませんでしたわ……」
わずか2コマの出来事にがっくりとうなだれるセミロングお嬢様の胴体を震動しつづける刃が強襲する!
彼女は吹き飛ばされ地に転がった。
「!?」
それなのに高速度鋼製ノコギリが破断するのは異様である。
彼女はあわてて替え刃をベルトにつけたホルスターから引き出した。
そして――」
鉄パイプ使いは、短ニップル付きのねじ込みチーズを取り出すと、新しい鋼管のねじにシールテープを巻き、ねじ込みフランジにねじ込んだ。
二本の長ニップルをユニオンやソケットでつなげば長い棒になり、
同時にレシプロソーの刃を付け替えたポニテお嬢様は首をかしげる。
「日頃の心がけが大切ですの!!」
トンファーの軌道は大きく弧を描き、先ほどのように挟み込んで斬るのは難しい。
その上、セミ様はただの棒ならウェアラブル武器庫の中からすぐさま取り出せた。
「ここまでよ!」
ところが今度はセミロングお嬢様が驚いた。
「この髪は使いたくなかった……痛むから」
ポニーテールがまるでサソリの尾のごとく立ち上がり、鉄パイプを受け止めたのだ。
思いもしない三本目の腕の存在にあわてて配管工は距離をとる。その前にレシプロソーが袖をさくが、かえって袖下のニップルに刃を損ねる。
「しかたありません……」
マリオ兄弟の同業者は瞑目すると、トンファーを手前に放り白銀に輝く鋼管を取りだした。
「聞いて驚きなさい。この鉄パイプはSUS310S製なのよ!」
ご家庭から化学工場まで幅広く使われているステンレスの基本種。
対してSUS310Sは見た目なんかはSUS304とほとんど変わりませんけど
使いこなせませんとS35Cより弱いお高い鉄滓みたいなものですのに
どうして武器に?」
「説明ごくろうさま。同材の”やくもの”が市場にない点が残念ですの」
セミロングお嬢様は急に多弁になったポニテ星人にほほえみ返すと、
話の合間にSCS14A製ねじ込みフランジの護拳とSUS316Lニップルの柄を鋼管に取り付けた。
組み上げたオーステナイト系ステンレスのレイピアをセミロングお嬢様は構え、一礼する。
「参ります!」
その一撃は速く、そして、硬い。
通常のステンレスは炭素鋼より強靱で、旋盤加工にも特別な設定が必要とされる。
無意識にさきほどまでの加減で刃をふるったポニテお嬢様は数合で鋸歯を消耗させてしまう。
だが、まだ動くポニーテールがある。いったん時間を稼いで刃の付け替えとスピコン設定を――
セミロングお嬢様はさりげなく狙った場所においておいたトンファーを安全靴が蹴り飛ばしたのだ。
「うくっ?」
これをポニテでなんとか弾いたお嬢様だが、次の一歩ですってんころりん転倒する。
「足下がお留守でしてよ?」
摺り足によってセミロングお嬢様は敵の足下に、パイプや継ぎ手をまき散らしていた。
音で薄々把握はしていても、ここまで攻撃を畳みかけられると回避しきれない。
ポニーテールのせいもあって意識が上に偏っていたお嬢様は、まんまと敵の罠に掛かってしまったのだった。
セミロングお嬢様は勝ち誇らない。
条件次第では1000℃にも耐えるステンレス鋼にレシプロソーが吹き飛ばされ、
最後の抵抗を試みるポニーテールに向けて、棍棒が打ち下ろされる。
「っ!!?」
倒れたお嬢様は思わず目をつぶった。彼女の自慢の髪は衝撃をうけ、しおしおのパーになった。
「いったい、なんだったんですの?この髪は……あら、手触り素敵」
たぶん何か原因があるでしょう。だがその他一切のことはわかりません!
残り4人。
前回
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幕間
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に対する
kato_19 確かにすごい考察ではあるが・・・楽しめなくて可哀想としか。辻褄や現実にこだわる理由がわからない。私の感想『『ラブライブ!』は私達に何をもたらしたのか?』http://kato19.blogspot.jp/2016/01/lovelive.html
匿名でここまで書くのはすごい!でもおりあそ氏同様、脚本の物語性に非常にこだわる点が自分とは大きく違う所。現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像に魅力を感じるんだよなぁ。 https://t.co/C43GeQjkcD https://t.co/9DE4lPVVaB— kato19@アニメとスピーカーと‥‥。 (@id_kato_19) 2016年3月19日
について。
まず、彼に限らずアニメラブライブのファンが多少筋の通った批判を目の当たりにすると苦し紛れに発することが多い「楽しめなくて可哀想」という感想について。
この表現にこそ、とにもかくにも「ラブライバーである自分が好きだからラブライブが好き』という感情状態から生じた「ラブライバーでない奴は可哀想」という論理が見え隠れする。
一応、何事も楽しめたらそれは素晴らしいことだ、というのにも一理はある。
しかし、見方や立場を変えてアニメ前の作品内容や原案公野櫻子先生による内容を特に愛するファンから見た場合は逆に、アニメと同等以上に可能性に溢れているそれらの媒体をおまけ以下と扱って注目せずにアニメや声優のみに注目し楽しむ現在の大半のラブライバーこそ、楽しめなくて可哀想に映るともいえる。
本来であればもっと楽しかったもの、もっと楽しくなれるものに期待できず楽しめない状態でありながら、あんな物語性もキャラクターも薄く浅いアニメを萌えるとか尊いとかいって満足して楽しんでいることこそ可哀想だ。
と、子供の喧嘩のような言い合いになるので、楽しめなくて可哀想理論は微妙だ。
次に、「辻褄や現実にこだわる理由がわからない」「脚本の物語性に非常にこだわる点」について。
これもアニメラブライブなど、拙い脚本を持ち味とする作品のファンが内容を批判された場合に反論でよく用いる意見だが、この意見が出てくる時点で大体の場合勘違いが存在しているように思う。わざとの可能性もあるが。
アニメや劇場版のラブライブ、少しずれるが艦これなどに至るまで、脚本内容を批判している人達の大半は恐らく完全な辻褄や現実性、脚本の物語性に非常にこだわっているというわけではない。“最低限”の辻褄や現実性が脚本や演出に伴っていないからこそ批判しているのであって、辻褄や現実性絶対主義者だから批判しているのではないことを盲目的に賛美することしか念頭にないファン達は再認識してもらいたい。
もしくは、彼らにとってそれらの作品の「萌え」や「勢い」といったものが上級表現の「尊い」どころか脚本の物語性や辻褄・現実性の拙さと乏しさから来る違和感と物足りなさを補えるほどには全く至っていなかったのだ、ともいえる。
実際、辻褄やリアルさよりも萌えや勢いで全てを吹き飛ばして満足感をもたらしてくれる尊い作品を自分も欲しているが、アニメラブライブはそれには程遠いと思う。
そしてそのような細かい辻褄の拙さやおかしさを吹き飛ばせる萌えや尊さといったものが存在しているものこそ、アニメ以前の雑誌や漫画におけるラブライブ!だと自分は思うのであるが…。
京極尚彦氏や花田十輝氏、ラブライバー達にとってはそんなものより海外ドラマにのっぺりとした無個性の二次元美少女絵を貼り付けて動かしてたまにライブシーンで踊らせておけば萌えて尊い、物語性など要らないって思ってしまうらしい。そのような部分を見ていると、彼らが一体作品の何を好きなのか分からなくなってくる。(そこでラブライバーはラブライバーである自分のファンでしかないという説が起こる)
ラブライブ!はアニメ以降よりも1stシングルPVのキャラクターデザインの方がシンプルながら個性と卓越性があった。当時は黎明期だし全てが未熟だっただろうという雑な先入観から考えて初期の絵や内容を馬鹿にしている者はファンにも多いが、もう一度しっかり見直してみた方が良い。実際初期の雑誌の絵は拙いもっさりした感じの絵もあって、主にそれを持ち出して「初期のキャラデザはこんなに酷かった」なんてネタにされているのをよく見る。しかし、雑誌やスクフェスなどの公式絵はアニメ化以降でも当たり外れがあるのでそのあたりを踏まえて考え直してみる機会を設けてもいいだろうと思う。
次に「現実に根ざした物語を超えて、抽象化されたアイドル像」とそれに呼応する内容が述べられているブログの記事内容について。
『ラブライブ!』って本当に美しいですね!特に劇場版のラストライブ・・・極限まで高められた美しさに圧倒されました。『萌え』の上級表現である『尊い』って言葉がこれほど似合う作品ってあるでしょうか?
ここまで心に響く理由・・・それは『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事が出来たから。現実に囚われない理想のアイドル像を実現できたからだと思います。
(アニメの)ラブライブ!って何が美しいのだろう。ラストライブの何が美しかったのだろう…。個人の主観だから仕方がないが、同様に自分の主観だと1stシングルのPVの方がまだ美しかったように思うためによく分からない。
劇場版のライブは1期や2期と比べても心に響くものがなかった。楽曲の質が突き抜けてこないのはネタ切れもあって仕方ない所もあるだろうが、無理矢理終わらせようという勢いと都合に溢れていたからだろうか。
「『ラブライブ!』という作品がアイドルの持つ偶像部分のみを分離し、現実の枷から飛び立つ事ができた」「現実に囚われない理想のアイドル像を実現できた」
この意味がよく分からないが、後の記述から推測すると、芸能界というビジネス的なしがらみのある世界から分離され、物語やキャラクター性といった辻褄や論理から脚本やライブ演出に特化され解き放たれたことで自由になった作品だと言いたいように感じた。
しかし、それと併せて考えて見てもラブライブ!という作品が「現実に根ざした物語を超えて」(いる)というのは、先述したような内容の辻褄や物語性の乏しさという都合の悪さを隠すために言い換えてみただけの取って付けたような表現に感じてしまう。
2013年、そこへ発表されたのが『ラブライブ!』という作品でした。架空のアイドルをつくるメディアミックス・プロジェクトを出自とする本作にとって、現実のアイドルという縛りは初めから希薄なものだったのです。
2013年からラブライブ!という作品が始まっており、その時点でメディアミックス・プロジェクトから分離され独立していることが前提であるかのような書き方に嫌悪感を覚える。
現実から解き放たれたラブライブ!という作品
当時、多くの人がアイドルアニメといえばアイマスのようなものをイメージするなか、京極監督はおそらく気づいていたんだと思います。『アイドルアニメはもっと自由になれる』という事に。
『ラブライブ!』のTV放送一回目。多くの視聴者の度肝を抜いた突然のミュージカル演出。これによって本作がダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品である事を宣言しました。
この方に限らずアニメラブライブ!や京極氏を絶賛する人達はこのように言うのだが、そもそも元からラブライブ!は「スクールアイドル」作品で、キャラクターが外のしがらみから独立して作詞作曲・演奏ライブなどを自由に行う描写がある作品も、ブログでも言及されている『けいおん!』などのように以前から存在しているし、その点においてラブライブがそんなに画期的だったとは自分にはあまり思えない。
また、ダンスと楽曲のコラボレーションに重点を置いた作品であることを宣言しても、作品の脚本内容の致命的な拙さやキャラクター配慮の不備の免罪符にはならないし、海外ドラマからパクって間に合わせただけで許されるわけでもない。
そもそも、元々の設定が存在し、それがある程度当時のファンに支持された上で存在していたメディアミックス作品なのだから、どうせ別のどこかから適当に引用する程度にしか監督や脚本家に作品のキャラクターや物語性への真摯さと思い入れが足りていないのであれば、元の作品から丸々引用する方が良かったはずである。それならコピペでも文句を言われないどころか、原案原作を生かしていて素晴らしいと絶賛されていた可能性の方が高いくらいである。
実際、アニメのラブライブ!で古参新参問わず最も評価が高いシーンの一つである1期8話は1stシングルPVの内容をほぼコピペするようにリメイクした内容だった。
それを、わざわざ無関係の別作品から引用して作品やキャラクターの軸までねじ曲げてしまったのは悪意の盗作という見方がされても仕方がないし、別作品へのオマージュやリスペクトとして捉えてあげるとしても肝心のラブライブ!という作品内容への思い入れと配慮の無さが強く感じられてしまい、その意図と効果は肯定的に受け入れにくい。
その特異にも見える現実離れした演出は回を重ねるごとに深まり視聴者を戸惑わせます。しかし秀逸なストーリー構成は私たちの心を掴み、いつしか違和感を感じなくなっていきました・・・ここに、現実のアイドルという枷が外れた『ラブライブ!』という作品がひとつの完成を見たのだと思います。
分かりやすく「特異にも見える現実離れした演出」があったのは主に1期&2期1話・最終話だったと思う。それ以外は態々特異というほど現実離れした演出があったと自分はあまり思わなかった。そのため、時折挟まれる無駄に寒いコメディータッチな演出や描写に違和感と嫌悪感が生じた。
腐ってもキャラクターアニメであるのにキャラクター描写が雑すぎて、キャラクターの魅力が淡白で薄くなっていて消えてしまっている。とても演出や勢いがどうとかでは補えるものではなかった。その内容については先述の批判考察記事やそこで引用される元の批判記事で書かれているので省略。
また、自分でストーリーの物語性や現実性と辻褄にこだわってアニメラブライブ!を見ることを批判的に捉えておきながら、その作品のストーリー構成を秀逸と考えた根拠も少々謎である。
百歩譲ってその論理からストーリーにこだわらず演出やライブ(ダンス)シーンがいい、ストーリーはおまけだからというなら意味も分かるし、それに特化した自由なアイドルアニメ作品を評価する論理としても、その人の中でそう思えたなら仕方ないかと多少納得できるのだが、そこで、無理なおべっかを使うような賛美を繰り出す所にラブライバーらしい空虚で盲目的な部分を垣間見てしまう。そのような評価の仕方を見ているとやはり彼らの感覚と論理の間には齟齬が生じているように思う。
結局の所、ラブライバーはキャラクター描写の拙さや、脚本や物語性を批判されたら「ライブシーンが見所だから」「ライブ演出が~」と言い、その演出もさほど大したことがないと指摘されてしまうと「キャラクターが魅力的で~」「初期から紡がれてきた声優ライブとアニメとの融合によるコンテンツの包括的に捉えた中でのみんなで叶える物語(の物語性)が~」というような形のことを言って相反した発言を繰り出すために説得力がない。
そしてコンテンツの初期からの積み重ねやみんなで叶える物語という既に剥がれ落ちた空虚な幻想の影を掲げて信奉する割には、アニメ以前の作品像やキャラクター像には最低限の興味や配慮を払うことすら稀な人が殆どである。
そのような点を見ていると、彼らは結局作品の中身には興味がなく外部のパッケージだけを愛しているように思える。「よく分からないけど初期から歴史があって人気が出たからみんなで叶えた物語だ尊い」、「よく分からないけど結構可愛い声優がアニメキャラとシンクロしたダンスを踊るために頑張ってるから尊い」というような状態なのではないか。別に作品を楽しむためには必ず重厚で説得力のある感覚や根拠を必要とはしないが、そのあまりに粗雑な状態の感覚や根拠を掲げることが必ずいつでもどこでも許されるわけではないということは少しだけでも覚えていてもらいたいように思う。
一方で、そこで素直に「アニメラブライブはクソでもラブライバーとしてアニメやライブを楽しんでいる俺は最高だ、だからラブライブは最高だ」と言ってくれるのであれば、それはそれで確かに素敵だと思うし、納得できる。それを聞くことで作品内容自体の素晴らしさは相変わらず伝わってこないが、彼らが作品を最高だと思っている気持ちは本物なのだろうと思えるからだ。しかし先述のように取って付けたすぐに剥がれ落ちるような根拠ばかり持ち出して内容評価を繰り返すようだと、何かに洗脳されたり、駆り立てられたりして仕方なく作品を賛美している状態に見えて、彼らが作品を好きと思っている気持ちすら実は偽物なのではないかという疑念が生じてくる。
実体がなく抽象化したからこそ表現できるものがある。劇中の『飛べるよ』というセリフは、まさにこの作品自体に向けられた言葉のように思えてなりません。
現実のアイドルという縛りから飛び立った時、アニメーションはここまでの表現ができるという事を教えてくれました。アニメーションの可能性がさらに一歩広がった事を実感できたのです。
自分は劇場版の『飛べるよ』という台詞を聞いて、苦笑いを浮かべた。最近(2016年3月現在)話題の違法・脱法薬物使用によるトリップを「飛べる」と表現することがあるが、それになぞらえて、「ラブライブ!を見てば『飛べるよ』」「作品内容もキャラクターも全部積み重ねてきた歴史をアニメ化してから根こそぎ捨ててきたから中身は空っぽだけど、裏には歴史があると思い込みながら「今が最高!」と騒げば『飛べるよ』」というようなパッパラパーな意味に捉えられ、作品批評者にネタを提供しているなと感じた。
「アニメラブライブ!という作品は、包括的なストーリー性やライブ演出が魅力だから作中のキャラクター描写とかアニメ自体のストーリー性は雑でもいい、描写の足り無さは効果的な省略だからおかしくても逆にそれがいい(効果的な省略が得意なはずの監督なのに無価値な蛇足なシーンやキャラが多いのは何故?)」というような無理矢理な盲目擁護調の論理はこのブログの筆者や、某K氏やG氏S氏V氏などラブライブ!賛美系評論者の多くに共通しているように思う。京極尚彦氏や花田十輝氏の信者に共通しているのかもしれない。
TV/Web会議をはじめとしたITによるコラボレーションツールがこれだけ充実・高度化した現代でも、人は出張する。理由は明確で、物理的に現地にいる必要性はなくならないからだ。面と向かって討議しなければならない込み入った話であったり、現地での署名や式典など儀式的な意味合いがあったり、または「わざわざ日本からそちらに行く」ということで事の重要性を訴えるパフォーマンス的なニュアンスを含んでいたり…と、その必要性はさまざま。
特に中間管理職の場合、出張には大きな投資とリスクが伴う。投資とは、移動や事前の段取りなどの時間的なもの。リスクとは、日本の仕事から一時的に離れなければならないところ。
この内、後者については信頼できる部下さえいればさほど心配すべきことではない。だが、自分が不在時でもその部下に日本での仕事を任せきることができるのであれば、そもそも自分は日本必要はない。ダブルで管理体制を悠々と構えさせてもらえるほど会社も甘くはなく、常にギリギリで回せという体制図になっていることがほとんど。
そのため、自分が日本の仕事から離れるというリスクは、前述の時間的な投資で軽減を試みることになる。王道は出張期間中の部下の仕事を可能な限りTo-do、つまり「やるだけ」の状態にする。その上で発生する問題は、極力部下たちで自律的に対応・解決してもらう。ワークフローシステムなどの「型」が必要な承認以外は、彼等に決めてもらう。ただし気を付けなければならないのは、このTo-do化をやりすぎると部下は「そんなに心配(=私達を信頼してない)なんですか?」と思われること。だから部下の部下にまでは指示はしない。「だいたいこんな感じで!あとは頼んだ!」程度。ここで結局のところ問われるのは、当本人が部下に寄せる信頼に裏打ちされた「任せる勇気」なのかもしれない。
このように「自分は本当に出張に行って大丈夫か」を確かめるのと並行して、出張自体の段取りに入る。
まずは航空券。会社によっては決まった代理店を使うことが多い。これはアシスタントや秘書がいたら任せるのもいいが、自分でやったほうがよい。出張のスケジュール詳細と航空券の調整を並行するのが一番効率がいいからだ。出張中の打ち合わせ>その他の人と話す時間(公式の会議とは別の声掛けや激励)>日本の状況を気にする時間>自分の作業時間(まとめ/ラップアップ資料作成など) の優先順位で、発券期限ギリギリまでスケジュールを綿密に詰める。ゆるいスケジュールだといたずらに出張期間が延び、狙った成果も出ない。そうは言っても、夜は必ず空けておく。大抵なんらかの誘いは来るし、自分の作業時間がつぶれた場合のバッファにもなるからだ。
はじめていく会社、またはお客さん/クライアントではファシリティ面も注意したい。作業場所、Wi-Fiなどの兵站系は向こうでバタバタするほど無駄なことはない。数回行っている拠点/支社なら、総務・情報システム系の人と仲良くしておきたいところだ。それ以降、直接的にトラブルシューティングもお願いできる。
ここまでは、誰しも部下や後輩を持ちながら出張する人なら普通に考えていること。ここからは部下のみならず上司もいる、中間管理職特有の話。
中間管理職は、誰か偉い人の右腕的なポジションで出張に帯同することもある。でも基本、他の誰かで済むならこういう出張は断る。その断り方はその上司との関係にもよるが、自分の場合「絶対行けないわけではないですが、たちまちアノ仕事がこのくらい遅れそうですね、あとコノ仕事はこれくらい質が下がりそうですね」とか返している。「うわ、なんかめんどくせーこいつ」と思わせたら勝ち。回避した後「ご一緒できなくて残念です点帰ったら色々お土産話聞かせてください、帰国日にどこか日本食でも予約しときますよ」とした上で、自分の身代わりとして犠牲になった人もあわせて誘っておくまでがセット。2次回はその犠牲者とサシで。テンプレだとバレていても、断ったことに見合う仕事を日本でしっかりとして、帰国後に彼等をねぎらえばいい。
上司帯同型の出張には、上とは逆に、自分の出張に上司がオマケでついてくるというパターンがある。本当に必要なときはこちらから言うのに、「ここは俺がいないと始まらんだろう」と言わんばかりにしゃしゃり出てくる。バンコクや一昔前の広東地方など夜の世界が充実している地域に行くときはとくにそう。さすがにこれは向こうからオファーしているので、「いえ、来なくていいです」などと無碍に断りにくい。それがゆえにこのケースは本当に面倒くさい。とはいえ、それ逆手にとる方法もある。ややこしい会議、言い換えれば程度権威をもって場を制することが必要な会議を予定にねじこむ。そしてそこだけに意識を集中してもらう。当然シナリオもこっちで用意する。使えるものは「親」でも使うスタンス。
だがこれには大きな代償がつきまとうことが多々ある。経験上では、しゃしゃり出てくる上司に限って、出張に不慣れなことが多い。移動中やたらと街中で立ち止まって写真を撮りたがる。反スパイ法がいまだ絶賛プロモーション中だと考えられる中国ではやめてほしい。安全面もそっちのけ、南米なのに財布がポケットから見えてたりとか…。たまに今夜は別行動で…とか言うと怒る/すねるのも勘弁してほしい。出張に来ると毎晩飲み会だと思ってる。じゃあ日本で毎晩飲み会してるのか?と。昨晩の夜の世界での出来事の反省会をオフィスでやるのもやめてほしい。
こういう上司は、頭のどこかで出張≒旅行と捉えている。発想からして狂っている。また、こういう上司は最上部に書いた部下の仕事は全然ケアしてないから、社内クレームがひとつ下の上司に、つまり自分にやってくる。そして出張前の各種調整なども日本と現地のアシスタント同士に任せっぱなしだから、いざ現地についてあたふたする。挙句の果てには文句を言いだす。フライトが朝早いだの、空港ラウンジが遠いだの。
もちろん、これはすべての上司がそうというわけではない。あくまでひとつの傾向。だがかなりの割合でこうなのも事実。対応は唯一、現地の駐在員をお土産で買収する。出張前にリクエストを募り、それを現地到着時に進呈する際、「じゃあ夜はあのおっさんの面倒頼んだぜ」とする。夜のアテンドは現地駐在員はお手の物、餅は餅屋。
よく本などでは「上司は部下の下僕」と言う。こんなこと書いている本は読んで理解はできるが、体現するのは難しい。だから自分がそういうポジションになったとき、少なくとも部下の足を引っ張るような存在にはならないようにと、上記をメモっておこうと思う。
…という気持ちではいる。気持ちの上では。立場の上ではどうなるか分からないが。
部室長級の記事で、何がしたいかよく分からない原稿400字ほどが急に降ってきた。
既存のコーナーでなんとか許容できるかなっていう場所があったのでそこに入れようとしたら、
連載にするから新しくコーナー作れと。今でもぎっちぎちの裏表紙にスペース開けろとご指定。
いやいやだって、印刷物だから誌面には限りがあるんだよ!文字小さくしたら済むとかいう問題じゃないんだって!というか、ページ毎に趣旨も違うんだって!デザインとかレイアウトとかの問題だってあるの分かるでしょ、やってたんだから。
そもそも、タイトルなし、掲載目的不明(本人も曖昧らしい)、名前も顔写真も載せるな、ってそれを社内報でやること自体無謀すぎるでしょ。
社員の役に立つとか、そういう意図で社内報は作るべきってアナタ言ってたじゃないの。
それなのに自分でもどうしたいか不明っぽいものを持ってくるとは何事か。
これ、どうにか希望通りの場所にねじ込んで、今仮に入れてるスペースにも新しく記事入れ込んで尻拭いして、
ってどうにかやりくりしてやれよって思われるんだろうか。
こちらとしても大事な寄稿、尊重はしたい。というかどうにか不自然にならないように入れたいとは思っている。でもその場所にこだわる主張には誰も納得できていない。納得できる理由がない。
子供を入れたかった保育園に落とされたんだから、↑こう思うのが普通だよなあ。
それを変に、「日本のシステムがー!」とか「社会のありようがー!」とか大きな話にしてぎゃあぎゃあ騒ぐのがおかしいと思う。
要はこの人は、子供を保育園に預けて働きたかったわけでしょ? でもその望みがかなえられなかったわけでしょ?
じゃあ保育園と戦えよ。
落とされた保育園にねじ込んで「子供を!ここに!預けて!私は!働き出したいと!思って!いたのに!人生計画が!台無しですわ!」とか毎日毎日怒鳴り続けていればいい。
いずれ、周囲の誰かが根負けか羞恥心に負けるかして、知り合いの保育園の枠を内密に確保してくれるとか、顔を真っ赤にした両親もしくは義両親が子供預かってくれるとか、あるいはお手伝いさん頼めるくらいのまとまったお金生前分与してくれたりすると思うから。
もちろん、「ゴネれば要求は通るんだ」という悪しき前例を作り出す事になるけど、このお母さんも自分さえよければいいんだろうし、周囲も結局自分だけがかわいいから、難を避ける為なら多少の自腹は切ってくれるし例外的対応もしてくれるよ。
http://anond.hatelabo.jp/20160221211517
ブログではその後、キャラクター描写の観点から批判が展開されている。自分がアニメラブライブのキャラクター描写について感じたことについては既に言及した部分が多いが、この部分の論述についても内容的には概ね同意できるものである。
ただ、だからこそそう考えるのであれば、突っ込みたい箇所がある。
以下では、以上で書いてきたのと本質的には同じことを別の観点から論じてみたい。それは、キャラクター描写という観点である。
(中略)
このように8人のメンバーの主体性が奪われてきた一方で、それと反比例するかのように各メンバーの薄っぺらいキャラ付けは強化されてきた。(中略)
たとえばこの劇場版において花陽が最も目立つシーンは、花陽がいつも通りにお米キチガイであるということがこれでもかというぐらいにしつこく描かれるシーンである。この劇場版において、花陽がどういう想いでアイドル活動をやっているのかとか、メンバーとのあいだにどんな新しい人間関係が生まれたのかとか、そういうことは全然描かれない。その代わりに、とにかく花陽はお米が大好きで白米が食べられないと気が狂ってしまうほどだということだけが強調されるのである。端的に言って、この映画を作った人たちは小泉花陽をバカにしているのではないかと思う。
キャラ付けにおいては現実のアイドルだってそんなもんじゃないかと思う人がいるかもしれないが、そうではない。たとえば、いつもカメラ目線を絶やさず満開の笑顔で視聴者にアピールする「まゆゆ」という優等生的キャラクターがなぜ魅力的なのか。それは、ファンがそこに渡辺麻友の野心の大きさと意志の強さ、そして完璧なアイドル像への執念を見て取るからである。スキャンダルで名を売ったり、アイドルの殻を破る破天荒な行動を取るメンバーたちが人気を集めるなかで、それでもなお自分が信じた理想のアイドル像にこだわり、それに徹しようとしている。アイドルとファンの距離がぐっと縮まった現代において、完璧なアイドルを演じ続けることの困難さ、時代遅れさを自覚しつつも、それでもなおその道を貫こうとしている。その職人気質、ストイックさ、生き方が人を惹きつけるわけである。このように、アイドルのキャラ付けは表面的にわかりやすいものであると同時に、その人の人生や信念と深く結びついたものでもあるからこそ、見る人の心を惹きつける。アイドルは人間だからこそ、魅力的なのだ。
翻って劇場版『ラブライブ!』において、我々は花陽の白米キチキャラに何を見ればいいのか。あるいは、一様にニコニコとして歌い踊るμ'sの9人のその笑顔の裏に何を見られるのか。それこそが問題なのだが、今の制作陣にそのような問題意識はまるでないようで、判で押したような浅薄なキャラ付けを毎度繰り返すばかりである。もちろん、判で押したようなキャラ付けが普遍的に悪いと言っているわけではない。そういうキャラクターが適している作品だってある。しかし『ラブライブ!』は、元々はそういうキャラ付けをする作品ではなかった。それなのに作品人気が高まり、ファン層が入れ替わるにつれて、人間を描こうという当初のスタンスがすっかり失われてしまった。雑誌連載時代そして第1期の頃に比べて、μ'sメンバーの魅力がめっきり減ってしまったように感じられるのは本当に残念なことである。『ラブライブ!』を、こんな消費の仕方をするための作品にしないでほしかった。(以下略)
この批判においても現実のアイドルである渡辺麻友が比較対象に出されている。AKBについてはあまり詳しくはないので渡辺麻友が実際語られている通りのアイドルなのかは分からないが、ここで語られている渡辺麻友の魅力を読むと自分にはかつて存在したあるスクールアイドルの姿が思い起こされるのである。
アニメ以前の矢澤にこはプライベート含めて完璧なアイドルに近い存在として描かれていた。また、本人も最高のアイドルになれる器だと自覚し、なろうと努力を続けている存在であったし、その姿勢やポテンシャルがメンバーの尊敬を集めたりしてもいた。(公野櫻子氏原案・鴇田アルミ氏作画の漫画版や過去のCDドラマ参照)
そのようなにこのキャラクター性、物語性が人気と支持を得て総選挙1位も獲得したし、自分などはこのキャラクターをもっと様々な舞台で見てみたいと期待していたのだが、TVアニメ以降は大幅な設定改変を行われて、矢澤にこというキャラクターは闇に葬り去られてしまった。
TVアニメではかつての設定は面白おかしくねじ曲げられてネタにされるのみであり、後輩含めた他のメンバーからも馬鹿にされることばかりで、本人もアイドルになりたいというよりはただのアイドルオタクという部分が強調され、努力の跡はあまり見られない。
京極尚彦・花田十輝両氏は元々典型的先輩らしさがなかった絵里以外の3年生キャラを先輩らしい役割を与えたかったために矢澤にこと東條希のキャラクターを改変したらしい(電撃ラブライブ!3学期参照)が、TVアニメのにこの良い意味での先輩らしさは1期終盤の数箇所くらいであり、他は悪い意味でただ偉そうにするだけの残念な存在として描写されている。その点を抜きにしても適当ににっこにっこにーと言わせておけばいいというように薄っぺらく判を押されただけのキャラクターとしてアニメ以降のファンに印象付けさせられてしまった。
つまり、前半にも同様の指摘をしたように第1期の時点でキャラクターを人間として描こうとする当初のスタンスは失われていたことを指摘しておきたい。
ブログ著者の批判の仕方はもっともであるが、渡辺麻友をそのように態々例に出して語りながら、矢澤にこをはじめとするTVアニメ以降のキャラクターの改変について無視して語り通すことに違和感を覚えるし、所詮第1期アニメについては盲目的な信者である所以が見え隠れする。
第1期をはじめとするアニメ版や劇場版を評価する人の存在も個人の好み故に仕方のない部分だが、2期や劇場版のキャラクター性や物語性をあのように初期や現実のアイドルと比較する論理から批判しておいて1期は問題なく賛美する見方に関しては異議を唱えたい。
結局批判に近いような形で締めてしまったが、基本的には概ね同意できる内容であるし、劇場版公開間もない頃にはっきりと内容を批判する記事を公開したのは当時は勿論だったが今から考えても意欲的な試みで素晴らしかったと思う。それまでファンとアンチの盲目的で説得力と内容のない賛美と批判ばかりがありふれていた中で、ファンに多少は内容に目を向けるように刺激を与えた意味で画期的なものだった。
彼の批判がたまたま拡散されたからというのもあるが、個人的に、TVアニメ化以降のラブライブ関係のイベントで最も興味深く見る価値があったのはアニメの内容やライブや紅白出場などよりも彼の批判ブログとその反応関係だったのではとすら思っている。
http://anond.hatelabo.jp/20160221211019
たしかにμ'sのメンバーは二次元のキャラクターであり、実在する人物ではない。しかし、雑誌連載時代のファンは彼女らがまるで生きている人間であるかのように交流し応援してきたのではなかっただろうか。もちろん本当に生きているわけではないと知りつつも、それでも彼女らの人生を共有できると信じる真摯な姿勢、それこそがTV版第1期の物語を生み出した原動力であったと思う。劇場版の脚本では、そのような真摯さはすっかり失われてしまった。μ'sのメンバーはこれまでどのような人生を歩んできて、どういう動機でμ'sに参加し、何を考えて今まで活動してきたのか、そして今後はどうするつもりなのか。それらのことを踏まえれば、μ'sはどのような結末を迎えるのがふさわしかったのか。そういったことを真剣に考えた上で脚本を練り込んでほしかった。
アイドルは単に華やかに笑顔で歌って踊っているから魅力的なのだとか、メンバー同士仲睦まじく百合的関係性を構築しているから魅力的なのだとかいうのは、それぞれ一つのアイドル観であるし、それ自体が悪いわけではない。しかし、アニメ制作陣、つまりアイドルを生み出す側の人間までそのようなアイドル観に染まってしまってはならなかった。アイドルにはそれぞれの人生があり、物語性があるからこそ魅力的なのだ。そのことをわかってほしかったと思う。
ここで述べられている通り、アニメ以前のラブライブというプロジェクトの魅力はμ'sのキャラクターを実在するアイドルのように描写し、またファン自らがアイドルと自らを実在するアイドルとそのファンのように認識し応援するスタイルであったことである。
ただ、ブログにおいては、その姿勢や過程がTV版第1期を生み出した原動力になったとまとめられているが、その点については異議を唱えたい。
この部分においてはμ'sのメンバーそれぞれの人生や物語性と、その重要性について述べられており、また、雑誌連載時代、つまり初期やアニメ化以前の内容やファンについて言及しているのだから、それを持ち出す際には当時のキャラクター設定やコンセプトについて思いを馳せておくべきである。そして、そうすると上述のようにそれまでのキャラクターやプロジェクトの歩みを表面的にしか理解・配慮せずに改変・軽視したのがTVアニメ第1期であるし、その経緯については第1期直後の脚本家インタビューで語られている。
つまり、ブログ著者が言うようにメンバーを生きている人間であるようにとらえ応援するのであればTV第1期の時点でアニメは価値体系を崩壊させているのである。特に矢澤にこ、東條希、西木野真姫は誤差やアレンジという範囲を超えた別人である。また、それぞれのキャラの作品内人気は低くなかったのでアイドルや一人のキャラクターとして見た場合改変の必要性はなかった。特に矢澤にこは総選挙1位を獲得しており最上位クラスの人気を誇っていたのだから、あらゆる面において一人の人間としてキャラクターとして配慮されていたとは言えない。西木野真姫に関してもμ'sの名付け親として知られる最古参の一人御児勇馬氏がTwitterでキャラクター改変を嘆いていたほどであり、本当に生きている人間の一人、初期から続くキャラクターの魅力や物語性を重視して応援するならばアニメ版は第1期から問題が大いにあることを主張しておかなければならない。
また、現在のファンの多くが主張する百合さえあればいいという価値観についても矛盾があることがその点から導き出せる部分がある。現在もラブライブ百合好き界隈において人気ナンバーワンのカップリングといえば恐らく「にこまき」なのだろうと思われるが、そもそも今のにこまきが人気を得た大元の原因は何かといえばアニメ以前よりにこまきが人気だったことが影響している。その延長線上で新規参入ファンもにこまきを嗜もうという流れから人気が高まった過程を自分は感知していた。
しかし、アニメ以前に人気を得たにこまきのカップリングの性質というのは現在のものとは180度違うものである。先述したように矢澤にこも西木野真姫もアニメ以前と以後では大きくキャラクターや立場が変わっており別人である。名前と見た目の記号条件が同じだけの別人同士のカップリングが伝統のカップリングのように捉えられて人気を得ている現状は苦笑いするしかなく、ブログ著者が主張するように現在のラブライバーの大半は物語性軽視甚だしいだけでなくただの百合好きとして見てもただ状況に流されるだけで本当に百合やキャラクターの関係性や魅力を捉えて楽しんでいるかすら怪しいファンが多すぎるのではないかと考えられる。いわゆるラブライバーである自分が好き状態であるし、細かくいえば○○(任意のキャラ/楽曲/カップリングなど)を尊いと言う自分が好きという状態でその中身への興味や理解が足りなすぎるのである。
…というように突っ込んでいくと、TVアニメ版のキャラクターや物語性の価値が第1期も含めて崩壊してしまうので、第1期を高く評価しているブログ著者としては都合が悪かった理由があるかもしれない。
また、それらに付け加えて言及するべきなのがアニメ第2期放送中に物議を醸した海外ドラマ「glee」盗作疑惑問題の件である。劇場版や第2期を中心としたアニメラブライブの行き当たりばったりの内容を批判する際には説を補強するためにも言及する価値と必要のある問題だと思うが、件のブログにおいて言及がないことが残念である。主に彼の批判文を読むのが作品批判に慣れていないラブライバーであるため、または彼の所属していたコミュニティにそのようなファンが多いために遠慮した部分もあるかもしれない。
あれがオマージュなのか盗作なのかという問題以前に、盗作引用などする必要なくコンセプトや設定がちゃんと存在しているプロジェクトの作品に、無関係の場所から話や設定を引っ張ってきてそれをなぞらせるために設定や物語をねじ曲げる行為自体が、ブログ著者が主張するようなキャラクターを実在の人間の一人としてとらえるような観点や作品の物語性を重視する観点で見たら大問題であるし、キャラクターや作品を愛するファンであれば問題視し怒って然るべき問題だと感じるが、疑惑が立ち上った途端にラブライバーの多くは黙り込んだり、それを持ち出して批判する者を無差別アンチ認定して閉じこもり無理矢理な擁護に回ったのを見て自分はこのプロジェクトには本当にキャラクターや作品の内容を愛しているファンはまともに存在しないことが分かりもうこのプロジェクトは駄目だと確信したのを記憶している。
以後、その予想が当たり、公式はその件を反省することはなく逆に開き直って先導するような形でそのような流れがラブライブのプロジェクト全体に蔓延した現状があるわけである。
そのような流れを受けて流石に劇場版以後からありがとうプロジェクトに至るまでの間に、ブログ著者をはじめ、少しはプロジェクトのあり方に疑問を抱く人が増えたようではあるが、先述したように盗作疑惑の件や設定改変や統一化の闇について語る者は依然として少なく残念に感じる。
今話題の自称元レースクイーンのタレントさんのような方が大勢オーディションにいらっしゃいます。
オーディションに参加する方でモデルと呼べそうな方々はせいぜい1~2割です。
下位カテゴリーのチームではアラサーではなくアラフォーの方々がレースクイーンをやっていらっしゃいます。
なぜこんなことが起きるかというと小さなモデル事務所では登録料やレッスン料が主な事務所の売り上げだからです。
そして仕事紹介してるよ、オーディションに落ちるのは個人の資質だからねという体裁をとっているので無理やりチームのオーディションにポケモンや妖怪ウォッチ的なものをねじ込んできます。
(もちろん合格することはありませんが。)
オーディションが終わると社員同士で我々はポケモンマスターではないよね?と確認しあいます。
いやポケモンが本当に来てくれたらかわいいから大歓迎ですけどね。
今年も疲れました。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2016/02/post-808.php
政治主張の違いを右派と左派という日本語にしちゃったのがもうそもそもの誤解というか、印象事故の原因だったんじゃないかなあ。
>「右翼」と「左翼」の語はフランス革命の間に作り出された。「右翼」は、国民議会で旧秩序の維持を支持する勢力(王党派、貴族派、国教派など)が議長席から見て右側の席を占めた事に由来する。
わけで、別に「両者の主張が常に完全に反対である」なんて事実はないし、そんな「右翼」と「左翼」という言葉にそんな意味合いはない。けれど、右と左という語を当てはめた瞬間に、連想的にそういう印象を抱かせてしまった。っていうのが、なんだかみんなの誤解を生んでる要員であるような気がする。
両者を保守、革新という言葉に読み替えると、学生の人にもわかりやすくなるし、そういう表記を心がけたほうが良いと思うんだよ(もしかしたら右左で煽るのが愚民化政策の肝なのかもしれないけれど)。
保守というのはすごくざっくり言って「今ある機構や体制は上手く行ってるんだからこれを護持しよう」ってことで、革新は「より良くなるために仕組みや組織をバンバン更新していこう」ってことだ(中学生向けに丸めています)。
でも、ごくアタリマエのことだけど、時間は常に流れているから、世界全部は未来方向に進んでいく。新しい技術や人間や流行が出てくるんで、「完全な停止」なんてものは、事実上不可能だ。そんなのは保守の人にだってわかっている。歴史の流れにあわせてマイナーアップデートの繰り返しで修正していきましょうねくらいが現実的な「保守」だ。
一方で、なんでも変えればいいかって言うと、そんなに急速に変えたら事故ったとき取り返しがつかないし、そもそも新しい仕組みに対応できない人を苦しめてしまう。それは良くない。そんなのは革新の人にだってわかっている。だから注意深く変えていくんだけど、歴史なんてものは私達がそうありたいという未来像に向かって進んでいくんだから、変えないなんてことは出来ない。変えていかなきゃならない。もちろん注意深くね、くらいが現実的な「革新」だ。
こう考えると、保守と革新の間にあるのは、方向性的な意味で相容れない主張であるというよりは、時代変化の速度に対する認識であるとか、社会を変化させていく速度に対する考え方の違いであって、「右翼」と「左翼」という言葉でイメージされるほどの相容れなさ、険悪さではない。少なくとも、教科書的にはそのはずだ。ワイドショー的にはドンパチしている絵面のほうが視聴率稼げるという判断かもしれないけれど、基本をおさえるという意味で「両者はそんなに相容れないわけではない」と思ったほうが良い。っていうか、そんなに思想的に本当に相容れないなら、同じ国に住めない、内戦とかになるよ。