はてなキーワード: バックグラウンドとは
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0D6NCB574/
☓1つの文章に山程の文献の知見を入れながらも → 知見は入ってません。読んだのかもしれないけど本人がフィルタになってしまって全部濾し取られてしまってます
☓ガリレオやニーチェまでほんのりと →実際のガリレオじゃなくて本人が知ってるつもりの偽ガリレオとかが書かれてるだけです
☓哲学と仏教と心理学とビジネス書に書いてあることを1つの文章の中にケンカしないように、整合性取れるように入れている → 全部取り入れようとした結果薄味になって哲学以下。仏教以下。心理学以下の薄っぺらい内容になってます
☓1冊の本に数十冊ぐらいの情報をブチ込めたはず →作者の自己満足に過ぎず、読者としては一冊分の情報でいいからしっかり濃い話をしてほしかたです。まじでめちゃくちゃ薄いです
☓「これちゃんと書籍にした人いる?」 「このテーマの本より、私の方が上じゃないの?」 →気の所為です。本人が普段いかに読書をしていないかがすけて見えるセリフですね。
☓「バックグラウンド」でさえ、哲学者が3人ぐらい絡まってる →本人は絡めてるつもりだと思いますが、先程述べたようにこの人がベースだと考えてるサルトルとかも全然理解できてない薄っぺらいものでそのような話はありません
その処理は、例えばメールを大量に処理するようなものだったりして、速度が要求される。
こういう場合は、処理するべきメールとログ(およびそれに必要なデータ)をジョブキューに突っ込んでいき、必要な前処理は全て済ました状態で一気にデキューしていくのがいい。
ただしこの方法を使用するには、ジョブキューの管理や並行処理の管理など、いくつかの追加的な技術が必要になる。
またシステムのリソースも考慮に入れる必要がある。例えば、メモリやCPUの使用量など。
このようなアプローチは、高速なレスポンスタイムが求められるシステムや、大量のデータを効率的に処理する必要があるシステムでよく使用される。
ジョブキューを使用してバックグラウンドで時間がかかるタスクを処理することで、ユーザーに対するレスポンスタイムを短縮し、システムのパフォーマンスを向上させることができる。
なるほど、あんたの言ってることは一見筋が通ってるように見えるかもしれないっスが、現実はそんなにシンプルじゃないっスね。
正社員であることが女性の社会性を示す一つの指標にはなるかもしれないけど、そんだけで人間の全てを量ることはできないっスよ。
仕事をバリバリこなせる女性がいれば、家庭を支えることを最優先にする女性もいるし、どっちもこなせるスーパーウーマンもいるっス。
それぞれの人が持っているバックグラウンドや価値観ってもんがあるから、一概にこれが正解ってのはないってことっス。
あと、あんたが求めてる「フットワーク軽い」ってのも、正直要求多すぎるんじゃないスか?
そんな完璧な女性がいるかもしれないけど、それを当たり前のように求めるのは間違ってるっスね。
まあ、これが俺の忌憚のない意見ってやつっス。
どうだろう、会話の経験値不足ではない?
いわゆるテレビっ子、十分に対面コミュニケーションを積めなかったとか、
不登校でインターネット上のテキストコミュニケーションに慣れきってしまうと
そういった機能が身に付かないケースがあるらしい
例えば会話中って
inu って聞こえた時に 犬、居ぬ、戌…とかって同音異義語が思い浮かぶ(だいぶ少ない方)けど
実際に発声があって、耳へ音(振動)が伝わる前からあらゆるケースを想像しているはずなんだよね
その発声した人のバックグラウンドや、TPOや、関係性やら、色々な非言語情報から脳が勝手に推測して。
で、例えば聞こえてきた inu が犬だと特定できたのちでも、あらゆる犬に関わる派生を脳が勝手に検討してる
それこそLLMのロジックではないけれども、ある単語に対応するツリーが同時に開かれているというか…言語化むつかしい。
最近の若い子が電話が苦手だったりするのはこういうケースが多いのかなーって勝手に思っている
もちろん、こうした経験は若い時の方が効果的にシナプス?だか分かんないけど形成されやすいんだろうけど
多少歳を取ってからでもある程度までは育つのではないのかなーと勝手に思ってる
テーマの部分を改変してはだめですよ
「きのう何食べた」の賢二の仕事を美容師からケーキ屋さんに変更するのはアリでも、
その改変を加えること自体が作品と真逆のメッセージを持つからです
作者のブログによる指摘は以下です:
この作品は説教をしません。登場人物も「ハッと気が付く」ようなこともありません
登場人物の1人は弱者男性です。彼は「女性の人生はイージーモードだ」と言います
もう1人の男性はハテナーの嫌いそうなDQN系強者男性です。彼は女性を対等な人間扱いせず雑に食い散らかしています。
彼らの最初の印象は悪いです。でも、作者の目線は彼らに優しく寄り添います。
彼らの目線から見える世界が語られることでその発言にある背後の苦しみが共有されるのです。
私が他のひとを許すから 私も他のひとに許してもらえる
正しくなくても寄り添い尊重し合って生きていく
修正:きょう→きのう
また、これに関連し原作者が「心底どうでもいい」と断じた「かわいい制服の私立高校に進むことが出来なかった」という改変も、
朱理は男を財布と肩書きでしか見ていない婚活女子です。初登場時の印象は最悪です。
でも、その人となりを知るうちに読者は彼女を好きになっていきます。
彼女が生き残るためそうせざるを得なかった事情が語られるのがそのシーンです。
薄給ブラック企業に勤め、男であるが故に競走から逃げることのできない進吾と
女であるが故に大学進学が認められず、そもそも競争のスタート地点にすら立たせてもらえなかった朱理
朱理は学歴社会において不利な状況に置かれたため、婚活に活路を見出しているという子なわけです。
ここでいう弱者男性とは社会的弱者の意味です。進悟は普通の顔です。
田中さんはすっぴんが異世界おじさんでメイクをするとデーモン小暮という方です。
報告書を読むと作者も同様の不安を抱かれたようですが議論して一旦は説得したようです。
ところがメイク失敗シーンが女優さんの肌が綺麗すぎて撮れないという話になり・・・という流れですね。辛くなってきたのでもうやめます
あなたのおっしゃる通り、顔の悪い役を引き受けてくれる人はいないでしょうからしょうがないのかもしれませんね。女優さんも人気商売でしょうから
モテることを目的に女性と接するのをやめようという話だと思う。モテることが目的で、女性との会話が単なる手段となっていることを問題視しているのだと思う。
だから、手段として扱うのをやめようというアドバイスだと思う。モテるとかを抜きにして、会話を純粋に楽しめばいいのだろう。もっと言えば、モテようとすることをやめるべきだというアドバイスだろう。
まず、「人間扱いするべき」とアドバイスする人と「モテたい」と考える人は恋愛の価値観が違う。
「人間扱い」勢は同性・異性関係なく、人生のパートナーが欲しいと思っており、恋愛においてもその価値観が表れている。
「モテたい」勢は人生を楽しむ手段として恋愛を考えているか、中高の多感な時期にモテることがカッコいいという価値観を周りの環境から学んで、とりあえず「モテる」ことがいいことだという価値観。
だから、「人間扱い」勢は性別関係なく、パートナーが欲しいと思っている(性別によってパートナーの呼び方が親友、恋人と変わる)が「モテたい」勢は”異性”に好かれており、”同性”にモテてることを尊敬されたいと思っているので話が平行線になる。
そして、「人間扱い」勢はモテたいわけではないので、”パートナーの作り方”として人間扱いすることを勧めている。「人間扱い」勢にとって、モテることは意味がなく、上っ面だけのおべっかを言い合う関係で、本音を言い合う関係ではないと考えている。と、思う。
だから、”モテよう”とすることをやめて人間関係を豊かにすることから始めればいいのではないかというアドバイスになる。アドバイス自体がふんわりと「人間扱いすればいい」となっており、核心部分がなく、同性と同じように異性と接すればいいと本当に考えているからだと思われる。
『核心部分を誰も教えてくれないからこちらはどうしていいか分からない。
何でそこ隠すんだよ。俺たちが一番知りたいのはそこなんだよ
発達障害女子漫画で理解ある彼くんが前触れも説明もなく一コマで生えてくるようなことなんでするんだよ。』
と思うのも無理もない。モテる方法を聞いているのに、モテるよりも人生のパートナーを作るほうがいいよ、そのためには「人間扱い」するのがいいよと言ってくるからである。
ちなみに、僕はモテたことのない、今まで恋人もいない男子大学生である。そもそも、大学に友人はいない。母との会話を除いて、週に原稿用紙1枚分でも他人と話せば会話した方である。そんな自分としては、モテることより友達を作り人間関係を豊かにする方が大事だと思う。モテるテクニックで恋人を作っても意味あるのか?と思う。
そもそも友達がいない自分のアドバイスとしては、文系と理系の会話のように男女の会話を捉えるようにするのがいいと思う。
「人間扱い」するべきというアドバイスは”性差を特別視するな”と言い換えることが出来る。女性相手だから『発達障害女子漫画の理解ある彼くん』みたいに接する必要はない。”女子”だから荷物もってあげるとか、道路側に立ってあげるとか、奢ってあげるとかする必要はないし、会話を女子に合わせてあげる必要はない。男友達と同じように接すればいい。男友達でも、荷物が重そうだったら持つことはあるだろう。それは、何かを”してあげる”わけではなく、そういう助け合う関係だからである。
とはいえ、女子と男子では会話の内容は異なる。だから、女子相手にいつもとは違う接し方をついしてしまう。しかし、人によって会話の内容が異なるのは当たり前で、性差が特別なわけではない。女子だから砂糖菓子みたいな会話をしているわけではないし、男子の自分には理解が出来ないわけではない。そもそも、友達の少ない自分からしたら、他人の言っていることはほとんど理解できない。
服が好きな友人の話は一切意味が分からないし、友達何人かと服屋に行ってもつまらない。そもそも、趣味や好きなものが違えば会話は難しい。そして、女子は趣味や好きなものが違う場合が多い。そういう場合に、”女子”だからと性差を意識した会話をすれば下心があるように思われるのだろう。だから、文系と理系との会話だと思えばいい。自分は文系だが、理系の友人とは考え方や知識が違うなと思うことがある。それは、その人のバックグラウンドとしている文化が異なるだけで、大きな違いがあるわけではない。文系の自分としては、理系の人のような考え方は出来ないし、知識があるわけではないので、専門的な話はついていけない。同じように女子のような考え方は出来ないし、女子と同じような知識があるわけではないので、女子の専門的な話はついていけない。けれども、理系の友達と楽しく会話出来ないわけではない。考え方や知識に差があっても同じように女子と会話が出来るはずである。それが出来ないなら、考え方や知識の差が少ない同じ趣味の女子と会話すればいい。
日本語学習者を支援するボランティアの講習会(全3回、1回でも休むと参加資格なし)(3回しかないけど)に参加した。
特に資格は持ってないけど、外国人との交流が好きだったし、日本語を学ぶ人を通して私も学べることがあるはず!と思って、引っ越したばかりで娘の保育園も決まってないけど、義母や義姉に見てもらって、時間を作って行ってきた。
2回目までは楽しかった。資格がある教師と資格がない支援ボランティアとの違いを学んだり、「やさしい日本語」を使って実際に外国人と話したり…ディスカッションでアイデアを練ったり、「資格がなくてもあなたの気持ちがあれば日本語を教えられる!」という言葉で、資格がない私でもできるかも!って思った。誰でもできるっていう言葉を信じてワクワクしてた。
ボランティア団体の紹介をしてもらえたんだけど、だいたいどこのボランティアも参加するのに年会費が必要と。えっ、ボランティアって無償の施しだとは思っていたけど、むしろこちらが費用を負担するの?しかも高いところで年に7000円?ちなみに支援を受ける側の費用の負担は無い。えっ、無いの?あなたたちの使う会場やテキスト、その他諸々の費用も私たちが負担するってことなの?
様々なバックグラウンドの人が平等に勉強する場を設けたいというのはわかる。それに対してお金のかからないボランティアを募るというのもわかる。でも、自ら来日してきた人に対してマンツーマンで教えてあげる上にこちらが費用も負担って…それって私たちがしてあげる必要ある?
さらにはここへきて、日本語教育に関しての資格などがないと厳しいと。興味ある人はブースへお立ち寄りくださいって言われて、のこのこ行ったら無資格の方は必要ないかな…みたいな顔されて、恥ずかしかったわ。交通費かけて行って3時間みっちり講習を受けて、最後の最後で、資格がない人はちょっと…みたいな、酷くない?2回までの「気持ちでなんとかなる」みたいな講習、なんだったの。
費用も負担してくれる有資格者のボランティアを募集って、多くを求めすぎでは?
ボランティアをしたことがないんだけど、そういうものなのかな。
誰かの助けになりたくて、周りに協力してもらって子供預けて参加して、これから活動するなら定期的に見てもらえるところ探さなきゃなー!とかワクワクしてたのにな。
まあどれもこれも参加しなかったらいいだけど話なんだけど。そういう慈善活動は余裕がある人とか、誰かに施したいやりたい人がやればいいし。それはわかってるんだけど。
折角、頑張って参加したのにな。うまく言葉にできないけど、全部、蔑ろにされて無駄になった気分、なんだか泣ける。
僕がひとまえで話す時にいつも言葉に詰まるのは、話している最中に、的確で当意即妙で面白いことを言いたいな!うまく喋りたいな!という欲求がリアルタイムに渦巻いていて、バックグラウンドでは常に言葉を模索をしているからなんだと思う。しかしながら言葉の場合は、ドラえもんがああでもないこうでもないとポケットから道具をポンポン引っ張り出すような具合に、言葉を声に出してしまうと冗長だし支離滅裂になってしまうことはわかっているので、あのーとかうーんとかちょっとーとかえーっとー、とか言って、そうしてああでもないこうでもない感が出てしまっている。
初めから、うまく話すことを諦めたらいいんじゃない?と言われても、それはすぐに「わかりました!」と飲み込むことができない。なんというのだろうか、それは僕の自我というか理想というか気概というか意志みたいなものを、僕の僕というところを、みんなみんな放棄して話してください、と言われているような気分になる。僕は話すということには考えるという行為を常に紐づけているので、脊髄反射的な作用で話すことができない、それをしてしまうと僕は僕でなくなってしまうと思う。
じゃあどうすればいいのか。それはわからない。僕はたぶん言葉のセンスはないんだと思う。正確で整理されてかつウィットや冗談の効いた面白い喋りをする人は、僕の周りにはたくさんいて、いつみても素晴らしいなと思う。尊敬する。でも僕はそんな人のようにはなれなくて、それは知識や言葉を知らない以前に、センスがないからなんだと思う。運動神経が悪いの言葉バージョンのようなものになっているんだと思う。
慣れでなんとかなるのかな?そうは思えない。この調子で数十年生きているんだよ?ずっと死ぬまでこのままなんじゃないかと思う。僕はこのままでいいのかな。いやだめだよ。上を目指したい。僕は光をめざしたいんだ。
真面目に議論するなら、お好み焼きをクラスとするかも怪しくなる。
オフトピだがね。
オブジェクト指向が栄華を極めたあの時代、責任、関心、主体性、凝集、アイデンティティ、is-a has-a、… 研究者やギーク、仙人らによって、あらゆる説明がされたが、結局、オブジェクト指向は現実世界を捉える人間の感覚の応用でしかなかった。
「モノ」と思える奴をクラスにすればいい。
それ以上でも以下でもなく、あとはプログラミングの構造を整理するために有効に使えるケース・バイ・ケースの妥協点を探すことになる。どうモデリングすべきかの議論は収穫が少ない。いや、極めれば霧の向こうで信じがたい洞察を垣間見れる可能性はあるにはあるが…、しかし多人数でソフトウェアを維持管理するのが正解だと分かった今、属人性を排除するためには霊感を説明するよりシンプルに留めるのがベスト・プラクティスだ。
プログラマーの関心が関数型に移ったのは、そういう経緯もある。数学をバックグラウンドに持つ関数型言語をバックグラウンドにする方が、ミーハーな技術屋連中の興味を引けた。
2020年コロナ禍になって自宅待機で暇だったから毎日散歩してたけど音楽も飽きたし、何かBGM代わりに聴こうと自己啓発系のYouTubeをバックグラウンド再生で延々と聴いてた。
仕事が始まってもイヤホンでずっと自己啓発のビジネス方法論みたいなのを聴きながら仕事してた。
飽きっぽい自分なのに自己啓発の語りは飽きずに聴き続けられてた。もしかすると俺はビジネスの才能があるのでは?と思って自己啓発を聴き続けて2024年現在になったが、冒頭に述べたように何一つ身に付いてない。
すごい、あれだけ自己啓発を聴き続けてたのに本当何も覚えてない。
例えばどういうのを聴いてたかをここで語ろうとオーディブルの再生履歴のタイトルを見ても何の話だったか何一つ思い出せない。
でも心地良いんだよね、興味無い話って。
好きな音楽聴くとその音楽を聴き入っちゃって脳が休まらないんだよ。
だけど興味無い他人の話は耳障りが良い。
よく男性と女性の性差で議論になるとき「性差よりも個人差の方が大きい」という優れた意見に出会うことがある.同感である.
確かに性差はあるだろうが,個人差の方が大きいのは事実だろう.
東京 vs 地方の話題も同じだと感じる.どちらも都合よく,文化や環境の議論をしているように思う.
そこで,地方の子育て事情(3σ外れた異常値と認識している)として,自分が行った子育ての例を紹介したい.
異常値であると記載した通り,地方の子育てがこれが平均だというつもりは毛頭ない.むしろ,地方においても親が異常者であればこういう子育てが可能であるという例である.
先にバックグラウンド.私は東大卒で,妻も東京の国立大学卒である.二人とも博士号を有している.
仕事の都合で,地方都市(三代都市圏近郊ではない,まさしく地方都市.人口数十万人)で15年間子育てをすることになった.
私は仕事で住んだ地方都市よりもさらに人口の少ない地方都市出身者であり,18歳までその地元で暮らしていた.
まず,毎週末のように,県内及び隣県にある文化施設や大きな公園などに高速を使って出掛けていた.
子供たちが異常に好奇心が旺盛であったため,科学館や天文台,美術館,博物館なんでもOKだったし,
公園には必ず図鑑を持って出かけ,気になる花や虫は図鑑でチェックしながらなるほど〜と家族みんなで確認した.
連休は近隣県でジオパークに出かけたり,温泉旅館に泊まったりした.行く前に図鑑や本で地域の情報や歴史を調べ,
車の中でみんなで披露するというのがお出かけのパターンであった.
中学校くらいからは歴史に出てくる場所や有名建築家が設計した建築物回りなど,社会科学寄りのお出かけも増やしていた.
半年に1度程度の頻度で東京や大阪には出かけ,そこでしか体験できないこと(科博,未来館,キッザニア,鉄博,USJなど.なぜかディズニーには一切興味を示さなかった)
にも出かけた.特に未就学時は鉄道大好き人間だったので,JRの全ての鉄博,地下鉄博物館,京王レールランドなどにも行った記憶がある.
体験格差などという言葉があるが,少なくとも我が家はお出かけという観点において,首都圏での子育てと比べて,劣っているとはあまり思っていない.
それは元々自分も妻もお出かけ大好き人間であり,軽々しく遠出をする人間だったためと考えられる.
上の子,下の子ともにゲームは2-3歳から解禁していたが,1日30分というルールで行っていた.最初は駄々を捏ねていたが,
1週間もすればルールに順応する.小学生からは1日1時間.お休みの日や特別な日(テストが終わった日など)は長時間を許すという柔軟な運用をした.
私自身ゲームが大好きであり,子供の頃も馬鹿みたいにやっていたので,ゲームをすれば頭が悪くなるなんてことは一切考えたことない.
一方で,ゲームは面白すぎるのでやめ時が難しいことが問題で(これはマンガであれ,Youtubeであれ,小説であれ,映画鑑賞であれ他の全ての趣味にも共通する)
そこさえ親がきちんと見守れば,子供がやりたいこと,見たいものは与えて良いと思う.際限ないことが問題なので.
習い事や勉強について.未就学期の習い事は上の子は水泳,ピアノ,造形教室,ダンス教室,下の子は水泳,造形教室だった.
通っていたお絵かき教室が県内で相当有名なところであり,コンクールの賞ゲッターを量産するところだったので,
我が家もそれなりにエフォートを割き,小学生と中学生の際にはいくつかの賞を受賞し,地元の新聞に載った.
公文は個人的に否定派だったので,未就学時は自宅でこぐま会をやっていた.もちろん小学校受験などするつもりはないので,あくまで頭のパズルと基礎力をつけるという程度.
自宅で先取り学習は絶対にしないようにした(ここでいう先取り学習とは学年よりも先の内容をやること)
小学校(公立)では,全く勉強に困ることはなかった.これは首都圏のようなレベルの高い競争がないため,当然と思われる.
そのため,自宅では,首都圏の中学受験用の教材を4年生くらいから利用した.また,その地元の進学塾にも通っていた.
大学時代の友人(首都圏在住)を通して,勉強法を聞いたり,首都圏と地方での勉強の違いなどを埋めようと親が努力した.
(が,友人とも話したが結局は個人差の方が大きいというオチだった)
中学受験期には,本人も同意の上で,通えないこと前提で首都圏の学校をいくつか受けた.本人にとっては力試しという意味が大きく,通えないことは理解していたし,前向きだった.
上の子は開成に受かり,下の子も渋幕に受かった.上の子は中学は地元の公立中学に進学した.下の子は後述.
上の子が開成に受かった時は親としても非常に悩ましく,妻と子供たちだけ首都圏で暮らすことも考えた.
が,家族みんなで暮らす方が楽しいだろうということで,これはあくまで力試しが目的だったはず,本来の目的に戻ろうということになった.
ただし合格は本人の自信になったようだ.
それから数年後に私の転職があり,首都圏で暮らすことになった.
上の子は高校受験で開成に,下の子はちょうど引越しタイミングと受験タイミングが重なり,渋幕に無事合格した.
子供達二人とも首都圏に引越してから,学校でついていけないこともなかったし,特段の文化的な劣等感も感じることはなかったと話していた.
この後,我が子が殺人鬼になったり,オレオレ詐欺の主犯として捕まる可能性もあるので,手放しで自分たちの子育てが成功例であるとは言わないが,
少なくとも人口数十万レベルの地方都市においても,首都圏と同レベルの子育てはできるという実例になると思う.
もちろん親は二人ともめちゃくちゃ努力したと思う.そりゃ週末はイオンに行って1日過ごせば親もフードコートやゲームセンターで休めて楽だけど,
妻がお弁当を作り,大きな公園で遊ぶ,子供達が疲れてきたら近くのイオンに行き,買い物をして帰るという生活は体力的にも根性的にも辛い.
ただ,あの時の自分たちは私の仕事の都合で地方都市で暮らしていたこともあり,親の都合で子供達の住む場所が決まってしまっていることへの罪悪感からか,
過剰に,それこそ首都圏での子育て以上に様々な体験をさせてやるんだという気概があったように思う
その意味では,首都圏がどんなに文化や環境に恵まれていたとしても,1日中switchを与えて親が子供を放置していた家庭よりは地方の我が家の方が多くの体験をしていただろうし,
かといって周りを見渡した時に,周りのご家庭が我が家のようにある意味で狂気的な子育てをしていたかというとそんなことはないと思う
よって「地域差よりも家庭差の方が大きい」という面もあることを伝えたい.
「東大卒博士号の経歴をドブに捨てて田舎の専業主婦で終わった奥さん可哀想という感想しかない 」
というトラバ,まず妻は東大卒じゃないし,専業主婦とも書いてないんだが,エスパーか?
妻は専門職なので,地方都市でも東京でも育休中以外ずっと働いてたんだが…というのが1点目.
次に,仮に東大卒博士号持ちが専業主婦をすることの何がおかしいのか,可哀想なのかがわからないというのが2点目.
もしかして博士号のような生産性の高い人物が子育てという非生産的な行動を行うのが勿体無いと言いたいのか?
世の中で博士号持ちの女性,たくさん子育てしてるよ.日本だけじゃなくて海外でも.
それに,君,働いたことある?会社の仕事取ってくる営業や開発だけが生産的で,人事はコストセンターで生産性が低いまたはゼロと思ってる?
目の前でお金を稼ぐことだけが生産性じゃないんだよ.世帯内や社会全体で役割が分担されていて,その寄与度は複雑な関係になってるよ.
それに君が好きな生産性で言えば,うちの子供達が2000億ドルくらいのイーロンマスク並の資産を形成したら
うちの妻が仮に東大卒博士号持ちの専業主婦で20年子育てしたとしても,100億ドル/年のリターンがあるわけで,めっちゃその優秀な能力を発揮したことにならない?そんなこと求めてないけど.
3点目として,別にうちの子供がイーロンマスクにならなかったとしても,うちの妻的には人生が楽しければ良くないか?
上にも書いた通り,私はゲームが好きなんだけど,ゲームした時間って別に新自由主義的な意味で生産的な時間じゃないだろうけど,面白ければ良いのでは?
我々夫婦が「大変なこともあったけど,色々二人で頑張って面白かったな.子どもたちも育って勝手に好きなように生きてるし,なかなか我々がんばったね」って思えたら御の字で子育てでそれ以上を求めても仕方ない気がする
アバスト クリーンアップは Android 用のクリーナーアプリで、以下の内容に関してお客様をサポートできます。
• スマートフォンのストレージ領域を分析して、不要なデータをすべて消去
• デバイスで最も大きなファイル、メディア、アプリ、不要データを特定
このアプリでは、「アクセシビリティ」許可を使用して、障害のあるユーザーやその他のユーザーが、1 回タップするだけですべてのバックグラウンドアプリを停止できるようにします。
免責事項:デバイスの位置情報に応じて特定の自動プロファイルが自動的に使用されます。そのために位置情報データにアクセスし、バックグラウンドで使用する必要があります。位置情報データを使用する前には、ユーザーにデータへのアクセス許可を求めます。
特撮に関しては100点満点です。こんなにナチュラルな、そらぞらしさ・嘘っぽさのない映像効果はハリウッド映画でもなかなかない。そらオスカーも獲るわと思った。
特に、海、波、しぶきの演出が素晴らしい。海上シーンは最高です。
稚拙もいいとこ……。
致命的なネタバレを含むので、これから見ようって人は以後は読まぬがよろしい。
プロット以前に全体として語彙が貧弱で、「あたまわるいひとががんばって書いたセリフ」という印象ばかりが目立った。素人ラノベみたいな感じ。
言葉遣いもそう。当時の言葉遣いそのままである必要はもちろんないけど、終戦直後の昭和20年代という舞台にふさわしい言い回しが多少は使われていないと奇妙な感じになる。テレビ時代劇だってマイルドにアレンジはされてるけど一応「ござる」とか「そのほう」とか言うでしょ。そういう、時代を映すムード作りがセリフにない。
そして「さすがにその時代、そんな言い回しする? その単語あった?」みたいな現代的な表現が出てきては興を削ぐ。
こんなの、専門家にちょっとリファインさせるだけでぐんと真実味が増すと思うんだけどなあ。
あと秋津(佐々木蔵之介)が野田(吉岡秀隆)に対してガクシャと渾名をつけて呼び捨てにしたりタメ口なのも違和感がある。学者は技官とは言え元将校という設定で、元下士官の秋津が気安く茶化したりイジッたりできる階級ではなかったんじゃないだろうか。ガチガチのタテ社会での上下関係は、組織を離れてもずっと続くものだ。渾名で呼び捨てなんてちょっと信じられない。関係ないけどガクシャが船に乗ってると「ガンバの冒険」を思い出す。
そしてプロット。
物語の背骨になっている「大戸島玉砕は主人公のせい」という前提がまず苦しい。実際にあのとき零戦の機関砲でゴジラが撃退できたかどうかは不確実で、少なくとも「敷島が撃てば確実に撃退できた」と言えるバランスのゴジラではなかった(どっちみち敷島が特攻から逃げなければあの島にはいなかったのだし)。敷島(神木隆之介)が気に病むのも橘(青木崇高)が敷島を恨むのも当人たちの思い込み以上の根拠が薄く、物語を駆動するトルクがまったく足りない。
まして「大戸島玉砕は橘の責任というデマを流したら腹を立てた橘が現れる」という敷島の幼稚な策略。なにこれ。子供? 子供なの? もうちょっとマシな作戦なかった?
敷島家の隣人澄子さん(安藤サクラ)の役柄も最後まで謎だった。復員してきた敷島に繰り返し毒を吐いていた前半のサイコな印象と優しく敷島家をサポートする後半の印象とがまったくチグハグで、ずっと身構えていなければいけなかった。前半のサイコキャラ必要?
あともう典子(浜辺美波)。典子関連はもう完全に意味わからなかったしどうでもよかった。
初対面の敷島の家に転がり込む初手から「は?」っていう感じだった。バックグラウンドもキャラクターもフワフワ、敷島への思慕の念もまともに描かれず、自立したいって働きだしたわりにいつまでも敷島の家に居候してるし、ゴジラが咥え上げた電車から振り落とされても誰もが即死と確信する爆風に巻き込まれてもキレイな顔で生きていた。不死身か。ゴジラ並みの回復力じゃねーか。
キャラクターがフワフワと言えば、ほかならぬ主人公敷島クンのフワフワぶりも目を覆うものだった。薄っぺらくありきたりなメンヘラ演出は神木隆之介クンの演技力とは関係なく説得力ゼロだったし、意志薄弱なのか臆病者なのかただのボーッとしたやつなのか人物造形がまったく不徹底だった。そのせいで「典子の死をきっかけに自分の中の戦争を終わらせる決意を固める」という重要な心境の変化もヌルッとしていたし、当の典子は死んでなかったっていうんだから吉本新喜劇のように全員ズッコケてしまう。敷島の行動原理のコアとなる「敷島の中でまだ終わっていない戦争」というテーマからして扱いがぞんざいで、もっと丁寧に描きこむべきだったんじゃないだろうか。まあ、特攻から逃げたとかはともかく大戸島玉砕に関しては前述の通りなので、いくら描きこんでも説得力は生まれ得なかったのかもしれないが。
それはそれとして、典子との死別は非常に重く重要な節目であり、〈実は生きてましたぁ!よかったよかった!〉と簡単に済ませていいような出来事ではないと思う。だったら話は違ってくるじゃん、となるレベルの卓袱台返しであり、典子は安らかに死なせておくべきだったと思う。
「安倍三代」をゆっくりと読み進めているのだけど、安倍家の世襲に対する考え方が興味深いのでメモ。
安倍晋三の祖父は戦中も反戦を貫いた信念のある人間で、翼賛会に属さず、戦後の第一回の総選挙後に無念の死を遂げた人物である。安倍晋三の父晋太郎は、父が亡くなった際は若かったので、間に後援会が推す人物を挟んでから、山口の同じ選挙区を引き継ぎ、首相への道半ばにして病死。。安倍晋三は言わずもがなの人物である。
安倍晋三の祖父は地元の学校の校長、村長から成り上がった叩き上げの人物である。政治家になろうと自身で決めた人物であり、そのバックグラウンドには地元への愛と問題意識とがある。安倍晋太郎は地元の学校で他の子供にまじって育ちながら父のそうした姿を横目で見、おそらくは政治家として立ち上がる際の困窮も経験しながら成長していった人物である。安倍晋三に関しては、物心ついた時点で父は有望な政治家であり、東京の私立学校で良家の子弟に混じって成長してきた人物である。
政治家の世襲ということを問題にする時、わたしはこれまで二代目と三代目とをあまり区別してこなかったが、親と自身のライフサイクルや年齢を考慮すると、「生まれながらの政治家」として育ってきたデメリットが大きく働くのは3代目以降であると言えそうだ。
政治以外の世界でも「3代目の社長が会社を潰す」とか、すこし毛色の違う例では「三代続いてからが江戸っ子」みたいなのも、同じ話なのかなあと思う。
前
https://anond.hatelabo.jp/20240502193038
学生時代は、健康づくりのために、鹿渓館(学生棟)という建物の地下2階にある【トレーニングルーム】に通っていた。授業が終わった後に、週に三度くらいかな。
ここでは、体育会部活の支配(?)が圧倒的だった。柔道とか空手とか陸上とかラグビーとかウェイトリフティングはもちろん、数多くの部活がトレーニングルームを使用していた。めちゃ狭かった思い出がある。
自分のように体育会でない者は、ひたすらにベンチプレスの順番を待つしかなかった。でも、なかなか空かないんだよな。ベンチプレス。あとは、体育会の利用者が優先という空気があったし、実際そっちの方があるべき姿だと思っていた。
ただ、自分の番が周ってきて、ベンチ台でバーベルとか持ち上げたりするじゃん。その時にさ、ガーーーンッ!! という大きい音がするのだ。見れば、隣のスペースでアップライト気味に胸~頭上にバーベルを上げていた柔道部の人が、バーベルを放り投げるようにして床に落とすのだ。
あれは、マジでびびったわ。重さが50kg以上もある物体を放り上げるだけの筋力が俺にもあれば、驚かずに済んだのかもしれない。
結局、夕方以降にトレーニングルームを使うのはやめて、早朝にトレーニングする派に転向したんだっけ。朝だったらベンチプレスも、腹筋台も、エアロバイクも、大型鏡の前も空いている。
確か、カブトムシその他の甲虫類が、クヌギやコナラの樹液を深夜に吸うのって、スズメバチを回避してるんだよな。日中にスズメバチとやり合うと甲虫側がボロ負けするので、彼らは仕方がなく時間帯を変えて樹液を吸うのだ。俺もその仲間だった。正体は甲虫類である。
ただやはり、体育会の人たちはバックグラウンドが違うこともあって、正直無理なことがあった。特に野球部や柔道部といった上意下達のイメージがある部活は、当時の自分からするとヤベーことばかりしていた。
夕方以降にキャンパスから下宿に帰ろうとする時、北側キャンパスの中庭付近で、体育会の人たちがバイオレンスなことをしていた。例えば、誰かのTシャツの胸あたりを両手で掴んで、ブンブン振り回していた。後は、後輩にエレベーターかトイレの前のタイル貼りのところで、床オナをさせていた。あれは振りだったと信じたい。通りすがりの人は普通にスルーしていた。
基本的に、体育会の人達はやりたい放題だった。2024年現在と比べれば、あの頃の世界は「実績があれば何でもよかろう」の世界だった。実際、彼らはある程度の実績を出している。
例えば、先ほどの鹿渓館の中にある部室棟について、2階とか3階の日当たり良好なスペースは体育会が占めていた。部室の出入口は中がいつでも見えるように、目線の高さの0.5㎡ほどがガラス張りになっているのだが、彼らはそれすら張り紙で覆い隠していた。たまに、男性や女性の怒声や、うめき声や、金切り声が聞こえていた。一体、中で何が行われていたのだろうか……。
ちなみに、【文化系部活】は地下1~2階に生息していた。ジメジメとした暗い空間である。そこで毎日の部活動をしていた。最新の大学キャンパスを見る限りは、おそらく今でも其処に彼ら彼女らは生きているのだろう。
まあ、でもこの頃って、だいたい20才くらいだったからだろうか。なんでも楽しかった記憶がある。
大学の構内だと、学食でごく稀にだけど、同じゼミの人と一緒にご飯を食べることがあった。京都の山間部にフィールドワークに行く関係で、事前に同じチームで親睦を深めるのだ。半強制のイベントだったけど、ああいう体験って、あの時分じゃないとできない。
大学近くでも、例えば喫茶店がふたつあったんだけど、社会福祉のカフェの方に割と行っていた記憶がある。お値段が安いからだけじゃなくて、なんか、どんな人でも受け入れるというか。そういう感覚がよかった。
教授が言うには、昔は大学に接している市道の上に、お昼時にたくさんの屋台が出店していたらしい。むかし、食中毒みたいな事件があってからは締め出しにあったみたいだけど、人生で一度は観てみたかったな。
大学の構外だと、ちょっと北の方にはおいしいラーメン屋とか、南の方にはカフェとか、中華料理のお店とか、いろいろあったな。文芸サークルの皆でよく利用していた。
今はどうか知らないが、大学の授業の出席確認に際しては、出席カードを提出する形式だった。時代の先を行っている大学だと、学生証をピッとやれば出席したことになるらしい。
どうでもいいけど、今って授業は15回中10回以上出ないと単位をもらえないらしい。厳しいんだな。あと、年間に取得できる上限単位は42らしい。ちょっと少なすぎるよ。俺の時だと、大学3回生の前期終了時点で最低110単位は取っていたはずだ。
さて、あれは大教室での授業の時だったか。秋だったと思う。佛大の若き学生がこの日記を見ている可能性はほぼゼロかと思うが、5号館の101という大きい教室(余談だが同志社の講義室に似てる)で、中国明朝の歴史の授業中だった。当時の日記によると、倭寇とか康熙帝とか足利義満とか、そのあたりの絡みがある回だったとある。もちろん全く覚えていない。
授業が始まると、出席カードが前の席から回ってくるのかな~と思いきや、一番前の人が一番後ろの席まで配り切る形式だった。自分が出席カードを受け取ると、すぐ後ろには野球部と思しき人達がいた。彼らは、「すんません、出席カード追加で5枚くれる?」と発言していた。
出席カードを配ってる人が「すいませんね~」と言って去ろうとすると、「おいお前、待てやコラ!!」と野球部の人達が彼に絡み始めた。出席カードを配ってる彼も引かず、収まる気配がなかった。
これはいかん、と思って俺は、「ちょっと、ちょっと~」と騒いでいた。やがて中年ほどの先生がやってきて、彼らをひと睨みすると、何事もなかったように騒ぎは収まった。
上記のニュースは私が入学する前の出来事だが、大学の体育会というのは、どこもこんな感じだろうと思う。佛大野球部も、京滋リーグという枠ではほぼ無敵だった。その線でいくと、日本大学もそういう感じだったのだろう。結果だけは出していた。
結果を出しているうちはいいのだが、佛教大学だって、やりすぎるといずれは日本大学や福山大学のように、不祥事(大麻とか)>実績となってしまい、とんでもない結末を迎える。
https://www.bukkyo-u.ac.jp/news/info/20240213-26933.html
上記のように、今でも事件はあるといえばあるが、こういうのはいいよ。間違った人材(臨時雇いの研究者)を雇ってしまったんだろう。大学側はいわば騙されてしまったわけだ。次から気を付ければいい。
ただ、卒業生の一人としては、学生という本質的な存在についてはキッチリと管理して、自分のように不愉快な思いをする学生を無くしてほしいと感じている。
不満ばかりを書いてる気がする。
大学生活、楽しいことはいっぱいあった。例えば部活がそうだ。文芸部とか文芸サークルである。
文章を書くのが好きだった。それこそ子どもの時分から。中学でも高校でも、そういう系の部活がよかったけど、運に恵まれなかった。大学生になって、ようやく文字で作品を創造する喜びを得ることができた。
あとは、学園祭だ。その名も鷹稜祭(おうりょうさい)というイベントなのだが、年に一度の楽しみだった。一度だけ実行委員になったことがある。みんなで何かひとつのものを作る、といったら大げさだけど、最初は何をしたらいいか全くわからない……という段階から、次第にステップを踏んでいって、尻上がりにイベントづくりが面白くなっていく。
最初の一歩を踏み出すのが早ければ早いほど、ドンドンと楽しくハイになっていって、最終日を迎える頃には、自らがイベントと一体になっている。自分と仕事がひとつになっていく感覚。
こういう感覚は、仕事はもちろん、趣味の活動にだってある。精神的な意味で、自分とナニカが溶け合ってひとつになっている感覚である。そのナニカは、人によって違う。パートナーや仲間だったり、参加してる社会そのものだったり、取り組んでいる事柄だったり、特定の空間だったりもする。
ひとつ、少なくともひとつ、大学に進学してよかったと思えるのは――これまでの人生で一番、没頭できるものを見つけられたことだ。これだけで大学に進んでよかったって、そう思える。
あとは、アニメがそうだな。それまでのアニメって、安っぽい作画が多かった。特に、子ども向けアニメはそうだ。ポケモンはまだいいけど、デジモンとかはひどいものだった。この頃から、なぜかはわからないが綺麗な作画が増えていった。
どのアニメかは忘れたけど、女の子がドンパチやる系の朝のアニメで、必殺技のダンスのバンクがあったのだ。サンバを踊ってたんだけど、最後に「ウー!マンボ」ってやるんだよな。「サンバなのかマンボなのかどっちなんだよwwwwww」と、当時は大笑いした記憶がある。
え、そんなものが面白いのかって? 当時はまだ20代前半である。箸が転んでも面白い年頃なのだ。
次