はてなキーワード: 漠然とは
まとめ:勉強がアイデンティティだった人間が、仕事でも自己実現できると信じていたのに叶わず挫折。
自分が反面教師にしていた生き方を歩まざるを得なくなり、幸せなはずなのにアイデンティティが崩壊して辛くなってるって話。
昔、父親に
女だからって化粧ばかりしていては馬鹿になるぞ。賢さは一生のものだから化粧より勉強しなさいと言われた。
1日10時間ぐらい勉強したけど、勉強は向いてたから、やればやっただけ結果が出て楽しかった。ずっとこのまま勉強していたいと思った。幸せだった。
自分が勉強している間も化粧して遊んでる彼女らとは違うと思っていた。
そして 私は仕事でも結果を出してこのままバリバリ働くんだと思っていた。大学2年目ぐらいまでは。
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それはメッキのようなもので、大学に入ってから漠然と将来のことを考えると、頭はバリバリ仕事をして充実した職業人生を送ることを欲しているのに、心は大切な伴侶を得て充実した子育てをし、素敵な家で穏やかに趣味に生きるを求めていることに気付いた。
B:大切な伴侶を得て充実した子育てをし、素敵な家で穏やかに趣味に生きる
まず、私は社内政治しながら身を粉にして働きたくなかった。そもそも男性が苦手だ。アウェイ感。体力面でも私に勝ち目はない。専業主夫になってくれる人を探すのも難しいだろう。
そして、競争して何になる?
必死に働いても、自分の親(年収1000万over)よりも稼げないだろう。更に、余暇や子供に構う余裕も減るだろう。(私の親は在宅勤務のことが多く、子供の遊び相手や勉強の面倒を見てくれていて幸せだった。)
一方、大学生の私は子供に興味が湧いていて、自然や動物も好きだった。やりたいことで生きるなら、大学学部から間違えていたのだ。
Bで生きるなら、専門学校なり偏差値にこだわらずに好きな大学学部を出て、就職すれば良かったのに。一体、どこでどうすればよかったのだろうか。
ちなみに、私は目立ちたくないほうだ。
だが、私の出た大学は悪目立ちする。
どうしてあの大学の人がここにいるの?
被害妄想かもしれないが、下手に転職するとそんなことを言われるのではないかと考えてしまう。事実、事務仕事は苦手だ。チッポケな自分。
大学4年のとき、とにかく継続的に収入が欲しくて、とりあえず就職した。
でも、色々とやる気を折られることがあったりしたので、適当に過ごしていた。
続く
俺今45。人生振り返って、これまで挫折らしい挫折した経験がない。
学校の勉強、スポ少、習い事、なんでも出だしはそこそこのレベルでこなして、ぼちぼちの出番を与えてもらって。でも何かにずば抜けているわけでもなく、そこそこの成長したら頭打ちで、モチベ下がって、でも叱られるのや失望されるのは嫌だから顔だけは真面目になんとかこなして。大きく成功しないからそんなに目立つことなく、妬まれることもない。ベストじゃないけど、でもまあいっか、次に期待って言えるレベルで踏みとどまるから、露骨にがっかりされることもない。小さい頃思い描いていたまんまではないけど、広い意味でやりたかったことやれているし、ここで人生終わってもまあ良かったねと言えなくもない。出会うべき人にも多分巡り会えて、子供こそいないけど結婚もできたし、裕福ではないけど、ここに至るまで不自由したこともなく、環境にも恵まれて、巡り合わせにも周りに支えられてきたことにも感謝でいっぱいだ。このまま枯れていっても、幸せだと思いながら死んでいけるだろう。でもこの生き方で面白いのか?って、ここ10年単位でなんか引っかかってた。
病気、災害、失業、いじめ、身内の不幸、周りはみんな何か一つは鉄板の苦労話を持っていて、でも自分にはない。いくら無い物ねだりでも、不幸は望まない。死ぬまでぬるま湯に浸かって暮らせるなら、そうしたい。でももし、誰もが一度は大きな不幸に見舞われるなら、遅かれ早かれいつか自分にもその日がやってくるんじゃなかろうか。挫折を知らず、そこから立ち上がる訓練も受けずに、ずっと年取ってからいきなりどん底に突き落とされるくらいなら、早い方が良かった。大人になってからおたふくに罹るとしんどい、みたいな後になるほどしんどい痛みがいつかやってくるんじゃないかと、漠然とした不安が拭えない。
多分、日本で生まれ育ったなら、ほぼもれなくどっかで災害を体験していて、非常事態の自分の心の動き、辛さを共感しあえる部分で繋がっているんだろう。でもそれすら運がいいことに(引越が多かった)、自分は晒されずに回避してここまできているものだから、被災した誰かに心から共感できてる気がしない。いざという時の備えに対して緊張感ももてず、貪欲さもないから、どのコミュニティーにいてもアウェー感が否めない。何を語るにしても表面的で所詮お前には他人事だろう?と思われてるんじゃないかってコンプレックスが湧いて、どうしても一歩引いてしまう自分がいる。きっとみんなどこかで苦難を乗り越えたからこそ、今、強く生きていて輝いてみえるんだろうな、と観客のような気分でこの世界、この時代を生きてた。のうのうと。
で今年、コロナが起きた。
世界的な非常事態となって、客観的に見ても間違いなく、初めて自分が、この特殊な状況の当事者になった。そして案の定、苦労してない俺は、挫折に弱かった。3ヶ月間、職場に行けず、ほとんど出歩けず、家で過ごす非日常の日々を体験してわかった。俺はいざとなったら、いや、いざとなっても、危機感がなさすぎて動けない。失敗体験が少なすぎて、行動して状況を悪化させるくらいなら、何もしない。何かを考えようという発想がない、世の中になんの影響も与えられない人間だった。同じ境遇に置かれた周りを見渡すと、環境にすぐ対応して新しい生活習慣に移行して、ネットワークを活用して、自分に何が必要で、何が提供できるか考えて、みんな行動に移していた。なるほど、挫折経験が産むものはそういう思考回路なのか。それに比べて自分は何やってるんだろうな。コロナの前も後も変わらず、何の価値も生み出してない。引きこもり期間、ずっとそういう思考に陥ってどんどん落ち込んでいった。今思えばそれすらも、何か不幸な自分をファッションで演じてみたかったんだろうなと、恥ずかしい気持ちになるけど。とにかく、ようやくまわりと同じ境遇になったと自覚して改めてわかったが、自分の挫折を感じるセンサーはとても鈍い。実際自分よりもっとしんどい思いをしている人はいつだって絶えないけども、同じ境遇を逆境だと受け止める人がいて、さらにその中には、それを自分への挑戦だと受け止めて、立ち向かっていく人たちが世界を変えている、支えている。それを未だ自分は恵まれているとしか思えないから、敗れて悔しくてそこから這い上がるっていう体験につながらない。そういう思考が育たない。
生き延びるために今を必死に生きている人間がいて、そういう人たちに向かって手を差し伸べることができるサバイバーが多分世の中にたくさんいて、それを求める人が大半なんだろう。それと比べると、挫折のない人間が挫折してこなかった結果どうなるかを語るような場面はほぼない。死ぬほどの苦しみを味わったことがない人の、うすぼんやりした悩みなんて悩みとすら言えないんだろう。そうやって行き場のないモヤモヤを受け止める場所、手を差し伸べてくれる先人はなかなか見当たらない。でも、それこそ自分がずっと知りたかったことだし、もし自分に価値を与えるなら、そういうニッチな生き方の語り部としてのテメエの分際くらいしかない。流されて生きてきた事例、チャレンジせずにサバイブする方法、これからも目立たないように、でもほどほどに必要とされて生きていくために、情熱のない情熱大陸みたいな話を一応書き留めておこう、いつか必要としている誰かにそっと手渡せるように。とようやく心の整理がついて、ひとまず持ち直し今に至る。
目処は立った。
こういうのには慣れている。
シマウマ先生の授業において、課題レポートの評価は成績の5割を占めるからだ。
補習を避けるための小手先(ノウハウ)は、望むと望まざるに拘わらず鍛えられる。
「さて、まずは条件Aから始めるか」
ここでBマイナスは手堅く取れる、レポートの作り方を説明しよう。
まずはテーマを決める。
いわば俺はそのテーマ探しから漠然としていたので苦戦していた。
ここをハッキリさせておけば、そのための資料集めや、最終的なゴール地点も自ずと見えてくるだろう。
例えばシマウマ先生は、現代社会にも根付く普遍的な問題提起が好物だ。
後は関係のありそうな歴史的背景を添え、科学的根拠で味付けすればいい。
そのゴマすりこそが、ウマ目のホミノイドを満足させるのに欠かせないウマ味調味料なんだ。
それでも建前上は科学や社会のためっていうお題目があるから書けるけれど、今回はそうもいかない。
より繊細で、より大雑把な作り方が要求される。
「いや、この寝起きの低血圧は条件Aではなく、どちらかというと条件aだな。だから、これは、ここと……」
パズルを組み立てるのに大事なのは、ピースの形を把握することだ。
記憶の断片を探り、それらの何が、何と関係があり、どのように繋がるか。
「あの日は何時ごろだっけ、確か……レバノン料理を食ったよな。いや、レバー料理だったけ。あと飲み物は何だったっか……」
集めた情報を憶測に基づいて取捨選択し、打ち立てた仮説を状況証拠で裏付ける。
そして実際に起きたことと結びつければ、その原因には可能性が広がっているんだ。
だが、この超個人的な答え合わせに、権威ある体系やエビデンスは必須ではない。
この法則を利用して、テレビのチャンネルと音量を10に合わせる人間は俺しかいないのだから。
こうしてパズルを組み立てること30分。
出来上がったレポートを、しみじみと眺める。
何気なく利用している公式や理論も、見た目に反して試行錯誤の末に生まれたのかもしれない。
だが達成感に浸るのは、もう少し先だ。
それには実証が不可欠だ。
俺はカレンダーをめくり、来月の日付にデカデカと星形の印をつけた。
察してちゃんは悪ではない。ただ人から好かれづらく、幸せになりにくいというだけの話だと思う。
私もだいたいほぼ同じような家庭で育ち、文句なしのコミュ障に育った。齢30を過ぎた今でも他者、とりわけ中年男性に対する漠然とした恐怖感は拭えない。
察しての何がよくないって、他人に迷惑をかけるとかそんなのは副次的なもので、どうでもいいとは言わないけどそれが最重要ではない。1番はコミュニケーションの主導権を相手に譲ってしまうこと、それはすなわち人生を自分ではない他人に委ねてしまうことを意味する。これは本当によくない。
主導権を持たないという状態は、育った家庭でのあなたの状態のように、自分のメシも、来週の予定も人生も自分ではなく他人の意思で決められてしまう。当たり前に膨大なストレスがかかる環境であり、察してはその環境を自ら作り上げてしまう。で、それに苦しみさらに自信も意思表明の意欲もなくすというスパイラルに陥り、発端の増田のようにODに走ったりする、他人から見ると意味のわからない理由で。
周囲にいい人がいれば察してちゃんのことを慮って色々引き受けてくれるかもしれないけど、普通は決断を丸投げするやつ、みたいに他人が不快な感じを覚えることは多々あるし、悪い場合は察してを利用しようとするやつだって出てくる。なので察しては好かれることもあるが、基本的には好かれにくい。というか同じような性格の自分すら察してにリアルに遭遇するとイライラするので、いい反面教師になっているところはある。
まあわかる、だって生育歴が最悪だしIメッセージとか怖くて言えたもんじゃないっていうか普通に言葉を発するだけで半日分くらいのエネルギーを使うんだよなコミュ障は。いや友人との会話ならそうでもないんだけど、会議とかでは本当にそういう感じ。だから私は就活でグループディスカッションのある会社は全落ちした。今でも会社ではへどもどしながらコミュニケーションしてる。
これについては地道に訓練して慣れていくしかないと思う。たいていの心理系の本に書いてあることだから書くまでもないけど、まずは信頼できる人とのコミュニケーションで慣れていくみたいな。なによりも回復を志すことが大事。
ブコメは調子くれて察してちゃん害悪みたいに書いてるやつもいるけど、大半はそういう過激な意見ではないし、察してちゃんが本当に嫌いな奴は離れていけばいいだけ。それができずに元増田のことを察してやめろとか叩いてくる奴がいたら、嫌いなのに離れられない依存野郎だから気にしないでいい。
(まあだいたいまともな人は黙って去っていってしまう、それも恐ろしいのだけど)
id:memorystock 全く違う。察してちゃんの問題はコミュ障とか声出さねえとかじゃなく余計な下らないことを考えまくっているという一点。それを考えてなければ同じように無口でも察してちゃんではない。つまり必要なのは瞑想
何がどう全く違うのか全然わからないから教えてほしい。まず私は私が察してちゃんだとはこの文章中では言っていないし声をさないとも言っていない。
過去に私は察してだったこともあったが、今は違う。ただの比較的無口な人間だ。そして察してちゃんの問題は余計な事を考えまくっている、というのでは雑駁すぎる。察してちゃんの問題は自分と他者が弁別できずに他者が自分の期待から外れることを想定できないこと、かつ恐怖心やトラウマゆえに自分の意見を表明できず他人に迎合するコミュニケーションスタイルにある。このあたりは「考えまくっている」というよりは反射に近い。原理としては虚言症にも似ている気がする。察してちゃんはさほど何も考えていないが、他者が無意識にある期待から外れると途端に裏切られた感覚に陥り、感情をコントロールできなくなる。
この克服には他者から自分を明確に分離するIメッセージの表明がいい訓練になる、と言っている。まずもってコミュ障で臆病で意思表明ができないから察してというスタイルが出来上がっていくんだ。コミュ障も発声に難があるのも、他者に対するトラウマと全部地続きだよ。瞑想はいいことだと思うけど、瞑想で何とかなるとはとうてい思えない…
他人の作品に乗っかるだけの実況者的なVtuberが好きではない、本人が創作者なら少しはいいのに、というのは、2017~2018年から追ってるやや古株のVtuberファンや、個人Vtuberを応援しているファンからは、頭ごなしに否定されない感覚だと思う。
俺だっておもに企業Vtuberを追っている側だが、ある程度同意する。
叩かれるとしたら、「Vtuberはどいつもこいつもクリエイター性がない」という部分だ。
だが、外から漠然とVtuber界を見た時には、だいたいゲーム実況をしてるやつらと認識されやすくクリエイター的な配信者が認識されづらいのがもっともな部分である。
実際、数としてはゲーム実況をやるやつが多いのが確かだ(というか創作活動をしてるやつも、並行して実況活動もしている)。
そのうえ、活動側のゲーム実況の割合以上に、ゲーム実況を見に来る視聴者数がやたら多く、SNSでの話題もそれに占められ、だから外部から目に入るVtuberの活動はゲーム実況に偏ってしまう。
Vに限らず、テレビタレントや声優がインターネット配信を始めても、ゲーム実況の多いこと多いこと。
歌だってそうで、本人が作詞作曲した、もしくは有名な作詞家作曲家に書き下ろしてもらった歌よりも、カバーを歌った方が、ライト層のオタクを集めることができる。
コア層はオリジナル曲の方が喜ぶのだが、コアファンを二万人喜ばせるより、ライトファンや、なんならファン以外を集めた方がずっと再生数が高くなってしまう。
そして企業に所属して営利活動を成り立たせていくなら、数字を稼ぐことが必要なのだ。
数字は直接の稼ぎにもなるし、それ以上に新興文化が既存の様々な文化に認めてもらうためのほぼ唯一の説得材料だ。
かなしいわね。
俺は2018年初期、Vtuberという分野自体が胡散臭いフロンティアっぽさがあった頃に興味を持ったのでファンになれたしおかげで創作根性のあるVが実は多いことも認識できてるが、触れることがないまま2020になってたら、Vtuberは実況者文化みたいなもんだろと思って避け続けてしまったろうな。
しかし、これで終わってもさびしいので、有名どころで本人が創作的な活動を多めにやってるVtuberを紹介しておく。
もらったイラストを使った画像加工や動画制作はできる人が多すぎるので割愛。
あと、広義で言えばトークショーや企画だって創作だとは思うが、そういうのは除外。
ピーナッツくん、ぽんぽこ
個人。兄妹でやってる。作詞作曲ラップしてたり着ぐるみ作ってゆるキャラ活動してたり。音楽活動ではレオタードブタという別名もある。ガワも自作なのかな。
ミソシタ
個人。作詞作曲ラップ映像ガワ。あと珍奇なアングラ活動を沢山してる。
個人。ガワ自作。他にもクリエイティブなことやってそうだけどぶっちゃけ俺は詳しくないから知ってる人にきけ。
吉持もに→間違い、由持もにだった。
アマリリス組→個人。普通にVtuberだと思ってたら、有名な同人エロRPGサークルの人だと明かされた。
制作過程をモロに出すことはYoutubeでできないが絵を描く作業を見せることはある。
MonsterZ MATE
バルス。リリック書いてラップ、というか元々ネット出身のラッパーがガワを着た存在。
個人としてupd8参加。作曲家。本人が歌うのではなく曲提供がメイン。
ミディ
市松寿ゞ謡
にじさんじ。映像制作やってたっぽいので実写映像作ったり、自作絵を添えて体験レポをやったり。
宝鐘マリン
ホロライブ。ガワは別人作だが本人も絵描きらしく体験レポのさいにカラー自作漫画を添える。
しぐれうい
ホロライブのガワを描いていたイラストレーターが、自分自身もガワを被ったら個人Vとして人気が出た存在。
あまり知名度のない個人勢は玉石混交だが、クリエイティビティ溢れるやつらはマジですごい。自作ガワの人は多い。
ぽんぽこが毎年やっている24時間企画や、月ノ美兎が毎年やっている24時間企画ではそういう層からの動画を募ってるので知るきっかけになる。
それらに参加するのもごくごく一部でもっといろんな奴がいるが。
https://ponpoko24.party/cm.html
https://www.youtube.com/watch?v=9CqaQMSNQng
あと電音部というバンナムがこれからはじめるDJ版アイマスみたいなのがあって、その作詞作曲には、上で紹介したようなバーチャル関連の奴が数名混じっている。
アニメや漫画のキャラ並に「(根は)いい子」って現実にはいないけど、いないこと自体は理解するんだよね、まあ人間いろいろあるからさ。
いるぞ
でも若い子たちの中には、ある種の達観をもって、そういう人間的なドロドロさを誰にも決して見せない――まるでアニメキャラかロールプレイに徹するネカマのように――健気に振る舞うタイプの子が増えていくんじゃないかという根拠のない漠然とした未来予想が俺の中にはあるんだよ。
平成までは、ギャルがギャル友同士でゲラゲラぶっちゃけトークをする、みたいな風景が当たり前だったけど、そういうリアル仕草を「つら」と思う人が増えている、なぜだか確信めいてそう思えるんだよね。
アニメや漫画のキャラ並に「(根は)いい子」って現実にはいないけど、いないこと自体は理解するんだよね、まあ人間いろいろあるからさ。
でも若い子たちの中には、ある種の達観をもって、そういう人間的なドロドロさを誰にも決して見せない――まるでアニメキャラかロールプレイに徹するネカマのように――健気に振る舞うタイプの子が増えていくんじゃないかという根拠のない漠然とした未来予想が俺の中にはあるんだよ。
平成までは、ギャルがギャル友同士でゲラゲラぶっちゃけトークをする、みたいな風景が当たり前だったけど、そういうリアル仕草を「つら」と思う人が増えている、なぜだか確信めいてそう思えるんだよね。
自分、中学2年より前はずっと半分夢の中で生きてたみたいだった。
自分はきっと、「風呂で自分の体積はかる」ってのがまず理解できなかったと思う。
やることをプリントに書いてあったとしても、まず風呂の水面から風呂桶のフチまでの長さを測り、風呂桶の幅と奥行きを測るところで数字を3つ覚えきれなくて、1つずつ書けばいいんだ、とわかるまでに濡れた手でプリントに書き込もうとしてグシャグシャにしてしまいそうだ。自分が湯船に入ったらまた水面からフチまでの長さをはかるわけだが、すっかり忘れてかけ湯をしたりタオルを洗うのに湯船の湯を使ってしまって変な数字になりそうだ。
あの増田に書いてあった先生はすごくいい先生だったようだから、自分みたいなボンヤリな子供にもきっと目配りできる先生だったのだろうと想像するが、具体的にどんな目配りが可能だったのかはよくわからないな…。
まあ、ボンヤリでも「なんだか知らないけど、何やってるかわからないけど楽しかった」と漠然とした思い出が残ればそれでいい気もする。
自分は小学校時代は「何やってるかわからなくてなんだか叱られてばかりで困っていた」という記憶ばかり残っているから、それよりはマシかもしれない。
オウム真理教とかの影響なのかな?
ハマると財産全部取られたり、反社会的行為にも躊躇しなくなるみたいなイメージがあるのか?
宗教はない方が正しくて進歩的、社会に宗教が存続していることは現代社会の宿痾みたいな漠然としたイメージ持ってる人凄い多いよな
今朝から俺の身に降りかかっている謎の不調、不幸。
それらに対する漠然とした気がかりは、放課後になっても俺の中で燻り続けている。
原因がハッキリしていないからだ。
なので何が問題かも、何をどうすればいいのかも分からなかった。
逆に言えば、原因さえ判明すれば、解消方法も自ずと見えてくるってわけだ。
そして、その解法は「法則」にある。
だから俺は、この出来事に何らかの法則を見つけなければならない。
決して簡単なことではないし、そもそも可能なことかすら怪しいだろう。
それでも、この得も言われぬ“何か”を、得も言える“何か”にするんだ。
俺は決心を鈍らせないよう、そそくさと家路についた。
特定の要素で構成されていて、それを一定の条件で行ったのなら同じ現象にならないといけない。
だから法則を見つけ出すには、その「特定の要素」と「一定の条件」を探し出す必要があるんだ。
翌日、俺は起床すると、すぐさま昨日の出来事をシミュレーションしてみた。
「思い立ったが吉日」ってやつだ。
まあ、俺のやってることは吉日というよりは凶日の再現といえるが、大事なのはそこじゃない。
これは、その吉凶にどれだけの意味を持たせられるかという検証なんだ。
「ごー、ろく、しち、はち……っと、次は弓引きサイドランジだ」
俺は今朝の行動を同じように再現する。
意外なところに要因があるかもしれないので、関係ないであろう行動も出来る限り模倣した。
「母さん、この歯磨き粉もうすぐ無くなりそうだ」
「ええっ? 昨日、変えたばかりなのに」
「うん、キトゥンの餌はもうやったよ」
「今の流れで、なぜその話にシフトするの」
家族に奇異の目で見られつつも、セリフも出来る限り同じにした。
噛み合わないところが出てくるかもしれないが、それで結果に違いがあるならば要素や条件を絞ることに繋がる。
さて、これが吉と出るか、凶と出るか。
1日5万回死にて〜〜〜って思ってる。
別に友達いるし家族も仲悪いけどほとんど縁切ってる状態だし金はないけど暮らせるレベルだし推しは今日も生きてるしで、特に何も困ってないけどただ漠然と死にて〜〜って思ってる。毎日意味がわからない不安に襲われながら過ごしている。
死にたいというかこの先の人生この自分の感情のまま生きていくことに対して絶望しかない。毎日毎日神経をすり減らしていらん恐怖に怯えながらこの先何十年と過ごすのマジで無理。
「考えすぎ」「あんまり気にしない方がいい」とか言われなくても私が一番わかってるし気にしなくていいことを気にして勝手に落ち込んでる自分が惨めで仕方がない。そこでまた死にて〜ってなる。「死んじゃったら推しもう見れないよ!」とか言われてもマジクソほどどうでもいい。来世でまた推し見つけるからいいです別に。
こういう話すると大体の人に「皆んなそんなもんだよ」って言われるけどマジで「皆んな」って誰??そいつらがそうだとして今私が死にたい事実は変わらないんですが。
でも痛いのも苦しいのも無理だから結局生きてる。なんかもう寝てるうちに命吸い取られたりしないかな。それかシ◯ガミ様のアレで死にたい。「本当に死んでしまう人はこんなこと考えないんだろうな」って気付いて結局死にたくなさそうな自分にも腹立つ。結局私の「死にたい」は甘えと逃避でしかない。
別れて一年経ちますが、なんだかんだ2日にいっぺんもしくはそれ以上の頻度であなたのことを未だに思い出します。遠距離だったり同棲だったりでトータル8年ですもんね、長かったから。初恋は特別ということで、たぶん一生引きずっていくのだと思います。私から別れを告げたのに、ずるいよね。
大切な存在には変わりなかったのに、無理やりに近い別れた方をして傷つけてしまって、本当にごめんね。今も罪悪感で、夜目を覚ましてしまうことがあります。他に方法があったのかなぁと思うこともしょっちゅうです。
でもそうでもしないと別れられなかった、私はあなたに甘いし、悲しそうな顔を見るといつも自分を曲げてしまうし、あなたのことがまだ好きだったから。
別れを告げた時あなたにとっては寝耳に水で、楽しく暮らしてた毎日は嘘だったんと言ったよね。泣き顔見るの辛かった。嘘なはず無いじゃん。あなたの色んな部分を好きになって一緒にいると楽しくて、かけがえのない存在だったんだよ。色々あったけど、嫌いになれるわけがないよ。自由で地頭が良くて物知りで穏やかで、マイペースなのに周りの人に好かれているあなた。人の顔色を伺いがちで愚鈍くせにいつも心の中がざわついている私。
社交的なあなたの周りの女性の影にいちいち怯えたり怒ったりすることを、休みが合わずに寂しい休日を過ごすことを、あなたが一人楽しそうにゲームをやってる傍で家事をこなすことを、あなたが私のカードローンで勝手に借金してたことを仕方ないって自分に言い聞かせることを、隠れてギャンブルしてるのを知らんぷりするのを、あなたのために色んなことを我慢することを。
こう書いてみると、なんで付き合ってたんだ?って自分でも思うけど、でもそれでもいいところもたくさんあって好きだった。まぁ私だってあなたを沢山疲れさせたり振り回してるから、おあいこの筈なんだけどね。
あなたはいつもあなたのペースで堂々としてるから、何だか私の方がおかしい気がしてきて、もう少し自分のキャパが広かったらなぁ、私心が狭いなぁて何度も何度も思って、いつのまにか自分を抑えてあなたと暮らすようになってしまって。
あなたといて癒されたり爆笑したり幸せな気持ちになるんだけど、いつもなぜか不安で何で何だろうてずっと不思議だったんだけど、どんどん、その不安は大きくなった。
今日早いからごはん俺が作るよの言葉に軽い足取りで仕事から帰ってきたら、先に帰ってる筈のあなたが散らかった部屋で寝てて、流しにはお茶碗がたまってて、机の上も色んなゴミが乗っていて、私は「あーあ、またかぁ」ってなって、のろのろとご飯の準備をする。
ねぇ私のこと好きって言うけど、本当に大切に思ってる?じゃあもっと、私が喜ぶことしようって思ったりはしないの?と思って、でも彼も仕事で疲れたんだよねと何故か頭の中でフォローして、馬鹿みたいだった。
でもね、何の関係もない時に唐突にうちのこと好き?て聞くと好きだよって返してくれる。
ずっと一緒か?と聞くとずっと一緒やでといつもの返事が返ってくる。ぎゅってしてって言ったらゲームを中断して答えてくれる。それだけで毎回安心できた。
だった筈なんだけど、いつからかなぁ。
あなたの言葉があまり響かなくなってきて自分が不安定になることが前よりも増えた。この先結婚したら、数十年ずっと同じことの繰り返しなのかなとか、子供が生まれたらどうなってしまうんだろうとか考えはじめると漠然と不安になった。出会った頃は煙草吸う姿もかっこいいなぁと思ってたのに、いつからか吸ってる姿を見ると腹が立ってる自分に気づいた。
隣で寝ているあなたの寝顔を見ながら、ああ、やっぱりこれからもずっとは無理かもしれないと優しくできないと思うようになった。
あなたといる時の自分が、あんまり好きじゃなくなってた。あなたは何も変わってないのに自分の変化が悲しかった。
だから一念発起して、無理やりに、頑張って別れたんだ。自己中だけど、あんまり後悔はしてないんだ。あの時別れたおかげで、いい思い出をきれいなまま思い出すことができるから。あなたのことを嫌いにならないまま、あれ以上あなたを傷つけないまま、離れることができたから。
誕生日くらい、連絡してみようかと思ったけどそれはあんまりにも自分勝手だからやらないよ。私とのことは早く忘れて、前を向いて別の誰かと関係性を築いていくれることを本当に心から願ってます。私も勿論そうするよ。
あなたの笑った顔が、声が、厚めの唇が、人に優しいところが、他にも色んなところが(散々伝えてきたからわかるよね)好きだった。
私と同じように、あなたのことを好きになる人はきっといるんだろうね。
でも、これからも毎年、おめでとうって呟くくらいはゆるしてね。
「ああ、しまった」
忘れていたのもそうだが、そのことを「しまった」と思ったのも腹立たしい。
ふと、待合室に備え付けられた時計を覗く。
全速力で家に戻れば、次のバスには間に合うだろう。
だが逸る気持ちをグッとこらえた。
個人的かつ些細な決まりごとで、わざわざ帰るなんて馬鹿げているからだ。
気にしている時点で癪なのに、そのために行動するなんてもっと癪だ。
戸締りや、ガス栓の開け閉めを確認するのとはワケが違う。
慌てて家に帰ってやることは、テレビのチャンネルと音量の変更。
その時、「プシュー」という音が近くで聴こえた。
まるで今の俺をあざ笑うかのような吹き出し音だったが、あれはバスの停まる音だ。
予定の時刻より少し遅れていたが、まあ許容範囲か。
後ろ髪を引かれる思いはあったが、それを振り払うかのように小走りでバスに乗り込んだ。
この、ささやかな“気がかり”は俺の頭をもたげ続けた。
なぜか授業中、回答役に俺がやたらと選ばれた。
よりによって集中が途切れていた時や、授業を話半分に聞いていた時に限ってだ。
「おお、マスダよ! 間違えてしまうとは情けない!」
耳障りの悪い嘆声が教室内に響く。
まあ察しの通り、そんな渾名をつけられる人なので生徒ウケのいいタイプではない。
かく言う俺もそうだった。
「板書をノートに丸写しして、それを綺麗に出来たと満足気にする生徒は無知無学だ。なぜだか分かるか?」
「……『学んでなくても出来ることだから』でしょう?」
こんなことを言われて生徒が発奮すると思っているのなら、この教師は人の心がない。
その後の休み時間、うな垂れている俺を見かねて隣席のクラスメートが話しかけてきた。
「ああ、タイナイ……お前か」
「心ここにあらずだね……夏バテ?」
「いや、そういうんじゃないんだ」
そうは言ったものの、具体的な原因が何なのかは自分自身でも捉えきれていなかった。
「朝、起きた時にさ、学校行くのが途轍もなくダルいなあって感じる時あるだろ。病気とかじゃなくて」
「まあ、あるね。寝起きの血圧とかが原因で」
「ああ、だから調子は戻るんだ。家を出る頃には完全に消えてる」
“それ”を上手く言葉にできない俺は、漠然としたまま説明を試みた。
いや〜、ブクマ稼ぎが目的だとしても、なかなかここまで丁寧に書いてくださる方はいないですよ。書き込むにしても自分の好みを押し付けたり、こっちの対応や意見が気に入らないと、文句を言ってきたり…。正直あまり客層の良くないWEBサービスだと思っていますが、個人ブログに書くより、こっちの方がいろいろなリアクションが得られるのでここに書いています。
撮影機材の方針が定まらないのは、あっちこっちのジャンルに中途半端に手を出してるからですかね。旅写真でも食べ物でも何でも撮りますが、特に旅に関していえば忙しい詰め込みツアーに参加してしまうことが多く、ガチで三脚を立ててじっくり撮るよりも、いかに短時間で良い風景を撮るかの勝負になってしまってついつい雑に撮ってしまいがちなんですよね。自分で車を運転できればもっと自分のペースで旅をして、じっくり撮影できるでしょうが、何しろペーパードライバーなので突然車の運転なんてすると非常に危険です。
一番やりたいのは動体撮影で、競馬とか馬術とか水族館のイルカショーとかいろいろありますが、その割には年数回しか行っていないのでなかなか上達しません。昨今はコロナ禍で、競馬も無観客レースとなり、入場できないので当然撮影もかないません。また、戦闘機も撮影してみたいのですが、今年はことごとく航空祭が中止になってしまい、行くことができません。昨年は練習のため、せっせと旅客機撮影をしたのですが、無駄になっちゃいましたね。
動体撮影するならAPS-C機、風景とかをじっくり撮るならフルサイズ機と思っていますので、APS-C一辺倒ではなく、フルサイズ機も持っている方が有利だとは思います。が、フルサイズ機やフルサイズ用のレンズの値段と重さを見ると逃げ出したくなる代物が多くて、気持ちがふらふらしてしまうのです。
CANONも最近高性能なミラーレスフルサイズ機を出して来ましたが、ソニーの方がたぶん軽くて安いので、フルサイズ機買うならソニーかな…と漠然と思っています。が、レンズもろとも買い揃えないといけないのでフルサイズ移行には勇気がいります。
いちいち絶景スポットに行ったり見栄えのする被写体のいるところに行かなくても、お散歩写真のようなノリで面白い写真を撮るプロカメラマンもいますので、あまり構えずに日常を撮れる人を尊敬してます。
で、お前は結局どういうカメラが欲しいんだと聞かれると困るんですが、まずは手持ちの小型軽量機を使い倒した上で、将来的に機材(と腕前の)グレードアップが図れると良いなと思っています。
私は典型的な3日坊主で飽き性だ。何かにハマっても、熱しやすく冷めやすい。
私が何かに飽きる引き金は主に2つある。継続記録が途絶えるか、何か挫折するかだ。挫折の内容はピンキリで、何かうまくいかないことがあって、自分がそれに萎えた時点でもうそこからは続かなくなる。そう思えば、前者も後者のパターンの一つなんだろうな。
今回のゲームでいえば、後者がきっかけにあたる。満を辞して挑んだガチャで大爆死してしまったことで、このゲームに対する興味が一気に無くなった。自分でもそんな些末なことで…と思うが、萎えたのは確かだからどうしようもない。しばらくゲームを開かなくなって、数ヶ月後にチラッと開いて再燃するんだろうと漠然と想像している。飽きることに負い目を感じているわけでもないから、それ自体は大して気にしていない。でも、また新たに飽きた記録を更新してしまったことにめっちゃ凹んでいる。
飽き性は本当に面倒くさい。何かに飽きるという行為はそれに満足した上で起こる結果だと考えているし、それはある種自分の視野や世界を広げるいい機会にもなるだろう。だが、それが人の性質という話になってくるとそんないい捉え方で終わることはできないんじゃないか?全てがやりかけのままで終わってしまう、中途半端にいろいろできるが、何一つ極められない、というのは情けない気持ちにもなる。もう十分やったからいいや、ではなく単に挫折したから飽きる、というのもダサいし。あ〜〜〜自己肯定感上げて〜〜〜〜〜。
ということでとりあえずなんでもいいから何かを続けるという成功体験をして自分を褒めたいので、何かを習慣にすることを目標にして一つ、やってみよう。最近姿勢が悪いから、ご飯を食べるときは必ず背筋を伸ばす、でやってみようかな。習慣にするにはざっくり2ヶ月かかるらしいから、2ヶ月後の11月15日に結果を書きにくる。やってみます。ゲームはまあいいや。
俺は長年の田中芳樹ファンだけど、残念ながらその頃と今回とでは「当たり前の批判」の社会的意味が違うんだよ。認識をアップデートしてよ。
タイトルの通り増田は20年来の銀英伝ファンですが、私が銀英伝を知りネットの掲示板や個人サイトなどを見始めた当時から、ファンによる「銀英伝の女性キャラはステレオタイプ過ぎる」とか「田中芳樹は女性を描くのが下手」みたいな批判は当たり前のものとしてありました。今回炎上した冒頭のツイートもそれと同系統のものであり、作品内の女性の扱いに対する感想としては見慣れた内容で特に違和感はありませんし、個人としての違和感を述べたうえでリメイクにあたってのアップデートを希望するものであって、それ自体問題があるものとは思えません(なお、「Die Neue These」はリメイクではなく「原作の再アニメ化」なので、その点は事実誤認なされているものと思います)
うん、銀英伝のファンのあいだでは「あいつ女を描けてねーよな」みたいな評は普通のものだったよね。そういう意味で、例の社会学者氏のツイートの認識はごくありふれた銀英伝認識を示したものだといえる。それだけを切り取ってみれば特に叩かれる要素はない。
でもさ、
ことと、
twitterという、簡単に支持者を社会運動に動員できるプラットフォームで、これまでさんざんコンテンツを燃やしてきた社会学者っていう属性の人が、表現の内容を変えるべきだと口を出したら、単なる批評の域を超えて作品へのバッシングを煽動してるようにしか見えないんだわ。
ジェンダーがどうこうというのも、そういうバッシングの際によく使われる常套句だからね。
「あっ、この状況、キズナアイバッシングで見たことある!」って思っちゃうんだよね。
実際にそれらの描写を変更すべきか否かはそれぞれで判断が異なるのは当然としても、こうした意見に対して「現代にそぐわないから変えろって言いだす社会学者やべえ」などと嘲笑するのは原作者のスタンスを含めて明らかに論点を見誤っていますし、「銀英伝を燃やしに来た」などと反応するのは過剰です。挙げ句に社会学者というツイート主の職業にフォーカスしてその職業全体を否定するような言説まで行うのははっきり言って異常だと思います。
もちろん、昨今のネットの社会学バッシングはどう考えてもおかしい。一部のおかしな社会学者の存在で以て学問としての存在意義まで否定されるべきではない。
ところで、「すべての男がそうじゃない」みたいな言い訳をする男に対してノットオールメンって言ってきたのってどういう人たちでしたっけ?
文系のはしくれとしてはノットオールソシオローグスと言いたいところなんだけど、フェミニズムに同調して社会問題に口を出してきた社会学者がそれを言うことは、まあ論理的一貫性の問題を惹起するよなあ。
本件もそうですが、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論においては「過剰なポリコレを押し付けるな!」などと主張する批判側にも個人の意見に対して過剰かつ攻撃的な言動を繰り返す「反ポリコレを旗印に個人を抑圧するネット憂国騎士団」みたいな存在も目立ってきており、まともな議論が成立しづらい状況になっているように思います。
マトモな議論が成り立ちにくい環境を作ってきた責任を反ポリコレの側「だけ」に求められても困るんですが。
ポリコレが高邁な理想としての側面しか持ち合わせていなかったのであればともかく、実際には他の表現を抑圧する棒として使われてきていたという前史があった上での反ポリコレ側の過剰反応でしょう。
つい最近起きた騒動にだけ目を向けても、ジェンダーを専門とする社会学者によってキズナアイがバッシングされ、フェミニズムを掲げる弁護士や研究者によって献血ルームが攻撃され、「ミカンはお母さんが買うもの」などと宣うフェミ学者たちがラブライブの農協コラボを焼きに来た、といった話があって、その上で今回の社会学者氏の感想への過剰反応があるわけ。
ポリコレ棒でヒステリックに殴られてきた側がちょっとでもポリコレっぽく見えるものにヒステリックに反応するのは自明の理では?
悪いけど、ポリコレ棒を振り回して暴れ回ってきたポリコレ憂国騎士団の皆様にはもうウンザリしてるんだよ。
だからといってこちらも憂国騎士団ムーブをしていいことにはならないけど、ポリコレ側の憂国騎士団ムーブのことを棚に上げて反ポリコレ側だけを憂国騎士団と言われても困惑するほかないんだよね。トリューニヒトみたいな詭弁やめろ(憤怒)
実際問題、2013年の人工知能学会表紙事件以降、表現(特にオタクコンテンツ)をネットで叩いて社会問題化し、金と名声を得るというのは、社会学者の定番になってる。最も顕著だったのが宇崎ちゃん献血ポスター騒動
いや、ネットで表現を燃やしたところで影響力とか声望とか自尊感情とかはともかく金は得られんよ(少なくとも学者の世界では)。金目当てで彼らが動いているというのは被害妄想がすぎる。そりゃ有名どころのレーベルで新書とか書けばまとまった金は入ってくるかもしれんが、彼らは現段階ではtwitterで吠えてるだけで別に一般向けに売れそうな本を書いているというわけでもないし。
この界隈Twitterさえ見なきゃ起きてない論争多くない?ほぼネットそれもTwitterでしか「社会学者」を知らなそうな人多くない?
そりゃ、多くの人には表現を燃やしに来る「社会学者」の姿しか見えてませんし……
アカデミアあるいはそれと近いところにいれば、社会学といっても色々あって、ハマータウンの野郎どもを研究する人もいれば聖なる天蓋を論じる人もいて、ジェンダーやオタク文化に関心を持っているのは一部であり、表現を燃やしに来るのはさらにその限られた少数に過ぎず、もっと言えば社会学者といっても博士課程の院生から誰もが参照すべき大御所まで「権威」に勾配があることくらい理解しているだろうし「社会学者」を十把一絡げに論じるべきじゃないっていうのは自明の理なわけだけど、燃やされた被害者からはそのごくごく一部の姿しか見えないので。
アカデミアと縁のないそのへんのオタクにとって、哲学者や数学者や工学者や物理学者や言語学者や文化人類学者なんてろくずっぽ知らないのが「普通」でしょう。普通の人は良かれ悪しかれそんな学問について詳しい知識は持ってないんだよね(漠然としたイメージは持ってるかもだけど)。だからtwitterのオタクがロクに社会学者について知らないってのもある意味当然なのよ。
そんな学問についてよく知らない一般大衆は、まあ、自分たちの表現を燃やしに来た一部の社会学者の姿を見て「社会学者」のイメージを形成しちゃうよね。
もちろん「そんな社会学者ばかりじゃない」という異議申し立てはどんどんやればいいと思うよ。「そんな男ばかりじゃない」と同程度には正当性のある反論だろうし。
『ムーラン』と『銀河英雄伝説』が同時並行で話題になってホッテントリに出まくってるのに誰も『風よ、万里を翔けよ』の話してないのおかしくない!?
https://anond.hatelabo.jp/20181010024150
きめえんだよ〜〜〜
はっきり言うけど本当に気持ち悪い、気色悪いよ〜〜〜〜
つーかまず文脈を考えろよ。
ジェンダーギャップ114位で、世界女性外相会合に一人だけ男が参加して、新内閣も女閣僚一人だけで、議会でのど飴舐めた女性議員はオヤジ共に寄ってたかって虐められて、
AVやエロ本エロ動画では普通に制服の子が出てて、暴力系も一緒くたにされて、そんなんがコンビニにも置いてあって、
未成年(18以下)とオッサンが淫行したらオッサンと同等かそれ以上に女の子が叩かれて、
医学部受験では秘密裏に差別され、給与でも差別され、そういう、そーーーーーーーいう社会の中で、16歳のキャラクターに横乳とヘソと太もも丸出しの格好させて、NHKが頷き役させるなんてさーーー恥ずかしくないのかよ。マジで。私は恥ずかしいよ。。。NHKも矜持とか無いわけ???
おまえらが、大人が、日本人の成人が、着させてるんだよ、わかるか?本人が選んだ設定か喜んでる設定か知らねーけど、女性の自己決定権とか好きな格好をする権利とか全っっっっ然関係ねーから。
馬鹿じゃねーの。つーかさお前ら結局ヌけるかヌけないか、その一点だけだろ、戦ってるポイント。
この話題海外から見たらさ、オタクのキモさにドン引きでしょう。キズナアイにじゃないよ、おめーらにだよ。
漠然とした海外じゃなくて、日本以外全部ね。キズナアイにフェミニスト発言させたらバグっちゃって真っ赤になるくせに、KKKの格好させるのが皮肉として効くと思ってるおまえらのその感覚にね。
この社会で、現実に女性や少女がどんな扱いを受けているかなんてどうでもいいからフェミvsオタクみたいな構造に出来ちゃうんだろうけど、そうなったら本当に害悪ですよ。つーかフェミニストVSになるんだったらもうセクシストですよ。セクシストでもフェミニストでもないならヒューマニストになってくれ、頼むから。でなければ滅びてくれ。
いや私もオタクなんですよ、正直ね、でもさぁ自浄作用って知ってる?もはや皆無じゃん、自浄が。ねぇ。言っとくけどBLだってTPO弁えないのはクソだよ。
もうこれ無理でしょ。この件ではオタクの側、屁理屈ばっかやん。場面によっては正論かもしれないけど、普段のオタクの態度と矛盾してるとこ多すぎて。。
コミケを思い出そうよ、なぁ!どうせキズナアイだってそういうとこではいろんなあれされるじゃないか!!我々が普段どんな文化に浸ってるか自覚しようよ!?!?隠さんと!バカ!我々の方に分がないに決まってんだろうが!!あんな表現を自由にできるのは、他者への配慮前提だろ!!!
だってあそこではクソみたいに表現が自由じゃないか。うどんやらクジラやらの存在許してくれる国なんか日本くらいだと思うぞマジで…いわんや二次創作をや……
とにかく一回目を覚まそ?もうフェミニストが敵にしか見えなくなっちゃったなら仕方ないから、表現の戦士軍だけでもっかい考えてみてよ。
(追記略)
ふと思いついたこと。
人は死んだらどうなるのか、この漠然とした疑問は自分の中ではただ無になるだけだと考えていたのだが、それはあくまでも主観的な無になることと理解しており、客観的な無にはならないと思っていた。
つまり主観的には感覚が感じ取れないわけだから無になるが、客観的(自分以外の)世界までも無になるとは考えていなかった。自分が死んでも他人は生きるし、存在し続ける世界が続いていくんだなと思っていた。
いつかは無になるがそれは時間の順番の話であり、自分が死んでも時間は変わらず進んでいくと考えていた。
今日ふと、もしかしたら自分が死んだら客観的な世界も無に帰すのでは?と思った。
まず宇宙の秩序も有限であるということ。つまり人の一生と同じくいつかは終わることは確実ということ。
次の理由は、私が産まれるまで宇宙の時間は数百億年あったにも関わらず私にその感覚はなく、私が産まれるまでは客観的な世界は存在しなかったということ。産まれてからは歴史からその客観性を学ぶことはできるが、それはあくまでも私の存在が前提条件になっている。
このことは私が死んでもその後の客観世界は時間の経過などないことを意味する。産まれるまでの百億年の感覚は私にはない。つまり私の生命としての終わりは有限である宇宙の秩序の終わりを意味するのではないか。
産まれる前と死んだ後は存在しないということは共通しているのだから。
そのため私の死はこの宇宙の死を意味する。正確には私の死から膨大な果てしない時の流れがあるのかもしれないが、産まれる前の無の存在と照らし合わせるとそうなる。
先日、SNSで仲良くなったレズビアンの女の子とセックスした。
女の子とのセックスは最高に幸せだったし、人生の中で一番テンションが高かったのではないかと思うほど興奮と解放感で満たされた。
女性とはもちろんのこと男性とも付き合ったことのない完全な処女だったけど、めちゃくちゃ良かったです。世の多くの男性はこんなに可愛いふわふわな女の子たちとセックスできるなんてズルくない!?なんてことも思った。
最近まではずっと自分は異性愛者で好きになるような男性と出会っていないから恋愛や男性に対して性欲を感じないんだと思っていたけど、そんなことはなかった。
女性であっても例えば一緒に旅行で温泉に行ったとき同性の友人の裸を見てエッチじゃん…って思ったり、酔ってる友人を見てキスしたいぐらいめちゃくちゃ可愛いな~って思ったりするもんだと考えていたけど、それは普通ではないと知ったときの衝撃は大きかったな。
自覚がなかっただけで性的指向は同性だと認めてからはコンプレックスがなくなったようなスッキリとした気分で過ごしている。
スッキリとはしたけど、まさか自分がマイノリティーだったとは思っていなかったのもあって、自分は将来どんな生活を送れるのだろうかと不安も感じている。いつか普通に結婚して家庭を築いていくという漠然とした未来が突然消えてしまった。
今はその事実から目を逸らすようにして楽しんでいるけどいつか向き合わないといけないんだろうな…。