はてなキーワード: 漠然とは
基本同感だけど、「パッシング」に関しては掘り下げられるところがあって
実際車に関してパッシングしている人は存在していて「車を社会からなくそう」とまで発言して運動している人は少なからずいるんだよ。特に交通事故遺族中心に
結局、社会的な利益とか、ぶっちゃけ視聴率が取れるかどうかとか、そういう違いなんだろうと
でも、どういう形であれ、作品がつまらなくなれば社会的な損失が発生すると思うんだけどね
彼女たちが言っているのって「性の商品化は女性の地位を下げ、差別化を助長する」みたいな漠然とした根拠もない話なわけで
突然だがそもそもの前提として私は成人前の学生だ。今更自粛期間中の話をするのも謎っちゃ謎だがまあ良いとして話を進めると、その頃私は学校の課題も無く趣味で文字を綴っているので友人の企画に参加する小説をちまちま綴ったりしていた。バイトも無かった。要するにだらけていたのである。
私は本当に昔から計画性が無く、頭の八割を推しに残りの二割を長期休暇課題パラダイスを除いて常に一週間以内に入っているやばい課題なり推しの誕生日なり企画締め切りなりに割り振ってきた人間であった。半分くらいは十割推しだった。それ故自分の人生について考える機会が無かったのだ。作文の課題とかで出されない限り「推しと戯れられる収入が欲しい」とか漠然とした欲望以外では無い。殆ど無い。
ここまで読んだ普通に義務教育を受けてきた人間なら思うであろう。「お前進路相談とかやらなかったの?」と。
実は私は小学校時代から塾に入れられ、路頭に迷わない程度の大学付属エスカレーターに乗せられた人間である。天才じゃ無くても保育園からチャレンジの一年先取してればなんとかなるのだ。これは自慢では無いしこのことに関しては本当に感謝しているのだが、うちの両親は共働きで貯蓄もありうっかり連帯保証人にサインしたりしない限り多分大学まで普通に行ける。勿論中学受験をしないとか別の学校に入るだとかそういう選択肢もあった。でもそれは実質無かった。こちとら数年塾に通いとある料理店なら身体中に塩を揉み込むくらいには出来上がっていたのである。そうして私は「受験面倒だから出来ればエスカレーターで文化部が充実してるとこ」とかいう雑な条件で受験、入学した。
私は私の人生を、「時々上手く選択してジャンプして乗り越えなきゃいけないし手すりは無いから何人か落ちるし本数も数本あるけど、普通にやってれば辿り着けるし方角もルートも大体おんなじな歩く歩道」だと思っていたし思っている。長いけど他の表現が見つからなかった。そうして私はそんな人生を雰囲気で選択してなんとな〜く生きてきた。実を言うと中学受験もあんまやる気なかった。
しかし冒頭で言った通り、時間ができたので色々考えてみることとする。昔から幕末と戊辰戦争が好きだし新撰組白虎隊辺りは大分調べたが攘夷志士に関してあんま知らないなとか。擬人化ジャンルとは別に小学生がエクスカリバーが好きな気持ちのままに日本刀だからもっと見方やら逸話を知りたいとか。19世紀の西欧男性ファッションをもっと調べたいとか。宇宙の果てが気になって寝れないとか。
……あれ、私、思ったよりやりたいこと色々あるじゃん。そう気がついた。
私の人生はレールの上ではない。ただ突っ立って流されるだけでは無い。歩く歩道の上なんだから流されるだけでは無くいくらでもダッシュできる。それに、私が今まで見ようとして来なかっただけで少し離れたところに色んな方向に伸びる道があった。
私はまだ十代だ。まだ助走を付ければ少し遠くの道にだって飛び移れる。笑いながら走れる。そうやっと気づけた。
外から見れば私はただ惰眠を貪っているようにしか見えなかったようで母親に有意義に過ごせだの嫌味を言われたが、私にとっては人生の中で最も有意義な休暇だった。私はやっと、自分の足で歩き出せたと思う。
28歳 女
母の辛く苦しんでいる姿をわすれることはない。
もう子供とは言えない歳の兄だが、自立した生活は送れていない。
わたしの子供も同じような障害を抱えて産まれてきたら、心のそこから愛せるのだろうか。
母の苦しみ、兄へ抱く感情、それらを思うと、愛せる自信がない。
だけど、そうじゃない、「健やかな我が子」を抱きかかえる未来への羨望。それは確かにあるのだ。
いちかばちかな気持ちで子供を作るほど、わたしに植えついた負の感情は弱くない。
そうなると、どうしても「自分の子供がいない未来」しか見えない。結論はいつも同じ。
それでも羨望は消えない。
幸いにも、パートナーは「2人で過ごす未来」を受け入れてくれている。
年齢的に相手はまだ子供を作ることができるだろう。相手がわたしでなければ。
もちろん38歳で絶対に産めないということは無いかもしれないが、さまざまなリスクが今とは段違いに高くなっている年齢だ。
今そのリスクを受容できないのに、38歳の自分が受容できるだろうか。
世の女性は、この気持ちにどうやって折り合いをつけているのだろう。
子供を産むことに葛藤のない、それが当たり前と信じて疑わない女性もたくさんいる。
産まないことを選んだ女性も。
前からずっと思ってたんだけど、「次の総理」みたいなのであの人が1位な理由がなんなのか、謎で仕方がない
なんで支持されているのかわからないのは小泉さんちの次男坊もそうだけど、あっちはまあ顔がいいとか若いとか、「なんだかよくわからないけど今あるものをなんとなく変えてくれるんじゃないか」みたいな漠然とした期待感とか、推す人がいる理由は一応思いつく
しかし石破さんのどこがよくて、いったい何に期待しているのか全然わからない
ネットでよく見かけるアンチ・アベな人いわく、「アベは消費税を上げた悪人! 憲法を変えて戦争をしたいんだ!!」……ということらしいが、それで言ったら石破さんも消費税はさっさと上げろという立場だったし、9条に対する考え方にしたって相容れない人が多いはずなのに
とにかくアベの足を引っ張ってくれるなら誰でもよく、そいつの人柄や政策もどうでもよく、そしてあの時みたいに冷めるのは一瞬なんじゃないか
小池さんの公約は結局絵に描いた餅でしかなかったが、しかし餅の絵は一応きちんと描いた
あの人がどういう絵を描くのか、みんな見てすらいないんじゃないだろうか
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
答えはノーだ。
むしろ量は少ないこともあり、特別グルメでもない人間には不当な値段に映ることもある。
これから私が言うことは君にとって朗報でもあり悲報でもあるのだが……
厳密には「実際のところ良く分からない」というべきだが、そもそも良く分からないものに金を出してる時点で優れた金銭感覚ではないことは認めよう。
しかし、これは私に限った話ではない。
多くの人は一万円のステーキを千円のステーキの10倍の価値があるなんて微塵も思っていないのだ。
では、なぜ食べるのか、金が動くのか。
それは物事の価値というものが、一般社会の基準や、大衆の普遍的な金銭感覚から外れていくほど漠然としていくからだ。
漠然とした価値ほど、値踏みというプロセスも漠然とするのである。
それはモノが内包している価値、金を支払う個人の動機、その実体も曖昧であることを意味する。
何に対して、どの部分に、どれ位の価値を感じて金を支払うかを消費者は具体的に考えない。
下手をすれば、提供側すら考えていないこともある。
基準から外れているか、そもそも基準がないので、回答は出せても解答は出せないためだ。
今回、学ぶべき教訓は「基準にしていないからこそ動く金があり、基準にしているからこそ動かない金もある」といったところだ。
つまり一万円のステーキを食べられるのは“千円のステーキを基準にしていない”から、といっていい。
例えば、私はDAYSやジャンプラなどで無料公開されているマンガをよく読むのだが、単行本や有料エピソードを買ったことはない。
一万円のステーキを食える人間が、百円単位のものを渋るというのは中々に奇妙な話と思われるかもしれない。
それでも確かなことは一つだけある。
「一万円のステーキを食っているときに、千円のステーキの話をすると飯が不味くなる」
同席者にそんな話をされたら、尚さらだ。
もちろん、ハヤシライスのことを考えながらステーキを食べるのも嫌だろう。
なので、君はカレーライスを食べればいい。
希死念慮が強い。
漠然と死が付きまとっている感じ。
躁期はなんてことなく、飯うめー!って思うんだけど、鬱期は毎日こんな感じ。
1ヶ月のうち3日は躁で、27日弱は鬱だから、まあ、基本毎日死にたい。
じゃあ死ねって思うけど、綺麗に死ななければ親にも職場にも迷惑がかかるだろうし、どの死に方がいいのか分からないし、そもそも「死にたくなって当然だよな」って思われるような状況じゃない。
「あー死にたい」っていうのは、腹減ったとか眠いとかそういうのと同じ欲求。
ぼーっとしてると、ポコッと「死にたい」「旅行も行きたいけど、それよりも死にたいな」って思いが湧いてくる。
意地でも生きたい人が、自分の寿命を1年500万くらいで買い取ってくれないかな。来年ぐらいまでの分を売り払って、豪遊して死にたい。
たとえば「comprehensive」という単語の意味が分からないとして、辞書を頭から読む人はいません。「comprehensive」の意味が分かれば良いわけです。たとえばJavaのライブラリのある関数の仕様が分からなくて、Javaの文法書を頭から読む人はいません。その関数の説明だけ読めば良いわけです。
「本を読む」とはそういうことです。つまり、「機能的に知識を得る」ことが本を読む意味であり、目的が無く漠然と本を読むことに意味はありません。
賢明な人なら、他人にこう言います。「○○について知りたいなら、✕✕という文献の△△という章が参考になる」とね。漠然と「本を読め」なんて言ってるのは、馬鹿だけです。
またかと失笑しながらTwitter見てたら、「あいつの話を信じるな私だけが真の神だ」みたいな人を見つけてさらに失笑してしまった。
そういえばポエムみたいな星座占いの人もけっこう有名らしくて、昔は時々TLで見かけたっけ。あまりにキモくてブロックしたけど。
はぁーいいなぁ、「牡羊座は風…」とか、何の根拠もない妄言を言ってお金貰える人生いいなぁーーーーーーー
複数の文化の神が融合した神を名乗るプロフィールがあり、毎日何らかのグラフをアップして、「今日は○○の相が出ているから注意」などとツイートしている。
それも「金運」とかいう漠然としたものではなく、「外車にまつわるトラブル」というかなりピンポイントなものだった。
そして警告した当日、とある人が外車を盗まれたことがNHKニュースになっていて
それをリツイートして、信者から「さすがなんとか様!」と褒められている。
しかし、その人が予言したのはあくまでも報道があった日なのだ。
日本中探せば割と毎日「外車にまつわるトラブル」の日であると考えられるが、NHKがニュースにするくらいのトラブルはそう多くないだろう。
それが報道される日に、外車トラブルがあるぞとツイートできた部分は凄いと認めざるを得ない。
もちろん超能力として凄いのではなく、
一体どうやったのだろう?
ぱっと思いつくのは、先にニュースを見てから今日のトラブルを予言することだ。
もしくは、そういった情報が早めに入手できる、メディア関連の人だったりするのだろうか。
私はFacebook、Twitterが大学時に流行り出したような世代です。
年を増すごとにネットでリアルな実体験のレポートが沢山流れてくるようになって
妊娠出産育児のつらさ、喜び、悲しみがリアルに感じられるようになったと思います。
昔は、子供って可愛いんだろうなぁ すきなひとの子供欲しいなぁって漠然と思っていたんですけども
リアルに怖いし、想像できるし、正直なんでそんな辛い思いしてまで産むんだろって気持ちになってしまいました。
産んだって子供の生きる時代はきっとロクなもんじゃないだろうし。少子高齢化末期とかね。
それに加えてマイナス的な記事に比べてプラスな記事が圧倒的に少ない。しかもマイナスな記事に賛同の多いこと...びっくりします。
プラスな記事も見られますが、何というか...マイナス記事に比べてパワーが弱い感じ...。
そりゃ辛い思いして産んだからには良く思いたいよねと言いたくなります。
私みたいな気持ちの人、少なくないんじゃなかろうかと思うこの頃です。
人生が向いてない
私は今、床に倒れ込み大泣きしながらこの文字を書いている。きちんと意識している回数だけでもここ4日は毎日泣いているし、それ以前の日だって、毎日のように泣きながら暮らしている。
生きたくない。死にたい。死にたいと考えている。でも死ぬのは怖い。首を吊るどころか手首に傷をつけるのさえ怖い。痛いのはすごく嫌。でも生きるのはとてもつらい。
現在、無職である。社会人2年目にして無職。去年は一年間きちんと働いていたが非常に激務であり、契約が切れると同時に退職した。あと1年続けませんか?と何度も声をかけていただいた。しかし、この激務をもう1年間耐え続ける体力も精神力もなかった。適性もないと思っていた。漠然と、何か別のことをしたくて、それなら早いほうがいいと思って、辞めた。
そして現在無職である。一応就職活動をしているが今までとは全く異なる業種を受けており、ことごとく落ちている。その仕事がしたいわけではない。働き方が希望の条件に合いそうだから、それだけである。しかし実際働いたらキツイだろうし、実際勉強もしてるが難しい上に興味もないのでチンプンカンプンでやる気がまるで起きない。このやる気のなさが面接官に感じ取られているのだろう。就職エージェントに勧められるところを一通り受け、していない勉強をしていると嘘をついている。実際のところ全くできないのに。とてもゴミクズである。知っている。知っているのだ。そりゃ正直働きなくない。でも働かないとお金もなければ世間体も保てないから仕方なく働こうとしている。こんな気持ちじゃそりゃ落ちる。わかってる。もう死んでしまいたいのだ。
本当に働きたい人は何をどうしても、がむしゃらに頑張るんだと思う。でも私にはその気力がない。3月末に退職して現在8月、やりたいことがあるわけでもない。虚無。虚無の毎日である。
頑張れない。一向に頑張れない。
これは仕事の有無のせいなのかと言われたらわからない。仕事をしていたときは仕事場で一人で泣いていた。辛くて辛くて、死にたいと思っていた。仕事をしていても、やめても、死にたいという気持ちは一向に拭えない。
小学3年生の時には既に死にたいなと思っていた。10歳の誕生日「とうとう10年も生きてしまった」と焦り、20歳の誕生日には「子供のうちに死ねなかった」と人生を嘆いた。将来の夢は昔から無い。親に「公務員になったら安定するから公務員になったら?」と言われ、そのことを小学校の卒業文集に書いたらこっぴどく怒られ、いまだにそのことを言われることがある。言われたとおりにしようとしただけなのに。
漫画家やイラストレーターになりたいという夢もあったが、そのような技術も才能もアイデアも、なにより根気も無かったのでとっくに諦めてしまった。今は趣味で絵を描く程度だ。そんな死をずっと思い続ける、無気力な人間だ。
生きる適正がない。言われたこともできないし、自分なりにもこなせない。どうしていいかわからない。相手の気持ちがわからない。指示待ち人間で、言われるまで何も動けない。
ここまで救いようがないなら死ねばいいが、でも怖いので死にたくもない。食べる量だけ多くてどんどん太っている。動くのも中学生の部活いらいまともに運動をしていない。運動のしかたもわからなければ、運動をする気力もない。めんどくさいという気持ち。変わりたいという気持ちが弱い。きっとそうなんだと思う。それこそ中学生のころは本当に毎日泣きながら暮らし、日々死にたいとブログに綴っていた。そのブログはとっくに消してしまったが、10年も経って今、同じことをしている。
身近な人に「相談してね」と言われてもなんと言っていいかわからない。その人の前でただただ泣き崩れてしまう。論理的に考える頭がないので、乱文でもこうして文字に起こすことで自分なりに考えをまとめようとしているところだ。
実際、何を「相談」していいのかがわからない。私は何を悩んでいて、どうしたいのかがわからない。言えることは「私は死にたいが死ぬのが怖いので、なんとか生きていきたい」だと思うが、そもそも「なんで死にたいの?」なんて聞かれたらわからない。生きるのが向いてないから。じゃあなんで生きるのが向いてないと思う?みんなみたいにうまく立ち回れないから………… みたいな掘り下げをしていると本当に鬱々としてくる。いやだ。あぁ、ここで私の得意技である現実逃避。自分と向き合うことが怖い。理屈ではわかってる、わかってるけどそれは相当なストレスで、楽したいから避けている。
結局、自分と向き合うことができない人は自分の人生なんか生きられないんですよね。でもその自分との向き合い方もわからない。今自分で自分を正論でめった刺しにしているのが辛い。また泣いている。
身近な人にほど相談は難しい。自分の素性を知られたくない。駄目な人って思われたくない。きっとバレているのに。それでも言いたくない。不特定多数に見られるインターネットのほうがよっぽど気が楽である。
転職エージェントに言われることは「自信がないから自信を持って」ということだ。面接官にも言われた。身内にもそれは言われるし、自分でも思う。自分には自信がないと。自分の課題はそこなんだと思う。
でも、そこまで誇れることも何もないのだ。本当に空っぽの人間なのだ。さも自信がある人間のように、ウソで塗り固めることすらできない。そんな国語力はない。
理想ばかり高くて、そこに追いつけない自分とのギャップで病む。本当は私は素晴らしい人なのになぜ……という気持ちがきっとどこかであるからそうなってしまう。
ここからは人のせいにもしてしまうが、人から認められることなんてないし、そもそも親は私のことを小さい頃からずっと「バカ」と言い続けてきたし、ブスな上に努力もせず、ボーッとしてる上に人付き合いが苦手でいじめに合い……周りから奪われる自信と、それをはねのける自分の精神力の無さが原因だと自分では思っている。
みんなうまく生きているのに自分だけこんなんじゃ自信なんてなくなる。自分が信じられないのに他人を信じるなんてできなくて相談も何もできない。信じたいとは思っている。でももしこの人に嫌われていたら?などと考えてしまう。無限ループ、無限ループ、無限ループ。
そもそも何を相談したらいい?人生の根底にある自信の無さ?気力を得る方法?身近な人に相談したらその人の気力を奪うだろう。そして嫌われるだろう。孤立するだろう。近寄ってくるのはきっと弱みに付け込むカルト宗教の人たちだろう。もう嫌だ。
ここまで読んでくださった人、もしくは最初の一行目を読んだだけでブラウザバックした人はみんな思っただろう。精神科に行け、メンタルクリニックに行けと。
そう言われたとて、何を相談したらいいかわからない。昔から病院どころか保健室さえ苦手だった。症状をうまく説明できない。プレゼン能力の無さ。病院の待合室では症状を伝える練習を脳内でぐるぐるするタイプだ。
考えるより行動したいが重い腰が上がらない。もはや家から出るのも怖くなってきた。あぁ、負の連鎖。
さすがに床は体が痛くなってきたのでベッドに移動した。あぁ、このまま眠って、息を引き取りたい。穏やかに死にたい。苦しみたくない。もう、生きるのをやめたい。
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■追記(8/19)
このエントリーに反応をしてくださった方々、ブックマークしてくださった方々、ありがとうございます。
こんな文章、タイトルだけで未読スルーするでしょと思っていたので、まさか反応をいただけるとは…と思い少し驚きました。優しいお言葉をたくさん頂いて、気持ちが救われております。
私は相変わらずの生活です。ここ最近は本当に寝付きが悪くて、寝ている時も心がザワザワと不安になって夜中何度も目が覚めたりしますね……この症状は去年もあったんですが最近ひどくなってきまして… 人生への焦りかな……今も心がザワザワしている
とりあえず前回投稿してから今日までは床に這いつくばって泣いたりしてないので、少しマシになってるといいなと思いつつ生きております。生きてる!!!
生きてるならいいかな なんだかんだ、コロナにならないようにマスクするし手洗いうがいもしているしね。健康第一。
コメントにもありましたが人間いずれみんな死ぬんだから、私も今慌てて死ななくてもいいのかな…。
いまだに希死念慮は拭えず、お世辞にも前向きとは言えない気持ちで日々を過ごしていますが、それでも自分のペースで生きていけたらいいなと思います。今日この時点ではまだ大きな病気も無いですし…。最近、両足の薬指に血豆ができたくらいで。
またいつか、誰にも吐き出せない暗い気持ちの波が押し寄せてきたらここに長文を書きに来るかもしれません。もしくは、次はハッピーな報告でもできたらいいな。
私は「たのしみだね。」と妻に言いながらも、素直に喜べない感情が心の隅っこに引っかかっていた。
街で見かけた障害のある子供と手を繋ぐお母さんの姿に自分の妻を重ねて、自分の人生の大半が子供の介護になってしまう事が不安だった。今まで頑張ってきた仕事が無駄になることがイヤだった。今までしてきた徹夜の日々が無駄だと思いたくなかった。
障害児が生まれる確率を調べ、出生前診断をし、結果について夫婦で話し合いもした。
「子供の健康意外、他に何もいらない」心から強く強くそう思った。
妻は二重だが私は一重なので、子供には二重になって欲しくなった。
さらに、子供が少し歩き始めるくらいになると才能が心配になった。
運動神経が良くなってほしいとか、アートの感性を身につけて欲しいとか。
その時に気がついた。自分はなんて愚かなんだと。
あの時のあの思いはどこにいったのかと。
もし神様がいて「あなたの子供、障害もって生まれてくるけどどうする?」
みたいな会話があって、私が
「すみません、それだけはやめてください。他には何もいらないんで。」
もうやめよう、何も望まないようにしよう。
よく母や祖母が言っていた「健康が一番大事!」という言葉が胸に刺さる。
潔癖というと語弊あるかもしれないが、自分が認めたくないもの以外は世の中に存在しないことにしたい、ぐらいのやばさを漠然と感じる。
それによって勝手に消されてしまう人たちの怒りみたいなものがどこかにあって、俺もどっちかと言うと消される側の立場に近いからなんとなく共感する。
行く人にも、行かない人にも、そしてその職業の人たちにも失礼だった。
そんな誰も幸せにしないようなことをわざわざ言わなければならない、言わせている出来事って一体何なのか?
私は死を超えたいです。
しかし、首を締め、肺に水や煙を吸い込んで、苦しみたいわけではありません。列車に轢かれて四肢を轢き裂かれたいわけでもありません。
ただ贅沢な望みを言っているにすぎません。私は産まれる前に戻りたいです。
虚無感に耐えられない、苦痛に耐えきれないなどそのような理由はふさわしくなく、それらは動機の一部に過ぎず、アンビバレンツであり、ただ漠然と死にたいです。
私は死ぬ準備ができていません。
大正生まれの祖父は、坊主頭でメガネをかけ、こけた頬に冷たい眼差しを持ち、いつも気難しそうな顔をしていた。息子である父から聞く話でも、私は祖父に対して怖いというイメージしか抱いていない。第一印象も第二印象も、とにかく怖い。祖父を評する言葉はそれ以外に無い。もっとも、祖父は私が生まれる7年前に亡くなっている。だから、私が見る祖父はいつも仏壇の脇に飾られた白黒写真のみであり、その気難しそうな佇まいを見るたびに幼心にピシッとした気分になり、怖い爺さんだなぁと思うだけだった。私にとって祖父は、無機質な写真のみで完結していた。
対照的に祖母はとても優しい人で、おっとりしたお婆ちゃんだった。私は末の孫だったこともあり、とにかく甘やかされていたので、特にそう思うことも多かった。祖父とは会ったこともないが、祖母とは長い時間を共にした。私は幼稚園に入る前、母が働いている間は朝から夕方まで祖母の家に預けられていたので、祖母とは二人きりの長い時間をゆったりまったり過ごしていた。かなり幼い頃の記憶だが、何故だかその日々のことは断片的によく覚えている。暴れん坊将軍と蒸し芋が大好きな未就園児だったので、祖母とは気が合い可愛がられた。
祖母は幼い頃の私にとって第二の母のような存在で、お話もたくさんしたけれど、既に亡くなっている祖父の遺影はインテリアのように飾らせているだけで、その人となりについては何一つ聞いたことがなかった。息子であるはずの父や叔父からも、祖父の話は聞いたことはほとんどない。思い出話も一つも聞いたことがない。祖父がどんな人かと聞いても「おっかねぇ(怖い)人だった」と返ってくるくらいだ。そんなこんなで、私が知る祖父像は極めて薄い。とても薄っぺらい。お前の爺さんだよと言われてもピンと来ることはなく、いつまで経っても白黒写真の遺影の人でしかなかった。
そんな祖父の遺影の脇には、立派な額に入れられた賞状が飾ってある。内容は、抑留生活を慰労し、銀杯を贈られたという内容で、すでに故人になっている祖父へ政府が贈ったものだ。戦後、日本には57万人以上もの人々がシベリアへ連れて行かれており、祖父もその一人であった。『祖父は戦争へ行き、シベリア抑留をされていた』たったそれだけの漠然とした事実が、私の中の祖父像を大きく占めていた。小さい頃から、「うちのじいさん、ロシアに連れてかれたんか」と単純に思っていた。どこからともなくの知識で、多くのシベリア抑留者がそうであるように「終戦時は満州にでもいて、捕まったんだろう。だが、どうにか生き延びて帰ってきた」と思っていた。
去年、祖母が97歳で亡くなった。50過ぎの時にヘビースモーカーが祟って肺癌で亡くなった祖父に反し、かなりの大往生である。そこで私は、葬式での親戚が口にした言葉で「祖母が嫁いだ翌日に、爺さんに赤紙が来た」と耳にした。おいおい、なんだそのタイミングは。ドラマかよ、と思った。そもそも祖父母はお見合い結婚だし、祖父は戦後も抑留され、長いこと家に帰って来なかったし、つまりそれが事実なら祖母は長々と見知らぬ姑と過ごしたことになる。しかも、ど田舎の山中にある村で、家業は農家という典型的な家だった。時代が時代とはいえ、婆ちゃんは肩身の狭い思いをしていたんだろなぁと可哀想に思った。
その頃から興味が沸いていたんだと思う。
遺影の中で怖いオーラを放っているだけの、実態の無い祖父像について。
私はどこからともなく『兵籍簿』の存在を知り、取り寄せたいと決意して、去年の8月15日、実家で終戦番組を見ながら父に話を切り出して頼んだ。兵籍簿の取り寄せは三等親まで可能で、孫の私でも可能だが、故人の息子にあたる父が取り寄せた方が、必要書類が少なく済むからだ。父は戦争映画などを見るのが好きな人だし、その手のものに興味があるタイプなので、あっさりOKしてくれた。断られたらどうしようと思っていたので、聞いた時はタイミングを見極めドキドキだった。
兵籍簿の取り寄せは案外簡単だ。やり方は調べればネットに載っている。うちの祖父は陸軍なので、県の恩給科に電話で問い合わせ、手続きを始めた。ちなみに、海軍だと厚生労働省になる。陸軍であれば『〇〇県 兵籍簿』あたりで調べれば、どこの県もやり方を導いてくれるだろう。発行に際して必要なものは、対象者が故人の場合は申請者との繋がりがわかるための除籍謄本と戸籍謄本といった、役所で簡単に発行してもらえる書類。あとは申し込み用紙を書いて郵送する。コピー代などで数百円かかるが、あまりにも簡単なので、もっと早く取り寄せればよかったと思った。
まぁ、取り寄せた所で、どうせ祖父はちょろっと満州にいて、そのままシベリアに連れてかれていたんだろう。祖父は誰にも戦時の話をしなかったので、家族の誰しもがそう思っていた。語らずに亡くなったがために、語るまでもない軍歴だったのかと、我々は思い込んでいたのかもしれない。みんなが祖父の戦争について知っていたのは、彼が『シベリア抑留されていた』たった一言の事実のみであるのだから。
当時の書類ということで、読み難く難解な旧字も多かったが、やはり同じ日本語なのでほとんどは解読可能だった。それもネットで調べられた。
読み解いてまず驚いたのが、祖父は1940年から43年2月まで、きっちり軍生活をしており、一度は満期除隊をしていたということだ。その時は主に満州で国境警備をしていたらしい。大きな作戦や戦闘に関わることなく、晴れて日本へ戻っていたのだ。もしかしたら亡き祖母は知っていたかもしれないが、祖父は息子たちへ語らずに亡くなったので、満期除隊をしていたことなど誰も知らなかった。
次に驚いたのは1944年2月、祖父は除隊からほぼ一年後に再び徴兵されており、(祖母が嫁いですぐに赤紙が来たエピソードは日付けから事実だと裏付けられた、祖母マジでお疲れ様すぎる)今度は満州ではなく、北海道の先にある『千島列島』に行っていたことだった。私は先入観からてっきり、祖父が満州で終戦を迎えたと思っていたので、想像していた祖父の人生はガラリと色を変えた。
千島列島……千島列島……たくさんの島が連なる北海道の向こう側……北方領土……。そうか、そこにいた人たちもシベリアへ連れて行かれたのか……。そりゃそうか。
千島列島といえば、日本の降伏後にソ連が乗り込んできた占守島の戦いが有名だが、祖父は『新知島(シムシル島)』から途中で『得撫島(ウルップ島)』に回され、その二度目の徴兵では約一年半の千鳥列島生活を送り、終戦を迎えていた。兵種はずっと砲兵、終戦時は上等兵だった。祖父はヒョロ長い体を駆使し、轟音の轟く砲をぶっ放していたのだろうか。なんともたくましい。
お恥ずかしいことに、私は新知島のことも、得撫島のことも、「なんか名前は聞いたことあるなぁ〜」程度で何一つ知らなかった。千島列島にソ連が攻め入った経緯すらも、占守島の戦いの名前で漠然としているだけで、よくわかっていなかった。
どんな所か調べたくなった。特に長くいたらしき得撫島について。当時の千島列島について。
祖父のいた部隊は結果的には戦闘をしておらず、言わば活躍をしたわけでもないので、ほとんど資料がなくて見つけ出すのには苦労した。
得撫島はもとより、千島列島は自然の宝庫であると同時、一年を通してほとんど霧に包まれ、風も強く、ましてや長い長い冬を有する極寒の地。白夜であり、夏の夜は極めて短い。夏でも長袖は欠かせない。ほぼ無人島。そんな場所で「はい、今日から暮らしてね〜」となったら苦労していないわけがない。制空権を奪われていたので、空からは米軍の攻撃もあった。制海権も奪われており、艦砲射撃が降り注ぐ。戦時中その海域では民間人も含め、2-3万人の人が亡くなっている。祖父のすぐ後に続いて小樽港を出港した同郷の部隊は、魚雷を撃ち込まれて沈没。冬の海に投げ出され、当時は軍機密に隠され2000人以上が死んでいた。祖父もほんの僅かな順番が違っていたら死んでいた。私もこの世にいない。数奇な巡り合わせで今の私は生きている。
得撫島はラッコの島と呼ばれるほどラッコがいるらしい。オットセイもいるらしい。祖父は間違いなく野生のラッコを見ただろう。自然豊かな大地。現代人の私が見たこともない美しい景色を、祖父は計らずとも見ていた。不本意の戦時下に望んでもない場所へ飛ばされてはいるが、愛くるしいラッコちゃんとの遭遇が顰めっ面の祖父の心を癒してくれていたことを願わずにはいられない。
兵籍簿には、祖父の召集や転属などの略歴が淡々と日付けと共に記されていた。必要最低限の事務的な情報であるが、その一つ一つの行間にも目に見えぬ多大な苦労があったはずだ。
古ぼけた紙は語っていた。戦争は8月15日に終わっていなかった。南方の激戦地のように食糧に困る事はなく、敵と遭遇することも戦闘もしなかったとはいえ、祖父は戦後も長らく闘い続けていた。自分の血縁者である祖父が歩んだ具体的な数字を見せられ、これはリアルなことだったと肌身に伝わってきた。日本がしていた戦争と、祖父の存在への深みが増した。
シベリアでの日々を、祖父の白黒写真の顔と合わせて想像してみた。マイナス40度の永久凍土で働く、ろくな装備もない日本兵たち。栄養失調。ひもじい。所々にシラミが沸く。病気が流行る。ご飯は堅い黒パン。粗末なスープ。戦争は終わったのに、周りがどんどん死んでいく。いつまで経っても日本に帰れない。故郷よりももっと寒い、極寒の異国の地。日本には結婚生活を1日しか送らなかった嫁が待っている。祖父は雪深い土地で生まれ育ったから、シベリアでも適応能力が多少なりともあったのだろうか。そう思うことが唯一の救いである。
祖父が何も語らずに亡くなったのは何故か。千島列島を盗られた背徳感か。過去な抑留生活に蓋をしていたのか。赤化教育を受けたことによる偏見を隠すためか。南方の激戦地に比べたらと、自分の半生は話すまでもないことだと思っていたのか。祖父の心を知る事はできない。私は想像することしかできない。祖父は日本に帰ったが、一切を語らずに亡くなった。故郷の山村とは掛け離れた四季の彩りのない場所で、途方もない八年もの戦争と闘ったのに、一言も喋らずに亡くなってしまった。
ここでは政治的な話はしない。
兵籍簿を読むことによって、それまで漠然としていた祖父の存在がぐんと近づいた。存在そのものを実感した。祖父はちゃんと生きていた。過酷な時代を生き抜いた。ドラマや映画の主人公になるような経歴ではないが、私が一分で根を上げるような過酷な環境に長々と身を投じていたのは明らかだ。じいさんすごい。マジでお疲れ様すぎる。生き抜いてくれてありがとう。じいさんが頑張ってくれたおかげで、私はこんな平和な世界でツイ廃をしながら、ソシャゲに夢中になれて、推しに心血を注ぎ、それを通して素晴らしい友人と出会うことが出来た。夏にはクーラーの効いた部屋でアイスを食べられるし、冬には暖かい部屋でアイスを食べられる。平和は素晴らしい。色んな国の友達もいる。その中にはじいさんが憎んでいた国の人もいるかもしれない。私は紙切れ一枚で戦地へ送られることなく、空や海からの脅威を感じることもなく、当たり前の明日をのほほんと待ちながら好きなように生きている。これは素晴らしいことだ。そんな当たり前のことを、強く思った。
兵籍簿を取り寄せて良かった。兵籍簿はどこからともなく知った物だが、私はこれを読まなければ自分の流れる血に関してとても大事なことを知らずに死んでいた。
仏間へ行き、再び祖父の遺影を見上げた。祖父は相変わらず怖い顔をしている。けれど、もうそれだけではなくなっていた。その遺影は漠然とした無機質なものではなく、凄惨な時代を生き抜いた血が流れているのだ。仏間を見下ろす祖父は、計り知れない威厳を背負っていた。
心のどこかで漠然と、自分と他者は同じ人間だから、比べられると思っていないだろうか。海外も含めていろんな人と出会って、いろんな考えを知ると、とてもじゃないが人間は同じものとしては比較できないということに気がつくと思う。他者は、自分とは異なる存在であると認めた上で、いかに協業できるかを考えるようになる。いまのあなたの周囲にいる人たちは、余りにも同質的なんじゃないだろうか。
って思う時ないですか。そもそも「輝いている」と感じる事は個人の主観によるところが大きいと思うので漠然とし過ぎてますよね。
でも知名度に限らず大体のアイドルは言いますよね、「輝きたい」って。とあるアイドルアニメの劇場版では「限られた時間の中で、精一杯輝こうとするスクールアイドルが好き」と、製作陣が作品を通して伝えたいであろう主題を、主人公が分かりやすく視聴者にそのまま言葉にして教えてくれました。二次も三次もどいつもこいつもとりあえず輝きたいらしいのです。
冒頭に戻りますが、私が無闇矢鱈に輝いてくれるなよ、と思う理由は単純に自分がしんどいからです。ものすごく主観的。いいんです、アイドルが輝いてると感じるのも主観によるのだからこの気持ちもきっと同根なのでしょう、知らんけど。
最近主にツイフェミ界隈で「強い女」だとか「エンパワメント」なんて言葉をよく見ます。女性の立場を向上させるためには、今までの大半の女性がしてきたような生き方ではどうやらいけないらしい。さて、女性たる私も社会に出て中堅と呼ばれる立場になってきた。人生設計をしながら、それに沿った働き方をしていかなければいけません。結婚、出産、産休からの職場復帰etc。なんだか世の中で嫌われやすいコースです。それについての議論はきっと終わりがないでしょう。会社にもよるし、夫婦関係にもよるし。それぞれの成功パターンと失敗パターン言い合っても水掛け論ですよね。現状では制度とそれを運用する人たちの良識に懸けるしかないと思います。
「世界を革命する力を!」と私の大好きなアニメの主人公がいつも叫んでいましたが、とても私にはこの現状を変える運動をしようとも思いません。強い女ではないので。そもそも私には関係のない話だし。
そう、関係ないんですよね。結婚もそれにまつわるエトセトラも全部関係ないんです。
だって私レズビアンですから。とりあえずね、一生懸命仕事して生きていくしかないんですよ。そうして中堅になったら気付くのです。あれ、一人でなんとか生きていけるかもね、と。
その瞬間に恋愛はタバコと同じただの嗜好品になります。吸いたきゃ吸えばいいよ、他人の迷惑にならないように気をつけて。
世の中の大半は恋愛の延長上の結婚でしょうか、それとも生存戦略としての結婚?どんな生き方でも私は責めるつもりはありません。男女格差も尊卑も知ったこっちゃない。うちはうち、よそはよそってお母さんが言ってましたから。自己責任論は家庭から始まってるんです。
一生懸命仕事して、休日には、体はボロボロだけどたまに趣味を楽しんでリフレッシュする。それだけの事なんですけど、それが積み重なると新しい役割が科せられ、いや課せられます。
それは「女性としての理想の労働モデル」です。「このままずっと頑張って!」と言う幹部もいれば「うち産休もあるからね」なんて言う幹部もいるわけです。賢しらな人からは「名誉男性」なんて言われてしまう事もあるようだ。私レズだけど男性になりたいわけじゃないし、女性に嫌われるのも勘弁だ。しかし男性ってついてるのに女性に嫌われるって不思議ですよね。男性も不憫な気がしてくる。
それはさておき、とりあえず見えない大きな動きが働いていて、私を何かしら掲げたいらしい。
ようするにあれです、輝いて生きる事を半ば強制されつつあるのです。輝く生き方を選ぶ権利があるなら輝かずに生きる選択肢もあって然るべきです。だけど会社を辞める勇気もなければ、女性をエンパワメントするような存在になる気概なんて私にはこれっぽっちもありません。
そんな私は、大好きなアイドルが輝いている時に思うのです。
アイドルよ、これ以上輝いてるくれるな、と。
盆だし、コーヒーの飲みすぎで眠気が来ないので自分語りを投げる。カジュアルにでも死にたいなあと思う人は読まない方がいいと思います。
1桁歳の頃、通学路に踏切があった。
カンカン鳴りながら降りた遮断機の前で電車が通り過ぎるのを待つ時、なぜ自分は毎回素直に待っているのか、なぜ1度も鳴り響く踏切の中に入って電車に跳ねられるという選択をしないのかを不思議に思うことがあった。
もちろんそれは私に意思が、思考があるからだが、私に意思というものがなければ、踏切の警告音が鳴り響く時、1/2の確率で私は遮断機の中に入り、電車に跳ねられて死ぬ。
この仮定の場合、私が今まで1度も死なないでこれたのは、1/2の、今までの人生で踏切の警告音が鳴った回数分乗の確率で起こる奇跡であるわけで、私の「死にたくない」という意思ははたしてそんなに強いものだろうかと、大学生になっても思っていた。
警告音が鳴り響く踏切の前で素直に待つ時、私はいつも踏切に自分が立ち入らないように必死だった。明確に死にたいというわけではなく、ただ、ほぼ無意識のうちに積み重なっていった、「私は生まれてから1度も死ぬほうの選択肢を選んでいない」という奇跡が奇妙に感じられて、ぶち壊したくなるのだ。
死なないように必死に踏みとどまるといっても、明確に「死にたくない!」と思えはしないから、死なない方がいいらしいよという規範を意識する程度のことしかできない。スカートを腰元でたくさん折らなくても短い丈にできるよう裾を切ってしまいたいが、式典とかで教師の目が厳しくなった時に取り返しがつかないから切らないでおこうと踏みとどまる、みたいな軽さだった。その軽さに生死がかかっていることに対する妙な緊張感はある。不快である。
こういう状況が発生するのは踏切に限ったことではなく、自転車に乗っている私を右後ろから大型トラックが追い抜こうとするときも、いきなり右に進路変更しないようにするのに必死だった。
私は幸い死の危険を感じずに生きてきたし、私が物心ついてから死んだ知り合いも100歳越えの曾祖母1人だけだから、死というものに対する具体的な恐れを知らないことも、上記のような状況を生む原因だったと思う。
これは希死念慮でない気がする。
なお、刃物を持った時に周りの人間を1度も刺しに行ったことがないのも自分にとっては奇妙な奇跡で、誰かを刺してこの奇跡を壊したいという気持ちが発生していた。別に誰かを殺したいほど憎んでいる訳ではなかった。
大学生の頃、適応障害になった時期があり、その際は上記の現象に加えて、死ねる環境を見るとそこに吸い寄せられるような感覚があって苦労した。
具体的には地下鉄のホームや落ちたら死ねる高さのマンションの共用廊下及び部屋のベランダでそれが発生した。
地下鉄のホームにホームドアが設置されていく時期と被っていたのだが、最寄り駅にはなかなか設置されずつらかった。
やはり単に1歩踏み出せばいいいいのと乗り越えなければいけないのでは必要とされる「死にたいという意思の量」が違う。ホームドアを乗り越えてでも死にたい人はいるだろうが、私はそこまでではなかった。ここで「私はホームドアを乗り越えないという選択を常にしている」などと考えると乗り越えたくなってしまうので、考えを逸らす必要はあったが。
当時の心境としては、死にたいか死にたくないかでいえば死にたかったのだが、死にたいというよりは、生きるのを休憩したいという表現が正しかった。しかし一度死んでしまうと二度と生きることができないので(いやほんとのところは誰も分からないが、二度と生きることができない可能性はたしかにある)、死なない方がいいだろうとは思っていた。私は幸せに生まれ育ったから漠然と未来に少しは楽しいことがあるだろうと思えたのでよかったが、そうでない人は大変だろうと思う。
生きるのを休憩して、今関わっている人間がみんな意識を私から逸らしてからなら、もう1回生きるのを再開したいな、という気持ちだった。これを縮めると、生きていたくない、死にたい、にならんこともなかったし、実際つらさが瞬間的に来た時は「死にたい」「死のう」「死ね(自分に対して)」と小声で口に出すことで感情の圧を逃がしていた。
精神科で薬が出たことで自分が今メンタルを悪くしている人であると自覚し、色々検索できるようになり、界隈の語彙も増えて、「希死念慮」という言葉を知った。
果たして私は希死念慮持ちなのか?そうだとしたらいつからなのか?そもそもどこからが希死念慮であるとか明確なラインを定めようとするのが無意味なのかもしれないというか、おそらくそうなのだが。
自殺するために首をくくる用の縄を買ってくるとかは明確な希死念慮な気がする。
私のあれは希死念慮だったのだろうか。
それとも、希死念慮にならずに済んだ、ただの幸運な願望だったのだろうか。
こんなところに書いても答えは得られない。私はただ単にどこかにこの疑念を吐き出して、限られた思考時間を他のことに使いたいだけである。それだけ何度もこのトピックについて考えてしまっているのだ。
今は適応障害も治ったし、通勤ルートに踏切はなく、大通りはひとつあるが併走ではなく横切るだけで済むから信号さえ守ればよいので気が楽だ。地方であることもありたまに使う電車はゆっくりとホームに入ってくるから、身投げしても死にそうにないので私の気持ちも穏やかである。穏やかな気持ちでいるために、身投げしても死なない速度だと思い込もうとしている節はある。バイクはまだ乗れないかな。ちょっと進む向きを変えただけで死ねるので。
自分に希死念慮があるかとか、希死念慮があったかとか、もう考えなくてもいいと思えるとこまで来た気がするので、ここに投げておしまいにしようと思う。感情の墓場みたいな使い方だな。おしまいです。生きているうちにやりたいことを考える方に舵を切りましょう。面白い漫画を作りたいな。面白い漫画を作って、架空のキャラの架空の人生エピソードで人を泣かせてみたい。