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2019-01-28

鬱病だけど社会復帰できる気がしない

毒親(父)+職場でのいじめ+過労で鬱病発症

勤怠がボロボロになり解雇

実家に住みながら通院などで治療中(今ここ)

無職になってから1ヶ月ほど経つ。

主治医先生から4月から社会復帰目標にといわれている。

スキル若さ資格もない。

やりたいことは、人の助けになる仕事

カウンセラーとか、セラピストとか。

極力、個人プレー仕事をしたい。

でも、貯金もないし失業手当も10万円いくかいかないか

未来への希望が何も無い。

障害者手帳を取って障害者枠…とも思ったけど

主治医先生から「そこまで重い症状じゃない」と言われた。

理想はそろそろ回復してきて、資格勉強とかして、

4月から社会復帰して8月までには家を出て自立したいところだけど。

なかなか上手く行かなくて悲しい。

2019-01-23

ゴミ

夫の言葉

妊娠したとき「俺ってすごいなー」

悪阻がキツかったとき「いつまで寝てるつもり?」

妊娠問題発覚で寝込んでて義実家行事キャンセルしたとき「お前は最低なやつだ」

子どもが生まれとき「俺にそっくり!」

夜泣き対応に心折れたとき「なんでお前が泣くの?意味わからん

帰ってきても食事ができてなかったとき今日は何時に起きたんだ?今までなにしてたの?」

一時保育に預けたいと言ったとき母親失格

離乳食づくり手伝って「…お前人間として最低だな」

倒れて入院した「お前のせいでうちの親がパートやめる羽目になった」

心が壊れてしまった

主治医の前で「大事家族なんで僕ができる限り支えます

それから彼は子育て一通りできるようになった。最低限。

でも、今度は私と子ども時間が無くなっていった。

三人でいても、私がいないかのように振る舞う二人。写真には彼と子どもだけしかいない。

食事もお風呂も寝かしつけも夜泣き対応も私を待てないのか率先してやる彼。

ついに子どもは泣いたとき不安とき「お父さんがいい」と言い出すようになった。

それを聞くたびに心がまた崩れていくのを感じる。

お母さんいや、と泣き叫ぶ子どもを見て「おおーそうか、こっちおいで」と大事そうにあやす彼。

ごめんね、と言って別の部屋に行く私。

ある日、夜泣き対応後のリビングで言われた「お前のやり方は子どもがかわいそう」「子どもがお前のことを嫌って言ってるのにフォローしようがないだろ」

私はこの家にはいらないんだなぁって思った。

から、その日のうちに自分荷物を全部ゴミとして捨てた。

なんか苦しいなぁ。

2019-01-22

追記したよ  人は悩む、人は学ぶ、でもダウン症はみんな堕しているから私も。※1

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190120-00010000-yomidr-sctch

この記事についてるトップブコメ

地獄への道を善意で敷き詰めるナチが集っており、酷く嫌悪感を覚えたため当事者として筆を取りました。

先に結論だけ書くとダウン症理由中絶しなければならない世間を産んでいるのは

「一生支援できない人は、他人のこの種の決断に口出ししないでほしい。」

などとのたまう人達、君らだよ

おわり

さて、この問題当事者として言わせてもらうが「障害者は殺せ!」と声高に叫ぶ人の方がまだマシです。

今の時代はこの手の手合いはなぐり返しやすい、そりゃ理想を言えば0人になってほしいけどさ、そういう人いなくならないでしょ。

無視するなり、黙らせるなり、距離を置くなり、説得するなりできる。

しろね、最高に悪辣なのって、私は理解者ですよ、といった顔で障害者の淘汰に加担してる偽善者

つの時代もお前らが一番数多くの人間を不幸に陥れてる

あのなあ、一生支援できる人なんていねえよバーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーカ

もう本当にバカすぎる、バカ選手権があったら、優勝候補だよ、それは寿命のある個人でやることではなく、寿命のない国や行政法人しかできない事だよ。

そして国や自治体法人でやるためには、数が必要なんだよ、障害者の数が。

それなのに、障害を抱えているから〜、そんな理由で堕してりゃそりゃ障害児減るわ、あったりまえじゃん、理解者の顔で親を追い詰めてるのは、そこのスターつけてるお前らだよ

おまえら障害児を減らし、

国の支援を先細らせ、

障害児の親の数を減らし

情報を先細らせ

病院くらいしかケアできる施設がなくなり

そうして障害児を授かった親が将来に悲観して、堕胎を選びやすくなる、障害児への淘汰圧を産んでいるのは、偽善者の皮を被ったおまえらだよ。

一応確認だけど「誰もが安心して子供を産み育てられる環境があるべき」

とおもっていないってこと?それなら仕方ない、きちんと悪意で地獄への道を舗装していたなら、

おまえら善意を信じすぎた私の勘違いだ、謝罪する

けど、もし違うなら「誰もが安心して子供を産み育てられる環境があるべき」

と思っているなら、一応言っといてやる、健常児を安心して産み育てられる環境ってのは

いわんや障害児をや で考えなきゃ本当に一握りの特殊な人しか子供産めなくなるだけだぞ

( いわんや〜 がわからないひとは 親鸞聖人検索してね)

そんな世界へ加速させる言説はお控えなすってお控えなすって、私はおまえら善意地獄行きたくない

さて、ついでなのでダウン症児を持つ先達として、役に立つ情報もついでに書いておきます

ダウン症に限らず障害のある子を産んだら速攻でコープ共済の告知不要コースに入りましょう、入院予定が無ければ入れます

ほけんの窓口的なところを数件回って調べてみましたが、コープ共済以外で障害児が0歳から入れる医療保険はありません。

うちの子は年に3、4回入院するので現時点でも100万円くらい帰ってきてます

子供医療費無料ですが、子供は付き添い入院必要になるため、どちらかが仕事を休む事になり、大抵の場合収入が減ります

あと無料と言いつつ、なんだかんだで数万とかとられます(期間によりますが)子供の付き添い入院は親の収入保障保険なんて使えないので入院指示がでるまえに、なる早で入りましょう。

すでに入院指示が出ている人も、退院一定期間たてば入れますので検討にはずっといれておいてください、障害児は5歳までコープ以外の保険無いです。

ちないに付き添いといってもやることはありません

しょせん点滴のチューブ首に絡まって死なないように見てるだけのお仕事なのでたんぽぽ置くより簡単です

次に訪問介護をしてもらえないか主治医相談しましょううちの子は0歳からきてもらってますが週に数時間でも時間が開くのは助かります緊急時お金積めば日中みてもらえます、身内の葬式とかあると非常に助かります

ちなみにうちがお世話になっているところは赤ちゃん介護我が家だけなので誰が行くか取り合いだそうです。赤ちゃん可愛いからね、そりゃそうだ。

次に療育手帳を早めに取る計画を立てましょう港区話題児童相談所で取ります

おまえらー、ここメモしとけー、療育手帳とかとるとこなんだぞー

度合いによって療育手帳は、将来二十歳前の福祉年金になります。二十歳前障年金は、子供自身年金保険を「一度も納めたことない」のに降りる給付なので普通の老齢年金より要件が厳しくなっており海外居住すると出なくなったりします、まあそこは20歳以降なのでおいおい調べよう

まずは市役所にいって療育手帳はどこで申請すればよいですかー?と聞きましょう、多分最寄りの児相電話してねとか言われます

児相ごにょごにょ言ってきたら嘘でもいいので保育園に早く入れたくてーなどと言えば、何歳くらいから来ていいか教えてくれます手帳あると保育園も点数アップするよ)

他の障害は知りませんがダウン症だったうちの子を診てもらっている病院では、3歳まで取らないスケジュールで当初は説明されました

が、別に病院市役所連携しているわけでは無いので、さっさと市役所いきましょう。うちは満一歳で速攻予約して取りました

療育手帳を取ると、特別児童扶養手当がでます、なお、手帳なしでも特児は申請可能ですが、あった方が出やすいので取れるならさっさと取るべきです。

なんと月に3万〜5万。子供手当てとは別にます。おっと収入が800万超えると出なくなるので、自営業の人はちゃんと調整しましょう

振込先は、親名義の口座なので、メイン口座とは別の口座に振込ませて貯めておきましょう、振込手数料自治体もちです。毎年一月になったらお年玉という事で、たまってる分を子供の口座へ移動してから子供NISAへ入れましょう。特児は20歳までずっと出るので全部投資に回せばうちらが欲しかった不労所得子供以下略

閑話休題

療育では子供の成長度合いもちゃん定量化して教えてくれます。この定量化がすごく良い。この成長率をベース保育園では、現在3歳なのに1歳児クラスで見てもらってます

ダウン症児の話をしますがダウン症は成長が遅いです。生まれる前は知能発達だけが遅くて、体は成長していくから

力はあるのに心の成長が遅くて他害とかこまるんだろなーなんて思っていましたが、全然違いました、なんと体の発達も遅いです。といってもうちの子ダウン症用の成長曲線すら割り込むくらいなのでダウン症の中でも悪い方だけどね、三歳の現在で一歳半程度の成長率。

身体的には少し歩く程度、身長体重も一歳半程度、言葉ママ、パパ、マンマバイバイあとはダーダーとかぱっぱっぱっぱぱーみたいな破裂音やほぼ喃語みたいなものしか言えず、やっぱり一歳半程度。

ちなみに、歯が生えるのも遅くて一歳なっても生えませんでした。一歳半年でやっと1本という状態、歯くらいふつうに生えてくるんだろうと思っていたので、以外でしたね。

お金に関しては正直かからないどころか増える一方で、むしろ悩みは教育に関して

の子は両方とも大学附属の私立に入れたのでしばらく悩まないで済むのが救い(地方都市受験倍率も低く、習い事都内より安いか教育的に楽です)

ダウン症末っ子は成長段階が遅いだけで順次進んでいるから成長段階にあわせた学年で学べれば何も悩むことはないし

本来的には健常児であれ障害児であれ発達障害児であれ子供の成長にあわせて学年は選んであげるべきなんですけどそんな柔軟性は行政にありません

まあそりゃそうだ、はてな村進歩的を気取った人たちが

男と女 、老人と若者、健常児と障害

単純化した二元論しか見れていないもんね物事には濃淡があるのにさ

こんな文章最後まで読んでくれたはてな村のみんなには、くっだらない二元論世間に加担していないか、今一度自己を振り返って見てもらえれば幸いですよ

そして、腐敗臭漂う二元論は、今年度に置き去りにして新しい元号をお迎えしてもらえればなーと思うわけです。






質問は歓迎しますが、特定に繋がる内容は無視しますのがご容赦を

前述の記事のような状況なので、県×年齢だけでも一桁に絞られ、市内x年齢だけで一人に絞れてしまうので、あしからず

Q タイトル何?

A タイトルコピーメカさんで作成しました (http://www.copymecha.com)

Q 出生前診断したの?

A しました、何かしらの障害があった場合情報を集めて準備するためです

>生存者バイアスじゃねえか

という言及をもらったのですが、消されてしまったのでこちらに、追記

生存者バイアスっていうなら、子供がいること自体がもう生存者バイアスだよね

でも、なぜ健常児なら、まだなんとか育てられると思える人がいるか

元々私が嫌悪を抱いたブコメでも言われてたが

支援する気のない人は文句を言うな

みたいなこと書いてあったよね

健常児にはね、情報があるから判断することができる、コントロールすることができると思えるからじゃないかな?と私は思っている

足りない足りないとは思ってるけど、どんな支援があり、どんな保険があり、どんな教育を選べるか

情報は向こうからプッシュ通知でくるくらい、情報はある。

なぜ健常児には情報が取捨選択できるほどあり、障害児にはないか

結局数だよ、国の支援も、法人から支援も、NPOから支援もすべて、支援されるべき人の数がポイント

例えばね、うちではダウン症などの知的な子への早期教育としての歴史を持つモンテッソーリを受けさせたかたから、近所調べたけど健常児でうまってるわけだ。

そこで、親である私達がモンテッソーリ教師になればいいんでね?と思い、先生になるためのスクール通うことも検討したんだよね

でも嫁さんから、親が教師だとどうしても子供にとっても難しいとの懸念が示され、それならば先生になりたい人を集めて、団体作れば?まで検討はしたんだ

けど残念なことにビジネスするにはパイが足りない

から断念した。多少のサイズがあれば、助成金もだせるって市役所と話し合いまでしたんだけどね。

人は集団生活する社会性の生き物でさ、社会形成できる数がいないと、支援すらろくに行き渡せることができないんだよね

そう思わない?

からはてな記法よくわかんないんだけど、Markdownでいう > ってどーやんの?

障害児が減ったら障害児へのケアが先細るって、増えてる高齢者ケアは先細ってるんだけど。。。

箱も施設急ピッチで増やしてるよ

ただこれも実はわかりきってる問題があって

最盛期がわかっていて、その後減ることが明確にわかってるからだよ

今の数に合わせて箱作っても維持できない

モンテッソーリ教育ってめっちゃ金かかるって聞いてるんだけど、検討できるぐらい増田のとこ稼いでるのか気になる。

モンテッソーリ取り入れてる保育園が市内にあってそこ入れたかったんだよね、次の10月から消費税増税無料化される予定なので、私のお金はあまり関係がないよん

id:hark-k

こちらこそ、コメントくれてありがとう

2019-01-14

anond:20190114232552

死ぬことはないけど日常生活に支障をきたす持病を子供の頃から抱えてる

大変だな。

とはいえ死ぬことはないっていうのは余命宣告とかはされないって事で

ちょっとした無理ですぐ倒れて、ある程度成長するまでは何度も入退院をくり返してきた

やっぱ大変だな。

成長して入院の回数は減ったけど

それは無理をしないようにする術を覚えただけで病気改善したわけでもなく

いまだに少し無理すると倒れてしま

すげえ大変じゃん。

先日、年末年始の無理が祟ったのか随分久々に入院をした

マジか。

殊更に特別な無理をしたわけではない

そうなのか

医者が季節柄もあるだろうといっていた

ずっと見てくれている主治医家族自分自身

自分のことをどこかで そういう生き物 と認識していて

から仕方ないとどこかにある

そんな体で当然きちんとした仕事にはつけず、生活制限も多い

仕事制限つくとやっぱキツイよな

自分自分を「普通人間じゃない」って定義ちゃうのは辛いな。

という言い訳自分にしている自分死ぬほど嫌いだ

同じような状況でも頑張ってる人は五万といて

そういう人は自分みたいに病気言い訳にしやしない

もっと楽な状況の人も全然多いだろ

言い訳もある程度するんじゃないか

それに苦しみは本人だけのもので、他者比較するものではないと思うぞ。

自分を好きになりたい

だけどどうしても好きになれない

好き嫌い感情からコントロールはできないよな。

こんなこと絶対に言いたくないし、あまりにも失礼で考えなしで自己中心的発言になるけど

失礼とか考えなしとか、自分を貶めなくていいと思う。

吐いた言葉自分を縛る。

それでもいっそ余命のある病気だったら幾分良かったのにと思ってしま

それか、出来ることならそういう生き物じゃなくて、人間になりたかったなあ

自分人間に見えないかもしれないけど、俺にはお前が人間に見えるぞ。

まあ常々思うけど、「自尊心」がなくては人間人間らしく生きていけないな。

「僕はここにいていい」とか「帰る場所がある」とか「必要とされている」とかな。

最強なのは根拠もないのに自尊できるパーソナリティだな。

根拠のある自尊心根拠の部分が崩れたら詰むからな。

まあなんか、あるんじゃないか?意外と。世界は狭いようで広いしな。

死ぬことはないけど日常生活に支障をきたす持病を子供の頃から抱えてる

とはいえ死ぬことはないっていうのは余命宣告とかはされないって事で

ちょっとした無理ですぐ倒れて、ある程度成長するまでは何度も入退院をくり返してきた

成長して入院の回数は減ったけど

それは無理をしないようにする術を覚えただけで病気改善したわけでもなく

いまだに少し無理すると倒れてしま

先日、年末年始の無理が祟ったのか随分久々に入院をした

殊更に特別な無理をしたわけではない

医者が季節柄もあるだろうといっていた

ずっと見てくれている主治医家族自分自身

自分のことをどこかで そういう生き物 と認識していて

から仕方ないとどこかにある

そんな体で当然きちんとした仕事にはつけず、生活制限も多い


という言い訳自分にしている自分死ぬほど嫌いだ

同じような状況でも頑張ってる人は五万といて

そういう人は自分みたいに病気言い訳にしやしない

自分を好きになりたい

だけどどうしても好きになれない

こんなこと絶対に言いたくないし、あまりにも失礼で考えなしで自己中心的発言になるけど

それでもいっそ余命のある病気だったら幾分良かったのにと思ってしま

それか、出来ることならそういう生き物じゃなくて、人間になりたかったなあ

2019-01-09

anond:20190109215517

俺はお前の主治医じゃねーよ

自分自分のことすら分からなくなったのか?

あの日の私を少しだけ救えた話

良いことした気になってるから、だらだら長いけど聞いて欲しい。

増田で書いたことあるけど、私乳がんの既往があるから定期的に検診受けてるんだ。

再発しにくいタイプだし、新しく出来ることはあっても手術したがんについてはそんなに不安ではない。

がんのせいで治療が出来ない不具合が出てしんどいけど、乳の病院で出来ることはないから、先生にしんどいよーって話をするだけのために病院行ってる。

先生楽しい人だし、お喋りたくさん聞いてくれるから待ち時間は長いけど大好きなんだ。

時間通り行ってもめっちゃ待つ。

からその日もぼんやりスマホいじりながら待ってたら、少し離れたところで告知されたてほやほやの女性看護師さんから治療説明受けてるのに気付いた。

こんな外待合で話すの?と思わないでもないけど、気になってチラチラ見てたんだ。

旦那さんと一緒に聞いてる、40歳前後くらいの女性

相づちは打つけど、心ここにあらずな感じ。

あれは数年前の私か。そう思ったらすごく苦しくなってきて、励ましたくなってきた。旦那さんも一緒にいるのにそんなお節介にも程があるようなことを思ったんだよ。

告知されたてのころの私、患者とのなれ合いとか反吐が出るぜと思ってたから。

誰にも奥まった部分での苦痛は言わずに終わらせてやるってどこかに思ってた。

抗がん剤を打つためにプチ入院を2回したんだけど、その2回とも親くらいの年齢のおばさんに話しかけられて、すごく癒されたんだ。

共感してもらえることはすごく励みになることに気付いた。

医師看護師にこの薬の副作用は~って質問しても、そういうのはあんまり聞かない、とか、みんなこう言ってる、としか返ってこないの。

本人が病気になって同じ治療してるわけじゃないからわからないことも多いの。仕方ないけど。

患者も、不具合あるけど大変なことから順番に言ってたらついつい言い忘れたりとか、治療のせいと思ってないから言わないでいたりっていうことが多いから伝わらないのよ。

だけど、患者同士だと妙にわかり合えることが多くて、すごく勉強になった。

から、その女性を見てあのおばさまたちに励まされたことを思い出して、何か私にも役に立てるんじゃないかってすごく胸がザワザワしたんだ。

いきなり知らない人間から傷心の時に話しかけられるの鬱陶しいかなってすごく葛藤した。

でも、でも、あれは私なんだ。

そう思ったらいてもたっても居られなくなって、つい近寄って声をかけてしまった。

私も、同じ病気なんです。術後数年経ちます他人事と思えなくて声をかけてしまいました。すみません

向こうも驚いてたけど、お話ししていくと段々顔が明るくなってきてね。

旦那さんも途方に暮れてたような顔してたのが、何だか安心で泣きそうになっちゃってて、うんうん、って何も言わずに頷いてくれてるの。

奥さん、今の気持ちとか、仕事はどうしてたかとか、どんどん質問してきてくれて、私が答える度に噛み締めるように受け止めてくれて、元気が出てきたってお礼言ってくれたんだよ。

お節介かな、鬱陶しいかなって躊躇したけど、思い切って声かけて良かったなあ。

私と同じ主治医にかかるみたいだから、あの先生優しくて良いですよって言っておいた。

その患者さん、先生看護師さんに、私と話して気持ちが楽になったし、前向きに治療する元気が出たって言ってくれたらしい。

私の診察の時に、先生看護師さんからすごく感謝してもらっちゃった。

若い女性の方からって聞いたか絶対〇〇ちゃんや~んって思ったよ、ありがとー、と先生はいものゆるゆるな感じでお礼言ってくれた。

看護師さんには結構真面目な感じで、どうしても医療従事者の説明は伝聞でしかいから上手く届かない、話しかけてくれてありがとうって感謝された。

私今もずっと体調悪いか全然幸せじゃないんだけど、それ聞いてひとときの充足感が得られたよ。

相手好意的に受け取ってくれたから良かっただけって思わないでもないんだけど、彼女苦痛をほんの少しでも和らげることが出来たんだと思うと少し誇らしいの。

ちなみに、一番良いアドバイスできたなって思うのは脱毛について。

周りからまた生えてくるよって慰められるの、鬱陶しいんだ。また生えてくる云々は理解してるけど、フサフサなとこなら一気にいくと、今生えてないことが悲しいし惨めな気持ちになるんだ。

からウィッグを良いものにしてると自尊心が保たれるし、事情知ってる周りからウィッグすごいって褒めてもらえて嬉しいよって言っておいた。

脱毛については何言われても鬱々とするんだけど、上司(頭髪が残り少ない)に「お前生えてくるかも知れないけど俺はもう二度と生えねーんだからな」と、言われたときだけは逆にすみませんっつって元気になっちゃったんだよ。

このエピソードを伝えたら、彼女めっちゃ笑って、元気出たって言ってた。

回復不可能な人ほんとごめん。ダシにしてしまいました。

回復不可能な人も良い医療ウィッグおすすめする。最近のは本当にわからないよ。

こんなとこでしか言えないから自慢させてね。私の自己満足お話

お目汚し失礼しました。

肺塞栓症(エコノミークラス症候群)で入院した

https://anond.hatelabo.jp/20190107214043

上記エントリをみて思うところあり

忘れないように書いておこうと思った。

褒められるような健康的な生活をしているわけでもないし、酒も飲むし、体重結構あるし、

それでも、まさか自分エコノミークラス症候群になるとは思ってもみなかった。

今回の教訓

生活改善運動食事、減酒)

複数医者にかかるのは大事

・気になる症状は時系列で控える

入院までの経緯

2018年12月中旬

体調不良で1日自宅で寝込んだ後、突然左足ふくらはぎパンパンに腫れる。

数十メートル歩くと足が攣ったようになり、歩行に支障が出るようになった。

この時点で整形外科受診、原因わからず1週間様子を見るようにとのこと。

先生曰く「血管なら太ももから腫れるはずだし、、様子を見ましょう」と)

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2018年12月下旬

右足ふくらはぎと左足ふくらはぎの周囲長が7~8㎝も差がある状態で、

左足は引きずるように歩く有様。

再度整形外科受診状態を診た先生が「血管外科受診してみてください」と。

教えていただいた血管外科クリニックに予約の電話を入れ、翌日伺うことに。

次の日の朝、会社遅刻する旨連絡を入れて血管外科受診

先生の診察で「死ぬところでしたね」とお言葉いただき、すぐ血液検査と足のエコー検査を行う。

エコー検査血液検査の結果、左足の深部静脈血栓症判断され

また、血栓が肺に移動してる可能性があるため救急外来搬送するとのこと。

受け入れ先の病院に連絡を取ってもらう間(2時間程)ベッドで安静にするように指示がある。

(動いて左足の血栓が肺に詰まると危険なので)

人生2度目の救急車で、総合病院へ。

救急外来に到着後、採血などを行い、足と胸のCTを撮る。CT造影剤も初めての経験

結果、肺に血栓が詰まっている状態確認でき、肺塞栓症でそのまま入院となる。

入院期間、治療

治療計画書をもらうまでは軽く考えていたが、計画書の入院期間は2週間とのこと。

年末年始病院で過ごすことが確定する。

治療は坑凝固薬で血栓を小さくしていく。

しばらくの間は点滴投与で、再度CTを撮り血栓の縮小が確認出来たら投薬に切り替え。

自覚症状、思い当たる

・昨年10月頃、仕事中に「階段を登る」「ちょっとした荷物を動かす」だけなのに、

 多量の汗・激しい息切れが起きたことがあった。しばらくしたら治ったのであまり気にしなかった

・昨年後半、何もしてないのに左足膝裏が痛くなり整形外科受診。この時も原因はわからず。

 しばらくしたら痛みが治まった

運動日常生活中に左胸にチクチクとした痛みを感じることが稀にあった

今になって、肺塞栓症深部静脈血栓症の症状を読んでいると、上にある症状がすべて当てはまる。

ただ、個々の症状だけだと気にしないでそのまま生活していたかもしれない。

その他

・生きていることに感謝(急性肺塞栓症の死亡率は約3割)

・左足がパンパンに腫れてくれたことに感謝深部静脈血栓症の8割が無症状らしい)

整形外科、血管外科入院先の主治医看護師の皆様に感謝

家族感謝会社感謝

anond:20190107214043

主治医判断は間違ってない。レントゲンに異常なく、腫脹もない。これを全てMRIにまわしていたらキリがない。過剰検査クレームが入る。冷遇問題だが。早い段階で他院で精査を希望すべきだった。そのほうが納得できた。

整形外科は薄利多売だ。ひたすら数をこなすレントゲンがないと話にならない。整形外科に限らず痛みを緩和するなら薬か注射か手術だ。点数稼ぎというなら受診するな。邪魔だ。

CTMRがある病院安心だ。手術を希望するなら実績のある病院へ。手首一つにしても、積極的に手術する病院もあれば保存一択のところもある。手術してほしくても医者に「固定して様子を見ます」と言われたら「いや手術だ」なんて言い出しにくいだろう。

2019-01-07

anond:20190106191043

確か患者の余命と主治医属性調べた研究あるしな 定年越えると死亡率が上がるだかなんだか

2019-01-04

就職試験面接障害の有無について聞かせてくれ

11 Common Interview Questions That Are Actually Illegal

https://www.businessinsider.com/11-illegal-interview-questions-2013-7

この記事には、

・年齢

人種

・国・民族的出自

宗教

性別ジェンダー

・セクシュアルオリエンテーション

・未婚・既婚

妊娠有無や子供の数

・障がい

市民権

この辺の事柄面接時に聞くことがNGになっているとされている。

年齢や人種ジェンダーに関してはわかるんだけど、障がいの有無についてはなんで聞いてはいけないのだろうか。

精神障害を持つ人は入社後にクリティカル問題を起こす率が異常に多いので面接時に出来れば聞いておきたい。

しか精神障害は見た目で判断が難しく、しか障害者雇用の枠でエントリしてこないことが多い。

なので入社してからどうも休みがちだったり仕事ミスが多かったりで、深く問いただしてみると実は精神障害を持っていましたというケースがよくある。

彼ら/彼女らにとっては配慮なく仕事を振られることで辛い思いをするだろうし、会社としてはトラブルを起こされてからでは遅いという事態が発生する。

本当なら面接時に障害者手帳提示と病状について聞き、「過去統合失調症を患っていた。前職では週1くらいで遅刻していた。」くらいの話をしたい。

それだけの情報があれば「じゃあ特別遅刻に関しては査定に影響出ないようにしておきます」とか「ミーティングは昼以降に開催するようにします」とかそういう対応もやりやすい。

主治医から診断書や病状の傾向を書いた書面をもらってきてもらえればもっと良い。もし何かあれば医者に連絡をとったりもできるし。

精神障害者は障害者雇用として採用されにくい。

なぜなら見た目に障がいがあるととわかりにくいことや業務に支障をきたしやすいとおもわれているからだ。

そうなると精神障害を持つ人は一般エントリしてくる。だが一般エントリしてるので病気についてはひた隠しにする。

面接官は病気について聞けないので何も聞くことができず、結局採用後に発覚となる。

そもそもエントリのための書類を書き試験をくぐり抜けて面接まで一人で来ることができているなら障害者手帳等級としては3、もしくは3に近い2程度だろう。

それなら「だいたいの業務は出来るけど出来ないこともある」くらいなことが多いので会社側のサポートでなんとかなることも多いはずだ。

で、その会社側のサポートには障がいの有無に関する会話が絶対必要なんだ。

頼むから就職試験面接障害の有無について聞かせてくれ。

2018-12-27

anond:20181227182442

それな。義父が主治医出産させてやるっていいはられてもめるっていう話もよく聞く。

2018-12-25

anond:20181225220731

そうか。

先に調べて介護保険とか高額医療補助とか

対応しそうなサービスの「申請」にいくしかいかな。

あと母親主治医がいるならそっちにきけば。

もう見放すけどその前にできることは全部してやりたいっていえば

ありったけ全部吐き出して適切なサービスにつないでくれる(知ってればだけど)と思う。

さら痴呆でないとしてもなんかありそうなら、

どっちかが精神科医にかかれば、その先もかなりまともなところにつなぎやすくなる気がする。

不眠程度でいいか不定愁訴をつかまえてつれていって、定期的にそっちにかよわせられればいいかも。

 

相談室」とかやんわりした名前のもの

普通のおばさん。行政サービス全然知らないのかも。

2018-12-23

親と話すとパニック発作が起きますが、実家に帰らされることになりました。

 タイトルが全てです。

 今の私には上手い対処法が思い浮かばないので、

おとなしく従おうと思います

以下はただの感情を宥めるための吐き出しです。

疲れて頭が回らないので推敲などはしていません。

再読すらしていない書きっぱなしなので読みづらいです。

わざわざ読んで時間無駄にすることはありません。

キチガイ勘違い被害妄想がたくさん含まれているので真に受けないでください。

1.経過

 幼少期から両親に苦手意識があり、情緒不安定子供でした。

理由不明です。

強いて言うなら、母は精神疾患持ちでヒステリックであり、

父は素面とき過保護なだけの良い父親でしたが、酒を飲むと意味もなく独り言暴言を吐き、大きな音を立てて扉を閉めるような人でした。

また、私は発達障害者なので、私のコミュニケーション能力などに原因があったのかもしれません。

(※発達障害の診断自体は成人後に受けました。

 (ADHDASD協調性運動障害

 しかし、小学生の頃には担任発達障害を疑われていたので、当時から難有りの子供だったのだと思います

変わったところはある家庭ですが、毒親とか虐待とかまではいかない微妙ラインだと自己認識しています

(※母に、子供日本語が通じなくて怖いから幼少期はネグレクトしていたと近年告白されましたが、単にほったらかして一人で遊ばせていた程度のことだと捉えています

 そもそもそれを私に告白してどうしたいのでしょうか。

 私の世話は父が主にしていたようなうっすらとした記憶はあります

 n年前、就職と同時に上京し、一人暮らしを始めました。

(※家族親戚一同から地元就職を暗に望まれていましたが、運良く東京配属に滑り込めました。)

就職直後は実家から解放された喜びもあり、調子が良かったのですが(躁転なので本当は良くない)、

生来不安性や情緒不安定さ、発達障害などのためか、次第に生活業務に困難を抱えるようになりました。

発達障害者社会適応、正直無理ゲーじゃない?)

一時期、プレッシャーの大きく、長時間労働を伴う業務に付いたこともあり、

それがとどめとなってか、

結果として最終的には重度の鬱状態に陥りました。

 診断は双極性障害の2型です。

現在の症状は典型的鬱状態のため、詳細な説明は省きます

なお、躁鬱の自覚症状自体はは高校生の頃にはあり、

ちょうど入社直後に大きく躁転したことを切欠に、

上手くコントロールできなくなりました。

 復職と失敗を繰り返した結果、

現在会社の方から1年以上の長期の休職命令がおりたところです。

 休職となると私が東京に留まる理由もなく、

しろ経済的に厳しくなるため、

帰省余儀なくされているところです。

(父がそういうふうに展開を誘導したことは否めません)

2.実家の現状

 現在実家の状況は、あまり芳しくありません。

 私が上京する少し前に、母は精神疾患により長期の入院となりました。

なお、この時に初めて私は母が学生時代から精神を患っており、独身時代入院歴もあったことを知りました。

それまではずっと、母に癇癪を起こさせるのは私がキチガイからなのだと信じていました。

母はその後入退院を繰り返し、今は入院中です。

(※母の疾患に関する詳細は省きます

 父は、平時は非常に優秀且つ良き父親でしたが、先述した様に、些か酒癖が悪いです。

般若面のような顔をして暴言を吐く父と二人で食事をするのは、正直少ししんどかったです。

また、無自覚ながらも高圧的なところが有りました。

彼の過保護さは抑圧と表裏一体でした。

部活で帰りが遅くなったからって、酔った父から数分間暴力を受けたこともありましたが、いつ思い出してもちょっとよく意味が分かりません)

そもそも何故か私は部活自体が禁じられていましたが、流れとゴリ押しで入部しました。部活動はとても楽しかったです)

 我が家では、父>母>私という明確なヒエラルキーがありました。

(遅くなりましたが、私は一人っ子です)

ただし、ストレスの発散方向は、

父→母→私で固定されていたので、

直接父からストレスの発散としての不機嫌さを向けられたことは少ないです。

もっとも、父の不機嫌さを受けることにより母のヒステリー悪化したため、

そのヒステリーを受ける私の精神ダメージは結局増大するのですが。

 また、父はもともと精神疾患者を迷惑がり、下に見ているところがありました。

休職中の同僚に対する悪態を聞いたことがあります

(なんで母と結婚したんだ?)

父は入退院を繰り返す母にあからさまにうんざりしており、

私が帰省したとき、父は明らかに母に精神DVを振るっていました。

正直ドン引きしましたが、当時の私にはそれを真剣諌める元気はなく、

少し口出しはしましたが、ほぼ見て見ぬフリをしました。

そもそも、あの人たちと真面目に会話しようとすると、平静を保っていられなくて怖くて、迂闊に行動できませんでした。

 この頃にはもう、彼らの顔を見たり声を聞くだけでつらく、真顔を取り繕うのも厳しかったです)

現在も母の病状は芳しくなく、父の酒癖やDVもそのままだと思います

 余談ですが、入社直後に大きく躁転したのは、

入社直前に起きた母の入院に伴う様々なトラブルに起因する、過去最悪の鬱転の反動です。

あの三ヶ月間の私は、道を歩いているだけで唐突に泣き出すような奇人でした。

(発生していたトラブルの詳細は省きます。思い出したくない)

3.懸念事項

 下記は、私が戻らなければならないことを前提として記します。

もっとも、父がそういうあらすじを書いた以上、ヒエラルキー下位の私は逆らえないのですが。

 まず、精神疾患者を下に見ており、なおかつ精神疾患者にうんざりしている父の元に精神疾患者の私が戻ることで、

父の不機嫌さがさら悪化する恐れがあります

父は私には甘いのですが、それでもいずれ我慢限界は来るでしょう。

 次に、母の入院によって、父のストレスの発散先が私になる可能性があります

正直この数年の母の精神疾患は、母のストレスの発散先である私の不在に加え、父からDVによって悪化しているのではないかと私は考えております

しかし、私が実家に戻ることで、おそらく日常の細やかなストレス解消は私の役割となるでしょう。

一々病院に行くより近いですから

ただでさえ日常生活も厳しいような状態の私が、父のストレス発散対象に選ばれることでどうなるのか、考えたくもありません。

療養は諦めて、修行と思って己を鍛えて克服するしかないでしょう。

再び家を出るにはなんとしてでも私の精神疾患を治さなくてはいけないため、

無理してでも治ってしまったら雨降って地固まるですね。

 3つ目に、母と日常的に接触しなければならないことが挙げられます

私は主に母のストレス解消の役割を担っていたため、父よりも母と接触するほうが情緒不安定になりやすいです。

また、私は自分を母と似たような人間であると考えているため、母を見ていると私を見ているようで非常におぞましい気持ちになり、自己嫌悪で居た堪れなくなります

父と会う場合にはその場はとりあえず我慢して、その後自室やトイレなどに籠もってから涙を流して受け流しますが、

母と会う場合にはそこまでの我慢もできず、その場で発作を起こしてしまうこともありました。

(なんで理由もないのに涙が止まらなくなるんでしょうか。正直、止めたくても止まってくれなくて非常に不便です)

 あとなんか他にも色々あった気がするけど忘れました。

雑多なところで言えば

・今の主治医とかかりつけ薬局を信頼しているため、転院に不安がある

地元気候身体に合わない。

地元友達が(東京より)少ない

そもそも東京のほうが圧倒的に住みやす

などがあります

全体的に、今の私には言う権利もないような我儘ばかりですね。

外出も覚束ない状態ではあまり関係のない話でした。

ここまで書き殴ったら少し気分が晴れました。

問題は何も解決していません。

 先程、父と2時間くらい会話した結果、

5時間くらい泣いたり過呼吸したりを繰り返して収集がつかなかったので、

文章に吐き出せて良かったです。

そもそも書き殴りなので文章の体を成していない)

肉体は疲れ果てました。

 パニック発作がここまで悪化してるとは思わなかったので、今までこの症状に関して主治医相談したことはありません。

流石にこの状態では色々と怖いので、主治医頓服精神安定剤など服用できないか聞いてみたいと思います

主治医には実家に帰ること自体、避けたほうが懸命だと言われましたが……。

お金がないのは仕方がない。

治療する気があるのかって叱られても文句は言えない。

 カウンセリングとかで解決しないかな、と思って提案してみましたが、

カウンセリングできる病状ではない

・傷を掘り起こすことで悪化する

のでやんわりと断られました。詰んでる。

 実は以前に2回、父との通話中に我慢できずに泣いたことがありますが、

父は、私が父を恋しくて泣いてると勘違いしてくれたので丸く納まりました。

私は父が怖いです。

 しばらく前に、母の蔵書の目立つところに

『「子供を殺してください」 という親たち』

が置かれていましたが、これが母によるなにかの意思表示、嫌味でないことを願うばかりです。

 余談ですが、この話の最大の被害者は父です。

本人が身体障害手帳持ち)というハンデを背負っている上に、

妻は精神障害者(手帳持ち)、

娘もどうなるか分からないと言うこの状況は流石に申し訳ないです。

私の将来の夢は、

私が責任を持って両親の介護をして、

解放されたあとはできる限り人に迷惑をかけないように一人で老い死ぬことでしたが、

それも果たせそうにありません。

(ここで書かなくても良い父の身体のことを書くのは、

本人に気づかれない程度のちょっとした嫌がらせです)

 最後に。

上京してから色々なことがありましたが、

基本的地元にいた頃よりもずっと良い事ばかりでした。

初めて生活が少し楽しくなりました。

初めて泣かない日ができました。

挨拶をしてもしなくてもランダム罵倒されることがないのは、とても快適でした。

残業帰りに近所のコンビニで買って歩きながら齧ったカロリーメイトも、美味しかったです。

東京趣味に関するショップイベントコミュニティ豊富だし、

社会に馴染めない変わり者にも寛容なコミュニティが多く、居心地が良かったです。

私の様子を見ておすすめ心療内科をこっそり教えてくれるような友人、地元で巡り合うのは難しかったでしょう。

もしも今地元で、あるいは実家で息苦しい人がいて、万が一この部分だけでも読むことがあったら、

家を出る、都会に出るという選択肢があることに気づいてほしいです。

手遅れになってからでは遅いので、一刻も早く決断してください。

都会、楽しいです。

実家の外は、安心できます

 主旨も何もないメチャクチャ駄文を吐いてしまって申し訳ありません。

以上、乱文失礼いたしました。

(これで文章を締める癖が抜けないちょっと昔のオタク

追記(1223-1910)

はてなに長文を書くのは初めてなので常連ではないです。

誤解を産んでしまったならごめんなさい。

証明する方法がないのですが、黙っておくのも申し訳ないので、一応宣言だけしておきます

強いて言うなら、私はAセクかつ性嫌悪なので、

彼氏旦那がどうこうと言う文章をかけるような想像力はありません。

というか想像すると気持ち悪くて無理。

なお、生活保護の方向も検討しましたが、父をどう言いくるめるか考えて諦めました。

アドバイスいただきありがとうございます

2018-12-16

入院するかもしれない

からよく高熱を出す子供だった。

小学生の頃よく吐いてしまい、親に迎えに来てもらうことなんて当たり前で、点滴を打った回数も覚えきれないほどだった。

中学生の頃に過敏性腸症候群で何時も無自覚にオナラをしてしまい、クラスメイトに遠巻きにされた。ファブリーズをかけられたこともある。

緊張するとお腹が痛くなり、運動神経がない(バレーのレシーブもできないレベルで)から体育が憂鬱で緊張するものになって、結果お腹が痛くなる。見学になったり保健室で休んだり。体育の先生には嫌われていたと思う。

3年生になると受験ストレスで体調を崩してしまった。自律神経がおかしくなった。3学期にはほぼ毎日早退。過呼吸をよく起こし、授業も受けられず先生には心配された。数少ない友達にも焦りから辛辣にあたってしまい、遊びに誘われることもなくなった。

受験は倍率2倍の高校入学でき、さて新生活だと意気込んでいたけれど、膨大な課題につき寝るのは12時、7時からの朝学ための5時起き、満員電車ストレスコンボ5月意識を失ってしまった。救急車で運ばれ、一体何が原因なのかと色々質問されたが結局はなにもわからなかった。親に心療内科に連れて行ってもらったけど、何もわからず。その1年はただ眠って過ごした。次の年になったら復学できるように祈ることしかできなかった。

結果から言うと、復学はできなかった。それどころか体調はもっと悪化した。体がそわそわと落ち着かず、ずっと吐いていたし、海にいけと何度も何度も幻聴が聞こえた。行ったけど何もなかったが。

そして1番最悪だったのは夜中に外に出ることだった。記憶にはないけれど、親によると雨の日の深夜2時に大きな通りの1歩手前でぼうと立っていたらしい。もしかしたら車に轢かれていたのかもしれないと思うと今でもぞっとする。

これはさすがにおかしいと心療内科先生相談、即日保護入院が決まった。一応と頭のレントゲンを撮って、肉体的な病気ではないと診断される。

そこから3ヶ月の精神病棟での入院生活が始まった。

私は隔離病棟に入れられた。

最初はずっとトイレで吐いて、歩き回らないと足が死んでしまいそうで、心臓が嫌に跳ねていた。落ち着きがなく、貰えないとは分かっていたけれど(一日2回4時間あけての薬だから)ナースステーションで何度も薬を強請った。

あとご飯が美味しくない。高齢者が多いから納得ではあるのだが、若い私はもっと洋食を出して欲しかった。しかも量が多くて食べ切れない。残したら食べた方がいいよと言われ、口に詰め込んだがすぐにトイレで吐いてしまった。

夜寝る頃になると相部屋の人がボソボソと呟き出す。お母さんごめんなさい、とか、なんでそんなことせないかんと、とか、あんたらが悪いから私はこうなったんだ、とか恨みつらみを一通り呟いて泣いていた。私は眠れなかった。

そんな生活にようやく慣れたのたとき仲良くなったのは自傷癖のある人(今後Aさんとする)と二重人格の人(今後Bさんとする)。どちらもいい人なんだけどBさんは被害妄想が酷く卑屈だった。

お見舞いに来た私の父(初対面)に突然「生きててごめんなさい」って言ったぐらい卑屈。3人で話している時に「私その話苦手なんでやめてくれませんか」とか言ってくるしAさんと話してたところ入ってきて「私の悪口ですよねすみません」って言って勘弁してくれって思った。「私年下の子を見ると嫌悪を感じるんですよね」私もその時精神的に不安定だったからしんどくて。私も年上の方と話すの苦手です、ぐらいしか言えなかった。とある日、ふいに人格が現れた。どうやら主人格のお兄さんらしい。暇すぎて何往復もしていた短い廊下で呼び止められ「こいつお前の社交性があって素直な性格嫌いだから」って言われてそうなんだ…とちょっとだけ傷ついた。

1ヶ月経たころ、人数の関係で病室移動。アルコール依存症かつ躁鬱病の人、統合失調症の人、夫に自殺きっかけに鬱になってしまった人と相部屋になった。色々身の上話をし合って、色んな人がいるんだなあと思った。

今日は眠れなかった」は挨拶みたいなもので、決して不健康アピールではないのだと知った。

いきなり叫び始めて八つ当たりし始めたおばあさん、食後お腹痛くなったらしくて看護師さんに「ご飯に毒を盛りましたよね」とか言ってる人などもいた。

私はパーキンソンの症状が出て体の震えが止まらなくて常に視線が上を向いて口から泡が出そうになった。夜になっても眠れない時に看護師さんに言ったら「我慢出来るならしてほしい。皆そうだから」って言われた。あいにく土日を挟んでいたので、その2日間はその状態が続いた。出勤してきた主治医に症状が辛いから何とかしてくれと頼んだら「えっ、なんで」との反応。パーキンソンの薬はちゃんと出すように言ってあるとのこと。「あー、薬が切れてるみたいですね…ナースセンターにっと言っときますね」っていう明らかに病院側の過失だった。

特に謝られることもなく薬は出された。飲んだら治ったから、まぁ、よしとしよう。

入院して3ヶ月目、高校はどうするかのはなしに。さすがにこれ以上留年するのは…と思い通信制高校を探し始めた。

退院間近になると外泊や外出で外からの刺激を受けて大丈夫かどうかのテストをした。そこで何も無ければOK。私はポケモン映画を見に行った。

何も無かったから無事に退院することが出来た。

退院してからはなるべく刺激を受けないように、テレビ動画を見ないようにと忠告された。眠たくて眠たくて、昼も夜もひたすらに寝ていた。

すると指で広げないと目が開かないという状況に。眼科に行ったけど、ドライアイの薬しか貰えなかった。

通信制高校は登校が楽そうなところを選んだ。暫くはゆったりとそこに通っていた。しかし今年の2月悪夢をよく見るようになった。人を殺す、人が死ぬ自分が殺される、など。しかもどれもがリアルで起きた時に感覚が残っていた。首が痛かったり、虫が肌を這いずる感覚があったり。

それがきっかけだったのか、私は記憶をなくした。

小学4年生から記憶がなくなっていたのだ。朝起きると難しい漢字が読めない。上手く計算もできない。けれど記憶をなくしたのは3週間程度だった。よかった。

記憶が戻った今も精神年齢は10歳な気がする。その頃から家族に、それこそ子供のように甘えるようになった。

それからはまた家でのんびりしたり登校したりしてゆったりと暮らしていた。開かない目のことが気がかりだったが。

しばらくすると6月になって、また幻聴が聞こえ始めた。今度はひたすらにしねしねしねと耳元で囁かれるような幻聴

鬱が酷くなる。

それからは高い建物を見るとあそこから落ちたら死ぬかな、風呂に入ってるとここで寝たら溺れるのかな、睡眠導入剤をたくさん飲んだら眠るように息絶えるのかなとずっと死ぬパターン妄想していた。

そこで現れたのはヒョウモントカゲモドキ

ペットショップ一目惚れをした。元々爬虫類が大好きな私にとってその子はとても魅力的に感じた。親と相談して買ってもらい、毎日かごを眺めるようになった。すると生活が一変する。ヒョウモンに餌をあげるために、と義務感が湧いていたのか、今まで夜型だった生活から夜8時に寝て朝4時に起きるようになったのだ。毎日3食、十分な睡眠時間の確保など健康的な生活を送ることが出来た。

そうなると気になってくるのはやはり目が開かないこと。神経内科はどうだろうかと主治医に言われ、紹介状を書いてもらい行ってみた。結果は特に異常なし。それを主治医に報告すると、もしかしたら薬が悪いのかもしれない、とのこと。あまり主流じゃない副作用から確信は持てないけれど、これ(薬の名前は忘れた)減らしますねと薬を出された。それから体調が悪くなった。吐いて寝込んで精神的に不安定になって泣き出して。1週間後に予約を入れたのでふらふらとしながらも病院へ。目は開かない、具合は悪い、最悪な状況だった。次の薬で良くならなかったら入院してもらいますね、と薬の量を増やして服用している。

それで今日に至るのだが、目は開くようになった。吐き気もない。ただ睡眠時間が狂ってるだけ。

これは入院しなくていいのだろうか。そう思う午前1時。

2018-12-15

anond:20181215152811

横だけど主治医診断書を作ってもらえば審査の後にもらえるよ。

まあだいたいの場合貰えても三級だから大したメリットは無いし厚生障害年金の三級はまた基準が別で貰えないことがほとんどだけど…

2018-12-09

主治医相談しましょう

https://anond.hatelabo.jp/20181208233617

拝見する限り、要支援認定がおりるのではないかと思われます

親御さんは三十台でない限り、介護保険介護予防対象ですので、介護保険の利用申請をおこなって、地域包括支援センター相談してみましょう。

軽い介助や介護なので一人で大丈夫、と思っていると、予期せぬ何かがあったとき自分も周囲も同時に大混乱に陥ります

また、足腰が悪い、ということでしたら、通所でのリハビリテーションでも十分に役に立つことがあるでしょうし、そうはいっても自己負担ゼロではないからサービスをあまり利用したくない、ということでもケアプランを立てておくことで、状態が変化したとき支援センターの方も早く対応出来ます

利用申請については支援センターか親御さんの主治医にご相談下さい。

包括支援一種の自立を維持することへの支援でもあります社会の様々な側面に依存することは自立なのです。

どういう風になったらどういう方向で暮らすかということを、一人ではなく、親御さんご本人とあなたと包括支援センターとのチームで考えてみて下さい。

これは今から出来ることで、今からやっておいた方がいいことです。

急に介護必要になってしばらくして、介護者の方が急病になり、離脱しなくてはいけなくなる例は多いのです。

そうならないためにもどうぞ相談してみて下さい。

anond:20181209002118

病気がみつかった。治すためにもしかしたら近々入院手術があるかもしれない。

(病名つっこまれたら子宮内膜症・卵巣のう腫疑い)

しかしたら入院あるかもしれないから敢えて伝えた。

あとゆるいから助かってるが有給を主に体調不良(発作のようなもの)の対処に使っていることも知っておいて」

程度であればだいたい嘘でなく有効な伝え方じゃねえの。

当方女だけど。

あとできれば主治医がこの言い方を支持してくれるような人であればより良かったのにとは思う。

医者専門バカからできる人すくないけど。

2018-12-01

神様になりたい

卒後5年未満の、下っ端の医者をやっている。

治療方針を決めたり外来主治医になれるほどの立場ではない。

若手は足で稼ぐしかいから、とにかくベッドサイドには行く。研修医時代からフットワークだけは軽くしてる。その分頭も軽いけど。

看護師さんからコールを嫌だと思う時期はあったが、「看護師さんが困る=患者さんが辛い」だからとにかくすぐに対応することを心がけてる。患者さんのつらいことは全部無くしたい。病気あるだけで辛いんだから、余計な辛さなんか一つもいらんわ。

出棺の時の涙はいから出なくなったかな。入院担当した患者さんと、亡くなった患者さんは全員覚えてるつもりだけど、きっと少しずつ忘れてる。こっちのせいで早く死んでしまった患者さんは何人いたんだろう。

最近、冬だから季節性鬱かもしれんが、もうどの患者さんも診たくなくて困ってしまった。

研修医時代朝一番で会いに行くと「こんな早く来なくていいよ」って言ってくれたおじいちゃんは少し前に原病の悪化で亡くなったらしい。

不定愁訴みたいな症状だった気のいいおばちゃんは癌が見つかって数年単位で入退院を繰り返していて、いまだに会いに行くと喜んでくれる。

ドスケベだっただろう面白いおじちゃんも、数年前と比べて痩せてしまって、ちょっとからモヒが始まった。

慢性疾患の女の子は点滴が漏れやすくて、その子全然悪くないのに「いつもごめんなさい」って謝る。点滴痛くないですって言うけど、絶対痛いじゃん。我慢するの本当に怒るよ。

採血が難しいおばあちゃんは、何回も刺されてるのに「ありがとう」ってなんで感謝なんてするんだ。このヘタクソヤブ医者って怒鳴り散らしてくれ。

子供だって処置ではギャン泣きするけど、他の時にはニコニコ笑って折り紙メダルプレゼントしてくれる。いつも嫌なことばかりする医者なんて心底嫌ってくれよ。私は君を痛い目に遭わせて泣かせてる張本人だよ。

なんかほんと全部嫌だ。治せないくせに偉ぶる医者なんて嫌ってほしい。患者さんが優しければ優しいほど、治せない自分が嫌になる。何もできないんだから感謝しないでくれ。

治してるのは上級医だし、執刀してるのは外科ドクター達だ。患者さんにありがとうって言われるのは嬉しい。だけど、それを喜ぶ自分に気付くと、何もしてないくせに驕るおこがましさを突き付けられて恥ずかしくてたまらない。

承認欲求を満たすために患者さんを使ってるクソ人間なんだよ。患者さんは本当の意味では医者を選べないから、こんなクソに担当されなければもっと幸せだったんじゃないかな。辛いこと少なくできたんじゃないか考えても結論が出ない。

中学時代からずっと死にたくて「発生したくなかった」ってずっと思ってて、今でも万一に備えて飛び降りとか飛び込みできる場所毎日探して準備してる。夜中に飛び降りたくなるから酔った勢いで死なないように自宅は低層階にしてるけど、外出してる時はいつでも死ねる。誰にも迷惑かけずに死ぬ方法を誰か開発してくれないかな。

こんなずっと死にたい私が生きてて、生きたがってるし生きる価値のある患者さんが死ぬの、本当に嫌になる。私が死ねばいいのにな。神様になれたら患者さんの病気魔法みたいに治して、私が初めから存在しなかったことにしてさっさと死ぬのに。

2018-11-27

anond:20181127185909

後で主治医謝罪しに来たそうだよ

麻酔って時間かかるから、一刻も早く胎児を出さなければならないと言う時に麻酔が不十分な状態帝王切開行う事はある

帝王切開じゃない手術でも一刻を争う場合は同じ

2018-11-17

34歳、独身、女、実家暮らし

指定難病2つと、精神障害治療で通院中。

いずれも症状に波があり、調子を崩したときのことを考えると、会社勤めやフルタイム勤務は厳しい。

現在収入は月10万円前後アフィリエイトによるもの。いつまで維持できるかわからない。

助成制度を使っても医療費はかかる。収入を増やすのも難しい。経済的自立がかなわずもどかしい

最近結婚出産子育ての話を見聞きすると、反射的に「死ね」と思ってしまう。小さな子供を連れた同世代の親の姿を見るだけで悲しくなることもある。そんな自分が嫌で、落ち込む。

友人とは疎遠。順調にキャリアを築いている人や子育てママパパと話すのはつらい。

古い価値観に縛られている自分にもうんざりする。

前に付き合っていた人は、同棲結婚提案してくれたけど、病気のことを話したら、連絡が取れなくなった。

身体科の主治医が穏やかで優しい。大学病院で働く研究者講師

泣けてくる。

早くかえりたい。

毎日楽しい

生きるのはすばらしい。

元気が一番。

2018-11-13

復職がたいへん

夫が大病を患って入院した日からまる一年たった。

職場復帰の話が出ていて、ならし勤務のスケジュールを詰めるところまできているのだけれど、それを作る健康管理部署病気の状況を全く分かっていないという事態が判明して全然話が進まない。

因みに主治医にその会社が作ってきたスケジュールを見せたら「え、これ作った人、何考えてるの?!こんなの論外だよ?骨折から復職する人と間違えてない?」と言うほどであるし、それ以前に産業医上司たちに向かって「このスケジュールだと、この人今度発作起こして死ぬよ?病気の内容ちゃんと分かってんの?」と言った伝説スケジューリングとも言える。

いろいろググってみたけど、メンタル面の休職からのならし勤務についてはたくさん出てくるのだけど、なかなか別の疾患は出てこなくて。

伊勢原市策定した市職員の病休規定が良くできていて(どこ目線なのか)、3大疾病についてはそれぞれ病休の規定も異なっていて、いろいろと復帰までのざっくりとした流れが見られるようになっていた。

いやはや、まあ会社からしたら、休職前と全く同じ仕事を同じくこなしてほしいんでしょうけど…。

2018-10-19

適応障害休職になった男のリハビリ日記1

前段の話

大手SIerの半研究開発職/半SEみたいなポジション仕事していた者です。

一応昨年度の新卒で入ってますが、業界は初めてではなく大学時代も細々ベンチャーで開発職したり、フリーSEしてました。

今の会社入社すると同時に結婚して、今は妻と2人暮らしです。

ただ妻はいわゆるボーダーで、パニック障害持ちでうつ病と少々厄介でした。

そんな感じの背景のある人間です。

本題

ある日、酷い頭痛発熱、全身の極端な倦怠感、強い動悸に襲われました。数日経っても改善せず病院に行きましたが病理的な原因は不明です(やや数字には出ていたのですがそもそも数日間食欲もなく水分もろくに取っていなかったので…)。

その後もあれよあれよと言う間に色々な検査を受けて最後精神科で掲題の診断に。

実は精神的な問題には心当たりがありません。会社も決してブラックではなく、もちろん妻のことは大変でしたがそれでもなんとか。強いて言えば妻は働ける状態ではなかったので、お金の面がじわじわ不安になってきた程度です。

それでも、事実として身体に症状が現れ、夜は眠れず、朝起きれば意味もなく(良い歳して)泣いて…。

あと自殺念慮というやつが私には今ひとつ分かっていなかったのですが分かったかもしれません。死にたいと思っているつもりはないのですが、自分電車に飛び込む映像、首を吊る映像ベランダから飛び降り映像…こういったものが繰り返し頭をよぎる(あるいは脳内再生していた)状態でした。

うつ病の妻を持っていたので、この手のことには詳しいつもりでいたのです。しかし、自分のこととなると意外と分からないものなのでしょうか。

自分も今でこそ、そんな風に客観的に書ける余裕がありますがその当日は「休職だけは勘弁だ」とか「死んでもいつも通りの生活する」などと騒いでいたそうで…(笑)

夕方比較調子が良いのと、セパゾンを飲んでるのが効いているのかなぁ…今は落ち着いて書けますね。

ごめんなさい、結論がまだでした。

休職1ヶ月を申し渡されました。

これが本題です。

休職1ヶ月のリアルは、主治医曰く

3割が復帰、3割がさらに延長、3割が今の仕事生活からドロップアウトといった感じらしいです。

私は復帰の3割に入れることを願い、行動しようと思います

適応障害と診断され、1ヶ月の休職になった会社員が本当に1ヶ月で復活するアーカイブとなれば良いかもしれない。あるいは、その難しさに挫折して違う道や、時間をかけた戦いに戦術変更するアーカイブとなっても良いかもしれない。

いずれにせよ、予想外の病に抗う匿名ブロガー不定期な日記をここに残していくことにします。

そして、最後自身方針を是非はともかく残すことにします。

薬物的な方針
行動とかの方針

薬物的方針主治医とも色々相談した上で…眠れないときアルコールで寝てしまうよりは…ということに。

SSRISNRIは相性問題も難しいですし、急性期の抑うつには難しいので一旦は無しで合意しました。

行動の方針はもう実行してますが…これは次の日記で。

具体的には会いたい人で、その上で会ってくれるという人には積極的に会って行くことにしました。あと大学時代研究室に少し、お世話になって勉強も。

今回の日記はそういった前置きの話で置いておきましょうか。

から本当の本当に日記になると思います

ちなみに次の日記には、大学時代お世話になった全然畑違いの先生に会いに行く話だと思います

今回のはここまで。

2018-10-18

毒親だと思っていた

これから書くことは、たとえ増田だって書く気はなかった。なぜなら、今毒親に苦しむ人を殴る文章からだ。

だけど、ビ・ハイアの件を知って考えが変わった。

毒親だと思っていた、この一言に尽きる話をこれから書きたい。

私の母は子供を殴る母だった。本人は躾だと言っていたが、例えば弟がした悪さなども姉である私が監督していなかったのが悪いという理由で殴られた。

から子供の頃の私は母が背後を通るだけで殴られるかもしれないと思って肩をすくめる生活をしていた。私の背丈が母に追いつく頃になると殴られなくなり、以前殴られたことを訴えると母の記憶からそれは消えていた。

私は殴らない父が大好きだったが、殴る母を止めなかった時点で同罪なのだと気付いた時、父もまた嫌いになった。

私は両親の悪口を口はばからない10代に育った。両親は私の口から周りの人へ伝えられる悪口に何度苦虫を噛み潰したことだろう。だが、私は両親が大嫌いだったのだ。悪口を言うことを何も悪いことだとは思っていなかった。

また、両親、特に母とは何度も怒鳴り合いの喧嘩をした。特に私の進学についての喧嘩は深刻だった。両親は女の私に勉強をして欲しくはなく、高校進学でも大学進学でもぶつかった。その度に私は両親を納得させるだけの材料を(嘘でも)用意した。高校進学の時は、大学には行かないから好きな高校に行かせてくれ、と。大学進学の時は、入学金だけ用意しえてもらえれば後の学費生活費は自分でなんとかする、と。

そして私は大学進学を機に家を出た。

自分も怒鳴らず、母の怒鳴り声を聞くこともない生活は初めてで、アルバイトと授業で忙しかったが、非常に穏やかな生活だった。最初の頃は。

スーザン・フォワードの「毒になる親」という本に出会ったのは多分この頃だったと思う。涙を流しながら読んだ。非常に得心のいくことばかり書かれていたと思うが、その内容は今となっては正直あまり思い出せない。

私の穏やかな大学生活はあまり長くは続かなかった。精神調子を崩し、授業に出るのが困難になった。生活がかかっているのでアルバイトだけはなんとか続けていたが、それすら休みがちになってしまった。

精神科にかかり、主治医はこの現状を両親に連絡するべきだと主張した。

私はそれを拒んだ。両親に、やっぱりお前には無理だったと言われるのが嫌だった。しかし、現状は困窮していき両親に病気のことを明かすことにした。

連絡は父にしたが、私は冷たい一言覚悟していた。だが、父はゆっくり直していけばよい、と予想外の返事をしてくれた。

そして私は投薬治療を受けながら、両親から金銭的援助も受けて6年かけて大学卒業した。

だが、大学をなんとか卒業できても就職はできなかった。私はその頃一人で生きて行く気力もすっかり失っており、卒業後は実家に戻り両親の元に身を寄せることにした。

あんなに嫌いで飛び出した家にまた戻ることがとても皮肉に感じられた。

そう、私はここまで両親に支えられててもまだ両親のことを受け入れることができていなかった。

しろ両親のせいで精神病になり自分の送りたかった人生から程遠い人生になってしまったと嘆いていた。

それから7年ほど、引きこもり、良くなったと思って働いては調子をまた崩して引きこもることを繰り返し、最終的に自殺未遂までして入院もした。

その長い間、両親とは時々ぶつかりつつも私は親に甘えて実家暮らした。何度仕事で失敗しても、帰る家があった。でも、親に対する感謝気持ち暮らしていたのではなく、この家にいるから私は治らないと思って暮らしていた。

そんなある日ネット何だか奇跡を起こしてくれて、私のここまでのどうしようもない身の上を承知の上で結婚してくれる相手を見つけることができた。そして私はまた家を出た。

それから一気にとは行かないが、パートナーの支えもあり上り調子回復し、今では幸せ生活を送っている。

そんな環境になって思うことは、私の両親は私が思い込んでいたほどの毒親ではなかったということだ。自分が辛かった時はあまり気づいていなかったが、肝心なところでちゃんと支えてくれていたのは両親だった。私が結婚して家を出ると言った時も心配こそしたもの最後には快く送り出してくれた。

正直な話、これをもって私の両親はちゃんとした親だったとまとめるつもりはない。子供を殴り、事あるごとに自尊心を削ってくる親であったことは事実だった。

しかし、私の人生の全てを邪魔するほどの親ではなかったこともまた事実だ。

少なくとも、私は私の両親をもう毒親だとは呼べない。

この感情を何と呼べばいいのかわからない。許しでもなく納得でもなく受容でもなく、でもその間にある何かだ。あえて名付けるなら、解毒かも知れない。

私の辛さは無かったことにはならない。でも、それを恨む心は消えた。

もちろん最初から何も辛いことがなかった方がずっといい。けれども、私は両親を毒親なのだと思うことによって余計な寄り道をしたような気がしてならない。

2018-10-15

anond:20181014032639

全部読みました。

妻は40歳ころ、血性乳汁分泌があって、乳腺外科受診し、エコーで異常なしと言われました。

半年後やはり血性乳汁分泌があって、もう一度受診したところ、乳がんで、ステージIIICでした。

ステージIIICは根治が望めない状態で、端的に言うと、再発しません。要するに、局所増大するか、異所性転移するかどちらかの予後になります

私には勿体のない良い妻で、病前と変わらず、明るく、過ごしています

まだ小学生の子供おり、私が支えなければなりませんが、私のほうが、時々不安に襲われます

しかに、ピンクリボン活動など予後の良い人たちを見ていると、妻の不運を嘆かずにはいられません。どのような健診も、100%の予防ではなく、防げる病とそうでない状態があります

防げるものはすべて防ぎたいというのがこのような活動ですから活動としては正しいのですが。

妻が乳がんになったと、親しい人にうっかりいってしまうと、「乳がん予後が良いからね」などと言われてしまい、ますます傷つくため、だれにも相談することはできないです。

相談してもどうしようもないけれど。

本当にだれかに相談したいのは、つまかもしれないけれど。

まとまらずすいません。

蛇足です。乳がん時間がたってからの再発が多いので、ステージが低くても、5年でなく10年は治療継続したほうが良いと思います。おそらく主治医からはすでに言われていると思いますが。

元増田様、どうかおからだをお大事に。

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