はてなキーワード: 読み手とは
https://note.com/hima_kuuhaku/n/nded04cdc1dbf
単にデマだっていっただけで訴えられたならちょっと気の毒かと思ったけど同情する気がなくなるような内容だった。
5pとかの引用を見る限り暇空の言う事を論理的に否定しようと努力するのではなく「暇空の言ってることはデマなのです。動機を考えれば彼らの言ってることはデマなので、彼が主張する論点そのものは存在しないのです」という感じ。レッテルを貼れば相手の言う事を無効化できるみたいな信念が出てて笑ってしまった。 新橋九段は陰陽師で暇空は妖怪みたいなイメージで戦っていたのだろうか。これ現代日本の裁判なんですけどね。
しかも、p8で「Colaboが暇空の言ってることをデマといってたんだから、自分がいくら暇空の言ってることをデマ扱いすることの影響なんてない。だから問題ないはずだ」ってちゃっかり責任をColaboにかぶせようとしてて、Colaboとしても「なんだあ、テメエ・・・」って気持ちになりそう。本人の認識の中では犬笛が吹かれた後に自分が何を言っても、全責任は犬笛ふいた人にあるって認識で無敵の人になってるのかなぁ。なるほどその認識なら自分は強気になるわけだわ・・・って納得するんだけど、どうなんだろ。
8ページの論理も無茶苦茶で面白い。「自分は暇空をデマ扱いしたのは、暇空の指摘が事実ではなかったからだ。たとえデマと信じるに足る理由があっても事実ではないからデマだ!」と言っておきながら9ページ目で自分は「自分が暇空をデマ扱いしたのが仮に真実でなかったとしても、Colaboが記者会見で暇空のことをデマって言ってたもん。自分が暇空の言ってることがデマだって信じるに足る正当性があるもん!だから僕は悪くない!」って言ってる。そんなもん通じるわけ無いだろw
10ページ目の新橋九段のアカウント自体の社会的評価が法的保護の対称となるっていう主張もさ、それ成立するなら暇空のアカウントなんてもっと価値が高いんだから自分のダメージが増えるだけって考えられないのかな。むしろここは否定されてよかったんじゃないの?こっちが認められてたら民事訴訟で新橋九段さんが支払う額がむしろ跳ね上がっててたでしょ。
1:平穏権侵害は却下。この部分は暇空さん負け。こっちは暇そらさんが難癖つけてるやろと思ってたから残念でもなく当然でしょ。
2:名誉毀損の件。 新橋九段の意見は却下。 名誉毀損の事実ありと認定。
・暇空の行為について、暇空が真実に足ると判断する理由はあったということで新橋九段の意見は却下。
・一方18ページからの新橋九段さんの評価については、「新橋九段が暇空をデマ扱いするに足ると判断する理由はなかった」とされている。19ページのcに「被告の主張はいずれも採用することは出来ない」と明記されている。
4:よって、暇空の行為は違法性が阻却され、新橋九段の行為だけ違法性が阻却されず、新橋九段だけが不法行為を行ったという決着に。
つまり、新橋九段が馬鹿にしていた暇空は、ちゃんとルールを守って真実追求を行ったのに対して新橋九段は「決めつけ」で人をデマ呼ばわりしたということになった。 遵法精神がないのは新橋九段さんの方だったかー。
5:新橋九段のアカウントは法的保護に値するかについてはバッサリ否定された。
22ページ
インターネット上のアカウント自体の社会的評価が法的保護の対象になるということはできないし
その他 新橋 九段のアカウントのフォロワー数 や YouTube 上の 新橋九段という名称のアカウントのチャンネル登録者数に照らしても被告の主張は採用することができない。
従って本件 投稿 3 および 本件 投稿 4 にかかる同定可能性があるとは認められず
新橋 九段のアカウント自体の社会的評価が法的保護の対象となることも認められないから 争点 7から11については 判断するまでもなく 被告の反訴請求は理由がない
以上
普段自分が言ってることを批判されると全部読み手の読解力のせいにしてた新橋九段さんが明らかに学歴も能力も上の裁判官から自分の独善的な論理をバッサリ斬り捨てられてるところは涙なしでは見られなかった。あらためて、新橋九段さんのいう論理など裁判ではまったく認められないということが示されたのじゃないかしら。
https://anond.hatelabo.jp/20240506061423
短歌の結社に入っていて、歌会にもよく参加していたことがあるが、元増田のような話は何度も聞いたことがある。もはや歌人あるあるネタだし、私も深く共感する。ただ、字数という点に増田はこだわっているようだが、この話題はそのようなレベルの話ではない。
多くの人は短歌と俳句が同じ短詩型文学であるから、短歌も詠めれば俳句だって作れるだろうと思いがちだが、それは大いなる誤解だ。むしろ短歌を詠めば詠むほど、俳句から遠ざかることになる。
なぜなら、両者は表現のアプローチが正反対だからだ。短歌は風景と言葉を使って<私>の情念を表す文学であるのに対し、俳句は<私>と言葉を使って風景を表す文学なのである。
短歌を詠むということは、言葉に情念を圧縮するということだ。穂村弘は短歌を爆弾に喩えたが、自分の情念を読み手の心奥深くに埋め込もうとするために、言葉の選定や配列に独自性をもたせていく。風景すらも歌人にとっては情念の道具に過ぎない。日本語に己の爪痕を残してやろう。世界は我が情念を表すために存在するとでも言わんばかりの自意識過剰さでもって詠むのが短歌というものだ。己の全情念を31字にすべて押し込めようとするエゴイズムこそ短歌というものの醍醐味である。誤解を恐れずに言えば優れた歌人とは己の日常を糧にした自意識の純粋培養物なのである。
それに対して俳句を作るということは、言葉で風景をカットする行為だ。17字というフレームの中に厳選した風景の要素を置いていく。私は風景から要素を抽出するための機械でしかない。俳句にとって情念はノイズでしかないのである。
このような対比で見ると、短歌を詠む人が17字は気持ちを込めるのに少なすぎる、となぜ思いがちなのかが分かるだろう。字数云々ではなく、根本的にその容器は、あなたの情念をしまうところではないのです。高級フランス料理の小さなお皿にニンニクましましラーメンを入れようとする無理な行為なんですよ。俳句を作るなら、あなたが後生大事に抱えているその情念は捨てましょう。わかりましたか?
そうは言っても短歌人はやめられない。短歌を苦しみ抜いて詠んだきたのだから、この情念は捨てられない。世界中から笑われようとも俺はこの17文字に俺の心情を詰め込んでみせる。31文字でできて17文字でできないことはないっ。ここに俺の私の僕のアイデンティティがかかっている。
という具合に短歌は人に冷静さを失わせ、言葉を発するときに自意識を手放すことができなくさせる。そしてどんどん俳句の精神から遠ざかっていくのである。だから短歌を詠めば詠むほど、俳句は作れなくなる。
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一茶の句は反例にならない。
https://anond.hatelabo.jp/20240506233546
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https://anond.hatelabo.jp/20240508195326
俳句に情念は込められないという主張について、上の増田より鮮やかな反例を挙げていただいた。俳句への理解を深める契機をいただけたことに感謝する。
ここで俳句の解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアルで相談した方がいいよ。
…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト(文脈)に依存する芸術だからだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力をもつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会(特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。
それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和の俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。
「ここで昼餉(ここでひるげ)」
初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わずか17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこちの公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。
ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)
「真赤な夏の/花佇つゆゑ」
最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初ののんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。
もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。
一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くその花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ、向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任に適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的に楽天的で天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。
二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかったからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから、人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈・深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩、創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反の用字である。
結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。
そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的な俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的に俳句はもっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語+感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用に物語調で独特だ。一般的な俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか。
まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。
いわゆるきょうだい児の私からしたら、植松がやったことは「法的・倫理的には許されなくても心情的・実利的には悪くない」と思う。事件当初から思ってて、今も思ってる。
前提として、きょうだい児全員がこんな優生思想を内面化したやべーやつだとは思わないでほしい。同時に、きょうだい児全員が「私は障がいのあるきょうだいが大好きで誇りに思います」とか宣えるわけじゃないことだけは叫ばせてほしい。
事件のことを知った時、私は率直に「植松が姉のいる施設を襲ってくれてたらよかったのに」と思ったのを、今も覚えている。植松が姉を殺してくれていたら、私は「被害者遺族」という圧倒的「正義」の旗印をもらった上で、姉という重荷から解放されたのに、と。
姉が障害者でいいことなんか一つもなかった。マジのガチで一つもなかった。私はきょうだい児界隈の中ではとっても恵まれた立場(姉とは違う学校、姉のことでいじめられた経験無し、親から姉の介護を頼まれた経験無し、姉のことを知った上で結婚してくれた人がいる等々)だから、どの層からも「お前ふざけんな」って言われそうだし、私の生きづらさの8割は私自身の特性のせいだからアレなんだけど、やっぱり姉には早く死んでほしい気持ちがある。ずっとある。
きょうだいの話を振られるたびに嘘をついたりごまかしたりするのは疲れる(この感覚は例えばセクシャルマイノリティの人がパートナーの有無や『好きな異性のタイプ』を聞かれた時の気疲れに似てると思う)。姉がいるのに「普通のお姉ちゃん」がいたらできることは何もできない、のに私よりずっと何もできないIQ25未満のきょうだいを「お姉ちゃん」と呼ばなければいけない。家族で出かけるたびに周りの目が気になって、歩くだけで恥ずかしかった。その一方で、姉を施設に預けたまま姉抜きで旅行や外食に行くことに罪悪感もあった(けど姉がいたら絶っっっっ対にできないことがいっぱいできて楽しかった!)。あと、私は知的には問題なかったけど発達障害の傾向があったから下手したら姉以上に面倒な子どもで、両親は姉より私によっぽどお金も時間も手間もかけてくれた。それは本当に本当にありがたいんだけど、私は20歳そこそこで施設に入れられて無為な生活を送らされてる姉の人生って何なんだろうなってよく思う。
施設での姉の様子はよく知らないけど、片道1時間かけて送迎してる父いわく「家に帰る時はテンション爆上げで施設に戻る時は顔が死んでる」らしい。でも私は姉が家にいるとテンション爆下げだったし両親も大変そうだった。そのうち送迎も家での介護もできなくなるから姉は近い将来一生施設で暮らすようになる。それは気の毒だけど、私は姉を引き取れと言われたら絶対に拒否する。むりだもん。結婚で逃げれて本当に良かったと思ってる。
中学生になるかならないかのころに、ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』の存在を知って、読んで、チャーリイ(が受けた手術)がむちゃくちゃうらやましかった。もしそんなことが叶うのなら、姉に「頭が良くなる手術」を受けさせて、ほんの一時でもいいから「普通のお姉ちゃん」と姉妹でいたかった。正直、この願いは今も捨てきれていない。
あと、これは私の勝手な想像なんだけど、姉の一番の被害者は母だ。母は仕事が大好きで自分の仕事に誇りを持ってたけど、姉が障害児だったせいで育休後も職場復帰できずに専業主婦になって、それっきりずっと家にいた。姉が健常児だったら母は何らかの形で仕事を続けられていたのは間違いない。この点に関しては本当に母が可哀想だと思っている。そんなこと言ったらマジギレされるから言わないけど。
とにかく、私にとって姉は(一般的なきょうだい児に比べれば笑えるほど軽いけど)重荷でしかなくて、可能なら両親が元気なうちに死んでおいてほしいと思っている。私は姉が死んだら普通に泣くだろうし普通に悲しむだろうし自分がおぞましいことを考えていたと後悔するだろうけど、でも心のどこかでホッとするだろうなと確信している。だから、もし植松が姉を殺していたら、私は「被害者遺族」として世間から気の毒がられながら、ちゃっかり重荷から解放されて(部分的には)ラッキーとさえ思ったかもしれない。
私がここまでクズいことを書いても、読み手の何%かは共感すると思う。植松が言ってた「役立たずは死ぬべき」という価値観は、私を始めとした現代日本人の結構な割合に浸透してて、というか多分人間の本質として「人権」とかいう後付理論で矯正しない限り、障害者は殺したり座敷牢に入れたりするし、高齢者は姥捨するし、子供は使い捨ての労働力にするし、役立たずはバンバン殺すと思う。そして「じゃあ貴方は自分が『役立たず』になった時に死を受け容れるんですか?」と聞かれた時、少なくとも安全圏にいる時点では「もちろん死にます」って言い切っちゃう人間は少なくないと思う。まあこれは私が反出生主義入ってる生粋のネガティブクソメンヘラだからそう思い込んでるだけかもしれない。もしくは著しい想像力の欠如かな?
そう、頭足りなくてボキャがなくても、読み手の心を打てば、文才がある、って評価されることもあると思うんだよな
りりちゃんの文章読んでると、自分はちょっと頭痛くなってくる感じなんだけど、読み手によっては心を打つなにかがあるのかもしれない
経験から言うと、りりちゃんの公開されてる文章は、彼女なりに計算されて書かれた文章だな、という感がある
強かというか、ぶりっ子というか、悲劇のヒロインっぽさをくどくならないように、薄っすら混ぜるとか、
そうか、たしかに同情を誘うような文章が上手いのかな、と評価せざるを得ない
ただ、この手の女性?というか、人が本性をあらわすのは、本気で怒らせたときだと思うんだよなあ
りりちゃんの本音、本心を暴きたければ、何らの方法で彼女を本気で激怒させるといいと思う
そのときに発せられた言葉とか、単語とか、ボキャとか、そこまでしないとこういう輩からは本音が引き出せない気がする
そういうところが、サイコパスっぽいのかもしれない
大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
だからラノベという枠組みを供給側がターゲティングに用いるのはちょっとよくわからない。
そんなことしても、同じものを見ても「何がラノベか(青少年向けか)」に照らした判断は全然一致しないおそれも高いから、ラノベという分類を小売で用いたところで、求めてるものが探しやすくなるようなインデックスとしての機能はあまり高くなりえないと思われる。
言いたいことがいくつかまとまりとしてあるので箇条書きの形式でまとめる。
・たとえば乙女ゲーにどっぷりだったりZEROSUM読んだりしてるような分かりやすいオタクが週刊女性とかワイドショーとか見てると思うだろうか?
むしろ彼女らは世間に疎いと言われるぐらいにはそういう井戸端会議のネタになるような、市井の地に足のついた、言い換えれば「夢が微塵もない現実的な情報」は積極的に拒絶してる感じするが。ピーターパン症候群も持ってそうだし。
(むしろそういう二次元系のオタクってピーターパン症候群的な童心が残ってることがそれになってしまう必要条件で、レディコミの生々しい内容を好める成熟した大人とは対極の存在に思える)
・琥珀の夢で酔いましょうが電子書籍サイトでレディコミに分類されているのがなんだうと思った。
「メシヌマ」よりはよほど男でも楽しめる余地ある青年マンガっぽい中身に感じるのだが、なにをもってレディコミなのか
(rentaやbookliveではレディースコミックや女性漫画に括られていて、シーモアやめちゃコミでは少女漫画に括られているので、全会一致というわけでもないが)
・フィーヤンはレディコミといわないという主張があって気になったんだが文句なしのレディコミってどんな作品だろうね。グランマの憂鬱とか認知症になった魔法使いみたいな、おばあさんが主人公の作品はほぼレディコミで確定かね。傘寿まりこは少女漫画と出版社側が言ってるが。
・レディコミには「男が容姿に対して可愛いと思うようなキャラが出てこない」というのが最低条件としてあるんだろうか?
たとえば乙女ゲーで例はひと昔古くて申し訳ないが薄桜鬼やうたのプリンスさまにはヒロインが可愛いという理由で男がヒロインだけ目当てでそういう乙女ゲープレイしてる事例はあった。
しかしレディコミだとキャラが可愛くて男のファンがつく、みたいな魅力がキャラにある作品は(ほぼ)皆無じゃなかろうか。
性的嗜好を刺激するような不細工さというのでもなく、ほんとうにただだぱっとしない売れ残りの女おばさんという感じ。
それはレディコミの定義に関する必要条件みたいなものだからだろうか?またこれにはは意図的に男性をファンから排除しようとする目的もあるのだろうか?
(ほぼ、と書いたのは「アラサー独女シマちゃんのベランダレシピ」)はレディコミならが可愛いヒロインだったから」
・レディコミには今流行りの画風からは外れたひと昔以上前の画風の作品が多い気がする(流行りの絵柄と一致しないのは、逆に画風が流行りにはいままでなかった未来に進んでいるからという場合も想定されるが、そういうわけではなさそう)
とするなら、レディコミを読むのは懐漫を読む感覚を、味わいたい、あるいは懐漫の雰囲気で新作の物語を読みたいからという人も多いのだろうか。
・レディコミや、コアブックスの風刺漫画などが「漫画」という主語で言及される資格を持っている違和感。
たとえばカズオイシグロのようなノーベル賞作家の小説を読む人と、フランス書院のエロラノベ(だけを活字主体の媒体としては)読む人がいたとして、
前者は当然「小説を読むのが好き」というだろうが、後者の人が「小説が好き」とは言わないと思う。
形式的な分類では純文学もエロラノベも確かに「小説」なのだが、あまりにも書き手読み手双方が持つ文化の間では隔たりがある。
そして前者やSFでもミステリーでも大部分はそれを読んでいることに対して、「小説が好き」ということには違和感は感じられないが、エロラノベをもっぱら読んでる人が「小説を好き」といっては、単に媒体だけ共通項の文化圏が他の小説好きの文化圏を侵してるかのような感じになる。
だからこの場合は「小説好き」というのは別に他の「小説らしい小説が好きなわけではない」ことからも自己認識に遭わないから、「エロラノベが好き」というより狭い括りでの言及の仕方になるんじゃないかと思う。
同じことはレディコミ等と他の漫画のあいだの関係にも言えそうで、レディコミはジャンプに比べれば「漫画らしい漫画」というところからかなり遠いところにあるものだと思う。
夢を見せる漫画や不条理をみせるにしてもドラマティックな展開があるのが漫画の多数派ななかで、レディコミは読者投稿に基づいたりするから淡々と現実を描写するだけになる。夢も希望もない。
作者がpixivもやっていてその作品が熱心なファンの萌え語りの対象になるような漫画と、作者がインスタやっててネット記事のおまけコーナーで中年主婦のリアルを描いてるような漫画では、それを取り巻く文化圏は全く相反して交差することもないと思う。
前者は漫画の代表(求心力の中心)たりえるが、後者は漫画のコマ割りや吹き出しや感情の記号化という形式だけを倣っただけの内容面では全然別物を描いてるのにその分類に対して間借りしているだけに見える。
まさに、学習漫画や進研ゼミの販促漫画を読むのが好きだった人が「漫画好き」にあてはまるのかなあ?と同じような感じ。それに対する態度も文化も典型的な漫画好きとは全然異なっていると思う。
あるいは「絵」とは形式を抽象すれば「色の違いによって平面に表現する」ことで、この点で油絵の風景画かラノベイラストレーターも絵描きで、作られたものは絵なのだけども
そこで「絵が見るのが好き」というとき、前者と後者を両方同時に内包し得るのかなあと。両者はその供給も需要もひっくるめて生い立ちの時点で全く異なる文化圏にいるもの同士だろう(もちろん美大出の漫画家レーターもいるっちゃいて前者の文化にもなじんでる人もいるだろうがむしろ例外的)。
そういう意味で、レディコミを読んでる人に向けての「漫画好き」と、少女漫画を読む人に向けての「漫画好き」(あえてレディコミを漫画という総称的用語で言及してよいのならだが)は、言葉が同じというだけで実質別物の意味合いと捉えた方が自然じゃなかろうかと。
・大人にとっては「向け」などないようなものなのに、漫画に対して出版社がいちいち手間かけて性別の年齢で分類するのはなぜか考えたが、まさに子供のためなのだろうと思った。
つまり「少女漫画」は子供の女から読めるが、男の子にはわない。「ヤングレディース」は高校生とか大学生じゃないと楽しめない確率が割とあるし、これまた男の子やその高校生大学生は楽しめない。
そして「レディコミ」は大人になってからじゃないと楽しめないが、逆に大人からみれば少年漫画も青年マンガもルポ漫画も楽しめるという具合。
だからこそ大人の視点でみるとこういう分類ってなんの意味があるんだろうと思えてしまうことがあるが、視点を切り替えればいいのだった。
「子供にとって自分に合うものを探すには便利な目安」なのだと思った。ラノベという分類の定義はほんとうにあってないようなものだが。
プリンセスコネクト6周年のアプデから2ヵ月が過ぎたが、あまりにも稚拙なアップデートでやめてしまった。
大きなアップデート内容としては
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➀はユーザーにとってデメリットなしのアップデート、なお通常装備だけなので特殊な装備は自力で集めないといけないし
ちなみに1から始めるとエンドコンテンツに追いつくまで1年以上はかかりそうなので覚悟の上に覚悟を持って遊んだ方が良い
ⅰ能力アップのため半強制的に\250/日の追加ジュエル徴収、能力アップをサボるとPvEコンテンツでキャラが使い物にならなくなる可能性がある
ⅱ新規追加キャラを引いた際にゲームの全キャラに適用されるボーナスがある
250円の課金wwwwwwwwwwキャラ未所持でゴチャゴチャ言いやがってwwwwwwwと思った読み手の皆さんも沢山いる事でしょう。
6年経った課金圧が低いゲームに蔓延るちいかわ達に急に強制徴収令を言い渡した気分はどうだい?
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プリコネの能力アップに関しては他ゲームと比べてもかなりデリケートな性質を持つものであり
〇〇の能力がX%足りないせいで敵の攻撃を受けた際にHPが足りなくパーティーが崩壊する、みたいな事象が頻発するので
今回のアップデートに関しては顔がプリコネと言われ数年間楽しく遊んでいた私としても超絶大改悪だと思っている。
➁の内容ⅰ,ⅱについては所謂他所でもある「お布施」のようなものでしょう
但しⅱの新規追加キャラに至っては例え能力がクソ雑魚ナメクジと分かり切っていてもキャラを引かないと現環境に対応出来ずコースアウトする可能性があります。
このゲーム、新キャラが露骨に弱い性能デザインしている事が多々あったのでそこで課金を控えられないのも改悪ポイント。
能力アップの差も所持キャラの差もプレイヤー間で顕著に出始めているため
これからは攻略動画やサイトに書いてある内容を完コピ出来るかお祈りゲーミングが始まっている。
今までのプリコネであれば装備・キャラ限凸システムの概念がほぼ皆無に近く、
月次のエンドコンテンツで1~10位辺りのクランにいる人間ですら微課金・無課金のユーザーも相当数存在していた。
1位にいるユーザーも100位にいるユーザーもキャラの能力値についてはまともにゲームをプレーしていれば変わらなかったので
前述にも書いたようにステータス面についてはかなりデリケートなゲームなので
上位の動きを後々再現して楽しめる人間も減っていく事でしょう。
能力アップについては1年先くらいまでをデザインした内容になっていそうなので
1年後まともなユーザーがどれだけ生き残っているか今からとても楽しみです。
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もう辞めたゲームの事だしとやかく言いたくは無いんだけど
課金の収益予想表だけ見てKMRか偉い奴が「とりあえず利益出そうだしこれでヨシ!」って適当にGoサイン出してしまったと切に願っている。
舌打ちって作為的すぎて滑稽に見えるのになんでその行為をする人がいるか分からなかったんだけど、バイトでクソ客を対応して分かった。
1秒にも満たない速度で怒りを表すのに非常に便利なんだ。去り際にすれば反撃を喰らうこともないし。
その客に対して実際はペコペコしてたけど、頭の中で言い負かす妄想してたら舌打ちの有用性に気づいた。なるほどね。
ーーーーーーーーーーー追加ーーーーーーーーーーー
クソ客は舌打ちをしてないです。
自分(店員)がそのクソ客に何か言ってやる妄想をしてる最中に舌打ちをすれば良かったと気づいて、その流れで舌打ちの有用性も理解したという話です。
b:id:dmekaricomposite という、自分が割と良識的だと思っていたアカウントの人に身に覚えのない嫌疑をかけられ、傷ついた人を更に傷つけるろくでもない人間だと詰られてしまったので、ここで反論しときますよ。
この人が色々言うてきたのは、石黒正数氏が過去のtwitterでの「いいね」傾向からデマも交えて暇アノンなクリエイターと認定され、そのレッテルが拡散されたことについて、事実無根だと反論している[ https://www.youtube.com/watch?v=UN-w82vPiv4:title]という動画のある部分についての、自分のコメント。当該箇所は、石黒氏の動画のここ。
発端のこの晒しは問題ないと思うんですけど、こちらの方、僕の作品は読んだことがないのに「いいね」が答え合わせだとおっしゃっている。それって答は自分の頭の中にしかないじゃないですか。なのでこれに関して、せっかく自分のチャンネルなんで、答え合わせの材料を出させていただきます。
ここを呼んで自分が感じたのは、おそらく石黒氏は、「答え合わせ」というのは「自分の作品と、自分のtweetでの「いいね」傾向の照応関係」のことだ(あるいは、そうであるべきだ)と思っていて、だから自分の作品を読んでいない人が「答え合わせ」をするのは「答は自分の頭の中にしかないじゃないですか」と言っているのであろう、と。でも石黒氏が取り上げている元tweet(石黒氏動画で隠されている部分は伏せ字とします)では
石黒正数氏のいいね欄、■■■■デマ以外にも色々とお考えの透けて見えるツイートがワラワラと。▲▲▲▲や●●●●も複数あり、答え合わせ感がすごい。作品を読む前に知ることができて良かった。
とあって、おそらくこの人は、自分が先に知った「①■■■■についての「いいね」群と、後から知った②▲▲▲▲や●●●●についての「いいね」群の照応関係」のことを「答え合わせ」と言っているのであろう、と。
こういう「答え合わせ」の用法ってSNSのジャーゴンぽいところがあり、もしかしたら石黒氏がそういうジャーゴンに馴染みがないから「答え合わせ」という言葉をめぐって認識のズレが起きてるんじゃないか、という話ね。実際、石黒氏の動画は「僕の作品を読んでないなら、答は自分の頭の中にしかないじゃないですか」というコメントに続いて「答え合わせの材料を出させていただきます」として、自分の作品・創作活動での諸々の取り組みを紹介する、という流れになっており、これは自分の読み解きとも符合してる。
というわけで、自分は以下のように書いた。
冒頭の「答え合わせ」云々は、石黒氏のある種のツイート群への「いいね」がたまたまや備忘的意味ではなく確固とした思想に基づくものであることを別のツイート群への「いいね」で確信した、という意味ではないのかな
そしたら、こういう風にブコメされたわけ。
id:tattyuやid:muchonovやid:white_roseが傷ついた人を更に傷つけるろくでもない人間だということがわかるね。id:muchonovが一番賢い分一番タチが悪い。言質とられないように立ち回ってる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751484966157504896/comment/dmekaricomposite
な ん で だ よ !
「一番賢い」→こんな文脈で賢いとか言われても、全然うれしくない!
「一番タチが悪い」→その自覚はあるが、今回は別にそこは出してない!
「言質とられないように立ち回ってる」→これこそ全く身に覚えがない!
そもそも、自分のブコメって「傷ついた人を更に傷つける」内容ですか? ナンデ??? こっちとしては、もう訳わからんわけで、ひさびさにブコメツリーおっ立てましたわ。自分のコメントの意味を実直に説明しましたわ。
「僕の作品は読んだことがないのに『いいね』が答え合わせだとおっしゃっているの、それって答は自分の頭の中にしかないじゃないですか」の「答え合わせ」はこういう文脈では?って書いたけど、これ、更に傷つける?
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751508816115317632/comment/muchonov
そしたら、返しがこれ。
暗に「嘘つけお前暇アノンだろ」と言ってるように見えましたが。違うんですか?違うなら「石黒さんへの誹謗中傷に抗議します」とはっきり言って下さい。被害者に寄り添わず加害者に寄り添ってるように見えました。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4751538666143322912/comment/dmekaricomposite
お、おま…。「暗に」「言ってるように見えました」「見えましたが」「違うんですか?」って、全部あんたの主観での決め付けじゃんか! 最初のブコメ、どこをどう読んだら「嘘つけお前暇アノンだろ」って意味になりますのん? 「被害者に寄り添わず加害者に寄り添ってるように見えました」って、書き手と読み手で「答え合わせ」という言葉の意味のズレが起きてるっぽいことを指摘しただけで「加害者に寄り添ってる」ことにされちゃうの!?
挙げ句の果てには「違うんですか? 違うなら『石黒さんへの誹謗中傷に抗議します』とはっきり言って下さい」ときた。なんだこれ、手の込んだバッドジョークなのかな…!? だってこれ、まさに石黒氏を非難してた人達から石黒氏が言われてたことじゃん。「違うんですか?違うなら『■■■への誹謗中傷に抗議します』とはっきり言って下さい」って。
石黒氏は今回「一度嫌疑をかけられたら、本人がいくら否定しても納得してもらえない」「挙げ句には『違うなら○○と言えるはずだ、○○と言え』という形で非難者側の正義への恭順を宣言させられる」っつーSNS魔女裁判のメカニズムの被害に遭ってて、だからこの動画で改めてそういうことに抗議してるわけでしょ。その動画自体のブコメで、自分では石黒氏を擁護してるつもりの人が、石黒氏を苦しめたSNS魔女裁判を反復・再演してる。「暗に○○のように見えました」「違うなら○○とはっきり言ってください」。なんなん?
自分は「○○と書いてはいけない」とか「○○を削除しろ」って言われた時は、それに相応の理由(事実誤認である、差別的である、誹謗中傷を含む、その他に社会的に好ましくない影響がある、など)があれば反省してホイホイ応じるタイプの人間ですけどね、「○○とはっきり言ってください」みたいなことを言われるのは勘弁してほしいんです。他人に嫌疑をかけて、その相手に思想の踏み絵を踏ませるみたいにして、その嫌疑を晴らすための手段として何かの宣言を強要するのは、やっぱりいかんですよ。内心の自由・表現の自由的にも一番アウトなやつでしょ。
b:id:dmekaricomposite さん、私は普段のあなたのブコメには共感することも多々あるんですが、今回ご自分がそういうことをやってるって自覚、ありますか? ちょっとよく考えてみてほしいです。
ことについて私はちょっと怒っていた
正確には黄金頭さんは野生のギャル曽根や食べ盛りの運動部員他…までちゃんと想像していて、なんか救われたような気持ちになった
https://goldhead.hatenablog.com/entry/2024/03/16/171118
私自身は私の持つマナーや常識や、自信を持って他人のマナーをどうこう言えるほどに誇れる自身の品位なんかの問題でなく単に他人に「この人間は社会をやれてない」と思われたくないがための必死で卑屈な小心ゆえに、
かつ自分が空気を読めない部類の人間であることを知っている不安から状況を深読みしすぎるゆえにお店のきりもりや他の客の感情のことを勝手に考えてこの条件なら一人1.5人前程度はいいだろう…などと余計な思考を巡らせて実際そのように行動しているタイプなので
最初あの話題が盛り上がりかけたとき一人での来店なら1皿追加、二人なら3皿くらいまでいいかな…などと考えていたのだけど、正直自身でも「適切」で「常識的」な範囲は実際何皿なのか?ということはわからなかった
だからブコメが盛り上がるうちにそれはおのずと浮かびあがってくるものだろうと思って追っていた
こんなにも「常識的な範囲」「迷惑でない範囲」ということを知っているだろうブクマカがいるっぽいんだからそうならないはずはないと
しかし実際ブコメでこの件の価格でのやり方なら○○皿が適切だろうという具体的の例示がなくて、でもじゃあ実際何皿ならいいかな?という素朴な疑問もなく、ただただ件の人を愚かだマナーがない品位がないハックだバグ(ハックとバグこれらはさすがにびっくり、全然違わない?と思った)だ店への嫌がらせだというコメントばかりあったからだんだんモヤモヤしてきた これが分からない私という人間も、果たして非常識で迷惑な側として斯様に断じられるのだろうか?
中には「知人なら距離を置くかも、嫌かも」「夫がこういうことをしたら指摘するかも」というようなことを書いている人も何人もいたけど、
えっ、いや、そこでなんで「わたしの思う常識的な食事量の人が欲を出している」想定をするんだろう、そこは「旧知のギャル曽根」か、あるいは「もえのあずきくらい日常的に食べることをこっちもよく知っている夫」を想定しないと思考実験にならなくない?と思った
実際無名時代のギャル曽根がお好み焼き店?だかで出禁(この辺はまさにお店の裁量だろう)を食らった話をかつて本人がしていたと思うけれど(その後和解はされたようだ)、
無名時代の大食い人間が近くにいたらこの人たちはそうやって自分の常識で黙ったまま相手を断じて勝手に軽蔑したりするんだろうな……って気持ちになってなんだか暗くなった
(まあ現在のギャル曽根さんはきっと自分自身で学んできて自分に課したルールに従ってお店ではバランスよく加減しながら大食するだろうタイプの人だとは思いますが)
私は人生において幼稚園から一緒の無二の友人がhttps://anond.hatelabo.jp/20240320101739この増田のようなタイプ(友人の両親もそう)で、
病院にも行って体に問題はないとわかったもののとにかく日常生活において人より大食してエネルギーをとらないと動けなくなるタイプの燃費の悪い高級車みたいな人間もいることを知っているから、悪意やハックなどという意識がなくてもそのくらい食べる人間はいるし、そういう人間について自分の思う範囲の「常識的な食欲・食すべき量」は当てはまるものではないということを知っていたから自然とそういう想像をした
私が今回のことですごく嫌だったのは、「大抵の人間は似たような食事量のはずで、だから自分の知っているまあ常識的な範囲の皿の数以上を食べ放題で頼む人間の行動は、必ず悪意か欲得づくである」というごく「自然」な発想に基づいて、たくさんの人が件の人や食べ放題で同メニューを大食する人をマナーがない、迷惑だと非難している点だった
(50皿同種のものを頼むのさすがに私もだいぶどうやろ…って思うけど、3皿が基準の人ならそれ以上だし5皿が基準の人ならそれ以上になればもうそれでその人は「非常識」「迷惑」な人の範囲に入っちゃうんだよね?
ルール内にはそれだけ幅があって、でも誰も自分のそれを語らない、そんな調子であるならばこの話は「ルールになければ何をしてもいいのか」がテーマでもなければそれで紛糾する以前の話なのではって私は感じたんだけど……)
まあ発端の人についてだけ言うのなら書き方がイキリっぽいとこもあったり読み手に勘違いさせたりわざとしたいのかなって感じもあったりでそういう気持ちも理解できるけど、
「食べ放題で悪意や欲得づくでなく大食する人」を自分のとなりに置く想定もしないほど自分に想像力がないのに、その小さな想像力で実際にはないかもしれない悪意を見出してはその想像力の及ぶ範囲での「常識」を正しいととらえて他人の品位を論評することについてなんの衒いもない人がたくさんいることについては本当に悲しくなった
「知っている飲食店でご飯やキャベツのおかわりがなくなった、回数が少なくなった。これもこういうバカがいたからだろうな~」といったブコメもいくつか見たけど、確かに中にはそういうお店もあるかもしれないが、
ほとんどの場合は普通に原価高騰の状況で削れるところから削っているだけだと思う……なぜなら家族が飲食店で働いていてそういう状況の複数の店の話題をたくさん聞いたから……
実際には状況や原因がわからない現実の事象について、似た場所で何かが起こったらそこから答えを引っ張ってきて当てはめて、自分の思いたいような嫌いな悪人を想像して納得するの、あんまりよくないと感じる
こういうのも上に書いたのと同じで、自分はそうではない(ここ大事)から堂々と他人マナー違反を咎めたり人の間違いを指摘するのって結局気持ちいいからそういう欲求に負けてしまうことって情けないことに結構あるけど、
実際それってすっごい意地悪なことじゃないかと思う
なにかあったときに外側の人や状況について「悪意」や「迷惑」の方からまず想像するの、なんかしんどい
(まあ私もこの増田でだいぶやっていると言えるので情けないが、違和感や怒りや非難の表明はせめて世間や常識に基づいてのものではないごく個人的なものとしたいと思う感情からこの増田は書く)
黄金頭さんが怒りたいのもそういうところだったんじゃないのかなって勝手に私は受け取って思ってしまったので(多分違う上に話題に出してごめんなさい)、「回避能力高ければそもそも触らない」っていうのも違うんじゃないかなって
(このエントリのブクマで見たコメについてhttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/smart-flash.jp/sociopolitics/278501/1/1/)
自分のエネルギーを多量に消費しようが返ってくるものが苛烈であることが確実であろうがそれでも怒らなきゃならないこと表明しておかなければならないことが時には個たる人間には生じるもので、このことは本当にそうだったんだと思う
その後車いすと映画館の話題でも侃々諤々があり、似た無理解と構造があると感じた
自分が多数の側にいると思われるとき、その自分の想像できる範囲の常識や普通って実際のところかなり狭いということはいつもよく自分に言い聞かせておかないといつでもどこでもすぐさま傲慢な人間になってしまうということについてよく考える
できてないけどやっていくしかないんだよな…
”べつに上のツイート全部が嘘の書き込みであったとしても、思考実験の材料にはなる。そして、おれはこう思った次第である。あんたはどうだろうか。”
私も空気読みができる人間でも社会的に強い側にいる人間でもないので
今回の件では今回のようなこととは他のあらゆるシーンにおいてもこのような状況は生まれ、誤解されたり断じられたりが数多発生していることへの想像に自分の意志とは関係なく脳のリソースを使い、
なんだか自分や他の立場の人が置かれている状況や場を想像しては悲しくなったり不安になったりして上のようなことをいろいろと私は考えました
ブクマを戦争や闘争やプライドの場と思っているのでない限り、ただ素直にこれに応えればいいだけなのだと感じた
(私は3皿かなあとか俺は5皿くらいかな?…とかも普通に答えてよくない?いろんな人の「だいたい」知りたかったよ…黄金頭さんのエントリのブクマは200ブクマ超えたあたりでしんどくて読むのやめちゃったから書いてる人いるかもだけど)
0か100かのブコメがたくさんで落ちこんだよ……
ちょっと検索しただけでも同様の主張をする人間がこんなに引っかかった
agricola 自由の戦士の皆さん!!増田が皆さんの応援を求めていますよ!「転売を禁止する法的根拠がない」「規制されていなければ何をしてもいい」という日ごろの皆さんのご高説で増田を勇気づけてあげましょう!!!
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[B! 増田] マスク転売ってアカンことやったんやな ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20200228212452
agricola 経済活動の自由がありますから、法規制されてなきゃ自由なんですよ。悪い売買は誰が決めるのか!←表現の自由戦士の言いぐさをまんま転売問題に持ってきてみましたw
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[B! togetter] 親が転売ヤーの息子を自慢していた→転売問題の難しさは、社会一般のモラルが変化しちゃった点にあるのではという話 ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1721927
agricola ふーん。で、それって違法なの?違法じゃなければイインダヨ派はお気持ち吐露してないで法律に照らしての議論をお願いするよ。普段からフェミと違って冷静で論理的を自称してたでしょ?(嘲笑
2022/04/04
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[B! 転売] でんでろ音波蟲 on Twitter: "ガンプラ品薄転売問題、バンダイがどんなに増産しても足りないと頭抱えていたら、実は大手問屋のあみあみが、自社船に乗せて中国へ密輸してた、つーことが発覚したそう。 バンダイは国内流通分を輸出するのは認めてない。メタルボックスが倒され更… https://t.co/bc4PYCCDNJ" ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/Den_flipou_dero/status/1510557757908582404
agricola 「同人文化、読み手と書き手が作り出すホニャララ」への敬意は法的義務じゃない。日頃「この表現は法に触れないからどこでも誰にでも見せて良い」を実践するオタク諸君は「転売の自由」を理解してくれるはずだ(嘲笑 ひょうげんのじゆう そんなことより経済
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[B! 炎上] https://twitter.com/DoujinTenbaiNet/status/1582748632151134211 ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/DoujinTenbaiNet/status/1582748632151134211
agricola 「法に触れなければ自由」今までそう言って表現の自由を守ってきた戦士の皆様が、自分が損する転売には手のひらを返して「倫理が」「健全な流通が」と法の手前で大騒ぎ……何とも薄っぺらい自由だね(侮蔑 ひょうげんのじゆう
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[B! 転売] https://twitter.com/mayuyamaguchi76/status/1591978635149586433 ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/mayuyamaguchi76/status/1591978635149586433
agricola 「経済活動の自由は憲法で保証されているから」でFA。「雀魂✕咲ポスターは憲法に照らして問題ない」なんてマヌケな詭弁を持て囃しといて、虫の居所が悪くなりゃ臆面もなくこんな醜態を晒すんだから度し難い(侮蔑 ひょうげんのじゆう ブコメがひどい
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[B! 増田] 転売ヤーはなぜ絶滅しないのか。商社と何が違うのか ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221217005626
agricola 埼玉県の県営プールにおける「悪い表現」が定まったので「客観的で明確な基準」が大好きな人たちも思わずニッコリ。お気持ちとかほざいてる連中って、違法でない転売ヤーなどにお気持ちで文句を言うよね(嘲笑 ひょうげんのじゆう
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[B! 表現規制] 埼玉県営プールでの水着撮影会、暫定ルールを発表 NGポーズも例示:朝日新聞デジタル ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.asahi.com/articles/ASR7M63DYR7MUTNB00G.html
agricola 何にしてもゲームだプラモだのの転売行為は法律が禁止しているわけじゃないんで自由ですよね。 ひょうげんのじゆう
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[B! 増田] 転売ヤーと「安いことが正義」という価値観と名誉の価格 ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230823135913
agricola 「法律違反でないから憲法が保証する経済活動の自由」なのかい?「転売ヤー許すまじ」なのかい?どっちなんだい?「法律違反でないから表現の自由」なオタクは当然前者だからクルマを買えない(嘲笑 ひょうげんのじゆう
2023/09/18
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[B! 転売] 【お詫び】弊社販売車両が転売されてしまったため、トヨタ車 全車種の新規販売受付見合わせ。※トヨタ車以外は継続販売。 ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.sankoh-jp.com/blog/news/66217/
agricola 自由自由と喚きながら、オタクがソシャゲのガチャで身上潰すと「ガチャ規制しろ!過度に射幸心を煽るな!!」と大合唱し、ゲームやプラモなどの「男のおもちゃ」の買い占めや転売にクソ辛辣。それがはてなーよ?
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[B! 男女] はてブって男に人権や尊厳を認めてないんだな ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20231024164806
agricola 法律ではトレカの転売は禁止されていないのに経済活動の自由を侵害したくてたまらん自由の敵が爆釣/サインが本人の自由なのは当然としても、本件に託けて転売全般規制しろと言う連中ってフェミナチみてえだな(嘲笑
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[B! ポケモン] 『ポケカ』人気イラストレーター・さいとう なおき氏が、組織的な取り囲みや待ち伏せ被害を報告…高額転売されるサインカード目当てか | インサイド ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.inside-games.jp/article/2024/02/26/153021.html
agricola まずは経済活動チキンレースに挑戦し続けている転売ヤーを自由の戦士と認めるところから始めようか。ボク様の得になる自由しか認めないお気持ちヤクザのダブスタムーヴは厳に慎まねばならないぞ(嘲笑
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[B! 表現の自由] 車椅子関連の話見てると、オタクもチキンレースした方がいいのでは? ttps://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240319114431
ここでいう「メタ展開」とは、作中の物語が、読者やプレイヤーといった受け手の現実世界を認知して言及してくる
あるいは受けて自身が物語の構造に重要な役割を持っているという感じの展開を意味している
具体的な作品名を挙げるとだいたいネタバレになることが多いのだが、
それまで傍観者だった読者がゲーム内のキャラから呼びかけられて彼らを救うみたいなやつだ
だが一定数の作品に触れてしまった今、どうやら俺はメタ展開に完全な耐性を得てしまったらしい
新鮮な驚きや感動が得られなくなってしまっていることに気づいた
おおむねどちらかに当てはまる
小説なら読者自身が犯人だったり、ゲームならUIに関連する演出が入ってきたり、できることが限られてしまう
もっと楽しみたいと思うのに、彼らは絶対に紙面や画面からはでてこない
「どうせこうくるんだろ」というのを超える作品がもはや存在しえない
本当に悲しい
特定の事柄についての所感を、短期間に何度も書いてる人っているでしょ?
でも、それも長く続かず、投稿ペースが落ちたり文章量が減っていく。
クオリティも下がっていくし、読み手も別の話題に関心がいっている状態。
書き手もモチベーションがなくなってて、書けることも書きたいこともなくなってる。
そういう“出がらし”には独特な味わいがあるからだ。
これがアフェリエイトとかなら金のために「それでも書く理由」があるんだけど、はてな匿名ダイアリー(増田)はそういう建前がないから“渋み”が違う。
承認欲求とか、自己顕示欲とか、あるいはもっと素朴な「何かをアウトプットしたい」っていう漠然としたものが原動力になってる。
書けることがない(なくなりつつある)状態で、その原動力すらなくなったら普通は書くのをやめるだろう。
でも、その状態で、それでも書かれた文章の出がらしこそ、俺が一番味わいたいもの。
なので、やめそうになったら軽く小突いてやる。
例えば「ホッテントリになって味占めたんだろうけど、最初だけだった」
「お前自身、この話について書くの飽きてきてる」
みたいなことを言及する。
で、本人も薄々分かってる。
だろうけど、それを他人に指摘されるのは癪だから、意地になって続けるわけ。
もう味しないよ~ってところからの、それでも捻りに捻って、絞りに絞ったときの、あの何ともいえない味わい。
なんだろうね。
桜の花が散って、葉っぱが生えていく過程を見ている感じというか。
桜の花と緑の葉が混じっているときの、あの何とも言えない状態に近い。
もう花見をするのには手遅れな状態なんだけど、あれこそ侘び寂びの極致だと思うんだ。
いずれ、それが緑一面の草木になったら、それはそれで立派だし。
それを肴に一杯ひっかけるのもオツなもんだよ。