はてなキーワード: オソロとは
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2012.04.30 Monday06:30
というわけで。(前回からの続き)
お肉(その他)どーーーーん!
メインは麻婆豆腐でしたよ。
山椒がっつりきいてて、旨辛!
私は辛いモノ平気なので平然と美味しく頂きましたけど。。。(冷え性だしね。)
隣で友人が汗だくで顔真っ赤にしてました。おいしかった~♡
最後に陳さんが、まかないチャーハンを出してくださいましたよ。
陳さん、顔ちっちゃかった。
杏仁♡
1
ごはん---
カビちゃったんですよねえ。。。。
前のお家、古くて湿気がすごくてですね。しばらく使わなかった
靴も10足くらいカビました!しかも、良い靴から順に!!ずるい!!
そんなわけなので、仕方なくラケットを買いに行きました。
「むかーし軟式をやってたけど、硬式はほぼ初級者です!
用意してくれたのが。。。
プロが使うのより、勿論ずっと軽いけど。
軟式やってた人は、どうしても手首でかえそうとして痛めちゃうんですよねえ。
軽すぎると手首使っちゃうからダメ。重すぎても負担かかるからダメ。
これは軽過ぎず重過ぎず。
しかも、軟式打ちの癖がある人でも、ボールが綺麗に飛ぶんだって。
へえ~~~~~~。よく分からないけど、なんかすごいのでこれに決めました。
その分野に詳しい人の薀蓄聞いてるの楽しい。
ボール、おまけで貰っちゃった。やった♪
なにやらアグレッシブな気分を引き摺りつつ、ちょっとこじゃれた
漢方のお店に行ったんですよ。友人の誕生日プレゼントを買いに。
年上の友人に「滋養強壮セット」を見繕って、ケケケケ!とか
思ってたんですが。。。
ラッピングして貰ってる間、暇だったので「血圧・血流チェック」をしてもらう。
お店のお姉さん:「体の不調とかありますか?」
私:「全然元気です!」
正常な人は「スワン型」というのに、なるらしい。
で、私の結果、コレ 「乏血型」
お店のお姉さん:「血が足りてないですね!貧血!!低血圧!!冷え性!!」
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ぎゃっ!!「老人」て書くの、やめてーーーーーーっ。
お店のお姉さん:「ばったり倒れたりすることないですか?」
私:「立ちくらみとかはありますけども、、でも、ヤバいなと思ったら
すぐにしゃがむので、倒れたことないです!(お酒飲んでない時は!)」
お姉さん:「じゃあ、大丈夫ですね♡」(あっさり)
解決しちゃった。でも老人。。。
512人中、1番!
大丈夫!退化してない!!
肉食べよう。お肉。
いや、レバーかな。
テニスもしよう。
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日記---
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体力的に弾かれそうなので、2階席取ったけど。。汗だく。
熱いわ~~楽しかった♪
いつもそこそこ体温低めに生きてるので、
熱気に慣れるまでに、多少時間がかかるのだけれども。。
たまに体育会系な事したくなるな。
精神衛生上、とても良い気がする。
ネームをしなきゃいけないんだけど、なかなか集中出来なくて
進みません。南国気分、抜けきらない。
良いんじゃないの??今の時代、何とでもなるよね??とか
確実に、作風変わるな。
ゴシック建築が好きです。
大丈夫です。
仕事も好きです。
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日記---
どーーん。
きれいでしょ~癒された~~~ @南国ですヨ!
遊び倒したので、お仕事しなきゃ。
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日記---
2012.04.07 Saturday14:14
次号のベツコミは、4/13発売ですよ~。
やんちゃな男女が勢ぞろいです!
あと、FC 8巻は、6月末発売予定です。
こちらは、もうしばらくお待ちくださいませ!
そんでもって。。しばらく旅に出ます。
捜さないでください(浮かれてる)
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お仕事---
2012.04.03 Tuesday22:02
今日、大荒れでしたね。嵐だ。
お出掛けしたかったけど、お家でおとなしくあれこれ雑用してたら、
いつかやると思ってたんだよ。。この扉。。
気を付けよう・・右手じゃなくって良かった・・けど、大丈夫なのコレ。
自分が可哀想になったので、前から欲しかったコーヒーカップを、
人間が、「より良い遺伝子を残す事」を本能的にプログラミングされてるのなら、
完璧な遺伝子を追求したい願望を持つことも、寧ろ自然な気もしてしまいまして。。。
終始「遺伝子を超えた可能性」がチラつく、熱い人間ドラマでしたよ。
ジュード・ロウが男前過ぎて、「何もそんなラストを選ばんでも、、、!!」と
泣き崩れたくなる乙女心。(←無理矢理)
面白かった~~~♡
あとは漫画。
有名過ぎて、ちゃんと読んだ事ないのに大体のあらすじは知ってたんですが。。
欲望と、好奇心&探究心の境目が、未だよく分かってないです、私。
バランスの取れた人の欲望は、暴走しないでおりこうさんでいられるん
だろうな。きっと。
ゆびがいたいよー!
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。
ここで俳句の解説するとボロクソ言われるのが落ちなので、リアルで相談した方がいいよ。
…というのは、俳句は滅茶苦茶コンテクスト(文脈)に依存する芸術だからだ。短歌31文字が対決的な文化(歌合せとか)を成立させてきたように「向き合う他者」に言葉を届ける能力をもつのに対して、俳句は仲間内のような座の中で成立してきたように「コンテクストを共有する仲間」の間で盛り上がるタイプの道具であり、背景となる文化文脈を共有していないことが多い現代社会(特にネット上)では、説明したところで、「そうとは限らないのでは?」みたいな突っ込みが山ほど入るのが目に見えてる。「なんでそう言い切れるの?」「必ずしもそうとは限らない」etc……いやうるせえわ。俳句ってそういうモンなんだから仕方ねえだろ。
それを踏まえた上で、可能な限りの解説をするぞ。長いので暇人向けだ。ちなみに、調べて作者名見て「あー」(嘆息)と声が出そうになってあと調べるのはやめた、から、ほぼ推測のみで書く。まあ、ちょっと古い昭和の俳句だわ、くらいに思いながら聞いてくれ。ちなみに、俺はこの句、一読して「短歌的な俳句だ。それだけに、短歌増田が感心したのは分かる」と感じた。俺自身は、こういう俳句は作らないと思う。理由は後述する。
「ここで昼餉(ここでひるげ)」
初手から6字で字余りだ。字余りについては今更説明しないが、基本的にはあんまりやらない。なぜなら、基本的にはリズムを壊したり重たくしたりしてしまうからだ。わずか17字でつくる詩で、およそ1/3のリズムが崩れかねないというのは、かなりオソロシイことだ。逆に言えば「その危険を押してでもやりたい」と作者が判断したときだけ、リスクを背負ってやる。素人にはあまりお勧めしない手法だ。さて、作者はわざわざ字余りをして、「さあ、この辺(の場所)で昼飯にしようかな」というメッセージを伝えているわけだ。何とも人を食った話だが、昼飯の場所が決まっていないということはこの人が日常の中にいるわけではないことを暗示してる。まあ、単に定年で暇になって毎日あちこちの公園やらデパートやらで飯を食ってる爺さんという可能性もゼロではないが、後で出てくる夏という季節にそんなことをする爺さんもあまりいないだろうから、ここで作者はそれなりに若く、夏の最中に野山を歩き回っていると推測される。これで一気に「作者の年齢、場所、状況」に関する情報が得られるのだから、字余り使った値打はあると言えばあるが、それ以上に作者がここであえて句のリズムをもったり重たくさせたのは、「いい年したおっさんが夏の昼間にハイキングしてる」という「のんびり感」を演出しようとしたためであるかもしれない、とも推測される。その意味では、この初句、のんびりして見えて人を食ったような、それでいて計算もあるやり手の初句だ。ちなみに、この初句、体言止めで切れる。俳句はやはりどこかで「切れる」ことが推奨されるが、それは句の焦点をはっきりさせるためだ。句切れの前に焦点があるか、後にあるかはケースバイケースだとしても。
ただ、それにしても「ここ」が山とか自然の中、は分かったが、どんな場所なのか、また、ここで昼飯にしようと思ったのはなぜか、作者はいまどんな気分なのか、とかは分からない。それは、続く部分で種明かしされる。(よって、ここでは句切れの後、つまり「種明かし」パートが句の焦点だと考えられる。)
「真赤な夏の/花佇つゆゑ」
最後に「ゆゑ(故=理由)」とあるが、普通に考えたらこれまた俳句では普通やらないおきて破りである。句の中でこういう「理由の明示」みたいなこと、ダメだろ普通。なぜかというと、基本的にカッコ悪いからだ。たとえば「閑けさや岩にしみいる蝉の声」を、「蝉の声岩に染むゆえ閑かなり」とかやったら、なんかいろいろ台無しだろう? ネタ晴らしというかなんというか、たとえそういう意図を込めていたとしても、言わずにそこを感じさせて感心させるところがさあ、まあ句の仕掛けなんだから、答え言っちゃったらもう何かダメじゃね?とふつうはまあ思うんだよ。でもこの句はもう少し進化した句で、理由を言っちゃった上で「え?それが理由になるん?」と読み手に突っ込ませることを狙った作品なのだな。突っ込みさせた上で、「え……理由…?………になるんか、…ならんこともないか、うーん、なるほど」みたいな。最初ののんびり路線がここで効いてくるわけだ。作者は「それが理由なん?」という突っ込みに対して"のんびり"という姿勢をとることで「それが理由ですが、何か?」と返してきているわけだ。そうやって自信満々に言われるとなんかこっちが間違ってる気もするし、そう言い切られたらそうかなあ、と少し納得感がないでもない……と思わされた時点でもう作者の術中に落ちているのだ。この作戦、小難しく解釈しようとする人であればあるほどハマる。
もっとも、そういう、突っ込みさせつつセルフ納得もできる「微妙な線」を狙うのはなかなか難しい。だから、それを実現させるために作者は2つほど仕掛けをしてる。
一つは「真っ赤な夏の花」だ。これ、普通なら夏に咲くその花の名前を入れる部分だよな。たとえば朝顔ならアサガオ、向日葵ならヒマワリ……だいたい花の和名なんてそんな長いものじゃない。少なくともただ花それ自体を指すのに9字も使うのって、俳句始めたての人の句なら真っ先に直されそうな部分だ。でも、その上でだ。聞いてみるけど、この花何だろうな? 日本の、ハイキングで行くような野山に、真夏に「真っ赤」な花なんて咲いてるか? あとで「たつ」という言葉がある以上、人の背丈程度には高さがあってすっと伸びた草花だ。さて何だろう? 作者の答えは「知らん!」だよ。知らないから「真っ赤な夏の花」なのだ。おいおい、そりゃねえだろ、と読者に突っ込ませておいて、そこで作者はぬけぬけと「だからここで飯にするんだ、悪いか?(ニヤリ」とやってくるわけだ。無責任に適当にやってるように見せながら計算もあり、でも基本的に楽天的で天衣無縫な語り口の句だ。それが初句の「のんびり」加減と相まって、この句に独特の雰囲気を醸し出していることは否定できない。なんだったらここで笑い出しちゃうような面白みがある。
二つ目は「佇つ」だ。学のある人をこれで引っ掛けようという腹だ。この字、音数から考えれば「たつ」と読ませているのだろう。だがこの字に原則として「たつ」の読みはない(少なくとも家にある広漢和辞典(全四巻)でみる限りはない)。一般的な読みは「たたずむ」で、じーっと立っている、という意味だ。「たつ」に宛てたのは、その意味を合わせて感じさせたかったからであろう。花はいつまでもじーっと立っているのだから、人間が「立つ」のと同じ字でない方がいいんじゃありませんか、というか、「佇む」には途方に暮れて立ち止まる、みたいなニュアンスも漂う。何か、その夏の花が所在なくじっと立っているので、仕方なくしばしのひと時を一緒に過ごす、みたいな感じだ。なんだろう、ひょっとしてこの「真っ赤な夏の花」というのは、山道を歩く途中で一緒になった、真っ赤なサマードレスを着た女性か何かの比喩なんではないだろうか、みたいな、そんなちょっと色気みたいな解釈・深読みが(実際、俳句読みはその手の暗喩、創作をよくやる)この「佇」一字から立ち上ってくるのである。そうなると、花の名前が特定できなかったことも、何だかそのための仕掛けであるようにすら見えてきて、うーん、と悩まされるのだ。当然、そこまで考えての、このルール違反の用字である。
結果、山歩きの途中花の下で飯食うかあ、というだけの句が、俄然ストーリー性、物語性、ロマンスの色彩まで帯びてくる。が、もちろん現実にはそんなことはないのであって、実際ただ飯をくっただけなんですけどねー、という緩い種明かし(そもそもそんなロマンスが勃発したら俳句なぞ作っている暇はないので)を前提に、その幻想を楽しむ、そんな句ということに落ち着くわけだ。
そんな風に、この俳句はなかなか外連味(けれんみ)のある、仕掛けとイメージてんこ盛り、物語調の俳句で、実に面白いと言えば面白い、一般的な俳句の目指すところとはちょっと外れた句だ。一般的に俳句はもっと、瞬間的、即物的、断片的に風景を切り取るのが基本なので、まあ普通は「季語+感情」でつくるとこから始めるのが適切だろう。この句も、山道で赤い花に出会った瞬間の感情を句にしてると言えなくもないが、それにしてはいろいろな仕掛けが人を食っていて、また、無用に物語調で独特だ。一般的な俳句なら、たとえば「握り飯ハイビスカスの色に染む」とかでいいわけだが、この句はその瞬間の風景以上に、遊び、のんびり感、山道を歩いてきてよいしょと腰を下ろすそのしぐさ…からああ花がきれいだな、という一連の感情を全てこの一句に込めようとしてるのだ。これを17字でやるのは、本来かなり無理筋なので、普通はもうちょっとワンショットに切り分けようとしたりするか、あきらめて短歌にいくかするだろう。その無理をやってる(そして、そこそこ成功もしてる)のがこの句の面白いところで、たぶん短歌増田が感心したところなんじゃないか。
まあ、こういう句、狙って作るのはなかなか難しい(ちなみにこの作者・中村草田男は、こういうのをやたら作るのだが、ひどい失敗も多いので有名な人だ)。そういう意味でも、まあなかなかない句ではあると思う。あと、何も知らずにいろいろ書き飛ばしたので、もっと知ってる人から突っ込み入れてもらえたら感謝する。
https://anond.hatelabo.jp/20180611011239
元増田です。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20180611011239
「そのためにプリキュアと、プリキュアを見て育っていく子どもたちがいるんだ」と、ただそれだけの事が言えないのだろう?
呪いなんてプリキュアを見た子どもたちがこれから打ち破っていくのだと堂々と言ってほしい。最後に覚悟が必要だと書いたのは、そういう意味だ。
お姫さま像を変えていこうという試みはもう数十年単位でずっと続いていることで、
本当に少しずつ少しずつ児童文学以外の娯楽作品にも浸透してきている。それは確か。
でも、プリキュアで例のセリフ「男の子だって、お姫さまになれる」のやりとりをしているのは
男の子がオシマイダーに捕まってるのをプリキュアたちが助けるところなので、
守られる存在というお姫さま像は、少なくともこの話の中では残っている。
これを大前提として話を続ける。
自分のなりたいなにかになる、その応援として「なれる」と言ってあげることはもちろん素晴らしいことだ。
でも、守られる存在になるという要素が含まれてしまうと、そうはいかない。
これを自らへの縛りとか、自己承認の問題だけで片付けようとしてはいけない。
どうもルッキズムの話で盛り上がっていたみたいだけど、それを続けるとどうも話が広がりすぎてしまうので
少し目先を変えてみたい。
例えば子どもの場合、子どもであることそのものが守られるための十分な条件であるし、そうでなければならない。
でも、お姫さま(≒守られる存在)に「なれる」ということを、
今まさに虐待されて助けを必要としている子どもに言えばどうなるか。
叩かれないようなお姫さまになるために、必死に自分を変えようとするだろう。
でも、叩かれる。なれるはずなのに叩かれるのは、自分が悪いからだ。
これは本当に本当に本当によく見る、お定まりのパターンだ。悪いのは親なのに。
守られるべき自分に「なれる」というのは違うんだ。
必要なのは、誰かに助けてもらうことを当たり前だと思えること、
それを通じて他人を助けることが当たり前だと思える心を育んでいくこと、
そのような循環の中で、他人を承認するのと同じように、自己承認できるようになっていくことだ。
だからいつだって、子どもたちをお姫さまに「する」必要がある。あなたは守られて当然なんだ、って伝える必要がある。
そうして、いつの日か子どもは親の庇護のもとにはない孤独な戦いを始める。
前に書いたように、現代の現実社会では、お姫さまになるためには素養がいる。これは間違いない。
偏見とか、差別とか、くだらないしがらみとか、どうでもいい風習とか、そういうことでも決まってくる。
でもさ、プリキュアは相手の性別がどうだこうだで守る相手を区別するだろうか?
自分の属性がどうだこうだで、相手に手を差し伸べるのを止めるだろうか?
「女性ガ男性ヲ守ルタメニ戦ウダナンテ、ナントイウオソロシイコトヲ!」
なんていう頭の凝り固まった老人は、きっといつの日か居なくなる。既に時計の針は回り始めて、止まることはない。
それは、女の子が誰かを助けるヒーローになれるっていうのと同時に、
誰かを助けてあげる女の子のヒーローは世界のいろんなところにたくさん居るんだ、と信じる想像力なんだ。
世界を救いのあるものにする手助けを自分もできると信じて行動していくための想像力なんだよ。
プリキュアってのは、結局はアニメだから、虐待されている子どもを助けることなんて基本的にできない。
もう一度書くけど、自分のなりたい何かになれるよ、って応援することは素晴らしいことだ。
でも、男の子だってお姫さまに「なれる」、という言葉は批判したい。それは応援のようで応援じゃない。
プリキュアは、誰かをオシマイダーから救い出してあげることで、すでに誰かをお姫さまにしているんだよ。
そしてそれが最高の応援なんだ。
毒ママなんつーカジュアルな言葉が出てきちゃってる昨今、毒親育ちの皆さま方におかれましては、いかがお過ごしでしょうか。
さて。
この度私は、親に住所を知られないようにする支援措置を受けました。
それは
住民票は、まぁ読んで字のごとくですね。
一度でも引っ越したことがあれば、だいたい縁があると思います。
そして、戸籍の附票というのは、住所の移転履歴を記録したもの。
あちこち引っ越して姿をくらましているつもりでも、これを毒親に見られてしまうと、今まで住んだ場所がぜーーーんぶバレてしまうってこと。
オソロシィ…
そんなのムリ!!コワイ!!というわけで、ググってググっていろいろ調べて、私も恐る恐るながらもがんばって申請してみたのですっ!
毒親の凸や不法侵入に怯えてるひと、遠方だけどいつトチ狂って押しかけてくるかわからなくて怯えてるひとのお役に少しでも立てればいいなと思って、私の踏んだ手順を記しました。
(長くてゴメンね!でも覚えている限り詳しく書きました。)
※ちなみに私は後者。遠方の上に高齢で凸の心配は低いが、命尽きる前にいつ押しかけてくるかと怯えていたのです。
近々引っ越すかもしれんってなったとき、そのとき住んでいたA区の市民課に電話してみた。
↓
私「あのね、B区に引っ越す予定なんだけど、その前に住民票の閲覧制限しときたい」
支「引っ越すならばB区に転入届を出すときに申請することになるよ。そのときに今のA区の住所も一緒にロックできるから」
私「なるほど」
支「ちなみに、引っ越す予定がなく現住所のみをロックしたい場合は、対象者に現住所がバレてないことが前提になるお」
私「バレてるかもわからん」
私「ほほう」
支「引っ越す二週間くらい前までに、警察かB区役所内にある家庭相談室に相談実績作っとくとスムーズだよ」
私「おけ、ありがと」
この電話の冒頭で、支援担当の女性がちょっと慌てた様子で「ストーカーかい!?DVかい!?」と訊いてきた。
と答えたら、切迫した感じはなくなり、落ち着いて説明をしてくれた。
程なくして引っ越す時期がおおまかに決まったので、引っ越し先のB区役所に行ってみた。
窓口は市民課だけど、どこにあるかわからなかったので、入り口にいた案内係のひとに住民票の閲覧制限について相談にきた旨を伝えて案内してもらった。
担当部署の通路の端っこに設けられたパーテーションで仕切った小さなスペースに案内され、机を挟んで市民課の支援担当さんと向かいあって座った。
まず、誰に対しての閲覧制限かを聞かれ、母親であることを話す。
ここからはちょっと記憶が曖昧なんだけど、どういう理由かを聴取され、手順の説明を受けた。
ここでは申請理由は省くけど、まぁ堤防決壊して大変だったよね。
こんなこと、見ず知らずのひとに話すなんてことはないと思ってたから、もう大変だった。
担当さんが席を外してる隙に、胸の内をつぶやいたTwitterでフォロワーさんにたくさん助けていただいた。本当に感謝。
申請に行くときは、誰か信頼できるひとと行ってもいいかもしれん。
最初にA区の支援担当さんから聞いた話では、家庭相談室に相談することになるとのことだったんだけど、B区にあるのは「子育て支援課」というものだった。
多分これは、住民票と戸籍の附表の閲覧制限というものが、元々は主にDV被害者に対する支援措置であったことに起因するからかなと思う。
私の場合は親から受けた過去の虐待での申請になるので、基本的には子育て支援課では受けられないとのことで、まず警察の相談窓口に行くように言われた。
もしも警察でダメなようだったら、子育て支援課でなんとかするから再度来るようにとのことだった。
幸い警察署は区役所のすぐ近くにあったので、そのままその足で警察署の相談窓口に行った。
住民票と戸籍の附表の閲覧制限について相談したい旨を伝えると、体格のよいひとのよさそうなおっちゃんが出て来て、隣の個室に案内してくれた。
自分の名前と、閲覧制限をする対象者を記入する紙を渡され記入。
それを見ながら、どんなことがあったのか、現在はどういう不安があるのかを聴取され、B5のノートに鉛筆でサラサラとメモしてゆく。
区役所で一度堤防決壊してるので、警察署では比較的冷静に「そんな大学ノート(死語?)に鉛筆でいいんだ…」などと考えながら、
それでもたまに泣いたりしながら訊かれたことを答えた。
おっちゃんは、私があまりうまくしゃべれないのを察してか「申請のときに役所から訊かれたら、大袈裟目に言っとくけど、それでいい?」と言ってくれた。私は「お゛ね゛がい゛じま゛ず…」とずぴずぴと返事をした。
話している中でわかったのは、
「現在においてどんな被害があるのか、または今現在被害がなくても対象者と接した場合どんな被害が予想されるのか」が肝っぽい、ということ。
最後におっちゃんはちょっと寂しそうに「弟さんとだけでも連絡取るわけにはいかん?」と尋ねてきた。
「弟にも暴力振るわれたことあるんで…」と答えるとおっちゃんはずっこけてちょっと笑いながら
「んならしょうがないね!じゃ、大袈裟目に言っとくから。安心していいよ」と言って帰してくれた。
ひとまず事前相談はここまで。
警察署を出てから、再度区役所に向かい、親身に相談に乗ってくれた支援担当のひとに警察署での聴取で大丈夫だと言われた旨を伝えて、その日は終わり。
その後、引越し先の家も決まり、いよいよ住民票を移すときがきた。
住民票の異動届を書き、窓口に渡すときに「閲覧制限の申請をしたいんだが」と伝え「がってんちょい待ち」
椅子に座ってしばらく待った。
担当のひとが奥のスペースに案内してくれた。
警察に相談済である旨を伝えると、申請をしたい理由を再度詳しく訊かれ(内心もうやめてー)、いよいよ申請書類に記入をする。
③児童虐待
④その他
とあった。(ざっくりだけど)
私は真っ先に③にマルをつけたが、担当のひとは「違う」と言う。
④なのだそうだ。
詳しくは訊かなかったけど、③は現在起こっている児童虐待に対する措置なのだろうかね。
・配偶者が来ても発行不可。配偶者も発行できるようにするならば、配偶者の身分証明のコピーを持って申請すること。
代理人発行の委任状なんていくらでも偽装でき、その偽装を調べる術がない。対象者が業を煮やして配偶者の委任状を偽装して住民票発行請求をしてくる場合があるので念のため、とのこと。
などなど。
申請を受けたあと、役所のひとが警察に電話して相談内容を詳しく聞き、支援が必要かどうかの決定をするんだって。
支援措置が決定されたか否かの通知が3〜4週間後に書留で届くので、きちんと受け取るように、と言われた。
郵便局の保管期間を超える不在や住所が違うなどで返送されてきたら、支援は取消になるんだそうだ。
まだ引越しが完了していなかったので、旧居から新居に3日おきくらいにポストを見に行った。
その後、無事に通知を受け取り、内容を確認して終わり。
1年ごとに更新で、来年また申請に行かねばならないのが面倒だけど、これで安穏を得たという感じ。
手順②③ではややこしくなるので省きましたが、私の引っ越し先の住所の管轄は出張所になるので、申請窓口も出張所になるから住民票を移すときは出張所に行ってね、とのことでした。
事前相談は役所なのか警察なのかあるいはまた別の窓口なのか(児相というケースもあるらしい)、
とか。
関係各所の名称や、相談・申請の手順は各自治体で違うのだろうと思います。
悩んだら、まずはお住まいの自治体に問い合わせてみることです。
私は正直、親を対象にして自分の個人情報に閲覧制限をかけることに迷いがありました。
私はそこまでひどいことをされていないのではないか?
自分は親に対してとんでもないひどいことをしようとしているのではないか?
でも私、「すうのお母さんと偶然会ったよ」という地元友人からのメールや、玄関開けたら母親が立ってた!という妄想などで寝込むくらいだったんですよ。
これじゃどうにもこうにも、いつ精神の崩壊が訪れるかわからんな、という感じで過ごしていました。
体調や精神に不調が出て生活に支障をきたすくらいなら、それをずっと恐れて生きるくらいなら、と申請を決断したわけです。
あとは親戚や義家族や友人などが親切という名の余計なおせっかいをして母親に転居先を漏らしたりしないように用心するのみ。
今の所、親戚・義実家には引っ越したことを言っていない。別に訊かれてないからな。
もし引っ越したことを話すようなことがあったら、
「行政の支援を受けて母親に住所を知られないようにする措置を受けているので、住所を教えるわけにはいかない」と言うつもりです。
また、私は閲覧制限をかけると強く決意した後も、問い合わせの電話をする前は
とかなり怯えていました。
しかし実際にそんなことはなく、電話に出てくださった支援担当の方は親切に手順を説明してくれました。
「その程度の被害では申請はできないよ!とか言われるかもしれない」
と震えていました。
これも実際にそんなことはなく、役所のひとも警察のひとも親身になって話を聞いてくれました。
ちなみに私が母親にされたことは、
・片親疎外
・機嫌を損ねると食事抜き
などの、主に精神的虐待に分類されるもので、箇条書きで表せるのはこんなもんです。
そのうち、警察での相談で話したのは「言葉の暴力」と「たまに行われる身体的暴力」のみでした。
当初は、どうせ支援してもらえるかわからないんだったらチクショー全部話してやるぜ!と意気込んでいたけど、涙で言葉が詰まってしまって無理でした。
それでも警察の方は私の様子を見て、
「それはひどいね」
と、そう声をかけてくれました。
もう大人になったのに、独立したのに、仕事してるのに、家庭があるのに…
毒親が自分の人生をコントロールして絡め取ろうとしてくるのを必死で避けて生きているひとびと。
自分と、自分の大切なひととの生活を守るために行動していいんです。
申請は正直めんどくさいし、支援が決定したあとも住民票発行などに制限があったり1年ごとの更新だったりと、何かと不便だけれど。
案外、ポンっと飛び越えられるハードルかもな、と感じられるはずですから。
2016/12/18 追記
大切なことを忘れていました。
閲覧制限をかけても戸籍の大元のものは閲覧できるので、例えば結婚した、離婚した、子どもが生まれた、というのはわかってしまうそうです。
ただ、現住所は記載されません。
みなさん読んでくださってありがとう。
「誰か困ってるひとがいたときのために」という方もいらっしゃって、ありがたい限りです。
2017/08/28 追記
まず、役所から電話があり、再度警察に相談に行くように言われ、警察に行って来ました。
警察の方が前回の資料に目を通しながら、この一年間で押しかけなどはなかったか、状況に変化はないか、支援継続を希望するかなど訊かれました。
そして注意事項として、もし押しかけなどがあった場合は迷わず110番すること、戸締りなどには気をつけること、配偶者の親などにも住所は黙っておいたほうがよい、などを言われ、相談自体は10分ほどで終わりました。
前回と同様に支援決定の通知がそのうち届きます、と言われて終わり。
警察署と役所と毎年ふたつ行かねばならないのか〜と思うとめんどうですが、ここ一年を振り返ってみると、住所が親にバレない・突然押しかけて来ないんだ!ということでだいぶ精神が安定したなぁと思います。
みんなもがんばって。
毒親に対する支援措置の例をたくさん作って、困っているひとたちが今後もっとスムーズに手続きできるようになるといいな、と思います。
http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/07/15/042614
上の記事および元記事見てて、触れられてない問題があったので、コンビニバイトの立場として書いておきたいことがある。
コンビニの仕事が90年代を比べ物にならないほど大変なものになっているのは、すでに周知のことだと思う。
FF商品や季節の商品のお客様への声かけ、売れ行きを考慮した商品の陳列および整理(時間帯ごとに変える)、弁当やパンや菓子雑貨の補充、クレームへの対応、公共料金の処理、チケット販売、ヤマトやゆうぱっくの受付、アマゾンや楽天などの受わたし、電子マネーや、店内や店頭のポスターやのれんや旗の取替え、掃除などなど、やらなきゃいけないことはすごく多い。そこに加えて、店独自の手作りポップみたいなのも作らされるし、最近じゃコーヒーまで売らされる。一週間ごとにメニューや方針が変わったりするので新情報をチェックすることも大事。30分前に来たり、残ったり。仕事はどんどん増えていく。また、作業中であってもお客様の動向に気をつかわねばならず、レジに近づいたら作業を中断して猛ダッシュ。ただ素通りしただけってことも多く、精神的にも体力的にもキツい。これを時給800円以下でやらされる。コンビニでバイトしはじめて思ったね。「テレビで見るぐーたらコンビニって、コンビニ業界が俺たちを吸い寄せるためのエサじゃねえか。話が違う」って。そうは言ってもバックレるわけには行かないから、働き続けるわけだ。
これらの仕事をちゃんとこなすには、相当の「意識の高さ」と「能力」が要求されるし、その基盤を作るための教育も重要になってくる。ところが、多くのコンビには人件費がカツカツな上に人手不足というのがよくあるから、そこそこのやる気があれば採用し、教育はレジの基本だけで、あとはやりながら覚えてね、という感じだと思う。当たりの人材を引かないかぎり、こなせるわけがない。俺はハズレの人材なので、「こんな低賃金でここまでのやる気と仕事を要求されたくねえな」という感じでダラダラやる。声かけなんて、たまにしかやらない。だって、声かけて面倒な顔されたら嫌だし、俺の心はそんな強くないし。悪いことはしない代わりに積極的に参加もしないというのがポリシー。それでもやっぱり基本的に仕事が多いのでイライラしっぱなし。このバイトはだいたい短期でやめる、急に辞める、バックれるパターンが多いが、当然だと思うよ。こういう俺レベルのハズレ店員はけっこう多い。一見真面目だけど、積極的に店に貢献するわけじゃないから、リピーターを増やしたり、売り上げや収益を増やすということ、つまり店のポテンシャルを生かすことができない。店は成長しない。
成長しないだけなら大きな問題じゃないんだ。ここに加えて、俺たちを凌駕するクズが採用されることがある。客に挨拶もできない、客がいるのにしゃべりまくる、店のものを食う、未成年に酒タバコを売る(ちなみにバレると警察呼ばれて指導が入り、下手すりゃ店がオーナーの手から離れ、本部に取り上げられる。オソロシイ)、客と喧嘩する。確実に客は離れていく。離れた客を取り戻すのは難しい。何年もかかると思う。そんなことしてる間に店は赤字に転落、頑張ってはいるけど、もうおしまい。そういう流れがある。
改善策は、ちゃんとした面接と、ちゃんとした教育と、徹底した監視。でもよっぽど人件費に余裕があるんじゃないかぎり、店長もオーナーも自分の店に出ずっぱりだから、そんなことする余裕もないわけだ。店が負け始めたらとことん負けるしかないのが、店員リスクの恐ろしいところ。
コンビニを開業しようと思ってる人は、ここも気をつけて欲しい。自分の裁量だけでは改善が難しい問題があるということを念頭において、バイトの採用には慎重になって欲しいし、バイトの質を上げたいなら、多くの人を集められるように時給を上げ、問題を起こしたらすぐクビにできるようにすべきだ。俺の給料上げてくれ。そしたらがんばるよ!
おわり
2013/5/5名古屋市教育館にて鈴木邦男氏の講演会が開催された。
新右翼一水会の最高顧問でありながら、現在は思想的にはリベラルであると自他ともに認める鈴木氏。「右からの脱原発」をテーマに講演会はこの日14時に始まった。
ゲストは地球上で唯一人封建主義者を自称する評論家、氏の過去の著作名の如く「危険な思想家」である呉智英氏だ。
彦摩呂似の司会者の合図で先ずは鈴木氏が登壇、呉氏がゲストという事で近著「真実の名古屋論」、「吉本隆明という共同幻想」を紹介し話は呉氏との過去の逸話や他の作家の話などを織り交ぜ、終盤思い出したかのように脱原発の話をして30分ほどで鈴木氏単独の公演は終了。公演は3部構成、2部は鈴木、呉両氏の対談形式で話が進められ、3部は質疑応答の時間。参加者は30~40人程度といったところか。新右翼の代表的人物である鈴木氏の公演であり、過激な発言で知られる人気作家の呉智英氏がゲストであれば会場は満員になっても何らおかしくはない。しかし、この公演に関してほとんど告知がなされていないせいか、最大収容人数200人の会場で二人はマイクを置いて地声で話していた。それほどに参加者の数は少なかった。
筆者がこの講演会を知ったきっかけは毎週欠かさずチェックしている鈴木氏のHP「鈴木邦男をぶっとばせ!」の今週の主張という毎週月曜に更新される記事によってだった。しかもこの講演に関してはその長~い記事のそれこそ最後まで目を通さねばわからないほど下の方に告知が載っているだけ。筆者は知らないが鈴木氏はTwitterをやっている為、そこでは告知をしていたのかもしれないが…。他にも一水会のHP、会場の名古屋市教育館のHPを覗いてみたが、特に告知らしきものは見当たらなかった。因みに筆者はイチ鈴木邦男ファンとして今年2月同じく名古屋の日本キリスト教団名古屋教会で催された鈴木氏による講演「いま、“愛国”について考える−排外主義への異論−」に参加したがその時は会場は満員であった。あくまでその教会のいち催し物である為に信者がほとんどであったし、一概に比較出来ないが…。何より福島原発事故から2年以上経てそれは既に風化し、もはや「反原発」というスローガンに訴求力がない事の証明であったように思う。20代の参加者はおそらく筆者1人であったし周りを見渡すと皆頭に白いものが…、中には自ら朝鮮人を名乗る者もいたし、聴講者の多くが戦後民主主義・人権主義思想に凝り固まった、言ってしまえば絶滅危惧種のサヨクだったと見える。そうなると呉智英氏の天敵が集まったことになるが…。筆者は思想的には新右翼寄りと勝手に思っている者だが、少なくとも一般聴講者の中に右派、保守系の人は見受けられなかった。新右翼の代表的論客・鈴木氏の講演であるし題目は「右からの~」だし、呉氏が来るのだからてっきり右の人がたくさんいるのだろうと思っていたのに意表をつかれた形になった。
今回の講演会のテーマは脱原発。しかし、おそらく遅れて呉氏がゲストに決まったと思われる為、急遽テーマからの脱線は止む無し、むしろ脱原発は公演の一要素に過ぎないといったところだった。2部の両氏による対談形式の講演は1部以上に話題は多岐に渡った。呉史は現在名古屋在住、名の売れた作家であるにも関わらず今は家賃7.9万のマンションに住んでいるとか、ライフワークである儒教についてや思想から政治、氏の私生活までその著作と違わぬ軽妙で鋭い語り口で会場を盛り上げていた。中でも印象的だったのは改憲についてだ。9条は戦略的に活用せよというもの。メモを忘れた為うろ覚えだが、憲法9条が現行のままである限り安全保障は続くのであるから改憲せず、これまで日本がやって来なかった謀略戦に特化しお隣りの2つの国を戦争させて漁夫の利を得よといった内容だった。もちろん危険極まりないラディカルな意見ではあるが、常々自衛隊の国軍化は必要だと考える凡人右派思考の筆者はそんな考え方もあるのかぁと目からウロコだった。もちろん本旨の脱原発についても忘れていない。呉氏は反原発派でありながら既存の脱原発デモを批判し独自の方法論を提示していた。封建主義者の面目躍如とばかりに鈴木氏の出る幕もないほど冗舌に語っていた。筆者にとって2部の二人の対談はとても勉強になったし何より刺激的でとても楽しく拝聴していた。
先に述べたとおり、参加者の多くは戦後民主主義・人権主義思想に洗脳された方々である。そんな彼等との質疑応答はまぁ無意味で退屈で不快なものだった。二人の質問者が、呉氏が講演の中で何度も口をついた「支那」という言葉を取り上げて「中国を『支那』と呼ぶことは差別でないのか?、石原慎太郎の真似でないのか?」(およそ60代の女性)続いて男が大声で「『支那』は不快!相手が不快に思うのなら中国と言うべきではないのか?」といった質問をぶつけた。呉氏はこれまで民主主義を否定し続け、ソ連解体で共産主義の崩壊とともに民主主義も終焉を迎えたと語る危険な思想家である。併せて氏は30年余り「支那」と呼ぶべき理由を、その正当性を、論理的に、何度も何度も口酸っぱく唱えてきた男である、石原なんかよりずっと前にだ!!その主張は呉氏の数々の著書に幾度も書かれている為詳細は省くが、中国を「支那」と呼ぶ事が差別であるかはともかく、氏は30年もそれを訴え続けているのである。何を今さら言うか!筆者は考える、参加者は今回の講演会に参加する限りは呉智英という男がどんな危険思想を持つ人間であるか少しでも知っておく、いや参加するには著書の2.3冊読んで予習しておく、それが無理ならさらっとウィキペディアでも覗いておく事が必要ではないのか?もちろんそれを強制するつもりはない。しかし知識人である呉氏への無理解、自身の無知を醜くさらけだし、それに気づかずにヒステリックに喚き立てる姿は憐れですらあった。他にも40代と思しき男が「反原発デモで左右連帯というが、グローバリズムを旨とする左翼が中国・韓国を非難する右翼と連帯するのは難しい、それについてどう思うか?」といった事を回りくどく長々と言い、鈴木・呉両氏を論破せんと意気込むも「じゃぁ別々にやれば良い」と冷ややかに返答されていた。当たり前だ。右翼が反原発に取り組む動機は、現在進行形で福島の大地が放射能に汚染され続けている現状を憂いての事であって最早ナショナリズムがどうとかそんな事は関係がない。サヨクの男は、今後中国・韓国を巻き込んでの反原発運動がどうたらこうたら言って、今そこにある危機を無視して下劣なイデオロギーの次元に落とし込む事を考えている。全く恐ろしい…呆れてものも言えない。右翼を非難し自分の論理を展開する事によって連帯の意味を履き違えている事を露呈し、さらには逆説的に左右連帯が不可能である事を自らが明らかにしてしまった。右翼は最初から反原発に限っては左右は関係ない、むしろ反原発の一点、そこだけ一致すればどんな思想の持ち主だって構わないという姿勢であるのに…。
そして最後の質問者の老婆は鈴木氏に対し「ウヨクってなんですかー!?全ッ然わからないんですけどー!!今日来た意味ないです!払った千円返してください!」だって。鈴木氏は最初はまともに返答しようとしたがとにかく態度と声のデカイ老婆の勢いに困ってしまい、封建主義者の呉氏がフォローを入れるという事態に。あぁそうそう、なんか8年前ぐらい前だっけ?騒音おばさんっていたじゃない、もうまさにあんな感じ…。両氏はもう顔を見合わせて苦笑い。そこでもう時間切れ、司会者が強引に中断して参加者一同二人に拍手。筆者はこれでもかってぐらい、もうババァ黙らせてやるって気持ちで拍手しまくってやった。それでも老婆は懲りずに怒声を発し続けていたけど。
今回講演会に参加して感じたことが幾つかある。先ずは主催者側の問題点を言いたい。やはり呉氏がゲストだからといってテーマは「右からの脱原発」であるからには、あくまでそこを中心に講演するべきであったように思う。脱原発の講演を期待して来場した人がほとんどのはずだから、その点で考えると参加者のほとんどが満足のいく内容でなかったはずだ。それに告知、今のご時勢ネットを活用すればもっと集客できたに違いないし、単純に参加者がもっと増えればより質の高い講演となったと思う。次に参加者について。まぁ誰が参加しても当然問題ないんだけど予備知識くらい入れてから来いよと言いたい。呉智英氏の事を少しでも知っていれば、氏が百万回くらい経験しているであろう不毛な「支那」問答に時間を取られる事も無く、参加者も不快な思いをせずに済んだのになぁ…。呉氏の思想を知っていれば来なかった人もいただろうに。まぁ本当に残念な講演会だった。最後の質疑応答さえ無ければ笑顔で帰り道を歩けたのに、あんな事になっちゃって全て台無し。参加者には文句言うまいという気持ちがあるにはあるが無知と無理解に無自覚なオソロシイ数人の人を前にして味わった事のない恐怖体験をしてしまったから、つい愚痴のひとつやふたつ言いたくなるよ。
だからさ、その見方、言い方が一方的すぎるという指摘だけで、それが間違っているとは言わないよ。
中韓の海外訪問者って蝗の大群みたいなモノで、一カ所に大量に行くから、そりゃ目立つよ。
それに俺が書いたのは、本当に日本を追い抜いたのなら、もうそれ以上「追い抜いた!」と言う必要は無いだろ?てこと。
しかし日本人はどうかっつーと、世界中のどこにも、本当に世界の秘境と呼ばれているようなにも行くしいるんだよ。
「こんな所まで来たんだ、日本人なんて見たくない」と思ってもホテルから出たら日本人と出会うのはよくある話し。
「まずテメーがいるだろ!」というツッコミ以前に、本当にいる。
小林信彦という作家が「つむじ曲がりの世界地図」というエッセイを出したときからそうなんだから、
また日本の学生運動が挫折して、海外に理想国家建設の志に燃えて井戸掘りなんかボランティアしにいった
日本人の認知度は量で知られたのは、まぁ農協のツァー旅行だな。今の中韓と同じ。マナー問題とか。
けどそれ以前から日本人のオソロシサ、少数精鋭は世界規模で知られている。
トランジスタラジオが現地で「sony」と呼ばれていた歴史なんか、今の若者は知らないかなぁ…。
1950年代、日本人のクラシック音楽家、楽団、指揮者が欧米に演奏に言ったら、歓迎されたけど
「なぜ日本人の貴方たちが私たちの音楽をやってるの?なぜ自分たちの国の音楽(クラシック:伝統邦楽)をやらないの?」
というチャレンジャー扱いだったんだよ…。
592 : 名無しさん@ゴーゴーゴーゴー! : sage : 2011/11/05(土) 01:42:39.54 ID:IAbk3E230
最近の高橋を観察していると、ナツの活動時間が来るまで寝ているか待機
ナツが活動を始めたか終わった直後に出てきてナツのツイートに因縁をつける、という生活パターン
なのでワロスwナツが今日は何を書くか、じぃ~っっと待っている。オソロシス。
昨日、指摘しようと思ったけど、「今日もう1日観察してみよう」と思ったらやっぱりだったw
「佐藤亜紀は作家で有名人だから批評(粘着)してもいいんだ」(キリ と主張していたけんど