はてなキーワード: 模型とは
自宅でプラモを造れない人の為に模型屋の片隅や専業でやってるスペース
エアブラシ塗装用の施設や基本色のカラー使い放題とかはあるが、プラモや工具は基本持ち込み。場所によっては月額で預かりもある
コワーキングスペースだと思ってもらえれば良い
都会や地方も問わずボドゲカフェ並みに増えてきたんだけど、やっぱ想像通りの問題が起きている。ウザい常連だ。模型って趣味なのでその濃度は濃厚。ぶっちゃけ社会生活なぜ出来ているのか不思議な奴も多い
大多数の客が求めるのは図書館の自習スペースくらいの集中できる空気と同好の士を求める交流スペースなんだが、このご時世部屋を分けて準備するのは難しく、曖昧な境界線で混在することになる
その結果大声で話す常連と従業員。そして始まる巡回。要らないアドバイス。謎の「友達になってあげる」目線の態度。まさに地獄
喋るなとは言わないが、喋る場所と集中する場所は分けるべきだし、それが徹底出来てないスペースはオススメしない。関東にも多くあるけど、それが出来ているのは数少ない。もし製作スペースを使いたいって人は自分の行きたい時間に何度か偵察してもらったほうが良い。常連がレジ前にたむろして店員と話してたら、確実に作ってる貴方の後ろから覗いてくるだろう。張り紙等で注意している店はいい店なのでオススメだが、形骸化や身内贔屓しているかもしれないので偵察は必須
かつて、アレクサンドリア図書館では二種類の本が所蔵されていたという。巻物と、現代の本のように綴じられた本だ。どちらにもそれぞれメリットがあったが、綴じられた本にあった最大の利点は、ページの表と裏の両方に書きこむことができることだった。つまり、単純に空間あたりの情報密度が倍になる。そういうわけで、いつの間にか巻物は駆逐され、今と同じ形の本が広まっていったという。同じ理屈で、私たちはパンチカードからテープへ、フロッピーディスクやディスクを経て、USBやSDカードへ、その先へと進んできた。
ここで、ハードの乗り換えの際、重要でないとされたものは、最新のメディアにコピーされなかった。つまり、巻物には記録されていたのに、現代には伝わっていない古代の著作が多数ある。当時の様子を伝えてくれたかもしれない資料が、こうして失われた。同じように、今でも貴重なデータがフロッピーディスクに埋まっていることだってあるかもしれない。笑ってはいけない。ある企業の文書はMOディスクに保存されていると聞いた。霞が関の重要な公文書がフロッピーの中に眠っており、読みだすのに一苦労、なんてこともあるのかもしれない。
そして、現代において最も重要な知識の移行が、オンライン化である。ネットに載っていない情報はあたかも存在しないかのように扱われてしまいがちで、それが私たちの記憶に対して、自信をあやふやにする。
私が幼いころに見ていたNHK教育の番組に、「ともだちいっぱい」というものがあった。その一コーナーで、ペカリンさんなる人物が「困ったときはチャンスです」と歌いながら主人公を絵本の世界に招き入れ、課題解決のヒントを与える、という寸劇があった。一応、その概略を示したwikipediaの記事は存在する。それでも、各回にどんな人物、一回限りの登場キャラクターがいたかを網羅した情報は、ネット上にはまったく見つからない。
私の記憶では、フラフラになるまでフランダンスを踊る島の人々や(彼女たちにアイスキャンディーを配る)、標識や印の便利さを伝える回に出てきた「ノッペリ」なる人物、松竹梅の三種類の樹を並べ替える方法は行くあるかを問う怪人、姫に無理やり求婚する「イイダロ王子」、それから「ゴメンライダー」なる悪役が出てきた記憶がはっきりある。しかし、いくらgoogleで検索しても彼らの影も形もない。
他にも、「ひらけポンキッキ」に出てきた、ドレミの歌とともに人体模型がじわじわ歩いてくるトラウマ級の映像も、存在した証拠がほとんどない。ガチャピンの声で「体の中はどうなっているのかな? 見てみよう?」と言うと、子供と虎と魚の骸骨や内臓が見えるのが恐ろしく、布団の中に潜って怯えていたことはしっかり記憶しているのに。
こうするうちに、初期の「ひょっこりひょうたん島」のオリジナルテープが上書きされて永遠に失われてしまったみたいに、彼らの存在した証拠も、コピーが取られることもなく、消えてしまうのだろうか。そういえば、羊皮紙の写本もときどき重ね書きされ、古代の貴重な写本がいくつも失われた、と耳にしている。
生まれてからこれまでずっと一人っ子なので、遊ぶ時には一人が基本
究極的には他人と遊ぶのは「付き合い」で遊びじゃないと感じている
あと、テレビでやってた危機一髪大事故シーンみたいなのを再現するやつね
いまならyoutubeで事故映像なんて好きなだけ見られるけど、当時は「世界まる見え」とかでやってる衝撃映像を食い入るように見てた
そうめんとかお中元でもらった箱ををうらっ返してジオラマ?見たいのを作るのが好きだった
交差点とか滑走路とか道路のペイントをマジックで書くの楽しかった
飛行機が着陸すると見せかけて横転とかね
本当に誰にも邪魔されない自分だけの世界が本当に楽しかったし最高の時間だった
だんだん大きくなるにつれて図鑑とか本が好きになって、父がパソコンを家に持ち込むと模型遊びしなくなったけな
最近、3DCGがいろいろ遊べると聞いたので手を出してみたら面白い
コンピュータの中に箱庭を作れるのがいいな
これって一人っ子の独り遊びだな
今はミニカーじゃなくて美少女キャラをいじくりまして遊んでるけど
団地の押し入れにファンタジーのキャラが腰かけてるのシュールで面白い
子供のときはストーリーを作るのが苦手だったけどいまはそれも楽しい
これは当分遊べそう
やってみなかったのか。
結論から言うと、最高だよ。3Dの自由度とモデルがオープンだという恩恵を享受できて幸せ。
こんな精巧なおもちゃをタダで遊べるなんて、思春期に出会ってたら人生狂ってたかもしれないぞ。
パソコン室のCRTモニタのパソコンで課題をやってフロッピーディスクで提出してた頃からは隔世の感があるね。
さて、インストールして、かわいい某お姉さんのモデルをインポートしたら、まっさきにやることは決まってる。
視点をグリグリして、まあ真下からのぞき込みますよね。ああ、至極の幸せ。
自分で動きを作ることは素人には難しそうだったので、男女の「合体」モーションを読み込んでみた。
なんてこった! 再生ボタンを押すと直立不動のお姉さんがあの態勢で腰をガクガクしているではないか。
視点を動かして、拡大して、じっくり見る。すごい興奮する。
だけれど、ちょっと冷静になってみると無表情では魅力半減との気づきがあった。課題は表情の研究だな。
ところで、ぼくは女の子と女の子の「合体」がじつのところ大好きだ。大好きだが供給が少ない。
地獄の光景が目の前に広がった。まあ、ピストン運動なんだが、どっちかというとガチなエンジンのピストンとクランクなんだよな。
全身の関節があり得ない方向に延びていて、笑うしかない。この世界では全く男女の体の構造が全く違うようだ。
かわいかったお姉さんのピストンとクランク運動にすっかり興ざめしてしまったので、モーションの学習から始めるかと冷静になった。
結局かわいいを作るためには、かわいいを理解する必要があるとわかった。
表情とか、ポーズとか、モーションとか。中身がおじさんだからこそ、キモオタの心を射抜いているあのおじさんvtuberみたいにね。
むかし萌え絵が描けるようになりたくて、ひたすら筋肉人体模型みたいなものをデッサンしてるうちに飽きちゃった。(あのサイトまだあるのかな?)デッサンは全く上達しなかったけど、なぜかパースの知識だけは身についたので、今の仕事で活かしてる。
イラストはダメだったけど、幸いにしてMMDは既存のパーツを組み合わせることでかなりのクオリティが出せそうだから今後が楽しみ。
結果的に消防法は全く問題が無かった。過去には消防局に表彰もされていた。
もしこの事件で何かが変わるとしても、今は全く問題が無いと言わざるを得ない。
NHKの事件当日取材のために外れていたセキュリティが叩かれいている。
犯人は金づちをナイフを持っていた。セキュリティを強固にして警備員を立たせていたら、きっと警備員は死んでいただろう。
確かに一人の死と34人の死は比べ物にならない。だが警備員一人で済んだだろうか。
NHKもNHKで、記事を削除したり「出勤のためにセキュリティを開いていた」などという虚偽報道は、報道精神として許されない行為だと理解してほしい。
このNHKの改ざんについては日常茶飯事であるので、むしろもっと叩かれるべきだとは思うが…できればテロと関連させたくないのは確かだ。
だがこういうことが起きたのだ。一人の精神を追い込むような真似はしないほうがいい。
これくらいでへこたれない人だとアンチは思っているのかもしれない。
しかし人間は弱いものだ。無関係の人がこの件について傷ついている。
元同僚が、古巣が、尊敬すると言っていた師匠が、一気に亡くなった人の気持ちなんて測り知ることができない。
今はただそっとすべきではいか。
アンチは言うだろう。「こんなことでは許されない」と。きっと彼が死ぬまで追い込む気なのだ。
正論の暴力について考えるべきだし、果たして本当に正論なのかも自身で疑うべきだ。
SNSは個人のつぶやきや書き込みが流れずに残っていく。蓄積データだ。
最近はテレビも配信サービスを使うようになったし、録画が残る時代ではある。
しかしテレビがNHK、民放各局と両手で数えられる程度なのに対してSNSはまさに数の暴力だ。
テレビは流れていくことが多いが、SNSは言葉の暴力が残り続ける。
テレビの影響力が減った今、SNSはテレビの馬鹿さも引き継いだ。
言ってることとやってることは、SNSもテレビもそう変わらない。
螺旋階段が問題派がテレビの検証番組に誘導されたことは一目瞭然だ。
螺旋階段も一応テレビは問題を理解して専門家を呼び模型実験やその映像まで用意していたが
SNSは又聞きばかりだ。
自分の発言に責任を持たない人しか居ないのではないか、と思わざるをえないレベルである。
憎むべき相手が分からず、手あたり次第むかつくものを荒れる心で叩いてしまう。
あげく被害者まで叩く始末だ。
そして本当に憎むだけで終わりにしていいのか。人間は理性を失っていいのか。
犯人の思想がなんであれ、そう呼ぶしかない。それ以外の言葉を私たちは持たない。
911のときを思い出すと、航空会社の不備や目立ちやすい建物といった『問題点』が国内で語られていたりもした。
しかし旅客機が2つ突っ込むなんて想定して建物なんて建てないだろう。
あの建物の中で働いた経験があり、喧嘩別れをして恨みつらみを語っていた人が居てもその人は責められるべきではない。
911テロは、結果的にその首謀者と呼ばれる者に憎しみが向かった。
ハイジャック犯にはアフガニスタン国籍は一人もいなかったこと。
憎しみを扇動したものが居たこと。歴史は繰り返してはならない。
たくさんの人の命が失われた。そして文化も。
そこから考えることはこれからも色々あるだろう。ありすぎて、疲れるくらいだ。
幸い日本は法治国家だ。人の理性が試される。思考を持って対応しなければならない。
まだ一週間も経っていない。もう少し頭を冷やすためにも、喪に服したほうがいい。
悲しまないと、次に進むことは出来ない。
この方はアニメーションに詳しい人の中では知らない人はいないだろう大物メーターではないかと考えられている。
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京アニ放火「2階から飛び降りた」迫る黒煙、決死のダイブ 男性社員が証言
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190722-00000647-san-soci
これから元増田は食洗機の設置にあたりいろいろ悩むことになろうだろうから余計なお世話でうちの事例を書いておくわ。
上記環境で利用してるけど音に関してはそれほどでもない。とはいえテレビ見てる場合は音量を少し上げないと聞き取り辛くなる。ドラマとか集中して見てる時は邪魔になるので、一時停止したりしてる。音に敏感だったり、BGM流してる人とかだとそこそこ気になるかもしれないので、その場合は4時間後に稼働する予約モードを利用して夜中や不在時に動かすべし。
これはマジで時間かけて測量しまくるべし。ついでにネットとかで画像みるより電気店で実物をみて、大きさを実感しておけ。うちは、ダンボールで同じ大きさの模型をつくって置いてみたりして、奥さんも含め、うわぁでけぇ・・・ってなって見た目的に一瞬ためらったけど最終的に導入に踏み込んだ。
幅や奥行き、高さだけじゃなくて、前の扉を開いた時に、水洗機器とかにあたらないかもちゃんとチェックしとけ。ちょっとでも怪しいと設置で確実に詰む。
我が家はダンボールで模型まで作ったにも関わらず、扉開いた際にコンロ前ガラス(こんなやつ→https://www.giya-man.com/shouhin/kanamono/stand_03/shousai.php)に3mmほど当たって、あわや詰みかと思ったけど、ガラスが取り外し可能なタイプだったので、少しずらすだけでなんとか設置完了できた。
意外と盲点なのがアース線だ。水回り機器なので漏電防止のためアース線をちゃんとつけることがメーカー保証上必須。特に対面式キッチンの場合、アース線を繋ぐ場所がないケースがあり得る。我が家もアース線でいったん詰んだんだけど、5mのアース延長線を購入して、壁や冷蔵庫裏を這わせてなんとか食洗機まで繋げた。アース線の延長は保証には影響しないのも確認済みだ。
据え置き型の場合、既存の水栓機器に分岐水栓をつけて食洗機に水を補給することになる。分岐水栓自体はちゃんと型を調べて購入すれば特に問題ないけど、これが結構高くて1万5千円くらいするから予算にちゃんと見込んでおかないと焦ることになる。例えば食洗機本体を購入した際のポイントで、分岐水栓の費用の一部を賄いながらネットで購入するという手もある。
できれば設置工事を頼め。うちは設置スペースやアース線の懸念があったから自分で設置したけど工事器具の購入やらで結局3000円くらいかかった。主には分岐水栓を取り付けるためのレンチ。100均ので大丈夫だろと思ってたら、挟む幅が思いの外必要で、幅が自由に調整できるレンチを購入した上で、更に作業上、一箇所を抑えながらもう一箇所を回すみたいな工程があって、結局2つのレンチが必要になった。何か懸念があるなら可逆性を担保しながら、確認しながら作業すべし。ちなみに古い水栓機器だと錆びついててうまく取り外しができなかったり、業者に傷をつけられたりするらしいから気をつけろ。
賃貸の場合、一応管理会社に連絡しとけ。現状復帰してくれれば問題ないよって言われるだけだと思うけどな。
食洗機万歳のコメントが結構並んでるけど、かなり容量が大きいサイズを買った割に、2~3人分でも1度では洗いきれないケースが多い。食器を入れたら鍋はせいぜい1つが限界で、残りの鍋や炊飯器とかは、別途回すか、手洗いが必要になる。
これは人それぞれなので割愛。一つありがたいと思ったのは、洗浄時に結構な高温になるため、殺菌作業が不要になったこと。肉を切った後の包丁とか熱湯をかけたりしてたけど不要になったわ。
「笑える」とか「明るい」良書って、意外と難しいもんだよね。
自分内「ひとにおススメできる本リスト」も、「悲しい」「暗い」「つらい」「読むのに集中力がいる」本が多い。
なんとか、明るく気楽に読める面白いやつを絞り出してみた。
・ユーモアミステリ、もしくは希望のあるミステリ(『カササギ殺人事件』を読了済みのご母堂には今さらかもしれないが)
宮部みゆき『今夜は眠れない』『ステップファザー・ステップ』
・ユーモアエッセイ(エッセイはひとつひとつが短いので、よいかと)
・明るいノンフィクション(古本・模型・文楽の話だが、興味なくても大丈夫。自分もまったく興味ないが面白かった)
『今夜は眠れない』『田宮模型の仕事』以外は短編集だったりエッセイ集だったり、一話が短くて休み休み読むのにいいと思う。
あなたも無理しないでね!
フチゾリネッタイコシビロだんごむしの10倍尺フィギュアが、私の目の前にある。3ヶ月ぐらい、ずっと探していた。やっと手に入った。
くぼんだ手のひらにちょうどおさまるジャストフィット感。卓上に置いても映えるし、同居人(私と同居している人間)の腹の上に乗せても生物めいた可愛さが強調される。たくさんの足とまるい体と、スカートみたいな後ろの方の節が、おしりに向けてきれいにすぼまっていくのも良い。朝の通勤電車にいても良いと思う。手すりや、つり革や、みなさまの肩の上に…。
バンダイが発売している「DANGOMUSHI03」というガチャガチャ(以降、ガチャ)を引くと、このだんごむしのフィギュアが入手できる。
https://gashapon.jp/dangomushi/
そもそも、仕事の往路復路にあまりガチャは置いていない。それに、あたりをつけようにも、バンダイの公式ページにはだんごむしガチャの設置場所が記載されていない。だから、ツイッターのタグで検索をかけて、しらみつぶしに口コミを探すしかない。
そこで、私は同居人(ツイッタラー)にだんごむしの捜索を依頼した。同居人は、「誠心誠意だんごむしを探す」と言って、近年稀に見る真面目さでだんごむしガチャの置き場所をリサーチしはじめた。結果、新宿の高島屋タイムズスクエアに入っている東急ハンズ内に、目当てのガチャが設置されていることがわかった。
そこで、我々は4月の土曜日に新宿に繰り出すことにした。その日は春一番の陽気だったので、新宿御苑で桜を見ながらぐるっと散歩した。それから、近くの店で大盛り(無料)のざるうどんを平らげた。美味しかった。最後に、件の東急ハンズに向かった。しかし、そこに、だんごむしガチャはなかった。同居人は、落ち込んで口をきかなくなった。
東急ハンズが入っている階から、エスカレーターで3階分降りたくらいのタイミングで、私が「落ち込んでるね」と声をかけると、同居人は「落ち込んでる。だんごむしはいらないけど」と答えた。同居人は調査に関わる仕事をしているから、だんごむしが見つからなかったことは沽券に関わるのだろう。
そして昨日、私はたまたま東京駅にいた。家に帰る途中で経由する駅だったが、ふと「東京駅にもガチャあったよな」と思い立った。思い立った勢いのまま、丸の内側の横須賀線入口から八重洲口まで早足で歩いて移動した。もしかしたら、あるかも。
私は東京駅地下一番街に潜り、さまざまなガチャが肩を並べる「ガチャガチャストリート」みたいな名前の通りに到達した。子供や外国人が和気あいあいと遊ぶ中、いい歳した女性がガチャに張り付くのは気がひけるので、何も見てないそぶりでガチャの前を早足で歩く。そして、ストリート最後列のガチャにたどり着いた。そうか、なかったか…。そう思った矢先、私は発見した。そう、ガチャを!だんごむしガチャを発見したのだ。
ガチャを回すと、10倍尺のフチゾリネッタイコシビロだんごむしが丸まった状態でごろん、と排出された。私はだんごむしの外側を覆っている透明なパッケージをむしり、右手に丸いだんごむしを握りながら帰路についた。同居人にSNSで報告すると、とても喜んだ。
その日、私より遅く帰宅した同居人は、食卓に転がっている茶色い巨大なだんごむしの模型を見て、「捨てればいいと思う」と端的に感想を述べた。
子供が新小1なんだけど、用具の名前付けがありまして。筆記用具やら教科書やらノートやら。それ自体はまあ普通で、幼稚園の時にも名前付けはありました。
ただ「さんすうセット」。これがいけない。なんだこれ。拙者たちの時分には無いものでした。サイコロ、おはじき、時計の模型、etc…。色々ござる。1枚ずつに120までの数字が書いてあるカードとか。「けいさん棒」なんてのもある。綿棒くらいの大きさの棒が100本ほどござる。そして「けいさんかあど」、これも多い。2+3など簡単な計算が書いてあるカードで180枚くらい。
数がそれほどではないけど細かい物もある。おはじき、プラスチック製硬貨、得体の知れないマグネットブロック「すうずぶろっく」(訛りだろうか?)。
諸々入ったさんすうセットですけども、これらの名前付けってのが全部に対して必要である。全部?それってどういう範囲での全部です?いや、全部。全部?全部だ。
ひえー。手書きで?いやまさかまさか(笑)。文明の利器、名前シールがあります。楽天等でさんすうセット専用のものが売っております。大変便利、名前がプリントされた大小のシールが約800枚入りでございます。これが文明でございます。いやいやいや。800枚ってお前。800枚入ってるって事は800個に貼るって事だぞ。馬鹿かこれ。しかも名前シールにピンセットも付いてくんの。サービス良いね。いやいやいや。ピンセット付いてくるってお前。ピンセットが必要な作業って事だぞ。文明の辿り着いた場所がこれかよ。
このさんすうセットを入学式の日に渡される。3月中渡しの学校もあるらしい。しかし我が子の通う学校は入学式渡しである。すなわち馬鹿である。これを授業始まる日までにやれってか。アホってか。共働きの家とかどうすんのこれ。できないでしょ。できんの。やれる?やれるのか、おい。専業主婦の存在を前提とした悪しき時代の遺産とかなの?でも昔こんなん無かった…。無かった…。
うちより大きい子の居る家から噂には聞いてたけど、ダメでしょこれ。いかんでしょ。そのくせ終わっちゃったら「いやあ、あれは大変だったねー」レベルの思い出になってしまうやつでしょ。こういう恨み骨髄まで達さない癖に大変な一回きりの作業って、改善もされないから一番ダメなやつでしょ。
アホ。やりたくない。今しろ。今どうにかしろ。350枚くらい名前シール貼った。半分いってないの?ア…ア…ア…(絶望の表情)
大体これ各家庭一つずつ所有する必要あんの?クラスの備品にすりゃ良いんじゃないの。学校所有にして必要な時に貸し出しゃいいでしょ。と思って検索したら10年前既に通過した道だったわ
http://www.asahi.com/edu/tokuho/TKY200906010225.html
ただ通過してるわ。通り過ぎてて何も変わっとらんわ。殆どの家庭が一度しかやらないので廃止ムーブメントが盛り上がらない。私は現象になりたい。毎月末に各家庭のさんすうセットの名前を消して回る現象になりたい。そうすれば皆気付くであろう。目覚めるのです。
あとついでに、欠席の連絡もちょっと前に噂になった例のアレである。朝、近所の家に連絡帳を託して学校に持って行ってもらうシステム。電話連絡は不可。なんだー。幼稚園だとアプリで連絡できて楽だったんだけどこれコミュ障の親子どうすんの?いや他人事みたいに言った。うちがどうすんの。名前シールも貼れない大人が朝からまともなコミュニケーション取れます?ほんでPTAからの配布プリント見たらベルマーク貼る係がいんの。あ、これもはてブで見たことある。何時間も掛けて0.5円のシール分類したり台紙に貼ったりします?良かったらうちのピンセット使います?マジかー。これも現実だったかー。私立校だと違うんかなー。なんかこう、私立だと凄いのあんじゃないの。そもそも電車通学の私立小なら連絡帳託すシステム無理だし。例えば電話で欠席の連絡が可能だったりする画期的な…。ひっ、これが格差社会!
それにあなたの名前は真綾であって、しおりではないでしょ! 嘘つきなのはあなたの方じゃないか!
確かに嘘つきのキツツキもいるかもしれませんが、全てのキツツキが嘘つきのわけがありません。
そもそも、動物を動物という種でくくること自体、差別的な表現なのです。
そこで、たった一人にのみ該当する小さい主語を使った「キツツキは嘘つきだから気をつけて」に変わる新しい歌詞を考えてみました。
「庵野秀明がヤマトの模型を自身のアナルにぶち込むくだりがあった気がしたけど何度SHIROBAKOを見返してもそんなシーンはないから気をつけて」
「榎本温子がBe My Angelを歌ったのは21歳のときだから気をつけて
今回のTwitter関連の騒動、Twitterジャパンがどういう風に運営するかは知らんけど、十中八九二次エロ界隈はロリ非ロリ関係なく範囲攻撃されるよね。
でも狙いはゾーニングとかそんなんじゃなくて、広告クリッコしないであろう層の排除であって国連云々はあくまで方便だと思う。
どうせ絵で凝ってる陰キャキモータとか金ないし金ないから股開くナオンもいないしだから結婚もしないからマンションや家も買わない→広告業界からしたらいらん層なんだよな。
つーか広告クリッコしないくせに文章連投してる奴とか内部の人からしたらトラヒック逼迫させるだけのゴミだからね。
ブコメとかツイの界隈見てると「アズレンはどうなるんだ!」とか学生時代から久々にキモータシバけてウキウキしてる人たちも見るけど、
多分アズレンアイマスFGOとかは広告費ジャンジャン出してる以上例外的に保護されるんじゃねえかなーと予想。
でもそれ以外のオタ界隈の人はみんな消える。BL百合なんかも上記の理由でキルリストの二行目三行目には載ってるんだろうし。多分名目は同性愛の搾取とかそんなん
劇画エロ漫画みたいなのも同様かな。アングラ系サブカルは金になんねえからな…
同様の理由でドール&フィギュア界隈も消える。そのあおりで模型界隈も機械的に。よって模型会社の公式が凍結みたいなのは今年中にありそう。
あとツイッター社にみかじめ料払ってないのに自分の垢で宣伝してる漫画家とか店も消えるんじゃないかな。これはどうだろ。流石にいきすぎか。
結局のところ、こういうウェブサービス会社からしたら広告クリックしてくれない属性の人は利益最大化するまでポイポイしていったほうが合理的なんだよな。
だから良い悪いという話じゃなくて、あー俺キモータじゃないからセーフとかやってないでBプランは考えといたほうがいいって話。
さて、私事ではあるが、私はひょんな事から知人の紹介を以て物書きとして仕事をすることになってしまった。
同人小説の一つも書いたことはなく、詩を紡いだこともないズブの素人が物書きとなってしまったのだから、これは一大事である。
世の中に生々しい悪臭を漂わせるクソのような文章を生み出すに違いない。同業の諸先輩方には申し訳のしようもないが、生きていくためには書いてみるしかないようだから、一つ堪忍していただきたい。
具体的に何を書いているのかという話だが、主にソシャゲのシナリオとフレーバーテキストの仕事をしている。
シナリオは新規追加キャラクターに付帯する「ガチャを回したくなるようなストーリー」であり、フレーバーテキストとはアイテムやキャラの説明文といった類のものである。
自他ともに認めるズブの素人であるから、面白いストーリーも売れるキャラクターも分からずに右往左往している私の論は大変滑稽であると思うが、思考を整理しながら意見を頂きつつ、私のような後進があった時の手がかりになればという考えでタイピングしているのでご容赦願いたい。
物申したい訳ではなくて、自らの認識と世の中の齟齬を確かめつつ、様々な意見に触れられれば良いと考えた訳である。
物書きとしてスーリーを生み出す以上、面白いと思われる作品を作らねばならない。
しかし、困ったことに今までの人生で面白いものを作ろうとして作ったことはない。作りたいから作った絵や模型は少々あれど、人にウケる事を目的とした作品を作ったことは全く無い。これでは何を良しとすれば宜しいのかが分からない。
初っ端から大きな壁にぶち当たり、困り果ててしまった私は「ここはひとつ、自分が好む『面白さ』を分析し、自分と同じ感性の人間にウケる物を作ることから始めよう」と考えた訳である。
そのために、まずは自分が好きな作品をリストアップしてみようと思い立った。
そうして思いつくままに好きな作品をリストアップしてみた訳だが、どうやら具体的なことは何も分かりそうにない。 困った困った。
(例として『攻殻機動隊』『エヴァンゲリオン』『松本零士戦場まんがシリーズ』『姉なるもの』『装甲悪鬼村正』『DARKER THAN BLACK』『Fate/stay night』『イヴの時間』『カウボーイビバップ』『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』『殻ノ少女』『ARIA』などが浮かんだ)
パッと見で抱く第一感は、大抵の作品には何処か仄暗さがある事、ハーレム物ではない事(Fateはハーレムに近いが)が共通項であるという事ぐらいだろうか。
(一見明るく見えるARIAだって地球の海はすでに人の泳げない環境になっており、テラフォーミングされた火星の海で人が営む話だし、その他の作品も主人公格のキャラが暗い過去を背負っていたり、あるいは直面している状況が暗かったりする。)
あとは私が「根暗で面倒くさいタイプのオタク」のような何かであることぐらいは分かるのかも知れない。
本筋に戻るが、素人なりにこれらの作品を嗜好する人間が好む『面白さ』とは「その世界をキャラクターを通して知ること」ではないかと私は考えた。
例えば草薙素子がメスゴリラではなくか弱い少女であっても、碇シンジが熱血爽やか少年であっても、私は攻殻機動隊やエヴァが好きだっただろう。
なぜなら彼らがどのような性格や外見であっても、あるいは登場せずとも、世界設定が同じならだいたい同じように世界は動くだろう。
極論を言えば草薙素子がか弱い乙女であり公安9課に勤めていなくとも人は義体化し続けてゆくし、あるいは碇シンジが初号機に乗れと言われた時点で超ノリノリであっても、最初に戦う第三使徒サキエルにはコテンパンにされ、進化し続ける使徒を食い止めきれずにサードインパクトを迎えるだろう。
キャラの性格や外見がウケなくとも物語は進行し、あるいは登場せずともその役目は別の人物が担当して物語は収まるべきところに収まる。なぜならその世界はそういうニーズを抱えて生まれるからだ。
しかしそれではつまらないから、面白く見える視点を借り受けることで、物語は娯楽作品として成り立たせることが可能になる。
結論として、私は「キャラクターとは世界観に内包される1つの要素であって、世界の覗き穴でしかない」という考えに至った。
しかしこれを知人に語ったところ、「世界はキャラクターに内包されている」という返答を得て混乱することになり、こじらせ続けた結果としてこの日記を書くに至ったのである。
まず私は混乱を与えた知人に「なぜ世界はキャラクターに内包されるのか?」と問いかけてみた。
すると彼は「大塚英志を読みなさい」と言うので、彼が勧める「物語消費論改」に目を通し、今の私にうってつけの本のように思えた「キャラクター小説の書き方」も読んでみた。
大塚英志の書く文章は客観的なエビデンスを示す事よりも、一つの前提を提示した上で理論を展開する事に重きを置いているように思え、彼の取る左翼的立場(いわゆる大多数の革新派とは別物との自覚があるのか、自身は『サヨク』と表記するが)が突如乱入して辟易する事もあり、中々体力の必要な内容であったが、ひとまず読み切った。
彼の書き込んだ政治的なノイズと、理論展開をしたかっただけの文章をフィルターに掛けながら読んでいくと、どうやら物語というのはキャラクターがいないと生まれないものらしい。
キャラクターが初めに存在し、ストーリーを作る中で世界が見えてくるのだという。
なるほど、確かに何かしらのネタがなければ物語は書けないし、世界を描写することができないように思える。
例えば年齢や性別を設定されたA子さんというキャラクターだけがそこにいて、世界観がなかった場合はどうだろうか。
この場合、A子さんに生まれるのは虚無の中に放り出されたと言う事実だけである。
もし、その「『何もない世界』を受けてA子さんが得た情動こそが物語である」というのならば、それは虚無と言う世界観がないと成り立たないのではないか。
逆に、例えば「中世風の世界」があったとしよう。登場するキャラクターの設定は何もない。
中世風の世界といえば、人の頭の中には剣戟や鎧がたてる金属音や、あるいはそこで生活する人々が桶を片手に井戸に水を汲みに行く姿などを思い浮かべるだろう。
そして、多くの人は中世と言われただけで頭の中にヨーロッパの景色か、日本の中世を思い浮かべたのではないか。
あたり前のことだが世界観には内包する事物があり、事物には経緯がつきまとうものである。
世界観を定めたことで、これらの自然な在り方の幅が定まり、人物も含めて存在する範囲が決定される。
たとえ時間が静止していても、大木には新芽から育った歴史があり、水すらも水素2つと酸素が結合したという経緯が発生する。
私はこれらの変化こそが物語なのではないかと考えているのである。
即ち、その世界で起こった変化を拾い上げた時に、初めて事物がキャラクター化すると考えているが故に、私はキャラクターが世界に内包されるという考えが捨てきれない。
そして、物語の本筋というのは、それらの小さな変化全ての集合体であり、世界観そのものがストーリーであると考えてしまっているのだ。
うーん…困った…。なんでキャラクターに世界が内包されるのだろうか。
A子さんの主観から書いた物こそが物語であり、A子さんの認知した物こそが世界観であると定義するのだろうか?わからん…
うーんこまった。うんこまった。
なぜ困っているのかは次項で触れよう。
上記の様に「世界にキャラが内包されている」と考えている私が、物書きとして初めて書くことになった物語はソーシャルゲームに追加される新キャラのイベントストーリーだった。
この仕事のキモは、有料のクジ引きでプレイヤーが獲得できる新キャラをプレイヤーに対して強烈に売り込むことである。
具体的には運営会社が考えるキャラクターの「良さ」を引き立てるためのお話を一本仕上げるのだ。
ここで私は早くも躓いた。
何故ならソーシャルゲームにはベースとなる世界観があり、主要キャラはすでに出揃っており、本筋の進行に何ら問題のない所に、いきなり「強烈な売り込み」を必要とするキャラが登場してしまうからである。
本筋の話に必要のないキャラクターを、いかにも重大で必要な魅力を持っているかのように持て囃し、そのために何かしらの話を世界観という大地から発掘して、プレイヤーの周りに再配置する作業となる。
そして、運営としては本筋に明確な終わりを与えてしまうとプレイヤーが離れてしまうから、本筋だけを避けて大地を穴ぼこだらけにしながら不要物ばかりが増え続けていき、やがてはプレイヤーの周りに綺麗にそびえ立つ「本当はどうでもいいキャラ」の山が本筋を隠してしまう。
これは、私の「世界に内包されたキャラクター」の考え方だと避けて通ることは叶わない結果のように思える。
しかし、「キャラクターに内包された世界」という考え方であれば、大地の形は定まっていないので、きっとプレイヤーの周りに何処からともなく取り出した土を積んでゆく作業となるだろうから、なるほど確かにそちらの方がソーシャルゲームに向いている。
ただし「どこからその土(物語)を持ってきたんだよ」という疑問とともに、「別にその土がなくてもこの世界は存在しているし、その山は不要じゃない?」という感想を得る私のような面倒な者も少々発生するだろう。
「要・不要でしか語れない虚しい奴め」と言われればそれまでだが、こちらとしてはいきなりステーキか、或いはさわやかハンバーグでも良いが、兎も角ステーキハウスで3000円のステーキを注文したら、鉄板の上にステーキを覆い隠さんほどのミックスベジタブルを乗せられた心持ちなのである。
いきなりステーキの店員としても、ステーキが主役なのに上役の指示でステーキを切り捨ててでもミックスベジタブルを山程ぶち撒けろと言われて途方に暮れててしまうだろう。ステーキの前でアホ面を晒してミックスベジタブルを握りしめている店員こそが私なのである。
私は本筋を覆い隠さんほどのサブキャラを並べるという在り方は、本筋へたどり着かせない為だけの行為にしか思えず、ベースとなる世界観にガチャの新キャラを紐づけていく意義を上手く見いだせなかったのだ。
前項で困っていたのはこの点であって、物語がキャラクターに内包されているのであれば私の考えが間違っているだけなのだが、どうやら一応理屈は通っているように思えてしまっている。
え?意義はお金を稼ぐ事だし、キャラも理由なく存在していてもいいじゃないかって?
まあその通りなんだけどさ…青臭くってウブな駆け出しとしては、ちゃんと物語を進めたいわけよ…
え?面白ければ本筋がどーこーはどうでもいい?
それも最もな話よ…だけど、面白いって何さ?
ようやっとこの4項目にして表題に触れられた。
展望も何もなく書いてきたので、まずはここに着地できた事で一安心である。
「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクター」に塗れた作品であっても、成功しているコンテンツというのは存在する。
何を隠そう大部分のソシャゲは「本筋が遅々として進まず(或いはほとんど存在せず)、本筋に絡まない=世界の動きに絡まないサブキャラクターに塗れている」にも関わらず、利潤を得やすいガチャ商法を確立し、商業的に成功していると言えるだろう。
しかし、これは「プレイヤーが楽をして手に入れられる娯楽としては」という但書が付属するのではなかろうか。
例えば、人が10時間の自由と完全に健康な体を手に入れたとして、目の前に据え置きのゲーム機とスマホが置いてあり、何れかの"ゲーム機"で好きなゲームをして10時間消費できるとしたらどちらを選ぶだろうか?
多くの人は据え置きゲーム機を選ぶと思う。
ソーシャルゲームを10時間プレイするということは、多くの場合は右手の親指で、画面の右下を5秒毎にタップする10時間を過ごすことになるだろう。
ソシャゲのファンタジーゲームよりもドラクエXI、スマホの荒野行動よりもPS4のPUBGのほうが良いユーザー体験を得られることは当然である。
(バトロワゲーにおける「物語」とはプレイヤーのプレイそのものであると私は考えている。つまり、より派手に快適に臨場感を得られるPUBGのほうが物語を鮮明に作り出すことができると思っている。まあ、異論どころか非難轟々かも知れないが、本題とは離れてしまうので一旦放置してほしい。)
しかし現実には日本のゲーム市場はソシャゲが大きな地位を不動のものとしている。
これは、プレイヤー自身が体験・考察・のめり込む事なく「楽に手に入れられる娯楽」を欲しているからだろうと思う。
つまり「さっと注文して、さっと食べ終えられるファストフード」のニーズが高まっているのだと考える。
ここで本題に戻るが、端的に言ってファストフード的娯楽に、「大きな物語の展開を推察し、その行く末を記憶して楽しみにする」という『面白さ』は重すぎる。
世界観や、大きな物語の動きを受け取ることができるプレイヤーに対して、ファストフード的娯楽を求めているプレイヤーが圧倒的に多い。
故に本筋を覆い隠してでもサブキャラを増やしまくり、ゲームの本筋とは関係のないキャラ推しの話を通勤電車の中で10分で摂取させ、その体験を通してガチャを回させて達成感を与える訳である。
本筋というハイカロリーでの御馳走を消化するには、健康な消化管と食後にゆるりと過ごすことができる時間が不可欠だが、これは時間とタスク処理に追われる現代人にはちょっと厳しい要求だ。
故に、消化が楽で手早く終わるローカロリーな立ち食い蕎麦である、本筋に干渉しないキャラシナリオをちょいと摘むぐらいがちょうど良いという世情があり、まぁ立ち食い蕎麦も許せないほどマズイ訳ではないから多くの人が食べるのだ。
そしてこの2つを比べた時、多くの人は無意識のうちに御馳走と立ち食い蕎麦を「比べるべきではない両者」と判断して、或いは意識的に御馳走を我慢して立ち食い蕎麦を選んでいると言う構図なのだろう。
どちらを食べてもひとまず空腹は収まり、なんとなくか明確かの違いはあれど「美味しかった」という感想が残るから、死に物狂いで御馳走を求める酔狂なグルメ以外は、立ち食い蕎麦でも満足感は得られるのである。
つまり、ベストである必要が無いと言うのが、物語の器たる創作物に求められているのではないか。
結局のところ私はここまで考えた所で面倒くさくなってしまった。
本当は物語の捉え方を考えていたはずなのに、到着したのは「求められる面白さ」になり、挙句の果てにはステーキと立ち食い蕎麦だ。救いようがない。
さて、脱線し続けた挙げ句、私はこの記事の命題である「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」という問いには、一旦以下の答えを与えることにしようと思う。
Q.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは何が面白いのか?」
A.「本筋が進まないシナリオ、世界に干渉できないキャラクターは一番面白い訳ではないが、なんとなく面白い位にはなる」
つまり、結論として、「本筋の展開する面白さ」は今の創作物には重すぎる。
キャラを立たせてキャラを売った方が、消費者に優しいし、会社としても嬉しいのだ。
ベストではなくベター良いから、世界に干渉できないキャラクターでも十分であり、安心できる経営につながるということだけは確かなようだ。
私は物書きの入り口に立った以上、そこをうまいことやっていく必要があるらしい。
さて、私の眼前にそびえ立った、ステーキの上にぶち撒けるべきミックスベジタブルはどうしてやろうか。
ミックスベジタブルを手早く、それなりに美味しく仕上げる方法をご存知の方、或いはこのステーキとミックスベジタブルが載っている鉄板料理の良い拵え方をご存知の方がいれば、教えていただければ幸いです。
今小学三年生の甥っ子の誕生日プレゼントなにがいいか教えてくれ。自分理系の30代。滅多に会わないけど甥っ子とはとても仲いい。
甥っ子は昔から薬とか化学が大好きで、分子構造の模型とか元素表とか好き。あとは図工も好き。
自分の世代なら空想科学読本とか大好きな感じの子供なんだと思う。
女ばかりの家系で男が少ないから理系のおじさんとしてなんか世界を広げるようなものをあげたいんだけど、なにかいいのないかね。
面白い本とか、おもちゃとかだと思うけど、いいのが浮かばない。世界で一番美しい分子の本も候補ではある。すでに持ってるかもしれなくて、最悪図書券かなとは思ってるけど。。