はてなキーワード: 本多とは
家で食べようと焼き鳥を買って帰ったら注文してないつくねが一本余計に入ってた。
買ったのは全部で4本。1本100円だから400円しか支払ってないし、商品と引き換えにお金を渡したから相手も間違えるわけがない。
レジ打ちの仕事してたときに釣り銭間違いは自腹だったから、自分が支払いするときもお釣りを確認して、多いときは絶対に相手に返すようにしている。
家に帰ってから気づいたから返しに行くのは面倒くさい。それに食べ物だから1度人の手に渡ったものを返すわけにもいかない。
体重考えて食べたい気持ち抑えて4本にしたのに食べ物を捨てるのもどうか。
「おまけしておきました」の一言でもあれば断る選択肢があったのに黙って入れられたことが本当に腹が立つ。
泥棒みたいなこと押し付けられて喜ぶ人間に見られたかと思うと怒りしか湧いてこない。
どうやら近くに競合店が出来たからそれでなのか?
黙って一本多めに入れておけばまたこの店に来てくれるとか思った?
残念だったな。こんな店二度と行かん。頼むから一日でも早く潰れてくれ。
先日、関電の大飯原発の運転差し止めの判決が出ましたが、まったく科学知識のない裁判官が、反米、反原発の団体が騒ぎ立てているのとまったく同様な判決理由には呆れ果てました。厳正中立な立場にあるべき裁判官が、原発の危険性だけを強調していますが、火力発電は毎日、生物の生命に必要な膨大な酸素を消費し、二酸化炭素、砒素等の毒物を排出し、地球環境の点から原発以上に危険なことは明らかです。更に、例を挙げればB型肝炎等の判決でも、明確な原因が判明しないのにもかかわらず、国が破産しかねない莫大な賠償金の支払を平気で命じています。私達から見れば、この裁判官は国民のためでなく、国に損害を負わせることが目的で裁判を利用しているような気がしてなりません。最近、このような摩訶不思議な裁判の判決が多々見られます。裁判官は常に厳正中立な立場での判決が要求されます。このような亡国裁判官は排除、淘汰できる法律の早急な整備が必要と考えます。
https://monitor.gov-online.go.jp/report/kokusei201404201503/detail.php?id=1388572
ダウン症候群(ダウンしょうこうぐん、英: Down syndrome)は、体細胞の21番染色体が通常より1本多く存在し、計3本(トリソミー症)になることで発症する先天性疾患群である。
多くは第1減数分裂時の不分離によって生じる他、減数第二分裂に起こる。新生児に最も多い遺伝子疾患である。
症状としては、身体的発達の遅延、特徴的な顔つき、軽度の知的障害が特徴である。
平均して8-9歳の精神年齢に対応する軽度から中度の知的障害であるが、それぞれのばらつきは大きく、
現時点で治療法は存在しない。教育と早期ケアによりQoLが改善されることが見込まれる。
ダウン症は、ヒトにおいて最も一般的な遺伝子疾患であり、年間1,000出生あたり1人に現れる 。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
3本ってなんだ?と思った人の為に。
みなさまごきげんよう。
発掘された日本列島2017展に行ってまいりましたわ。
文化庁の主催で近年の発掘成果を各地の博物館をまわって紹介している展示会なのですわ。
旧石器時代から幕末の軍艦「開陽」まで日本中の出土品がありました。
縄文時代の高根遺跡は斜面に500基もの貯蔵穴が掘られていたそうですの。
艦砲射撃の後とと勘違いしそうですわ。縄文人ってパワフルですわね。
石屋古墳のお馬さんの埴輪には、丸い輪っかのあぶみが表現されていました。
古代からのどこかで変化したはずですわ。平安時代あたりかしら。
「てつはう」がいくつか展示されていました。
貝殻の付着して割れた「てつはう」の姿に兵どもの夢のあとを感じましたわ。
開陽は「蝦夷共和国」の主力となった艦ですけれど、座礁して沈没したのですわ。
拳銃は英語表記では「S&W No.2」と細かく説明されているのですわ。
現在発掘された日本列島2017展が開催されている安城市歴史博物館のミュージアムショップでは
本多様は両方売り切れ、ストラップは徳川様と井伊様も売り切れ、
でも、遠江出身の井伊様を出して、酒井様と榊原様は出さないところが不思議ですの。
「豊田市民芸館・民芸の森」と「豊田市近代の産業とくらし発見館」に行ってまいりましたわ。
「豊田市民芸館・民芸の森」はたくさんの建物があって、それぞれで展示がされていました。
民芸の森では明日イベントがあるらしく、たくさんの人が作業をされていて、
このあたりでは民芸と陶磁に造詣が深い本多静雄という方が活動していらして、
彼に招かれるようにして加藤唐九郎氏ら、著名な陶芸家があつまって
コミュニティを作っていらしたそうですの。
民芸館のひとつでは陶芸家河村氏三代の作品が企画展で展示されていました。
ひとかかえあるラスター彩壷が綺麗だったのですわ。
棚に並べて置かれていて三百六十度から観察できなかった点は残念でした。
二階建てで三つの部屋があるのですが、机と椅子ばかりで生活感が
まったくありません。
明治時代の西洋館は打ち合わせ用で、生活の場は和風の屋敷だったという
陶芸などの教室では多くの人が活動されていて、活気がありました。
「豊田市近代の産業とくらし発見館」は豊田市で生産されていた生糸関係の展示をメインにしています。
ちょうど実習室で生きたお蚕さんの展示がされていて、
岡崎城に行ってまいりましたわ。
城内は公園化しつつも売店や神社が散在しておりカオスな状況でした。
展示施設は「三河武士のやかた家康館」と「復興天守」がメインになります。
彼を支えた三河武士を展示の中心に据えている建前になっています。
ところが目玉的な展示は、ジオラマと映像で関ヶ原の戦いを描くものですの。
東軍の主力は外様で、三河武士の精鋭は秀忠と一緒で間に合っていませんわ・・・・・・
井伊直政の抜け駆けと本田忠勝の働きはありましたけど、正直物足りなかったですわ。
長篠なら大久保兄弟と酒井が、姉川なら榊原康政が活躍しますのに--
あと大谷吉継隊の模型が回転しきらずに止まってしまっていて非常に気になりましたわ。
やっと回転しきって残っていましたわ。
フレームストラクチャーを思わせる刃紋が浮かんだ刀剣の武蔵守藤原永道が気に入りました。
鞘に緑のラメが入っていましたの。
加茂一揆のジオラマ展示があり、農具に毛の生えた武器をもった一揆勢を
岡崎藩兵が弓矢鉄砲を使って容赦なく鎮圧する様子が描かれていました。
おそろしいおそろしいですわ。
江戸時代の宿場町で横行した強引きわまる客引きを見ることができますの。
家康生誕の岡崎城を最後に治めたのは本多忠勝系の本多家ですけど、
陽気と有名な藤の花のおかげもあって結構な人出でしたわ。
追記
id:hilda_i様 マリー・アントワネット様にあやかるのは、すでにやったのですわ
弥八郎にはいじわる爺さんのイメージがありますが、大久保忠教の方がいじわる爺さんに思えてきました。
感情のこもった歴史史料を遺すと裏目に出ることもあるのですね。
やはり本多正信関連の史料は書状が多く、甲冑は弟の本多正重関係の二領でした。
次男の政重の活躍を考えても、正信も怪我さえしなければ猛将として名を馳せるポテンシャルは
あったのかもしれません。
三河一向一揆で酒井忠尚が下克上に成功していたら?と並んで思い描いた歴史IFです。
上杉景勝の書状が興味深く、彼は半分に折った紙の上半分だけに文章をしたためています。
(いつも紙の真ん中あたりで墨をついでいることが分かる書状にはつい笑みが零れてしまいましたわ)
他の武将は折った紙の下半分にも文章や花押を書いている例があるのですが、
上杉景勝はかならずきっちり下は真っ白にしていらっしゃいます。
主君と部下で公文書とやや非公式な文書の分担をしていたのでは?と感じましたわ。
できれば榊原康政がよかったですわ。
妹に「すっげー感動すっからマジ見てみ」と言われて『君の名は。』を見に行った。全然感動しなかった。
体が入れ替わったからって、どうしてお互いのことを好きになり始めるのか全く理解不能だった。
しかもお互いに記憶が失われているんだったら、何か気になって「君の名は?」とか聞くまでに、
「あのー前に会ったことありましたっけ?」とか聞くだろ、つかこれじゃベタなナンパだろ、とか思った。
そういえば、大昔に細田守監督の『時をかける少女』を見たときも、友人に「マジ感動するから見てみりん」とか言われて見に行った記憶がある。
でも、全然感動しなかった。「あれ、これってどこらへんが感涙ポイント?」的な感想しか思い浮かばなかった。
「未来でお前を待ってる」と言われても、「えーでも再会するときはヒロインおばさんになってるよ?」としか思えなかった。
昔から「感動するよ」と言われて見に行った映画で感動したことがない。
アニメではないが『西の魔女が死んだ』という映画も薦められて見に行ったが、見終わった後「( ゚д゚)ポカーン」としかならなかった。
みんなは「ダッシュツダイセイコウ」で感動するの? なんで? キム兄がタンクトップでキモいから?
ま、それはともかく、恋愛もので感動できないのはたぶん自分に恋愛経験がないからだろう。
逆に『ドラえもん』幻の最終話(CGアニメ化済み)のような、友人との別れものは結構泣ける。
これは自分に引っ越しの経験があって、親しい友人と二度と会えなくなるという辛い経験をしてきたからだろう。
ようするに、作品鑑賞というのは人生経験が大事なんだよね、当たり前だけど。
自分はどんな恋愛ものを観るたびに「( ゚д゚)ポカーン」としてしまう。
男が女に恋するのはまだ何となく理解できるけど、女が男に惹かれるシーンがどうも納得いかない。
『真田丸』で真田信幸に本多家から嫁いだ吉田羊が突然信幸に抱きつく場面が納得いかず、母親に質問したくらいだ。
(答えは「(夫が前妻にばかり気が向いていることに対する)嫉妬で火がついたんだよ」だそうだ。そうだったのか?)
恋愛ものって、まるで中東かアフリカの紛争の話を聞いているときのように、
恋愛という意味で他人に強く心惹かれたことも、他人から強く執着されたこともないので、恋愛ものに全然現実感がない。
自分にとっての「好き」はマンガなら「週刊誌で一度読んでいても全巻コレクションしたい」程度の意味であって、
人間に対していえば「写真を撮りたい」「近くで眺めていたい」と思う程度のことだ。フィギュア鑑賞と同じ。
恋愛もので描かれているように一緒にいたいとか、相手のことが知りたいとか、理解し合いたいという感じではない。
たぶん多くの人に自分は宇宙人のようだと思うだろうし、自分には一般人が宇宙人にしか思えない。
『生き延びるための作文教室(14歳の世渡り術)』 石原千秋:著 2015年
・読書感想文などという何の役にも立たない糞のような課題を課せられる中学生のために、
"学校が生徒に何を求めているか"を解説し、それを意識した上で、せめてその枠の中で個性的に"見える"作文を書く手法を教えよう、というロックな本。
たとえば、先生に「もっと客観的に自分を見なさい」などと説諭されたことはないだろうか。端的に言って、これは罠である。この時先生が期待している、あるいは強いている答えは簡単だ。「私はまちがっていました」だけだ。
『伝わる・揺さぶる!文章を書く』 山田 ズーニー:著 2001年
・「その文章、何のために書くか?」
文章を書くときには「その文章が何を目的とするか」ということを見失ってはいけない。と解説する本。
会話と同様に、文章にも読み手と書き手のすれ違いがある。就職活動の自己推薦状の例で考えてみよう。
学生Dは、会社訪問を申し込み、「形式は自由だから、自己推薦状を書いて持ってきてください」と言われた。
Dは考えた。「学生生活を振り返って、自分が唯一やってきたのは音楽だ。自分には、音楽しかとりえがない」。そこで、「音楽への情熱では誰にも負けません」という趣旨の自己アピールを書いた。
このままの文章では、採用担当者は首をひねるだろう。その会社は、音楽にまったく興味がない。音楽への情熱が、入社後、何の役に立つのだろうと。
まったくかみ合っていない。採用担当は、仕事への適正を見たいのだ。その問題関心から外れたところで、どんなに自分をアピールしても意味がない。どうすればいいのだろうか。
文章書くなら読んでおいて損はない鉄板本だが、内容濃すぎて読み込むのに時間がかかる。
文章の綴り方がいくら上手くなったとしても、それに見合うほどに就職試験の評価が上がるわけではないので、
これまでの日本語教育の根幹を流れる方針は、理解力や記憶力ばかり重視し、独創性・想像力・創造力を最も必要とする作文を軽視または無視するというやりかたです。
~
だから今の小学校では、「綴り方」の時間さえも少なくて、そのかわり「読書感想文」などというものがあるんですね。
あれは作文というよりも理解力のテストみたいなもので、あれで作文をやったつもりでいたら噴飯ものというべきでしょう。おかげで読書も嫌いになる。
文章関係の本を読んでいると、「読書感想文は何の役にも立たない。あんなものを子供に書かせるな!」と筆者が憤る内容の記述がよくあるので、学生時代に読書感想文が書けなかったからといって気にする必要はないと思いますよ。
『右の義手も、左の人造の目を隠す様に伸びた前髪の下にかけている、一見ただの眼鏡にしか見えない処理端末装填済み縁なし眼鏡も異常なし。』
右の義手も⇒異常なし
かけている⇒眼鏡
右の義手も⇒かけている
左の人造の目を⇒かけている
と読めてしまう(全体を読めばコンテクストを理解し把握できるが、読みづらい。thatが四回出てくる英文みたいです)
隠す様に⇒伸びた前髪
なのか
隠す様に⇒かけている
なのか分からない。
『前髪は左の人造の目を隠す様に伸びている。その下に、一見ただの眼鏡にしか見えない処理端末装填済み縁なし眼鏡をかけている。右の義手にも、眼鏡にも異常なし。』
『前髪は左の人造の目を隠す様に伸びている。その下は一見ただの縁なし眼鏡だが処理端末装填済み。右の義手にも、眼鏡にも異常なし。』
『カーチャンスレィは風に乱れた髪を右の義手で押さえて直す。左の人造の目を隠した。縁なし眼鏡に表示された眼鏡自身のステータスと、接続された義手のステータスを確認。異常なし。』
こうすると眼鏡に情報処理端末が装填されていることが行動の中で明らかになる。
かかる語と受ける語は近づける『http://www006.upp.so-net.ne.jp/inamoto/writing/kumitatekata/kakari_chikadukeru.html』
一例。
『右の義手も、左の人造の目を隠す様に伸びた前髪の下にかけている、一見ただの眼鏡にしか見えない処理端末装填済み縁なし眼鏡も異常なし。』
正しくは
右の義手も⇒異常なし
かけている⇒眼鏡
だが、この文章では
右の義手も⇒かけている
左の人造の目を⇒かけている
と読めてしまう(全体を読めばコンテクストを理解し把握できるが、読みづらい。thatが四回出てくる英文みたいです)
また
隠す様に⇒伸びた前髪
なのか
隠す様に⇒かけている
なのか分からない。
コレを直すと
『前髪は左の人造の目を隠す様に伸びている。その下に、一見ただの眼鏡にしか見えない処理端末装填済み縁なし眼鏡をかけている。右の義手にも、眼鏡にも異常なし。』
『前髪は左の人造の目を隠す様に伸びている。その下は一見ただの縁なし眼鏡だが処理端末装填済み。右の義手にも、眼鏡にも異常なし。』
また、小説なのでただ説明するのではなく、行動を通して説明してみます。(このあたりは好みかも)
『カーチャンスレィは風に乱れた髪を右の義手で押さえて直す。左の人造の目を隠した。縁なし眼鏡に表示された眼鏡自身のステータスと、接続された義手のステータスを確認。異常なし。』
こうすると眼鏡に情報処理端末が装填されていることが行動の中で明らかになる。
参考
かかる語と受ける語は近づける『http://www006.upp.so-net.ne.jp/inamoto/writing/kumitatekata/kakari_chikadukeru.html』
≒世界の不毛化された記憶が凝結する地下墓地=ミイラや<死者>の住処
≒社会的あるいは象徴的に交換されなかった大文字の他者の語らい
≒自己複製子の乗り物(?)
≒相互性の平面の下方に放逐された過剰な欲動の場≒バタイユのいう「呪われた部分」
≒自己幻想の世界=無条件の連帯の肯定も平等も存在しない共同体で自己愛を過剰に傷つけられ自己認識が悪くなった存在=承認の供給不足にある存在
≒権力者側の情報ネットワークからヨソモノとして外されている存在
≒仕返しを招くような親密な共同体の絆が欠けている存在
≒植民地化された地域の周縁化された存在=ほかで許されないことが許される別世界=誇大自己を持った者の自尊心の基盤
≒暴言連発したり失礼な言葉を吐いても責任をとらされる事なく看過される対象
≒パノプティコン的な匿名の不可視の視線の下で見世物化された監視付き生活を強制されている存在≒近代社会の合理的理性を自称する存在による抑圧的意志の対象
≒生政治的範例
≒排除された後も外での動きも捉えられる存在 ≒日常においては禁止され構造から排除されている部分=構造内で下層に抑圧された者
≒非差異、無差別、連続=差異の抹消=相互暴力状態=怒号と喧嘩の音
≒警察権力が市民生活の内に力を発揮する場=秩序創成暴力の対象
≒一般市民より下の階層の者として認識され、愚か者の範疇に入っており、隠している愚かな事物を暴いても重大視されていない
•理想自我=想像界=小文字の他者a=内在的な他者=生物的な世界
≒マスコミやカタログ文化でつくり出された美化・理想化された自己イメージ
≒貧しい文化や洗練されていない不自然な表現=モテない存在=影の薄い人
≒掟の門の前で衰退していく棄民=勝手に「悪」とされ共同体メンバーに愛されず衰退していく者
≒状況を自覚していない灰人と知らされている共同体メンバーとの境界線上にいる人
≒「象徴的他者」の位置より一段下の、原始的な対象の位置(想像的なもの、性的慰安の対象)に留めおこうとされた「想像的他者」。ラカンは「対象a」とよぶ。転移を拒否された患者が、分析家をおく場所も、この「対象a」としての場所である。この関係は、相手に社会的な幻想を抱いていた転移の局面と比べてはるかに不安定で、患者の攻撃性が分析家に向け、容易に発動しやすい状態
≒外部の情報が入ってこない<下>に見られた人のいる壁に囲まれた世界の外の世界を知ろうと巨人のいる世界を調査しようとする人
≒他者から尊重されたり対等な存在としてメッセージを交換する「人間」の壇上に上げないように弾圧される<生ける死者>といった世界
≒暴力誘発性、脆弱性を帯びた存在
≒「傷つけられる」という条件により発動した摸倣欲望
≒自己をそれとして措定してくれる言葉をもつ代弁者の探索にとらわれている状態
≒自己の統一を預けることのできるような相手を探してさまよう、鏡像としての他者の中への囚われの関係
≒動物のルアーへの反応をモデルにして語りうるような直接的な関係
≒理想化された鏡像として他者の表現の複製を取りこみ、融合しつづける動き
•自我理想=象徴界=大文字の他者A=超越的な他者=社会的な世界
≒文化の秩序、象徴秩序、言語的秩序としての構造=サンボリック
≒エディプス期につくられる=父、母、子どもの三者関係の中ではじめて成立する一つの小社会
≒掟によって自己中心的な万能感の感覚を否定し、その掟を守ることで成立する秩序と理念をもった世界
≒個々人の欲望や自己中心的な感情を一度克服してはじめて、確立されるような世界
≒自己中心的な個人的な自己愛を一度否定したところから成り立っている
≒万能感を捨てて入っていく世界=個人の実質、個人の存在全体の基盤
≒社会的絆であり、信頼を保証し、義務の支えとなる基本的な象徴的契約
≒共同幻想の世界=個体保存の欲望と各人のナルシシズムを言語の内に吸収し共同化された世界≒豊かな影を持った存在
≒仲間意識で連帯した世界=倫理的関心を内輪に限定する世界=感情で動く世界=ビオスの世界
≒魅力を持った生に変わらなければならない場であり、魅力による上下関係や差別や排除がある世界
≒魅力の低い者が客観的な理屈として正しいと思って主張した事も認められない世界
≒魅力の高い者が客観的な理屈として間違っている事を主張しても容認される世界
≒目に見えない効力をもつ法としての場の空気や人間関係の網の目に支配された世界
≒掟の門の門番
≒セミオティックの位置にある存在が自我理想を持った対等な「人間」であると主張すると生意気に感じて苛立ち権力や言葉の暴力を振り回し「下」に置こうとする存在
≒「下」に見られた人の過失は吹き散らすが自分達の過失は隠してしまう存在
≒長い例外的状態にある<エス>や<対象a>など存在しないという主権者
≒「小文字の他者a」を対等な人間として文字に残る形式で相手にする必要がないと判断している存在
≒近代国家の一市民の世界=国家の保護の下にある者=権力者側のウチワの情報ネットワークの中にいる存在
≒ネットの掲示板やコミュニティを教育的な豊かな知識を与える場所として使う事が禁止されている世界
≒労働や勉強で生産的な成果を挙げ社会的に評価される事が美徳であるとされる世界
≒人が自分を社会化するために選ぶ標識=名誉の対象=美徳のもとになる秩序
≒人が憧れる、かくありたい存在=モテる存在=小文字の他者aに模倣される存在
≒第三者の審級=規範的な判断の究極的な帰属先=権威を感じ自発的に従おうと思う存在
≒言語的、父権的な中心ないしコード=象徴的父の表象であり、制度であり、掟
•超自我
≒誇大自己に執着した存在=他者を非人間的に判断したりする存在=モラルのない世界
≒法の影=狂った法であり法を無視する=「享楽せよ」という命令
≒集団の「エス」や「セミオティック」の位置にある存在を徹底マークして情報を「自我理想」の位置にある存在に流している存在
≒植民地主義の国家、民族差別を容認する国家、人権侵害を推奨する国家、死刑を支持する国家、同じ国民の中に棄民を作り出す国家
≒近代社会の合理的理性を自称する存在=非理性的な「エス」とした存在を抑圧的制裁の対象としていいとしてもいいとする存在
•対象a
≒羊抜け
≒現実の領域は対象aの除去の上になりたっているが、それにもかかわらず対象aが現実の領域を枠どっている
≒犠牲のメカニズムにより歪められた表現を犠牲者よりに修正した回顧的な文章を書く暴力行為を告発する探偵
≒秘密の宝=他者にとっての私に還元されない<私> ≒象徴秩序の外
≒寄る辺ない存在
http://anond.hatelabo.jp/20150801220547
「とれいC」以外誰が誰だかまったくわからん。「名詞 ミニマリスト」で調べてみたけどこういうこと?
姫様 これは「風の他人の姫姉様」というブログだろう。何回かみたことある。
蜜姫 これは「蜜の国」というブログか?初めて知った。
メロン熊 これは「楽に生きる方法」というブログがあてはまりそう。本多メグさんという人で熊のアイコンだから。
紫雑草 わからんかった。「A1理論はミニマリスト」というブログと「心の雑草」というブログがでてきたけどどっちも雑魚すぎるので多分違う。
あのさ。いくらなんでも妄想で話し過ぎじゃないか?
見てみたけど、姫姉様って人のブログ、70万PVもあるらしいわ。だったらこんな少人数でごちゃごちゃ揉めようが関係なくない?
しかも姫姉様って人のブログ、ミニマリストあんまり関係なくないか? どっちかというとモテとかコーデとかの話してるぞ。
だったら下っ端がいなくなってもPVが1万か2万へるくらいだろ。ミニマリストと全く縁切っても10万PVがくらいしか減らないんじゃない?だったら影響なくない?
はてブホットエントリーの30選(http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1141321068543131601)がイマイチ感性に響かなかった(普段読書しない人向けか?)ので、俺選してみる。
【反省会】
ssig33.com - イスラム国に行こうとしてた(とされる人)について
「ほわせぷ」と呼ばれるISISに志願した北大生のツイッター@gravestone11のアカウント名は「障害者」と表記されている。
ISIS北大生こと「ほわせぷ」の発言を追っていくと、彼が何故このような事件を巻き起こしたのが、彼自身の言葉から推察できる何かが存在している。
「ほわせぷ」は「障害者」を自称しているが、障害とは、自閉症であり、しかしながら、数学科の院生という非常に頭のいい高機能自閉症だったようだ。
「ほわせぷ」にイスラム教徒ジャーナリスト常岡浩介氏が行った事前インタビューにおいて、ISIS北大生は以下のように回答している。
「イスラム国」戦闘員事件 北大生の男「なれないなら自殺する」(フジテレビ系(FNN)) - Yahoo!ニュース
イスラム過激派組織「イスラム国」で戦闘員になるために、北海道大学生の男がシリア入りを計画していた事件で、男は、ジャーナリストのインタビューに、「義勇兵になれないなら自殺する」と話していたことがわかった。
シリア行きを計画していた北大生は「そこには戦場があって、全く違う文化があって。イスラムという強大な宗教によって、民衆が考えて行動している。このフィクションの中に行けば、また違う発見があるかな。それくらい」と話した。
「ほわせぷ」の回答を見て怒りを感じる人達もいるだろう。
「フィクション」じゃない。中東で起きていることは「リアル」だ。馬鹿にもほどがある。自殺する可能性?甘ったれてる。ぜひどうぞ。むしろ積極的にお勧めします。
現実のISISで起きている戦争をフィクション扱いするインタビューの回答に怒りを寄せる声。私たち健常者にとっては当然の反応だと思われるが、ここで「ほわせぷ」のツイッター上での発言を追ってみよう。
健常者はどうやら人間関係とストーリーという二種類のフィクションを他者の肉体の上に見えているようで、最近は前者に時間的連続性を与えた物が後者なのか、前者と後者は別個に存在しているのか毎日考えている
何故別個に考え始めたかというと、若頭のシャンプーを使った人がいて、前者が出来ていてかつ正常な認知と思考力があるのに後者が出来てないからです
アジトの障害者がどれぐらいフィクションが見えてないかというと人間が死んでいたベッドを変えるのがダルいという理由で使い続ける男が居て一日の少なくない時間を横になりながら淫夢動画を煙草を吸いながら見ているぐらいなので、本物の障害者には霊は通じない
健常者は集団や組織における力関係を何となく察する能力など、様々な見えないものを見る力が存在していて、障害者はそれが欠損しているので人間の上にフィクション、ストーリーが構成出来ないので共感や感動が起こらないのではないかと思っている
彼は「フィクション」という単語を多用して、「人間の精神機能」について考察を行っている。彼の考察の対象は「発達障害者」と「健常者」の差異だ。
キーワードとなるのは、インタビューでも回答された「フィクション」である。
「ほわせぷ」の推察によると、発達障害者は「フィクション」が見えていないらしい。フィクションとは、人間関係に関するものであるようだ。
更に彼の発言を追っていく。
障害者の価値判断という事を考えた場合、マジで抽象的なものや概念が見えず、社会通念上知っているが重要さがまったく肌で理解出来てない事の山のせいで無計画さの現象が出来ている感じがしてきた
見えてない上に身体により管理する領域が狭く、健常者と比べたときに”自己”というものが極めて歪になってる人間にとってコミュニケーションのコストを下げる方法はフィクションの溝を生めるために意識的に設定を積み重ねる事で、だからアスペルガーの発言は素直に聞けないという話なのではないか
人間は社会的な生き物なので正常な状態として所属している集団内に向けて力関係を認識する能力、集団の意思決定に参画する能力、集団を維持して協調する器官が生まれつき備わっていて、それらの機能不全により現象的に表出してくるのが個人概念なんじゃないかと最近思ってる
まずなんでこんな事を言い出したかというと通常の人間は何となく集団の力関係がわかる器官があるという話を聞いて、そういうものは目配せや敬語、発言の影響力や見た目などから類推するものだと思っててビックリしてたけど、暫くしてそれは障害だと気付いた
自分について知ることでどうなったかというと例えば秋葉原駅の前で壁に向かってノーザンクロスを気持ち悪い動きをしながら絶叫してる障害者を見たときに彼よりも自分の方が恐らくPDDがキツいという事実と立ち向かわなければいけなくなる
どうやら彼は「社会性」において自分には理解できないものがあると実感していたようだ。抽象的な概念について、社会的な通念を理解しているが、共感や感動が起こらない。集団内に向けて力関係を認識する能力、集団の意思決定に参画する能力、集団を維持して協調する能力、そのような「障害者」には実感することの出来ない「社会的な能力」を、彼は「フィクション」と称して、欠如していると考えていた。
さて、インタビューに対するツイッター上の「怒りの声」に戻ってみよう。
ISIS北大生の、「リアルの感じなさ」に対する怒りの声が表明されている。
この「リアルの感じなさ」こそが、ISIS北大生が、生き辛さ、人生の失敗の原因としていた「自らに生まれつき欠如していたもの」だったとしたら。
何故、彼はこのような事件をしでかすまで、精神科に受診するなりして、通常の治療を受けなかったのであろうか?
発達障害として典型的な症状が出てきちんと分類されるの機能が低い証っぽいし、高機能ならよくわからない能力で代替した上で斜め上の方向に異常性が伸びていくので良さがある
彼自身によると、自閉症者として生まれながらも、生まれつきな能力の高さ、ある種の別の能力が極めて発達しているなら、正常な能力の欠如を自覚して埋め合わせることなく克服して、異常性を高めながら社会に参入してしまう。
なるほど、彼は重度の自閉症者でありながらも、数学科の院生という高度な知性を持っていた。
「ほわせぷ」を知るツイッター上の人々では、彼は「非常に頭がよく」「異常者である」というのが共通認識となっているようだ。
てかほわせぷは超異常者だというのが皆の共通認識なんですかね
なんかほわせぷ氏に関して「サヨクなのか?」とか「ネトウヨなのか?」とかそんなこと言ってる奴がいるけど、彼はそういう常識的枠組みで語れるような人間じゃないから。異常者だから。
とりあえずほわせぷ氏は知能には全く問題がないどころかむしろ高いはずなので、会話にならないのは知能ではなく人格に問題があったのでしょう。
「ほわせぷ」ってアカウント、初めて知ったんですけどちらっと調べて「常識で動かない」「めちゃくちゃ頭がいい」「多分逮捕程度じゃ何にもない」とかそういうのがバンバン出てきてもうキャラが立ちすぎてギエーってなってる
生まれ持った障害を、生まれ持った極めて高い知性でリカバリできてしまった末路が、ISIS戦闘員事件であるなら、哀れというほかないだろう。