はてなキーワード: 伝統とは
今更だが3話まで読んだので。私は桃の園をあまり面白くないと感じたのだが、「特撮オタクがケチをつけているんだろう」という擁護を結構見たので、非特撮ファンの一意見としてメモしておこうと思った。(ただし言及している戦隊モノやアメコミについて詳しくないので、間違った先入観による発言もあるかも)
「戦隊モノなのにアメコミ寄りに思える設定があり、チグハグ感が強い」「男尊女卑設定もリアリティがなく、フェミニズム作品としても微妙」というのが自分の感想。
一つ一つの設定は「この世界ではそうなっている」と思えば納得できるのだが、「ベースは戦隊モノ、でもここはアメコミっぽくしたい、あと男尊女卑!」と詰め込みすぎた結果、一つの世界の中でも矛盾や違和感が発生しているように思える。
例えば「女性は力で劣る」的なセリフがあり、実際力が足りないため弱点を突く戦法を取っているシーンがあるにも関わらず、最後は普通に石の柱みたいなのを蹴り砕いて蹴り飛ばして怪人にトドメ刺してるのとか「もう設定とかいいからアメコミの女ヒーローが活躍するようなシーン描きたかったのかな」と感じた。
「こんな男尊女卑ある?」と感じた。「フェミや女を喜ばせるためだけの作品」のような批判も結構見かけたが、個人的には特に喜びはなかった。
「女は控えめなサポートに徹しろと言われるが、国(街?世界?)を守るヒーロー5人のうちに女性枠が用意されており、頭脳も肉弾戦も求められ、機械の操作やハッキングなど重要な役割を任されている」こんな男尊女卑ある?
歴史ものなどを見ればガチ男尊女卑のサンプルはたくさんあると思うが、基本は「女は引っ込んでろ、戦い(重要な仕事)の場に出るな」ではないだろうか。
「ピンクは戦ってもいいけどトドメを刺しちゃダメ」もまあ差別ではあるが、差別ひどいと同情するよりは「どういう設定?」となった。
というか「レッドがトドメ」という部分も、ブルーなど他の男性ではダメなのか?と気になった。「レッドじゃないとダメ」なら、男女の問題ではなくなり、軸がぶれてしまうのではないだろうか。
しかも「ゴクレンジャーは基本個別任務」らしい。例えば各地に怪人が現れてみんながバラバラに戦っていた場合どうするんだろうか? ピンクだけでなく他のメンバーもレッドにトドメを譲るためにじっと耐えているんだろうか。そんなことしている間にも被害は増えていくのに。そんなヒーローおる?
女性枠があること自体は、男「女は引っ込んでろ」女「女にも戦わせろ!」というぶつかり合いがあり、その結果ピンクの立場を勝ち取った、というなら分かる。しかしその場合はピンクやその育成学校は「女性権利拡大の象徴」になっていそうなものだ。おしとやかで控えめで女性としての役割を弁えたピンクを育成しますという作中の学校描写から見て、そういう設定ではないだろう。
もちろん今後話が進む上で、実はこういう設定があったからこうなっているのだ、という補足が入るかもしれない。しかし最初から匂わせているならともかく、後から突然実は~と明かされても、違和感の解消には繋がらない気がする。
あまり好感が持てない。自己紹介の時にあへへとか言ってるのもなんだコイツシャキッとしろやと思ったが、その後の行動も自己中すぎる。テストが全然分からない、歴代ヒーローの情報なら暗記してるのにというシーンはなめてんのかと感じた。憧れのレッドみたいにバトルして敵をなぎ倒したい!>>>>>>>>>>>>>>>>>人助け みたいな感じがして、1話ラストで先生が言ってることの方が正論に聞こえてしまう。
2話で主人公を応援してくれるベビーは「女の子らしい」キャラに見えるが、ベビーの方がよっぽど人として好感が持てる。テーマ的にそれでいいのだろうか。
2話の描写の「オシャレ、かわいいもの等に興味がなくボーイッシュな子なのに、女らしくしろ!とリボンフリルの服を着せられる」というのもフェミニズム表現としてかなり古いように感じる。母親の描写も毒親問題が混じってここでも軸がぶれているように思った。しかし桃の園に入学するのに母親の許しとかはいらなかったのだろうか。金は誰が出したのか。「まあ、ゴクレンジャーのピンクを目指すの? 怪人をボコったりレッドが来るまでボコられるのに耐えたり大型機械の操作やハッキングを学んだり山中で生存訓練するのね! とても女らしくおしとやかな進路だわ!」つって許可してくれたのかもしれない。
立ち位置が分からない。伝統的な価値観に従って、女は女らしく控えめに!という思想を持つキャラのはずだが、主人公より口汚くうるさく粗野に見える。作中の誰もツッコまないのでギャグなのかなんなのか、どう思えばいいのか不明。
1話で主人公を他の生徒達がせせら笑っているシーンなど、テンプレ的な「意地悪で陰湿な女子」表現がある。主人公の母親が不気味に描かれていることも含め、そもそも作者さんはそれほど女性やフェミニズムに興味がないのでは?と感じた。
女性キャラに対する愛情や共感を感じないと言ってしまうと主観的すぎるが、「主人公以外の女性キャラも、女性が抑圧されている(という設定の)この世界で生きている同じ女性である」ということを意識して描かれているような感じがしなかった。(男性も「男らしくしろ」という抑圧を受けているかもしれないが、今のところその描写がないので置いておく)
抑圧されているにしてはみんな個性的な髪型服装をしているし、主人公以上に暴れそうなビジュアルの子もいる。そして内心は分からないが、主人公と母親以外のキャラは「女はサポート、控えめに」という価値観に苦しめられたり悲しい思いをすることもなく、普通に過ごしているように(現時点では)見える。
主人公だって、「女性差別が許せない」というよりは、「自分がレッドみたいになれないのが悔しい」というだけに感じた。「君は優秀なので、特別にレッドみたいに振る舞っていいですよ」と許可が出たら、この主人公は普通に喜んで受け入れて、話が終了してしまいそうな気がする。
作品を読んでいて「これは漫画だけど、現実でも似たような女性差別を感じたことがある。主人公以外の女性もつらい思いをしているみたい。主人公頑張って、この世界を変えて!」という気持ちになるシーンがない。
いきなりさくらちゃん呼び、2人きりの場所に移動し「応援している」と囁きつつ頭撫で撫では正直気持ち悪く感じた。各キャラの年齢は明示されていなかったと思うが、主人公が5歳の時点で既にレッドはヒーローとして活躍しており、成人はしているように見える。主人公は「少女」と書かれていたので未成年ではあるだろう。一回り以上年上の男が未成年にいきなり会いにきて下の名前+ちゃん呼びしていつも近くで応援しているナデナデは色々と大丈夫なのか。
もちろんこういった描写は悪、描くべきではないとか言いたいわけではない。恋愛メインの作品なら何も思わなかっただろう。しかし女性差別の蔓延る(という設定の)世界に抗う少女、という話を読んでいたら急にセクハラされてトゥンクしている描写が出てきて面食らってしまった。
主人公はまだレッドに対する憧れがあるからわかるが、レッドは女性差別はいけないと思っている立場だろうに何をやっているのか。男は戦って女子供を守るものだガッハッハ!的なキャラだった方が納得感ある。男と女は対等だよね、さくらちゃん!よしよし! 大丈夫なのか。
3話ラストで、襲撃されるレッドに守られてるだけの主人公にも呆れてしまった。レッドを超えるピンクになると言っておいて、いざレッドが襲われているシーンに出くわすとあわあわして固まり、抱きしめられて庇われているだけ。私がレッドさんを守りますとか言って戦う姿勢くらい見せてほしい。まあ次回あるかもしれないが、3話だけだと結局女は守られるもの的な流れに感じる。それなのに、君こそが世界を平和へ導くんだとなんか急にちやほやされる謎。
この主人公が救世主になるほど、他に女性差別反対を訴える人材がいないのだろうか。現ピンクは「おそらく内心では現状を変えたいと思いつつ、表面上は女性らしく振る舞ってきっちり仕事をこなしている人」のように見えて割と好感度が高いのだが、現ピンクさんより主人公が優れている点は何かあるのだろうか。
・「女性は力で劣るから不利」という設定を保つためか、スーツで身体機能が強化されるとか、特殊能力とか、合体技とか、かっこいい武器とかが(今のところ)出てきていない。素の肉体能力だけで戦っており単純にワクワク感が薄い。
・怪人ってなんなの?何と戦ってるの?という部分の説明が後回しにされているのに、人間が人間を襲っているシーンも出てきて困る。最初の敵がなんなのかも説明してないのに別勢力を出さないでくれ。
ゼロ年代のインターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語版ウィキペディアで、ウクライナに関する有益な記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。
しかし、Alex Kさんはウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナの歴史上の人物や、都市や、教会についての記事を執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事を修正しようとした。それが問題のはじまりだった。
話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由にキリスト教を布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師を日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書が必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自の日本語版聖書を作った。正教会の宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめしい文体の日本語訳聖書を作った。カトリックやプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会の聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会の聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。
正教会 | カトリック |
---|---|
主教 | 司教 |
顕栄 | 変容 |
生神女 | 聖母 |
至聖三者 | 三位一体 |
イイスス・ハリストス | イエス・キリスト |
これがいいか悪いかは、その人の価値観によるだろう。他の教会と共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自の伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利は日本人の正教徒にしかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。
このようにキリスト教各派が使っている用語がバラバラなので、日本語版ウィキペディアでは、「各派の独自用語を尊重する」というデファクトスタンダードが確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自の呼称である「教皇」が採用された。カトリックの教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。
ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別は存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自の用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。
このような反論にAlex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ、投票に参加しなかったにもかかわらず勝手に記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさんは日本語版ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。
Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会の立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会はロシア正教会の一部なのである。
それの何が問題なのだろうか。日本のカトリック教会は、全世界の信徒を統べるカトリック教会の地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会がロシア正教会の支部であって何か問題があるのか? カトリックと正教会の組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界の組織がピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだ(コンスタンティノポリスの全地総主教はあくまで同輩中の首席にすぎない)。
正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会やブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自の組織が存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的に日本人の信徒や神品(聖職者)で決めているが、教会トップはモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省の統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会はロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジアに独立教会がない。中国正教会もロシア正教会の傘下だし、韓国や香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。
つまり、ウクライナ民族主義者であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会を尊重せよ」というのは、「ロシア正教会を尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会とカトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリックと差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会が存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたことから、ウクライナ民族主義の核になっている)。
しかしAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会は日本人によって運営されている教会だ、という点である。確かに教会の設立はロシア人によるものだし、ある時期まではトップがロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒は自分たちで教会組織を運営するようになり、ここ半世紀は教会のトップも日本人が務めている。しかも、日露戦争やロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話である。ロシア正教会が気に食わないというウクライナ人の気持ちは理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。
ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人のあいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロ・コロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会の用語法を意図的に無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会の管轄地である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイートを公然としている。まあ、こういうツイートでウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教の精神的双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。
(そもそも、ウクライナ正教会が日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒は基本的に日本正教会の聖堂に通うべきだからだ。とはいえ、移民が移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本に支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会が独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワの許可が必要なんだ?」と嘯いたそうだ)
さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本の総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教は日本正教会の自治権を認めておらず、韓国に派遣したギリシャ人の神品を日本の正教会のトップに任命しているのだ。彼は韓国の正教会のトップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情は理解できる。だがそこでも、日本正教会が日本人の運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人の神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人が日本の正教会のトップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?
ロシアのウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンとプーチンを盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教は腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本の教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人、特にウクライナ正教会の関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会の信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統は尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。
ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。
На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].
この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナルの記述である。
Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».
Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的な解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに「第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者の勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界の言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法はモスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<
音楽でいうならば、
それも飽きれば名も知らない国の音を求め、
新しい楽器を使って限界まで細分化した波形で新しい音を産み出し、
人間には歌えない速度の歌を作り、あらゆる進行を試し、
あらゆることが試し尽くされて、もはや発展し尽くした感じ。
結局同時代の身近な人と盛り上がるためのポルノドラッグアルコールの類いと変わらなくなった。
でも、お前は全ての音を聴いたのか?
クラシックからhiphop、ありとあらゆるワールドミュージック。
誰かはそれを知ってるかもしれないがお前はそれを知っているのか?全知全能になっちまったのか?
今こそプリミティブな感情に立ち返るべきだ。お前自信の知的欲求に向き合う時。
手掛かりはそこにあるだろう。
箴言は古代の「知恵文学」の一例であり、人間の行動に関する観察と実際的または徳の高い生活のためのアドバイスが含まれている。
ユダヤの伝統によれば、聖書のこの書は、知恵で知られる聖書の人物、ソロモン王によって書かれたとされている(列王記上 5:9-14)。
箴言は古代の知恵の書とされるが、現代の技術的に進歩した社会にとって役に立つ内容も含んでいる。
例として、SNSアカウントを持つ人にとって役に立つ引用を箴言から8つ紹介する。
ソーシャル メディアは、怒っている人々を引き付けることがある。中には、蜂の巣を蹴飛ばしてでも甘い「いいね」やリツイートを獲得したいという目的しかない人もいる。
箴言6:12-15 | 彼は、口汚い口調で歩き回り、悪意に満ちた目でウィンクし、足で合図し、指で身振りをし、心の中では欺瞞をもって悪事を企てる、問題を起こす悪人であり、常に争いを起こす者である。そのため、一瞬にして災難が彼を襲い、救いようもなく突然滅ぼされる。 | אָדָם בְּלִיַּעַל אִישׁ אָוֶן הוֹלֵךְ עִקְּשׁוּת פֶּה: קֹרֵץ בְּעֵינָו מֹלֵל בְּרַגְלָו מֹרֶה בְּאֶצְבְּעֹתָיו: תַּהְפֻּכוֹת בְּלִבּוֹ חֹרֵשׁ רָע בְּכָל עֵת מִדְיָנִים יְשַׁלֵּחַ: עַל כֵּן פִּתְאֹם יָבוֹא אֵידוֹ פֶּתַע יִשָּׁבֵר וְאֵין מַרְפֵּא: |
正義の怒りから共有されたセンセーショナルなストーリーが、基本的な事実確認の誤りだと暴かれることを考えてみたほうが良い。
箴言6:16, 19 | 主が憎むものが六つあり、主にとって忌み嫌われるものが七つある。... 偽りを吐き出す偽証人と、社会に争いを起こす人である。 | שֶׁשׁ הֵנָּה שָׂנֵא יְקֹוָק וְשֶׁבַע תועבות תּוֹעֲבַת נַפְשׁוֹ:…יָפִיחַ כְּזָבִים עֵד שָׁקֶר וּמְשַׁלֵּחַ מְדָנִים בֵּין אַחִים |
すべての問題に意見が必要なわけではなく、すべての発言に返答が必要なわけでもない。
箴言 26:17 | 野良犬の耳をつかむような人は、自分と関係のない争いに突入する人である。 | מַחֲזִיק בְּאָזְנֵי כָלֶב עֹבֵר מִתְעַבֵּר עַל רִיב לֹּא לוֹ: |
ラビの教えには、話すことに報酬があるように、沈黙にも報酬があるという教えがある ( Zevahim 115b )。いつそれをすべきかを知ることは、難しいことであり、また重要である。
箴言 10:19 | 罪は言葉を増やすことによって終わるものではないが、賢明な人は口を閉ざす。 | בְּרֹב דְּבָרִים לֹא יֶחְדַּל פָּשַׁע וְחֹשֵׂךְ שְׂפָתָיו מַשְׂכִּיל: |
ソーシャル メディアは、知的で生産的な会話をするのに必ずしも最適な場所ではない。
会話を公開から非公開にすると、理解が深まることがよくあることが分かる。
しかし、建設的な意見の相違どころか、思慮深い会話さえできない人もいる。
箴言 18:2 | 愚か者は理解することに喜びを感じず、自分の意見を表明することに喜びを感じる。 | לֹא יַחְפֹּץ כְּסִיל בִּתְבוּנָה כִּי אִם בְּהִתְגַּלּוֹת לִבּוֹ: |
箴言 9:7-9 | あざける者を戒める者は侮辱を招き、悪者を叱責する者はののしりを受ける。あざける者を叱責してはならない。さもないと彼らはあなたを憎むようになる。賢い者を叱責しなさい。そうすれば彼らはあなたを愛するようになる。賢い者を指導しなさい。そうすれば彼らはさらに賢くなる。正しい者を教えなさい。そうすれば彼らは知識を増す。 | יֹסֵר לֵץ לֹקֵחַ לוֹ קָלוֹן וּמוֹכִיחַ לְרָשָׁע מוּמוֹ: אַל תּוֹכַח לֵץ פֶּן יִשְׂנָאֶךָּ הוֹכַח לְחָכָם וְיֶאֱהָבֶךָּ: תֵּן לְחָכָם וְיֶחְכַּם עוֹד הוֹדַע לְצַדִּיק וְיוֹסֶף לֶקַח |
箴言 29:9 | 賢い人が愚かな人と法廷に行くと、愚かな人は激怒し、嘲笑し、平和は訪れない。 | אִישׁ חָכָם נִשְׁפָּט אֶת אִישׁ אֱוִיל וְרָגַז וְשָׂחַק וְאֵין נָחַת: |
箴言 26:4-5 | 愚か者にその愚かさにしたがって答えるな。そうしないと、あなた自身も彼と同じになってしまう。愚か者にその愚かさにしたがって答えよ。そうすれば、彼は自分の目に賢い者と思わなくなる。 | אַל תַּעַן כְּסִיל כְּאִוַּלְתּוֹ פֶּן תִּשְׁוֶה לּוֹ גַם אָתָּה: עֲנֵה כְסִיל כְּאִוַּלְתּוֹ פֶּן יִהְיֶה חָכָם בְּעֵינָיו: |
ご指摘の点について、いくつか重要な観点から考えてみましょう。
日本の仏教僧侶がユダヤ教のタルムードに関心を持つことは、宗教間対話の一例と見ることができます。異なる宗教的背景を持つ人々が互いの教えを学ぶことは、相互理解と尊重を深める上で価値があります。
「神仏」という言葉は、日本の宗教的文脈において一般的に使用される表現です。これは日本の宗教的伝統における神道と仏教の融合を反映しています。しかし、ご指摘の通り、この表現は一神教の観点からは問題があるかもしれません。
仏教における「仏」の概念は、必ずしも西洋的な意味での偶像崇拝とは一致しません。仏像は悟りの象徴や瞑想の対象として扱われることが多く、それ自体を神格化するわけではありません。
同様に、日本の「神」の概念も、西洋の一神教における神の概念とは異なります。日本の多神教的な世界観は、自然や祖先への畏敬の念を表現する方法の一つと見ることができます。
ノアの七つの法則(ノアの子孫のための七つの戒律)は確かに、非ユダヤ人が守るべき倫理的指針とされています。偶像崇拝の禁止はその一つですが、これを文字通り適用することは、異なる文化的背景を持つ人々にとっては難しい場合があります。
宗教間の対話と学びは重要ですが、それぞれの宗教や文化の文脈を理解し尊重することも同様に大切です。一方の宗教の教えを他方に直接適用しようとするのではなく、互いの違いを認識しつつ、共通の倫理的価値観を見出すことが重要かもしれません。
ここでいう労働のユニバーサルアクセスへの対抗論として反新自由主義は弱すぎるな
共産党すら女性参画やってる、というか共産国家は伝統的に女性労働力も活用する傾向にあるから資本主義でもない共産主義(および社会主義)でもない女性活躍ってどうやるんだよと本気で質問したい
スターリンの党中央委員会「書記長」は本来、自民党でいうと幹事長ポジ
しかしソ連は一党独裁だったし、昨今日本共産党で話題の「民主集中制」もあった
民主集中制下では党中央が党のすべてを監督掌握し、党中央の指令は絶対で、分派は禁止されている
絶対的存在として国を動かす党中央の活動全体で人と金を握るスターリンの影響が強くなり
ナンバー1であるレーニンが病床から死に至るまでの間に権力を牛耳りに牛耳って
最終的には、肩書は幹事長のまま総務会長・政調会長・首相など党と国家の役職を兼ねるか監督下に置く状態に至り、スターリン独裁となった
各地の共産党はこの一党独裁・民主集中制を参考にしたので「書記」を冠する党のトップが存在している
※スターリンは国家元首ではない(→カリーニン)名目上はどうあれ、国は党の下部組織であるから国のトップに立つ必要はない
ちなみにスターリン死後の政争で分権の試みもあったけど、一党独裁・民主集中制の下では党を握ってる書記の権限が強すぎてあんまり意味がなかった
そりゃそうだ
平成不況にまともな対策ひとつ出せなかったところに安倍ちゃんがアベノミクスを打ち出して
雇用改善とか達成してしまったので、自分達が無能だと認めたくなくて無茶でもアベノミクスを否定するしかないんだよな
アベノミクス以前の地獄の就活事情を知ってるやつならアベノミクス大正義であることは自明なんだよな
サヨクはなぜアベよりも早く金融緩和とインフレ誘導政策を打ち出せなかったのか
アメリカならゴリゴリのリベラル左派であるポールクルーグマンが推していたのにな
政治的な「左右」とは、政治的なイデオロギーや立場を示すために使われる一般的な用語です。「左」と「右」は、それぞれ異なる政治的価値観や政策の方向性を表します。この分類は、フランス革命期の議会の座席配置に由来しており、そこから広く使用されるようになりました。
※この「左右」の分類は、国や文化によって多少異なる場合がありますが、一般的には上記のような特徴で分類されます。
1.基本的価値観:
3.例:
1.基本的価値観:
3.例:
アメリカと日本のメディア間のニュース提携の一覧化してみました。
2.朝日新聞 :tv asahi(日本) と ABCニュース (アメリカ)
4.産経新聞:フジテレビ (日本) と Fox News (アメリカ)
5.読売新聞:日テレ (日本) と The New York Times (アメリカ)
ナタの音楽がヤバすぎて震えるので音楽に造詣あるすべての人、特に民族楽器スキーにみてほしい。
補足すると、新しい国が登場する度にとてつもないクオリティのオーケストラパフォーマンス映像を発表してくることで知られる原神ってゲームのOSTの話。
今年は反魂を題材にした炎の国ナタで、南半球の国々の伝統楽器を盛り込みつつオケと調和させた、ナタのテーマ曲と戦闘音楽が公式YouTubeで出てる。
日本語字幕版が【原神】ナタ LIVE MUSIC VIDEO(オーケストラ編成)
その他の多言語字幕版がNatlan Live Symphony Performance | Genshin Impact
「すぐ腹を壊す人=サボってる」
「熱を出す人=サボってる」
こういった偏見の眼差しを持って他人を測ろうとする態度こそが、あらゆる差別における根本的な原因であってそこに対して、感覚が敏感とか恵まれた環境で暮らしているとかはあまり関係がないんじゃないだろうか?
つまりは「自分が慣れ親しんだもの=素晴らしい」 「自分と接点の薄いもの=存在そのものが歪」という幼子のまま成長せず老害になったような価値観を全世界の普遍的な常識だと勘違いしていることが問題なんだろうな。
公教育というのはこういった狭い偏見を超えた広い視野を持たせるために様々な機会を提供するはずなのに、実際にやっているのはそれとは真逆で「地毛が茶髪なら黒に染めてこい」といった教職員側の偏見に基づく画一化を推し進めているわけで。
ではなぜそうなるかと言えば、この国の国民が根本的な部分で差別意識に満ちていて画一的な隣人を求めているからなんだよな。
「入れ墨をしている奴らはチンピラだから公衆浴場に入って欲しくない」とか、「アイドルは偽の恋愛感情を売っているんだから本物の恋人を作ってはいけない」とか、そういった身勝手な言い分を振りまいてそれらをさも常識であると言い切る理論が大手を振っているわけだ。
入れ墨をしていたらチンピラだというなら、成人の儀式などにおいて伝統的に入れ墨をしている部族はみんなチンピラであり、憎むべき文化の持ち主だからわざわざ集落に乗り込んでいって文化を浄化するのが人類のためなのかという話だよ。
結局、人類ってのはどいつもこいつも高慢ちきで、自分たちの生まれ育った文化圏こそが唯一清く正しくご立派な人としての道を歩む絶対の正解だと勝手に思い込んでいるのさ。
凝り固まった『常識の殻』を知恵のハンマーで叩き割ってやるのが公教育の役目だろうに、先にも述べたように奴らと来たら殻の上をより分厚くコーティングすることに手一杯だ。
んでもって生まれてくるのが一生自分の殻から出ることもなく暮らしてきた『平等意識における盲人』の群れなわけだよな。
まあ、現代社会においては憐れなる無知蒙昧の輩と言うしかないわけで、キャンセルカルチャーされまくって然るべき無能という他ない。
今はもう社会人だし、若干記憶が薄れてる部分もある。少なくとも統一教会系ではない。身バレが嫌なのでぼかして書く。初投稿なので変な部分もあるだろうが、目をつむってほしい。
大学に入った当初ってX(旧Twitter)で春から◯大みたいな感じでアカウント作るよな。
そこからDMで繋がって、同じ大学の人とやりとりするんだけど、その中で「哲学に興味はありませんか?」「生きる意味について話し合いませんか?」てな感じで紛れて奴らは話しかけてくるんだよ。
僕は元々ディベートみたいなの好きだし、面白そうだと思い参加してみた。
大学から少し離れた講義室みたいなとこに皆集まるんだが、新歓の時期だし自分と同じ新入生ばかりかと思いきや社会人の先輩もいるんだ。
そこで先輩たちが大学生の過ごし方とかキャリアとか色々アドバイスしてくれるんだが、まぁ参考になるんだかならないんだか・・・
運動部ほど厳しくなさそうだし、可愛い女の子もいたし、陰キャ(今はチー牛なのか?)でも馴染む環境だった。
最初は哲学や取り止めのない内容から入っていって、段々と宗教じみた内容にシフトしていったんだが、
結論こういうサークルに入って感じたのは、別に悪い経験ではないが、良い経験だったとも言えない虚しさがあるということだ。
徹頭徹尾一番興味深かったのは、こういう組織構築の為のシステムだ。上層部の得体の知れない社会人はともかく、そこで熱心に動く学生さんたちを獲得し、囲って幹部まで育成するシステムはマインドコントロールみたいだと言えば大袈裟に聞こえるが、これ以外に適切な言葉があるだろうか。
自分は熱心に活動してなかった部員だったので詳しくないが、なんか部屋借りてやるにもお金が必要になってくる。しかし年会費も良心的だったし、社会人がパトロンとして払ってくれていたのだろうか。それとも信者からのお布施だろうか。少なくとも財布に優しいサークルだった。具体的な組織のアレコレは分からんが、幹部とかそういった役割もあった気がする。たまに偉いらしい先生も来ていた記憶がある。
高校のクラスみたいなコミュニティって大人になればなるほど霞んでいく。ましてや一人暮らしタイプの心細い新入生にとって、フレンドリーに分かりやすく歓迎されると嬉しくなるんだ。サークル以外でもレクリエーションみたいな感じで、皆でカラオケとかボーリング行くみたいに普通に遊んだこともあった。
そこにいたメンバーは皆、優しい人たちばっかだったし、何より高学歴が多かった。とにかく優しくて忠犬みたいな雰囲気があるんだよな。でも一つ思ったのが「こんな良い人達なのにサークル外の友達がいなさそう」ということ。兄弟姉妹で参加している人もいた。
皆仲良くて、礼儀正しいんだが、一緒にいると独特の雰囲気があった。やけに強引に参加を求める人も居たが、それも「自分が求められている」という気持ちにさせてくれるんだろうな。
言ってることは割と納得できる部分も多かった。具体的に「人との約束は守りましょう」「自分や他人にも誠実でいないと不幸になります」とか色々例も含めて話すことで説得力を出していた。覚えてるのがここ辺りだが、もう少し過激なのもあったと思う。
かなり引っかかったのが、こういうことを絶対的な定義として譲らないとこだ。
「これらは絶対的な真理で、物理や理系科目で出てくる公式と同じだ」と言われたが、物理だってこれまでの理論の積み重ねであって、絶対的なものだと思えと言われていないだろう。定義を疑うことをむしろ推奨されているまであるぞ。
こういう件もあって、僕は完全に心を閉ざし「分かりますー勉強になるっス」と相槌マシンになっていた。
一見カルトというにはホワイトでクリーンだっただろう。財布に優しかったし。しかし良く観察してみると、もっと大元の組織があって、そこが出してる本やら主催している会やら見ると何と言うべきか、統一感が凄いのだ。宗教だって色々宗派や解釈があるだろう。当たり前だがそれを認めないし触れさせない、ここで学ぶ真理だけが素晴らしいのだと。「大人になっても仲間たちと素敵なコミュニティで、大切なことを学べるのはココだけ!なんて素晴らしいのでしょう」という話に間違いは無い。間違いはないのだが、少なくともこれ以上僕はここに居たくない。と思った。
なんて言えば良いか、こちらを見ているようでその実全く見ていないのだ。
内部事情は全く分からないが、このようなサークルは全国展開しているみたいだから、のめり込まないように気をつけてとしか言えない。ライトなカルト体験がしたい者にはオススメだ。社会人でも遅くないぞ
こういうサークルに入れば知的で落ち着いた女の子と知り合いになって付き合えると思ったんだが、機会がなかった・・・冗談だが、真面目にやって幹部まで登ればもっと関わりも増えたのだろうか・・・
妻が麦茶を冷やしていた
妻はボウルに熱いヤカン、氷、水道水をチョロチョロ流しながら冷やしていた。
なるほど無学なアホはそうやって冷やすのか、と思ったが口には出さない。
俺が冷やすときはボウルに氷を入れてそのままヤカンを乗せるだけ、流水は無駄
息子を見るとアホみたいな動画を観ている
タブレットとスマホを与えYoutubeだろうがゲームだろうが好きに使わせているのだが
タブレットで「ひみつのおるすばん」をやりながらピクチャーインピクチャーで攻略動画を見つつ、横のスマホでちろぴのを観ていた。最悪だ
パーソナライズドされたレコメンドの連続だから大人の目には触れにくいが
なんの意味も無い、いいねボタン、チャンネル登録を誘導するだけの詐欺動画。
「息子よ、キミが観ている動画は実にさもしい人生になんの意味も無い、教えも気づきも与えてくれない、ただ脳に刺激と快楽を与え小銭を稼ごうとする悪い大人が作った詐欺動画だ。6歳の分別、弁識能力ではわからんだろうが、父として教え諭す義務があるので一応は言うておく、観るのは構わんが愚かな時間であることを頭の片隅において、早期に卒業してほしい」
と言うたら
「パパ、ボク子供だからよくわからないけどスマホでたまご寿司の簡単な取り方を検索して」
だってよ。最悪だ
それにしても、育児において電子デバイスを一切許さず、絵本だの、せいぜい教条的テレビ番組、一日何時間まで、テレビゲーム?ありえなーい的伝統的環境を是とした方針の親御さんもいる。今日はピアノ、明日は体操教室、昨日の絵画教室の宿題を早くしなさい、公文は終わったの?的な
ウチと真逆なわけだが、どっちが正しいんだろね?
一応ウチも友達に負けるの悔しいと言い出し公文をねだられて通わせているが
ひらがなカタカナなんぞ小学校に入ればタダで教えてくれるのになぜ毎月1万4000円をドブに捨てて数ヶ月早く習得する必要があるのだ。ゆえに一度でも宿題が間に合わなかった即座に退会な、とは申し伝えている。いつも宿題が完成するのは5分前。
はぁ情けない。
パパなんて小学校4年生以降夏休みの宿題は一度も出したことが無いぞ
二学期始まって未提出だと叱られるが、なぁに1週間ものらりくらいしのげば向こうも諦める
両親、教師、誰一人無理やり最後までやらせようと指導する敵は現れなかった
ありがたや
息子にもそういう処世術を身につけて欲しい