はてなキーワード: 願わくばとは
見通しが悪い、規模が小さい、動きが悪い、販路を広げろ、とか言う同業も居るけど人伝で聞いたらたいして成果は変わらなかったり自分よりひどい状況だったりする。
当たり前だけどどんなプラモデルでも転売で儲けられる訳じゃない。更にバンダイのプラモデルなら何でも良いわけじゃない。突き詰めると別に手に入らなきゃ別にいいやって思われるのがプラモデルだ。
自分はオタクなのでトリスタンとかは避けられたが、当たり前だがごく一部の儲けより圧倒的な不良債権で見事に潰れた。
寝かせておけば価値が出ると言うけど、当たり前だが倉庫代だってタダじゃないし、自宅だって場所は取る。
やっぱ右から左に流れる商材じゃない限りやらない方が良いし、そもそも卸業やってて倉庫等を持ってるやつが副業で転売やってるんじゃ勝ち目なんて無い。
自分はとりあえず在庫処分して引退する。願わくばフリマサイトにもマイナンバー登録必須にして金の動き分かるようになって欲しい。
生理用品がトイレットペーパーのように無料になったら、業者単位で生理用品の注文が入るわけだ。メーカーからしたら万々歳だろう。
自分は、一回の生理で500円分ほどしか使わないし、生理用品が買えないレベルの貧困は生理の問題ではなく貧困の問題だと思う。
しかし、トイレに手を乾かすやつがあるおかげで日本人がハンカチから解放されたのは素晴らしいことだ。トイレットペーパーもそう。トイレットペーパーを携帯しなきゃいけない国に住むのは最悪だ。(東南アジアに行ったときは、水に流せるティッシュが必須だった)
生理用品の自販機は割高だが、急な生理のときにとても有難い。ティッシュで凌ぎながらコンビニまで走らなくて済むのだ。
旅行の際、来ないだろうけど一応…、と生理用品を詰めるのもかなり怠い。旅行にトイレットペーパーを持って行くのが怠いのと同様だ。
でも、生理用品にアクセスしやすくなったら、貧乏な人だけでなく自分も便利だろう。別に反対する理由もない。多分今は「生理の貧困?んなの支援する必要ある?」と思ってるが、支援があったらあったでそれが普通になるのだろう。
ある薬と生涯付き合う羽目になりそうだ。3割負担でも月4千円、なかなか財布に響く。これが12ヶ月であと何十年…と思うとゲンナリする。3割負担でもこれだ。10割自腹だったら辛すぎる。
生理用品は生活に必需のヘルスケア用品と考えれば、保険適用の薬のように安くなってもいいのかもしれないし、みんながトイレで使うものだから無料で置いてあるトイレットペーパーのように無料になってもいいのかもしれない。
いいのかもしれないがやっぱり、「別にそんなん要らんよ」みたいな気持ちもある。しかし、まあ生理の貧困の人?が救われる上に自分も助かるんだから喜んで受け取れるものを受け取ればいいのだろう。
ファムテックが話題だ。避難所の生理用品問題、貧困者の生理用品問題、そこには大きな鉱脈があるのだろう。だから世界中の企業が飛びついているのだろう。とはいえ利益追求と嫌悪するのも馬鹿馬鹿しいことだ。この資本主義社会は利益追求によって便利なってきた。企業もWIN、消費者もWINでめでたしめでたしではないか。
など考えていて思ったが、意地汚くも、願わくばホテルのアメニティに生理用品を置いてほしい。旅行や出張のたびに、ルナルナと睨めっこするのは怠いのだか別に無料でなくていい。たとえ2倍ぐらい割高でも、買えるとどんなに楽か。そりゃコンビニはあるけど、ホテルに泊まるたびにコンビニまで行ってトイレットペーパーを買うのは怠いじゃん。全てのトイレに生理用品の自販機あったらやっぱなんだかんだ便利なんだろうなあ。
今の日本のほとんどの大学で情報系が人気だけれども、本当にみんな情報系に行きたくて行ってるのか?
自分の場合は昔からプログラミングが大好きで、中学の時にはずっとJavaでゲーム作ってたし(ツールも使わずに)、高1の時にはnumpyでCNN(画像認識AI)作る的なこともやってた。だから当たり前のように情報系に進んだ訳だけど、そんな人間遥かに少数派だと言うのはわかってる。
でも逆にそれ以外の人が情報系を志望する理由がわからない。「プログラミング」とか「エーアイ」とか「データサイエンス」なんて見た目の良い言葉に憧れただけなのか?もっと酷いのだと、「偏差値が高いから」なんて理由で選ぼうとしてた奴も友達にいた(説得してやめさせた)。他の学科は高校で基礎をやったアドバンテージがあるかもしれないが、情報系はそんなのない。大学入って0からのスタートで上手くいくとみんな本気で思ってるんだろうか?だったら大学入学してすぐ本買うなり競プロやるなりしてプログラミングの勉強を始めるべきではないか?それをしている情報系のB1なんてかなり少ないと思う。
マジで頼むから情報系にいる限りはプログラム書けてくれ。願わくば情報系に入った時点で「アルゴリズムってどういう意味?」なんて質問をするのはやめにしてくれ。高校生はそれくらいのやる気を持って情報系を選んでくれ。
ぼちぼち高校受験も始まり、今年も「定員内不合格」という不思議な言葉がささやかれる季節となりました。
すごく不思議じゃないですか?定員内不合格という言葉。まるで「定員に満たないなら全員受からせろ」「定員内は全員合格」と勘違いされているような気がします。
じゃあなんで試験するのか。定員内なら試験するだけ無駄じゃないですか?
法律では、障害を持っている人もそうでない人も「その能力と状態」に応じて教育を受けることができます。
でも、足し算引き算がままならないレベルで高校を卒業する学力があるかという問題があると思います。
赤点連発で単位不認定で留年とかあると思います。マンツーマンで指導を望むのは、ちょっと先生がかわいそうに思います。
入って終わりじゃないんですが、どうにかして無理やり卒業しそうです。でも卒業後の進路も学校の先生が探すんですかね。
支援学校ならいろいろ特性に合わせた進路指導ができるでしょうが、普通科高校の先生にそのようなノウハウがあるとは思えません。
卒業後のことも含めて考えているのでしょうか。
私事ですが、中学の同級生に知的障害の方がいらっしゃいましたが、まあ割とひどいことをされました。
詳細は割愛しますが「二度と障害者と同じクラスになりたくない。勉強して勉強して絶対にそんな人が来ないような高校に入って、二度と同じ空間で勉強したくない」と強く思う事件に会いました。
多感な時期にちょっとだいぶきつかったです。そういう経験をした人間なのでインクルーシブ教育というものが正直好きではありません。
なんで十分に訓練された教員がいる支援学校じゃなくて普通科高校に行きたいのか理解できません。
そしてテストの点数が足らないから受からないということを受け入れないのも理解できません。
障害者だから勉強できなくても普通科高校に入れろ、って「健常者」が勉強できない場合はどうするんでしょうか。障害者はテストがダメでも受からせて、健常者は落とすのなら、それは逆の差別ではないでしょうか。
勉強をしてもしなくても高校に入れるなら、普通の生徒は勉強しなくなると思います。この定員内不合格という言葉は、障害者の方には適切な教育環境である支援学校に行くという選択をしなくさせ、それ以外の生徒は勉強しなくなるという、とてもよくない言葉のような気がします。
昨今の各事象にたくさんのオタクが様々な感情を向けているのを見ては色んなことを考える。
事の是非やら、何が正しいとか間違ってるとか、悲しいとか苦しいとか、色々あるけど。
それでも推しが生きててくれるのだからいいよな、とどこかで思ってしまう。
こんなこと言ったらよくないのはわかってるし、議論にこれを持ち出すのは卑怯だと理解している。けど。
脱退しようと引退しようと炎上しようと最悪犯罪者になってしまったとしても、生きていてさえくれるならいくらでも希望の可能性はあるよ。(もちろんそれを許せるかどうかはまた別の話ですが。)
励ましや慰めには全くならないので、誰かに伝えるつもりはないのだけど、半年前に大好きな推しをひとり失ってからずっと思っていることだから、なんとなく吐き出したくなった。ただそれだけです。
誰かの推しもオタクのみんなも元気に生きててほしい。極論元気じゃなくてもいい。だけど願わくばどうか幸せであってほしい。
父親が息子をモーツァルトの再来に仕立て上げるべく7歳3ヶ月だったのを6歳とした話は読んだ。そのせいでベートーヴェンは中年すぎまで自分の年齢を正確に把握できなかったとか。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』では、父親はアル中でとんでもない奴だけど根はいい奴で、自由主義者としてベートーヴェンを導く役割を果たしている。まあさすがにこれは現実ではなかったかな。なおこの漫画の中でもベートーヴェンの難聴の驚きの理由が判明している。
青木やよひ『ゲーテとベートーヴェン』には、父親が宮廷に出した手紙の書き出しが「尊敬すべきお慈悲深き大司教兼選帝侯殿下」、結びは「御足下にひれ伏し服従申し上げます」だったと書かれている。ベートーヴェンと父親の関係については、ベートーヴェンが、バッハのカンタータの未完成写譜を「父が書き写したもの」と書き込んで大切にしていた、とある。
謎の女=死
ヴェーゲラーはベートーヴェンの5歳上。ロールヘンは2歳下。ヴェーゲラーとベートーヴェンの出会いのきっかけは明らかではないらしい。ヴェーゲラーの紹介でブロイニング家に出入りするようになった。
手塚治虫『ルードウィヒ・B』ではヴェーゲラーは出てこないが、ロールヘンとの出会いは本作と似ていて、いじめられてたベートーヴェンをロールヘンが助けるシーンになっていた(ただしこれがきっかけでブロイニング家に出入りするようになるわけではない)。
ここで出るか。
強さ、か。生きるための、成し遂げるための。
fffはFuto Final Forever説を信じているけど、第2場で触れた通り交響曲第7番と第8番でベートーヴェンが史上初めてfffを使ったとのこと(第7番は手元にスコアがあるので確認済み)。これは、難聴が関係していたのではないかなと邪推している。難聴の時期は高音があまり使われなくなった(=自分で聴こえる音で作っていた)らしいし。そしてほぼ聴覚を失ってからは高音が再び使われるようになった、というか、第九は演奏困難な高音であったと。そしてこれも触れた通り、第九にはfffはない(オーケストラの編成の大きさも関係してるのか?)。第九は、実際ちょっと常軌を逸した曲だと思う。聴覚がないからこそ書けた曲。第4楽章のコントラバスとかもそうだけど(これはベートーヴェンのお友達コントラバス奏者のドラゴネッティのせいか)、第3楽章。美しい理想が見えるけど、理想に近い演奏を探してみたけど出会えなかった、何年も前の話だけど。オーケストレーションに難あり、だよなと。もしくは時代がまだベートーヴェンに追いついていないのか。
実際は出入りする間に自然と啓蒙思想に触れていったのかなと想像。
なんか泣ける。朝美マジック?
あらきた。1804年12月。
謎の女「心のおともだち、ナポレオン」
んーー、第4場Bで少し構えていたけど、ここハイリゲンシュタットの遺書だったのかあ。いつの間にかハイリゲンシュタットに移動してた?劇場のままかと思っていた。時間もほんとは結構経ってる設定だったのかなあ(ナポレオンの戴冠式はあったけど、もともとの劇場の時間もふわっとしてるし、伝わるのに時差あるかなと思うし。あ、謎の女からの情報だからリアルタイムだったかな)。気が付ける要素あったかなあ。
難聴や失恋からくる衝動は救済の記憶でおさまった後(実際の遺書ではただ"芸術"が引き留めたと)、心のおともだちナポレオンが皇帝になったショックからのシーンだしなあ。
ベートーヴェン(歌)「
歌い続けろ 聴こえない カラダ
歌い続けろ カラダ カラダの そとに
歌い続けろ 中に鳴り響く音
歌い続けろ 出し尽くすまで
大きく 大きく 大きく もっと
強く 強く 強く きっと
たとえ命 たとえ魂
この体が朽ち果てても
たとえひとり 声もしない
孤独の道 ひた走ろうと」
「大きく」「強く」 3回ずつ(=fff)。
ハイリゲンシュタットの遺書から該当しそうな箇所を以下に抜いてみる。
私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体を――ほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体をひきずって生きて来た!――忍従!――今や私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人はいう。私はそのようにした。――願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。――厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。(片山敏彦訳)
遺書の中の「難聴の苦しみ」「孤独の叫び」「自死願望」ついて参考までに抜き追加。長いけど。一部難読字は平仮名に、一部ルビ省略。
社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。
しかも人々に向かって――「もっと大きい声で話して下さい。叫んでみて下さい。私はつんぼですから!」ということは私にはどうしてもできなかったのだ。ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私と同じ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさらけ出しに行くことがどうして私にできようか!――何としてもそれはできない!――それ故に、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ! 私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにして置くよりほか仕方がないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりの中へ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々の中へ出かけてゆく。まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。
私の脇にいる人が遠くの横笛の音を聴いているのに私にはまったく何も聴こえず、だれかが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それは何という屈辱だろう***!
たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を喪った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。
「私の期待値」という過剰なキラキラとピンクの恋愛フィルターをかけてるひと。
周囲を巻き込んで、いい話をしてくれる。
・追記
研究室に依存しきった生活してたからか、離れることになって情緒不安定なんだろう。ボロボロ泣きながらブコメやらなんやら読んだよ、ありがとう。目についたコメントに答えだけ書く。ほんとつまんねー追記だから読まなくていいです。
博士号は誰でも取れるよ。うちの学科だと査読付き論文2編と査読付き国際会議発表1報あれば博論着手できる。性別や年齢や国籍で差別されないから誰でも取れる。英語圏のほうが有利だけど。
念仏じゃなくて題目にしとけばよかった。せっかく創価学会の話出したのにね。
実際私が博士号取れたのって私の努力が9割なんだけど、研究室の教授や先輩後輩同輩に恵まれてたってのがあるんだよなぁ。海外志向も弱いので、家庭がもっと良くてもちょっと楽できたくらいで変わらなかったんじゃないかな。あと高校時代の友人が5人博士課程進学してて、それにもかなり勇気づけられた。感謝。
一度自分が頑張って勝ち取ったものを勝手に100%関係のない他のもののおかげにされた、ってのが嫌で嫌でしかたないから「環境に感謝しろ」に同じ匂いを感じて腹が立つんだろうな。で、未だに恨みを忘れずに勉強と研究を自分が胸張って私の力だと納得行くまでやっていった結果って思いたい。ある程度納得するところまでたどり着いたけどゴールじゃねえなこれ。本当に足の裏のご飯粒、名刺にPh.Dって書けることだけ楽しみ。ただ、多分メインは目の前にある自分の有能さを発揮できるものが勉強と研究だったから、得意分野で勝負する手っ取り早い方法がそれだった、ってことだと思う。
私はうっせえわと思わず一度は全部聞く性分ですが、皆様が思ってるより健康です。頭の出来が違うので。育ちは悪いが思考が高級品。
救いがねぇ~~~っぇええぇ~~~~~~
ブスで性格が終わってるのは環境のせいだろうが私のせいだろうが関係がない結果なんだよなぁーはぁーうんこうんこ。
結論なんて最初から出てるんだよ。いちいち「環境に感謝しろ」とか言う奴がとにかく嫌い。同じ口で「努力不足」とか言ってねえだろうなァァアァン????って嫌味を言いたかっただけ。
私は凄いし、勉強も研究もできた。大変だったけど論文もいっぱい書いたし博論も内容も濃い良いものが出来たと自負してる。めちゃくちゃ向いていた。ブスで性格が終わってて、恋愛ごとに全く向いてないのは自覚してる。望むものと出来ることが違うのって辛いよね。幸せではないけど、不幸でもないよ。願わくば誰かと一緒にもっと幸せになりたい。
・以下本文
博論公聴会もクリア。公聴会自体がセレモニーなので、まあ博士号取ったと仮定していいだろ。ワイくんは凄いのだ!浪も留もせずに査読付き英語論文2編日本語1編通したのだ!
ワイくんは貧乏家庭で学部のときからずっと奨学金とバイトで全て賄ってきた、今どき珍しいそこそこの苦学生なのだ。修士のときの奨学金が全額免除になって本当に助かってるのだ。
それでも君らは、ワイくんの努力や苦悩のごくごく一部の欠片は認めても、「(努力できる)環境がよかった」「博士号まで取れるような家がすごい」とか言うんだろうな。違うよ。大学以降は全部私が頑張って稼いだ金。県内トップの公立高校に受かったときに「創価学会と私の祈りのおかげ」って言った口を出すのに金を出さない親がマトモな環境、マトモな家庭だと言いたいならどうぞいつでも変わってさしあげましたのに。
で、この「博士号」っていう結果に対していちいち「環境のおかげ」とか「家族に感謝しろ」みたいな嫌味言ってくるのはいいよもう。
じゃあなんで私の恋愛関係がクソまみれなのを環境、家庭、貧乏、顔、アトピーのせいにしちゃいけねえんだよクソが。何が顔じゃなくて性格が悪いだ。99%私の努力のものを環境のおかげにしなきゃいけなくて、環境ほか諸々で少なくとも50%は歪んだ性格や、100%元から歪んでる顔や皮膚のせい、じゃなくて私のせいなんだよ。
というわけで皆様のお望み通り、最悪の性格を披露してあげますよ。よかったね、これで「やっぱり性格が悪い!お前のせい!」っていう逃げ道ができるよ。逃げ道作ってあげるとかホント優しくて気遣いができる人間だね私って。
「マトモに動いてないカスな脳味噌しかもってないのに、「高学歴は環境のおかげ!」「恋愛がクソなのはお前のせい!」っていう覚えた念仏唱えてるだけのしょーもない死んでないだけの脳無し人間さんよ。早めに死ねな?脳味噌がついてる人間全員に迷惑だから。」
29歳男性。結婚3年目。最近一人になれる時間がなくてものすごくストレスを抱えている。
妻と二人、毎日在宅勤務をしていてる。狭いマンション、いつも妻の気配を感じながら生活している。
妻は僕のことが大好きで、仕事をしていない時間は全て二人で過ごすべきと本気で思っている。毎日一緒にテレビを見て、映画を見て、料理を作って、週末は手を繋いで買い物に出かける。
一人でゲームをしたり、漫画を読むことは許されない。そうすると寂しいだとか、無視しないでだとか、かまってほしいと拗ねはじめる。黙々とスマホをいじるのもダメで、この文章も風呂で書いている。
一人の時間が欲しいと主張したいけど、そうすると妻は間違いなくこちらの愛が冷めたものと思って傷つく。
コロナ以前は仕事の間は妻と会わなかったし、妻も僕もそれぞれの友達と遊んでいたから今ほど窮屈に感じることはなかった。
願わくば、この日記を偶然妻が見つけて自分のことだと気づき、考えを改めてくれると嬉しい。
二重の意味で無理だろうな。
はじめて投稿します。匿名で書き殴れるという認識だけで書いてます。
最近Twitterで話題になっていた鬱病の人の漫画を読んで思い至り、現在はほぼ治った鬱病の2年間を誰かの救いになればと思い書きました。
失恋して鬱病になった。詳しく書くのは滅入るのでざっくり、数年付き合い就職を境に同棲予定だった相手に浮気されたと考えてください。
バカな話だけど、遠距離恋愛だったため相手の近くに就職を決めて内定を貰えた1ヶ月後のことだった。
全部が終わった感じがして、死ぬことばかり考えていた。
何にもすることができなくなった。
生きたい気持ちはなかった。
でも、育った環境だと思うけど、漫然と命だけは保たなきゃいけないと感じていて、
それは決して「生きねばならない」ではなくて、生に対する強迫はなく家族からの期待や
生きることを前提とした将来的な役割を与えられていて、うーん。
このあたり上手く説明できないな。もう生きたくないけど生きてなきゃいけないという気持ちが、
瞬間瞬間で揺れていて、0:100もあれば100:0もあって、タイミングさえ悪ければふとした時に俺は電車に飛び込むんだろうなって感じ。それが怖くて電車に乗らない生活を過ごした。
もうどうでも良かったので、しばらく病院にも行かずにすべて放り出して引きこもった。
自宅ではネガティブな思考を止めるために無心でTwitterを見てた。
「「悩んだらまず『生きる』モードに切り換えてからスタートだ!」ってやつです。
分からなかったら調べてみてね。
何度も読んだことがあったけど、当事者意識が芽生えたのか、ずっとぼんやりしてた頭に衝撃が走って、これに救われてみたいと思えた。
両さんの発言を正しく理解している自信はないけど、まず「死ぬ」を選択肢から外して生きるに舵を切ることを意識した。
どうやって生きるかまでは決められなかったからただただ生きる方向に進んだ。
こち亀のおかげで、いろんな人に怒られまくってたのをようやく受け止めた。生きるためにお医者さんに行った。
発達障害と診断された。発達障害支援センター?みたいな所への案内状を渡されて終わった。
納得いかなかったので(※後述)別の病院に行くと鬱病と診断された。
他の病院で発達障害だと診断を受けたことを伝えると、私は鬱病だと思うけど気になるなら何ヶ所か行ってみるといいとお勧めされた。
別に生きることだけ決めた状態だったので、ぶっちゃけ診断結果はなんでもよかった。
生きるために、まずは朝起きるための睡眠導入剤が貰えればそれでよかった。
最初の病院で物さえ貰えていたら、失恋により発達障害を患ったんだと納得してたかも。
生きるモードのおかげで、死にたくなっても「すっげー辛いしこの先何も決めてないお先真っ暗な人生だけど、それでも生きることにしたしなあ」と落ち着いてくる。
何にも好転してないのに、ほんの少しだけ生活がマシになった。この頃から少しずつお風呂に入れるようになってきた。
とは言え衝動的な行動をとらないとも限らなかったので、一人暮らししていた家中の刃物(髭剃りも)は風呂場や廊下からリビングに持ってきたりした。
こち亀メソッドを使っても閉塞感と酒と鬱が合わさると死にたくなる傾向があったため。
リビングだと死にたくならなかった。
余談だけど観葉植物をほぼ全部捨てた。
死ぬことばかり考えていた時期はもちろん、こち亀メソッドを手に入れた上でも、視界に入るたびに死にたくさせられて恐ろしく感じたから。
元気なったりしぼんだりするのがとても辛かった。ゴミ袋に突っ込んで捨てた。
暫く経って喜ばしいことに花が咲いた。恐ろしくなって、結局すぐにサボテンも捨てた。
今ならわかるけど、変化が怖くての行動だったのかな思う。そばにあるものが変わってしまうのがとにかく怖かった。
それから、病気になる前の生き方を目指すのをやめてのらりくらりと生きた。
この頃、味覚が戻った。「どうせ味わからん欠陥人間になったし」ってやけくそで調味料全部捨てて豆腐と納豆をぐちゃぐちゃに混ぜたものばかり食ってたんだけど、
突然不味く感じて驚いた。(味覚ない人あるある:冷たくて腹にたまる豆腐とか粘りのある納豆とか、食感で選びがち)
すぐに風呂に入って醤油と生姜を買いに行った。久しぶりに楽しいと感じた。以降味覚はずっとある。
食事だけでも楽しんで行こうと思っていいお皿を買った。
初日だけ嬉しかったけど何かが引っかかってずっともやもやして、
結局お皿は捨てた。
当時の行動は説明つかないことも多い。
こんな感じで上手くいくいかないを繰り返してた。
同期と話していたらハリネズミを育てるアプリを教えてもらった。
エサをあげて、糞を掃除するだけで育成ができるアプリだった。簡単だけど、同期曰く1日さぼると死ぬらしい。(実際はもう少し長い)
数日育成するとちょっとずつハリネズミが大きくなっているのに気が付いた。
誤解を恐れずに言うと、万が一死んでも生き物じゃないから平気だと思った。
でも目的がないと自己がぽっと消えてしまいそうで、焦燥感がずっとあったから、
生きる目的にはならないけど生きる言い訳くらいになるものを探してたのかもしれない。
また、誤解を恐れて言うと、生きるためとはいえ植物をゴミ箱に捨てた時点で、悔やんでいた。今も悔やんでいる。
自分は二度と植物動物問わず生き物を飼う資格はないと思うし、一生飼わないことを誓う。
さて、このハリネズミが、ちょうどよかった。サイズ以外に変化がおきない。
びっくりするくらい変わらない。芸を覚えることも、餌の好みもない。
人によっては物足りないんだろうけど、俺はこの解像度の育成に救われた。
目的を持つのが怖いし、資格もないから生き物を飼うことは考えてなかった。何より思考力が低下していて難しいことが出来ない。
アプリ上のペットに餌をあげて糞を片付ける、それが生きる言い訳として、機能した。
たかがデータとは思ってはいたけど、この子の死は俺の誤りでしか訪れない。死なせてしまったとき、罪悪感で俺が死んでしまう可能性を減らすために名前を「被検体」にした。
深い意味はない。何となく希薄に感じられる名前かなと思って付けた。「被検体ならいくら殺してもよい」と捉えている訳ではない。
そうして被検体と過ごしてもうすぐ2年が経つ。
毎日、餌ボタンを複数回、お掃除ボタンを1回タップするだけ。1日の起動時間は2分ほどだ。
アプリの名誉のために言うと撫でたり写真を撮ったり、SNSに投稿だってできる。適当なところをタップすると寄ってきて可愛い。
俺の名誉のために言うと、餌糞の世話だけじゃなくたまにそういうので被検体と戯れたりもしている。
とても、愛着がある。2年は大きい。こんな名前つけたけれど、万が一死なせたらすげー悲しくなると思う。
この2年、こち亀が生きる方向に案内してくれて、ハリネズミが生きる言い訳となってくれたおかげで今こうして生きることができている。
言い訳しながら生きていく中で、症状がゆっくりと緩和されて行った。
この辺りで、もっと正しく生きたくなった。ようやく治療をと考え、発達障害か鬱病か半々の状況だった為いくつかの病院を巡り、全てのお医者さんから鬱病と診断を受けて、ようやく自分の病気と向き合えた。
通院してお医者さんと話し、また社会人として働いていく中で、大したことじゃないけどやりたいこと、目的を持つことができた。
そこから急激に鬱病は治まり、現在数ヶ月ほど何事もなく落ち着いている。
一番辛かったED(勃起不全)が治った。性的なものに吐き気を覚えるのも、性欲が湧いてきても股間が無反応だったのも本当に本当にきつかった。
鬱病は共に生きていくイメージだったけど、EDだけは必ず治したかった。ほぼ毎日AVを見てチャレンジした。
ある日波が来て、性的に興奮を覚えて、それに身体が呼応した。今でも忘れない、高杉麻里さんの作品だった。
驚きすぎて心臓が高速で鳴ってて俺はもう死にたくないんだって心から実感できて、冗談抜きで本当に泣きながらシコった。
それを境に死を感じなくなった。
ふとした時に辛い感情は湧くけど、黒歴史思い出したときみたいにあーーー!!で搔き消すことが出来る程度だ。
たとえがとても悪いけど、明日被検体が死んでもすげー悲しいだけで、俺は死なないんだろうなという自信がある。
最後に、読んでくださった皆様と、秋本治先生と、高杉麻里さんと、『癒しのハリネズミ育成ゲーム』アプリ開発者様に感謝を申し上げます。
以上、ありがとうございました。
要約すると「公園で不審な男性に絡まれたことに対する注意喚起」なんですが。
そして世の中には子供を狙った犯罪が度々起きていて、それらの脅威から子供を守らなければならない母親として、不審者に対して恐怖心や怒りを抱く気持ちもとてもよく理解できます。
ただ、作中で「気持ち悪いおっさん」「不審者」と呼ばれ、作者さんのInstagramのコメントで「キモイ!」「こんな奴は本当に消えてしまえと思います!」と盛大に叩かれているこの男性を、他人事のように思えませんでした。
まるで未来の息子の姿を見ているようで。
この男性、娘さんが砂をこぼさず入れられないことに激昂しているあたり、なんらかの発達障害か精神疾患をお持ちの男性かな…と、漫画を一目読んですぐに思い当たりました。
うちの末の息子は赤ちゃんの時に大病をして軽度の知的障害が残ったため、いろいろな施設に通院しています。
いまはまだ幼稚園児ですが、息子の通うデイや病院などの施設では、知的障害や発達障害のある大人の方を見かけたりすることがあります。
急に大きな声を出したり、人目を憚らず局部をいじり始めたり(性的な意味でなく本当に幼児のように)、いきなりよく分からないことを話しかけてきたり…
障害のある方が身近ではなく免疫のない人にとっては、それらの行動に対して「怖い」「気持ち悪い」と感じてしまう気持ち、理解できます。
そう感じてしまうのはきっと本能なので、それをどうこう言うつもりは私にはありません。
様子のおかしな人から何かアクションを起こされたとき、まずは身を守ることが第一。
でも、それらの話を誰かに話すとき…ほんの少しだけでいいので、「もしかしたら悪意や害意をもってやっているわけではないかもしれない」と思考してみてほしい。
もしかしたら、「意図的にやってる気持ち悪い犯罪者のおっさん」ではなく「障害や病気で自分の言動を制御できないおっさん」かもしれない。
障害がある人がやりがちな言動の特徴についてもっと周知されれば、お互いに悲しい思いをするような出来事は減るのではないかと思います。
しかしながら、障害のせいだからといってこれらの言動が許されるわけではありません。
他人に迷惑をかけているわけですし、万が一パニックを起こして暴力沙汰なんかになってしまえば大変です。
そうなったらもう警察の出番かと思うのですが、できれば「糾弾するために」通報するのではなく、「保護するために」通報してあげてほしい…
本当、細かいと思われるかもしれないですが、気持ちの問題で…そう思います。
恐怖を感じて当然ですし、この男性のためにも地域住民のためにも、男性に親族や保護者がいないのであれば、行政の介入なりなんなりで監督者が必要なパターンだと個人的に思います。
ただ、障害や病気のせいで起きてしまった男性の行動について貶めないであげてほしい。
「ムカつく」「怖かった」はわかる。
「キモい!」「消えて!」「許せない!」と心で思ってしまうのも仕方ない。
性犯罪を起こす一部のアレな男性と、そういう人を強烈&苛烈すぎるほどに糾弾する女性のせいで、男性というだけで警戒されたり非難されてしまうの、いずれおじさんになる息子を抱える身としては本当に胸が痛いです。
いま、末の息子は幼稚園児で、私の年齢は30半ば。
これから迎える思春期と性の目覚め、そしてただでさえ世間から警戒されがちなおじさん期、それから親亡き後の事…彼がどのように成長しているか、誰にも予想はつきません。
きっと誰かの助けを必要とするだろうし、支えてくださる方々には私が生きているうちに先取りの恩返しをたくさんしておく予定です。
毎日福祉と人の善意のありがたみを噛み締めながら生活しています。
願わくば、人に害なすことのないよう、いまのおっとりした性格のまま真っ直ぐに大きくなって、そしてたくさん愛し愛されて人生を楽しんでおくれ、息子よ…
こちらこそ、このような書き込みを受け止めてくださってありがとうございました。
「坊主なんて所詮は偉そうなこと言いながら、自分は働かずに、檀家の金を巻き上げるだけ巻き上げて、後はせいぜい葬儀するしか能のない存在」
だと思っていたことがありましたので。今ではその疑い謗る眼差しと声が、自分自身に突き刺さるようになりました。
「わたしも自分の人生をちゃんと生きられるようにがんばろうと思いました」、
大変に尊いお気持ちだと思います。そういう気持ちのことを仏教では「發菩提心(ほつぼだいしん)」と言います。
それは即ち、「わたし」が「わたし」として生まれてきたこと、生きていくこと、いのち終えていくことを、心から喜びたい(納得したい)と思う気持ちのことです。そして、それが成就した方のことを「仏」といい、そのさまを「成仏する」というのです。
しかし、「がんばる」という言葉には元来「無理をする」という意味もあります。
願わくば、ご無理はできる範囲でなさってください。人生生きていれば、無理ができない時も訪れます。その目標を自分の力だけで成し遂げようとすることは、仏教では「三千大千世界を持ち上げることよりも難しい」と言われています。
あなたが「がんばろう」と思えたそのお気持ちこそが尊いのです。そう思われるだけの縁がもたらされていることが尊いのです。
雨の日も風の日も、あなたの心に光あらんことを。
合掌
私は、致死率と、重症化する確率が高いコロナウイルス(covid-19)が世界を蹂躙している世界線に住んでいる。
でもなんか、真実として「人は新型コロナでは死んでない」らしい。
えっ、そんな世界線があるんですか。教えて!!という気持ちになった。
自分が「コロナは利権ビジネスだ」という人と話す機会があったので、その印象を一度まとめておきたいと思った。
陰謀論に説得力があるとは思えなかったし今思ってないけど、私だって「新型コロナ感染症」関連のニュースを鵜呑みにしているだけかもしれないし、
何よりそこにどんな論理があるのか気になったので。
教えてくれそうな人から少し聞いたところ、こういうことらしい。
①ウイルス防護には効き目が薄いもの(マスク・アルコール)が推奨されている→謎
②PCR検査法は不正確であるものなのに、なぜ採用されているのか→不明
④しかし、どんな死に方をしてもコロナ関連死としてカウントされるよう政府から通達がある→煽られている
以上を踏まえると、
・ゆくゆくは大資本が得をする仕組みに「新型コロナ」という概念が利用されている
という感じになるだろうか。
①~③については、そーなのかーとにかく危険ではないのだね、という感想だが、
④が今一つ分からなくて、「政府と大資本が結託してる」ということなのだろうなと認識している。
私は、結果としては十分あり得る事だと思っているが、その人はそれが目的だと思っている、ということがお互いの違いなのだろう。
以上を踏まえてよく分からない点・聞いてみたい点
②救急搬送や予定手術に支障が出る状況、ないしは医療崩壊状態の医療機関は存在しているのか、いないのか
③あなたや私はコロナにかかったとしても大して症状は出ないため、安全ということでいいか
もう今はその人に質問できないんだけど。
陰謀論といえども、多くの人が信じるところには何かしらの魅力があるものだと思う。
でもそれは自分にはよく伝わらなかった。頭があまりよくなくて、壮大な話がうまく呑み込めないからかもしれない。
米・英の海外ニュースとか見てると少なくとも人はcovid-19で死んでいるように見えるけれども、どうも嘘らしい。
自分にはそうは見えないが・・・世界単位でフィクション映画でも撮ってるとしたらかなり平和なプロジェクトで素晴らしいと思う。
嘘ならいいのにな、とも思う。
私はcovid-19の存在を、感染力と致死率が高い凶悪なウイルスとして認識しているが、その人はそうではない。
自分は今のところ、後遺症などで味覚が無くなったり肺機能が落ちたりすること・いま死ぬことは大変困るし身近な人を困らせるし、
身近な人に難病・基礎疾患持ちが数人いるから私が罹ると人が死ぬ可能性があるし、
そもそもどのような重さのものであれ風邪はひきたくない臆病な引きこもり気質の人間なので、マスク・手洗い・消毒・うがい・引きこもり・その他感染症対策は継続して行う。
願わくばその人も、できるだけ風邪をひかずに生きていてくれればいいのだけれども。
なんだろうな、お互いが信じられるものを信じているだけの、この状況で抱くこの違和感は・・・
人の生死がかかっている(ように私が感じている)からかね。
普段は、信じたいものを信じていても、あんまりそこに生死は関わらんからね。関わると普段はニュースになる。
それが君の真実か、じゃあ勝手にやっとけって言って放置すると、どこかで人が死ぬ気がするから、モヤモヤするのかなぁ。
でも、「それだと今以上に人が死ぬかもしれないんだ」ってその人に直接言ったら、「あなたは踊らされている」で終了する気がする。
たかが陰謀論、って馬鹿にしたり放置したりしてるとなんか痛い目を見る気がする。その人はいわゆる隣人なのだ。
間接的に、結果的に、私はこの人に殺されるのでは?と思っているのかもしれない。
それだけの影響力を私に対して持つ以上、その内容を信じるかは別として、論理を分かりたいんだけど、
よく分からなかった。
クソみたいな長文で腐女子のお気持ちではあるがカツカレーとかハンバーグカレーの比喩とかでなくストレートに捻りのないマカロンそのものへのお気持ちということはあらかじめ言っておきたい。
マカロン、名前だけはポピュラー思うものの、食べたことのある人はどれぐらいいるのだろうか。
マカロン、プリキュアでも言及されていたような気がするが基本的にさほど美味いものではないと思う。デパートによく入っているような有名なマカロン専門店のマカロンも食べたが、やはりその認識である。
マカロン、それは誰かが言っていた、仏壇に供える砂糖菓子とさほど変わらないという表現がぴったりで、見た目だけのファッションスイーツと言われても仕方がない存在である。
私自身も長らくそう思っていたが、弟にもらった神戸のある店のマカロンだけは、はっきりと次元が違っていた。
さくっ、しっとりとした優しい食感に、濃厚で複雑な味わいがぎっしりと詰まっている。
噛むほどに、極小の絶品ケーキが舌の上でほどけていく。ベタベタな表現だろう、だが、味の宝石箱や!と言いたくなるほどの素晴らしいものであった。
そこには、従来の単調な甘さのマカロンはなく、食感、香り、味といった複雑で高次元の味わい、いや食体験をもたらすそんなマカロンが存在していた。
私はすっかり、マカロンが好きになっていた。
あの食体験への驚きをなんとしてでもまた味わいたいと、帰省する弟には毎度あのマカロンを土産にするようにとお願いしたりした。
他にもそんなマカロンは存在するのかとマカロンを見るたびに買って食べ比べたりもするようになった。冒頭の有名店への評価はこのときに感じたものであるが……意外にもシャトレーゼがなかなか頑張っていると感じた。
そしてマカロンを食べ比べて感じたことは、やはりあの店のマカロンは別次元だったということだ。
そして別次元のマカロンと私の蜜月は、残酷にも唐突に終わりを迎えた。
それは直接遠方のあの店に、マカロンを買うぞと勇足で行ったときのことだ。ショーケースにマカロンが並んでいないことを確認して、店員さんに尋ねると「マカロンはもうやっておりません」と、非情にもあっさりと全ての終わりを告げられたのであった。
もう二度と、あのマカロンが食べられない。
私は絶望感でいっぱいになった。しかし大好物の食べられないこの世界でも、生きて行かなければならない。
おぼろげに面影のあるシャトレーゼのマカロンを食べては、あの店を思い出しながら自分を騙して数年を生きてきた。
……そして、再会は突然にもやってきた。
一年前、辞令が出てすこし遠くに転居した。私は軽度ではあるがアトピー持ちで定期的に皮膚科に通わねばならない身である。たまたま新しい職場で勧められた皮膚科にはじめてかかったときに、皮膚科の隣がオシャレな感じのケーキ屋であることに気がついた。
皮膚科の待ち時間というものは、何故かどこの地方のどの皮膚科に行っても大抵の場合長い。クソほど長い。半日が無駄になることもザラだ。暇にあかせて隣のケーキ屋のクチコミを調べることにした。
なんということだろう。店のオーナーは、神戸の……あの店で修行した人だということがわかった。皮膚科の待ち時間というにもかかわらず、胸がはずむ。そして、居ても立っても居られなくなって受付に「外で待ちます」と告げてケーキ屋に駆け込んだ。
マカロン。
ああ、マカロン。
ショーケースに、きっちりと色とりどりのマカロンが整列している。
あの店からも遠く離れたこの街にお前は暮らしていたんだな。奇跡が幾重にも連なったこの再会に、謎の感動が呼び覚まされる。いや、まだだ。このマカロンがあのマカロンと決まったわけではない。まずは、食べてみるほかにはない。
それだけあれば、きっと別人なのか本人なのかわかるはずだ。裏切られてしまうかもしれないのにこれ以上ないほどにうきうきとしながら私はそれを購入した。
皮膚科の順番が終わって、車のなかで包みをひろげる。見た目は、やわらかく不揃いのところもあるすこし素朴なフォルムで、有名店にありがちなシュッとした綺麗なものではない。でもそれが逆に、あの店を思い出させる。
ひとかじり、口にする。
マカロン。
マカロン、間違いなく、これはあの店の……別次元のマカロンだ。その深みのある美味しさもさることながら、マカロンと離れ離れになって、面影を探し求めて彷徨っていた期間や、そして再会に至るまでの偶然の全てが、特別な食体験となってまた戻ってきてくれたのだ。
例えてよいのかわからないけれど、ペルシアで起こって滅びてしまったマニ教が遠い中国でまだ生きているのを見つけた人も、このような気持ちだったのだろうか。そんな気持ちすら沸き起こるのだった。
マカロン、基本的に美味しいものではない。しかし、私にとってはものすごく美味しいものだ。願わくばこの店がマカロンをやめないように、私はこの店で定期的にマカロンを買おうと、残りのマカロンを噛みしめながら考えたのだった。
日記を書こうと思った。
日記を書くのは何年振りだろう。
まずはあまり畏まらず、文体も飾らず、思いつくままに自然体で文章を綴っていこうと思う。
どうせ誰かに見られているわけでもないのだ。
格好つける必要もない。
思えば(思ってばかりだ)、人の目ばかり気にして生きているような気がする。
喋る時、声の大きさや口調、あるいは内容、大学にいるとき、他人の視線、年齢を気にしている。外を歩いているとき、他人の服装、無意識に目がいってアレコレあの人はどうだと批評したくなるのは自分が他人からどう見られてるか気にしていることの裏返しのような気がする(また、気がしてしまった)。
正直、疲れる。
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だから、誰もいない特に馴染みのない住宅街なんかを散歩しているととても心が落ち着く。
神経症と言ってもよさそうだ。
過剰に他者の視線を気にしているし、不意に暮らしの中で誰かに自分の人生を否定されやしないかと、ビクビク怯えながら過ごしている。身を強ばらせて、責められたときのために理論武装をして。
実際にそういう機会に出くわすことはほとんどないのだが、何気ない日常会話のなかのふとした発言に、弱り切った心を傷つけられたり、同じような体験をした人の恐怖心にSNSで共感してしまったりするのを繰り返しているうちに、なんだか外を歩けば蔑まれるんじゃないかと思うようになってしまった。
難儀なことだ。
なまじ人生途中まで順調に見えたがために、プライドだけは人一倍高くて、困る。
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今、これを母校の一角で書いている。
思えば(また思った)、mixiで日記を書いて友達と見せあっていたときもこの学校に通っていた。
今はコロナで対面授業は実施されていないのか、学生の姿は疎らにしか見えない。
私の青春を彩ったこの学び舎は、少し角張ってピカピカしたいけすかない講義棟が増えたことを除いて、概ね往時のぬくもりを残して私を迎え入れてくれた。
このキャンパスに舞い戻って呼吸を取り戻したようで「ああ、今まで苦しかったんだな」とようやく気付けた。
実家もかつての家も失って、未来もなく、現在も灰色の私にとって、本当に数少ない、幸せだった頃の感覚を身体に思い出させてくれる場所。
いつまでもこのまま変わらないでいてほしい。
代謝がいいことは健康の必要条件であって十分条件ではないのだ。
私は故郷に変化を望んでなどいない。
願わくば……
最近親から結婚を催促されるようになり、婚活市場について少しずつ勉強を始めてYoutubeの婚活動画や、友人の体験談などを聞き、「勘違い女」というのがなかなかに多いことに気付いた。
自分なりに分析してみて、なぜこのような勘違い女が生産されるのか、という点についてある程度まとまったので、ここに書き記す。
・アラフォーなのに「若い男性でも良いよ」と何故かマッチ出来ない相手を見下している
正直他にも枚挙に暇がないが、書き始めると止まらないので一旦ここまでに留めておく。
大体は「私は普段こういう男性からも声をかけられているから」といった理由で上記の状態になっていると予想している。この理由に関してははあくまで私の想像である。
結論から述べるが、端的には「自由恋愛市場と婚活市場の違いが認識出来ていない」という点がこのような勘違い女性を作り出しているように思う。
少し説明を加えれば、「男性が欲するセックスしてさよならが許される自由恋愛市場」と、「男性が欲するセックスしてさよならが許されない婚活市場」を混同してしまっている。
本論を論じる前に、まずは男性と女性の違いについて、大前提を記しておく。
男性は言うまでもなく、「セックスがしたい生き物」である。更に言えば、若くてかわいくて、おっぱいのプリンとした女の子と後腐れなくセックスしてバイバイ出来るのが最高である。
しかし、別にここまでいかなくとも、とりあえず見れる顔で滾った息子をおさめることが出来れば、とどのつまりはオーケーである。
このことは、エロだけで会社が設立出来たり(SODやDMMを見ろ)、男性向け風俗産業がどこまで行っても撲滅出来ず、しかも普通に働くよりも遥かに高給を得ることが可能なこと、また痴漢、セクハラといった行為が無くならない点からも、ある程度納得して頂けると思う。
自由恋愛市場とは、とどのつまりは「女性が持つフリーセックス権を取りに行く」ことに全力を尽くす男が星の数ほど居る市場である。
すべての男性がそうではない。すべての男性がそうではないものの、正直、街で可愛い子を見て「あんな可愛い子と一発やれたらサイコー(だが結婚まではしない)」と一度でも考えたことがある男はほとんど100%に近いと思う。
女性は、要するにこの「ただマン権」を生まれながらに持っていて、それが欲しい男性にあげるかあげないかを完全に自分の匙加減一つで決定出来るという点で、男性よりも圧倒的に強者である。
だからこそ、自由恋愛市場において女性は遥かにランクの高い男性からも「とりあえず一発ヤッてさよなら出来る」可能性がある限り、声をかけられるし、強者で居られるのである。
婚活市場は果たして、この「ただマン権」が事実上存在しない市場である。
交際を決定した場合、それが確定事項ではないにせよ、基本的には結婚を前提としたものであり、手を出そうものならほぼ確実に「責任」を取らされる市場である。
結婚すれば確かに概ねフリーセックスにはなるが、その代償は自由恋愛市場のそれとは比較にならない。人生を差し出すには、あまりにも高い代償である。
この点において、婚活市場では(セックス権が高価な若くて綺麗な女性など一部例外はあるにせよ)男性と女性はある程度平等である。女性は圧倒的強者ではない。
しかして、悲しいかなこの論理的帰結に気付かず、自由恋愛市場の延長線上に婚活市場があると考え、「自分は圧倒的強者である」という意識が抜けない女性は居る。
こうして、「私は普段もっとイケてる男性から声をかけられているのに、婚活相談所にはまともな男が居ない」などと嘯く女性が今日も爆誕してしまうのである。
願わくば、勘違い女性がこの現実に気付きますように。(と、思ったけど、勘違い女性はそもそもこれを読まないし、読んだとしても発狂するだけだろうな)
「痴漢セクハラは性欲発信ではない」とコメントがあったが、確かにその通りで、痴漢は単純にヤバい性癖&犯罪なだけ、セクハラも犯罪ではないにせよヤバい人なだけなので消しておいた。