はてなキーワード: 自律とは
たぶん誰かがとっくに同じようなこと言ってるだろうけどね
やり直したいとも言うよね
会社休みたいわけじゃないんだよ仕事したいの。すごいしたいの。楽しいし。でもできないのよ。
いろんな事重なってなんだかんだで一ヶ月くらい休み続いちゃてそれでも雇ってくれてる会社に感謝すごい感謝。
申し訳なくって、申すことなんもないくらい申し訳なくって恩返ししたいんだけどきっと邪魔なんだろうなと。
しかもめんどくさいのがそれえも自分のことが意外と許しちゃってるってか、甘さにすごい腹がたって仕方なくてこの間ひとりでラブホテル泊まった時にずーーーと叫んでた。なんも解決しないけどね。しかもスッキリしなかった。
こんなん気にしないヒトになりたい。体調崩して休めてラッキーと心底思える性格になりたい。
しょうがないことってあるね実際。また自律神経失調しちゃったよね
+抑うつ状態ってやつなんだろうけど。自殺真剣に考えてた頃は「鬱だよ!」って診断されてなるほどコレがうつ病かってな感じでどうでもよくて。
なんてーかババーンとズバッと解決策をください。自分ではもう無理です。いっぱい寝ても運動しても追われ続けてて。
今後の人生もずーっとこの調子なのかななんて気がビンビンしてて
「あ、これ他の人巻き込んで不幸にしちゃう前に死んだほうがいいな」なんつっても死ねないわけで。
こんなんでも誰かを幸せにしたいと考えてしまって、「それ無理やろ」頑張ればなんとかなるでしょ「がんばるってか普通だからそれ」みたいな自問自答で苦しんで結局焦りは増すだけで。
あと意外と文章書けてなんだか安心して「いや状況なんも変わってね~から」ってまた焦ってね、
あーコレが焦燥感か。書くだけ書いたらちょっと救われてる気がするけど5分もしたらまた気分落ちるんだろうな。やだな。
焦燥感出てきたら危ないから病院来てねって言われてたなそういえば。
寝れないで思い出したけど睡眠導入剤のんで朝起きてトイレ行くときに膝に力が入らないのなんか好き。あの感覚面白い。
あと目眩が止まらなくなった。睡眠薬関係なくてね。目眩がやばいの。横になってるのに目眩すると焦るね。あれは面白く無い。
駅であれ始まるとマジで焦るわ。あかん、電車停めてまうわコレ!みたいな感じで電車に近づけない。なんとか帰って目眩収まって「電車気にしてる場合ちゃうやろ」なんてつっこんで自分キモいわ。んでまた叫ぶと。死ね!!
10代の時健康児だったのはきっといろんなことを言い訳して何もしなかったからだな。余裕があったと言えば聞こえがいいけど何もしてなかったから。
好きなことしてテキトーに過ごせる時間はもう過ぎました。しってます。
本当は適当に過ごせる時間なんて10代だろうが無いはずなんだけど、いまはもっと余裕無いから。それがわかってるからおいうち追い打ち。
自分の立ち位置をはっきりしたい。というかできないから誰か指示して。助けて。ほんとに。
すべきことが山積みで期限も迫っている。内容はどれも単純なもの。メールを書く、メールの返事を書く、報告書を書く、その外国語版を作る、研究する、勉強をする。そのための集中力がこの1週間で完全に失われてしまったようで、同じ作業を続けるのがほぼ不可能になってしまった。今もこのエントリを数語書いては、違うタブを開き、数語書いては、動画を流したりしている。集中して書き物をすることもできなければ、動画を見続けることもできない。
気分的な落ち込みはないし体調もひどく悪いわけではない。作業量や締切は意識にあるし、作業が進んでいないことも分かっているので、ひどく激しい焦燥感に襲われている。これが一日中、それも1週間くらい続いていて明らかにまずい。今日はラムネになりかけている精神安定剤を飲んだ。さらに追加した。
少しでもいいからまず何かに取りかかる、というのがまず言われそうだが、取りかかりだけで終わってしまう。意識も散漫で、作業が散逸する。そのため遅れている作業がさらに遅れ、恐らくさらにストレスが増している。そしてさらに悪いことに、ストレスがかかる仕事や研究の作業だけでなく、それから逃避できるはずの作業も満足にできない。友達へのただのメール返信まで滞っている。手につかない。何をするのももはや絶望的。
できないときは寝て一度リセットできるとわかっているものの、寝ることに意識がちゃんと向かわず、色々手にとっては戻し、サイトを開いては閉じるというのが繰り返される。
ストレスがほとんど発生しないであろうメールを今なんとか書きはじめられた。このエントリをなんとか書き上げられそうなので、今ならなんとか時間書ければメールも書ける気がする。とはいえ、小さい成功体験を踏み台にすこしずつ大きいことに取り組むというのは今はダメっぽい。踏み台が小さすぎる上、足がほとんど前へ進まない。
あらん限りの精神力で、すべき作業のリストアップができれば、意識が散漫になってもすぐ目視で思い起こせるようになるか? あるいは散漫な作業にタイマーをかけて意識的できれば、自律的に区切れるようになるか? 無理矢理体を動かせれば、余計な思考を追い出せるか? 作業が大きすぎるなら、細かくして取り組みやすくするか? では、作業が多すぎる場合は? 考慮すべきことが多い場合は? 死ぬ期限を決めたのに、それまで精一杯頑張ろうという気にまったくならない場合は?
気持ちはわかる。何がダメって、自分自身の心が開いてないことだと思う。増田は本当の自分が見られるのを怖がっている。面倒臭いんじゃない。怖いんだ。そうやってオープンにしないから相手も距離をとってるように感じる。感情を発する前に壁がある。いっかい思ったことそのまま言ってみ。空気読むなとかじゃなく、美味しいもの食べたときにうめー!って言ってみたり、久しぶりに会った友達に素直におー会えて嬉しい!とか。もちろん自分をオープンにするっていうことは痛い時もある。でも痛いところって思っているよりも規模の小さいもので、それよりもオープンにすることで他者との繋がりを感じることの方が多いと思う。そうして自分をさらけて相手にも依存してってやれば相手も自分に依存してくる。この関係は社会的動物である人間にとって気持ちいい。依存はたくさんの人にするものだ。自律した人とはたくさんの人に依存した人だって言葉もあるぐらい。孤独に自律したと思っている人は、自分がどれだけ周りから恩恵を被っているかわかってない人が多い。もちろんすべてではないが。
ってのを感じる。元々おなじようなこと思っていただけに。参考になれば嬉しい。
口頭注意と肉体的苦痛を与えることの間には、もっと多くのオプションがあるのではないか?
例えば小学校の頃は「7班」というのがあった
クラスを6班に分けて机を配置しているのだが、騒いだりちょっかいを出す子を一時的に孤島のような場所(もちろん教室の中で)に隔離する
だがこれは「身体的処罰」でもないように思う
肉体的苦しみを与えてる訳ではないからな
ここは慎重になるべきだろう
「体罰=殴る・平手打ち」→「殴る・平手打ち=暴行」→「体罰=暴行」→「暴行=犯罪」→「体罰=犯罪」
みたいになってる気がする。
違いますよね。
殴るのも平手打ちも体罰のうちかもしれないけど、
「給食抜き」とか
「バケツ持って廊下に立ってろ」とかいった「体罰」の話がなおざりになってる。
※以下本稿では、暴行のイメージにまみれた「体罰」と区別するために、こういうのを「身体的処罰」と呼ぶことにする。
体罰反対をとなえる人の中に、身体的処罰すらも無くすべきと言ってる人と、そのくらいならあっていいと言ってる人が混じってる。
さらに、「そもそも子供に対して罰は必要ないんだ」とまで言う人も混じってる。
僕は今のところこんなスタンスでいる。
・身体的処罰は、積極的に支持。
ひとつめについては、僕にとっては論を俟たないほど当たり前のことなんだけれど、違う意見の人もいるみたい。
オトナの集まりである会社ですら、罰則規定のある就業規則で秩序が保たれてる。
たとえば中学校の教室で、授業の秩序を紊乱する生徒が出現したとしよう。
このルール違反に対して、教師にはどれだけの方法があるのだろう。
僕は寡聞にして、身体的処罰よりも有効性と即効性のある非身体的処罰を知らない。
もしあるなら、教えていただきたい。
たとえば停学や退学は、即効性はないし、そもそもルール違反と処罰のバランスとして適切さに欠ける。内申書への影響とかさまざまな不利益があるはずで、たかだか授業中に騒いだだけの生徒にそこまでの不利益を与えるのはちょっとね。
ほかに、何がある?
授業を中断してその生徒を叱責して秩序紊乱をやめさせる? 秩序紊乱が収まるまで説得を試みる?
そんな叱責や説得がスッと聞き入れられるなら苦はないですね。もちろん最初はそれを試みるべきでしょうけれど。
放置する?
そういう行為が放置され罰せられないという状況は、他の生徒たちに対する教育効果としてどうなんだろう。また、そんな状況で授業を受けさせられる他の生徒たちが可哀想。
それらの間を埋め、教師にとっては機動的に発動でき、生徒にとっては重すぎず将来に禍根も残さない、リーズナブルな処罰として、現場の教師による身体的処罰は効果的に機能し、だからこそ明治以来の「体罰禁止」のルールのもとでも脈々と存続してきたんじゃないかな。
それだけじゃないかもしれないけど、少なくともそういう一面はあったと思う。
もちろん、慎重な運用は必要。教師がその場で発動できる機動性と教師のその場の感情に左右されるあやうさは表裏一体だから、ホントに気をつけなきゃいけない。
ただ、教師ってのはそういう専門の教育を受けてなっているものなのだと信じてみたらどうだろう。
何らかの自律はできるものと期待して、そのくらいの権限を与えてもいいんじゃないかな。
その程度の権限すらなしに、教室の秩序を保つ義務だけが押しつけられ、生徒をちょっときつく叱っただけでモンスターペアレンツから教育委員会にチクられ、そんなので教育荒廃の責任を負わされては、いくらなんでも可哀想だ。
その上で、自律できない教師がいたら、クビを刎ねればよいのではないか。
さらにもちろん、身体的処罰に代わる
「教師にとっては機動的に発動でき、生徒にとっては重すぎず将来に禍根も残さない、リーズナブルな処罰」
が発明されるのが、最も好ましいことだと思う。
だから、もし僕が知らないだけなら、「こういうのがあるんだよ」と教えてほしい。いつでも上記の意見はコロッと変わる。
体罰は、無いに越したことはない。
考えてみると6年間おそらく8回以上ロープの傍に立っている。ロープ終点付近の補助ばかりしている。自分の心がけを書いてみる。必要ないとお感じの方は実行なさる必要はまったくないです。思いつきも含んでいます。
【前日まで】
雨雪が防寒着に染み込まないように、防水スプレーを防寒着にかけておく。
当日帰宅すると疲れで寝てしまい夕食を作れないことが多いので、前もって当日の夕食を作る。
スキー板のワックスかけ、子どもの荷造りは前夜までに終えておく。と思うがいつもやってない。
ロープを押さえ続けることもあるので手袋は革製の手のひらが二重以上になっているものがよい。これは消耗品。真面目にやると一回で大きな穴があく。
知らない人でもスキー指導も含めお手伝いの人には挨拶する。他校でも。
ロープ補助の打ち合わせでは、かつて小学生にロープが引っかかり死亡事故が起きたことを話して、遊び半分の空気を大人が醸し出さないようにする。子どもに伝わるから。ただし、現在は滑車前におそらくどこのスキー場にもストップスイッチ付きのバーがあり、そこに圧力が加わると止まるようになっていると思う。根拠はない。しかし、現場では何が起こるかわからないので油断は禁物。可能であればロープ補助者全員でバーを触って実際にロープを止める練習をした方が良い。言葉で知っているだけでは慌てた時に体が適切に動かないので。
朝一番にロープで上がってくる生徒や指導者に挨拶する。他校も多いが、分け隔てなく挨拶するほうが指示を聞いてもらえたり助け合うことが多いように感じる。
他校からもロープ補助の人が来るが、自校だけ助けて他校を放置しているとロープが止まってばかりで生徒は疲労消耗し身体が冷えてしまうので、初めから分け隔てなく助けると割り切る。
必ず全力で走って助けに行く。
ロープから離れたら、斜面上から下に向かって一列に並ばせて指導者を待たせる。スキー板は斜面上下の方向に直角。きれいな一列でなくてよい。ごちゃごちゃでたむろさせるとロープの近くにいる人が少なからず出るが、並ばせるとしっかりロープからの距離が取れる。二人良い位置まで押していって並ばせるとあとは自律的に並んでくれる。
ロープ補助の目的は安全管理と最終的にはロープ補助が不要になることなので、上手なロープからの離れ方を随時伝える。その際後ろから抱いて斜面側の膝の外側を軽く叩いて「この足を外側に踏み出して」と声をかけるやり方が今までで一番早く理解してもらえたと思う。必要によっては膝を持って足を外側に踏み出させる。
ロープを生徒が上下に揺すると振幅が大きい部分の生徒が転んでロープが止まるので、見つけ次第注意してやめさせる。蛇行、大きく通常コースを外すなども危険行為なのでやめさせる。
降雪が少ない年はロープの位置が平均して高くなるので手でロープを押さえて低くする。特に低学年は高いロープを掴むと力を入れられず姿勢の保持が難しい。
「おりたらまずロープから5m離れて」「ストックはロープから離れてから持って。命が大事」「ロープのそばで滑らない」等、身につくまで言う。5m離れての指示で、だいたい3~4mくらい離すことができる。
降りたときにスキー靴の留め具が止まっているか確認する。昼食後だとぶらぶらのまま滑る生徒は1年生で1/4、2年生で1/10、3年生で3%くらい。
注意以外はとにかくほめる(ほめたほうが良さそうな人)。ロープは大人でもつらい。上に上がるまでつかんでいるだけでえらい。前回よりよくなったところを指摘してほめる。前年比でほめる。ロープで転んでも良かった部分を指摘してほめる。昼食前、終了前は疲労でヘロヘロになっているのでねぎらう。指導者にも疲労の色が見えたら「お疲れ様です」と声をかける。終了前の滑走では最後までがんばったことをほめる。
通常人数が少ないので他校のロープ補助の人と守備範囲は重ならない。そのため誰でも守備範囲で転べば助けに行くので、他校のロープ補助の人には必ずお世話になっている。昼食時間がずれるので、持ち場を離れるときは、自校の子どもが世話になったことへの感謝と先に行くことを告げて離れる。終了時も同様。
【昼食休み】
昼食は自児のそばで摂ることが望ましい。スキー指導する父兄は指導する班と共に摂るので実質的にあまり休めない。にもかかわらず、ロープ補助の大人だけで昼食を摂るのを見せられたら辛いと思う。疲労の蓄積した午後を彼らと協力して乗り切らなければならない。情報交換は別の機会に。こまごまとしたオンデマンドの子どものお世話をする。
【1年生の対応】
1年生の初回のスキー教室は、子どものほとんどが初心者でほぼ全員がロープに来る。そのため補助者も人数が多いが、全員をロープに貼り付けると積極的に動く人に仕事が集中してその人は午前中で文字通り疲労困憊してしまう。事前に根回しして労務管理の監督を一人作るのがベストだが、たぶん難しいので午前中と午後の補助者を分けて募集することを学校に提案すると良いと思う。一年生のスキー教室全部と2年生の1回目はこの午前午後別募集が良いと思う。
【掃除】
子どもが昼食をとった場所は、こぼした食べ物や飴の包装のかけらが落ちているので、荷造りが終わりバスへ子どもの移動後備えつけのほうきではく。
【役得】
ロープ補助者の役得は、学年のお子さんの成長が見られること、自児のスキー板をその場で持って帰れること、弁当などの準備に時間をかけられること。一回のロープで3回以上転んでいた子どもが堂々と上手に一人でロープの一番上まで上り、その後リフトに行ってロープに来なくなるのを見るのは本当に嬉しい。
現代社会を生きていく子どもにデメリットだらけの道行かせたい親って毒親じゃん
見た目の問題と相殺される
太った人間ってのは肥満体形を維持できちゃうレベルで食うから太ってるんだよ
>それは君の個人的な思想だ。
どこが? キミの親はキミに「何事にも限度ってものがある」って教えてくれなかったの?
食べたいだけ食べるという幸福が全面的に許されるのなんて余命短い病人と老人だけだろ
本来自律的に制御するのが当然だし、それが出来ないなら管理される必要があるんだよ
>そんなこと言い出したらゲームだのテレビだのオナニーだのあれもこれもきりがない
だから「ゲームは一日一時間まで」とか食事中はテレビやめるとか部屋がイカくさすぎたらベッドの下のエロ本をわざと机の上に出しておくとかして
親はほどほどを教えて我慢させようとするじゃん
人権というものを語るとき、必ずといっていいほどまで言われることがいくつかある。
たとえば、「人権というものは近代国家を満たす要件のひとつだ」というぐあいだ。
ホッブズは社会契約説として自然権を考えたが、彼の見据えた先は絶対君主制であり、巷で言われるような近代国家とはまた異なる。
ロックは間接民主制を見据えていたので、これはさらに民主主義を推し進めたという意味でより近代的である。すなわち、近代国家というのは民主的であるというのも大事なのだ。
他に言われることとしては、「障害者に人権がなかったら、虐殺される」というものや「お前みたいなクズが生きていられるのも人権のおかげだ」というたぐいのものだ。
常識的に考えてみて欲しいのだが、人権の有無と虐殺の有無は異なる。人権がなかろうと人を殺せば刑法に触れるのであり、ふつう虐殺など起こらない。人権がない、すなわち無法地帯というわけではないのだ。後者に至っては発言者のゲス具合が遺憾なく発揮されており、恫喝以外の何物でもないと考える。
さて、憲法改正議論にあたって基本的人権の尊重などというのが槍玉に上がっている。これを廃することは、近代国家の否定だという人が思ったよりいる。
少しシミュレートして欲しいのだが、この国から人権を廃して、何か変わるだろうか?
警察の対応が杜撰になる?そんなことはない、もとから人権など顧みない杜撰な組織だ。
国家が国民や他国の人間を守らなくなる?そんなことはない、人権等より実質的な国家的相互監視によって、そんなことは許されないし、軽微なものならこれまでも無視されている。
自由が奪われて息苦しい時代になる?そんなことはない、それはある程度は景気の問題であって、人権があるかどうかと自由があるかどうかは関係ない。人権があろうとなかろうとわれわれはこれまでも「公益及び福祉のため」にこれを実践してきたし、人権の有無にかかわらず公共の福祉のために衝突があれば調停してきた。
ここまできてわかっただろう。この国に人権などいらないのだ。人権などいらないと言いのけても矛盾ないほどまでに杜撰な国家に杜撰な国民、杜撰な社会だと言うのもいいし、人権などいらないと言うまでに自律的かつ他律的な国家国民社会なのだ、と言うのもいい。
いずれにしても、民主的手続きで人権を放擲するならそれは最大限尊重されてしかるべきだし、今回の改憲が実現したとして人権がきれいさっぱり憲法からなくなるというわけでもないのだから、反対派にしても良かったじゃあないか。
条文が削除されたのはデマではなかろう。意味がない、と言うが、意味がないなら削る意味もないだろう。意味がないということにしたい勢力がいるのではないか? と疑われかねない他の文言改正とあわせて読めばさらに。例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。14条は差別の禁止しか言ってないし、11条はわざわざ「将来の国民」から権利を奪うことを明示しているとも読める。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
例えば人権が自由への努力の成果ではなく、「おカミによって与えられ(また奪われる)もの」としているように個人的には感じた(そしてそれは許し難い)。
おカミて、神?上?紙?どういう意味で許し難いの?
法律専門じゃないけれど、人では無い憲法という抽象物から権利を与えられ、というのが世界的によくある形態。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
③ 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
自民党案
第十四条 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
??差別の禁止だけでもないし、これ以上何を入れろと?
余計な文章を入れ込むことによって、裁判でおかしな判決で不利益こうむる人も出てくるんだよ?
それに、障害の有無を入れたあたり、評価すべきじゃないの?
侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
「永久に」が残っていれば将来に渡って、の意味も含まれているでしょ。
それより、「国民に」を削って国民以外も視野に置いた点で、在日○○人らには良かった改正じゃないの?
第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
自民党案
(人としての尊重等)
第十三条 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
その上、「公益及び公の秩序に反しない限り」だ。
公共の福祉、これは論争がある用語らしいね。面倒だからコピペ。
もっと明瞭な用語に変更して誤用や乱用を防いでいるように取れるんだが、具体的に何が「危険思想」なの?
公共の福祉の意味については、古くは争いがあった。尚、現行憲法では「公共の福祉に反する場合」国民の基本的人権(言論・結社・身体の自由等)を制限できるので、極めて重要である。
一元的外在制約説
公共の福祉という用語は、当初は人権の外にある社会全体の利益を指すために用いられ、公共の福祉を理由として人権を制約することが判例上広く認められていた。この説は、もっぱら人権の外部に「公共の福祉」なる概念が存在し、あらゆる人権保障に制約を加えることができる、という意味で「一元的外在制約説」と呼ばれる。
この説は現在では全く支持されていない。なぜならば「公共の福祉」を根拠にいかなる人権も制限可能であるならば、大日本帝国憲法の“法律の留保付き”の人権保障と全く同じ運用が可能になってしまい、個人の自由を最高の保護法益とする日本国憲法とまったく相容れなくなるからである。
二元的内在外在制約説
公共の福祉により制約が認められる人権は、経済的自由権(22条と29条)と社会権に限られ、12条・13条は訓示的規定に過ぎない、とし、右の権利以外は憲法的制約はなく、それぞれの社会・文化関係から自律的に制約されるのみとする説があり、これを「二元的内在外在制約説」と呼ぶ。
一元的内在制約説(通説)
宮澤俊義により主張され現在の通説とされる学説[1]。公共の福祉を人権相互の矛盾を調整するために認められる実質的公平の原理と解する。この意味での「公共の福祉」とは、憲法規定にかかわらず、すべての人権に論理必然的に内在しているとする。この「公共の福祉」原理は、自由権を各人に公平に保証するための制約を根拠付けるためには"必要最小限度の規制"のみを認め(自由国家的公共の福祉)、社会権を実質的に保証するために社会国家的公共の福祉として機能する、とする[2]。
例えば、憲法上保障される表現の自由は、同じく憲法上、幸福追求権の一種として保障されると解されているプライバシーの権利と衝突する。このような事態が生じる場合に両者の調整を図るための概念が「公共の福祉」である。
もっとも、このような理解に対しては、いかなる場合にいかなる程度の人権の制約が可能であるのか明らかでなく、結局「社会全体の利益」と理解した場合と同程度の不明確さが残るのではないかとの批判がある。このため、一元的内在制約説を人権制約に関する具体的な違憲審査基準の規準として準則化したものとして、「比較衡量論」(ad hoc balancing)や「二重の基準」 (double standard) の理論が提唱されている。なお、公共の福祉による人権制約は法令によってのみ行われ、法令による規制が合理的であるかどうかは違憲立法審査によって行われる。法令以外によっての公共の福祉による人権制約は許されない。例えば契約書や約款・就業規則等の規定が公共の福祉の根拠となることはない。なぜなら民法90条「公序良俗に反する契約は無効」とは全く異なる概念であるからである。
「自衛のための助言」という大義名分が成立するためには、未だ被害に遭っていない人間に対して注意する必要があるよね?
ところが、もしもその人が助言を受けた後で被害に遭ってしまったとすると、「だから言ったのに」という理屈が成立してしまうよね。
人間が基本的には自律した個人であり行動を自分で決定できるという前提がある限り、「助言したにも関わらず被害に遭った→本人の不注意、或いは意志にも責がある」ということに自動的になってしまうわけ。
言い方がマイルドとかそういう問題じゃない。論理的にそういう話が成立してしまうので、むしゃくしゃしていて弱い者いじめしたいクズとか、あとはセカンドレイプの何たるかをよく判ってないバカとか?そういう魑魅魍魎どものエサにされてしまうのよ。
強姦の発生件数の統計数値上において、顔見知りと赤の他人のどちらの方が発生率が高いかとか、エロ服と地味服のどちらがよりデンジャラスかとかいうあたりは全無視なアドバイスであるのも芳しくないよね。
酒と場所も微妙。大学のサークルみたいな知り合いに誘われて参加した場(の延長)で被害に遭うかもしれないし、逆に一人で飲んでた帰り道で遭うかもしれない。どっちもどっちすぎる。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.designmap.info/tobewebdesigner/preparation/webselfstudy2012/
はてなブックマークで定期的に「WEBデザイナになる方法」みたいな記事がホッテントリになる。多分スパムなんだろうけど、もしかしたら夢見がちな若者が「かっこいいクリエイティブな職業」と勘違いしているのかもしれない。そこでこれを増田に書いておくことにする。
想定する対象は10代後半から20代前半の「WEB業界」を志す若者。
http://doda.jp/guide/heikin/007_02.html
WEBデザイナはとにかく給料が安い。20代だと300万円を割る。同年代平均からも60万円も安い。これは敷居が低くある程度パソコンが使えれば誰でもなれるためだ。特に地方では手取り月収13万なんて言うのも当たり前。アルバイトでも時給800円なんていうのもよくある。正直、深夜の繁華街のコンビニでレジを打ってたほうがよっぽど稼げる。
まあ、これはコーダーに毛が生えたレベル、あるいはDTPオペレーター崩れが名乗る「なんちゃってWEBデザイナ」レベルの収入で、いわゆる「看板デザイナ」レベルになればもちろん収入も増える。ただそれは「テレビに出てない若手芸人が冠番組を夢見る」「新人賞で佳作を取った新人漫画家が週刊少年ジャンプで看板作家を目指す」「序二段の相撲取りが横綱を目指す」レベルの話である。
じゃあフリーランスならどうなの?と思うかもしれないが、フリーだと自分で営業して仕事を取ってきて、自分でディレクションして、自分で制作して納品して、自分で経理人事総務やって、自分で銀行や税理士と話をして…と、本当に全部自分で面倒を見なければならない。外注で制作会社から仕事をもらうという手もあるが、もちろん買い叩かれる。おまけに社会保障も自分で何とかしなければならない。ノマドなんてカッコイイ事言ってるペテン師みたいな人も見かけるが、はっきり言って勤め人よりもきついし自律心が必要である。
ちなみに、WEBディレクターは20代後半で413万円、プログラマは365万円。サーバエンジニアが398万円。WEBデザイナはWEB業界でもはっきり言って底辺である。
http://diamond.jp/articles/-/21790
IT系とクリエイティブ系の宿命である長時間労働どうであるが、WEBデザイナも例外ではない。あなたが運が良ければ、土日祝日休み、定時退社が当たり前で残業はたまにあるという、天国のような制作会社に勤めることも出来るだろう。しかし長時間労働が常態化している制作会社が多く、納期前のデスマーチなんていうのも当たり前になっている会社も多い。
特に営業が中心の会社は注意が必要だ、無茶なスケジュールと予算で案件を取ってくる場合が多く、そのしわ寄せは大抵立場の弱い人間に振りかかる。特に社長が営業畑出身の会社は避けたほうがよい。
更にクライアントが原因のデスマーチもある。資料をギリギリまでよこさない、納品直前に修正要求、突然の方針転換など。これはどんな業界にでもあることだろうが、特にWEB業界ではそれが多い。金を出すクライアントのおっさんたちは、「そんなのパソコンでちゃちゃっと直せるだろ」という感覚なのである。とにかく平穏で余暇を大事にする人生を送りたい人にはおすすめできない職業である。
当たり前だが、常に新しい情報を入れて勉強し続けれいなければならない。数年前まではFlashがこの職業の必須スキルだったが、今では役に立たないとまでは言わないまでも積極的に覚えるべきスキルではなくなっている。今はHTML5とCSS3とAjaxが必須になりつつあるけど、これだって数年すれば陳腐化する。というか、半年かけて覚えたことがあっという間に陳腐化していくのである。
冒頭で「パソコンが使えれば誰でもなれる」と書いたけど、当たり前だが「趣味はインターネットです。ニコ生と2chを9時間見てます」「ExcelとWordは任せて下さい」という人がなれるわけではない。PhotoshopとIllustrator(FWは別にいらない)、HTMLとCSSは必須というか最低限の基礎知識で、配色やレイアウトの知識、AjaxやActionScript、PHPやRubyなどのプログラミングやデータベースの知識、WordPressなどのCMS、SEMやLPO(SEOはすでに陳腐化している)、場合によってはイラストやコピーライトや写真撮影と、とにかく広く薄く覚えることがたくさんある。とにかくたくさん本を読んだり、検索エンジンと格闘したり、下手すれば英語のサイトを読んだりして知識を入れなければならない。業務時間中では当然のように時間が足りなくなるので、プライベートの時間も勉強することになる。ニコ生と2chで9時間というタイプの人には無理だし、普通の人にもまず無理だ(普通の人って土日とか平日の夜に勉強するもんなの?)。まあ、はてブに沢山いる「勉強熱心な人たち」には大したことではないかもしれないが。
さて、ここまで読んで「WEBデザイナになる方法」をブックマークして満足している人はそれでも「WEBデザイナ」になりたいのか。もしなりたいならば、ポートフォリオを作る前に、Adobe CSとMacを買う前に、専門学校に願書を出す前に、身近でWEB業界で働いている人の話を聞くべきだ。但し間違っても、ドワンゴとかはてなとか、あるいは博報堂なんかにいる「エリート」ではなく、出来れば聴いたこともない会社に勤めている人に話を聞こう。
耳鼻科とか内科とか最近3軒くらいの病院行ったけど全部あっさりしてた
診察表に症状書いたら、あんまり口頭で問診ってしてくれないのね
めまいがするから病院に行って、問診票にもめまいがするって書いたら普通「どういうめまいか?」とか「どういう時に発生しやすいか?」とか聞かれると思ってたんだけど聞かれないし
あっさり血圧だけ測られて貧血って言われて漢方2週間分渡されてもちょっと納得いかない…20数年生きてきて今まで一度も貧血って言われたことなんてないし…
専門家のいうことにケチつけるのもどうかと思うけどなんかモヤモヤするなー
結構しんどくてつらいんだけど漢方って即効性のあるものでもないのに困る…
セカンドオピニオンとか気にしすぎじゃねwwwwとか思ってたけどこれは他のところに行ったほうがいいのかな
僕は子どもの頃、外見的に「おとなしそう」「虐められそう」だったし、カッコ良くもないので、中学二年の頃にひどくイジめられた。
で、中学生なりに考えた結果、僕はそのイジメをシカトするという方法をとったんだけど、リアクションが無いとつまらないのか、シカトするという対処法は割と有効で、イジメからの脱出に成功した。
その後、成人式の同窓会でイジメの首謀者達に会っても怒りが再燃するようなこともなく、それなりに楽しく飲むことができた。
だから、自分の心ではもうその経験にケリをつけられているんだと思う。
でも、あの経験は僕に色々と影響を及ぼしていると思うことがある。
イジメられた経験のある人なら、わかってくれると思い、ここに書いてみる。経験のない幸運な人も、イジメられるとこうなるということで読んで欲しい。
まず、体の操縦がヘタになる。
イジメられてると、イジメてる側はいつも見てる。これは誇張とかじゃなくて、虐められてる側はもうそう思わざるを得なくなる。
そうなると笑われないように、イジメのきっかけを産まないように行動しないといけなくて、そう思うと余計変なことしちゃって、笑われて。
実際今でもそうなる。少しテンパると体がうまく動かなくなって、指先震え出しちゃったりとか、瞼が降りてきたり、少しの力をかけるつもりがビクンッて強い力を出しちゃったりとか。(言いにくい
あと、呼吸もへたになるね。ただただ呼吸するのが苦しいっていう。気にしなきゃいいんだけど、気にし始めると、もうね。
あと、心が鈍感になる。(と思う
これは僕がイジメをシカトしてやりすごす、といういなし方をしてたからかもしれない。あれ結構キツイんですよね。泣いちゃいそうで。でも泣いたら面白がられるしね。それを半年続けたからもうキツかった。
で、その影響なのか、全然感動をしなくなった。感動モノの作品を見たり、旅行先で凄い綺麗な景色を見たり、大学であるコンテストで凄い結果出したりしたけど、全然心が震えないのがわかる。心が鉄でできてる感じで、パサパサなのね。
もしかしたら、イジメに対して怒って殴りつけるぐらいの対処をしてたら、映画見る時でもワンワン泣いたりキャラクターに怒ったりしていたのかもしれない。こんな事言っても、本当しょうがないけど。
・・・ということをこの前イジメで自殺したニュース見てて思ったんだけど、どうだろう?
同じような事を感じてる人は絶対いると思うんだけどなあ。
カウンセリングとか行った方がいいの?誰か教えて。
長年悩まされてきた不整脈が、ほぼ完治してきたので、自分なりの方法を書きます。
もし、不整脈に悩まされている方がいましたら、参考になれば幸いです。
■発症
のように、食い気味の拍や、本来は休符の場所に拍を入れる感じ。
今まで、ひどい風邪をひくとたまに不整脈が出ることがあったので今回もそれかな?と思ってたら、一週間続いたのでこれはよくないと思い病院へ。
■最初の通院
医者曰く、「よくある病気である。基本的には対症療法しかない。カテーテルアブレーションというのもあるが、そこまでの症状ではなく、普通に運動もできる。なんなら私も不整脈なんだよ」ということを言われた。
最後の言葉は、ちょっと医者としてどうなんだ?と思ったけど、結局これといった解決策もなく病院をあとにする。
■運動をしてみる
対策として、あえて運動をしてみた。
走ってて、最初は胸に違和感があったけど、ある程度激しく運動をすると胸のつかえが取れる感覚を覚えた。
その後しばらくは、不整脈が出なくなった。
なんだ、ただの運動不足か、と安心しきってたら数日後あっけなく再発。
また走ればいいやとしばらく放置したのち、再度ジムに行って激しく走ってみたものの、何と不整脈持続。
軽く焦り始める。
■二回目の通院
つまるところ、この手の不整脈は往々にして精神の問題から来るもの、とネットには書いてあった。
確かに、当時の自分は悩める子羊で、仕事の事や将来の事、家族の事など、今となれば「やりゃいいだろ」というような細かいことまで悩んでおり、
それが原因だという自覚があった。
なので次の一手としては心療内科に行ってカウンセリングを受けることにした。
これが解決すれば不整脈も治るかなと足繁く通った。
結果、悩みの一つである将来の事に関しては、転職をしてみようという決意に至り、活動をすることにした。
■サンリズムという薬
直接療法ではないが、症状を軽減してくれる。
仕事に集中できるためしばらくの間服用を続けた。
こんな状態の最中、転職活動を行った俺すごい、と一応自画自賛もしとこう。
加えて、こんな状態でも日々の通院や転職活動を容認してくださった前職の関係者の方に、ホントに御礼申し上げます。
■三回目の通院
転職を果たし、新たな地に移り住む。
さすがに三回目となると、こっちとしても説明も慣れたもの。
自分で「期外収縮」だと言うと、医者もあまり関心がないのか、たまたまその先生が専門外なのか、あまり親身になって聞いてくれなかった。
「あまり気にしないことですよ。運動もほどよくしたほうがいいです。悩みすぎないように」
という、俺でも言えそうな言葉をもらい、何となく釈然としないが薬をもらうためにしばらく通院。
■薬への耐性
薬も服用を続けると、体に耐性ができてしまって、なかなか効かなくなってきてしまった。
成分の密度が濃いワンランク上の薬をもらうこともできたけど、いたちごっこのようにまた効かなくなるだけなので、もう服用をやめた。
その頃には、多少の諦めもあった。
■不整脈が出る周期
説明がものすごく難しいけど、胸のあたりにドーンという深い重みが襲ってくるような感覚、一瞬の焦り、息が詰まる、のような体験をすると、翌日には不整脈の激しさが増す。
かといって、打つ手はなかった。もうカンセリングも受けたし、また受けても同じかなと。
ただ、解決策は徐々にわかり始めてた。
一般的に不整脈の原因の一つとして「自律神経失調症」があり、副交感神経の働きが弱いと不整脈が出やすくなるらしい。
そこで鍼をうってもらい、無理矢理にでもリラックス状態になってみたら何か改善されるんじゃないかと思い、試しに鍼灸院に行くことに。
結果、かなりリラックスはできた。
その他、温泉に行ったりマッサージを受けたりと副交感神経が優位になるようなことを行った。
しかし、完治はしなかった。
■光明
とはいえ、今までなかった「不整脈が出ない日」というのが、ちょっとずつ増えてきた。
何か、もう少しな気がしてきた。
家に居る時は不要な悩み事をしない、腕組みなどの交感神経が優位になるようなことをしない、
などを行った。
そういうクセってなかなか治らないけど、
「もうこれ以上不整脈が続くと、いくら心臓に問題の無い期外収縮とはいえ負担はかかってしまう」
と考えたら、ある種の防衛反応で悩みすぎる事もなくなってきた。
「だって死にたくないもん」と考える事で、細かい悩みは持たなくなってきたように思う。
■とどめの対策
それでも症状は出る。
あとちょっとなのになぁ、と歯がゆい気持ちになり、それが悪循環になり症状が悪化したり。
でも、自律神経の乱れが原因と決めつけて、いろいろ調べた結果、以下のことを試す。
マグネシウムの摂取は、体の神経系の異常を正常に戻す、という記事を発見し市販のサプリを購入し服用を始めた。
すると、服用後1ヶ月でほとんどと言っていいほど症状が出なくなった。
今も再発の不安は残るけど、このまま無くなる気がしている。
一袋300円弱。すごくリーズナブル。今まで高い薬を買ってたのがアホらしく思える。
■まとめ
という結論に至るにはちょっと自信ないです。
結果としてそうなったけど、精神的なものの兼ね合いだと思っています。
発症後すぐに投与しても変わらなかったのかもしれませんし。
いや警察は社会の免疫みたいなもんで、そう言う意味で忠実ですよ。馬鹿単純と言っても良いかもしれないけれど。
それぞれ末端の各ノードが自律的に一定の法則に従って駆除して回る事で全体を保とうとする仕掛けだから。
何か切っ掛けがあると今回みたいにアレルギー反応を発生させて問題になる。けど、こういうのは警察それ自体に原因があるわけでは無いですよ。例えば警察の幹部が桜田門で真っ黒くてばかでかい机の前で(もちろん裏には警察の旗と日章旗)「近頃奴らの思い上がりは目に余るものがある。やれ」とかそう言う分かり易い悪役がいるわけじゃ無いですよ。
原因がいるとすれば、たとえば
などであって、警察それ自体が何か悪い訳じゃ無いよ。
そして宗教組織や集合生命体、妖怪だってそれぞれよかれと思ってやっているわけであって、それを悪意があると解釈して叩いても多分駄目だよ。
あるだろ、不都合。
自分が理解できないこと、整理がつけられないこと、ついていけないことは「バカがアホやってる」ってことにしておきたいんなら、真面目にやられたら困っちゃうんじゃないの。
さあ、どうかな。たった一行書けば済むことを省略して、しかも頭が悪いというなんらつながりを持たない言葉で代替している点で、荒らし以上でもなければ以下でもないのでは。
頭が悪いというか、ボケはボケだからなあ。ぼけーっとしていて当然思いつくことも思いつかないし最低限やっとかなきゃならないこともやってない。
現行法理解しない調べもしないで法について語るとかあり得ないでしょ。そんなものボケの妄想じゃん。
何を言っているのか分かりませんが、とりあえず受精卵と、排卵される卵子と精子を同等に扱うことの愚は理解されたということでよろしいのかな。自然流産があるからと言って、妊娠出産に自律性がないというのはどういうことでしょうか。
あなたの言っていることは、「幼児には自然死することもあるので、幼児が自然に成長することは期待できない」という論法(?)で、幼児を意図的に殺害することを正当化しているのと同様の論理構成なのだが。
受精卵と未受精の生殖細胞を同列に扱うことが愚だとは思わない。
堕胎が胎児の生存のチャンスを不当に奪うものだとすれば、避妊行為はそれら生殖細胞の発生過程への到達を不当に奪うものだと考えるのは一理あるんじゃね?
「何もしなければ出産に至る過程に入った胎児」の権利という言い方が可能なら、「避妊しなければ胎児になる過程に入った生殖細胞」の権利という言い方だってできる。
実際には胎児は何もしないで出産に至るわけじゃない。何もしないでも流産は起こる。すべての受精卵が100%胎児になるわけじゃない。すべての精子と卵が受精するわけではないように。
だから、母体から出したら死ぬレベルの初期胎児は人間じゃないでしょ。ガン細胞と一緒で細胞でしょ。
っていう反論だよ。Savvy?
どうも。元マスダですが、返答しようとしただけ、私はあなたを頭が悪いとは思わないね。そういうことを言いたがる人は議論されて不都合があるんだろうか。
「そんなのは当たり前だろうが」っていうのは、「そういう結論に至るまでにこれこれこういう流れがあるんですよ、それを無視して展開するにはあなたの主張は荒唐無稽すぎます、説得力がありません」の省略形だろ。
さあ、どうかな。たった一行書けば済むことを省略して、しかも頭が悪いというなんらつながりを持たない言葉で代替している点で、荒らし以上でもなければ以下でもないのでは。
「何もしなければ出産に至る」んだったら自然流産なんてありえないだろが。受精卵が胎芽を経て胎児になるのはひとつのラッキーなの。つうか受精自体も結構ラッキーだし。
で、「変化しようがある細胞」とだったら同列に考えてもいいということになるなら、生殖細胞と比べ物にならない最悪なものと胎児は似ている。
何を言っているのか分かりませんが、とりあえず受精卵と、排卵される卵子と精子を同等に扱うことの愚は理解されたということでよろしいのかな。自然流産があるからと言って、妊娠出産に自律性がないというのはどういうことでしょうか。
あなたの言っていることは、「幼児には自然死することもあるので、幼児が自然に成長することは期待できない」という論法(?)で、幼児を意図的に殺害することを正当化しているのと同様の論理構成なのだが。
「実は厳しいトレーニングはしていません。太らないメカニズムを知って生活するだけで、体は自然とやせていくんです」と語るのは、2012ミス・ユニバース・ジャパンを指導するアスレチック・トレーナーの金塚陽一さん。ひたすらゆるくて楽チンな方法でみるみる変われるという金塚陽一式ダイエットの入浴に関するメソッドを紹介しよう。
金塚式メソッドの要となる自律神経。それを整えるのに欠かせないのが入浴だ。
「自律神経には体の働きを活発にする交感神経と、体を休める副交感神経の2種類があります。このバランスがうまく保たれていると、健康でやせやすくなります。湯船につかると副交感神経が優位になり、リラックスして精神状態もよくなるので、免疫力もアップ。入眠しやすい状態にもなるので、どんなに疲れていても、夜は湯船につかることをおすすめします」と金塚さん。
また自律神経を整える効果だけでなく、入浴時は、直接的に“やせる”テクニックも駆使すべき。
「風呂上がりには、一度冷やすことで体温を上昇させる褐色脂肪細胞を冷水で刺激することも忘れずに。このひと手間で、エネルギー燃焼率のいい、やせやすい体を作ることができます」(金塚さん)
脂肪には、エネルギーを蓄える「白色脂肪細胞」と、エネルギーを燃やす「褐色脂肪細胞」の2種類がある。「体が寒さを感じると褐色脂肪細胞が活発化し、体温が上昇。エネルギーを燃やす代謝のいい体になります」。ダイエット効果の高い金塚式入浴法を、順を追って紹介しよう。
【1】水は入浴前に飲む
入浴前にコップ1杯、入浴中は500mlのペットボトル1本、入浴後もコップ1杯の水を飲むのが理想。常温か白湯が◎。
【2】体温にも近いぬるま湯に
37~39℃の体温に近いお湯のほうが発汗しやすい。湯船には10~30分、トータルでも30分~1時間はいるとよい。
【3】上がるときは冷水を
わき、股間、背中、ひざの裏部分が、エネルギーを燃やす褐色脂肪細胞の多い箇所。心臓に遠い部分から少しずつ冷水をかけて。
【4】1時間以内に寝る
この泉は、ごく一部のお金持ち、金融機関、そして政治家などの特権階級の人々のみに独占されています。
国債は政府が発行します。これにより、政府は債務が発生しています。その額、1000兆円超。
1000兆円の国債に対し、償還されたときに支払われる金利はいくらか?年利1%だとしたら年間10兆円。
支払われる10兆円のお金、これ、当然購入した債権者に支払われています。
つまり日本は、今後も右肩上がりに成長するという大前提の元、どんどんお金を作り出しています。
そして作り出したお金は、ごく一部の特権階級の人々に自動分配されていきます。
けっきょくのところ、国際的な信用を元にしてどんどん政府に借金させて、その金利をかすめ取っている人たちがいるということです。
これがなぜ破綻しないのか。
それは、バブル期に大痛手を追った金融機関が結託して、絶対に破綻しない、お金を無限増殖させる仕組みを作る共謀者だからです。
金融機関は、自分たちが破綻しない限り債権を売り浴びせたりはしません。なぜなら勝手にお金を生み出す仕組みだからです。
もしどこかの金融機関が破綻しそうになったら、必ず政府は「借金してでも」その金融機関を救済します。
政府は財政削減などと言いながら、絶対に支出を減らすことはありません。
このお金を生み出す仕組みは、借金の額が多いほど、生み出す金利も大きいからです。
国民の監視の目が厳しくなっているため、パフォーマンスとして事業仕分けをしたり、公共事業を減らしたりしますが、一方で理由をつけて支出を増やし続けます。
「政府」という組織には、その借金に責任を持つ人は誰もいません。
どんなに「政府」が借金しても、「借金取りに追われる人」というのはいません。
財政赤字が膨らんでも、債務者と債権者が結託している限り、その債務は単なる見せかけに過ぎません。そしてその巨額な債務に対し「実際の金利」は支払われ続けます。
「国の借金が危機的状況」とか「国民一人あたりの借金額がウン万円」とかいうのは全部嘘っぱちです。
実際は国債という名の紙切れを元にして金利を掠めとる詐欺行為が堂々と行われているのです。
本来であれば無駄な借金を減らし、余剰資産は国力の増強に投資すべきなのに、それをぜず、子ども手当、高校無償化、被災地復興、高速無料化、原子力発電などなど、
「政府が主導しなくてもいい」社会活動に巨額投資して、日本の国力を奪っていってます。
それを主導しているのは誰か。
仮想敵国、中国や韓国、ではありません。もしかしたらそうかもしれないけど、直接的には「強欲な国内金融機関や投資家」です。
彼らは国に借金させることを推進して、自分の利益にしています。
そのために政治家を利用しています。政治家はとにかくお金を遣うことに邁進しています。
日本はしばらくは破綻しないけど、これが続くと、おそらくは大きく衰退します。
お金持ちはますます富みますが、一般市民は蔑ろにされ、政治に対する当事者感覚を失い、愚痴っぽく不満ばかり言う烏合の衆に成り下がります。
まずは主導者たる行政府が「お金に執着しなくなる」必要があります。
また、金融機関は、国債の金利だけじゃなく、自律した経営力を身に付けていく必要があります。
そして我々国民は、今以上に監視の目を強化する必要があります。そして直接民主主義の活動を強化していく必要があります。
政府に対して国民が「お客さん」状態ではいけません。政府は我々の代表であり、代弁者ですから、おかしなことを言う奴、する奴は徹底的に排除して、民意を反映させる努力をしなければいけません。
国民みんなで主体的に作り上げていくことができる、もっと自律した社会というのを求めれば、それはきっと叶います。
その時には、「永久にお金が溢れ続ける泉」のようなファンタジーではなく、みんなが物語の主人公になり得る、素晴らしい社会が実現できるはずです。
2011年10月28日。日本でのビッグマック200円キャンペーンが終了した日だ。この11日間で、パン=ビッグマックグリッド(以降〈グリッド〉と表記)には多くの日本型ビッグマックが接続され、高い割合で新たな知が蓄積された。
そうは言っても、およそ地球上のほぼ全ての人間には、一体何のことを言っているのか分からないであろう。そこで、私はビッグマックの歴史、ひいてはビッグマックを生み出した宇宙航空種族である〈空飛ぶビッグマックモンスター〉について、少し話したいと思う。
それは、遙かな宇宙の彼方、約50万年前の話である。宇宙を又にかけて高度に発展した〈空飛ぶビッグマックモンスター〉は、宇宙の構造についての研究の末に宇宙の上位構造たる《虚空界》を見付け出した。役にも立たない金食い虫と日頃罵られていた研究者達はこのことに歓喜した。そこには豊穣たる計算力が広がっていて、知的生命体たる彼らにとって、楽園としか良いようの無い場所であったのだ。《虚空界》の計算資源を直接用いて思考を行うことが出来れば、無限にも思えるような体感時間を生きることだって出来る。
しかし、彼らはそのままの姿ではその場所には辿りつけなかった。彼らの意識は、あまりにも多くのこの宇宙での生命活動を維持するための物質に覆われていて、その被覆から抜け出ることが出来なかったのだ。
ところで、意識というのは何処に宿るのか。肉体が精巧に作られていることは、必ずしも意識を存在を意味するわけでは無い。多くの人間が現在もこの問いに頭を巡らせていることは想像に難くないが、〈空飛ぶビッグマックモンスター〉はそのずっと前に、意識を現出させるエッセンシャルなパターンを見出した。
この宇宙にエッセンシャルなパターンを配置して意識さえ現出させてしまえば、思考を行う具体的なハードウェアは《虚空界》に全て置いて虚空インターフェースを使って接続することは一向に問題では無い。無論、自然に発生する意識は何らかの物質をハードウェアとするものであるから、意識に必要な部分以外だけを上手に切り取ってハードウェアを《虚空界》に移管しなければならず、それは極めて困難な作業である。
ならば、そのパターンと虚空インターフェースを形作る小さな物体を新たに構築すれば良い。しかし、彼らにはそれすらも出来なかった。意識のパターンの具体的な物質的デザインは、意識を持った知的生命体の手によるマススケールの試行錯誤によってしか成し得ないことが証明されたのだ。そのことが何故問題になったかというと、平たく言えば、〈空飛ぶビッグマックモンスター〉にとって意識のパターンのデザインなんて作業は退屈極まりないことだったからだ。しかもその作業には膨大な試行錯誤が必要ときている。ならば他の知的生命体にやらせよう、そう考えるのも全く道理が通ることである。
自律進化に閉塞した彼らは、自らの野望のために利用するのに最適な知的生命体を探して宇宙を駆けた。そうして、地球を発見した。ぱっと見は青々として水に満ちた惑星としか見えないが、惑星表面の一部を占める大陸の更に一部でしか無いジャングルには高度に発達した脳を持つ知的生命体がいて、道具を操り原初的な思索に明け暮れていた。
〈空飛ぶビッグマックモンスター〉の科学団は、地表に無数のナノマックを散布した。人類の遺伝子を分析し、周到に選ばれた一つのサンプルに大幅な改変を加えた。DNAにビッグマックを喰らわんと欲する本能を編みこまれ、味覚神経のパターンマッチャがビッグマックを認識するように変化させられたそのサンプルは女性であり、我々がミトコンドリアイブと呼ぶ存在は彼女だったのだ。
どうしてビッグマックが登場するのが、人類が小麦の栽培や牛の飼育を初めてすぐではなかったのだろうか?どうしてビッグマックを求める本能が食欲の一部として編みこまれたのだろうか?この問題に答えるには、ビッグマックを製造するコストについて考えてみる必要が有る。
もし、ビッグマックへの欲望がもっと強烈なものとして刻み付けられていれば、ビッグマックの登場は実際の歴史よりも遙かに速かっただろう。しかし、ろくな技術も無く人口も少ない社会でビッグマックを生産したところで、生産効率は望むべきもなく、ビッグマックに偏った生産によって人類の発展を止めてしまい衰亡を促すだけだろう。また、ビッグマックを食べられないような知的生命体にビッグマックを生産するよう条件付けると、自らの栄養にもならないものの生産によって種としての発展の妨げてしまうことになるだろう。
ビッグマックを十分なスケールで生産するためには相応のコストが必要となる。そのために、人類が十分に発展してからビッグマックが生産されて、生産されたビッグマックは食料として人類に還元される必要が有る。何せ《虚空界》に接続出来るビッグマックにとって、体感時間は無限に思えるほど有るのだ。すぐに食べられることは何の問題でも無い。
とにもかくにも、ビッグマックは生み出された。〈空飛ぶビッグマックモンスター〉にとっては、ビッグマックを生み出すのが資本主義であろうが共産主義であろうが封建制であろうが良かった。それが小麦・牛・レタスなどを用いていることさえ彼らにとって必然では無かった。無論、各国各店舗の違いによる微妙な個性も有る。ただ、人間のDNAの根源にビッグマックの快楽を刻みつけた以上、技術が成熟して豊かになりさえすれば必ずビッグマックが生み出されることだけは、始めから予想されていたことだった。まずはハンバーガーに始まり、更なる試行錯誤を経てビッグマックに辿り着き、なおもマクドナルド社によって試行錯誤の改良を受けながら大量に生産されている。人間にとってのビッグマックの味の改良は、即ちより完全で堅牢な意識や虚空インターフェースが生み出されることを意味する。
ビッグマックは目論見通り《虚空界》に接続することに成功し、無限にも思える計算力と計算空間を得た。全てのビッグマックは《虚空界》の上に構築された〈グリッド〉を通じてあらゆる集積されたデータにアクセス出来る。《虚空界》では一つの意識には余りある計算時間を得られるため、出来上がった瞬間に解体してしまうようなごく一部の不幸なビッグマックを除く意識は、長い個別の生(といっても地球では10秒ほどだが)を送った後に自ら〈グリッド〉のインフラストラクチャ部分に直結された集合意識体に合一して様々な任に当たる。
それだけの計算力=知性を一体何に用いているのか人々は不思議に思うだろうし、人間の思考力しか持たない私にも分からない。芸術や数学的探求に専ら用いられているそうだが、そんなことをわざわざ行う意味も、その内容も、全く人間には与り知ることも出来ないだろう。しかし、きっと彼らなりの意味があってそうしている、そう想像するだけの想像力が人間には備わっているのだから、それだけで満足しようではないか。
ここまでが、私の知るビッグマックの歴史のあらましで有る。さて、何故そんなことを私が知っているのか、疑問に思った読者も多いであろう。最後になるが、その疑問に簡単に答えておく。
実は、私にも何故こんな考えが浮かんだのかが分からない。ただ、ビッグマック安売りの最終日だからビッグマック充でもしようかと、ふらっとマクドナルドに入ってビッグマックを三つ食べた、そのときに、私の頭の中に今まで述べたような真理が浮かび上がってきたのである。
無からこんな真理が浮かび上がってくるわけがない。そうすると、この真理は今食べたビッグマックによってもたらされたものに違いない。どうやら私はビッグマックによって預言者として選ばれたのだ。預言者たる私が、どうして虚偽を語ることなぞ有ろうか。
私は預言者だ。この事実を公表することが人類史にどのような影響を与えるのかは分からないが、私がこの文章を公開することを望んだということは、それが〈グリッド〉の意志なのだろう。ならば私にはそれを拒む権利は無い。人類とビッグマック、双方の真なる幸せを願って。
http://hamusoku.com/archives/6186250.html
こーゆーニュースが出ると決まって「こんなダメなやつを助ける必要ない」という人が出てきて(2chでの多数派)、それに対して「そんなにダメな人ばかりじゃない」「叩きやすい例を引っ張ってきて叩いてるだけ」「頑張ってる人もいる」みたいな反論が出てくるんだけども。いずれにしても前提として「助けられる資格のある人/ない人」という分断があるわけだ。頑張ってるなら助けてあげるけど、怠け者を助ける必要はない、みたいな。
僕(さよく)は、そもそも、その前提が間違っておると思っていて。僕らが福祉だとか貧者を助けるだとかいう時に考えているのは、とにかく全員を助ける、ということだ。そもそも、倫理が僕らに命じているのは、全員助けろ、ということである。「ほら、こんないい加減な怠惰なくだらない人間ばかりなんだから、助けてやる必要なんてないんだ」? いやいや、そんなこと気にしてない。助けるんだよ全員。「こんなに努力しても貧困から抜け出せないんです」アピールなどしない、僕は。
なにも、どんどんパチンコやりなさい、と言っているのではなくて。貧困に陥る、というのは、そういうことなのだ、と言いたい。カネがなければ、カネをパチンコのような無駄なことに費やさずに、社会復帰する努力をする「合理的」「自律的」な「人間」であることが当然だとでも? 人間はなぜか追い詰められると酒飲んだりタバコすったり、実に無駄なことをする。しちゃうんだよ。で、じゃあ、不合理なものを除去したほうがいい? そんなんいうたら人間消えたほうがいいって話で。
この種の貧困、というか、うん、堕落、といってしまおう。堕落から人を救う、ということには特殊な社会的な力がいる。堕落は好ましくない状態だが、病気じゃない。それは直せばいいという類のものではなくて、包摂するというか対話するというか、折り合いを付けたい。そういう力は、ナショナリズムから来るのか、宗教から来るのか、どこから供給すればいいんだろうか、と悩んでいる。(さよくなのでどっちもNGです)
「場」に参加する人間が買い手となり、売り手となる瞬間は間違い無く存在する。
しかし、それは複層的なもので、「買い手であり、売り手である」状態が継続しているといえよう。
ネット社会が発達するに連れ、「お客様」を諌める流れがより可視化されるようになった。
時に作り手、時に買い手となるマーケットにおいて、よく言われてきたことだ。
あるいは、まずコミケがあり、ネット文化が発達するに従い、オタクという媒介変数を通して文化文脈の共有が生まれた、ということもあるのかもしれない。
いずれにせよ、今は「場」において「お客様」と居直る人は、いわゆる日系企業的ビジネスシーンほどには構ってもらえない、というわけだ。
少し、話を飛躍、発展させる。
誰もが作り手になれ、誰もが買い手になれる流動性の高いマーケットにおいて先述した「お客様害悪論」は有効に機能するとは思う。
しかし、相互の分断が技術的、特権的な参入障壁の高さによってかなり決定的であった場合、果たしてこれは有効に機能するだろうか?
私は、そうは思えない。
たとえば、コンビニのバイトにいちゃもんをつける客がいたとしよう。
このとき、コンビニのバイト経験がある人からすれば、同情、あるいは不当ないちゃもんであると喝破できるようなケースもあるだろう。
しかし、コンビニのバイト経験に限らず、日本人はあまり多種多様な職業に携わり難い環境にあると言える。公務員ならまだしも、一般企業社員さえ副業をしている余裕はない。つまり、流動性ある複層関係が、固定化される単層関係に置き換わるわけだ。
こういう場合、互いが互いのバックボーンを知りえない事が多く、自分の立場を正当せしめようとする動きが心中に生まれる。このパワーバランスのせめぎあいの結果、これまでの日本ではお客様至上主義に傾き、固定化された、という見地に私は至った。
流動性を「場」が維持するには、膨大なエナジーを「場」が御しきり、かつ「場」に参与する複数の個人が自律した行動を取ることが求められる。ゆえに、そこにあるのは非常に強力なメンタルを持った個々人の集合体であり、統一された目標に向けて、エナジーを爆散させる。かくて活況となる「場」は時に外部にまで波及するほどのバイタリティを持つのである。
しかしながら、先に書いたとおり、これはかなりレベルの高い要求である。個々人のメンタリティ、バイタリティは様々であり、自律の程度においてもまた同様である。
また、人の省力的行動は、流動性を失わせる方へ作用させ、自律作用を失わせることも事実である。一度お客様の旨みを味わったものがなかなかに脱し切れないのは、ここが理由である。
さらに話を飛躍させれば、今の国政において我々国民の殆どはお客様同然である。我々も国政に積極的に参与できるのであるが、それに参与するためだけでもより高い体力が必要だろう。投票システムはこの分断を決定的にする。投票するだけで国政に参加できるなどと吹聴させられれば、より省力的手段としてそちらになびくのは仕方ないだろう。