はてなキーワード: 拡張とは
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】
フェミニズムの人の言っていることが違和感ありすぎたので、そもそも私は何か誤解しているのでは?と思って色々調べてみたものをまとめる。
あくまで主観であり、私のお気持ちの発露と思っていただいて構わない。
調べてみると結構誤解があった。
ちなみに私がしていた誤解は、「フェミニズムは、女性差別の実態の解明や、それの解決のための実証的な研究をする」である。
・実証研究や既存の研究のあり方が男性的なので、これまでとは異なるやり方を模索するためだから。
・そのやり方は模索中であるが、柱となっているルールが「とにかく誰の主観も否定せずに受け止めること」である。
・「これ頭のおかしい人の意見だろ」みたいなのを、フェミニズムの本流の人たちが否定できないのもこれが理由。
・ブコメだと、フェミニストの仲間意識でどんなフェミニストも否定したり非難したりしないと思われているみたいだけれども、それは誤解。
・ただし、量的な実証研究をやっている人も少なからずいる。本流ではないけど。
・しかも、最近の実証中心の社会学や心理学ではなく、「数学をやりたいのならば数学科に行け」と言われていた時代の名残。90年代ぐらいまで。
・ただし、これらの理論研究が全く意味がないと思ってはいけない。
・研究は大きく分けると理論、実証、工学(活用)に分けることができる。
・理論研究は最近軽視されがちであるが決して役に立たないなんてことはない。そもそも実証のための大事な基礎であり、ここを丁寧にやらないとそもそも実証すべき問題がぶれる。
・でも、フェミニズムはここしかやってない。しかもアプローチが哲学からの派生。他はせいぜいユングとかそういうのの名残。
・社会学や経済学、心理学はコンピュータの発展ですごく進歩したのに、女性学だけずっと変わってない。
・あと、ブログやtwitterでフェミニズムの話している人が内容のわりに、言ってることわかりにくいのも哲学や文学が源流のせいかも。
・これはフェミニズムの人の言っていることでなくて、私の主観。
・「保育園落ちた。日本死ね。」みたいに共感で動くことだろう。
・実は、これも必ずしも悪いことでない。
・例えば、保育園の倍率が100倍の場合と落ちた家庭が1組だった場合、前者の方が統計的には大きい問題だろう。
・しかし、これは統計の間違った使い方で「数が大きくなければ問題でない」となってしまう危険性が有る。
・統計を扱う者ならば必ず訓練されるが、ほぼ必ず数の問題で矮小化され苦しむ人が出てくる。
・この見捨てられそうな1組を大事にすることはやりやすいだろう。
・これはどちらもある。
・「女性の権利拡大」ってイデオロギーを実現するための、工学的な学問という人もいる。
・これに拒絶反応を持つ人もいるだろうけど、私はいいことだと思っている。
・「学問が目的を持つことはいいことなのか?」って問いには、例えば「教育をよくしよう」って目的で教育学が存在するような者だと思っている。
・「学問とイデオロギーと組み合わせていいのか?」に関しては、そもそもイデオロギーは学問ぐらいしっかり体系付けて、理屈をしっかりさせてほしい。
・女性の権利拡大だけど、そのゴールが「女性の権利の拡大」か「男女の権利の平等化」かは個人による。
・例えば、男性のみの徴兵制がある国では男女平等ではないと、自ら志願し軍隊に入る女性もいる。
・反対に、女性の徴兵にフェミニズムの団体が猛反対する場合もある。
・むしろ、トランス女性への差別に一番キレたいの主流のフェミニズムやっている人たちじゃない?
・クィア理論という、男女の枠組みにない属性の性から改めて性を見つめ直し理論作りましょうってのが最近の主流。
・暴れている人たちは、フェミニズムのあり方である「否定しない」をやり、かつ最近のイデオロギーの主流である「多様性の見つめ直し」を真っ向から否定している。
・でも、フェミニズムを学べば学ぶほどそれを否定することができない。かわいそう。
・新しいあり方の模索って無理だろ。
・しかも、主流になっているのが哲学、文学なせいで実際に起こっている問題に対する対応力が全くない。
・なのに女性の権利拡張の運動のど真ん中にいるせいで、本当に苦しんでいる女性たちの邪魔。
・先ほども書いたように、理論を丁寧に作っていくことに対しては全く反対しない。
・でも、それが何かを解決するとしたら何千年後だ。
・例えば「夫婦別姓」は、私は賛成してる。「改正による手続の煩わしさの軽減」って実利があるからだ。
・でも、フェミニズムがそれを推奨する理由が「旧来の男性主権的な象徴であるから」だ。個人の苦しみなんて全く捉えられていない。
・先日のグッチのように、「これは差別を象徴している」と「解釈」で糾弾することだけを延々繰り返す未来しか見えない。
・男性の作り出した旧来の学問のあり方を否定し、模索するのは自由にどうぞ。でも、それに今生きて苦しんでいる女性を付き合わせるな!
座れるか、座れないかぐらいの位置で行列に加わる。うまく動けば座れるが、座れないこともある。その勝負はほんの数秒で決まる。ここで勝負を落とせば、良くて調布、下手をすれば府中あたりまで立ち続けなくてはならない。苦行である。
この戦いで重要なのは、競合するのが同じ行列に並んでいる乗客だけではないということだ。座れるか座れないかの微妙な位置で行列に加わった場合、より重要なのは同じ車両の別のドアに並んでいる乗客との競争になる。
ドアとドアとの中間ぐらいに位置する座席は、行列間の闘いになる。そこではお互いの陣地をどこまで拡張するかが戦われているのだ。
こうした見方にたてば、行列の先頭に立つ者は切り込み隊長である。先陣を切って戦場に突入し、後方部隊が陣地を拡大するための時間を確保しなくてはならない。
ところが、である。
新宿駅は乗車ホームと降車ホームとが分かれている。全員がそのルールに従うなら問題はないのだが、なかには乗車ホーム側から降りてくる乗客もいる。
一般的なマナーとして、われわれは電車でもエレベーターでも降りる人を優先させるよう教えられている。言うまでもなく、そこには合理性があって、乗る人を優先させると降りられない人がでてきてしまう。
われらが切り込み隊長が乗車ホーム側に降りてくる乗客を悠長に待っていると、われらが領土はまたたく間に敵軍に蹂躙されてしまう。
そのため、われらが切り込み隊長には、一般的なマナーはとりあえずスルーして、降りてくる乗客の横をすり抜けてでも戦場に突入してもらいたいのである。乗車ホーム側に降りてくる乗客は、すでにマナーに違反しているのだから、その横をすり抜けることはマナー違反だとは言い難いのである。
というか、混んでいる時間帯に乗車ホーム側に出たい人は、まずはいったん降車ホーム側に出て、乗り降りが落ち着いたところで乗車ホーム側に通り抜けてもらいたいのである。
いま発売されている日本製のスチルカメラ(写真撮影用のカメラ)というのは、写真だけではなく動画撮影に関しても非常に優秀で、わざわざビデオカメラ(動画撮影専用のカメラ)を買わなくてもいいかなと思わせるものも多い。
でもスチルカメラの動画撮影に関して、ものすごく悩ましい点がひとつある。
それは、1回の撮影で30分以上動画を録画できないカメラがほとんどだということ。
一眼だろうがコンデジだろうが、エントリーモデルだろうがハイエンドモデルだろうが、日本製スチルカメラのほとんどは30分以上録画できないようになっている。
厳密にいうと29分59秒までしか録画できない。
念のために言っておくと、バッテリーやストレージや発熱等の問題によって一定時間以上録画できない場合があるのは事実ではある。
でもこの30分録画制限っていうのは、技術的な問題というわけやなくて主に貿易上の問題やねんな。
EUにカメラを輸出する際、1回の撮影で30分以上動画を録画できるカメラについてはスチルカメラであってもビデオカメラ扱いになってしまって(厳密にはもっと細かい条件があるんやけど)、そのぶん関税が高くついてしまうってのが原因なんや。
パナソニックとかオリンパスみたいな一部のメーカーやと、特定の機種に関しては時間制限を設けず最初からビデオカメラ区分として輸出しとるなんてこともあるけども、それ以外はどのメーカーもファームウェアで時間制限かけとるのが現状なんよ。
ファームウェアをハックしてこの30分制限を突破するという荒業をやってのけるカメラファンもおるけど、そのやり方が好ましいものではないのは言わずもがなやしな。
そもそもなんでEUの事情でこっちまでしわ寄せ来とんねんふざけんなとかずーっと思い続けとったんやけども、昨日ついに朗報が飛び込んできたんよ。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190201/k10011798871000.html
つまり何が言いたかったかというと、EUとの段階的な関税撤廃によって、このクソみたいな30分録画制限がなくなる可能性があるということ。
ついでに言うとライカ製品も比較的安く買えるようになるかもしれんわけ。
返信
スチルカメラとビデオカメラどっちにも一長一短あって、どちらを買うかは用途や状況によって各自で決めればいいし、自分も一応使い分けてはいる。
https://www.youtube.com/watch?v=Z2S5M7angds
ただ動画内でも言われとるけど、ビデオカメラというのはざっくり言うとお手軽なご家庭向けかプロ向けかの二極化がすごくて、ちょうどいい中間のものがほぼないわけ。
でも一眼スチルカメラはちょうどその中間にはまっているものが数多くあって、選択肢が豊富なんよ。
それに一眼スチルカメラのいいところっていうのは色々あって、例えばセンサーが普通のビデオカメラより大きくて高画質だったり、暗所に強かったり、ダイナミックレンジが広かったり、なにより撮りたい画に応じて設定も細かくいじれるしレンズも変えられるしみたいな感じで、ご家庭向けビデオカメラより拡張性があってバッチリきれいな画作りができるのにそこそこのお値段で買えるっていう物が多いんよね。
そしてなによりスチルカメラは写真も動画も両方キレイに撮れるわけで、やっぱりそこは大きい。だってご家庭向けビデオカメラってスチルカメラほどキレイに(ちゃんとした)写真って撮れんからね?
それに一台だけで済むならそれに越したことないしそのほうがコスパもええよねっていう。大体そんな感じやね。
type-100 なぜ途中から関西弁になった/日本製デジカメは世界でも圧倒的に強いので、販路が広がればよいことだと思う。
ただしシネマカメラ(映画撮影専用のカメラ)においては全然強くない。
https://www.youtube.com/watch?v=nzsfHGaHE6E
これ2019年のアカデミー賞ノミネート作品ではどういうカメラが使われとるか確認してみたっちゅう動画なんやけど、ノミネート作品中で日本のカメラが使われとるのはどうやら二作品だけらしいんよ。
ひとつはナショナルジオグラフィックの”FREE SOLO”っていうドキュメンタリー作品で、これはCANONの”EOS C300 Mark II”が使われとるみたい。ちなみにこのカメラはさっき言うたプロ向けビデオカメラっちゅうやつで、Amazonなんかじゃ取り扱っとらんやつやね。
もうひとつの作品は犬ヶ島で、これもCANONのカメラが使われとるんやけど、こっちは”EOS-1DX”っていうスチルカメラなんよ。まあストップモーションアニメやから当たり前なんやけどね。
結局、劇映画で日本のビデオカメラは採用されとらんっちゅう現状なんよね。
じゃあ外国語映画賞にノミネートされとる万引き家族(Shoplifters)はどうなんかっちゅう話なんやけど、これはARRI社っていうドイツの会社のシネマカメラ(デジタルとフィルム)を使って撮られとる。ついでに言うとARRI社のカメラは今年のオスカーでも最も使われとるみたい。圧倒的王者やね。
いろいろ言うたけどSONYはじめとした日本の会社も頑張ってシネマカメラ市場に切り込もうとしとるんで、この先が楽しみではある。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1313124
この話の続きだよ多分
ブクマが盛り上がってるけど、返信がしづらい100文字ばかりのインターフェースで何が語れるってのか
長くなったので結論を先に書くと
って感じ。それぞれ細かくやってみるか
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そもそも3歳児に性欲があるかどうかって点が論点になってるのが見受けられる
KAN3 自分は幼稚園児の頃から十分性欲あったのでこの主張はもっともなものだと思う。好奇心で見ているだけに違いないと言っちゃう人は想像力がない。
maidcure 成人してやっと性に目覚めた人もいるんですよ
kathew 幼児期に性欲が微塵もなかったので正直に言ってよくわからない。トップブコメに大量に星が付いてるけど、みんなそんなに幼児期の頃から性欲があったの?それとも自分にはなかったけど想像力で共感してるだけ?
こういうのは個人差なのかもしれない。で、個人差があるのであればなおのこと、
よく知らない他人の内面に踏み込むのはやめたほうがいいだろう。たとえそれが3歳児でも。
性欲でじろじろ見る子もいる、好奇心で見る子もいる、安らぎを求めておっぱい触る子もいる。
RIP-1202 男児だけでなく女児だった私も割とエロい感覚でお母さん以外の女性のおっぱいや乳輪の形をじっくり見て回ってたが。/あと、父親同伴でもお風呂は母親と入る習慣の男児は女湯に入るケースもあると思う。
こういう女児から向けられた性欲はどのように受け止められるのだろう?
内面はどう思っててもガン見など外面が問題なければよしとするのだろうか
若干話題は発散するけど、普段性欲と加害欲を分けろと口酸っぱく言う勢力は
今回の子供
a) 尻を叩いて回る3歳児
b) 着替え中ガン見している未就学児
を、それぞれ何欲の発露だと見るのか気になる
特にb)については未就学児に「この行為で相手の心理はどのように影響を被るか」
に考えが及ぶと思わないので加害欲とは思えない
その場合成人と異なる扱いにすべきか。
男児(にかかわらず女児)の行動が仮に性欲による行動だとして、それが直ちに行為者の排除を伴うほどの被害なのかという点は今一度考え直したほうがいいと思う。
下記のようなコメントがその点に触れている
umaumakamiya 男児には性欲あるし、でも子供に見られたからと言ってそれがどうしたと思う。他人から見られるのが嫌なら銭湯行くべきじゃないと思うよ。とは言え触る等の他の人に迷惑な行為は親が注意せんとだよなぁ。
osaka06 難しいわ。もう5歳くらいで男はみんなすけべやけど、それがあかんのか? というのが。幼児に見られるのが嫌というのが実は男はわからんのよ。わかってあげたいけど難しいなぁ
Sato_4tree うーん、小さい子にも性欲はあると思うけど、それで見られて嫌とはならないなあ。エロいと思って見ちゃうちびっこ微笑ましいじゃん。
性欲を勝手に向けられるのは確かに迷惑だ。しかし、それで行為を伴わず属性を理由に排除ができる(まだ痴漢してない男も風呂やトイレから締め出せる)のは
相手の社会的立場が強く名誉が毀損するための特例だっていうのはトラバ元でも議論したとおり
※肉体的強さは関係ない。トラバ元でも要介護の爺さんの例を出したけど
最低、下のコメントにもあるとおり、こどもに騒がれて迷惑を被ったのと同程度の扱いにとどめたい
kabutch ここまでくると自意識過剰としか。/自分の赤子が電車内で大声で泣くのは許せ、でも女湯で男児が見るのは止めろ、か…。
ただ、不愉快だという気持ち自体を表明するのは問題ないと思う(これ自体否定するなら、俺も他人の内面に口出ししてることになるし)
p-2yan 今まで気にしてなかったが、それは興味を持って見られていると考えた事がなかったからだ。所詮小さい子だし、って思っていた。年齢性別に限らず、裸体を性欲を持って見られるのは嫌だなぁ
しかし、わかってほしいのは不快感そのものを問題にしているのではないことだ
特に下記にあるように「ババアだから見られても問題ない」と言ってるわけではない
「見られた不快感を排除以外の方法で対処できないのか」と言っている
性欲がある・ないに注目していない、とにかく躾やモラルの問題としている人が結構見られた
skgctom トランスジェンダー女湯問題でも言える事だが、他人の裸体をジロジロ見たり無許可で触ったりするのは無礼な禁止事項だと子供のうちから(大人も勿論)ミッチリ躾けるべき。躾けられてない子供は女児でも迷惑。
この視点は正しい。正しいが、親に負担を押し付ける結果になっていないか、注意が必要だ。
ファミレスで騒ぐ子供、電車で泣く子供、こういうのに冷たい目を向ける人間と同じことになってないか?
hobo_king で、落とし所はって話になると「躾で~」とか言うけど、子供故に困難だろうから、結局「子連れのお前ら来るな」になる。こうして啓蒙する度に子連れ批判の視線も増える。全力で子育てを苦行にするスタイル
taketori 男湯でもガキンチョに股間をガン見されたら落ち着かない。共感はできる。でも共感以上のことはない。性ではなくマナーの問題でしかない。ファミレスで子供がうるさいのは許容しつつも親に躾は求めたいのと同じ
yuno001 自分が不快になった事の対処を人にお願いするという構図がまずいんじゃないかな。ルールにも反してないわけだし
特に3歳児なんてやっと喋ったばかりで複雑なセンテンスも理解できないので
叱ると言ってもどこまで効果があるのか、それこそ子供次第なので
厄介な子供を抱えた親は今まで以上に追い詰められる。
下記コメント群もそこまで考えてくれていたらいいんだが
makou まずもって、然るべき人がきちんと叱るべき。
bigapple11 勃起してる男児がいるという話も聞くので真面目に考えるべき話だと思う。最低限、親は子供から目を離さずちゃんと注意すること。ここで叱ることこそが性教育。/就学児以上NG、時間帯を分けるなど出来ることはある
marimonbunny まあ気持ちはわかるけど、完全に分けるのは難しいかなーと思う。まあ凝視は若干グレー(そういう障害がある子かもしれん)だけど、ケツタッチ幼児は親叱れよw
flowing_chocolate マナーと教育が不足している子供を、大人はどう受け入れるべきか、という話。性欲の有無はおそらく関係ないし、性欲の対象が目の前にいるかどうかもおそらく関係ない。
「社会で面倒を見よう」という時、反射的に「自分以外がコストを消費しろ」
と言っていないかという点も注目したい。このやり取りが象徴的だ
Flymetothemoon シングルマザーの男児は男湯に入っている大人が共同で面倒を見ることが「社会で子供を育てる」ことだと思うけど。
家族風呂を大々的に整えるなど大掛かりなことをせず、どうにかならないかというコメントもあった
worldproxy うーん、湯浴み着というのが広く普及されたら解決するのかな。 自分は、公共の場は他人との自由不自由の折半だと思ってる。この人は、表現は柔らかいけど、自分の自由だけを拡張するように求めていると思う。
乳がんなどの手術痕を見せたくない人、タトゥーが入ってても入湯したい人なんかにも
対応できるし、裸を見せたくない人は湯浴み着っていう選択肢も、今後普及していいんじゃないだろうか
【追記】
いっぱい反応あったんで返答してみた
みんなありがとなー
著作権保護期間が延長された世界でも、できることはたくさんある #著作権延長後
https://hon.jp/news/1.0/0/14964
実証実験を行う中で見えてきた課題は、「大量処理への対応」「事務的手続きの円滑化」「対応可能な範囲の拡張」の3点。実際のところ、著作権よりも、肖像権や疑似著作権などのほうが問題になるのだという(参考記事「疑似著作権、所有権、肖像権…… デジタルアーカイブには著作権以外にも課題が山積」)。
これは納得がいく。でも、疑似著作権ではなくて、擬似著作権ね。
下記はなんだよこれ・・・。
世の中には、著作権にうるさい人がいっぱいいる、と田中氏。それにより、せっかくの試みもシュリンクしてしまうし、議論も封殺されてしまうのだ、と。二次創作については、相当程度の国民の支持があったからなんとかなった。だから、「孤児著作物の活用は、文化政策にとって良いこと」という合意形成をしたい。そのためには「著作権厨」をなんとかしたい。「ネトウヨ」とか「パヨク」みたいに、「著作権厨」というネガティブなイメージのレッテルを貼る言葉を広めていけばいいのではないか、と提案した。
sink_kanpf 日本側も普段「中国ガー北朝鮮ガー」と狂乱してることを思えば、露側の懸念も荒唐無稽とは嗤えないのよね。だいいち、世界史で行けば先に殴りかかったのが日本という戦争が多いわけだし^^;
2019/01/31
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/this.kiji.is/463499364229923937
中国は膨張主義を隠さず戦後から現在まで半世紀以上に渡り武力による国境・領海の拡張を繰り返しており、
ベトナム、フィリピン、マレーシア、インドネシア、ブルネイ等の力の強くない多くの周辺国家は既に領海を侵略され実効支配を進められている。
中国の領海主張についてはハーグ仲裁裁判所が違法であると裁定下したにも拘らず中国はこれを撤回せずに開発を進めている。
陸の周辺国家では虐殺とレイプ・民族浄化、文化の破壊、教化、宗教指導者の軟禁等なんでもありで、
最近も100万人以上のウイグル人を施設に収容していると国連が発表している。
山のような客観的な証拠と事実に基づいた、押しも押されぬ、実績世界一の、21世紀最大の侵略国家が中国なわけだけど
この中国の領土・領海への蠢動を懸念したり警戒したりすることが
なのかー。へー。
あまりにも正体丸出し過ぎじゃない?
「侵略も人権侵害も弾圧も虐殺もレイプも看過できるけど日本だけは大嫌い」って言う
ついでに北朝鮮も繰り返しミサイルを周辺国に飛ばし、日本の上を通過させたりも繰り返してて、
国連にも逆らい、米大統領にも韓国大統領にも何度も何度も嘘ついて、日本人を大量に拉致し、あくまでも核開発をやめず、
「ソウルを火の海にする」「東京を焦土にしてやる」「我々の核ミサイルはアメリカまで飛ぶ」
が挨拶代わりの先軍国家にして人権蹂躙個人崇拝独裁国家なわけで、
日本は国連と共同歩調で北朝鮮の制裁と非核化とを進める国際的枠組みの1国なんだけど
そのような活動も
になるんだー、そっかー。
よくそこまで正体丸出しに出来るよな。
そのくだらない話逸らしに乗るにしても
世界史で行ったらロシアや中国が殴りかかった戦争のほうがはるかに多いわ^^;
世界史の成績1かお前は。
そして、
こうやって日本に言いがかりを付けたいだけの日本ヘイターには何の意味もないって言うのがわかるよね。
あと韓国なんかでは普通に「あいつらは戦犯国だから軍隊を持てない」とか言われてて
だから米国による再軍備支持にも「米国が狂った!」「戦犯国を普通の国にするつもりだ!」とかいう反応で、
つまり戦後70年余の日本の歩みは尊敬や信頼を勝ち取るどころか、見下すためのヘイトのネタにしかなってないんだよね。
そういう国もある。
はてサみたいな人達が憲法9条改正に反対するのは平和を愛するからじゃなくて
「半人前国家として侮蔑するネタがなくなってほしくない」ってことなんだよね。
ただの対日ヘイト。
いつもいつもこうやって、
さも何か「冷静風」「中立風」で
君達がただの日本ヘイター・対日レイシストなのはもうバレバレだよ。
自分達はなんか「上手く立ち回ってる」「上手いこと言ってる」みたいなつもりかもしれないけど。
文化の枠を超えて、物語のパターン(類型)が存在する。神話や昔話として語り継がれているものの、パターンだけれども、これが語り継がれているのは、その物語に、各時代、文化をを超えて魅力があるからだと仮定する。
神話・昔話が最も古い物語とすると、それを下敷きにして書き直されたのがハイ・ファンタジーと言えるかもしれない。
物語がテキストとして読みつがれていく中で、読み手は、主人公になりきったり、膨らませた空想のなかで、ある種の体験を得るというのがテキストとして物語。
近年の異世界モノには、この物語性の他に、ゲームに対するフラストレーションを感じる。
物語のテキストを読んでいる間は、読み手は誰もが、主人公としての体験を得ることができた。
最初期のRPG(テーブルトークを含む)では、この物語性をより拡張して、能動的に物語の主人公になることができるものだった。
ファミコン世代のRPG(ドラクエ、FF)ではレベリングに時間をかければ、最強の存在になることが可能であり、努力が必ず報われる”優しい”世界とも言えた。
異世界ものが下敷きにしている、MMORPGになると少しづつ様相が変わる。
メインシナリオの中では主人公的な役割を得たとしても、ほかのプレイヤーとの比較では、廃人級に時間的コストを費やしたり、過大な課金を負わなければ、世界の主人公たる万能感を得ることができない。
そうすると、原点回帰的に、MMORPG的世界で、万能感・優越感を追体験できる、異世界もののライトノベルが意味を持ってくる。
ここで具体的に、異世界ものを、(半ば無理やりに)神話類型に当てはめてかんがえると、
俺TUEE→英雄譚
神のような存在に導かれた異世界人がその世界で莫大な富を得る->貴種流離譚(高貴な血筋の強い力を持った人物が、旅をしながら、最後は自分の国を得る)
ハーレム設定→異類婚姻譚(転生者はその世界では異類と考えることができる)
などなど神話類型で繰り返されてきた物語の骨格を持っているようにも見えてくる。
そうすると、ゲーマーのフラストレーションから生まれた異世界への転生という構造が、ある意味普遍的な物語性を宿していると思える。
このような背景と者が理性は、MMORPGをプレイしていないがゲーム的世界に違和感のない層に届くように思われる。ゲーム的世界に親和性を持つが、MMORPGには現在は親しんでいない層、それは、社会人として購買力を持った元ゲーマーの30代をピークとした男性層として合致する。
https://bookwalkerstaff.tumblr.com/post/128323701752/
この層はゲームは好きだが現実世界の仕事に追われてゲームをする時間は少なく、なろう小説を直接的にあさるほどの余裕がない。彼らにとって、異世界もののアニメや書籍化小説は、製作者・編集者が査読して質のある程度保証された物語であって、購買する価値を持ちうる。
まだしばらくは異世界ものは廃れないかもしれない。それは繰り返されるパターンが、どこかで見た安易な剽窃を超えた、古くから語り継がれてきた類型であるから。
けものフレンズ1期、あれは素晴らしい作品だったし、個人的に2010年代でもっとも楽しめた作品なので、続投してほしかったなと思ってた。
でも、ケムリクサはそれより面白いという予感というか、なにかとても引き込まれるものがある。ひょっとすると、2010年代などと言わず、今まで見た作品全ての中でも、トップクラスに気に入るんじゃないかという予感がする。
あの楽しみをもう一度!というのもいいけれど、私はこっちを見てみたい。たぶん、けものフレンズという枠組みじゃ難しい類の表現もできることだろうし。
一方のけものフレンズ2期の方も、まあ望んでいる程度の良い作品にはなりそうだし、やるべきことはやってるんじゃないかなと思う。こちらも、願わくはこのままのんびり世界観を拡張していってもらいたい。
元の人は女権拡張運動的言説の虜だから仕方ないのかも知れないけど。こういう主張って、社会規範が男性側にも義務を背負わせているって事はガン無視なので、すごく違和感がある。
まとまらない走り書き
マトモな飼育も出来ず、する気も感じられない。
研究をしている風でもなく、値札のついていないペットショップと何が違うのか。
娯楽というが、苦しむ動物をただ見て楽しむとは、なんて高尚な趣味をお持ちなんだろうね。
嫌がる動物にべたべた触って嫌がらせするのが楽しみとは、なんて素敵な趣味なんだろうね。
情操教育なんて言うけれど、劣悪な環境でボロッボロの動物を叩き起こして驚かせて得られる情操って何なんだろうね。
確かに動物園という施設には、見世物としての要素はあるし、娯楽でもある。
だけど同時に、人類の環境破壊に対応するための必要悪としての施設でもある……脆弱になった生息基盤のために、域外保全によるバックアップや生態研究は必要であるし、そのための資金を得るには市民の協力が不可欠であるから。
また市民の理解を促し親しみを持ってもらうことも必要であるから。
幾らかのショープログラムも、動物生来の機能の発露であったり、飼育改善に関するものや生態理解に繋がるものであるべきであり、そのようになってきている。サーカスとは違う。
確かに動物園という施設は、いくつかの団体が言うように悪い施設ではある……けれど、その悪の根源は人類社会そのものにあって、動物園というのはただその悪を引き受けているに過ぎない。
動物たちの生息地を取り戻すために、都市を全て破壊して草原や森林とし、港湾を破壊して干潟とし、田畑を破壊して沼沢地とし、そうしてもはや支えきれなくなった人口をばっさり間引く…というようなことを志すならば、確かに動物園そのものを悪といえるだろうけれども。
ところが、そのようでない、むしろ人類悪を拡張したようなものが動物園と呼ばれていたりする。
それは、同じ動物園と呼ばれてはいるけれど、実態としては他の動物園とは全く違うおぞましい何かだ。
大昔のコロシアムだとかのような、捨て去ったはずの暗黒のマントを身にまとった、邪悪ななにかだ。
その昔に娯楽を優先した時代があるのは確かだけれど、今は変わってきており、反省すべき過去だ……その過去の亡霊に未だに大手を振らせてていいものだろうか。
なんて大げさだなって思ってた
オリンピックを前にしてなんだか話の進みが早くなったような気がした
条件は良くも悪くもない
だから損はない
前よりも狭くなったけど、新しい家にも引っ越した
わたしたちも大きくなって、前ほどの広さの家も必要がないし、この新しい家にあと何年住むかもわからない
古い家を引き払って新しいところに住めるだなんてむしろラッキーではないか
なかなか話しを進めたがらない親を見て、ぼんやりとそんなことを考えていた
引っ越しが済んで一週間くらいしたころ、解体の見積もりをするために業者さんと一緒に古い家に入った
荷物はすべて引き払われてもぬけの殻のような家だけど、玄関を入って居間に続く扉のノブに手をかけたときに思いもよらない事が起こった
生まれてから今までの、この家とともにある思い出が走馬灯のように突然蘇ってきたのだ
小さな頃に転んでぶつかった思い出、思春期の頃に苛立ちに任せて扉を強く叩きつけた思い出、初めての給料で買った母へのプレゼントを抱えてドキドキしながらドアノブに手をかけた思い出
いい思い出もわるい思い出もとめどなく頭の中に蘇り続けた
この扉を開けば、当たり前のように家具が並んでいて当たり前のように母が台所に立っていて、わたしはそこを当たり前のように通り過ぎる
そうか、そんな当たり前の毎日はもう二度とやってくることはないんだ
もしかしたら過去に同じような経験をしたことがあったのかもしれない
引っ越しの忙しい最中、母がふと「悲しい」といった言葉の意味がそのときはよくわからなかった
両親が建てたこの家なのだからわたしなんかよりもっと沢山の思い出がある
母にしてみればわたしよりもよっぽど長く一緒にいる家族だったんだ
みんなの生活が便利になる再開発に文句なんてないけど、最後の一軒になってまで計画に賛成しようとしない人の気持が少しだけわかったような気がした
きっかけはいつの日かはてなで、アナニーのすすめのようなものを読み、、元カノが残したバイブで試してみようとしたことだ。
そこからは早かった。ケツの穴は、バイブとプラグによる昼夜絶え間ない拡張でどんどんサイズアップしていった。
ケツだけでイケるようになってからしばらくして、俺は有る願望を抱くようになっていた。
実物のチン○を突っ込んでもらいたいという願望だ。
繰り返すが俺はホモなわけじゃない。ただアナニーにハマっただけの普通のサラリーマンだ。
しかし、そんな俺の脳内には、銭湯で見た同僚のチン○が浮かんでいた。
あの逞しいチン○で奥まで突かれたらどれほど気持ちいだろうか、最近はアナニーする時にも、その同僚のチン○を頭に浮かべている。