はてなキーワード: 唐突とは
1ミリ位しかかすってないのに唐突に自分の話題を持ち出して空気を壊すのを謎と言ってるんだが発達障害者にはどうやら理解できなかったらしい
あっそ、少しでもかすってんなら別に俺の増田にとやかく言われる筋合いないだろうよ。
俺は話を別のベクトルに展開させただけ、それを一意見としてトラバにさりげなく投稿しただけ。
空気壊すってさあ…有象無象のトラバツリーでお前何言ってんの?ほとんど注目されることもないトラバにもいちいち執着してるの増田は?
増田が気にくわないところはなんなんだろう?話題が元増田から離れているから?いや、増田が主観的に場違いだと見なして、そして好ましくないと判断しただけだよね。
「同じ程度の障害(才能)を持つ者同士で比べあった時、あなたが他の人よりも劣っていると感じたなら、それは貴方が障害(才能)を言い訳にしてきたせいなのかも知れない。」
唐突にそんな言葉が飛んできて、傷つかないで居られるような人生を生きていけたならそれは幸運な事だよ。
大抵の人間は大なり小なり傷つくと思う。
そして、自分が傷ついた事に傷つくと思う。
SHIRBAKO第20話「がんばりマスタング」なんだよ。
「図星だったんだよね。だから腹を立てた。見当違いのことを言われたんならどうでもいいはずだよ」
「アリアは キャシーの言葉に傷ついて、自分が傷ついた事にショックを受けたんだと思います 」
なんだよ。
とてもストイックだ。
でもそのストイックさを突然向けられた時、受け止めきれない人もいる。
そしてあのポスターは、見た人間にその言葉が自分に向けられたものなのではないかと思わせるような言葉の選び方をしている。
ポスターを作った人は意識してそうすることで、見た人間をハッとさせたかったんだろう。
でもさ、いきなり他人の頭を透明なハンマーでぶっ叩いたら怒る人だって出てくるだろうよ。
最近、神が自ジャンルを撤退した話をちらほらと見かけた。感想をもらえなかった神を止められない後悔のようなものが綴られていた。ファンとしては悲しかったんだと思うし、去る神の方も辛い思いをしたんだと思う。
そんな記事を読んでいて、きっとその世界に私はいないんだろうなと漠然と感じていた。
時おり好きになった作品で二次創作を書いて、同じ作品が好きな人とTwitterで繋がってフォロワーを増やすということが多かった。増やすといっても一桁単位の話で、私の作品のブックマークも一番にしてくれたのはフォロワーのことが多かった。自分が書いたものを喜んでくれたり、楽しみにしてると言ってもらえたり、投稿ツイートにいいねがつくだけでも嬉しかった。
それから私は今のジャンルにハマった。ジャンル自体が始まったばかりで、pixivの小説タグには作品がひとつかふたつぐらいしかなかった。私はジャンルに勢いよく沼ってしまっていて、その勢いのままほぼ週に一回ペースで小説を上げた。pixiv以外の投稿サイトでも多いときには1日に3本、2000字未満の短い話を書くこともあった。数打てば当たるというもので、同じジャンルで活動を始めた人たちの目にも止まってTwitterで動かし始めていたジャンル用の別垢にもフォロワーが増えた。主は絵を描く人たちで、その人たちが絵を投稿すれば三桁のブクマいいねはあった。
私はと言えば好き勝手に書きつつもよいときは二桁の反応をもらうことがあった。Twitterでも作品に関する反応をもらえて、嬉しかった。
けれどふとpixivの小説タグを見返した時、自分の作品しかないことが唐突に怖くなった。自分がタグを荒らしているんじゃないかと恐ろしくなって、自分の作品の多くを非公開にした。その直後にジャンルがアニメ化されたこともあったのだろうけど、小説タグに自分以外の作品が多く投稿された。その事を嬉しく思って、たくさん小説を読み漁った。
どの作品も魅力的で、文章も濃厚で、自分ではできない表現を易々としていた。
それと同時に自分の作品のつまらなさを見せつけられたような気がした。実際、自分が非公開にしたあとに投稿された作品のほうがブクマ数を稼いでいた。ジャンルに人が多くないからと2桁つけばいいと思っていたブクマを、あとから投稿された作品は三桁もらっているのを見た。なんなら自分がpixivに上げたあとの作品のほうが反応があることなんてざらだった。
けれど自ジャンルで話を書くことは好きだったし、私が書いた拙いものでも好きだと言ってくれるフォロワーはいた。フォロワーがTwitterで出した小ネタを話にして、その人に喜んでもらうというのが多かった。
しかしそんなことばかり続けていると、私が考えたものはつまらないんだろうなという考えに陥ったし、自分で話を考える力が失われてしまった。自分で考えた話はどれも似たような内容になっていて、読み直して頭を抱えた。
ジャンルではじめてオンリーが行われた時、私は人生ではじめて同人誌を作ってはじめてサークル参加をした。はじめてのオンリーということもあって開始直後にどのスペースも完売していて、少部数で持っていった私の本も全部売り切れた。すごく嬉しいと思ったし、そのあと感想をいただくこともあった。
しかし、再びあったオンリーでは新刊も既刊も、半分も売れなかった。具体的な数字を出せば、30部持っていってのその結果だ。
評価されないことも本が売れないことも、結果としては自分の実力不足の問題だ。結局私の書くものは内容もワンパターンで、文体も個性がないつまらないもの。腐向けを書くにしても事を為してる描写が下手くそで、自カプの話は大体オチもつけず終わらせている。
そんなのをこじらせて、最終的にはジャンルのせいだと思い込むようになっていた。この頃はジャンルの公式イベントに対する不信感やイベント現場でもオタクの問題行動が目についていて、余計にジャンルに対して批判的な視線を向けてしまっていた。ジャンルを知らない友人やフォロワーに運営への不満とオタクの愚痴を語るのが日課になり、腐向けに作った垢も不満と愚痴と自分の文章への嫌悪に溢れていた。
本当は私は私が書いたものが好きだった。文章は単純でも展開がワンパターンでも致してるシーンがつまらなくても、自分が書いてて楽しいものを書けて幸せだった。でも私は誰かの神にもなれなかったし、他人の目を気にしすぎて、自分自身の神にもなれなかった。
私はジャンルが大好きだった。売り込み方は下手だったけれど、関係者の熱意は間違いなくあった。ストーリーもキャラクターも魅力的で、今まで好きにならないタイプのキャラが推しになった。はじめて現場に行くきっかけになったこのコンテンツが好きだった。
今はせめて自分自身の神に戻るために、私は自分の好きだったものとちゃんと向き合おうと思う。
私が好きな私の文章を、私が好きであれるように。
私が好きだと思ったものを、好きだと思い続けられるように。
オタクって、特定の人物やら乗り物やらサブカルコンテンツやらに持てる時間と金注ぎ込んで、無駄知識蓄えて無駄に遠征して、本当にキモい人種だよね。
……いや、「無駄」ってのは間違いだったわ。
オタクにとっては「その他人から見れば無駄なもの」がかけがえのない財産になるんだもんな。
でもそんなことはどうでもいいんだよ。
今言いたいことはタイトル通り。
オタクっていつも泥沼で足の引っ張り合いしてるよね。
冒頭でディスりまくってはいるが、当の私もそのやばいキモいオタクだ。
ライブに行くためチケット代の5倍以上する遠征費は出すし、チケットを入手するために同じCD馬鹿みたいに積むし(それが外れても1週間ぐらい経ったら忘れる)、クソほど生活の役に立たないキャラグッズを衣食の費用を削ってまで購入する。
金銭感覚狂っててキモいし、聞いてもいないオタク知識ぶら下げて会話に参戦するからキモい。浮いてる。キモい。
あ、タイトルとは関係ないので、ここでは私が誰を推しているか、何のオタクをしているかは伏せる。
今回、何故こんな各方面に喧嘩売ってそうなタイトルにしたのかというと、オタクとして生きていれば必ずと言っていいほど「他のオタクとぶつかることになる」からだ。
インターネッツ普及で情報化社会と言われるようになった昨今の日本では、今や誰もが当たり前にスマートフォンを持ち、LINEやTwitter等のSNSアカウントを最低1つは隠し持っていて、不特定多数の人間同士で顔の見えないコミュニケーションを日常的に行なっている。
……なんて、カッコつけて難しい言葉を使おうとして滑っているのは承知なので言いたいことをまとめると、現代じゃみんながスマホ持ってるし大体の人がネットやるよね、ってことだ。
で、何でオタクが足の引っ張り合い〜っていうのは、オタクそれぞれが不特定多数の顔も知らない相手にイキり倒して優位に立とうとするから。
しかも泥沼。
比べられるもんじゃないのに、○○のオタクは〜、とか××のオタクは〜、とかわざわざクソデカ主語でオタクを分類し区別をつけたがり、更に○○のオタクの方が優れている、とか××はゴミ、とか好き勝手に偏見を暴れさせていると感じる。
え?
シナリオ書いてる人も、絵描いてる人も、コンテンツとしての強みも違うのに?
そんなの個々の好みの問題じゃん。
みたいな疑問がよく頭に浮かぶ。
知らんがな。
本当に泥沼。
終わりのない戦争。
○○くんは歌が上手いから〜、とか言いながら、その○○くんを推してる自分に酔ってるオタクが○○くんの実力努力を権威として自身の戦闘力高いと錯覚してるだけだから。
△△ちゃんには仕事無いし私の推しの××ちゃんのほうが上だから!って言いつつ自分の推しの戦闘力の高さで驕るオタクキモすぎるから。
お前の力じゃないから。
お前が一生懸命推しやジャンルに金かけてきたから推しやジャンルが成長したのかも知れないけど、その実力はお前のステータスではないからな。
だからキモい同士泥沼に浸かってる中で他人叩いてるのバカでしょってこと。
結局、オタクによるオタク叩きによって、外部から見てオタクは更にキモくなるんだよ。
どっちもどうせオタクでキモいのに、どっちが優れてるとか無いから。
これは、同じ○○オタクとして優れている、とか造詣が深い、とかいう争いの話じゃない。
自分の推しを誇りに思うのは勝手だが、推しの実力や知名度が自分の戦闘力だと過信しているバカは考えを改めてくれ。
オタクが泥沼でビチャビチャ汚ねえ争いしてる間に、周りはその推しもファンも全部キモくて近寄らんとこってなるよ。
あと私だけが○○を愛していればいいの!とかいうキモいオタクは○○に愛される努力もしてみなって思う。
気になる人として認知されるかどうかじゃなくて、自分に自ジャンルにファンがちゃんといるんだって○○に認知されるよう努力しなよ。
どうしても恋愛したいとか言い出したらそれはオタクじゃなくてストーカーだから別の話ね。
出来ればやめたほうがいい。
やめないと意外と行動力のあるキモいオタクから名誉毀損で訴えられちゃうかも知れないし。
わざわざキモいことしなくていいよ、オタクしてる時点で十分キモいんだから、オタクできることに感謝して自分の推しだけ見てようよ。
暇だったら誰か分かりやすくまとめてくれると嬉しい。
もう終わり。
表題の件について。今まで全くメルカリというものを使ったことがなく、やれ現金が販売されているとか、やれ怪しげな商品の温床になっているとか、
そういうニュースといくつか実際に出品されているモノを見たことで、自分の中では爆サイユーザーとかが中心のなんでもありなアングラマーケットなのだと認識していた。
自分も昔ヤフオクでオーディオ機器などを落札したことがあるが、そういった日々のやりとりとは違う、何か得体の知れないテクノロジーだけが先行している
結婚式の準備を一緒にしているパートナーが、小物やアクセサリーなんかの正規品のユーズド品をメルカリで探して、嬉しそうに報告してくれたのだ。
中古がイヤじゃなければこれで浮いた分を他の費用に回せるね、色々探して頑張ってみるね、と微笑んでくれたのだ。
自分はなんて矮小な考え方をしていたのだろう。良かれと思って様々な方法を駆使して節約してくれているパートナーに対して、
「メルカリは得体が知れないからなんか嫌だ。ヤフオクやeBayならいいけど」とでも言うつもりだったのだろうか。
結局は使う人間の心持ちとスキル次第であって、最初から悪だと決めつけてかかるのは典型的な老害思考ではないか。
別に全部新品で買ったりレンタルしたりできる財力がないわけではない。ただ、パートナーの気持ちとそれを実現したツールに対して
心から感謝して、考えを改めた。僕もこれからは機会を見つけてユーザーになってみようと思う。
結局のところ、僕が今のところ受け入れにくいVTuberや仮想通貨や行き過ぎた多様性や退職代行ビジネスなんかも、
元を辿ればより良い世界になるようにという意思を少なからず込めて誰かが発展させているものなのだろう。
ただユーザー層の偏り(に見えてしまうような表層の雰囲気)が今までの僕の価値観と擦り合わないだけで、
どれもそのものが世の混乱と質の低下を目的とするようなツールではないはずだ。いつかそういった自分にとって新しいものと
触れ合わざるをえない機会がきたら、もう少し柔軟に考えてみようと思う。
浮いた予算で、パートナー用のウエディングドレスをレンタルではなく、ハイブランドのものを購入することにした。
インターネットの片隅に私の吐き出すものを留めておきたいけど、支部に書くのもなぁと思ってここに書きにきました。
私は趣味でTwitterに自分が描いた絵を呟いたり、あるいは友達と空リプ(くうりぷ)するだけの垢で時々話したりする人間です。
私は中学生の時、部活と学校の事で精神的に辛すぎてメンタル系の病院に入院したことが何度かあります。
絵を描く事が唯一の救いだったのですが、部活が美術部で、絵を描くと部活の事を思い出してしまうと主治医に話したことで、初めての入院3ヶ月のうち、はじめは絵を描く道具の持ち込みは禁止されました。
しばらくして、持ち込みの許可が出ると私は自分が考えたキャラクターを沢山描きました。
見回りに来た看護師さんに描いた絵を見せると上手だね、と言われる事がとても嬉しかったことを覚えています。
私が記憶している中では、作業療法の活動に初めて参加したリア友が描いたぬり絵を見て、話しかけたのが最初だと思います。
そのぬり絵を見て、私は驚きました。
リア友が描いた鳥の絵はとても質感と量感が表現されていて、まるで動き出しそうな絵でした。
同じ年齢で同じ絵を描くという趣味で、私達は個室のホールで一緒に毎日絵を描きました。
私は毎日驚きました。
ある日は漫画の扉絵の模写をし、ある日はイラストの資料集に載っている洋服を使った全身の女の子の絵を描き...。
驚いたのは彼女の模写をする量とスピード、分析力、そして正確さです。
私もリア友を真似て、退院してからも模写をしてた時期がありましたが、今も模写も絵も上手くありません。
きっとこの人は将来、大物になる。
そう確信した私はやってもいなかったTwitterを親からバレないようにこっそり始め、リア友とIDを交換し、外泊の時にフォローしました。
そして、私は3年ぐらいリア友の成長を見守りながら、自分も絵を描いてきました。
リア友は今、中学生の私がほぼ予想していた未来の途中にいます。
よく、Twitterではフォロワーはステータスでは無いし、フォロワー=ファンではないという見方もあるとは思いますが、私はリア友の1ファンとして、多くの人がその子の絵に共感し、拡散されている事がとても嬉しいです。
私は制作したい作品を顧問の先生と相談した結果、作品上、いきなりB1サイズで描くのは厳しいという事で、最終的にパソコンで合成する形となりました。
私はCG作品の審査の目が何故か厳しいらしい事を知っていました。
今年こそ、審査の票を入れて貰いたいと気合いを入れて描いていたものでした。
あの綺麗な絵に勝ち目なんかない、
私の作品は恥ずかしい。
私はリア友の絵を沢山拡散してくれた時と同じように、喜べるのか...。
私がずっと溜めていた事を文章に起こせて、少し楽になりました。
「これからもストーカーの拗らせアンチとして応援したいと思います」
この主語には私が入る。つまり私のストーカーの拗らせアンチということだ。
私はこのツイートを見た時唖然で言葉が出ず、しばらく反応すればいいのか悩んだ。私にリプライしたわけではなかったけれど、間違いなく私関連の、わたしへの、切っ先を向けた言葉だった。どういういきさつでこの発言をしたのか、もう覚えていないし思い出したいとも思わない。というか思い出したくない。ただ、この言葉のお陰で私はこの人が大嫌いになった。憎くなった。怖くなった。もう二度とツイートを見たいとは思えなくなった。会話すらしたく無いと思った。
そしてこの言葉が私の心の深く沈んだ所に刺さり、ふとしたときにちくちくと私を悩ませるのだ。だからここに書く。今日も唐突にやってきた、この行き場のない痛みを痛いと言うために。
私はしがない絵を描くことが趣味の、ただそこらへんにいる、あるジャンルにいる、あるキャラのファンだ。そして所謂マイナーと呼ばれ界隈が狭く何かしらの投稿サイトも大して更新が行われることのない界隈に住んでいるファンであり、あるキャラを猛烈に好きなあまり、にそれしか描かないそればかりな本ばかりをつくる(自分であまり言いたくはないが)そのキャラに関してはこの人だと思われても仕方がない、ファンである。
そんな小さな界隈にもう5年長も生きていれば、大体投稿する人も「何だか知っている」ひとになるのだが、その「何だか知っている」ひとがその言葉を言い放った人だった。
現在時点でだと正しくは「何だか知って”いた”」人なのだが、それは私よりずっと前にそのジャンルで活動をされており且つその方を認知しており、しかしながら交流も無ければ交流をしたいとも思っていなかったため「何だか知っている」という表現となってしまった。
この人とどう交流が始まったかといったことはもう覚えていないが、交流していくうちになんだか歯車が合わないなぁと思ったことがあることは覚えている。
いや、正直に言おう。好きじゃなかった。
私は、この方が私に親しみを持ってくるのは別にどうでも良かった。感想を言ってこられたのも別にありがたかったし、もっと言えば小規模である界隈に活動をしているだれかが居るのは少し安心感があった。
でもどうしても好きにはなれなかった。それはその文章からにじみ出る性格だった。
Twitterは、投稿サイトでは分からない膨大な文章がその人を形作る。私はそのぽつぽつと呟かれる文章にいつも合わなさを感じていた。文章の書き方もだったし、記号の書き込まれ方や絵文字や話し言葉だけで構成されたひっちゃかめっちゃかな読みづらい言葉たちも好きではなかった。書かれる言葉に納得できないこともあった。何かの発言で私への返信が来た時に、少し行き過ぎた指摘に首を傾げることもあった。でもそれは好きじゃないだけで、別に今の様にはっきりと「嫌いだ」と言えるような不快感は無かった。
冒頭の一文に戻ろう。
この文でとうとう「好きではない」から「大嫌い」になったわけだが、この文から後の自分の感情はよく覚えていて、わけがわからなくなったあととても気分が落ち込んでしまったのだ。嫌いなの?好きなの?なんでアンチ?追いかけるの?応援してくれてるの?様々な感情が私の中をぐるぐると渦巻いて吐きそうになった。そしてその方は続けざまに「本人はどう困るとか、もういっそ自分の考えに振り切って、アンチだから嫌がらせもするしストーカーだから追いかけます」と言い放ったのだ。
私はどういうことかもっと分からず、何故こんな本人が見ると分かるであろうときにわざわざこの文章を書いたのか必死に考えたし全然今も分からない。振り向いてほしいのか、嫉妬心を燃やしているのか。そういえば私の作品が魅力的だとよく言っていたな、だなんて脳裏を過ったがそんなものはかき消える。
ただ、私はその人に初めて今迄持っていなかった「不快感」と「嫌悪感」を覚えた。それだけであった。
呆然と反応もしないうちにどうなったかといえば、先に私の別のフォロワーさんが食って掛かったため、戸惑いながらも対応するうちに発した本人から私へ謝罪のDMが送られてくるという、さながら焼け石に水といったところである。そのDMの内容というのも今思えば滑稽なのだが、長々と言うのも面倒なので要約すると「自分がほれ込みすぎてアンチになったのだが気を悪くしたのであれば謝りたい」とのことだった。
じゃあ何故言ったんだよ!いくら呟きだからといっても訂正がきかない独り言だってあるんだよ!!
本当はもう大嫌いになったので金輪際関わらないで下さいといっても良かった。DMで言ってくるのも癪に障った。ツイートで発言したのなら同じツイートで見て不快になった可能性のある方全員に謝ってほしかった。でも私はそこをぐっとこらえて、波風を立てないように優しく、気を付けてほしいと諫めた。
今思えばあのときすっぱりとブロックでもすれば良かったのかもしれないと思う。
私は優柔不断で、もしかしたら明日起きたら嫌いになってないかもしれない、忘れてまた楽しくおしゃべりできるかもしれない、そんな文章だけで人を判断して嫌いになるなんて、ただの呟きひとつでと自分に言い聞かせていた。ブロックでまたもめるのもめんどくさいとも考えた。いまもそうである。おかげでミュートにしてそっと距離を置く程度しかできない。
刺さった言葉はあれからずっと、ふとした瞬間に心を痛ませる存在となり自分の作品に自信が持てないときや意欲がわかないときやつらいときに言葉を過らせる。そしてその人のことを無理にでも思い出される。あの不快感や嫌悪感と共に、思い出したくない感情と共に。それがまた苦しくなり、もっと嫌になる。負の連鎖が続く。
そういう訳できらいになった。
あなたのことが、あの人のことが、大嫌いになった。
関係を戻りたいと言われたあの楽観さやすべてに苛立ち、大嫌いになった。
わたしはずるいので、直接は言いません。あなたが遠まわしに私を困らせ、苦しませたので同じようにずっと遠まわしに言いましょう。
そうして同じようにDMにて謝罪をしましょう。とびっきりの長文で、あなたを好まなかった文章の形も言いましょう。
優しそう・おっとりしてる・話すスピードがゆっくり というのはよく言われる。スキがあるように見えるかも。
嫌な気分にはなるけど、例えばノコノコとパーティについていったとしても身の危険まで感じるわけじゃないから、そこは女性より全然マシだと思うし、
男ばっかの勉強会に女性エンジニアが入っていくのに比べたら狙われる率は低いし全然マシだと思うよ。
友人のコミュ障美女エンジニアも腕力弱そうand怒らなそうというのもあり、変な人におモテになるようで大変というのをきいたよ。
その子はLINEとかの切り方がうまいというか唐突で、徐々に気力を削いでいくとのこと。話の途中でも断わりなく眠くなったら寝る・風呂入る時間には風呂はいるなど、生活を優先して、かつ間が空いたらそのままにしておくとのこと。ポイントは必要な連絡すらもそこで放置してしまうこと。必要な連絡なら特に障壁もなく再度相手から連絡できるんで。
言語だけで問題視はしないが、批判されている社会学については英語で論文を書いて、世界から査読を受けるべきと思うと、工学系で研究をしている人間として言っておきたい。日本語でだって研究は出来るとかいうのは、批判の本質に対しては無意味な論点ずらしでしかないんですよ。
http://dlit.hatenablog.com/entry/2018/10/09/081143
とは言っても、人文系でも査読される事が重要になってきている様だし、「査読は理系だけのローカルルール」とのたまっていたのは馬鹿な繰り言だと分かってホッとはしました。千田先生が学んだ社会学も批判を機に変わって貰いたいですね。学者と呼べるのか?と感じる人間が排除される様な変化を期待したい。
唐突ではあるが、皆さんは、工学系研究者が年間に何本程度の論文を読むと思われるだろうか?ここで言う、読むという行為は再検証実験が自分で出来るレベルに落とし込めるという前提でです。時間がある博士課程の学生で、なおかつかなり優秀と言われる人で150も読んでいれば相当なものです。不慣れなものが論文から何をどう作ればいいのか?を理解するのに要する時間は一月にも及ぶかもしれません。斜め読みまで含めれば、修士の学生でも、最低50本程度は読んでいるでしょうが、逆を言えばそんなものです。斜め読みで済ませることが出来るのは、論文の質が担保されているからですね。
一方で、自分の専門領域についての論文は、毎年、大量に発表されます。もしも査読がなく、国際学術誌や国際会議にランク付けがなされていなければ、玉石混交のクズ山の中から、自分の研究が引用すべき論文について、その妥当性を再検証するだけで膨大な時間を必要としてしまいますね。査読と学術誌の採択難易度によって、論文の質が担保されている事が如何に重要か?お分かり頂けるでしょう。レベルの低い会議の採択論文や、査読なし論文などは、僅かな例外を除いて通常は再検証されることなく消えていきます。高いレベルの査読を通って採択されている事は、再検証する手間をかける価値の証明になります。
論文の評価には被参照数という軸があります。いい研究であれば、数百の論文から参照されます。参照されるという事は同業者による再検証が行われているということを示しているので、手法の妥当性が分かるのです。恐らく査読文化のないという文系の分野では、被参照数によって論文の質を予測するというように思うのですが、被参照数というのは流行の研究をしている事で他の研究者が参照しやすい環境がないと伸びにくい物です。ニッチな分野の研究をしているが、優れた研究であるのに査読も行われず、誰も参照してないという論文があるとして、研究を行う者はその論文を如何にして見つけて評価するのでしょう?文系の研究者は、研究を開始するまでに、かなり無駄な調査時間を必要とするのだろうなという事を想像しますね。非効率すぎて耐え難いという気分に、個人的にはなります。
査読と被参照数の話をしました。これによって完全とは言えないまでも論文の質が担保されるのは、世界中の同様の背景を持った研究者たちによって、その仕組みが共有されているからです。査読を受ける者も、査読する者も、何度も何度も査読に関わって来たという実績を持っていて、厳しい目で評価を行いあっている事が前提にある。私が社会学は英語で査読を受けるべきと言う理由はここにあるのですね。
社会学者が、査読なしの招待論文 > 査読された論文 という認識であることは、幾人かの社会学者が言っている事です。実際に社会学者の履歴をみても査読付き論文が殆どない事も指摘されていますね。そういう学者たちの査読に何か価値はあるのだろうか?と思う訳です。一方で世界の社会学者は、インパクトファクターの高い査読付き国際学術誌に投稿している様ですね。アメリカだと、テニュアになるためには当たり前の様に要求される実績の一つですし、それが世界標準でしょう。故に、査読されない研究者同士ではなく、査読が当たり前になっている世界の評価を評価を受けるべきだと考えます。工学系では国内学術誌は相当に軽視されますが、英語か日本語かは大きな問題であるとは思いません。査読が当たり前ではない世界から、査読が当たり前の世界に出て評価を受け、実力を証明せよという事です。その為には、英語を使うのが妥当なのでは?
という風に思いますね。
日本語かどうか?は本来は(日本語のみの会議のレベルが低いとしても)重要な問題ではないけど、日本語で閉じている限りは社会学は学問と呼べるだけの再検証性を備えていないのではないか?と言う疑問を改めて提示しておきたい。私は、少なくともジェンダー論を学問とは思えなくなっています。
のうりんのアレもそこまで表に出ないで沈静化されたし今回もネットの一部でのボヤで終わるのかな。
個人的には今回の騒動はアホくさと思ってるし、ホッテンに上がってるのを見ると付いているであろうブコメの論争を勝手に想像して疲れる。
もう見てるだけで疲れたので、自分の思っていることを適当に増田に吐いて明日からはもっと明るい話をブックマークしよう。
一連の騒動で思ったことを無理やり詰め込んでるので、話が唐突だったり繋がってなかったりすると思うけど適当に脳内補完してください。
自分としては今回の騒動はその辺にあるネットの炎上案件の一つに過ぎないけど、もしかしたらここがターニングポイントになって後のネット上の大きな対立構造が今この時確立されるんじゃと思わなくもない。
男 vs 女なのか
は分からないし、こんな簡単なカテゴライズで済む話ではないのは分かっているけども。
個人的には「解説は男性で女性は聞き役に徹しろみたいな風潮考え直しませんか?」的な話には同意なんだけど、「キズナアイはNHKの今回の聞き役に相応しくないだろ」的な意見は間違っていると思ってる。
事の発端の社会学の人はあくまでNHKを叩いているんだと言っていたけど、どう見てもオタクとキズナアイも一緒に叩いていたし、オタクに叩かれてキズナアイ叩きは本質じゃないと言うにはちょっと無理があると思う。
で、ここでいうオタクって多分男で2次元大好きなキモメンの事をイメージして使ってるんだろうなと雰囲気で察してたけど、「ファッションオタクが増えたよな」とオタク同士が言っているように
今アキバを適当に歩いてても目につく様に電車男時代のステレオタイプ的なオタクって全体の比率的に減っていて、その辺の高校生も「俺オタクだわwww」と自虐なのか自虐に見せてオタクがステータスみたいなよく分からないことを言ったりする。
しかも、オタク=男の概念もちょっとずつズレてきていて、動画サイトの普及なんかで女性でも普通に深夜アニメの話するようになってる。それが10年前自分が高校生だった頃の認識。今はもっと若者に普及していることだろう。
はてなではなぜか女性のオタクという概念が無視されているように感じていて、女性のオタクって腐女子の事でしょ?みたいな人も割といると思う。
でも女性でもオタクコンテンツは好きだけどBLは別に…って人自分の周りに何人もいる。
そういった人たちに対して「オタクコンテンツはオタクのちんちんが気持ちよくなるために作られている女性の敵だ」みたいな事言っても意味が無いと言うか、女性はオタクコンテンツを好きになってはいけないのか?みたいな別の話になってくる。
自分はその立場にいないので全くわからないけど、女性オタクの人たちは今回の騒動を「オタク」側で見ているのか「女性」側で見ているのかどっちもなのか知りたい。誰か教えて。
そういった背景を無視してオタク=キモメンを前提に「オタクは~」と言い出すと必要以上に多くの人を参戦させるし、実際意味もなく炎が各所に広がっているのを見るとそうなんだろと思う。
あ、勘違いしないで欲しいのは別に「最近は一般人もオタクコンテンツに触れてるからオタク=キモメンじゃないよ!」と変な擁護をするつもりはないよ。
こんなところでオタク=キモオタだけじゃねぇ!みたいな事を言うヤツの滑稽さは知ってるつもりだから。キモオタは現代にもまだ存在する。そこの意識を変えるつもりはない。
そんでもって最初の方に書いた「女性は聞き役というジェンダーロールを変えていくべき」については自分は何も言うことはない。それは正しいと思っている。
だけど「キズナアイは性的な特徴を持っているのでNHKに出すな」的な意見については間違っていると思っている。
ただし、そこから先の「キズナアイは性的なのか?」の話は各々の「性的」の閾値が異なりすぎていて面倒くさいので、今回は省略する。
ぶっちゃけkawaiiとエロイの明確な線引が自分にはわからない。ちなみに自分の中ではキズナアイはkawaiiに分類されている。
そして、例えキズナアイがエロいのだとしても(エロいの程度は人それぞれだけど)、今の状態のキズナアイはNHKに出演しても何もおかしくないキャラと見た目だと思っている。
むしろ少しでもエロい要素があれば表に出してはいけないという前提がおかしいと思う。それこそサザエさんなんてパンツ丸出しの子がいても国民的アニメだし。
18禁でない以上、そこから先の「相応しいかどうか」は主観の話だし、自粛するかどうかは出す側の問題だと思う。
そしてそれはあくまで自粛であり、「表に出してはいけない物」ではないと思う。だから自分は一部がどう言おうとキズナアイはNHKに出てもいいと思っている。
例えばこれから股間が不必要にモッコリしているBLのVTuberが出てきたとして、NHK教育番組に抜擢されたとしても「出すべきではない」にはならないと言うのが自分の意見です。
世間からはキモいという意見は出てくるかもしれないけど、それはあくまで意見であって「出してはいけない」理由にはならないしなってはいけないと思う。
もしかすると案外LGBTに配慮した素晴らしいキャラとして讃えられたりしてね。
※個人的にはおっぱいは性器ではないので俗に言う乳袋に対して股間モッコリならどうなんだ!って意見はちょっと違うと思っている。
自分のこの騒動に対しての立ち位置とか書いちゃったけど、何が言いたいかと言うと、この話このまま進むと
「フェミ vs 男、もしくはオタク」のシンプルな対立構造と思って戦っていると「オタクコンテンツに親和性のある若者(男女共に)」という第三の軸が加えられて、若者との分断が広がり更なる地獄に発展するんじゃないのって危惧です。
落ち着いた頃合いなので掲題の語の意味について考えてみたい。(と書き進めていたがまた盛り上がっているようだ)
そもそも「性的に搾取される」という語の頭に「萌え絵で」は結合するのか?という日本語的な疑問はあるが、まずはこの用語自体が示す意味を考えたい。
まずは後半部分について考えてみたい。
安易なイメージだが、たとえば「多額の借金を背負ったため風俗で稼ぐ」といった状況を指すと解釈する。
その原因の理由に関係なく、性というプライベートな領域に対して実質的に自己決定権を持てない状態(=本来自分自身が持つべきものを不当に奪われる)を「性的に搾取される」と表現するのはイメージとしても理解できる。
よって、
に違和感は無い。
(補足)ただし
はいわゆる「主語が大きい」に該当する不特定多数表現で認められない。「日本一を取って目標が無くなった」という言葉を残して引退した女優までをも「被害者」と括るのは余りに失礼というものだ。
前項の理解をベースにすれば多少はイメージが……と思ったのだがやはりまだ難しいため順番に考える。
まず「萌え絵で~」の「で」は動作・作用の手段・方法・材料などを意味する格助詞である。言い換えれば「萌え絵を使って~」となる。
ここからが難解である。たとえばここで「男性全て」が搾取者なのだとするのはあまりに乱暴というものだろう。
では出版社だろうか?
性に関する書籍は多くの出版社が発行し、利益を上げるのだから可能性はある。しかし巻き上げているのは金銭であり、支払っているのは購入者だ。また、出版社自身が非難されるケースは目立たない(主にオタク男性が非難の対象となるケースを観測する)。
絵の描き手だろうか?
男性を男性らしく、女性を女性らしく描くことが非難されるのだとしたら誰も絵を描くことはできまい。また描き手についても直接非難されるというケースはあまり見られないように思う。また描き手には女性も多く、後述の通り何を搾取するのかという疑問が生じる。
描き手でも無く、出版当事者でもない、一消費者に過ぎないオタク男性が槍玉に挙げられるケースが多いので挙げたが、ここに至るロジックはどのようなものだろうか。
これもまた難解である。
当該用語に関して「当事者は私だ」と発言した女性もいたことから「萌え絵を見た女性個人」が搾取された者(当事者)だと解釈するのが自然と思われていたが、中には「この女性キャラは嫌がっているのにセクハラされている。これは性的搾取だ」という用法もあり、「萌え絵のキャラクタ自身」が当事者とする考えもあるようだ。順に検討したい。
「萌え絵を見た女性個人」は萌え絵を見ることで、性に関する"何か"を搾取されたということになる。
だが当事者は当然、萌え絵を見たが為に性を切り売りする労働に就かされてはいない。よってそれに類するような感慨を指すものと思われる。
しかし繰り返すが、当事者であることろの萌え絵を見た女性個人は特段"何もされてはいない"のだ。
何もされてはいないが「搾取された」と謳う、ここにこの用語の理解を妨げる最大の要因があるのではないか。
性的な部分を"強調"された(なお一般論として絵は特徴を強調する)絵を見ることで、絵のキャラクタへ自己投影し、自らが不本意に辱められている=性的な要素を搾取されたと感じる(冒頭のイメージに近い状況と認識する)ことから、「萌え絵で性的に搾取される」と形容された説はどうだろうか。
絵のキャラクタの人権にまで思い至らせる豊かな発想力は大切にして頂きたいが、自己と他人(人ですら無く、絵だが)の境界の認識がまず必要では無いかと考える(ちなみに作品のキャラクタが自我・自己を持つことに興味関心があるのであれば Re:CREATORS あたりがお勧めです)。
心情として、「不本意にも性的労働に従事するようなイメージで自らの性を搾取される」ことを指すものだと推測したが、これが「萌え絵を見る」ことで引き起こされるロジックの解明が必要と考える。
またその原因として、オタク男性が(恐らくは)搾取する側として定義される点も不明である。なお需要と供給の観点、即ち「オタク男性が存在するから彼らが好む不埒な萌え絵が量産され、良心的女性を傷付ける」とする桶屋理論はあまりに短絡的であり、オタク男性は全て滅ぶべしの結論に至るのみでいうまでも無く時間の無駄である。
余録。
幾度も繰り返されてきた議論にvtuberも参戦(被害)とは、隔世の感がある。
「性的では無い」といえば「オタクは感覚が麻痺している」と返ってくるのもまたテンプレだが、たとえば自分はゲーム等の影響でレーティングについては下記の認識を持っている。
全年齢:乳首は見えず(描かれず)行為は婉曲的な表現(俗に言う朝チュン)
これに照らせばキズナアイは全年齢表現であり、それ以上でも以下でも無い(アクション映画だと思って家族全員で見てたら唐突に濃厚なベッドシーンが出てお茶の間を凍らせるハリウッド映画こそきちんとレーティングして配慮頂きたいぐらいだ)。
胸の形が、上目遣いが、と言われてもそんなエロ目線で見ることができるのは根本的に視座が異なるためで相互理解は不可能と考える。オタク受けしかしないキャラクタを人前に出すなという主張であれば起用した企業に言うべきだが、起用した企業がそのキャラクタのファンを対象とした企画を立てたのならば「不満を持つ人達は対象では無い」で終わる話だろう。
これを唱える人は世の中には「良い表現」と「悪い表現」があり、両者は明確に区別・分別が可能であると思っている節がある。
このため「悪い表現」をゾーニングすれば「良い表現」だけが残り、世界は平和になると考えているようだ。
ゾーニングして「悪い表現」が消えれば次の「悪い表現」が見つけ出されて消え、清く美しくなっていく世界をお望みとは世も末である。
性的搾取議論におけるテンプレの一つだが、個人の好みによる感情以外は特段どうも思わないケースになるのではないか。
というのも、多くの男性が男性外性器を"息子"と称していることからも、男性は基本的に"息子"には寛容であると思われる。
そういえば男の娘やふたなりジャンルは一体どちらの性を搾取しているのだろうか?という疑問に気付いたが俎上に乗ったことはあるのだろうか。
前回の日記が界隈で若干賑わいを見せてしまったために、「SKIMAって危ないところなんだ」という印象をあらゆる方々に植え付けてしまっているかと思われる。
正直、版権作品の二次創作の出品が可能だったり(出品者個人ではなく企業として訴えられたらどうするつもりなのだろう)、相談コンテンツでたまに見る風俗勧誘やきな臭い取引を野放しにしていたり、葉星ヒトミ事件だったり、色々と危ないところはあるのだが、それだけではないことを書き記しておきたい。
その前に、以前の日記で書いた仲介料だが、運営費として活用している「利用料」が正しいことを記しておく。つまり円満に解決してもしなくても、名義上は関係ないようだ。
一個人の日記とはいえ勝手に悪名を売ってしまったことをお詫び申し上げる。
(それでも金銭が絡んでいる時点で、問題を完全に放っておいて自分達にダメージがないと考えるのはかなり悠長な気もする。もし被害者側が一般にも名の知れた大きな会社だったらそれなりの痛手があったのではないだろうか)
ジャンルがバラつきすぎておらず、さっぱりとシンプルでいて堅くないデザインは、出品者側としても購入者側としても好印象だ。
仲介料ではなく利用料を取っているためか、自社関連以外の広告は一つもなく、例の浮かび上がってくる広告等もないのでストレスを感じさせない。
入力の面倒さを感じさせることはなく、金額入力においても手数料を差し引かれた分を即座に計算してくれる。
商品サンプルは自動的にある程度劣化・切取が行われ、無断転載に対する予防にも買っているかと思われる。
イラスト特化型と自称していたこともあり、イラスト関連の商品のジャンルは他のサイトに比べて多岐に渡っており、ごく特定のジャンルのみ受け付けることも可能である。
ギャラリーという機能には、商品サンプルとは別にサンプルを掲載できる。
個人的にはこれが一番の強みだと思うが、ギャラリーには制作時間を入力することによって、大体の時給を換算してくれる機能もある。初心者にはかなり良い目安になる。
イラストの技術は長年の積み重ねにより形成されていくため、それが安いと思えば参考にしなくても良い。ただ、右も左も分からない人間には有難い機能であることに違いない。
この機能は出品者側が商品を出品するのとは逆に、購入者側が依頼を提示して出品者を募るというものである。
コンペディション式、プロジェクト式と二種類あり、プロジェクト式は出品者側の自己PRのみを送る形だが、なんとコンペディション式は完成品のサンプルを事前に見ることができるのだ。
その分、コンペディション式はキャンセルを行なった場合、キャンセル料というものが発生するのだが、一発でお気に入りの絵を見つけられる絶好の機会でもある。
他のクラウドソーシングサイトにもリクエスト機能はあるのだろうが、SKIMAのシンプルで見やすいデザインは商品の良さを更に引き立てるのに一役買っている。
また、利用料についてだが、前回述べた通り20%。少々値は張るのだが、金額が上がるにつれて15%、10%と下がっていく仕組みだ。
当然そこまでの金額にすると顧客はかなり狭くなるのだが、とても有難いシステムであることは間違いないだろう。
利用者に関しても、今回の事件で減ってはいるのだが、それでもSNSアイコンはゆうに3000を超える出品があるあたり、まだまだ根強く、多種多様な絵師がいる。
必ず好みの絵師に出会えるとは限らないかもしれないが、検索の仕様も豊富であるため、理想に近い絵師に出会えるだろう。
如何だっただろうか。
まだまだ魅力はあるのだが、前回の日記が思わぬ広がりを見せているため、急拵えではあるが思いつく限りを書き記してみた。
「その機能は他のサイトにもある」と言われるかもしれないが、見方を変えれば、「土台がしっかりしている」とも言えるのではないだろうか。
切り出しが前回と似た形になるが、これから数々のクラウドソーシングサイトが増えると思われる。
それでもSKIMAは今現在、知名度とデザイン性で圧倒的な居心地を感じる場所だ。
たまに質問や問い合わせへの回答が適当になったり、規約をサイレント変更したり(バレてちゃんと表明した)、唐突にコンテンツを追加したり、運営が運営自身の尻拭いを出来なさそうだったりするが、なんだかんだと言いつつこれから一年は続けるかも知れないので、一利用者としてより良い運営を目指してくれることを願おう。
書いている途中でSKIMAを確認すると公式のアナウンスが表明されていた。利用者としては有難いことなので、一年と言わず二年くらいは続けてもいいかもしれない。
事なかれ主義な面も見受けられたがしっかり良い面もあるので、初めての方は一点だけでも商品を出品しに登録するのも良いし、退会した方もより良い環境になれば戻ってきても良いのではないだろうか。
前回の日記を当人が見てしまったのか、トミーウォーカー側の被害者にも謝罪をするそうだ。謝罪文とは名ばかりの言い訳を並べている彼女の文章でちゃんとした謝罪を述べられるのかどうかはわからないが。
深い意味がなく購入者やプレイヤーを怒らせていた時点でもう滅茶苦茶なのだけど、どうなるのやら。
それと前回の日記だが、まだ一日もたっておらず全くブックマークもコメントもなかったのにも関わらずどこから見つかったのか。当人がツイッターでひたすらに隠蔽を図っている理由を少し理解できたかもしれない。
そのように半端に隠すから更に広まるということは、当人はわからないのだろう。自分で自重すると言いつつ普通にココナラでリクエストに提案してるそうだし。
折口信夫への旅 第1部 ~小説「身毒丸」をめぐって(歌舞伎批評家・山本吉之助)
http://www.kabukisk.com/geitohito33.htm
という折口信夫『身毒丸』解説文の中に、日本の師弟関係がなぜ理不尽で暴力的になるのかについての興味深い示唆があったので、
もしかして既によく知られていることかもしれないが、自分は初めて知ったので、覚え書きとして残しておこうと思う。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。
例えば最も古い感情を残している文楽座の人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。
そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。
なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)
それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠は身毒丸 を自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます。
しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます。
「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います。
身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸の脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。
一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。
春琴の教え方は 非常に厳しく、
「あかんかかん、弾けるまで夜通しかかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、
時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います。
『昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである
本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、
摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていた
それは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという
また文楽座の人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある
玉次郎若かりし頃「阿波の鳴門」で彼の師匠の大名人吉田玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、
その時キット極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない
「阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである。
しかも玉次郎を殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。
彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくがごとく礼拝した
「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります。
世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。
ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。
そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。
自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。
つまり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます。
(中略)
神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります。
だから理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。
それは神に対して意地を張るということでもあ ります。
折口信夫は座談会「神道とキリスト教」において次のようなことを語っています。
神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。
神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。
既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。
しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。
『神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした』(折口信夫・「道徳の研究」・昭和29年)
そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しかも唐突に発しました。
例えば地震・台風・洪水・旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。
このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。
みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。
そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。
「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。
古代人の 生活というものは、風雪災害や飢饉・病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。
そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまことに殉教者以上の経験をしたことになるのです。
貴種流離譚というものが民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。
民衆が貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。
神は別に何もするわけではないのです。
しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜の贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。
これが古代人が神に対する時の態度です。
源内法師は身毒丸に無慈悲な折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに、無辜の殉教者の姿を見たのです。
『最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本の師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。
まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)
子供または弟子の能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。
それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』
折口がこのように語る時、折口は日本伝来の師弟関係のなかに、理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜の民衆の絶対的な関係をそこに重ねて見ているのです。
神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちをします。
我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽なものに思えます。
しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。
過酷な仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。
折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。
つまり、
神の理不尽な怒り(地震・台風・洪水・旱魃・冷害や飢饉・病気など)
→それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩む
「神よ、この清い私を見てくれ」
これが、古代の神と民衆の関係であり、師弟関係はこれをなぞっていると。
なるほど、自分がそういう目にあうのはいやだけど、ドラマや物語で接するとなんとなく納得してしまうのは、そういう古代からの宗教的な感覚が今も心の中にあるからなのかもしれない。
3)
まず念のため。私は特別にエリアを区切ったりといったゾーニングを求めてはいません。
写真にあったラノベで一番扇情的とされた表紙も書店がディスプレイに配慮する以上の必要は感じません。
シュナルムの写真はある書店でレジ横の平済みにたまたま少々扇情的なものが多かっただけだし
アニメの扇情性のある絵が特にキモがられるのは、性的なだけじゃ無く「不気味の谷」も関わっていると思うので。
それにシュナルム自身のツイートにも「(R18のように)売り場を分けろ」や「規制を掛けろ」といった要求は見つかりませんでした
どちらかというと、そういうこと言っていたのは湧いてきた「シュナルム同調派」と、オタク界隈の「自主規制派」でしょう。
私自身がアフター宮崎事件のオタクパッシングや幕張メッセのコミケ拒否を実際に体験してきて、
自主規制しないと潰されるという危機感を植え込まれてる世代ですし、自主規制派の気持ちも分かります。
でもゾーニングはもう今の時代には不要でしょう。のうりんだってコラボは無くなりませんでした。
文脈が読めない人に農業より性的なイメージを与える「唐突で意味不明な」ものだったのがデザイン的に悪かっただけで、
もし良田胡蝶がトラクターに載っていれば、上気してほてった顔も労働のもので健康的に見えたんじゃ無いかと。
ただ、相手が発言も要求していないことを「そのうちエスカレートするかも知れないから」
すでに言ったも同じだとするのは、議論としては「ルール違反」ではありますよね。
それに同調者の発言は同調者のもので分けないと、ネトウヨ(相手からの決めつけレッテル)VSパヨク(〃)のように
お互いに先走るバカの「仲間」だから同罪だと決めつける地獄になりかねないですから。
じゃあシュナルムの主張は正しい認めるのかと言われればそんなことは無く、不当性があると思います。
一番のポイントはみんな言ってますが「性的消費」のフレームを持ち込んで、ラノベ容認する人々を加害者だと決めつけたこと。
そもそも性的消費論自体が詭弁の一種だし、ここだけ叩けばいいんじゃないでしょうか。