はてなキーワード: 単純明快とは
皆さん、こんにちは。今回は「やる夫スレ」を紹介したいと思います。
やる夫スレを読むのは私の数少ない日課の一つです。皆さんとやる夫スレの素晴らしさを共有するのが今回の記事の目標です。
さて、やる夫スレは、創作の形態の一種です。現在、恐らく10年程度の歴史があります。
やる夫スレは、漫画に近い表現形態で、絵と文字(主に台詞)から成ります。その性質上物語が多くなりますが、漫画と同様、学ぶ系(学習漫画のように絵や登場人物の会話などを通してある事柄について紹介するやる夫スレ)というジャンルもあります。
ただし、絵といっても、普段皆さんが目にする絵師が描いたようなものではなく、アスキーアートです。
アスキーアートとは、文字を組み合わせて絵を表現したものです。anondではうまくアスキーアートを貼れなかったので、実際のアスキーアートがどんな感じか知りたい人は後で適当なやる夫スレを読んでみてください(この記事の最後で紹介します)。
なぜアスキーアートなのかというと、主に2つの理由があります。
まず第一に、やる夫スレは「掲示板」の上で公開されるものであるという点です。10年くらい前には色々な個人サイトに掲示板がありましたね。あれです。掲示板は、文字しか書き込めないので、絵を表現しようとすればアスキーアートを用いるしかありません。今の時代、掲示板、特にアスキーアートというと、「2ちゃんねる」を思い浮かべる人も減ってきているのでしょうか。やる夫スレは2ちゃんねるが発祥といっても恐らく間違いではないでしょうが、さまざまな経緯があり、現在は2ちゃんねるとはある程度独立し、やる夫スレ専用の掲示板がいくつも運営されています。ですから、「やる夫スレ=2ちゃんねる」というような誤解はしないでもらえると幸いです。
もう一つの理由は単純明快です。自分で絵を描けなくても漫画のような表現ができるからです。アスキーアートは多く存在し、また職人によって日々生産されています。アスキーアートはやる夫スレ作者のためにデータベース化されており、作者は膨大な数のアスキーアートを自由に使うことができます。アスキーアートというとキャラクターという印象が強いですが、その他にも背景・効果などさまざまな種類のアスキーアートが存在しています。
アスキーアートには元になる絵があり、そこからアスキーアートが作られる場合が多いです。従って、オリジナルのキャラクターは(2ちゃんねる発祥のものを除けば)ほとんど無く、アニメや漫画の登場キャラクター、実在人物、その他のアスキーアートがよく利用されます。キャラクターの設定はやる夫スレによって様々ですが、性格などは、出典の作品にひきずられることが多いようです。そのほうが違和感がありませんからね。逆に、動かして違和感のないキャラクターをやる夫スレの配役に抜擢するということが行われているようです。
ちなみに、「やる夫スレ」という名前ですが、これは初期のやる夫スレにおいて「やる夫」というキャラクターが主人公として抜擢されることが非常に多かったことに由来します。現在でも、やる夫を主人公とするスレは多く存在します。
また、「ゴブリンスレイヤー」というライトノベルをご存知でしょうか。実はあの作品は、もともとやる夫スレとして連載されていたものを作者が小説にアレンジして出版されたものです。非常に珍しい例であると言えるでしょう。
やる夫スレとはどんなものか分かっていただけたでしょうか。興味を持った、実際に読んでみたいという方もいるでしょう(いると嬉しいな)。この記事の最後で紹介しますのでお楽しみに。
やる夫スレはいくつかに分類することができます。例えば、連載の規模に応じて短編、長編などと言います。1回の投下(=掲示板に作品を投稿すること)で終わる読み切りのものから、1年以上にわたって連載される長編作品まであります。長期連載の場合、どのようなペースで投下が行われるかは作者次第です。毎日投下を行う作者もいれば、1週間に1回という作者もいます。また、1回の投下時間も数十分から数時間まで幅があります。(漫画で言うと、1回の投下時間が長いということは1回の掲載のページ数が多いことに相当します。)
また、特筆すべきやる夫スレの形態として「安価スレ」というものがあります。これは、読者参加型のやる夫スレです。
掲示板というのは、本来誰でも書き込めるものです。従って、やる夫スレが投下されている所には作者以外の人も書き込むことができます。これにより、投下中でも読者の合いの手が入るのもやる夫スレの特徴の1つです。
これを利用して、物語に読者が参加できるようにしたのが安価スレです。
具体的には、物語において選択肢が発生したとき、どの選択肢を選ぶかを読者に指定させます(自由記述の場合もあります)。例えば、「安価下5」などのように指定されます。これは、そのレス(=掲示板における書き込みの1単位)の5つ後に書き込まれたレスの意見を採用するということです。安価スレは、作者がゲームマスターとなり、ゲーム性の高いやる夫スレを演出することができます。安価をうまく捌いて物語を進行させるのは作者の腕の見せどころです。また、やる夫スレ用の掲示板にはダイス機能があり、これもさらにゲーム性を高めるのに一役買っています。
ただ、安価スレの問題点として、読者同士で意見が割れて喧嘩になる、リアルタイムで観ている読者が少ないと進行できない、おかしな選択肢ばかり選ぶ読者の存在などが挙げられます。最近では、これらを克服するために「あんこスレ」という派生系のやる夫スレを執筆する人もいます。
これは、読者に意見を求める代わりに、予め複数の選択肢を作者が用意しておき、前述のダイス機能によりその場で選択肢を選ぶという方式です。この方式では、読者が介在しないためやる夫スレが安定し、かつ意外性や作者のアドリブ力などを楽しむことができるというメリットがあります。
やる夫スレをまとめるブログというのも存在します。これは、掲示板に投稿されたやる夫スレを見やすくまとめて掲載しているブログです。まとめブログというと、いわゆる「アフィ」や「パクリブログ」として叩かれている印象が強いですが(そして、やる夫スレのまとめブログにも大抵広告はありますが)、やる夫スレの界隈においては少し事情が違います。
悪徳なブログもあるとはいえ、やる夫スレの作者および掲示板とまとめブログは概ね良好な関係を築いています。筆者も、やる夫スレは基本的にまとめブログで読んでいます。
まとめブログの存在は掲示板側にとってメリットとなる点もあります。それは主に、まとめブログは「一見さん」が掲示板に流入するのを水際で防いでいるという点です。これについては次の記事が詳しいです。元スレについて - このやる夫スレ、まとめてもよろしいですか?
要約すると、実際にやる夫系掲示板に参加するにはいくつか注意すべき点や独自のマナーがあるということです。そのようなものを守る気が無い人が掲示板に流入するのはとても困ります。まとめブログが掲示板をそのことから守っているという面もあるのです。
皆さんも、やる夫スレを読むならまずまとめブログから始めることをおすすめします。慣れてきてやる夫スレ(主に安価スレ)に参加したくなったら、掲示板のルールなどをよく調べてみましょう。特に、専ブラ(=専用ブラウザ。やる夫系掲示板を閲覧するための専用のツール)の導入は強く強く推奨します。
それでは実際に読んでみましょう。
これは最近できたアンテナサイトです。すごくアフィっぽくて嫌かもしれませんが、よく見るとリンクは全部やる夫スレのまとめブログです。タイトルを見て気になった作品があったら読んでみてください。続き物が多いですが、単発読み切りの作品もあります。続き物は大抵タイトルに話数が入っています。パッと見でよさそうと思ったら一話から読むことをおすすめします。まとめブログなので、カテゴリ別などで分かりやすくまとまっているはずです。
もはやそれ以上の理由がないくらいにゲームというのは至極単純明快なのだ。
「面白ければ」そこにいくらでもマネーを使わせる施策を上乗せすることができる。
過去に大ヒットしたゲームはジャンルの穴をついたり総合的な完成度の高さでストレスを感じさせない仕組みであったり
当時他の追従を許さないポジションを獲得し「真似できない面白さ」を提供した。
例えそれがソシャゲのような射幸心を煽る内容であっても間違いなく楽しませて面白いと思わせている瞬間がある。
ゲームは「面白い」ことが最優先目標であり、利益を生むために果たさなければいけない責務である。
主張といってもピンキリで「自分のポジションの宣言」しかしない人がいます。
何を語るにしても根拠が「自分がこっちだから」「あいつらは間違ってるから」しかないと人のことです。こういう人は「対比する相手」がいないと自分の正しさを主張できない。
論理が単純明快どころか論理そのものがありません。結論しかありません。ここまで中身すっかすかならバカでも言ってることは理解できるでしょう。
こういう人はWebの一部の界隈では「炎上的な」人気は得やすい。敵か味方かでしか考えられない人はいます。そういう、自分とポジションさえ同じなら論理なんていらないって人は、深く考えずに賛成してくれるでしょう。
逆に、論理を重視する人は、その論理不在の結論だけの文章にいら立ちを感じて批判するでしょう。でも、自分の正しさを疑わず、自分のを批判する奴のことは無視し続ければいい。
しかし、ポジションの表明しかない人は、同じポジションの人にしか支持されない。いつまでたっても「マイナーな人」「ニッチな人」にしかなれないと思います。
そして、「ポジションを明確にする」ことによって支持される人は、それだけだとポジションが違う人からにはまったく支持されないし嫌われます。
それでいいと割り切ってるならよいんです。やぎろぐさんとかイケダハヤトさんは、あくまで「ポジションをとること」だけを重視している。むしろそういう「ポジションしか気にしない読者」こそを求めているのでしょう。とりあえず雑に「会社批判」や「定住生活」についてDISっていれば、その結論だけに飛びつく人は少なくない。「オンラインサロン」なんてやるのであれば、そういう人を相手にすることが商売としては大事だってことですね。
ところが、彼らほど覚悟ができてない、自分の主張がただのポジショントークであるという自覚すら持てないほど頭の悪いブロガーがちらほらいます。
ここで「人を批判するな」とか言い出したらこれはただのダメな人ですね。だったらまずお前がポジショントークしながら人を批判するのやめろ、って言葉が返ってくる光景が目に浮かびます。自分に都合のよいポジショントークするだけでフィードバックも受け取らないんだから話になりません。そんなものはただの社会性のないガキの主張であって、こういう人が主張する「ぼくがかんがえたさいきょうのじゆう」は、「俺の好き勝手にさせろ。責任なんてとらねえ」という幼稚なものです。
ガキのたわごとを真剣に受け取る大人はいません。「もうちょっとよく考えてから出直して来い」としか扱われないでしょう。
もちろん、本気で発言したらなんでもポジショントークになるとは思う。自分のポジションに基づかない発言に魂を込めることなどできないと思う。でも、そのポジショントークを「誰に」「どうやって伝えるか」は人によって大きく違うんじゃないでしょうか。
「ポジションが違っても一定の説得力がある」文章を書きたいなら、自分とポジションが違う人にいちいち喧嘩を売ったり否定しなくても読んだ人が納得できるように書いたほうが良いでしょう。
ま、こういう人は、文章を書くこと自体が好きな人でしょうけれど。文章なんて、目立てばよくて、そこからバカが釣れさえすればよくて、炎上してロボットに好かれるほうがよくて、そんな考えの人は、主張なんてほんとはないんです。炎上しさえすればいいんです。そんなやつを相手にするほうが悪いんです。
もちろん様々な理由があるけれど、手軽に説明できる例として、私は「水曜日」を挙げている。英語で書いてみようか。
WEDNESDAY
さあ、読んでみよう。……うぇどねすでい?
WE「D」N「E」SDAY
括弧の部分は“発音しない”。
なぜ発音しないアルファベットを書くのか、発音する「E」と発音しない「E」の違いとは。法則性があるのか。大半の人が経験したであろう“躓き”だ。ほとんどの人は、この「水曜日」で英語を学ぶことに対して精神的障壁が出来る。
何かを学ぶ際、例えば算数だと方式だとか、いわゆる“パターン”を見出すよな。「1+1=2」を学んだ際、それとは別に「2+2=4」とかを学ぶ必要はない。だって、足し算を覚えればできるんだから。
言語も同じで、読み方や書き方に法則性を見出せば、その単語そのものを知らなくても大抵は読めたりする。その単語の意味を学ぶだけでいい。つまり、アルファベットの書き方と読み方を覚えれば、それを組み合わせた単語も読めるはずだ。と思った矢先に「水曜日」というよく使いそうな単語で「発音しないアルファベットがある」、更に「法則性もない」という“例外”をぶち込んでくる。
この“例外”の厄介なところは、「発音しないアルファベットが存在する」ということだけしか学べないところだ。法則性がなく、本当の意味で“例外”なのだ。なのでその都度、「発音しないアルファベットが存在する単語」の読み書き(そしてその単語のもつ意味も含めて)覚えないといけない。平面な道に一部だけ凹凸があるような、これら“例外”は学ぶ側に負担を与える。
この後も、「BERRY」などで「なぜ『R』が2ついるんだ?」となる。そして「BURY」という綴りが違うのに発音が全く同じ単語が登場し、「なぜ同じ発音なんだ」、「なぜ『BURY』の方は『R』が一個だけなんだ」、「こんなことになるなら、『無発音』という概念いらないだろ」と激昂するのは誰もが通る道だろう。
次点では、「MAN」の複数形が「MEN」、「複数形だけど単数形と同じ綴り」という単語などの登場が共感できるところだろうか。
もう分かっただろう。英語が学ばれにくい理由は単純明快。言語として洗練されていないからだ。つまり覚えにくい。
なにせ英語は様々な国の言語がもとになっており、いわばキメラ生命体。それで洗練されていたとしたら奇跡というほかない。そして、英語は特にそれが顕著なだけで、ほとんどの国の言語はそこまで洗練されていない。
もちろん、日本語だってお世辞にも洗練されているとはいえない。けれど、私たち日本に住んでいる人はそれを日常で使っているから、多少の違和は受け入れられる。更にいえば世界共通語ではないから、別に洗練されていなくてもいい。別の国の人に無理して学んで貰う必要がないのだから。
ちなみに、上記の例は本国の人がしていた話を参考にした。つまり、英語に慣れ親しんでいる人ですら、不満の多い言語ということだ。本国の人ですら不満の出る言語を、他国の人がうまく学べないからといって、個人の問題で片付けてしまうのは間違っていると私は考える。
英語を世界共通語にしなければいいのか、という話ではない。英語は洗練されていない。だから覚えにくい。という前提を共通認識にしようという話だ。それを踏まえたとき、今の「英語の勉強のさせ方」ももう少し最適化されていくのではないだろうか、というのが私の淡い期待だ。
そろそろ学生たちは就職活動の時期なので、季節ネタを書こうと思う。匿名で。
まぁ、タイトルの通りなのだが、就活には「面接」というものがあり、
その面接というものは、相手の立場になると簡単に突破できるという話だ。
はてなを見ているような人達は、恐らく面接が苦手なのではないかと思う(おい)
まず、就職活動において面接というのは1社につき2回~3回ぐらいある。
なぜこんなに面接回数があるのかと疑問に思ったことは無いだろうか?
その理由は単純明快で、要は偉い人達の面接回数を減らすためにある。
偉い人達は忙しい。よって時間がない。そのため下っ端がスクリーニングするのだ。
■ 面接官の分類
② 人事(下っ端)
③ 人事(管理職)
②について疑問に思う人も居るかもしれないが、面接官を派遣するビジネスでやってる人達のこと。
大手企業などではたまに見かけることがある。要は面接のプロである。
この話で言いたいのは、面接官タイプによって見るべきところ、合格にするポイントが異なるということである。
①「あー、めんどくせぇ、マニュアルに書いてる条件で選べばいいんだろ?」
「こいつは学歴がいいから+10、どもりすぎ-5、簿記3級+1、学生時代に取り組んだことがバイトかよ+-0」
「夕飯は焼き鳥にすっかな」
②「うわあ緊張するわ。まさか俺が面接官やることになるとはなぁ」
「あれだな、『どうしてこいつを合格にした?』って聞かれたら答えられる人物を通せばいいんだろうな」
③「最近、数年で辞める社員が多くて、現場から『すぐに辞める奴を入れるな』って言われてんだよな」
「精神力の高い人間を重視した方がいいのかもな。しかし圧迫面接すると悪評立つし難しいわ」
「あと役員面接で『どうしてこいつを合格にした?』って聞かれたら答えられる人物を通さないと」
④技術「おっ技術系か、技術の話ができないと話しにならないからな。ちょっと試してやろう」
営業「営業か?営業ってのは体力なんだよ。スポーツやってたか?会話力は?異性と付き合えない奴はダメだ」
⑤「ここまで絞ったんだから、もういいだろ。比較的悪いやつを不合格にする必要あるだろうけどな」
■ ①~③人事
おわかりだろうか?
①~③は下っ端や中間管理職なので上からの苦言を常に危惧している。
この人達は、基本的に自己保身で仕事をしているので、上からお叱りを受けないよう、合格にする基準も保身で選ぶ。
偉い人達も千差万別なので怒りポイントが異なるのだが、多数派が賛成するように選んでおけば良い。誰かが擁護してくれる。
このため、変なことを口走る人間は合格にならないし、一般的に悪い答えとされる回答を口走ると不合格になる。
声が小さかったり、特技がイオナズンだったり、志望動機が家に近いだとかだとアウトだ。
この手の人事面接等を通過したいなら、就活本よりも人事向けの本を読むと良い
人事が合格にする基準を知っておけば、あっさりと1次面接は合格できる。
http://www.amazon.co.jp/dp/4863261683/
http://www.amazon.co.jp/dp/4471212672/
基本的に突っ込んだことを聞かれるため、その手の仕事に対する適正と知識があれば簡単に通る。
会話のしやすさを意識することと、自分の実績を予習しておいてアピールすけば良い。
■ ⑤役員
使えるか、使えないか、払う給与以上の仕事ができるかを見てくる。
経営目線が求められるので、金をどう稼ぐのかとか、コスト意識を持っていれば容易である。
あとは①~④と同じことを言っていればいい。
なお、ベンチャー系社長・役員の場合は④と似たようなことを聞いてくる
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さて、いかがだっただろうか?
Enjoy job hunting!!
真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
死んだ目とは、精神に何らかの異常をきたしたときになるとされているが、具体的にどんな目かは「大体のニュアンス」としか答えようがない。
眼力が弱くなっているだとか、覇気がないだとか、非科学的だが見れば分かる。らしい。
つまり見分けがつかないということは、君の見てきたサラリーマンは全て死んだ目をしているから見分けがつかないんじゃないかな。
まあ実際のところは、「目は口ほどにものを言う」というように、人の心情を表層的に語る上で便利だからというのが主な理由だろう。
私も「死んだ目をしている」とか、「人殺しの目をしている」とか言われて、思い当たる節がなくて困惑したことがあるね。
例えば、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の監督であるジョージ・ミラーは老人だ。
老人があそこまでエネルギッシュな映画を作ることを意外と感じもするし、ある意味で懐古的なアクションシーンや単純明快なプロットに納得もする。
また、「ハッピフィート」や「ベイブ/都会へ行く」と同じ監督だと知ると、より印象も変わってくるだろうな。
もちろん映画を楽しむ上で、監督や脚本、役者やその他スタッフなどを知っている必要はない。
だが、楽しみ方の一つとして、そういう側面もあるということは知っておくといい。
営業ってネガティブなこと言われることが多くて、不思議に思ったんだ。
私は、メーカー営業をやってる。まだまだ若輩者だけれど、この仕事が好きだなと思うことが多い。理由は5つ。
1.お金を稼ぐことは楽しい。目標があって、目に見えて自分の仕事の成果が数字になって表れる。単純明快で、分かりやすい。
2.自分が商品を売らないことには、会社の人たちや関わってる人達が、おまんま食えなくなる。責任感があって、良い。
3.景気の動向が体感できる。経済と言う化け物は、本当に読めない、有象無象のものだ。それがめっちゃ面白い。けど、不景気はつらいな。
4.人といっぱい会える。いろんな人がいて、その人達が本当に一生懸命色々なことを考えている。その考えに触れられるのが楽しい。
5.自分が売っている製品が、この世の中を少しでも変える力になる。ちょっと安全になったり、便利になったり。ちょっと夢がある。良い。
人と話すがとにかく苦手だったけど、本当に営業楽しい。トラブル続きでお叱りを散々受けて、辛いこともあるけど。もっとずっと、頑張れたらいいなと思う。
Firefoxを更新したら、「世界で一番よく使われているあとで読むサービス「Pocket」がFirefoxに統合されました。Firefoxアカウントでサインインするだけで、ブログやニュースの記事や動画などをPocketに保存できます。保存したものは、いつでも、どこからでも見ることが可能です」だって。
SBMの本来の目的はタグ付けでまとめて分類すること(フォークソノミー)であって、コメント欄でやり合って罵詈雑言だらけになるはてブは、SBMの本来の目的から大きく外れてるわけよ。アメリカでもコメント欄の閉鎖が続いているし(はてブのような罵詈雑言が問題になって)、SBMの主目的から大きく外れたはてブの存在価値はコメント欄でのクズだの言うことなのか?
Pocketはタグ付けもできし、あとで読むこともできるし、はてブのコメント欄での下劣なやり取りはないし、スマート(賢い)ユーザーほど、はてブでなく、Pocketを使うだろ。
「Pocket for Firefox は現在、Firefox 41 以降のチェコ語版、オランダ語版、英語版 (米国、英国、南アフリカ)、フランス語版、ドイツ語版、ロシア語版、スペイン語版 (スペイン、メキシコ)、ハンガリー語版、イタリア語版、日本語版、韓国語版、ポーランド語版、ポルトガル語版 (ブラジル、ポルトガル) および中国語版 (繁体字、簡体字) で利用できます」
↑
結構あるな。ところで、はてブって、日本語圏で閉じたSBMとは名ばかりのSBMと離れたコメント罵倒の場だよな。100文字で議論(笑)したつもりで、結局、罵倒のし合いのコメントだらけ。FirefoxでPocketボタンが独立してあるし、スマートなユーザーならこっちを使うわな。
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20151219184556
id:ider_kondo え、はてブってSNSでしょ? 「あとで読む」って何? 確かにはてブにそういうタグがあるのは知ってるけど、それって「この記事は読まない」って宣言の一種でしょ? 違うの?
こんなコメントにスターが付きまくるのが、はてブのレベルの低さ。
はてブって何の略だ?はてなブックマークだろ。はてなブックマークってのはソーシャルブックマークだろ。
ソーシャルブックマークってのはな、こんな意味不明なコメントや罵倒コメントするところじゃなく、
ソーシャルブックマークではなく罵倒が主になってるコメントだから、
SBMでなく、罵倒コメントの場で、はてブは罵倒場とでも名称を変えたほうがいいな。
それに、SNSならもっとコメントでやりとりできるようにするだろ。
twitterみたいにな。
100文字以内で一方的に単純明快な罵倒するような仕組みになってるよな。
コメントを見ると、フォークソノミーの意味が分かってないコメントだらけで笑った。
http://anond.hatelabo.jp/20151214115737
まさか、twitterも文字制限があるだろとか言わないよな。
はてブと違うのはtwitterはツイートを連続してつなげられるわけ。
全く違うな。
これを書いた後で調べてみたら、はてブはかなりやばいことをしてきてるんだな。
Pocketは、スパイウェア、マルウェアをはてブボタンに埋め込むことなどしてないので、
http://ja.wikipedia.org/wiki/はてなのサービス一覧
無断でトラッキングを行うことは機能的にはマルウェアやスパイウェアと同じであり、はてなの「企業・技術者の倫理観」に対する懸念が広がった。
https://twitter.com/HiromitsuTakagi/status/178146151344783360
特に悪質なのは、仕掛けなしの当該ボタンが広範に普及した頃合いを見計らって、後からトラッキングの仕掛けを注入してきたこと。まさに騙し討ち。悪質極まりない。 .js 埋め込みパーツが突如マルウェア化する危険性を体現している。
「はてなブックマークボタンの行動情報取得と第三者への提供」周辺(「停止」公表)
メタブを知らないとか言ってるのがいるが、メタブで「議論」するつもりなのか。
1ページに100文字制限があるページでメタブしまくって、メタブってのはまさにうんこの投げあいの場だが、
劇場版『ハーモニー』の公開から一週間が経過し、『ハーモニー』LINEスタンプとか『ハーモニー』Tシャツといった危険信号を無視して戦場に足を踏みいれたオタクも大半が死んだ。不満はいろいろとみかけるが、もっとも多いのは「謎のピンクの日本」と「ラストの『愛してる』」のふたつのようだ。ところがどっこい、このふたつは同じものである。
賢明なる読者におかれてはマイケル・ラザフォードの『1984』を思いだしていただきたい。本作においてはビッグ・ブラザーの支配する全体主義国家がモノトーンに近い暗い色調で、対照的にウィンストンが恋人と逢引きするシークエンスが鮮やかな色調で撮影されている。原作ではこいつらが明るくて前向きの元気ハツラツの若者だったら全人類のハーモニクスはおきなかったといわんばかりの〈次世代ヒト行動特性記述ワーキンググループ〉の老人たちが、劇場版では思わぬ躍進をとげ、全人類の情報をにぎり管理する巨魁となっていた驚きはまだ記憶にあたらしいと思う。そう、劇場版『ハーモニー』の主題は全体主義との対決なのである。「『ハーモニー』のテーマは全体主義との対決じゃないだろ」といわれても、それは脚本を書いた山本幸治にいってほしい。となると日本がピンクの単色で描かれていた理由もわかろうというものだ。対照的に学生時代の回想は背景の自然を強調して鮮やかな色彩で描かれている。劇場版ではトァンとミァハはAからはじまりセックスまでしているのが、いかにも国家と個人の対立らしい。『1984』でウィンストンと恋人は逢引きするたびにセックスして、むしろセックスするために会っているのではないか、さすが1948年、現代の草食系の若者とはちがうと思うがそれはどうでもいい。
劇場版をみてなんで意識を消滅させるかわからなかった観客も多いようだが、それもそのはず、意識を消滅させる根本の動機である生命主義社会への違和感とか、生きづらさにたいするトァンの独白はばっさりカットされている。劇場版で意識を消滅させるのは、単純明快に「ヤツらに管理されない」という〈次世代~〉の老人たちへの反逆である。シュタウフェンベルクはその手先なのでもちろん同情の余地はないし『働きマン』の上司よろしく最後の最後で態度を変えてトァンをねぎらったりもしない。というわけで、根本的に意識を失いたくはないわけである。しかし〈次世代~〉の老人たちの管理支配体制を脱するために意識は消滅させなければならなくて、トァンが「でもミァハは、私が好きだったミァハのままでいて。愛してる、ミァハ」といってミァハを射殺するわけである。なので、『Ghost of smile』の歌詞も惜別を唄うものとなっている。死んで悲しむくらいなら殺すまえに意識を失っても生きていたいかどうか確認くらいしたらとツッコむのは無粋である。
では劇場版『ハーモニー』は原作とはちがうはなしなのかといわれたらそのとおりである。とはいえマーケティングを考えれば当然で、J・G・バラードにならった個人の精神世界がそのまま世界に直結する内宇宙(インナー・スペース)の物語でも、ノイタミナをみている女子大生に「生きづらいから全人類の意識を消滅させる」といったら、「ナイーヴすぎる」とか「周りがみえてない」とか「『ガキ使』をみれば意識が必要だってわかるよ」とかいわれて終わりである。もし「テクノロジーと情報過剰の帰結として自動車事故でセックスを疑似体験する」などといおうものなら、「なにそれ。キモ」といわれるのがオチである。
それでは劇場版『ハーモニー』が原作への理解にもとづいて制作される可能性はなかったのか。たとえばタルコフスキー監督である。リリシズムと内宇宙(インナー・スペース)への理解があり、ついでに日本通のタルコフスキーなら『ハーモニー』を完璧に映画化してくれるにちがいない。タルコフスキーなら映画を『007』さながらのニジェールのドンパチではじめたりはしないだろう。学生時代のトァンが自宅でふつうに起居するところからはじめて日常生活をしばらく撮影するにちがいない。そしてトァンと出会うシーンになるが、だいたいこんなカットのはずだ。
①ベンチに座るミァハ(遠い)
②トァンの後ろ姿
① ② ③
そこでミァハとの会話がはじまる。途中からキアンもくわわるが、ともあれえんえん一時間くらいずっと会話がつづく。そこでようやく十三年後になりキアンが自殺する。トァンも政府高官だとわかるだけで詳しい説明はないだろう。物語が淡々と進んでコーカサスに登攀し、なんか濛々たる霧に覆われて半分くらいみえなくなっているバンカーにはいる。もちろん内部は水浸しだ。ミァハとトァンの対話がはじまるが、水中に没している十字架を写すカットが意味深に挿入され、「ちょっと待ってくれ」といいたくなるが映画はとまらない。ミァハとトァンの対話がまた長い。そして最後で唐突にトァンがミァハを射殺し、瀕死のミァハをずるずると屋外まで引きずっていって、だんだん白霧が濃くなってゆきホワイトアウトする。ショットが替わり、チェチェンの広大な大地を少女が遠景に去ってゆくところを長々と写し、クレジットが表示される。BGMに思いっきりヘンデルの「メサイヤ」が流れ、オタクたちが「やっぱり宗教モチーフで全人類のハーモニクスが『最後の審判』に読み替えられてたじゃねえか!」といきりたつが当のタルコフスキーは原作者と同じく夭折していてこの世にいない。いたらいたでコーカサス山脈に撮影に都合のいい海や湖がないからブチ切れそうだ。というかミァハたちの会話がえんえんと一時間もつづく劇場版『ハーモニー』なんてどう考えてもつまらないし、正直なところ①②③とか書きはじめたあたりからどうでもよくなっていた。劇場版『ハーモニー』はあれはあれでいいと思う。
http://anond.hatelabo.jp/20151108234357
1)ゴール系球技
敵味方に分かれて、方形や円形に仕切られた空間にボールを通すことを目的にする球技。
たまに線上をボール保持した選手が通過しただけで点になるヤツもあるが、あれも元は「通過することでボールを通す権利を得る」ことだった。
ボールを通すことを妨害するために強力なコンタクトが発生するのが特徴で(例外として、相互コンタクトを一切禁止するゴール系球技も存在する。競技名は「玉入れ」という)、その派手さとチーム戦術のダイナミックさゆえに最も人気のある球技。
相手方の対応可能な範囲に、ボールを空中に浮かせて送り込み、それを相互に返し続けることを目的にする球技。
勝敗を絡める場合は、対応可能なボールを送れなかった、対応可能な範囲のボールを処理できなかった、一定の高さを越えられなかった(この定義のためにネットが競技場に存在する場合が多いが、例外として「羽子板」というネットの無いラリー系球技もある)、という失策に対するペナルティを得点として換算するので「相手に打たせない」ことが目的に見えるが、本質的にはラリーが続くことを理想状態とするのが、ゴール系球技との大きな差異である。また、1対1でも試合形式を行うことが可能で趣味として簡便だが、見世物としてはゴール系より若干地味。
ボールに対する操作をルールとして定義し、それを達成することに対して相応のポイントを獲得することを目的にする球技。
時に達成の定義として円形に仕切られた空間にボールを入れることを伴うが、手球へのコンタクトは競技者間で完全に独立してかつ止まった状態からの操作に限定され、ボールを争うことはなく、むしろ精密性が問われる、かなり地味な競技である。その他、ボールを当てる数のみを競うパターン、ボールを特定エリアに置く数を競うパターンなど競技バリエーションは割と多い。対人ルールで行われる際は、精密さと同時に駆け引きが重要となり、チェスに擬せられることもある。
傾向として(ラリー系競技とは逆に)ボールを転がすものが多いが、例えば大玉転がしのように浮かせるプロセスが入ったりゴルフのように長距離の場合はボールを飛翔させることもある。
相手方に対して狙撃としてボールを射出し、殲滅したり敵の数を減らしたところで旗を奪ったりすることを目的にする球技。
遊戯としては戦闘行為としてプリミティブなきらいがあるため、メジャー競技であることは少ないが、単純明快遊戯として子供を中心に楽しまれる。
ドッジボールと雪合戦が代表的だが、ある意味ペイントボール辺りも有資格者ではあるか。
これらの球技はある意味、鬼ごっこという余りボールと関係のない遊戯にラリー系球技の要素を付加したものとは言えよう。
しかし、上にラリー系球技の特徴として「相互に返し続ける」ことを目的にしていると書いたが、これらの競技では投球に対する打撃という形で、非対称な形態を取るので「ラリー」にはならない辺りが、根本的に逆行している。にもかかわらず、ある種の「打ち返せなかったペナルティ」としてのアウトや、「打球を処理できなかったペナルティ」としてのヒットにより試合が進むという点では、ラリー系球技の得点パターンを踏襲している面もあるのだ。
また、例えば校庭で女子中学生が輪を作ってバレーボールのトス上げたり、蹴鞠で貴族がボールを蹴り合ったりするようなものと近い感じで、野球ではキャッチボールなどが「ラリー的なもの」として基礎練習において尊重されるのは、こうしたラリー系の精神を引き継いだものではあるのだろう。
その意味では、広義のラリー系球技に野球は含まれるべきなのだが、一方で完全に「ラリー系球技の鬼子」と言うべき立場であるのが、特異性であるとは言える。
ただ、その特異性ゆえに、多くの球技において禁じ手となっているところの「手でボールを操作する」行為に対して非常に自由度が高いのも特徴であろう。この手のまだるっこしさを排除したスポーツとしてはアメリカンフットボールも相当に自由度が高いが、あれはあれで前パスは各ダウン1回しか出来ないし未登録レシーバーがダウンフィールドでボールを獲れないとか制約はあり、野球の自由度よりは低い。
その「投げる」自由さの代償として、その自由さを定義する中での競技者の関係の特殊性やルールの複雑さが存在する訳だが、ともかくも手という最も人間が頼りにする部位でボールを掴んでプレーしたりそれを相手に走り回ったりすることが、野球の「球技」としてのエッセンスではあろうな、とも。
エロゲの有名作品をいくつかやってみたけど、純文学や前衛的な現代文学とクロスオーバーを自覚的に試みているような作品は存在しないと思う。
文学的に頑張ってるエロゲ作品って海外のハードSFやハイファンタジー、日本のミステリの新本格(特に京極夏彦とか)等を美少女とのセックスや俺TUEE!系の中二病設定などの砂糖菓子でコーティングした劣化コピーという印象だった。
むしろ当時、文学に対して真面目でストイックなオタクはエロゲの作り手やユーザーを見下す傾向にあったと思う(故・伊藤計畫とか)エロゲのイラスト等ビジュアル方面にしてもハイエンド系に影響を受けた世代のhukeなんかは自身のブログで「エロゲからは絶対に影響を受けない」と拒絶の意思を表明していた。
そう言った事実から意識の高いオタクはハイエンド系ブームを支持し、エロゲブームは絵が理解できない低リテラシーなヌルいオタク達のなんちゃって選民思想表明で正解だと思う。
ただKeyのAirとかは文学的にポンコツで稚拙過ぎて逆にアンチ文学としてものすごい凄みを持ってしまった作品のような気がする(映画で言うと塚本晋也の初期作品のような)。
大多数は無垢で純粋な美少女が死ぬ単純明快な感動ポルノなプロットで泣きながらオナニーするような豚野郎だったと思うけれど、ヒロインの名台詞「永遠はあるよ」を始めとする要所要所の演出により稚拙ないたる絵のグラフィックを映し出すパソコンモニタの向こう側に永遠を見出してしまうナイーブな性格で高リテラシーなオタク層である沙村広明や西E田がいたのも事実だ。
もっとエロゲやオタク事情に詳しいKanose大先生あたりに余裕ぶっこいてないでさっさと当時のムーブメントの詳しい解説や反論をして欲しいですね。
このエントリはいわゆる「祈られた」新卒が大手がやった面接の愚痴をネットの各所で書き込んで居るため、その反論と申しますか「ちょっと認識誤ってるよキミ」的なアドバイスのつもりで書かせて頂いたものです。
まず、いまさら語るまでも無くほとんどの企業は営利目的に経営されています。
しかしながら多くの新卒はこの点に結構盲目的なんだなと感じて居ます。私自身も学生の時はふわっとした認識しか持っていなかったので現時点で認識に誤りがあるのは仕方無いという感情もありますがね。
大前提として営利企業は稼がなければならないんです。稼がなければならないという面をよーく深く考えると企業が本当に欲しい人材、逃したくない人材の姿も見えてくるはずなのです。
ハッキリと言ってしまえば企業が欲しい人材とは金銭的利益をあげられる人材です。これはもう本当に当たり前の話で、新卒からの「んなこと解ってんだよオッサン!」みたいな怒声が聞こえてくる気がしますね。
しかしながら冷静にこの項目の見出しをよく見てみましょう。そうですね「稼いでる人材」なのです。勘違いしやすいですが今回の場合は「稼げる人材」ではない。
確かに営利企業として「稼げる人材」というのは「欲しい人材」の一部ではありますが、決してそれは「最も欲しい人材」ではないのです。
この「稼いでる人材」というのはアルバイトをしているという意味ではなく、どちらかと言えば学業と平行して副業的に稼ぎを継続的に出している人材ということです、
この「稼いでる人材」が「最も欲しい人材」となるプロセスも非常に単純明快で「既に稼いでいるのなら就職後も稼ぐだろう」というものです。
営利企業ですから「稼いでる人材」を入社させるだけで会社は売上をプラスに出来ます。しかも新卒だから人件費も安い。
皆さんも理解しているでしょうが本当に当たり前の話で、営利企業ならこういう人材を採用しないわけないじゃないですか。求人に関する経費などは別にして「既に稼いでるキミ、ウチに来てよ」って言うだけならタダなわけですしね。
ここまでの話を本当に理解出来ているのならば例えば「サークルの部長を経験し、イベントを企画し運営する中で、大勢のスタッフを統括する難しさを学びました」なんていう自己PRは営利企業側が求めている回答では無いと解るはずです。
面接官は「サークルの部長をやると成長する」とか「イベントを企画するのって面白いけど大変だよね」とか「他人って上手く動かないよなぁ」ってのは知ってます。
「部長やってました」と言われても「そうか大変だったね」としか感想はありませんし、そもそも新卒側が面接官にそう感じて貰うことを期待している。これではまるで台本のある舞台コントのようで全く印象に残りません。
営利企業は稼がなければならないと理解しているのならば、こんな同情を誘うような舞台コントでその企業が稼げると思いますか?演劇をしたいのならば芸能界にでも進んで下さい。
研究職でも同じで「○○という研究で××という成果が出ました」と言われても面接官は「はいそうですか凄いね成果が出たんだ良かったね」ってだけなんです。これも舞台コントです。
イベント系サークルで企業が求める回答を示すのならば「サークル活動の中で○○という需要があることに気付き、需要に合わせたイベントを企画し、予算は××万で、スタッフ△△人を使ってのイベント開催の結果、顧客動員□□人、売上が**万でした」と言うのが正しい。
これを聞けば面接官は自社の商材を考慮しつつ利益率などを察し、より具体的な質問を、例えば「広報はどうしたの?」などとを投げかけてくるはずです。
面接官が興味を持つ理由も明白ですよね?営利企業だから「既に"稼いでいる"実績があるのならば場合によっては自社の資本力でグレードアップしたイベントを行なえるかも知れない」と考えるからです。
研究職でも同じで研究結果の他に「テスト環境システムのデジタル面での自動化、アナログ面での効率化を提案し進捗速度の○○%の向上を果たしたことによって経費××%の削減を実現しました」なんて言う自己PRだと面接官は「どういうシステムにしたの?」と前のめりで聞いてくるはずです。
近年のWeb界隈では「Webサービス作ってみた」や「ゲーム作ってみた」などが頻繁に報告されています。内容は「家具作ってみた」でも良いですし「絵を描いてみた」でも良いんですけどね。
もしこれらで大きな反響を得て、稼いだ実績を残したのならば業種の相性さえ合致していれば営利企業からするとそれは「最も欲しい人材」に他なりません。「イベントやってみた」というのもそうですし「研究やってみた」というのもそうなんです。
新卒の多くが勘違いしていますが企業の言う「即戦力」とは「Aが出来る人材」ということではなく「AによってBを既に行なった実績のある人材」のことです。この辺りは学校機関も「即戦力の人材を育てる」と言って何だか勘違いしてますが。
例えば株式会社はてなからすると「既にWebサービスを運営していてある程度の数字を出している新卒」などは逃すまいと躍起になるはずです。株式会社はてなはWebサービスが主要の収益要素なのですからそんな実績ある新卒が居たらカモネギにしか見えてません。
株式会社はてなは「しめしめ・・・馬鹿な鴨(新卒)が葱を背負って来おったわい」と内心思いながら面接を行なうはずです。
実績は評価されますし、評価されて然るべきものです。もし実績を評価しない会社があったら入社すべきではないですし、そんな会社は未来がありません。
過去の実績が評価されるからこそ学歴は重要視されますし、もし面接に来た全ての新卒が「稼いでる人材」じゃなかったとき学歴が判断基準になるのは明白です。なぜなら高学歴ほど色々知っていて「稼げる人材」である可能性が高いですから。
逆に言えば高学歴なのに祈られた場合は他の新卒の中に「稼いでる人材」が居たからでしょう。過去の実績と未来に約束された実績双方を「稼いでる人材」は持っているからです。
「やってみた系即戦力」は就職において圧倒的な強さを持つという点を新卒は理解しなければなりません。
もし自身が「やってみた系即戦力」ではないと理解している場合は営利企業にとって「利益ある将来のビジョンを示すこと」以外に勝負する方法はありません。
利益ある将来のビジョンとはすなわち「事業企画の持ち込み」です。企業へ対して未来に約束された実績を見せることこそが希望する会社へ入る唯一のコツと言えると思います。
例えば「御社の○○という事業に感銘を受けまして、顧客をより多く獲得するため、それを更に"改良する案"を日々考え続け、本日御社の面接を受けさせて頂きました」くらいを言えなければなりません。
もちろん面接官はこう言われると「改良する案とは?」と食い付いて来ます。ここでアナタはしっかりとした事業企画を話さなければならないのです。
もしこれすら出来ない、もしくはこれすらやる気がなく、かつ、低学歴という自覚があるのならアナタの就活は終わらないでしょう。それか全く今現在希望していない会社へ入らなければならなくなります。
アナタのライバルは「やってみた系即戦力」や「事業企画案を出せる人」「高学歴」だと言うことに早めに気が付いた方が良いです。これがいわゆる「優秀な人」や「欲しい人材」の中身なのですから。
5個入りのお菓子があってその場に5人いれば、普通は「自分にデフォルトで許された取り分は1つで、それ以上食べたければ場にいる人との交渉が必要になる」という意識が働く。
大皿に盛られたおかずがあってその場に2人以上いれば、普通は「その場にいる人全員が一定量を食べられるよう見計らいながら食べる。独り占めをしてはいけない」という意識が働く。
どうやら世の中にはこの単純明快な機能を身につけていない人が相当数いるようである。
この手の話で最も有名なエピソードとして挙げられるのは「震災のおにぎりの話」であろう。
被災した4人家族の一家に、ひとり1個ずつ合計4個のおにぎりが配給された。ところが一家の父親は4個のうち3個を妻子の前であっという間に平らげてしまった。困惑した妻が「私たちの分は……?」と尋ねると、ようやく残り1つを「食べる?」と差し出したという話で、真偽は不明だが「震災離婚の原因の一例」としてネット上では広く流布されている。
同種の話はネット上には枚挙に暇がなく『大量に作り置いた好物の唐揚げを、突然訪問して来た彼氏に有無を言わさず大半喰い尽くされたので別れた』『食事に行くと、割勘なのに出て来る料理の大半を彼氏が食べ尽くしてしまう』『大皿でおかずを出すと、夫が他の家族の分を考えずおかずの9割を食べる』『夫が戸棚に隠していた子供のおやつや誕生日ケーキを勝手に食べて子供を泣かせた』等、様々なシチュエーションでこの手の被害が報告されている。
先天的にそのような気質の持ち主なのか、躾や教育の関係でそのように育ってしまったのかは判然としないが、この病に罹患しているのはどういう訳か圧倒的多数が男性のようだ。
「男児は『好きなだけ食べなさい』と甘やかされやすいのでは」「逆に兄弟の多い家庭で食べ物を取り合って育ったので食物に執着しやすいのでは」等、理由については色々と推察されているが、性差以外ではハッキリ断言できるほど大きな共通点は挙げられていない。
強く非を指摘されることで行動を改める場合と全く改まらない場合、親しい人間に対しては症状を顕すが公的な場では通常通り振る舞える場合等、予後や症状の出方についても様々である。
前述のような被害報告が話題に上る度「自分の身近にもこういう輩がいる」というコメントは相次ぐが、この病を持った当人の意見はあまり聞かれることがない。稀に見られるコメントとしては「無意識についやってしまう。よく家族に怒られるし悪いとは思うが改められない」というもので、本人にはあまり病識がないのかも知れない。
何故彼らがこのようなことをしてしまうのかについての思い当たる原因、どうすれば症状が改善されるかについての予想や体験談等、ご存知の方はご意見をお聞かせ頂けると幸いである。
たしかに戦場ジャーナリストの役割は「先進国政府の権力・メディアコントロールの監視」にあるんだが、現在の中東情勢においてそういう監視が第一に重要かと言われるとかなり疑問だなあ。
なんか機に乗じて安倍叩きをやってる日本の左翼と同じで、「お前いまそれ言ってる場合かよ?」って気分になる。まずイスラム過激派によって多くの命が失われ続けていることが第一でしょ。
もちろん先進国政府の監視も必要だけど、それでこうやって人質として捕まってテロリストに旨みを与えるのが果たして世界平和のためになるのか?
「戦場ジャーナリストはどのような状況でも戦地に向かうべきだ」という原理主義ってどうなのかねえ。
ブコメでベトナム戦争を引き合いに出してる人もいるけど、ベトナム戦争のベトナム民とは全然違うからねテロリストは。単純明快な「悪」だよ。