はてなキーワード: 先入観とは
知人が見たら身元を特定できてしまいそうなので、ちょっとぼかしつつ書く。
成人するまで知らなかったのだが、わたしは片方の親が在日韓国人の家系だった。
わたしが産まれるずっと前に帰化し、日本人として日本人と恋愛し、結婚し、わたしが産まれた。
知らされるまでずっと自分は生粋の日本人だと思っていたので、その事実にとても驚いた。
とはいっても、親は既に日本国籍を持っているし、韓国の生活習慣は我が家には全くなく(そもそも親も日本で産まれ育っているので、韓国の習慣をあまり知らない)、韓国に行ったこともなく、韓国語も話せない。
DNAに半分血が混じっているというだけで、わたしは普通の日本人だ。
わたしもそこそこの年齢を重ね、恋をした。
相手はとても素敵な人で、お互いに結婚を考えている。
そのため、わたしは隠し事を作りたくなくて、どうしても自分の親が韓国の血を引いていることを言わなければ!と思い、相手に親のことを話した。(今思えば、言わなくてもよかったと思っている)
相手はそれを受け入れてくれたものの、いざ結婚の話を先に進めるにあたって、相手の親にそれを話そうと考えているらしい。
本人曰く、「おそらく驚くだろうけど、問題なく受け入れるだろう」とのこと。
わたしは相手のことを全面的に信用しているので(付き合ってきて信じるに足る人だと感じている)、そう思うのであれば、言えば良いと思った。
ただ、相手の親はそれを受け入れてくれるならよいけど、仮に他の人にそれを話してしまったら?
わたしたちの親世代や、それより上の年代の人にはまだまだ在日韓国人に対する偏見はあると思うし、保守的な雰囲気の土地柄なので、その可能性は高いだろう。
相手はわたしと付き合っていて、わたしが純日本人だということを知っている。
ただ、わたしのことを知らない人がそれを聞いて、先入観を持ってしまったら?もしもいやがらせなんてされてしまったら?…と思うと、とても怖い。
そもそも、わたしもこのことは墓まで持っていくつもりでいればよかったんだと悔やんでいる。が、後悔しても仕方ない。
ひとまず、これらの不安をふまえて、やっぱり相手の親に言ってほしくないということを話そうと思っている。
それでも伝えたいと思うのであれば、それを伝えた後に何か起きた時は、わたしを守ってほしい。ということも伝えるつもり。自分勝手だなと思っているけど。
かつて前期東大落ち、後期阪大基礎工に合格したものです(昔は後期試験があったのです)。
データにもとづいていない主観情報で恐縮ですが思うところがあったので書いてみます。
まず、センター試験おつかれさまでした。
あなたが一番よく知っているだろうけれど、東大も京大も試験が独特で傾向の対策を十分受けている人がライバルになる。あと1ヶ月でそれに太刀打ちできるようになるかは自分と相談。B判定なら射程距離内だけれど、リスクはある(10回受けたら何回合格するか?7回なら受けるべきかもしれないけれど3回なら自粛・・・)。出願期間まで2週間、各模試の過去問など受けて考えてもよいかも。阪大を受けるのに、東大京大の過去問をやっておくことは損ではない。
今回のご質問の趣旨とは異なるけれど、卒業後、人生の多くをどこで過ごすかは考えておいたほうがいい
http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/01/03/002312
これ、男女逆にしたらどんな感じになるんだろうってずっと考えてたし、ブコメにもそうした意見が散見されてたんだけど、たぶん違う。この不快な感じを翻訳すると、
「一流大卒の僕たちが高卒の君たちに読んでほしい、本当におもしろい文庫本。ラノベだけじゃつまらない」
だと思った。
リンク先の件、構図としては「君たちよりも本について詳しい僕たちが、それを知らないだろう女子に教えてあげる」ということになる。で、それは販促の一貫としておこなわれている。ここには二重三重のズレがあって、まず紹介する側の優位性を微塵も疑っていない点。店員は扱っている商品に関して客よりも詳しい、という前提が成立するのなら、おすすめする行為自体はまったく問題がない。問題はなぜ「男子」「女子」という概念を絡めてしまったのかということだ。
フェミニズムについてはあまり詳しくないが、現実的な効用としてめざすところは、女性が女性であることにより、あるいは男性が男性であることにより生じる不自由さ、不利益みたいなものからの解放だと思う。それゆえにフェミニストは、現実に存在する社会的制度の性差別について告発するのだと思うが、ここではひとまずそれは関係ない。仮にだが、男女の区別について、肉体的な差異以外のすべてが完全に撤廃された社会を想定する。思考、行動のあらゆる様式に違いはないとする。となると、男性向け、女性向けということにまったく意味はない。男子が女子に読んでほしいと思うことも、その逆もない。
逆に考えれば、リンク先の販促を打った人は「男女の違いに意味はある」と考えたわけだ。考えるまでもなく無意識にそう信じ込んでいた。そしてその「違い」はああいう結果となった。もしバイトがなにも考えずに作ったコーナーであろうとも、まったく効果がない、あるいは悪い結果を招くと思えばそもそもああいうかたちの販促にはならない。なんらかの効果があると考えたわけだ。本について詳しい書店員の男子が「村上春樹や東野圭吾しか読まないような女子」に読んでほしいという切り口でいけば「なら読んでみようかな」と思う人もいるだろうと、そう考えた。つまり「詳しい」男子が「無知な」女子にすすめるということ、その優劣を受け入れる「女子」とやらがいるだろうと判断したことが根深い問題点だ。実際にいるかどうかの問題ではない。男女が平等である「べき」だという建前に反しているから問題なのだ。逆にいえば、社会的総意として「女に教育はいらない」「女は文学がファッションのかたちをまとって流通している本とか読むのがせいぜい」という価値観がまかりとおっていて、どこからも疑念が発生しないような状況であれば、この販促にはなんの問題もない(個人的には問題大ありだと思うが、単なる理屈の話だ)。
さらにいえば、現実に男女が完全に平等であるなら、この販促はだれにとっても意味が不明である。「男子が女子におすすめする」という概念そのものがまったく意味をなさないからだ。しかし現実には不平等は存在する。このへんは、男性の性的欲望という暴力と、男女における非対称性を認められるかどうかがすべてで、そんなものは存在しない、あるいは男性の欲望の形式がこうである以上どうしようもない、というのであれば、不平等の根幹が見えないことになる。それらの人たちにとっては、目に見える不平等だけがすべてとなる。まあ何度も繰り返された議論だろう。この販促が議論を呼びうるという事実そのものが不平等の存在の証明だといってもいい。もっと根拠の不明瞭なもの、たとえば「O型がA型におすすめする本」だとか「蟹座がMN式血液型のMNs型の人におすすめする本」だと、もうだれにも意味はわからない。叩く叩かれるの問題ですらなくなる。
話は冒頭に戻る。
このあたりの隠微な差別の存在のしかたが、学歴の問題とわりと似ていると個人的には思った。もっとも、あるランダム選出の集団を、男女の集団に分けた場合と、学歴別に分けた場合で、読書量に統計的に有意な差が出るのは後者のほうではあるだろう。ひょっとしたら男女別の場合でもそういう傾向が出る可能性はゼロではないが、この場合、この場合、現実がどうこういう問題ではない。高卒だろうが女性だろうが、読む人は読む。また、読んでいないと決めつけて、その格差の構造をそのまま販促に活用するようなやりかたは、さしあたって、現在の日本では「まちがっている」と断言してもかまわないだろう。
■その1。
「やばい!太平洋だ!」……プレイした感想は、まさにこれだった。休業しているとはいえ、商業誌の編集者である筆者は、ゲームの題材として同人誌を扱うのは、やはり抵抗があったし、おたくである自分の状況を俯瞰的に扱うということを、美少女ゲームで表現するとは……という気持ちもあった。まあ、ありがちな先入観を抱いていたのだ。
で、実際にプレイしてみたら、「ゲームとして良くできている」のだ。確かに、題材の違和感は拭えないのだけど、『こみっくパーティー』はゲームだ。ゲームとして面白ければそれでいいのだ。その驚きが冒頭の台詞に現れているんだけど、まあ、元ネタは分かるまい(笑)。
さて、『こみっくパーティー』というゲームは、特別な思想性を見いだすことはできないけど、最大公約数の娯楽性を持った作品だと思う。実際、主人公に関する事柄以外は、かなりのバランス意識を持ってテキストが作られており、現在の同人誌状況のプラスもマイナスの両極を無難に取り込んでいる。これは、正月のオールスター映画を作るようなもので、それ故に「無難」というのは、この場合、最大限の褒め言葉なのだ。
そして、最大公約数故に、どのような批評も内部に取り込んでしまうというか、あらかじめ批評を予測された構造になっている。だから、ユーザーはゲーム中の事象にいちいちツッコミを入れつつ楽しんでいるし、批評にしても、思想的な根幹は特に存在しないので、どうしても些細な設定に帰着してしまう。そういう意味ではライター泣かせというか、誰もが批評家然として語ることで楽しむ作品でもあるし、このゲームを語るのは、筆者の場合、自分の半生を語るようなものでもあり、正直言って、気が重い。つまり、このゲームを語る事は、ユーザー自身の同人誌観を語るのと同じなのだ。これは非常に恥ずかしい。
■その2。
前号の「美少女絵師列伝」での、リーフ東京開発室インタビューにもあったけど、同人誌即売会という現象がそれほど普遍的なものになったのかと思うと、正直言って、また別の感情もある。筆者は同人誌の世界に足を踏み入れて8年、その半分はまんが雑誌の編集者として、絵に描いたように、おたくメディアと密着した生活を送ってきたけど、こうした俯瞰的に自己言及するメディアが発生するあたりは、言葉は悪いが、同人誌の世界が成熟し、おたくのイニシアチブを取る=経済的に勝利した状況になりつつあるのだな、と思い知らされた感がある。
あと、『こみっくパーティー』には思想性が無いと書いたが、特定の思想があったら、こんな広範な題材は取り扱わないし、結果として、一つの市場をめぐる噂話(都市伝説)の集合体という構成になるのも当然の事だろう。そして、このゲームは、善悪全てごちゃまぜにして、同人誌をめぐる状況を極力そのまま取り込んでいるし、登場人物がどれも清濁併せ呑む存在であることにも気づくだろう。特に、前半に関しては、主人公の視点があくまで素人として設定されているので、出会う人々がどれも過剰な存在に見えるのだ。また、冒頭で「主人公に関する事柄以外は~」と書いたのは、同人作家として成長するスピードと素人の視点が、後半になるにつれ、やや噛み合わなくなってくる為で、この辺で違和感を感じた人はいると思う。
ところが、みつみ美里氏や甘露樹氏といった作画陣の流麗な絵柄のフィルターを通すと、清濁併せ呑んだ部分が届かなくなるという現象が起こってしまう。最近のユーザーの傾向として、ビジュアル的な構成要素だけで全体を判断するので、本来、皮肉になるべき箇所が皮肉として通じないのだ。ユーザーはフィルター上の表層(ビジュアル)しか見ないので、キャラクターの内面まで踏み込むことはない。この微妙なズレというか、奇妙な皮膜が形成された結果として、特に何の問題もなく『こみっくパーティー』は、美少女ゲームという商品として成立している。本当は、もう少し微妙な立場にあるはずのゲームなのだけど。
古参のユーザーは、シナリオも含めたトータルを見た結果として、自分の同人誌観を語るのだが、最近のユーザーはビジュアル的な要素だけで判断するので、必然的に「キャラ萌え」といったベクトルへ向かう事になる。まさに、パソコン用語の「オブジェクト指向」ならぬ、「オブジェクト嗜好」といった所か。また、このタイプのユーザーには、全肯定と全否定という二つの判断しかない為、批評という概念自体が成立しなくなる傾向もある。
批評の介在しない、言論の一定化という状況で、他人との差異を何処に求めるかとなると、信仰心の強さを競う、という一点に帰着していく。信仰対象への愛情がイコールで消費した金額に換算される為に、トレーディングカードが流行したりもする。けれども、その信仰の強さが物語性を妨げる弊害も起きる。物語は信仰対象を疑うことから生まれるものというか、強烈な信仰は、自己の内面を相対化する心理機制を内包していないので、内面の葛藤の結果としての物語は生まれにくいのだ。
そして、信仰対象を次々と消費する現在のおたく産業に於ける経済システムは、物語よりも情報を重視している為、物語の需要は失われていく傾向にある。
【ネコミミ】【ロリぷに】【眼鏡っ娘】【妹】【メイド】といった、快楽原則に忠実な根本要素に、作画技術(画力・技法)や、ブランド(描き手のネームバリュー)が絡みあった結果、萌えられるかどうかを判断する……このように、価値の基準を情報単位で捉えていくパターンが、先に述べた「オブジェクト嗜好」なのだが、そういった表層的な要素のみで判断すると、物語や思想性は余計な要素=ノイズ以外の何物でもなくなってしまう。
例えば、とあるゲームのタイアップまんがで、元々、オリジナルの作品を描いていた作家を起用したりすると、アンケートは絶好調で、単行本もバカ売れしているのに、巷にはそのまんがに対するブーイングが溢れるという、パラドックスな状況が起こったりもする。
これは、「ゲームの関連商品」として単行本を買ったんだけど、描いている作家の作家性がノイズと判断されたからだろう。いわく「ゲームのイメージを壊す」と。この場合、その作家の絵柄(ビジュアル)だけで起用するから、そんな事態になるのであって、ゲームやアニメが主導する形でタイアップまんがを作るときは、キャラクターグッズに徹する、思想性の無い作家を選ぶ必要があるだろう。実際、最近のまんが業界周辺にはこういった、メディアミックスの悲劇といえる現象が、日常茶飯事になりつつあるのだが……話がずれた。
筆者は古いユーザーなので、エロの含有率で美少女ゲームを判断する癖がどうも抜けないのだが、現在の美少女ゲームユーザーは大きく二つの属性に分けられると思う。「キャラ萌えできるか」「心の琴線に触れられるか」……しかし、両者は結局、コインの裏表で、どちらも表層の情報、つまり、あらかじめメディアによって価値判断処理が施された情報だけを消費しているという点では五十歩百歩に過ぎない。
おそらく『こみっくパーティー』は、前者に属するのだろう。だが、萌え~なキャラがいるからプレイする、感動できないからプレイしない、というレベルでは割り切れない懐の広さも、このゲームが持っていることは知っておいて欲しい。
……筆者は、ゲーム(物語)の内部と自分の内部を相対化できるゲームが、良いゲームと考えているのだが、『こみっくパーティー』は十分、その条件を満たしている。題材が良いのか悪いのかに関しては、未だに判断し難いのだけど、ゲームとしては、まさに予想外というか、嬉しい誤算だったと言えよう。
特にアニメ・マンガが好き、という訳じゃないのだが、折角東京に住んでいるのだから、
「3日間に50万人が行く」という隠れた東京名物(?)、コミックマーケットに試しに行ってみた。
(子どもを実家に帰しているのでヒマ&悪さし放題というのもある)
ビッグサイトは東京おもちゃショーで行ったり仕事で行ったりすることはあるのだが、
今日の混雑は、噂通り、いや噂以上だった。
(今日だけでも20万人らしい)
西ホール・東ホールを流して見回ったが、個人的には「鉄道マンガ」「歴史マンガ」「科学マンガ」系がツボだった。
で思ったことだが、自分のような「初心者」「素人」でも、「とっつきやすい」ような案内みたいなのがあると助かる。
「噂のコミケか~、行ってみたいけど、ものすごく混むみたいだし、何か初心者お断りな感じなんでしょ?」と思い込んで、
踏ん切りがつかずに行くのを躊躇している人が、結構いそうな気がする。
そうだとすれば勿体ない。
あと、世代に偏りを感じた。
例えば歴史マンガ・評論等であれば、もうちょっとシニア系(団塊世代)が出展してもいいんじゃないかと思うのだが、
そういう人を見かけなかったのは、シニア側が「コミケは若者のもの」という先入観を抱いちゃっているからじゃないか?
自分で歌えなくて人脈もないような人達にボカロが重宝する理由はわかるんだけど、
タイアップもらってるような人気も実力もあるボカロPなら実力のあるボーカル募集するくらいいくらでもできると思うのになんでキンキン声のボカロにいつまでも固執するんだろう。
ボカロPが作曲した普通のアニソンなんかはボカロ嫌いな私が先入観込みで聞いても良い曲と思えるような曲がたくさんあると思う。
多分今のボカロ界隈にはセミプロ以上の人が山ほどいて、ニコニコのVOCALOIDカテゴリにはこういうレベルの良い曲がいっぱいあるのは多分間違いないと思うんだけど、
それを歌ってるのが全部キンキン声のボーカロイドかと思うと辟易するというか本当に勿体無いなぁと思ってしまう。
「小説家になろう」とかいう小説投稿サイトではキモヲタが異世界転生する話とかニートがハーレムを作るような話ばかり脚光を浴びるから実力のある人でもそういう方面ばかりに媚びだしてしまうとかそういう現象と似たようなもんなんですかね。
博士課程 Advent Calendar です(http://www.adventar.org/calendars/548)。これ書きました http://anond.hatelabo.jp/20141201200815
いくつかトラックバックが付いていたので、それに関してコメントを。
・モチベーションの保ち方について
博士課程の学生はみんな三度の飯より研究大好きモチベーション維持できないやつは進学する資格なし!!!!と言われたりしますが、それは多分あまり正確な話ではないです(ちなみに私は三度の飯のほうがよっぽど好き)。モチベーションを含め、自分をちゃんとコントロールするのは難しいので、それを三年間で身につけたら良いのかなぁと思っています。
まず、多分人間誰しもモチベーションが下がるときはあります(そうならない人は才能だと思うので大事にしてください)。そういう時に無理して研究しようとすると、研究は進まないし時間は浪費するし、かなり精神的にクるので、やめた方がいいです。私の場合は、事務的に出来る作業をやるとか、諦めて遊んだりします。
ではモチベーションを下げないようにするにはどうしたらいいか、という話ですが、2つ実践していることがあります。
1つは、短期的・中期的・長期的な目標を自分で立てること。で、ちゃんとできたかできなかったかフィードバックをして計画を立て直します。
例えば長期的な目標(= grand goal)を、◯◯という論文誌 or 国際会議に投稿する、という月単位の目標として設定したとすると、中期的な目標は、いつまでに手法を考え、実験をし、論文の初稿を仕上げるか、という週単位の目標として、短期的な目標は、この論文を今日は理解する、とかこのコードを今日は書き上げるとかという日単位の目標になるかと思います。((もちろんもっと長いスケールでも目標は建てます))
で、大事なのは、長期的な目標ほど死守する、ということだと思います。ケツカッチンだと取捨選択がちゃんとできて個人的には良いです。逆にいつまでもグダグダと手法を考えたり論文を読んだりするのは得策ではありません。諦め(=取捨選択)が肝心です。
もう1つは、先に述べたことと関連していますが、研究テーマにあまりこだわりすぎないことです。一つの分野で何十年も研究を重ねるのが素晴らしくて、ころころ研究分野を変えるのはあまり好ましくないという先入観が(私には)ありますが、その美徳を全員に押し付けるのは酷なことだと思います。何十年も同じ研究分野で研究をできるのは才能だと思うので、それができない人は、諦めましょう。面白い研究分野に移りましょう(このように吹っ切れたのは最近のことで、チューリング賞授賞者と懇談会をしたときに、飽きたら研究分野変えたらいいじゃんアホかお前は、みたいなことを言われたのでそれに後押しされたのが大きいです)。ただ、移るだけ移って勉強をして終わりではあまりコスパが良くなくて、移ったからには何本か論文書くぞ、という気概を持つのが大事だと思います。
基本的にはいつでもどこでも研究ができるので、研究室に長時間いるということはありません。その点は情報系の利点だと思います(生の実験があるところだと、実験装置のスケジューリングがあって、夜中に実験するはめになったりするらしいですね、つらい)。あと私の場合は、一日のうちで集中できる時間が限られているので、特に研究時間が少ないと思います。ヘタすると4時間くらい集中してやって終わり、ということもあります。長時間集中すると、翌日廃人になるので、継続的に良いパフォーマンスで研究をしようと思うと、このくらいの時間がよいのかなと思って今はその生活リズムで生活しています。
研究時間の話は人それぞれなので、自分の特性をきちんと把握するとよいと思います。長時間研究室にいる=すごい、短時間しかいない=クソ、という図式は、人間の多様性を無視しているので捨てたほうがいいです。自分の特性を把握して、ベストパフォーマンスを出せるように生活したらよいのです。諦めが肝心です。
24時間の使い方を自分の裁量で決められるので、趣味の時間とか取れていいですよ。このような生活を維持したいです。
・学振貰ってる場合、バイトは一切禁止。インターンとかもってのほか。通報しますた。
バイト、禁止です。TA・RAは頑張っても月数十時間くらいしかできないのも仰るとおりです。
実はインターンシップは、自分の研究計画に資する研究を行う場合ならば、いくつか条件を満たせば参加可能なのです(http://www.jsps.go.jp/j-pd/data/tebiki/h26_tebiki.pdf の p.33)。
ただし手続きはちょっと面倒臭いです。海外インターンの場合は、まず学内でインターン参加の許可を得る&海外長期滞在の許可を取る必要があります。うちの大学だと研究科レベルの教授会にかける必要があるので、ヘタしたら数ヶ月待つ必要があります。学内の許可を取ったあとは、それを学振に伝えてさらに学振側からも許可を取ります。こうして晴れて堂々とインターンに参加することができるようになります。このような手続きを踏んでいるので、少なくとも今回私が参加したインターンはlegalというわけ。
ちなみにインターンで給料をもらうと自分で確定申告しなければならないので、それもちょっと面倒です。外貨で給料もらった場合どうしたらいいのかわからんぜ...。
考えている進路はあるのですが、あまりそれを書いても面白く無いので、一般論を書きます。ただし、私はまだ仕事を経験していないので、だいたいは噂・妄想です。
進路はアカポスか企業かに分かれると思います。アカポス志望の場合は、だいたいD3の夏過ぎ頃から助教やポスドクの公募がでて、それに応募して次の4月から採用、というスケジュールが一般的なようです。また学振からお金を貰うポスドクの場合には学振と同じようにD3の4月だか5月に申請し、11月/12月に結果が出る(面接の場合はさらに遅い)ようです。優秀な方はポスドクを経ずに助教になるみたいですが、学振PDはかなり自由なので、これと迷う方もいらっしゃるようです。企業志望の場合は、一般的な企業の採用プロセスに則って就活をすることが多いようです。ちなみに、国外の場合も、時期は日本と半年ずれたりしますが、アカポスの場合は公募がメーリングリストで回ってきますし、企業の場合も公募の形を取っているものが多いようです。国内の場合は、学会などで顔を売りやすいので、就活はしやすいかと思いますが、海外の場合はなかなか大変なようです。馬鹿正直に公募に応募しても、書類審査落ちすることが多いとか。なので、中の知り合いを作るのがよい、というのを聞いたことがあります。
次にそれぞれの利点欠点を考えます。アカポスの利点は、自分の裁量が大きいということかなと。自分で研究テーマを決めて予算を取ることができます。共同研究とか自由にできます。企業だとそこまでの自由はないっぽいです。ただし、アカポスは任期があったり、ポスト数が企業と比べると圧倒的に少なかったりします。なので、多分プレッシャーは大きいです。あと引っ越しとか多そうです(良さげなポストが空いていれば全国どこへでも引っ越す可能性がある?)。また大学と企業ではアクセスできるリソースに違いがあると思います。アカポスだと好きな機器を買えたり、好きなシステムを作れたりしそうですが、全部一から作る必要がありそうな気がします。企業だと、例えばニュース配信アプリを作ってるようなベンチャーだと、たくさんのユーザにアクセス可能な環境がすでに整っていたりします。
どちらが良い・悪いという話ではなく、どちらが自分に向いているか・向いていないかという話なのであしからず。
・情報系は金回り有利そう
他の分野は知りませんが、インターンとかあるし、就職の幅もそれなりにあるので野垂れ死ぬ可能性は低そうです。生の実験とかをすることがないので、研究予算がそんなになくても最低限研究できるのもいいところだなと思います。
DC1がよく通っている研究室は、そういう指導体制・スケジューリングがうまいんだと思います。申請書を先生や先輩がちゃんとアドバイスできたり、先生が学振を見越して学生のケツを叩いてくれたり。通った人と知り合いになって、通った申請書を見せてもらったり、あわよくばアドバイスを貰ったりすると良いと思います。通ったらその分後輩の面倒を見て恩返しをしましょう。
・情報系において民間ではなく大学だからこその強みってなんでしょうか
このあたりはあまり自分でも結論が出ていないのですが、大学はカネにならないことをやってもいいところなので、そういうことを堂々とできるのが強みだと思います。例えば、理論研究を行って最終的に会社が儲かるというストーリーを考えるのは難しいので、それを仕事として行うのは難しいと思いますが(企業の利益に全くつながらないことをやってる人間に給料や研究費はあげられないですよね)、大学だと論文を書いたりすれば良いので、堂々と理論研究できると思います。また、夢を語る系の研究(こんなことができたらいいよね、こんな世界になったら良いよね)というのも、企業よりは大学のほうが気兼ねなくできるのかなと思います。
特にポジティブ・ネガティブな感情はなく、単純に大変そうだなと思います。会社の業務に追われながら博士論文を書いたり大学で博士課程学生に割り振られている仕事をこなしたりするみたいなので。ただ、博士号を取るパスが博士課程に正規で入学するパスだけになってしまうのはなんとなく健全ではないような気がするので、そういうオプションを後世に残すためにも頑張ってください。
またなにかあれば。
仕事上でのメールで、自分が送ったメールに返信されるとき、そのまま「Re:○○○○○○○○」とされるのが怖い。
なぜなら、間違いの指摘、お断り、苦情という先入観を持っているから。
なんでそう思うようになったんだろうと考えたら、昔、メールを送るとき、相手方に加え、上司にもBBCで送付するのだが、大抵、送ってすぐ上司がメールを読んで、送信メールの「ダメだし」をして来たからだ。
それがしみついてしまって、RE:で返ってくると、即座に「No thank you」か「街がてますよ」との本文が思い浮かぶようになってしまった。
みんなは、Re:は気にならないのか
ちびまる子ちゃん、というか作者のさくらももこの家庭は自営業(八百屋)だよ。本人曰く貧乏だったらしいけど。
現代で個人経営の八百屋は確かに希少だね。富裕層とは思わんが。
漫画ではその部分が削除されていて(家も店舗併設ではない普通の一軒家だ)、
父ひろしが他の仕事している描写も一切ないので、ひろしの仕事は不明という事になっている。
勿論増田がそんな事を言いたいわけではなく、「サラリーマンと専業主婦の家庭」だと思っていてそれが富裕層だと言ってるんだろうけど。
ひろしがスーツ着て出勤したり会社で働いている姿が描かれている訳でもないのに、そう思い込んでる人多いよね。
もしcしか選択肢がなく、sの白黒ゴールドを選んだ人たちがcに流れたらもっとピンクの割合は少なかったと思うけどね。
とりあえず三割として書く。
それってマーケティングとしてどうなの?
本当に売れるから作ってるのか疑問。
女性向けのスマホやパソコンなんてダサピンクで染まってるけどあれ本当に売れてるの?
日本製は高いからいろんな機能つけたり差別化はかって消費者にピンポイントで狙い撃ちしてるのに、色だけは三割を取るの?
服は違うんだけどね。一割もない。
服は単体でよけりゃいいってもんじゃないから、ピンクは何にでも合う色じゃなくて敬遠されるって理由ももちろんあるけどね。
現在離職中。
ヤクザの先輩に誘われていて、盃うけようかと思案中。
ただ、ヤクザに成ったとして、ずっとこの世界にいるつもりはない。
とはいえヤクザになったが最後、堅気への復帰はほぼ難しいと言われている。
何故なのかについて、深く考えた事はないが多分反社会的な組織であるといった
先入観が企業間で擡げて結果食指が動かない、要は触らぬ神に祟りなしで落としていくのだろう。
せっかく好条件なのに殆どヤクザにならないのも裏があるのかもしれない。
そういうイメージを持ってしまったのは、きっと昨今のブラック企業ブームのせいに違いない。
けれど、火のないところに煙は立たないというし困ったな。
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/002.htm
http://www.mof.go.jp/budget/budger_workflow/budget/fy2014/seifuan26/05-17.pdf
http://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/hakusyo/chihou/26data/2014data/26czb01-05.html#z053
http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/022.htm
政府や官僚は悪者という先入観を捨てて考えると、財政赤字の原因は国民が税金の支払いを渋ってるせいという可能性が浮上してくるのだよね…
税負担率が国民所得に対する比だから、日本人のGDPがずば抜けて高ければ比率は低くても額は多いのでは、と思ったけど
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4540.html
この通り。
★アベノミクスによる、東京アッパークラスの「消費回復」って、言ってみれば「フェイスブック景気」。
「アベノミクス、いいね!」の感覚で高額消費していたのが実態だと思う。
言い方を変えれば、「自分がリア充である証」として、アベノミクス的にタワーマンションを買ったり、百貨店で高額消費していた。
★フェイスブック界隈、アイスバケツチャレンジをしている界隈って、人脈ネットワークが広いようでいて狭いから、
2012年末の「自民党大勝」の頃から、一部の「直接、アベノミクスの効果を享受する人」の高揚感が、他のフェースブックユーザーに伝播して、
★一方、元々リア充界隈とコネクションのない一般ピーポーは、別にアベノミクスに対して「いいね!」ボタンを押す必要性を感じてない。
日本全体ではフェイスブック非ユーザーの方が多数派だから、景気は別に回復していない。
★今回、エコノミストの予想全ハズレしたが、エコノミストの全員が東京在住。また、かなりの割合でフェイスブックユーザー。
東京経済・フェイスブックユーザーの皮膚感覚を先入観で持ってしまって、そのまま経済予想を立てて、全滅したんだろう。
そういう東京エコノミストの見立てを信じて解散戦略建てた首相が馬鹿を見た
地方ではガソリンが高いと、「クルマを使った買い物・レジャー支出」までも縮小に入る。その辺の波及逆効果を、電車経済圏の東京エコノミストはわかってない
本当は彼だって分かってるはずなんだ。分かってるという事実から目を背けたいだけなんだ。
逃げたいあまりにやらないといけないことから目を背けてるだけなんだ。
.
教育とは何か、分かるかね。分かってることを引き出すことなんだ。既に彼の中にあるものをひきだす。
人間誰しも成長の段階というものがあるね。彼はまだここにいるから分からないことも多い。
でもそれと同じくらい薄々分かってることも多いんだ。それを引き出すのが君の役目なんだ。
.
薄々気付いてると思うけど、君=彼なんだ。先生という仕事をしていて生徒から教えられることも多いだろう。
僕だって自分という人間の先生だから自分に教わることも多い。つまりはそういうことなんだ。
.
なぜ人は分かってるのに救いを求めるんだろう。寂しいから?あるいは本気で分かってないつもりになっているのかもしれない。
だから君ができることはマジレスすることなんかじゃない。本人が本当は分かっているのに認めたくない答えを突きつけてもそれは助けにはならない。
一通り元気づけたあと、もうやるしかないということに気付かせ、再び歩み始めるのを見守ること。それが君のできることなんだ。
.
薄々分かってることに気付かせるという言い方をしたよね。この薄々というのがポイントだよね。
分かってるけど理解が足りなかったり逃げたかったりして、本人にしてみればよく分かってないと思っている。
.
よく何が質問したいのか分からないのに質問にくる生徒さんがいるだろう?
薄々何が質問したいのか、もっと言えば答えやその手がかりだって薄々分かってるかもしれない。
それなのに分かってないように感じる。そこに引っかかりを覚えるから質問にくるんだ。
だから質問を明確にしてから来たまえなんて追い返したらいけないよ。本人は分かりたいんだ。
分かりたいんだけど分かりたくない気持ちのほうが強い。だから答えを聞いても、本人の中に分かろうとする準備がないとおそらく駄目なんだ。
あくまで先生ができるのは彼の中に眠るものを引き出すこと。その準備が不十分なときは、「やるしかない」と本人が気付くしかない。
.
人生でつらいことがあって人に相談したいと彼は思っているかもしれない。
あまりに理不尽に感じることが多いのだろう。確かに客観的に見てもそうかもしれない。
だけどやるべきことははっきりしていて、それを彼が分からないフリしてるのもまた事実なんだ。
分かりたくないから、分からなくていいように、自分を欺き、やらなくていい努力をし、それを周囲にアピールしてるんだ。
だけど自分が悲劇の主人公だとアピールしても一時のなぐさめにしかなるまい。
.
彼が同じ過ちを繰り返さないためにも、どこかで「ほんとうは、わかっている」という方程式に気付くしかないんだ。
そのためには、とことん追い詰められる必要がある。
ただの「人生経験」「社会経験」なんてくだらないものじゃないよ。そんな苦労した気になるだけの経験はもうたくさんだろう。
そのためにも今彼がやってることをとことん突き詰めるといいのではないかな?
やがて小手先や先入観や常識では通用しない段階が必ず訪れるだろう。その時に変わればいいんだ。
君ができることはただ1つ。繰り返し何度も何度も彼を「やるしかない」という気にさせ歩き続けさせること、それだけなんだ。
○サガフロンティア1
○自由度の高いフリーシナリオ。7人の主人公から1人選び、さらにその主人公のシナリオも大筋のあるものから、大筋のない自由なものまで多種多様。
○ランダム要素の強い戦闘。閃き(技を戦闘中ランダムに閃き覚えるシステム。実はやり込むと閃きにもルールがあることに気づける)、連携(仲間と技が連携しその場でそのつど新しい連携技が生まれる。これもやり込んで行くとどうすれば連携できるかが理解できる)、ランダム成長の三大要素により、何週しても飽きずに戦闘や育成を楽しめる
○育成の楽しさ。人間、ロボ、モンスター、妖魔(+ヒーロー、半妖)とキャラの種別によって育ち方が全く違うため、どのように育成するかを楽しめる。
●仲間の成長に合わせて敵も強くなるシステムは嫌いな人は嫌いかも。常に緊張感をもってプレイしないといけない
●ところどころ未完成なシナリオ。容量や納期の都合なのか、「なんのイベントもないダンジョン」とかがぽっつりあったりする。個人的にはそれも「頑張った結果何もない」ということも含めて自由度の高さだと思うので、好き。
○クラッシュ・バンディクー 3 -ブッとび!世界一周-
○クリアだけなら簡単でもやり込みだすとどんどん難しくなっていく
○シューティングやレースなど3Dアクション以外の要素を使ったゲームも入っておりボリュームが凄い
●とくにシナリオとかはない
●今やると若干古くさく感じるかも
○シナリオの完成度。ネタバレや先入観があると台無しになるので、前情報を入れずに楽しんで欲しい。
○豊富な寄り道要素とNPCとの会話。気づくとその世界が丸ごと好きになるような没入感を味わえます。メインシナリオをひたすらに追うのではなく、こういったサブクエや会話を是非とも楽しんで欲しい
●良い点なのかもしれないけど、今もまだお話が続いていて完結していない。(空の軌跡自体の事件やキャラクタのお話は完結している)
○歴代FFキャラがたくさん登場する対戦アクション。FF好きじゃない人も、この作品独自のシナリオがあるため楽しめる。
見て分からない人間に言って分からせるのは難しい。こんな言葉がある。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、 ほめてやらねば、人は動かじ。」。五十六ちゃんの名言だ。
見ても分からない人間に教えるのはかくも難しい。「見て分かるでしょ?」で済む「見て分かる人材」がいかに貴重なことか。
「1を聞いて10を知る」なんてまだまだ有能じゃない。「聞かなくても知る」のが真に有能だ。
人生には無数のシチュエーションがある。本で読んだ知識が通用しない時、頭で考えていた通りにいかない時も沢山ある。「言われなくても知る」には知識や思考だけではダメなんだ。
「見て分かる力」が大事なんだ。そんな「見て分かる力」を持った人こそ「地頭がよい」とみるべきだ。
ところで、程度の差はあれ見て知るのは誰でもやっていることである。私たち人間は頭で考えなくても見てある程度学習できる。
いちいち全てを頭で考えていたら頭がパンクする。時間もかかる。忙しい世の中にもついていけない。だから多くの知識は見て学ばねばならぬ。見て分かる力は超重要。
重要な力だが個人差は激しい。見ても中々覚えられない人から一発で覚えられる人までいる。見て一発で多くのことが分かる人は極めて少ない。そんな人材を我が国は育てるべきだ。
知識だけで役に立たない人間はいくらでもいる。そこで「生きた知識」って言葉が叫ばれる。臨機応変に使える知識。
そんな知識をつけるにはどうすればいいか?とにかく実践?そうじゃない。沢山実践しても要領をつかめないと意味がない。その要領をつかむために見て分かる力が重要なのだ。
「身体で覚える」という言葉は窓から投げ捨てよう。馬車馬のように働くのは御免だ。無駄な努力大好きなドMでもない限り。
日本は美徳の勤労を「無駄のない勤労」にアップデートすべき。国際競争に勝つためにも、そうすべき時代に来ている。今すぐにも見て分かる力を養成せねば。
見て分かる力は従来の学校教育では育たない。知識偏重は駄目ってことで思考を育てる教育が推進されてる。でも、思考偏重もダメなんだよ。
確かに論理的思考力は情報の真偽や矛盾を判断するのに重要だ。また、思考力があれば知識の少なさをかなりカバーできる。だから、思考力は育てたほうがよい。
だけど、思考力だけでは臨機応変にはほど遠い。いくら論理を構築しても現実に即していないと意味がない。論理性と実用性の間には解決しがたい隔たりがあるのだ。
なのに思考力ばかりが重視されてしまっている。それも本の知識をもとにした思考が想定されており、現場の知識はほとんど想定されない。
そんなことだから、それに反発して「とにかく実践」を連呼する実践至上主義が出てくる。結果、頭でっかちな人間と体育会系人間を育てているだけで、本当に必要な人材を育てていないのである。
そもそもの原因は思考への誤解である。思考など人間の情報処理の氷山の一角なのである。それがよく分かってないから思考偏重になる。
人間はいちいち考えずとも見て沢山の情報を処理している。思考はその一部をピックアップして制限された処理をしてるだけ。
具体的には、使用言語、論理性、興味、好み、道徳性、常識、先入観といった制限を受けるということだ。
そうした制限とは引き替えに良質な情報が得られるかはともかく、とにかくかなり制限される。仮に良質でも微量では役に立たない恐れがある。
そんな思考ばかりを推進せず、まず現場の実物や実態をよく見たほうが良い。そのほうが現実に即した情報が大量に入る。
この手段を世間では「観察」や「直観」と呼ぶ。「観察」だと得られるのは生データであり規則性を認識するニュアンスが弱い。よって、ここでは「直観」という言葉を用いる。
教育学において直観は古くから重視されてきた。しかし、教育制度や教育現場ではあまり重視されてこなかった。
思考への過剰な信頼が原因である。今こそ我が国はデカルトに象徴される西洋近代合理主義を振り払う時なのだ。
スローガンは「見りゃ分かる」だ。この言葉をどんどん使っていこう。「ググレカス」(調べれば分かる)や「頭使え」(考えれば分かる)は抑え目にしていこう。
俗に言われる「空気読め」という言葉や、世の会社で言われる「周り見ろ」という言葉もこの亜種だ。じつに妥当な言葉である。
ただ、「見ようとしないこと」を非難してはいけない。部下が言うことを聞かないのはあなたが部下を「見ていない」からである。
また、「見ても分からないこと」も非難してはいけない。誰でもステップバイステップで成長していくのであり例外はない。適切なステップを与えるのは教育者の役目である。
内容はともかくとして反応ありがとう。君の怒りはほぼほぼ想像がつく。おれもそこまでお人好しじゃないから自己解決をたのむよ。
それはそうと「一触即発の矛盾」って概念があってね。一種の手口だな。人間はアンビバレントな感情とか認知的不協和といった
ものにまことに弱い生き物だ。平たく言えば我々は「気になる」ことにとても弱い。気になる刺激に弱いとも言える。
メールの返信が気になる、ドラマの続きが気になる、ネットの掲示板が気になる、とかな。心当たりあるだろうが。
この「気になる」同士が衝突することで気持ちに「対立」が起きてそこから論理矛盾を抱えた認知に行き着くわけだよ。分かるかな?
そしてどう頑張っても論理矛盾のあるものは理解できないから、攻撃行動に出たり見て見ぬフリしたりするわけ。心理学では闘争か逃走と言う。
なるほど確かに闘争か逃走するのがその時は妥当かもしれない。けど未来永劫それを先入観として抱え続けるのは果たして正しいことなのだろうどうなのだろうか?
これらを見事に解決する魔法の言葉があってなそれを教えよう。「こまけえこたぁいいんだよ」。これである。もう1つ。「まいっか」。これもである。
どんな困難に陥った時も「気になる」対象に対して頑張るのではなく、逆に「気にしない」ことを頑張れば未来への扉が沢山見えてくる。
その扉に飛び込めば解決できるかはわからんよ?けど解決できないとも断定できまい。行けば分かるさ。お互い頑張ろうじゃないか。
こういうふうに語りながらおすすめを決められるのってすごいと常々思う。
自分がいいと思ったからといって他人にもウケるという確証がもてないから、
自分の熱量とは別に客観的に理路整然と分析して機械的に聞くようになったらつまらないし。
両方切り替えられればいいんだろうけどそこまで器用じゃないし。
俺はそれでいい。
めっちゃ傲慢にあれもこれもとすすめちゃってドン引きされちゃいそうだし。
ちなみに俺はジュテーム?が好き。
あらすじ。
そこはメグマ波という怪電波で人を狂わせる人間のいる組織だった。
クラスメートを追うと、メグマ波を見せるからオモイデ教に入れと言われる。
主人公はクラスメートと付き合ってた教師を狂わせるように依頼する。
しばらくして実際に教師が狂ったので、主人公はオモイデ教に入る。
教団の人間に会うと、メグマ波を操る素質があると言われる主人公。
どうやって狂わせるのかの見学も兼ねて、クラスメートと一緒に別のとある新興宗教に殴りこみをかけにいって潰すのを見た。
次はとあるビルで集団炎上自殺してた新興宗教の人間がいたからそこに行った。
オモイデ教はメグマ波を使える精鋭を集めて対抗しようとするが、主人公含め数人以外が全員やられてしまう。
クラスメートもそこにいた。
教祖はたまたま能力が覚醒して、自分にやさしい世界をつくるために他人を洗脳するのに能力を使っていた。
主人公の力で教祖をつぶしてクラスメートの洗脳をとくこともできたが、結局何もしなかった。
しばらくして教祖とクラスメートが二人で自殺しているのが見つかった。
終わり。
本筋だけだとこんなもんな気がする。
あとは登場人物の長広舌を振るうのが多かった。
グミ・チョコレート・パインを先に読んでたからなおさらそう感じた。
主人公の影も薄いし。
あとがきで連載ものだったって知って、なるほどだからムラがあるのかって思った。
自分BOXとかゾンとかが出てきたから、グミチョコのスピンオフ的な感じに捉えた。
考察とかいろいろあるんだろうけど、それ見ちゃうと先入観が入っちゃうから、
終わり。