http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/01/03/002312
これ、男女逆にしたらどんな感じになるんだろうってずっと考えてたし、ブコメにもそうした意見が散見されてたんだけど、たぶん違う。この不快な感じを翻訳すると、
「一流大卒の僕たちが高卒の君たちに読んでほしい、本当におもしろい文庫本。ラノベだけじゃつまらない」
だと思った。
リンク先の件、構図としては「君たちよりも本について詳しい僕たちが、それを知らないだろう女子に教えてあげる」ということになる。で、それは販促の一貫としておこなわれている。ここには二重三重のズレがあって、まず紹介する側の優位性を微塵も疑っていない点。店員は扱っている商品に関して客よりも詳しい、という前提が成立するのなら、おすすめする行為自体はまったく問題がない。問題はなぜ「男子」「女子」という概念を絡めてしまったのかということだ。
フェミニズムについてはあまり詳しくないが、現実的な効用としてめざすところは、女性が女性であることにより、あるいは男性が男性であることにより生じる不自由さ、不利益みたいなものからの解放だと思う。それゆえにフェミニストは、現実に存在する社会的制度の性差別について告発するのだと思うが、ここではひとまずそれは関係ない。仮にだが、男女の区別について、肉体的な差異以外のすべてが完全に撤廃された社会を想定する。思考、行動のあらゆる様式に違いはないとする。となると、男性向け、女性向けということにまったく意味はない。男子が女子に読んでほしいと思うことも、その逆もない。
逆に考えれば、リンク先の販促を打った人は「男女の違いに意味はある」と考えたわけだ。考えるまでもなく無意識にそう信じ込んでいた。そしてその「違い」はああいう結果となった。もしバイトがなにも考えずに作ったコーナーであろうとも、まったく効果がない、あるいは悪い結果を招くと思えばそもそもああいうかたちの販促にはならない。なんらかの効果があると考えたわけだ。本について詳しい書店員の男子が「村上春樹や東野圭吾しか読まないような女子」に読んでほしいという切り口でいけば「なら読んでみようかな」と思う人もいるだろうと、そう考えた。つまり「詳しい」男子が「無知な」女子にすすめるということ、その優劣を受け入れる「女子」とやらがいるだろうと判断したことが根深い問題点だ。実際にいるかどうかの問題ではない。男女が平等である「べき」だという建前に反しているから問題なのだ。逆にいえば、社会的総意として「女に教育はいらない」「女は文学がファッションのかたちをまとって流通している本とか読むのがせいぜい」という価値観がまかりとおっていて、どこからも疑念が発生しないような状況であれば、この販促にはなんの問題もない(個人的には問題大ありだと思うが、単なる理屈の話だ)。
さらにいえば、現実に男女が完全に平等であるなら、この販促はだれにとっても意味が不明である。「男子が女子におすすめする」という概念そのものがまったく意味をなさないからだ。しかし現実には不平等は存在する。このへんは、男性の性的欲望という暴力と、男女における非対称性を認められるかどうかがすべてで、そんなものは存在しない、あるいは男性の欲望の形式がこうである以上どうしようもない、というのであれば、不平等の根幹が見えないことになる。それらの人たちにとっては、目に見える不平等だけがすべてとなる。まあ何度も繰り返された議論だろう。この販促が議論を呼びうるという事実そのものが不平等の存在の証明だといってもいい。もっと根拠の不明瞭なもの、たとえば「O型がA型におすすめする本」だとか「蟹座がMN式血液型のMNs型の人におすすめする本」だと、もうだれにも意味はわからない。叩く叩かれるの問題ですらなくなる。
話は冒頭に戻る。
このあたりの隠微な差別の存在のしかたが、学歴の問題とわりと似ていると個人的には思った。もっとも、あるランダム選出の集団を、男女の集団に分けた場合と、学歴別に分けた場合で、読書量に統計的に有意な差が出るのは後者のほうではあるだろう。ひょっとしたら男女別の場合でもそういう傾向が出る可能性はゼロではないが、この場合、この場合、現実がどうこういう問題ではない。高卒だろうが女性だろうが、読む人は読む。また、読んでいないと決めつけて、その格差の構造をそのまま販促に活用するようなやりかたは、さしあたって、現在の日本では「まちがっている」と断言してもかまわないだろう。