はてなキーワード: 世渡りとは
ここ数日ずっと炎上してる例のラーメン評論家(じゃないらしいけど、面倒なのでそう呼びます)のブログ読んで、そこまで叩かれる必要あるか?という話なんですけど
確かに、超オジサン構文だし、いらない情報多いし、文章下手だし、酔っ払って言ったこと覚えてないのも、世渡りと言葉選びが全部ダメなのはそうだけど、自分はそこまであのおじさんを責める気になれなかったんですよ。
・会う約束をとりつけたのは、オジサンの方ではなく、梅澤さんのマネージャー(業者)さん側らしい。なお、梅澤さん本人はよく知らなかった模様。
・オジサンは、梅澤さんの会社が内装屋さんに内装費を払っていないということを知り合いのラーメン屋さんから聞き、その件について梅澤さんに聞いたらしい。
その時の梅澤さんのお返事は「わからない」。※後日、メディアに対しては、「事実無根です」と反論している。
確かにオジサンのブログはいけないところだらけだと思う。ギャグは全部寒いし、いらない自分語りも多い。なあに?C級ホテル評論家って。知らんよ。
けど、ネットで叩かれている「人妻シリーズ」すら、蓋を開けてみたら、「当事者の女性と悪ノリしてはじめた、コンセンサスの取れた内輪ネタ」だった。
(なんだよそれ…とは思うけどさ!)
いや、わかるよ?キモ!とは思うよ?
けどさ、内輪ネタならさ、誰も傷ついてないならさ、それってそこまで外野に叩かれることじゃなくない???
少なくとも、自撮り顔隠しのツイ垢とかに、「ありえない・・・女をなんだと思ってry」とか切り取られることじゃないと思うんですよ。
問題はそこじゃないし、そこに写ってる首下の写真はお前じゃないんだから。落ち着け。って思う。
(正味、「人妻シリーズ」が当事者無許可の悪ノリだったら、マジでダメだと思いますよ。
でも、これに関しては、叩かれる必要ないと思うんです)
私がこの一連の流れ読んでて、何が一番問題だと思ったかというと、みんなが「かわいそう」って梅澤さんのことをかなり盲目的に擁護してる点なんですよね。
繰り返しいうけど、本当に酔っ払っててキモかったんだとは思う。そこは本当にそう思う。
けど、梅澤さんが、経営者として…というか、プロフェッショナルとして、相手と対等に向き合わなかった姿勢に、すごく疑問を感じる。
内装の工費の件は、オジサンが梅澤さん下げで適当なこと書いたのかもしれない。(私には、このオジサンはそこまで器用な人物には見えません)
けど、その件について、梅澤さんは「知らない」と言ってたんだよね?経営者がそれを知らないってどうなんだろう…。と思います。
加えて、オジサンとのミーティングを設定したのは梅澤さんサイドだという。
つまりオジサンは、別に自分から梅澤さんに粘着しにいったわけじゃないらしい。
これが本当なら、正直、「経営側が、不都合な事実(内装費未払いの件)に踏み込まれたのを厄介がって、セクハラ案件として片付けようとしてる」ようにすら見えちゃう。
だって都合がいいよね。面倒な件を蒸し返してきた相手が、酔っ払って何言ったか覚えてないオジサンならさ・・・
梅澤さんのことはぶっちゃけよく知らないので、アンチでも擁護でもないんだけど、経営者ならちゃんと対等に、フェアに、被害者ぶらずに話したほうが得だよね。という。
そんで、その姿勢を見せないということは、やっぱ経営者というよりは看板定員さんみたいな枠なんだな…という(失礼だけど)察してしまう感があった。
※営業齧った人間なら共感してもらえると思うけど、うわって思うクライアントでも蓋を開けてみたらいい人なんて結構いるし、セクハラ!って騒ぎ立ててたら普通は他のクライアントも逃げるし・・・
まあ、オジサンのブログはマジで失言の宝庫みたいな感じだったので、繰り返しますが本当に良いと思ってるわけじゃないです。
けど、感情論とか、「なんかかわいそう」とか、「絶対オジサンが悪いに違いない」みたいな先入観だけで学級裁判みたいにならんといいなとは思います。(もうなってるけど)
少なくとも、飛び火する形で「だからオジサンは」とか、「だから女は」みたいな不毛な対立が生まれないことを願って、お焚き上げを終了します。
やっぱり権力もなにもあてにならずとにかく徹底的に相手に恐怖という根源的感情を植え付けて支配するしか対抗の方法は無いのかな
昔あなたと同じようなことを考えた榎美沙子は中ピ連をやっていたけど消えちゃったね。女性解放運動における失敗例で負け組、というのが一般的な評価ではないか。
一方、方向性は榎と同じようでありながら、世渡りと金儲けがうまい上野千鶴子は東大教授に上り詰め、ベストセラーの印税で儲け、退官後は高級タワーマンションと別荘で悠々自適の老後を送っている。女性解放運動における勝ち組と言っていいだろう。
差別するやつをただびびらせればいいというのはアホの発想。結局は経済力がないと差別からは解放されない。もちろん権力も必要。人を操縦する器用さも必要。あなたの頭脳でそれができるかな? あなたの文章、失礼ながらあんまり頭良さそうに見えないけどね。
・まず、この話を投稿しようか迷っているうちにJOC内部で亡くなった方が出たみたいだ。経緯は全くわからないけれど、追い詰められたことがあったのでしょう。とても悲しく残念でやるせない。
==
・うちの旦那は噂の「中抜き」業者に勤める一社員だ。五輪にも思いきり関わっている
・リモートワークだから家の中で漏れ聞こえる打合せの様子は淡々としているけど、本音は旦那も悩みに悩みながら働いている。
・旦那は15年以上この業界で働いてきた。昔は誰もが羨む職業だった。日本人の誰もがよく知る大きなプロジェクトを心血注いでいくつも手がけてきた。
・ネットで言われる、銀座や六本木でどんちゃん騒ぎしてコネだけで世渡りしてるような広告マンなんて、バブル時代のキャラだと思う。そんな人間もう絶滅したんじゃない?
・今の旦那の仕事は、大きな図面や大きな大きなスケジュール管理表とにらめっこしつつ、眉間にシワを寄せながら、あらゆるところに連絡を取り、進捗を管理・発注側に報告するための資料をつくる。地味な地味な調整役だ。
・私も昔は同じ会社に勤めていたので収益構造はわかってるつもり。
・今回炎上してる人件費単価の高さは、この一大プロジェクトにアサインされた社員のリソースを全て割いてるからなんじゃないかな。
・通常、3つ4つのプロジェクトを掛け持って売上ノルマを達成する社員が、この数年、五輪だけに張り付き状態。だから1プロジェクト専業で利益を上げるには、単価を上げなきゃいけない。
・それが中抜き構造と言われればそうだ。でも全体を俯瞰でマネジメントすることなんて、中の人は正直そこまで手が回るわけとは思えない。大きなプロジェクトほど、この分業は必要になると思う。
・という感じで「中抜き」事業者側にもこんな理由がある。だから、この構造を理解して政治家に説明できる、もしくはこんな構造そのものがおかしいと追求できないのは発注側の責任じゃないのか。ザル勘定だと言われた時に、言い返せないのは発注者の落ち度じゃないのか。
(とも、思っていたが、亡くなる方が出てきた以上、私の知るところ以上の根深い構造があるのかも知れない)
・しかし、こんな苦境でなぜ旦那は働いているんだろう?それは与えられた仕事だからだ。アスリートのため?国のため?平和と自由の祭典のため?そんなわけない。目の前の仕事だからだ。
・「こんなことできる状況じゃない」という世論はひしひしと感じてるようだし、自分の仕事が意味のあることなのか、間接的に誰かの生命を脅かすことなのかと、愚痴とも自問ともわからない旦那の呟きは日に日に増えている。
・そこにきての過剰労働。正直、1年延長が決まってから会社のメールは四六時中見ている。まとまった休みもほとんど取れていない。
・何故こんな直前でバタバタしているかといえば、感染対策という明確な安全基準のない新しい課題に直面している上に、観客キャパがまだ決まらないからだ。計画が詰めの段階でまだ仮計画になっている。
・そして、来月からは競技会場の近所のホテルに2ヶ月旦那は缶詰になる。出征に旦那を送る心境はこんな感じかなと思う。
・2ヶ月毎日働くらしい。確実に36協定を超えるなと今は自嘲気味に話してる。
・社会的に謗られる仕事に、旦那は悩みながらも出征する。私たち家族を養うためだ。
・国民の半数以上が開催に疑問を投げかける大事業に身も心も捧げ、旦那は今、殺されようとしている。
・わかって欲しいのは、利権が渦巻く組織でも末端社員は生命を削って葛藤しながら目の前の仕事をこなすため働いてる。そんな旦那を見てると、私は五輪の開催に賛成も反対もできない。
昇給がないということは、永遠にその賃金で働く羽目になる。最低賃金が上がっても黙っているケースの会社は論外。辞めろ。
昇給がない企業は全国で3割くらい存在するが、昇給がある所を探せ。
求人内容と違う事を面接で言い始めたら、採用OKがあっても辞退しろ。信用しないほうが良い。
また、入社後に労働契約書の内容が求人と違う場合は違法なのでさっさと辞めろ。そういう会社は雇用される側を部品の一部としか思っていない。
必ず労働契約書を見て一致しているかを確認しないと地獄を見る。
報連相もしにくい職場は、そもそも会社自体がだらしないので辞めろ。
特に上司がまともに周知も出来ない、やることをやれないのなら居る必要がない。そんな会社は損をする辞めろ。
役所が絡む入札してなんぼの会社は、職場が安定しないので辞めろ。
それどころか給与なんかも告知と全然違う場合もあるし、仕事の内容も契約してない事をやらされる辞めろ。
建築・技術系はそこそこもらえるが、清掃・警備を担っているような会社は信用しないほうがいい。
外から入ってくる新人に対して会話も出来ない先輩がいるなら辞めろ。
怒るだけでなく褒める事も忘れない。そういう先輩がいるなら様子を見ていい。
ただし、新人だから会話しないではなく、ある程度の受け答えはできるようになれ。
「あ、はい」なんてのしか言えない状況で冷たくされたように感じるのは自分が悪いと思え。
年配者は話を聞いてほしい人も多く、きちんと会話のキャッチが出来れば面倒を見てくれる。
だが、50代後半あたりから70近くの年代は『最後の反抗期』に入っている人がいるので、会話がだいたいひねくれており愚痴ばかりなので注意。
若い世代同士もいやすい場合があるが、年配者と比べると若干微妙なイジメが多め。
理想としては、30後半から40後半?くらいで話しやすそうな人を見かけると良いかもしれない。
大体そのくらいの年代で年配者の中に紛れてる人は、そこそこ世渡りが上手な可能性が高い。
最後に
上記で散々辞めろと言ってきてなんだが、やりたいことを選びすぎる、または条件を選びすぎるのは悪手につながる。
コロナで仕事を失ったのなら、まずは生活を続けられるようにしろ。
嫌すぎる職業はやらないでいいが、やったことがないと及び腰になるまえに条件などを見て考えろ。
勉強というと昔々はガリ勉みたいな蔑称があるように差別の対象だった
要は、勉強ができない人たちの理屈からすれば、おまえは勉強ができるように一人だけ努力してズルいぞ、という妬み、ルサンチマンである
勉強はともかく、受験勉強にかぎって言うなら、これは「単なる」突破すべきハードルとも考えられる
つまり、資格を取得する試験のための勉強と同じであって、勉強ができない人たちに分かりやすく例えるなら、
自動車運転免許の取得のための実技や筆記のための勉強と同じである
ヤンキーやDQNは名前通りクルマやバイクが好きなので運転免許取得に例えるのが適切だろう
運転免許取得にしろ、100mを10秒で走るにはにしろ、ここでアプローチは大きく2つに分かれるように思う
そして、ほとんどの人が努力と要領の良さどちらかではなく、その人なりの混合比を持っていると考えられるわけだが、どちらかに偏ってはいるかもしれない
努力というのはひたすら練習の繰り返しであり、根性であったり、好きこそもののだったり、それを支えるモチベーション維持の工夫なども含んでいる
実際はある所まで比例したり、途中で伸び悩んだり、落ちてったり、そこからまた比例するなりの繰り返しである
努力アプローチのいいところは手ごたえを感じるというところだろうか
そして、要領の良さは、その努力の方向を決めるときにも発揮されるものでもあるわけだが、
運転免許のような資格取得にしろ、受験勉強にしろ、例えば過去問から傾向と対策を分析し、ギャンブル的にヤマをはったりもする方向性である
当然、ヤマが外れた場合は無残な結果になるわけだが、そこもギャンブルと同じである
外したらそれを挽回して余りあるものに再度賭けるとか、数撃ちゃ当たるの精神が大事である
だから、努力の人は絶対にこの大学に入りたいとか、せめて理系に入りたいとか、そういう考えがありがちであるが、
要領の良い人はそうではなく、別に大学はどこでもいいけど、この偏差値レベルは越えていたいとか、この要素さえ満たせば就職に有利だから、
しかし、上述したように、実際は努力と要領の混合比が異なるだけで、誰もがどちらの要素も持っているのである
志望校を選ぶときもキャリアにしろ、夢みたいなものと打算が入り混じったことを考えているはずであるし、それが普通である
夢しかない人も危ういし、逆に打算しかない人というのも危ういというか、人としても面白味にかけるし、本人も人生がつまらないと思い始めると思う
生まれてずっと打算を繰り返してきた人が、どこかで一世一代の博打に出ることが必要になるのも人生である
何が言いたかったか脱線してしまったが、受験勉強ができる、という結果から逆算するなら、
その人は努力ができる人なのか、もしくは要領がいい人、ということだと思う
アスリートであるなら、水泳バカみたいな天才が野球やテニスができるとはかぎらない
水泳だけは努力で優れることができたが、集団競技はまるで駄目かもしれない
しかし、要領がいい人は、
要領がいい人は何をやってもそれなりの点数を叩き出すのである
要は、その対象にこだわりがあるわけでもなく、しかしながら、その対象からそれなりの点数を楽に叩き出すにはどうするか、
そういったソーシャルハックのようなことが好きな人なわけである
だから、受験勉強ができる=ガリ勉=仕事ができない人、みたいなヤンキーやDQNの発想は間違っていて、
要領が良ければ、寧ろヤンキーやDQNでも東大に入れるし、大学を卒業した後も社会で何をやってもそれなりの点数を叩き出すのである
エヴァで言うなら、庵野氏は世渡りが上手い、貞元氏は世渡りが下手、みたいな話をどこかで読んだが、
どんな業種であれ、場所であれ、そういうことは往々にしてあるのである
天才的にメカや爆発のようなエフェクトが描けても、宮崎駿氏に言われるまでもなく、
俺って人物が描けるってわけでもないなあ、みたいに思ったかはどうかは本人ではないので分からないが、
あっさりと演出へ転向し、そこから絵コンテや監督に方向転換するのは、絵を極めたい、みたいな職人的発想とはまた異なるものである
他人をうまく動かす、というのも誰でもできるものでもない、適性みたいなものがあるように思う
そして、自分はどちらかといえば努力の人であり、要領は極めて悪く、よって努力の方向をよく間違えるのである
留学先で女性を妊娠させて見捨ててしまう話なので、近頃は評判が非常によろしくない。そのくせ、この文体のせいで美しいと感じてしまう自分がいて、実はこれ、レトリックや文体によって騙されることに注意しろっていう警告なんじゃないかって気もする。「自分のおすすめ編」にも書くつもりなんだけど、ナボコフ「ロリータ」もそういう自己正当化がとにかくうまい。
余談だが、鴎外自身は東洋人だったこともあり、留学先では写真を撮らせてくれと頼まれたことがあったという。それに対して、構わないけどもあなたの写真も逆に撮らせてくれ、と言って、相手も満足させつつ日本人としての尊厳も守ったことがあって、これは割と好きなエピソードの一つ。まあ、漱石よりは世渡りがうまいよな。
古風な文体で挫折しかかるも何とか読破。これよりは幼馴染系の「たけくらべ」のほうが好きだったなあ。増田では古文がいるかどうかで議論になったことがあったらしいが、古文がすらすら読めるほうがこういう趣味というか楽しみが増える気もするし、純粋に実用面だけでいえば法律用語や古い公文書を読む必要がまだあるんじゃないのかな。
「舞姫」の話の続きだけど、古典文学にもやっぱりクズエピソードは結構あり、じゃあどれを教えてどれを教えないかは割と難しい。
僧侶が山間で美しい妖怪と出会う話。文庫のちくま日本文学全集で読んだ。全集と銘打っているけど、このシリーズは日本の近現代文学作家のベスト盤みたいな感じで、チョイスはいいのだけれどときどき抄、つまりダイジェスト版みたいなのが紛れていて、コンプリートしようとは思わなかった。
話としては幻想的ですごく好き。幻想譚が好きな自分がどうして泉鏡花にどっぷりはまるまでいかなかったのかが不思議なほどだ。当時は、著名な作品をどんどん消化しようと思って乱読していたからかもしれない。そういう意味でも、課題図書を読破することが自己目的化した読書には幾分害がある。
とても好き。小説が読めなくなったときには、文豪の書いたこうした随筆というか、風景描写の豊かな文章を読むことで、自分のリズムを整えたくなる。外出の難しい昨今、こうして空想の世界でだけでも豊かな自然のなかで過ごしたいものだ。五感が刺激される文章というのはなかなかない。
我輩を吾輩に修正。
ここ最近は漱石の評判はあまりよろしくないと聞く。所詮は当時の欧米の文学の輸入に過ぎないとか、結局は男社会の文学だとか。言われてみれば確かにその通りなのだけれども、日本の近代文学の開拓者にそこまで求めちゃうのも酷でしょうと思わないでもないし、この作品からたったの十年で「明暗」にまでたどり着いたのだから、やっぱりすごい人ではないかと思う。五十になる前に亡くなったのが惜しまれる。
で、肝心の内容だが。基本的におっさんがおっさんの家をたまり場にしてわいわいやる日常ものなので、当時の人にしか面白くないギャグを除けば、普通に笑える。最終回は突然後ろ向きになるが、もしかしたら漱石の本分はユーモアにあるのかもしれない。
余談だが漱石の留学時代の日記に付き合いのお茶会について「行カネバナラヌ。厭ダナー」とのコメントを残している。
素直に面白かった。若干のプロパガンダっぽさがなくはないが、読んだ当時は差別する側のねちっこさや意地の悪さが良く書けているように思われた。とはいえ、昨今は善意から来る差別についても考える時代であり、問題はより複雑になった。
被差別部落問題については気になっているのだがなかなか追えていない。日本史について読んでさまざまな地域の実例について断片的にかじった程度だ。それでも、地域によって温度差やあったり、差別対象が全く異なっていたりすることがわかり、どこかで日本全体の実情について知りたく思っている。
女中の布団の残り香を嗅いで悶々とする話だってことは覚えているんだけれども、読んだときにはあまり印象に残らなかった。なぜだろう。自分が読んできた近代文学は、基本的にダメな奴がダメなままうだうだする話ばかりだったからかもしれない。その多くの一つとして処理してしまったか。
で、自分が好きなのは飢え死にするほど悲惨じゃないくらいのダメさであり、親戚のちょっと困ったおじさんくらいのダメさなんだろうと思う。
読んだことがない。ただ、ドナルド・キーンの「百代の過客〈続〉 日記に見る日本人」によればこんなことを書き残しているそうだ。「僕ハ是レカラ日記ハ僕ノ身ニ大事件ガ起ツタ時ノミ記ケルコトニ仕様ト思ツタガ、矢張夫レハ駄目な様デアル。日記ヲ記ケ慣レタ身ニハ日記ヲ一日惰ルコトハ一日ヲ全生涯カラ控除シタ様子ナ気ガスル。夫レ故是レカラ再ビ毎日ノ日記ヲ始メ様ト思フ」(意訳。日記書かないとその日が無かったみたいで落ち着かない)。ここでツイッターに常駐している自分としては大いに共感したのである。そのうち読もう。
読んだはずだが記憶にない。「暗夜行路」で娼婦の胸をもみながら「豊年だ! 豊年だ!」と叫ぶよくわからないシーンがあったが、そこばかり記憶に残っている。これを読んだ当時は、この小説のように自分がどれほど理想を抱いていたとしても、モテないからいつかソープランドに行くのだろうな、とぼんやり思ったことを覚えている。
ちなみに、自分が初めて関係を持った女性は貧乳だった。だがそれがいい。
お父さんとうまくいっていない人は子供の才能をつぶす話である「清兵衛と瓢箪」が刺さるんじゃないかな。あとは少女誘拐犯視点の「児を盗む話」もよかった。
大学時代知り合った文学少女から薦められて読んだはずなのだが、覚えているのは「阿房列車」の何編かだけだ。それと、いつも金に困っていて給料を前借りしていて、そのことのまつわるドタバタを描いた作品や日記もあって、そうした印象ばかり残っている。
関係ないけど就職活動中に、この文学少女から二次関数を教えてくれと言われ、片想いしていた自分はそのためだけに都内にまで足を延ばしたことがある。いいように使われていたなあ、自分。あいつには二度と会いたくないが、元気にしているかどうかだけは気になる。
めんどくさいファンがいることで有名な作家。全集には第三稿や第四原稿が収録されており、比較するのも楽しい。俺は〇〇は好きだが〇〇が好きだと言ってるやつは嫌いだ、の○○に入れたくなる作家の一人。○○には「ライ麦畑で捕まえて」「村上春樹」「新世紀エヴァンゲリオン」「東京事変」などが入る(註:この四つのものとその愛好家に対する歪んだ愛情から来る発言です。僕も全部好きです。すみません)。サブカル系にはこれがモチーフになっているものが数多くあり、その点では「不思議の国のアリス」と並ぶ。
思想に偏りはあるが、独特の言語感覚や観察眼は今でもすごく好きだ。余談だが新書の「童貞としての宮沢賢治」は面白い。
知り合いにいつもぬいぐるみのキーホルダーを持ち歩いてかわいがっていた男がいたが、それで本人が落ち着くのならいいと思う。不安の多い世の中で、人が何か具体的に触れるものにすがるってどういうことなんだろう、って、ってことをこの作品を思い出すといつも考える。どこで読んだか思い出せなかったが、これもちくま文庫の全集でだった。
狭いコミュニティの中でこじれていく人間関係の話ではあるけれども、新潮文庫の場合は表題作よりも他の話のほうが気に入った。印象に残っているのは十二人の旅芸人が夜逃げする「時間」と、ナポレオンがヨーロッパの征服に乗り出したのはタムシのせいだったという「ナポレオンと田虫」。
実はこの作品は読めていない。谷崎作品は割と好きで、「痴人の愛」「刺青・秘密」「猫と庄造と二人のおんな」「細雪」は読んだ。「痴人の愛」という美少女を育てようと思ったら逆に飼育される話は自分の人生観に多大な影響を与えたし(例の文学少女に気持ちをもてあそばれても怒らなくなってしまったのもこれが遠因だろう)、「細雪」はただ文章のリズムにぷかぷかと浮くだけで心底気持ちがいい。ついでに、戦時中の生活が爆弾が実際に降ってくるまでは震災やコロナでただよう自粛の雰囲気とそっくりだったこととよくわかる。
ところで、最近久しぶりに谷崎作品を読もうと思ったら、ヒロインの名前が母と同じだったのですっかり萎えてしまった。というか、ここ最近趣味が「健全」になり始めていて、谷崎作品に魅力を感じられなくなっている。感覚がどんどん保守的になっていく。これはいかん。
高校生の頃に読んだのは確かに記憶に残っているのだけれど、高校生に川端康成のエロティシズムが理解できたかどうかはよくわからない。たぶんわかっていない。せいぜい伊豆の踊子の裸の少女を読んで、ロリコンを発症させたことくらいだろう。
太宰はいいぞ。自分は愛される値打ちがあるんだろうか、というテーマを本人の育った境遇やパーソナリティの偏りや性的虐待の疑惑に求める説は多いが、そういう心理は普遍的なものでもあり、だから多感な時期に読むとわかったつもりになる。芸術に何歳までに読むべきという賞味期限は原則としてないが、これもできるだけ若いうちに読んでおくといい。太宰の理解者ぶるつもりはないが。
もっとも、本ばかり読んで他の活動をないがしろにしていいものだとは全く思わない。あまりにもドマイナーな本を読んでマウンティングするくらいならバンジージャンプでもやったほうが話の種にもなるし人間的な厚みも出るというものだ。たぶん。
天才的。男性のあらゆる種類のコンプレックスとその拗らせ方を書かせたら彼の右に出るものは少なかろう。ただ、大学を卒業してから突然読めなくなってしまった作家でもある。息苦しくなるまで端正に磨きこまれた文章のせいかもしれない。
極限状況下でのカニバリズムをテーマにした小説なんだけれども、途中から戯曲になって、「食べちまう葬式ってえのは、あっかなあ」などとやけにのんびりした台詞が出てくるなんともユニークな小説。ただし、これは単なるブラックジョークではない。物語は序章、戯曲の第一部、第二部と別れているのだけれども、その構成にきちんとした意味がある。
人類全体の原罪を問うようなラストは必見。あなたは、本当に人を食べたことがないと言えますか?
祖父母の家から貰ってきた作品で、愛蔵版らしくカバーに入っていた。カフカにはまっていた時期だから楽しんだ。カフカの父親の影から逃れられない主人公とは別の種類の渦巻にとらわれてしまった主人公がだらだら、ぐだぐだしてしまうのだが、カフカが男性によって抑圧されているとしたら、こちらは女性に飲み込まれている文章だ。
未読。不条理な陸軍の中で、最強の記憶力を頼りにサバイブする話だと聞いて面白そうだと思い購入したのだが、ずっと積んだままだ。これに限らず、自分は戦争ものの小説・漫画をあまり読んでない。戦争に関しては文学よりも歴史書からアプローチすることが多い。
これは自分の悪癖だが、戦争ものになると庶民よりも知識人にばかり感情移入してしまう。
大江健三郎は初期の作品をいくつかと、「燃え上がる緑の木」三部作を読んだきりで、どういう態度を取ればいいのかよくわかっていない作家の一人だ。狭い人間関係の中のいじめだとかそうした描写に病的に関心のあった時期に読んだせいで適切な評価ができていない。
「燃え上がる緑の木」は新興宗教や原子力発電といった(結果的には)非常に予言的であった作品であったが、癖が強くカトリックの宗教教育を受けた自分であっても世界観に入り込むのに時間がかかった。「1Q84」よりもきつい。面白いが。
大学時代の友人に薦められて読んだ。「この家の主人は病気です」と、飢えて自分を食ってしまったタコの詩ばかりを覚えている。覚えているのはこれだけだが、この二つが読めたからいいか、と考えている。大体、詩集ってのはピンとくる表現がひとつでもあれば当たりなのだ。そして、それはあらゆる書物にも当てはまることである。
祖父が学生時代に送ってくれたのだけれども、ぱらぱらとしか読んでいない。
子供向けのものだった気もするし、近々原文にチャレンジするべきか。自助論(西国立志編)なんかと合わせて、自己啓発書の歴史を知る意味でも興味深いかもしれない。
読もうと思って読めていないけれども、これまたドナルド・キーンの本で面白い記述を見つけた。「墨汁一滴」の中に、つまらない俳句を乱造しているやつの作品にはどうせ碌なもんなんてありゃしないんだから、そういう連中は糸瓜でも作ってるほうがマシだ、という趣旨のくだりがあるそうだ。創作する上でのこういう厳しさは、いい。
「ローマ字日記」しか読んだことがない。たぶん日本で最初にフィストファックが描写された文学かもしれない。春画はどうか知らないけど。
堕落と言いつつもある種の誠実さについて語った本だった気がするが、それよりも新潮文庫で同時に収録されていた、天智天皇と天武天皇の家系にまつわる謎についてのほうが印象に残っている。
俺地方出身のトンキン在住。よくいる金の卵と呼ばれるようなヒエラルキー底辺
具体的にどういうものなのかはあえて言わないけど、よくいるクズ的な人間になりつつあると言えなくもない
ただそうするメリットって明確にあって、自由になれるんだよね。精神的にも肉体的にも。
東京って割と虐げられている人がいっぱいいて、そういう人って世渡りの仕方がヘタクソな人が多い。やらなくてもいいような苦労をしていると思う。その反面性格はいい。
俺も昔はそうで、そのせいでいろいろ苦労してきた。昔はトンキン仕草とか生粋のトンキンとか大嫌いだった。
ただ時間がたつに連れて、本当にちょっとしたことなんだけど、そういうトンキン仕草をすることによって救われてる自分に気がついて。
誰よりもめんどくさいオタクの自覚がある私だが、その最初のきっかけがクレヨンしんちゃんであるせいで、ぼくは「これ、オタク文化知らん人が読んだらどうなるかな?」「これ、性癖こじらせてない人が読んでもこの子好きになるかな?」みたいなのはすっごい考えるわけです。はい
結果として、エロマンガ読む時も「これオタクはわかるけど…」みたいなのを考えて読んでるし書いてるわけです。「オタクでもわからん」という分野を発見した時とかでもなんとか間口を広げて語ろうと頑張るわけです。…どれだけ伝わってるかは謎だけども、オタの間でさえ他分野はわからんからね
この件に限らず、そもそもが「16歳の俺が読んで面白いかな」みたいなのをそれこそワンピースの作者みたいに考えてるわけです。だから、ややこしいテーマでも語彙を難解にしたり、わかって当たり前みたいな書き方をしない。だからこそ、それができてない作品や感想にはちょっと眉唾なんだよなぁ
文系学問で「わかんない人置いてきぼりでいいや」をやるのあんま賛同できないんですよね…科学と違って正しさが証明できない時に煮詰まっていくのが目に見えてるから。科学はその点、高校生がわかる書き方しなくていいんです。正しさが証明できない科学は仮説ではあってもまだ法則でも定理でもないし私が哲学者好きじゃないのは哲学なんて数理的なもんで正しさを証明できないくせに、「高校生どころか大人でもわからん書き方したってわかんないやつが悪い」に陥るから好きじゃないんですよね。そんなもん、やる前から本人の間で煮詰まるか劣化してしか伝わらんの目に見えるやん…アホやなって
データや統計は参考になるけど、そんなモノは自分の中の「高校生」「異性」が正確な人にはデータも統計もなくてもバランスの取れた意見や伝えた方ってできるんです。
このメソッドで逆算すると「自分の中の上司像・おじさん像」がない人は世渡り下手だと思います。…まぁ、私はないですけどね
この辺も「自分のこの人物像が偏向してるな」とかそういうことは色々なケースを見てるうちに気づいたりするもんだけど…それ以前にそうやってバランスを取ろうとしない人や、取ろうにも思ってた答えの中に正解がなくてドツボにはまるケースがけっこうあるんだけど
なんでこの話ししたかって言うと、僕のことを「君の話はわかる人じゃないとわからない」みたいにいう人が過去にいたのをふと思い出したから。
その人の意見が正しいかどうかは別にしても、誰に話すかと誰に話してもわかるかはバランスとる必要あるよね。って思っただけ。知らんけど
この文章はTwitter上の久我雅大氏 @4wk2wk0 のツイート
https://twitter.com/4wk2wk0/status/1329951527230816258
夫婦別姓に反対の方、
反対のその理由を教えて下さい。
https://twitter.com/StudioBiSHOP/status/1329967345914114048
に対する再反応
https://twitter.com/4wk2wk0/status/1329980375389544448
(ブログ、noteその他長文を書ける場所を他に持っていないので、ここをお借りします。)
御用とお急ぎでない方はお付き合いを。
まず前提として、
「組織だって統制と互助の行き届いた集団と、バラバラの個人主義者の集まりが集団戦をやったら、前者がほぼ間違いなく勝つ」
という考えがあります。
野球のように正面から戦う場合だけでなく、企業の生存競争とか、一族郎党とかの生き残りでも同じです。
オオカミと同じように、人間も集団で狩りをして生存競争をする生物なんです。
これは婚姻関係を肉親関係ととらえて、血族の規模を拡張して生存能力を高めようとする考え方です。
今でも伝統的な結婚式では「〇〇家 □□家 結婚式」と表題がかかげられます。
べつに天皇家や(安倍元首相の)岸一族や鳩山一族に限りません。
ちょっとした旧家では今でも結婚を機に両家の交流をつなぎ、コネや情報を融通しあって血族の存続をはかる営みが普通に行われています。
縁戚の子供を預かって面倒を見たり、分家の秀才の進学費用を融通したりと、大家族にはそれなりの長所があるんです。
自分の実家でも、妻方の姪が進学した時に下宿代わりに長く居候をしていた時期がありました。
年の近い叔父が自分の就職相談に乗ってくれたこともありました。
もちろん、大家族のもとで不遇をかこった人の存在は否定しません。
ですが、その人たちのルサンチマン(うらみ)の声と、家族制解体の声ばかりが最近は強すぎます。
「人間関係のしがらみや支配はうっとうしい、だから婚姻は両性の合意だけで成立としよう」
というのは魅力的です。
最新の人権思想とポリティカル・コレクトネスにも相性がいいので普及しやすいのは分かります。
ですがね。
そうやってトレンドに乗りやすい人たちがバリバリと旧来の家制度を解体していく、そのいっぽうで、名家、旧家(いわゆる上級国民)はコッソリと血縁集団の枠組みを維持して、自分たちの資産(カネ、コネ、権力、総合して生存能力)を温存・成長させて行くように自分には見えます。
本来なら、カネとコネと社会を渡る知恵、総じて資本と呼びますが、そういう資本に恵まれない人たちこそ、血縁と閨閥で団結しなければならないはずなんです。
自分には、夫婦別姓というのは、そこに象徴的なクサビを入れる行為に見えます。
とおっしゃるかもしれませんが、それでは嫁入り先、あるいは婿入り先の親族との互助関係についてはどうですか?
一段、薄くなったような感じがしませんか?
ですが、目先の自由さにとらわれてバラバラの弱い個人として生存を余儀なくされたら、資本に恵まれない人はますます悪条件で生きていくことになってしまいます。
目先の自由につられたワナ、については、自分のような古い人間には苦い経験があります。
(目撃経験ですが)
「組織に縛られる生き方なんてダサいぜ!」という主張が雑誌や映画に載りまくって、少なからずの(流行に乗せられやすい)人たちが正社員登用の努力をしないで、時間配分もワークスタイルも自由なアルバイトの掛け持ちを選択しました。
いっぽう、そこそこ良いレベルの四年制大学にいた自分の周囲は、そんなブームには目もくれず就職活動に没頭して大手から中堅レベルの企業に「所属」していきました。
結果はあきらか。いまでは非正規雇用の中高年たちが大問題になっています。
社会運動家たちや最近のネット世代は「新しい時代は自由人の連帯が大事」といって、血縁によらない互助組織やサロンを模索する人もいますが、自分は疑っています。
理由としては、
ここはやはり、大家族制のように最初は子供として所属して、長じて貢献を果たし、やがては家父長制の長または重鎮として判断をふるう。という育成システムのある「家制度」の方が、長い歴史の陶冶を受けている分だけ、一日の長があると自分は考えます。
というわけで、
「夫婦別姓の容認」というのは、ささいな制度の変更に見えて、その方向性の先には
VS
の二極分化が待っているように見えるのです。
……こんな感じです。
いかがでしょう?