はてなキーワード: 手際とは
ある種の人々は言いようのない劣等感を感じている。というか、青春期、人々の多くは言いようのない劣等感を感じているように思う。それは書物で見る限り昔からのようだ。
「その劣等感はどこから来たのか?」とか「どんな理由で感じるのか?」という問いにはあまり意味はない。おそらくそれは青年が何者でもなくて何が出来るかもわからない不安感から生じているのだとは思うけれど、そんなことが分かったところで劣等感はなくならないからだ。正解でも不正解でも、あんまり意味がない。
十代でなんとかしないと、という焦りはこないだの青木君の小四なりすましの話に似ている。僕もそうだった。僕らの世代だと登大遊氏なんかが結構輝いてて、ああいう感じにならなきゃ、と思っていた節はある。十代の時になにか成し遂げないといけない、そのためには誰かに認めてもらわなければならないという焦りは、どれくらいの「大人」に理解してもらえることなのだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20141202220427
上の増田は嘆いているけれどその苦しさってそこまでユニークじゃない。「大人」の多くはその苦しみを経過して(乗り越えてとは言わない)大人になっているよ。
大人だってむかしは若者だったし若者だった以上にチンピラだった。Webの情報支援がなかった昔の若者はいまの若者以上に何も出来なくてずっとずっとボンクラだった。大人の多くは自己努力で青春だの成長だのしてきたつもりでいるから、上から目線で説教したりするかもしれかもしれないけれど、それって高度成長期があったせいであって別段昔の若者が優れてたわけじゃない。
断言する、昔の若者はボンクラだった。公平のために弁護すると、それは昔の若者の能力が低かったというよりも、さまざまな課題解決のためのフレームやマニュアルが共有化されていなかったせいだ。だからその時代、口コミや師弟関係や親族関係が重要だったしコミュ障は今よりずっとスポイルされてた。また、だからこそ「無鉄砲な行動力」が重要視されていた。体当たりでノウハウを積み重ねるというのが今よりずっと意味があったからだ。(なぜならそうして取得したノウハウは簡単には共有されないので差別化の原資になったからだ)。
今の若者はWebによる情報支援があり、さまざまな課題に関して極上のマニュアルを入手することが出来る。遭遇しうるありとあらゆる問題に対して、それを解決した先人がいて、おおよそどうすればいいのかわからないということがない。進学、就職、研究、技術的な学習、恋愛、人間関係、法律問題。様々なマニュアルや手記がWebにはある。少なくとも手がかりは存在する。
そのメリットがある半面、隣を走ってる同年代の姿もよく見えるようになって、それが劣等感レンズとして視界をゆがめている部分があるにせよ、それでもこの情報支援は大きい。今の若者は昔の若者の無意味に強気なボンクラさに比べて、様々なことを実にスマートにこなす。紳士だし慌てないし礼儀正しいし、誤解を恐れずに言えば「有能」だ。
それはおそらく、いわれのない劣等感にさいなまれている増田でさえ有能なんだ。
オタクがサブカルを敵視したのか、サブカルがオタクを差別したのか、はてなブックマークのコメント欄も白熱しており、ヤンキーも巻き込んで混然としています。
http://hatenanews.com/articles/201412/23089
だから、この記事に見られるようなオタクとサブカル、あるいはそれに加えてヤンキー同士の抗争というのも実は本質的ではない。本質は劣等感だ。
いわれのない劣等感がまず先だって存在し、その劣等感は消去できない。麻痺させるしかない。劣等感を麻痺させるいわば痛み止めとして、この種の抗争が存在する。ほとんどすべての人間は、無名の置換可能な消費単位でしかない。若者であればそれはなおさらだ。そんなことは当たり前なのだから、そこで劣等感を感じるべきではない。しかし青春期の自意識にとってはそうではないので、劣等感を感じるし、その劣等感を痛み止めするために、近しい場所にいる別の消費者を罵倒してるだけだ。
歳をとるとその過程で様々なケーススタディを経験するし、見聞する。若いころ、世界には才能ある人(100点)とクズ(0点)しかいないように思う。
もちろん年を取ったこの世界にも100点の人と0点の人はいる。でもそれ以外の点数の人々もいるってわかってくる。わかってくるっていうのは、例えば42点の人がいるということじゃない。そんなことは(理論的には)若者の時だってわかっていた。
わかるのは「42点の人と41点の人の間にある差」だ。そのわずか1点の差が、彼我の間の明暗を分けるというような例をたくさん目にすることになる。「1点の差の大きさ」が実感としてわかるようになる。そもそもある年代を100点で分割すれば、任意の社会人が自分の職場で見ることのできる人間の幅なんて5点差くらいしかないんだ。「俺の今いる会社にいるのは38点~43点」とかそんな感じ。しかしたかがその5点の間の距離が、越えがたく遠いということもわかる。新入社員39点が40点に成長するのはすごく大変だ。
そしてこの点数はジャンルや技能ごとに分かれていてその種類も百種類じゃ利かないってこともわかってくる。つまりどういうことかというと、人間ってのは恐ろしく膨大なパラメータで構成されていて、若いころ思ってたよりもその距離感は遠く、埋めがたく、複雑だってことだ。マクロに見てみれば確かに消費単位としての人間なんて似たようなものだけど、ミクロに見てみればAさんにできてBさんにはできない、って問題にあふれすぎている。卑近なことでいってみれば「議事録を手際よくまとめてコピーして事前に配布しておく」程度のことでさえ、人間と人間の間には差があって埋めがたい――それが中年になるとわかる。
その種の格差ってのはもちろん絶望でもあるんだけど、一方で解脱というか、いいことでもある。
少なくとも「世界は才能ある人(100点)とクズ(0点)でできている」みたいに乱暴で便利で安易な絶望には向かわないですむようになる。
世界を二種類で塗り分けるってのはずいぶん簡単で、その若い絶望は手抜きだったんだな、ってわかるようになるんだ。
若者はまだケーススタディが足りてないから「俺は0点だ!世界はクソだ!」とか叫ぶけれど、ちゃんと観察を続ければ(たとえば)自分は28点だってのがわかってくる。もちろん自分が28点しかないってのは、そりゃたしかにがっかりするけれど、27点の人との間にある圧倒的なアドバンテージも同時にわかってくる。それが解れば、28点全部を放り出して「俺は0点だ!」なんて思いもしなくなる。
それに遠いとはいえ29点の方向もわかるようになる。29点になる為の1点を100分割して28・01点のためになら多少歩くことだってできる。これはなにも努力至上主義みたいな話ではなくて、どちらかというと、真っ暗で見たことも聞いたこともない砂漠に放り出された時、地図を持ってるのと持ってないのとでは大違いだ、という話に近い。努力をしなきゃならん、すべきだ、という話ではなくて、自分に何が出来て何ができないか(=自分の点数もわからない)で生きていくのは、生死にかかわるほど不便だってのももちろんだけど、ただわからないというそれだけで死ぬほど不安で不幸なことだって話だ。
そんなわけで、ここでいう若さ特有の劣等感は嵐みたいなもので中年になれば消える。すくなくともどっかの職場で働いて自分の姿が見えてくれば薄れていく。1点の差を乗り越えるためにグダグダ数年を過ごせば、懐かしくなる程度には過去になる。そこだけは、おっさんとして、安心してもいいんだよ、と言いたい。
「どうして解散するんですか?」は、どうみても小学四年生のサイトには見えない。
今回の一連の騒動で、サイト構築の手際にケチを付けたり、デザインやスクリプトの拙さを指摘する声は皆無だ。
つまり、「小学4年生」という冠を外せば、サイトとしては良く作られている。
数人のチームで、数日で作り上げたとするのであれば、そこそこの値段が取れる出来だと言える。
問題なのはコンセプトであり、根底にある「小学4年生を騙った政治主張」なワケだ。
そうなると「本気で小学4年生を騙る気だった」と仮定すると、矛盾が生じる。
繰り返しになるが、本件で「彼ら」の技術的な能力は、悪くない。
当然、小学4年生を騙る気なら、小学校の自由研究リサーチしたり、場合によってはリアル小学生に作文を依頼するなり方法が山ほどある。
「知り合いの小学生が政治に興味を持っていたことに感動したので、我々に出来ることがないかとお手伝いをした。このサイトは我々が作ったが、その主張は小学生のもので、サイトの魂は小学4年生のものだと考えています。(プライバシーに配慮して、Twitter上のやりとりは大学生が仲介します)」
とかなんとか、いくらでも考えられる。
つまり、彼らはコレを「フィクション」や「主張の為のロールプレイ」だと考えていた節がある。
そう考えなければつじつまが合わない程度には、彼らには能力も技術も動機もあったハズだ。
ロバート・レッドフォード監督の映画『大いなる陰謀(Lions for Lambs)』は、政治色の強い映画だ。
野心的な政治家と、苦悩する記者。政治に真剣な大学生が、軍隊に志願し、大学教授は彼らを必死に引き留める。
そして、かたや能力も才能も持ちながら、怠惰な生活を送る白人大学生と教授との会話。
怠惰な大学生は、その能力を持ちながらTVの前で、自堕落な生活に疑問を持ちながらも流されていく。
貧困層の黒人が前線の無謀な作戦で窮地に陥る点を、「嘘をついている」と批判されるだろうか。
そうではないだろう。
コレは映画であり、明確なフィクションとして、万人に認識されている。
政治的な主張に対して批判こそあれ(リアリティがない・陰謀論に傾いている等はあれども)、映画だ。
彼らは、こういったフィクションと同じ「釣り」を楽しんでいたつもりだったのではないか。
「彼ら」はきっと、十分に賢いだろう。
たぶん僕よりもずっと記憶力に優れ、計算が速く、試験で点も取れる。
事実と意見を区別すること、主張と人格を分離すること、論理立てて誠実に説明すること。
医者として誠実であろうとすれば、「薬には副作用があります」という説明をするしかない。
事実と意見は区別しよう、事実はその裏付けをキチンとしめそうと言ったところで、
既に世の中には、「絶対に」「1000%」「必ず」といった演説や論説が溢れている。
質問時間中に「庶民感覚がない」と言ったり、「漢字を読み間違える」と指摘したりする。
賢く熱心で、議論というモノを理解しようとする子供達から、そう言った「手法」を模倣し出す。
例えば、学校制服の有り無しで両論陣に分かれて議論するときに、ヤジを飛ばす。
相手の言い間違いを指摘して笑い、些細な間違いを追求して全体を否定する。
ただ、世の窃盗犯が根絶できないから、子供に物を盗むなと叱れないわけじゃない。
モラルのない大人が居るから、子供にモラルを教えられないわけじゃない。
それが「僕らの一歩」だろう。
(例えば、この匿名投稿内の事実はなんだろうか?裏は取れるだろうか?意見は?「なぜ上から目線なんだ?」というコメントに価値はあるか?)
そのダイエー、食料品だけではなく日用品や衣料、家具家電に本屋にファミレスまで入ってるような
スーパーとしては規模でかい所(イオンモールのような今時の郊外型巨大SCには負けるけど)なんだよね。
食料品だけの小規模スーパーなら店員がそもそも少ないし(下手すると店長以外全部パートとかだったりするし)店長もレジ打って当たり前だろうけど、
というかそもそも今までレジで管理職おじさんなんて見たことなかったんだけど。
あとおばちゃんじゃなくておばあちゃん。どう見ても60代以上な人が増えていて、手際も悪い。
まったく対策しないでTOEICの問題を試験会場ではじめて見るという状態で受けたら595点だった。でもそのあと、二回目の試験の直前に3日だけ対策して受けたら815点だった(1回目と2回目の間に対策以外で英語はまったく勉強していない)。結局対策するかどうかで200点違うわけだ。
完璧に対策して600点しか取れない人はちょっと人間としてだめだと思うけど、対策しないで600点前後取れるなら、800点は簡単に取れると自信を持っていえる。それは自分の経験からいってそうなので。あ、べつにこれで900点取れるとかいってるんじゃないからね。800点なら取れるっていってるだけ。あと、800点すげえだろって話でもないからね。800点はアホだと思う。だってぼくでも取れたんだから。
では対策をどうするかということだけど、それはPart1でどんな問題が出てPart2でどんな問題が出るか……等を把握するだけでいい。とくにPart3とPart4が問題文をあらかじめ読んでおけばいいんだなと学習すればそれだけで点数が馬鹿みたいにはねあがる。
リーディングは問題自体は簡単で、単純に時間との勝負。これも反復練習で点数伸ばせる。問題はPart5の文法をいかに手際よくやるかじゃないかな。しかもこれもパターンが決まってる。あとPart7のnot問題(時間がかかる)を飛ばすというやり方も効果的らしい。これはぼくはやらなかったけど。
たったこれだけの対策でもともと600点の人なら英語力を上げなくても800点になる。800点がいいとはまったくいわないけど、とりあえず800点取りたい人は対策したらいいよ。英語力を上げるとかそういうことではなくて、TOEIC対策をすればいい。模試形式の問題集が売ってるからそれをやるだけ。
というわけで、800点台取れるということにたいした意味はないわけで、TOEICを受けるなら900点は取ったほうがいいんじゃないかな。英語が得意な人なら当然900点台は取っておかなくちゃいけないと思う。ぼくは英語が嫌いで苦手で、全然勉強してこなかった。それなら英語勉強してるひとが900点取れないのはおかしな話で。
「とりあえずTOEIC受けてみたけど600点くらいだった。TOEICむずかしいな……」なんて思ってる人はもう一度ちゃんと対策して受けてみたらいいと思う。きみなら800点は取れるよ。いや、800点なんて取ったところで意味はないんだけどさ。
ああ、そうそう、あと0.5mmのシャープペンはやめたほうがいいと思う。鉛筆か芯ホルダーかマークシート用のシャープペンを用意しましょう。
ループする世界に意味をこじつけなくたって、ポストモダンが動物化しなくたって、何かで性欲を正当化する必要なんかなく、いつだって僕たちにはオナニーする権利はある。
F4Uの新作『好奇心は猫をもアレする』は、ひとたび開けば一気に理性なんて吹っ飛ばし、声に出して読みたい日本語と限りない法悦が襲い掛かる、そんなステキな作品である。
この一冊を開いて、一番初めのコマに書いてあるのは「ヘルス部だぁ!?」の一言である。変な部活ものがこの世の春を謳歌する現代において、逆に禁じ手なのではないか。
僕はこれから自分を打ちのめすであろうF4Uワールドへの期待に、床上手な処女のように打ち震えた。
手際よくぴゅっぴゅする導入を経て、「偏差値15学園」連作は開始される。ヒロインはレイプが横行する偏差値15学園において先述のヘルス部を立ち上げ、貯めたお金で塾に行くことを夢見る黒ギャルである。奇想である。どこへ行くんだこの話。その先は是非あなたの目で確かめてほしい。その果てで、あなたはきっと「偏差値」という単語の持つポテンシャルを知ることとなるだろう。
さてさて話はかわるが、読者諸賢もご存知の通りエロ漫画において女の子が行為に及ぶエクスキューズは数多く存在する。そして、どの「なぜ」を選ぶかには、作家性が色濃く現れる。
らぶらぶえっちがあり、無理やりからの快楽堕ちがあり、悪堕ちがあり。中には、極端に人口上の男女比が崩れ女は牝奴隷と化している、機械が人類の観察のために性行為を模するなど、世界の法則を歪めるレベルのエクスキューズでSFというジャンルに一歩も二歩も足を踏み入れた作品も少なくない。
『好奇心は猫をもアレする』では、凌辱系にしろらぶらぶ系にしろ、とにかく女がペニス(作中の言葉をひくなら“そう、それは――ちんぽと呼ぶには、あまりにもペニス”)を求めて堕ちてゆく。
エロ漫画ってそういうものでしょう、と紳士たるあなたは思うかもしれない。
しかしそこはF4Uの真骨頂、堂々たる男根で牝を盛らせ、攻撃的なまでに擬音を響かせながら堕としていく様は迫力すら感じられる。中出しした後に膣から溢れ出る精液からは生命が匂い立つ。
言葉で、絵柄で、セックスに至る過程を暴力的なまでに納得させられている。その独特な言語感覚に支えられた強烈なドライブ感に、F4Uの作家性があらわれている。
思うにF4Uの凄味は、可愛い女の子描写(頭身高め、ヤンキー、優等生、地味子、巨乳貧乳何でもアリ)、ダイナミックな構図作り(魅せるための体位作り!)だけではないのだろう。
それらに加えて、底抜けに力強いちんちん賛歌があるのではないか。どいつもこいつも血管の浮き出た逸物をビキビキイキり立たせ、牝を思うがままに喘がせている。
F4Uの描くちんちんは、物言わずともその在り様で雄弁に語る。早く挿入れたいと切なげに、女を牝に引きずり堕としたいと猛々しく。
「カラオーケストラ」では優等生らしいJKに自ら笑顔でチンポを求めることを強要して内側から精神を破壊し、「忘れ××もの」では処女からセックス中毒に堕とした元カノに真の絶頂を思い出させている。
F4Uの作るエピソードには、どれにもチンポへの畏敬の念が通底している。本作のカバー下でも、チンポ作画に関するこだわりを見せている。そのチンポへの飽くなき追求、はもはやちんちん賛歌の域にある。
これは私見なのだが、エロ漫画は可愛い女の子とちんちん賛歌の両輪で駆動する地獄車である。エロスとナルシシズムの幸福なマリアージュと言い換えてもいいだろう。
性的欲望を向けるに足りる対象と、欲望やその持ち主自身を肯定する象徴としての力強いペニス。特に後者は、露出された欲望を雄々しいもの・女性から欲望されるものそのものとして描いていることで、読者から理性を引き剥がすための後押しとなりうる。僕たちはヒロインたちに欲望を肯定され、ガチガチの男根の背中に自分を重ね、ひととき獣に戻る。男根によって世界に没入し世界と繋がり、猫をもアレしているのは、きっと僕たちだ。
理屈をこねまわすのは終わりだ。サタデーナイトはオナニーフィーバーとキャノン先生も言っている。
さあ諸君。知恵の実なんて吐き捨てよう。猫に戻ろう。めくるめく夜を始めよう。
近隣住民と言っても主催が区役所なんだから、事前にごみ処理について指導しなかった区役所の問題だろ。
ゴミは持ち帰って下さいっていって持ち帰るわけがないのは事前にわかっていたことで
帰宅ルートにそって、ゴミ捨て場所を設置して人をアサインしてゴミを回収しなければならないことはイベントやってる人間ならわかること。
その上で、地域住民の管理監督責任がある区役所主催ならましていわんや。
つまり、主催者である区役所の手際が悪かっただけなのを、客のせいには出来ないし、地域住民のせいにも出来ない。
逆にこれ、主催が民間イベントだったら区役所からクレームや行政指導が入るだろ。
自分が主催してるから自分に行政指導できないから黙ってるだけで実際は、行政指導の対象だろ。
なんで未経験者を雇用して会社で育てないんだよ? と聞かれたのですがその時は場所柄率直な返答ができなかったのでマスダにてメモしておきます。
まず「どんなやる気のないクズでも育てられるようなマニュアル」はないです。「どんなやる気のないクズでも育てられるような教育係」もいないです。世の中のどこかには存在するかもしれないんですが、少なくとも自分の生きてきた環境では見たことないです。
一方で「クズ同然の劣悪な教育放棄」「新人いじめとしか思えない現場環境」のなかでも、それなりに仕事を覚えて能力を身につける人間は多くはありませんが確実にいます。多くはないと言ったって、そう絶望的な割合ではありません。5%くらいでしょうか。残りの95%だってストレスで脱落しているだけであって、ちょいと現場環境を整えてやれば、10~20%くらいの人間は、特別なマニュアルや新人研修をしなくても、勝手に仕事を覚えます。
思うに、自分自身を教育できるのは、自分自身しかいないのだと思います。マニュアルや研修や教育係はそれを活かすことは出来ますが、ゼロは何をしてもゼロです。
冒頭に戻り「なんで未経験者を雇用して会社で育てないんだよ?」何ですが、これは「即戦力募集」という募集文章に対する疑問として問われました。
雇用現場側の話で言いますと、未経験者を雇用しても特に問題ないですし、育つ奴は勝手に育つと思ってます。しかしながら育つかどうかは本人の素養によるところが大きいので「即戦力募集、という言葉で雇用しておいて、伸びない人材だったら試用期間/有期雇用で切る」が最適戦略ということになります。これはその戦略が正義か悪かという話ではなく、ただ単に効率の問題です。
「そんなことをしてると長期的視点で人材が育たない」とかいう批判もあるでしょうが「やる気がないクズ」というのは5年育てても(というか育ってないので、育ててもというよりは、雇用して職場を共にしても)本当にわずかに成長しません。入社三カ月の新人に電話対応の手際で負けるとか、あり得ます。
そういう人材ばかりを雇用して「長期的視点で人材育成」とかいってる経営者は無能だと思いますし、個人的にはあり得ません。
(彼らは会社組織の利益にフリーライドしてるわけであり、真面目な仕事をしている社員を含むステークホルダーに対する背信者でさえあると思います)
もちろん「自分で自分自身を育てられる人」というのは有能なんで、仕事覚えたら別の場所へ転職しちゃう危険性はあるのですが、でも前者の育たない人を雇用するよりもよほどましです。
つまり、現状現場戦力を拡大したり維持することを雇用面から見る限り「新人ガチャガチャを回しダメだったやつはすぐ切る」のが現状ではもっともいいのです。
これが派遣社員や有期雇用が増加している理由だと自分は思っています。
「正社員になりたい」という人は多いですが、今の日本の現状を見る限り正社員というのは「自分で自分を育てていける人材」しか勤まりません。そして「正社員になりたいと言いつつなれない人」の多くは自分を育てる気が全くありません。
今現在の雇用状況は、ある視座から見たとき、不正義に見えるかもしれませんが、そこには(善悪ではないにしろ)それなりの理由があるのです。
いつの間にか気になる存在に変わっていることに、ふと最近気づいた。
ヒットしたFacebook。
「『知り合いかも?』で表示されたのだけど、もしかして君のこと?」
部署でたまたま開かれた懇親会の席で、酔ったふりを装って友だちになってみた。
だが、アレはダメだ。
朝と寝る前に、短い時間だが、確実にネットに接続しているようだ。
友だちになって1週間もしないうちに、ネットに接続するパターンは概ねつかめてしまった。
FBで友だちになると、より深い情報にアクセスできるようになる。
FBでタグ付けされた写真をめくっていくと、人間関係の傾向や嗜好が次第にわかってくる。
きっと元彼と別れた時期と前後しているのだろう。
いまは、付き合っている相手が誰か。
そして社内の噂と照合して、おおむね見当はついている。
来月の平日に、二人は揃って休みを取って泊まりがけで出かけるはずだ。
その夜、二人は同じ部屋で相向き合っているのだろうか。
プレゼントに感極まって、二人で肌を重ね合うのだろうか。
だが、彼女にとって、私はあくまで仕事でのみ接点がある風景のようなものにすぎない。
プライベートな領域に、下心を悟られずに近づくにはどうすればよいか。
一時期考えてみたのだが、いまその一線を侵してしまうのは、あまりにも危ないと感じた。
理由はいくつもある。
どれをとってみても、行動することで導かれる予想は、痛手を被る結末しかありえない。
長い目で見れば、彼女は仕事での有能なパートナーとしてとらえるべきなのだ。
彼女のためでもあるはずであることは、わかっているはずなのに。
雑念を取り払うには、今取り組んでいる仕事の質を高めるべく
目の前の課題に没頭するほかないのだろう。
独りだけのオフ会。
しかもメイン垢とサブ垢3人のオフ会で、3人にドタキャンされた体でやる無意味なオフ会だ。
単に4名予約して、独り寂しい感じで4人前を食べる宴会。
そして「どうしていきなりこれなくなったの?独りだったよ……」とかidコールで愚痴るシメまで考えている。
返信も「ごめんね」とか「それじゃ無理してでも行けばよかった」とか「4人前食うとデブるぞ」とか。
アロハを来てカラのスーツケースを持って朝早く羽田空港まで行って、屋上で日焼けして飛行機を見て帰ってくるみたいな、
なんだかDPZみたいだろ?っていう、そういう日曜の過ごし方に、実は少しウキウキしていた。
すぐに悲しそうなのは変かな?とか、スマホでチェックするふりもいるかな?とか。
でもそんなちょっとしたウキウキも、受付をしてくれた店員の返答で消し飛んだ。
「あ、やっときた。私はアイディmasu_okaこと、岡田です」
「俺はmasu_oreこと、飯田だ」
「ま、増田です。アイディはmasudaです」
じゃあ、ビールで良いかな?という気遣いを見せる竹田君が注文をしてくれて、手際良くコースが開始される。
「やっと4人で会えたね。結構idコールする仲なのに、オフ会したことなかったし」
「まあまあ、とりあえず乾杯しようよ」
カンパーイ、の声とともに、先に揃っていた3人がさっきまでの話題を僕に教えてくれる。
「実は増田さんが来るまでの間に、オフ会の難しさについて話し始めてたんだよ」
「竹田くんは、もっと議論するような堅いのがオフ会なんだと思ってたんだって」
「俺は飲めれば何でもいいけどな」
「あ、そ、そうなんだ」
「増田くんは、あ、幹事してくれてありがとう。結構雰因気良さ気なお店だね」
「例の部長が絡んできた宴会だろ?もっとガツンと言えばいいんだよ」
「女子なんてもっとメンドイよ。お酌とかさー。あたし気も利かないし」
は、ははは、と作り笑顔で笑いながら、心の中はハテナマークでいっぱいだった。
というか、誰なんだ一体。
確かに、masu_okaはネカマとして僕が作ったサブアカウントだ。
女性っぽいアカウントだと、ディズニーやダッフィー好きを表に出せるし、ネカマは完全に別人格で面白い。
今もジェラトーニの話をしてる。そう、あの猫は僕も好きになれそうなんだ。
masu_takeは、気さくでちょっとリア充なサブアカウントだ。
普段非モテだの孤独だの言う事が多いけど、そうじゃないこともある。そういうのを書きたいときに便利だ。
今も如才なくサラダを取り分けたり、おかわりを聞いたりしている。岡田さんの隣りに座ってても緊張していない。
masu_oreは、攻撃的な言説を取り扱う専門のサブアカウントだ。
会社の愚痴とか、ちょっと攻撃的すぎるかなと思ったブコメを残すときに使う。例のNGリストにも無事載っていた。
飲めればいいと言うだけあって、よく食べてよく飲む。思っていたよりも嫌なヤツ感は無いけど。
「で、増田はどう思うんだよ?」
「集団的自衛権とか、難しいよね?」
「まあまあ二人とも。増田さんは、政治ネタって大丈夫な人だよね?」
「そ、そうだね。国連では認められてる権利だけど、憲法では使えないだろうって解釈の話だから」
「自分の国での取り扱いから入るのも、一つの切り口だと思うよ」
「ねー、ディズニーとかそういう話に戻ろうよー」
割合に楽しく時間が過ぎていき、何故か成功したオフ会の雰囲気が漂った形で宴会はお開きになった。
「日曜日だし、みんな社会人だもんね。次はどっか遊び行ったりしようよ」
「それも良いかもね。お酒抜きで遊ぶのは、社会人だと珍しいよね」
「俺は飲みたいけどな。まあ、たまにはいいか」
じゃあね、と店の前で比較的あっさりとした別れ方をして、ふわふわとした気分のまま帰りの電車にのった。
なんというか、すごく楽しかった。
4人で、しかも話も合って、お互いにネット上に載せてることは知っている。
直接会うから喧嘩にもならないし、適度に散漫で、適度に理知的で、良いオフ会だった。
会計の精算をしそびれたけど、次に遊ぶときにで良いだろう。切り出すタイミングが難しいけど。
そういえば連絡先交換しなかったなと思いながら、電車の中でさっそくidコールで三人に感想を送った。
結構悩みながら文面を考えたけど、結局は「楽しかった。またぜひ遊ぼうよ」って。
新着通知が3件ある。
出張先のホテル周辺があまりに何もないためふらついてたら雀荘を発見
お一人様歓迎の文字を馬鹿正直に受け止め独り突貫
の前に「雀荘 独りで」とかで検索して
教えてgooで独りでも全然行けます的な回答に安心感を得た後に店に入った記録
スペック:
20代後半
ルールはひと通り知ってる
符計算はできない
哲也を全巻読んでる
扉を開けるなり「イッラッシャーセー!!」と声を掛けられ面食らう
もっと暗いもんかと思ってたので意外
囲われてる卓は2つ
「フリー初めてなんですけど」と言うと先に飲み物出されてルール説明が始まる
正直アリアリとかの確認だけかと思いきや
アカ牌やツモ上がりなどに連動しているっぽいが、正直まったく把握できず
この時点で少し嫌な予感がよぎるが、笑顔で大丈夫です宣言してやり過ごす
あと東南戦って言われたのがよくわからず、
これが普通の半荘戦であることに気づいたのがこれを書いている今
これが最低金額らしい
少し多くね?とは思った
しばらくして卓が空いて案内される
面子は将棋の田中魁秀に似たおじさん、greyのhisashiに似たイケメン、小太りな童顔のおじさん
この時点で「初めてで手際悪いと思いますがよろしくお願いします」みたいな予防線を張る
もう若干怖い
開始
・理牌以外は片手で、卓上に手を置く
・自分側の山を少し手前に出す
(時間が経ってから中央の赤いランプの点灯で分かることに気づく)、
理牌中なこともあって
今思っても初回で全て処理することは無理だと思う
・自分側の山を少し手前に出す
これは何度も注意を喰らい、なんかもう申し訳なくなる
あと俺の後ろにずっと店員さんが立っているのはなんかの嫌がらせか
と思ったが、今思えばサポートで入っていたのかもしれない
最初の半荘は見事にラス
詳細は省くが、諸々の環境適応作業による緊張のせいで捨牌が分析できない
あと早さに慣れない
少し止まるだけでもう謝らなければいけないあの独特の雰囲気
有り得ない捨牌で放銃して泣きそうになる
祝儀関係は予想通りさっぱり分からんので全部店員任せなのも申し訳ないやらで
とにかく集中できない
次の半荘が始まってから、少しずつ冷静さを取り戻す
そもそもなんでこんな見知らぬおっさん達にこんなに申し訳なさそうにせにゃならんのだ
普段の上司に対するそれをなんでここでも発揮しなきゃならんのだ
みたいな感じで自分に苛つき
ある程度の形式的なやり取りをする以外は極力余計な気配りを排す
すると不思議なことに、この場はそういうのが一番ストレスフリーだという事に気づく
ああ、皆そういう感じで自分中心にやってるのね
何故か少し悲しくなる
なんでだろう、分からない
なんで俺は進んでこんな場に入ってしまったのかとすら思った
たぶんこの感覚がある限り、俺は雀荘には向かない
ただ、やっと集中しだしてからは少し楽しくなった
ギリギリにかわして手を作る緊張感はやはり良い
2回目の半荘は2位
抜けようと思って店員さんに申し出たら
と冷たい目で言われる
それは先に言っといてくれ
しゃあなしで3週目
と思いきや少し経って童顔おじさんがまさかの四暗刻ツモで即終了
なんだそれ
俺とイケメンは大いにリアクションしてしまったが、おっさん二人は無表情
もう少し嬉しそうにしやがれ
そんなこんなでトータルで4000負け
初回の洗礼をまともに食らった形になった
次は慣れててもっと楽しめるとは思う
でもじゃあもう一回行くかと言われると微妙なところ
緊張感が味わえるのは良かったが、そこにいる人間の雰囲気のせいだろうか
常に通うにはなんだか肌に合わない
いや、これが居心地が良いと感じる人はいるだろう
他にやりたいことがある場合は行かないほうがいい
反応有難く存じます
だと思う
それ故にここで引いておかないとその後入り浸りそうで自戒の念を込めました
だからゲーセンの方が健康的なんだよ。対戦ゲームなら勝っても負けても1クレジット分は3ケタ円しか消費しないし、これはプレイヤー全員に適用される。賭け事じゃないから金は貰えないけど「楽しい」これがすべてだ
これはなー・・・俺もゲーセンにはかなりお世話になったし
俺がパニクった原因であるすべての手作業が自動化されているのが最高なんだけど
やっぱり牌を手にとって重みを感じながら、人間とやりたい欲求があるんだよな
リアルの緊張感とは代え難い
その雀ゴロ達すごく紳士的で手加減してくれれたと思う
それは思った
あと俺のリーチに対して、普段なら絶対出さないであろう少し怪しい牌を強気で差し込んできたり
まあ正直判別できないが、いい人達だったと思う
なんだかまた行きたく
いややめておこう
私は人の気持ちがわからないコミュニケーション不全の人間である。なぜそう思うのかというと、みんなの暗黙の了解を自分だけ理解できていないらしい場面に何度も遭遇してきたからだ。言葉の裏が読めない。例えば、ある人が荷物を持っていたとして、「この荷物すごく重いんだ」と言ったとする。これは普通の人には『だから荷物持つの手伝って』という意味を持っているらしいが、私にとっては言葉通りの意味でしかない。逆のパターンもある。手料理を食べていて、単に料理が冷めていたから私は「この料理冷めてるね」と言う。それは普通の人には『手際悪いんだよ』という非難の声に聞こえるらしい。前述の通り、単に料理が冷めていたことを形容しただけなのだが。
しかし不思議なことに空気が全く読めないわけではない。私が言葉の裏を読めなかったために起こった微妙な空気は察することが出来た。そのため居づらい思いをしたのは数えきれぬほどである。つまり、生きづらさを感じて生きてきた。幸い、今は子供の時分よりも少しは落ち着いて生きることができている。言葉の裏を読む訓練を重ねたからだ。
その訓練とは単純なもので、微妙な空気になった会話を思い返し何が悪かったのか理詰めで考えることである。そしてその結論を自分の中のデータベースに蓄積し、次に同様のパターンに遭遇した時に反映させる。とはいえ、それには膨大な時間を要した。他人との挨拶と世間話に困らないレベルになったのが20代前半になってやっとのことであった。
ただ、やはり普通の人とは違うと感じる。普通の人には人の感情をそのまま読み取るような力があるらしいが、私は観察と理屈がないと人の感情が分からない。今まで私と同類らしい人との遭遇に気づいたことはないが、ネット上を見ると私と同様の生きづらさを抱えて生きている人が散見される。
なぜ我々(勝手に我々と呼ばせてもらう。それが正しいように思える)が生きづらい思いをしているのか、考えてみたので勝手に語ってみる。
結論から先に言うと、我々はインプットに重大な欠陥を抱えているために結果として生きづらい思いをするハメになっている。それをこれから説明しよう。
まず重要なのが、我々には感情がないわけではないということだ。我々には感情がある。だから、他人に感情があることを理解している。そしてその感情が自分たちと同様の働きをするものだと暗黙的に信じている。だからこそ他人が自分の意図しないところで怒ったり悲しんだりすることに動揺する。自分の心の働きと他人の心の働きがどうやら違うらしいことに気が付き、そのことで悩み苦しむ。だが、私の結論からすると、我々の心も普通の人の心も同じ働きをするものであるらしい。続ける。
我々の心と普通の人の心が同様のものであると仮定する。まず、普通の人が他人の感情が理解できないという状況に陥ったらどうなるかシミュレートしてみると、我々と同様に驚き、狼狽すると想像できる。次に、我々が他人の感情に気づけたらどうなるかシミュレートしてみると、普通の人と同様に振る舞えると想像できる。冒頭で出した例で言うならば、荷物持つの手伝ってと言われたのならそれをあえて無視することは考えづらい。
では普通の人と我々を隔てるものは何なのか?それは読み取る情報の量である。普通の人は我々が想像できないくらい高レベルに他人の感情を読み取るらしい。だから、荷物が重いと言われたら手伝ってほしいという気持ちを読み取り、料理が冷めてるねと言われたら非難されていると思う。
重ねて言うが、我々には普通の人と同様の感情がある。言葉の機微を読み取れたなら、我々も自分の性格にそって普通に対応ができる。だが、その言葉の機微を読み取ることが出来ない。それはなぜなのか?
私はそれを頭の悪さだと考えていた。どうやら知能とは違うベクトルで頭の良し悪しがあり、我々はそれが極端に悪いのではないかと。結局それが正しいように思う。料理が冷めてるねという発言の例で言うのなら、それを発した我々に裏はないのに、普通の人は裏を読み非難されたと思う。これは仮に普通の人がテレパシーか何らかの方法で他人の感情を直接読み取っているのだとしたら起こりえない現象だ。つまり、普通の人は言葉の裏を一瞬で考えられるくらい頭がいい。
ただ、何度も繰り返すが我々に欠けている能力はそれだけだ。我々は頭が悪いから、言葉に込められている、込められてしまう感情の機微に思いが至らず、頓珍漢な言動をしてしまう。ただ、それさえ除けば後は普通なのだ。だから我々がどんなに冷たいように見えても、心の中はそんなことはない。人を傷つけてしまったらそのことに傷ついたりもする。
我々にとって、日常は地雷原のようなものだ。頭が悪く言葉の機微を上手く扱えないことによって、知らずのうちに他人を傷つけてしまう。しかし他人を傷つけたことには気づけてしまうことが多い。言葉の機微を上手く読み取れない我々が気づくくらいに他人が傷ついたというシグナルを発するのだ。そしてそれは辛く、恐ろしいことである。だから人とのコミュニケーションを拒絶し、更に孤立してしまう我々も少なくないように散見される。
そんな我々が普通の人とうまく付き合うためにはどうしたらいいのか?
それは考え続けることしかないように思う。幸い感情の動きが同じ心を持っているのだから、相手の気持を考えることはできる。それは極端に遅い速度であるしその時には時間切れになったりすることも多いが、人と関わり続ける限り、次に生かせる場面はきっと来る。
そして、普通の人を恐れないことだ。普通の人は案外優しい。それが、自分は普通では無いと疎外感を持ちながら普通の人を恐れていた私が30年生きてきて結論づけたことだ。普通の人も我々も同じ心を持つ人間だから、当たり前すぎる結論かもしれない。ただ、我々の心を普通の人にも分かってもらいたいと同時に、人と関わることを恐れている我々にも、普通の人を理解してほしい。我々が言葉の機微を(なんとか)読み取り適切に対応したのなら、普通の人を恐れる理由はどこにもないのだ。
特に何があったというわけでもないけれど、この度陰部を脱毛致しました。
皮膚がたまに荒れるのが治まるなら、とか思ってたけど、かなり爽快。
そこにあった筈の、絡み付くあの茂みが一切伐採。
茂みを支えてた大地、もとい、思春期より、とんとお姿が見えなかった柔らかい皮膚と再会。
ここってこんな色になっているのかー!と僥倖。
夏は股間(デリケートゾーン)が痒くなる事も軽減される、とのことだけど、
既に服に擦れることによる引っ張られや、重ね着による蒸れ等から解放されて初めて知る不快感。
不快な状態に慣らされると人は不快だってことに気付かなくなるんだね、KA☆I☆KA☆N
これだけだとなんだから、一日体験記とか書いてみる。
もともと脱毛サロンでメニューを見つけた時から気になりはしていたけれど、申し込んでからも前日の昼間にスケジュールを見るまですっかり忘れてた。
光脱毛を知らない人のために書くと、毛が生える2か月くらいの周期に則って5~6回毛根が弱る光を当てて剛毛の生える毛根を徐々に薄毛の生える毛根に変えていく、というもの。だから一回やっても意味がないのです。今回は6回コースを申し込んでます。
受付を済ませて着替えをするとやたら愛想のいいお姉さんが現れたけれど、自分の陰部を会って2分も経たない他人にさらけ出すのは医者に対してでも何でも羞恥心巻き起こらないはずもなく。そんな当方の吹き荒れる心中などモノともせず、施術前に▼に生えている部分に対して、
どういう形にするか
についてコンサルされる。今のトレンドだと、まずは全部一度脱毛して、そのあと毛の質を徐々に変えていく、という方法があり、その方が清潔感もあるらしいのだけど、銭湯やジムに行ったときに、あまりに無防備な自分を曝け出し、防御力の少なさに涙する未来が思い描かれたので、ほんの少しだけ残して貰うことにした。
俯せ大股に寝っころがり、Oラインと呼ばれる尻穴回りを手際よく剃毛→お姉さんの手でジェル塗布→脱毛ライト照射
表に返って前の▼というよりも■になってる部分も事前の相談通りに僅かに残す部分以外は剃毛→ジェル→ライト
いわゆるIラインと呼ばれる前から後ろへ繋がる部分は、片足ずつ折り曲げて開いたのち、
昔の役者さんがやっていた前張りというのはこんな感じなのかなと納得させた。思いをはせた。
このシチュエーションは、何かを絶え間なく色々考えていないとやるせないほど恥ずかしい。
すぐになれますよ、お姉さん(たぶん同い年位)はそういったし、実際にきっとすぐに慣れていくのだろうけど。
こんなことで悩んでた小さな私はすぐに忘れ去ってしまうのだろうけどだけどもだけど。
排卵日近いし陰部近いしデリケートゾーンなのでエロい気分なわけでもなんでもなく、
ただその場所を守ろうとして体が条件反射的に分泌物を出してくる。
それを受けるための紙も敷かれているわけだけど、紙が濡れているのがジェルで濡れているのか何で濡れているのか、
お姉さん気持ち悪くないのかな仕事だけど嫌だよなと、脱毛終盤はただただ申し訳ない気分で一杯だった。
お姉さん、顔を合わせてるときは満面の笑みだったけど、見られていないときは滅茶苦茶ダルそうだった。
この間約30分。
30分前に生きていた人も死ぬし、新しい世界への扉を開ける人もいる。
肉体的な痛みは全く伴わない(光照射が痛いという人もいるけど自分はそんなに)けど
精神的な苦痛は若干あるので行く前には心の準備が必要なのかなとか思いました。まる。
ただ、それを乗り越え得た爽快感をここで伝えることについて、やぶさかではございません。
蒸れない・擦れない・熱くない。
カミソリで剃ることによっては得られない、新たな世界がそこにはありました。
ああ、ついでにいうと業者のものでもなんでもないです。利用者です。
これはやるまでの心のハードルがあるけれど、やるとなんでやらなかったんだろう、って考えるわ。マジで。
で
そりゃ友人の選んだ店がよろしくなかったというのが一番確率高い。
TVで紹介された店なんかはそんなに美味しくないことも多いけど、そういうものだしね。
でもそれだけじゃなく、元増田の場合は単純に自分の好みの味つけでないと満足できないだけじゃないかな?
そりゃ自分で作った料理の方が、大抵の店で作ったのより遥かに美味いよ。
好みに味付けられるし、具を好きに増やせるし。
寿司、うなぎみたいな特殊技能が要るもの以外は、自分で作った方が美味い場合が多い。
でも、「自分が作れないようなもので、おいしいものをを食べたい」って欲求があるから、
美味そうな店を見つけてチャレンジするんじゃん。
知らないおいしさを探しにいくと言うか。プロの手際を堪能しに行くと言うか。
要はそういう「より美味しいものが食べたい」「食べたことがないものを食べて見たい」という
君が慣れ親しんだ味でないと満足できないだけで。
無論両者に優劣などないし、良いも悪いも無い。
私は子供のころからいい子で、家にいたころはよく母の家事を手伝っていた。
お陰で大学に入って一人暮らしをするようになっても困らないですんだ。
そのせいかお正月に帰省した時に、私が提出間近なレポートを仕上げているというのに、母は家事を手伝えとうるさくてしかたがなかった。
勉強してるからと断っても、そんなに勉強が大事かと、不満気だった。
暗に私にとって勉強よりも家事の方が大切だと言っているようだった。
よって、男友達で集まって鍋をする時なども大抵調理は私の担当になる。
特に取り決めもないはずなのだが、そういう空気が流れて、それに逆らえずに私が下ごしらえを全部することになる。
その間に彼らはウイイレとかで遊んで盛り上がっている。
まあ、まともに料理ができるのは私だけだし、サッカーゲームは得意でないからいいのだけど。
そのくせ具材を用意し終わって、いよいよ鍋で煮ようとする段になって仕切りだす。
やっぱりお前の作る鍋はうまいなーなんて、仕切った奴を褒めたりしているが、いや、そのだし汁も私がとったし、あんたら茹でただけだろ…
と心の中で毎回つっこむが、口に出したら彼らなりのプライドを傷つけそうで言えないでいる。
後片付けも全部私がやる。
前、一度だけ手伝ってもらったことがあるが、手際も悪いし台所を汚すしで、ひどいものだった。
だから、手伝うと言っても自分の調理器具を人に触ってほしくないからとか、理由をつけて断っている。
彼らも暗にそれを期待している節があるように感じる。
思えば今まで付き合った相手も、家事全般ぜんぜんダメという人が多かった。
私が家事全般そつなくこなすし、なんとなくソーイングセットを持ち歩いているようなキャラで通ってるから、そういう相手がよってくるのかもしれない。
そういえば、シャツの胸元のボタンがとれて困っているのを、さっと縫い付けて直してあげたのがきっかけで付き合ったこともあった。
まるで魔法みたい!って、それどこの雫だよみたいなこと言ってたな。
結局最後は、お前の女々しいところが嫌いとか言われて別れたけど…
私はあなたの聖司にはなれなかったよ、ごめんね…
確かに私は女々しいのだと思う。
だけど、女々しいという言葉が悪口になることこそ、男女差別ではないだろうか。
私は日常の中で、私に女らしさを強制する空気を感じているし、それは絶対に存在している。
その空気に従っているだけなのに、女々しいとか人格を否定されるようなことを言われるのが信じられない。
いや、男らしくそんな空気に従えるかと突っぱねればいいのかもしれないけど、でも男らしいとか女らしいとか、やっぱり男女差別だよね。
私と同じような思いをしている人が絶対に他にもいるはずだ。
まだ男女差別はあるよ、絶対に。
鼻を啜りながら歩いていたら、それは俺である。
昨年の年初から約二年ぶりに帰ってきた。
月末の給料とともに落として、
言わば、やむなく。
リビングに一人いたおかんは不満を言うこともなく、ご飯はいる?と
真っ先に聞いてきた。
おかんの直近の話……ダイエットに成功したサプリを俺に勧めることから始まり、
最近こっちに来た祖母が会いたがってたよ、いつまでもあんたを愛してるんだねという話になり、
太ったの?健康診断引っかかるよ、アルバム見る?と俺の過去話になり、
帰り際に財布落としたなら困ってるんじゃない、ちょうど祖母が"置いていった"
お小遣いがあるよ、と手際よく韓国のりと湿布が入った紙袋ともに封筒を渡された。
中に十万入っていた。
仕事はまぁまぁ、小さいプロジェクトだけど楽しくやってると空元気で答えたが、あれは嘘だ。
大きいプロジェクトでぼっちに鬱病を加速させて、左遷という形で
同期の上司に耐えながら、何とかやっていたんだ。
こんなに太ったのは幸せ太りかも、いい感じの人がいるんだ……と
話を振って照れ隠しのように強引に打ち切ったの、あれは嘘だ。
土日の空白を、コンビニ弁当を買い込むことで毎週解消し続けてたんだ。
それなのに、おかんは気づかなかった。
いや気づいてたのかもしれない。
あんたは、柔和な性格なんだから、太って周りに圧迫してる壁さえ無くせば、
俺はただ、へいへいと遅めの夕刊に目を通しながら流しただけだった。
すまん、ほんとは全部聞いていたんだ……
人とプライベートの話をするのも久しぶりだったが、
孤独のグルメに慣れさえも感じなくなった今、ようやく俺は気づいた。
話していたとき物音のする書斎から扉を開けて顔を合わすことすらしなかったが、
おかんは違った。そのことに気づけただけで、実家を離れて暮らして
心底良かったと思えた。
今まで育ててくれてありがとう。不肖の息子でごめんなさい。
面接って大変だね。履歴書読んでも、自己PRして貰っても、どんな質問をして貰っても地雷ばかり。
何故そんなことになるのかと、うちの人事課で分析した所、面接での質問の受け答えのうまさと仕事のできは直結しないっていう単純な事実が浮かび上がった。口がうまいだけの奴が得するんだよ。ではどうするか? 単純。実際に仕事をして貰えばいい。もちろん仮想的なものだけど。1次面接、2次面接は従来通りのもの。3次面接では、次の4つのことをやって貰う。
1データ入力(細かいことは説明せずとにかく資料だけ渡してやってもらう。ここで臨機応変に対応できる人とおろおろするだけの人に分かれる)
2コピー取り。(うちの実際の資料を使用。手際のよさを見ると同時に、知識や情報を盗もうとする意欲を見る。ただコピーするだけの人と資料を読みながらコピーする人に分かれる)
4その場で渡した我が社の商品をプレゼン。(準備時間は60分。パワポは使えないが、紙とカラーペンは用意)
これやると本当にできの悪い奴をあぶり出せる。午後一杯時間はかかってしまうけど、教育コストなどを考えると最終的な効率はこっちの方がいい。
今30人程度受けて貰って、まだ1人しか採用はないけどその子はやっぱりできがよかったよ。
人事で困っている人は試してみそ。
数日前、朝の7時頃に電話が鳴った。まだ、こちらは布団でまどろんでいる時間。「また糞上司か?」と少し面倒臭がりながらも携帯を見ると、ディスプレイには「父」と表示されていた。
「県外に住んでいる父親から朝早くに電話がかかってきたこと」その意味は電話に出なくとも判った。緊張しながら電話を取る。「かあちゃん亡くなってもうたわ」と第一声から聞こえてきた。母親はしばらく前から入退院を繰り返し、医者からはいつ亡くなってもおかしくないと話を受けていた。できるだけ家で最後を迎えたいということで、今は実家にいるはずだった。父親は少し声が震えていたが、事実と事務的な事をこちらに手際よく伝えてきた。朝、母を起こそうと思ったら冷たくなっていたとらしい。こちらも会社での受け答えのように事務的に答えていたと思う。声が震えていたかは判らない。父親に何か声をかけようかと思ったが、俺の白い頭から何も出ず電話を切った。とにかく出来るだけ早く、実家に帰る。こちらにできることはそれだけだと思った。
できるだけ早く帰る。そう頭で思ったが、身体は動かなかった。今母と父は実家に二人暮らし。父が、母が亡くなっているのを見つけたという事実がすぐにある記憶を思い起こさせた。
俺が実家にいた頃、それもちょうど朝七時くらいだったろうか。俺が寝ている部屋に父親が入って来て「かあちゃんが起きん!」と言った。いつも父親は七時頃に母親を起こして介護の1日を始める。起きないとはどういうことだ、と俺は慌てて母の部屋に向かった。そしたら、普通に母親は身体を起こしていた。
俺「え?」
父「あれ、お前何で起き取るんや?」
母「起きちゃ悪いんかい」
父「いや揺さぶっても全然起きなかったから死んだかと思うたで」
母「勝手に殺すなや」
というちょっとした笑い話があったのだ。
俺は母が亡くなった報せを聞いたあとすぐにそれを思い出し、今日父親が朝起こそうとしたら母親が亡くなっていたという事実と重なりあった。
父親はまず普通に揺さぶっただろう。当然母は起きない。次には優しく声をかけたかもしれない。「朝やで。起きいや」と。でも、それでも起きない。次は強く揺さぶる。でも起きない。父親は何度も何度も、揺さぶったと思う。父親も以前、母親を強く揺さぶっても起きなかったことを覚えているだろうから。揺さぶればいつか母親が起きて「起きちゃ悪いんか」とまた悪態をついてくることを期待して何度も揺さぶったと思う。
でも最終的には気づいたと思う。もう起きないと。
このくだりは完全に俺の想像である。だが、間違ってないだろう。後で、父に聞いたところ、脈の確認はしなかったと言っていた。気が動転してそこまで気が回らなかったといっていたが、本当は死を確認するのが怖かったのかもしれない。
父親が亡くなった母を揺さぶる光景が頭にはっきりと浮かんで来て、早く実家に帰らないといけないという思いながらも、俺はしばらく動けなかった。布団の中で俺は少し声を上げて泣いてしまった。
疲れた。葬式は一昨日終わった。頭の中の整理がつかないから増田に一部始終を書いてやろうと思ったが、疲れた。近頃の若者は母の死の気持ちの整理をつけるために増田に書くのか、と怒られそうだな。
死は自宅で迎えたいという声は多いらしい。でもその死を見つける側にしてみれば大変な話だと痛感した、と少し教訓めいた言葉を残し、それっぽく文章を装飾して寝る。
お母さんさよならー。僕寝るよ。
元記事が消えていたので、内容が分からずもやもやしていた。あらためて読んで、「そりゃ消すわ」(笑)ってことがよく分かり、すっきりした。ありがとう。
3年前の記事において、「ダブルバインド」という心理学用語は、ねじれという「国会の状況」のことというよりも、主張を一貫させない有権者によって困惑させられる「政治家の心境」を指して用いられている。オバマが例に挙がってるけれど、要するに「3年前」の内田の記事は、
「Aという政策を掲げる」→「高い支持率で当選する」→「Aを実施する」→「強く反発して支持率を下げる」
という対応を見せる国民は、政治家をダブルバインドの心境においこんでフリーズさせ、一体何を望んでいるのか? と問うているわけであり、そして内田自身が記事の最後に
なぜ日本に限らず、先進国の有権者たちは「政治過程が凍結すること」を望むようになるのか。
これは十分に生産的な問いになりうると私は思う。
と書いてるように、「自分も政治のフリーズを望んでいる」とはっきり述べてる。つまり、「ねじれ」によって政治がフリーズすることを、3年前の内田は「望んでいる」と書いてるわけだ。
よって、このことは、そのまま3年後の参院選総括記事における
政治システムは「よいこと」をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ「悪いこと」が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる。
という話にそのままストレートにつながるよね。ここで内田は、「なぜ『決まらない政治』を自分は望むのか」という3年前の問いに、一つの回答を示している。「できるだけ『決まらない』方が安心だからだ」ということ。
つまり
3年前の記事 = 問い 、3年後の記事 = 答え
という関係であって、矛盾などどこにもなく、そこに一つの思考の流れがあるだけだ。
2つの記事の間に矛盾があると思った人は、一体何をどう読んだのか? おそらく、内田の言ってる話があまり理解できず、文章に漂う「臭い」とか普段の立ち位置とかに基づいて、言葉の端を捕まえて騒いでいただけなんだろうなあ、というのが感想です。
元記事の投稿者は、それに気づいたのかもしれないけど、消すよりも自分の誤解を追記した方が良心的なはずで、そのあたりみっともなかったと思う。尻馬にのったブックマーカーは、idを晒し続けるわけで、まあ気の毒というかなんというか。
http://anond.hatelabo.jp/20130724001408
元記事ブックマーク
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130723175829
専門職や技術職なら、人によって生産性の違いは顕著に出てくるだろうけど、飲食業みたいな単純労働の場合、そんなに差は出ないよ。
皿洗いやテーブル拭きの速さ、レンチンして客に出すまでの手際の良さなんかは、人によって多少の差は出るだろうけど、
君が比較するような何倍もの差は出ない。出るなら、単純にそいつにやる気が無いだけ(つまり、自己責任)
ただ、その「多少の生産性の違いも明確にして、出来る奴は給料を上げ、出来ない奴は給料を下げる」という、完全成果主義なら賛成。
飲食業の例なら、皿洗う枚数の時間あたりの平均値を出して、それを上回る奴は時給を何%か上げて、下回る奴は時給を下げる。
作業が遅い奴は、時給下がっている分を働いて補填する。この考えなら誰も文句言わないでしょ。だって、時給下がるのはそいつの責任なんだから。
で、生産性の低い奴は、低くても大丈夫な店で働けるようなセーフティーネットが必要なわけで。ワタミみたいな格安居酒屋的な。
そう考えるとワタミの存在意義もなくはないんだけど、ワタミはなぜか安い店なのに、高い店以上の事をさせようとするからおかしくなる。