理論的には可能なんだろうけどさ、その「内心の自由」ってどういうものなんだろうか。
一切表に出さず、頭の中でぐるぐると子供への性的な気持ちを自己充足的に完結させられる。そんなのってある?
たとえば妄想を絵にしたりするんだろうか。でもそうやって絵にするためには、モデルがいるよね。誤解しないでほしいけど、ロリエロイラストはロリエロ写真や動画を参考にして模写しないと描けない、なんて話じゃない。ただ、一対一で対応するようなモデルが必要なわけではないにしろ、なんらかの形で想像の拠りどころとなるような体験というか原情報は必要なんではないのか。つまり見られている人にはわからないような形で、どこかの誰か子供をエロい目で見たことがないのに、ゼロからいきなり完全な想像の産物としてのロリエロイラストを描くことが果たして可能なのだろうか。そしてそれはたまたま気づかれなかったにしても、やっていることは「内心」にとどまっていないのではないか。視姦という、犯罪ではないにしろ、もし気づかれたら対象にとって多大なストレスを与えるような、害を与える行為を実行していることになるのでは。
合法的に手に入る子供向けファッション誌とかそういうのをオカズにするのかな。あとは昔の美術に描かれた子供とか? あとなんだろう、もしかしたら子供みたいな雰囲気の人形とかを使うのかな。でもそういうものが、たとえば「ペドファイルの性欲を満たすための合法的道具」として買えるようになったとして、そういうものが流通しているという状態が存在すること自体が、「子供の身体は性的に扱っていいのだ」というメッセージを発してしまうことになるのではなかろうか。
ペドファイル・チェックみたいなものが社会的に実施されて、それに引っかかったら予防拘禁されるとか、そういう自体を引き起こしてはいかんという意味では、ペドファイルにも内心の自由はあるとは思いますよ。でもなんか、チャイルドマレスターと峻別して、LGBTQのQの中に入れて、社会的に存在を承認してあげなければならないのです、みたいな話になると、それはなんか違わない? って気持ちになる。認めることによって、子供に密やかに性的なまなざしを向けることが肯定されてしまうとなったときの子供の気持ちってどうなんだろうな、みたいな。ようは、社会的に存在は認められていないというか、政治的な権利獲得などを求めることはできないけれども、ゾーニングされた形でエロイラストみたいなものが流通して、それで無聊をかこつくらいには、ある種の「必要悪」みたいな形で存在が許される立場である……みたいなのが落としどころなんではないのかなー。
ちなみにこういう話をすると、同性愛もかつては社会的になんたら〜……みたいな反論が来るんだろうけど、同性愛って性の対象を対等な相手として想定できるでしょ? 子供は性的自己決定権を制限される、未熟な存在であるという線引で社会が回っている以上、どうしたって子供はペドファイルにとっては対等な相手には定義上なりえないわけで。そこんところが同性愛や他の成人同士ないし対等な関係の相手との関係性だけを認めるものと違うんじゃないのかなー、ペドファイルは。
そう、結局のところ、やっぱ「相手が(対象が)子供だ」ってことが、やはりなんらかの扱いの差を生むのはしょうがないんじゃないのかなぁ。なんか世の中が大々的に方針転換でもして、どんな年代の相手でも恋愛対象として見なしてよし! とでもならん限りは。