はてなキーワード: 世界初とは
山口敬之の逮捕状の執行中止を命じた男が今日警察庁長官に就任した。世界で一番有名な警察トップだ。歴史にも残る。
この件でTBSは重要な関係者であるのに追及を免れている。説明すべき事をしていない。これはおかしい。
警察が逮捕状を執行する為に空港に張っていたという事は山口の帰国日どころか搭乗便も知っていたという事だ。
TBS以外にない筈だ。つまり、告訴を受けて警察がTBSに聞き込み→事件が会社に発覚→降格処分決定→帰国決定→搭乗便を警察に伝える→逮捕状請求→張り込み、という流れ。
なのにTBSはいつ山口の事件の事を知ったのか?、それを受けて人事処分決めたのか?畑違いの営業部への転属の理由は何か?逮捕状執行の事は予期していたのか?という事を説明していない。
・世界初で韓国のベトナム戦争慰安婦問題を取材したがそのスクープはTBSに握り潰された→記事を文春に持ち込み掲載された→これを問題とされて降格人事を受けた
・韓国ベトナム戦争慰安婦のスクープをTBSが握り潰したのは韓国軍への遠慮や忖度による
と説明しているが、実はこのストーリーは夕刊フジがあとから考えたものだ(特に後半の理由付け)。
理由付け部分は幼稚だが、それ以前は本当かどうか確認しないといけない。
なのにTBSは「NYにいる山口が初めて捉えたスクープ」を拒絶した理由をちゃんと言っていないし、人事異動理由が文春への持ち込みかどうかも説明していない。
営業部に転属になった山口は16年5月末付けでTBSを退社、6/9に『総理』を上梓する。
営業部での勤務中に執筆したのだ。執筆には官邸などでの取材をせねばならないが既に営業に転属されて取材行為は出来なかったはずだ。
だからこのスキャンダルの信憑性に大いにかかわるので、営業部に毎日出勤してしたのか、オフィスアワーに官邸の面々と会う機会を許していたのか?という事をTBSは言わねばならないがやっていない。
「自分の所の社員だったものが不祥事起こしてすいません」的な事しかTBSは言っていないし、その謝罪だけで他のメディアは許してしまっている。
本来なら社内の誰が警察とのやり取りをしていたか、過去に同様のトラブルを起こしていなかったか、リクルーター的活動での男女比、リクルーター活動の社内での把握の有無、営業部での勤怠状況などが詳らかになっていなきゃいけない筈なのに、全然取材されていない。なんでこんなに身内に甘いのだろうか?
鑑定や価値測定の問題は非常に幅広いものである。人間にとっては、好意の返礼、物々交換、貨幣、信用、雇用、市場での購入など、あらゆる交換システムに関わってくる。また、強要、課税、貢ぎ物、司法上の刑罰の設定などにおいても重要である。動物の互恵的利他主義においても重要である。例えば、サルが背中を掻くために果物を交換することを考えてみよう。相互に毛づくろいをすることで、個人では見えないし届かないダニやノミを取り除くことができる。しかし、どれだけの毛づくろいとどれだけの果物を交換すれば、お互いに「公平」だと思える、つまり離反しないお返しになるのであろうか?20分間のバックスクラッチングの価値は、果物1個分であろうか、それとも2個分であろうか?また、どのくらいの大きさの果物であろうか?
血と血を交換するという単純なケースでさえ、見かけよりも複雑なのだ。コウモリは、受け取った血の価値をどのように見積もっているのだろうか。重さ、大きさ、味、空腹を満たす能力、その他の変数で価値を見積もるのだろうか?それと同じように、「あなたが私の背中を掻いてくれたら、私があなたの背中を掻く」という単純な猿の交換でも、測定は複雑になる。
大多数の潜在的な交換において、動物にとって測定問題は難題である。顔を覚えてそれを好意に結びつけるという簡単な問題以上に、そもそも好意の価値の推定値について双方が十分な精度で合意できるかどうかが、動物の相互的利他主義の主な障壁となっているのではないだろうか。
現存する旧石器時代初期の人類の石器は、我々のような大きさの脳には複雑すぎる面がある。誰が誰のためにどのような品質の道具を作ったのか、したがって誰が誰に何を借りているのかなど、彼らに関わる好意を記録しておくことは、一族の境界線の外ではあまりにも困難であっただろう。それに加えて、おそらく残っていない多種多様な有機物や、身だしなみなどの刹那的なサービスなどがあるであろう。これらの物品のほんの一部でも譲渡され、サービスが行われた後には、我々の脳は膨れ上がっていて、誰が誰に何を借りているのかを把握することはできなかった。今日、我々はこれらのことをよく書き留めているが、旧石器人には文字がなかった。考古学的な記録が示すように、氏族や部族間での協力が実際に行われていたとすれば、問題はさらに悪化する。狩猟採集民の部族は通常、非常に敵対的で相互に不信感を抱いていたからである。
貝がお金になる、毛皮がお金になる、金がお金になるなど、お金が法定通貨法に基づいて政府が発行した硬貨や紙幣だけでなく、さまざまなものであるとすれば、そもそもお金とは何なのであろうか。また、飢餓の危機に瀕していた人類は、狩猟や採集にもっと時間を割くことができたはずなのに、なぜネックレスを作って楽しんでいたのであろうか。19世紀の経済学者、カール・メンガーは、十分な量の商品交換から自然に、そして必然的に貨幣が進化することを初めて説明した。現代の経済用語で言えば、メンガーの話と似ている。
物々交換には利害関係の一致が必要である。アリスはピーカンを栽培してリンゴを欲しがり、ボブはリンゴを栽培してピーカンを欲しがる。たまたま果樹園が近くにあり、たまたまアリスはボブを信頼していて、ピーカンの収穫時期とリンゴの収穫時期の間に待つことができたとする。これらの条件がすべて満たされていれば、物々交換はうまくいく。しかし、アリスがオレンジを栽培していた場合、ボブがピーカンだけでなくオレンジも欲しかったとしても、運が悪かったとしか言いようがない - オレンジとリンゴは同じ気候では両方ともうまく育たない。また、アリスとボブがお互いを信頼しておらず、仲介してくれる第三者を見つけられなかったり、契約を履行できなかったりした場合も、運が悪いと言わざるを得ない。
さらに複雑な事態も起こりえる。アリスとボブは、将来的にピーカンやリンゴを売るという約束を完全に明確にすることはできない。なぜなら、他の可能性として、アリスは最高のピーカンを独り占めし(ボブは最高のリンゴを独り占めし)、他の人には残りかすを与えることができるからである。2つの異なる種類の商品の質と量を比較することは、一方の商品の状態が記憶でしかない場合には、より困難になる。さらに、どちらも凶作などの出来事を予測することはできない。これらの複雑さは、アリスとボブが、分離した互恵的利他主義が本当に互恵的であったかどうかを判断する問題を大きくしている。このような複雑な問題は、最初の取引と互恵的な取引の間の時間的な間隔や不確実性が大きいほど大きくなる。
関連する問題として、エンジニアが言うように、物々交換は「スケールしない」ということがある。物々交換は、少量であればうまく機能するが、大量になるとコストがどんどん高くなり、労力に見合わないほどのコストになってしまう。取引される商品やサービスがn個ある場合、物々交換市場ではn^2個の価格が必要になる。5つの商品であれば25個の価格が必要となり、悪くはないが、500の商品であれば25万個の価格が必要となり、一人の人間が管理するには現実的ではない。貨幣を使えば、500の製品に500の価格というように、n個の価格しかない。この目的のためのお金は、交換媒体としても、単に価値の基準としても機能する。(後者の問題は、暗黙の保険「契約」とともに、競争市場が存在しなかったことから、価格が近しい交渉ではなく、長い間進化してきた慣習によって設定されることが多かった理由でもある)。)
物々交換に必要なのは、言い換えれば、供給やスキル、好み、時間、そして低い取引コストの偶然の一致である。そのコストは、取引される商品の数の増加よりもはるかに速く増加する。物々交換は、確かに全く取引をしないよりははるかに効果的であり、広く実践されてきた。しかし、お金を使った貿易に比べれば、その効果はかなり限定的である。
原始的な貨幣は、大規模な貿易ネットワークよりもずっと前から存在していた。貨幣には、もっと早くから重要な用途があった。貨幣は、信用の必要性を大幅に減少させることで、小規模な物々交換ネットワークの働きを大きく改善した。好みが同時に一致することは、長い時間の間に一致することよりもはるかに稀だった。お金があれば、アリスは今月のブルーベリーの熟度に合わせてボブのために採集し、ボブは半年後のマンモスの群れの移動に合わせてアリスのために狩りをすることができ、誰が誰に借金をしているかを把握したり、相手の記憶や誠実さを信用したりする必要はない。母親の子育てへのより大きな投資を、偽造できない貴重品の贈与で担保することができる。貨幣は、分業の問題を囚人のジレンマから単純な交換に変えてくれる。
多くの狩猟採集民が使用していた原始的な貨幣は、現代の貨幣とは全く異なる姿をしており、現代文化の中では異なる役割を果たしており、おそらく後述する小さな交易ネットワークやその他の地域的な制度に限定された機能を持っていた。私はこのような貨幣を、本来の貨幣ではなく、収集品と呼ぶことにする。人類学の文献では、このようなものを「お金」と呼んでいるが、これは政府が印刷した紙幣や硬貨よりも広い範囲で定義されているが、このエッセイで使う「collectible」よりも狭い範囲で定義されている。また、曖昧な「valuable」という言葉もあるが、これはこのエッセイの意味でのcollectiblesではないものを指すこともある。原始貨幣の名称として他の可能性がある中で、コレクティブルという言葉を選んだ理由は明らかであろう。コレクティブルは非常に特定の属性を持っていた。それらは単に象徴的なものではなかった。コレクティブルとして評価される具体的な物や属性は、文化によって異なる可能性があるが、恣意的なものではない。収集品の第一の、そして究極の進化的機能は、富を貯蔵し、移転するための媒体であった。ワンパムのようなある種の収集品は、経済的・社会的条件が貿易を促進するところでは、現代人が知っているような貨幣として非常に機能的である。私は、コイン時代以前の富の移動手段を議論する際に、「原始的な貨幣」や「原始的な貨幣」という言葉を、「収集品」と同じように使うことがある。
人々、一族、あるいは部族が自発的に貿易を行うのは、双方が何かを得ることができると信じているからである。価値についての彼らの信念は、例えばその商品やサービスについての経験を積むなどして、取引後に変わることがある。交易の時点での彼らの信念は、価値についてはある程度不正確であるものの、利益の存在については通常正しいものである。特に初期の部族間貿易では、高額商品に限られていたため、各当事者が自分の信念を正しく理解しようとする強い動機があった。そのため、貿易はほとんどの場合、双方に利益をもたらした。貿易は、何かを作るという物理的な行為と同様に、価値を生み出した。
個人、一族、部族はそれぞれ好みが異なり、これらの好みを満たす能力も異なり、これらの能力や好み、そしてそれらの結果として得られる物について持っている信念も異なるため、貿易から得られる利益は常にある。このような取引を行うためのコスト(取引コスト)が、取引を価値あるものにするのに十分低いかどうかは別問題である。我々の文明では、人類の歴史上の大半の時代よりもはるかに多くの取引が可能である。しかし、後述するように、いくつかの種類の取引は、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生した頃まで、一部の文化にとっては取引コスト以上の価値があった。
取引コストが低いことで利益を得ることができるのは、任意のスポット取引だけではない。これが、貨幣の起源と進化を理解する鍵となる。また、家宝を担保にすることで、取引の遅延による信用リスクを回避することもできた。勝った部族が負けた部族から貢ぎ物を取ることは、勝った部族にとって大きな利益となった。勝利者の貢ぎ物を集める能力は、貿易と同じ種類の取引コスト技術の恩恵を受けていたのである。慣習や法律に反する行為に対する損害賠償を請求する原告や、結婚を斡旋する親族集団も同様である。また、親族は、タイムリーで平和的な相続による富の贈与の恩恵を受けていた。現代文化では貿易の世界から切り離されている人間の主要なライフイベントも、取引コストを下げる技術によって、貿易に劣らず、時にはそれ以上の恩恵を受けていた。これらの技術のうち、原始的な貨幣(収集品)よりも効果的で重要なものはなく、また初期のものでもなかった。
H.サピエンス・サピエンスがH.サピエンス・ネアンデルターレンシスを駆逐すると、人口爆発が起こった。紀元前4万年から3万5千年の間にヨーロッパを占領した証拠から、サピエンス・サピエンスはネアンデルターレンシスに比べて環境収容力を10倍にしたこと、つまり人口密度が10倍になったことがわかる。それだけではなく、彼らは世界初の芸術を創造する余裕があった。例えば、素晴らしい洞窟壁画、多種多様で精巧な置物、そしてもちろん貝殻、歯、卵殻を使った素晴らしいペンダントやネックレスなどである。
これらは単なる装飾品ではない。収集品や、その時代に進歩したと思われる言語によって可能になった、新しい効果的な富の移動は、新しい文化的制度を生み出し、環境収容力の増加に主導的な役割を果たしたと考えられる。
新参者であるH.サピエンス・サピエンスは、ネアンデルタール人と同じ大きさの脳、弱い骨、小さい筋肉を持っていた。狩りの道具はより洗練されていたが、紀元前35,000年の時点では基本的に同じ道具であり、2倍の効果も10倍の効果もなかったであろう。最大の違いは、収集品によってより効果的に、あるいは可能になった富の移動だったかもしれない。H.サピエンス・サピエンスは、貝殻を集めて宝石にしたり、見せびらかしたり、交換したりすることに喜びを感じていた。ネアンデルターレンシスはそうではなかった。これと同じことが、何万年も前にセレンゲティで起きていたのである。
ここでは、コレクションアイテムが、自発的な無償の相続、自発的な相互取引や結婚、法的判断や貢ぎ物などの非自発的な移転など、それぞれの種類の富の移転において、どのように取引コストを下げたかを説明する。
これらの種類の価値移転はすべて、人類の先史時代の多くの文化で行われており、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生したときから行われていたと考えられる。このような人生の一大イベントである富の移転によって、一方または両方の当事者が得られる利益は非常に大きく、高い取引コストにもかかわらず発生した。現代の貨幣と比較して、原始的な貨幣の速度は非常に低く、平均的な個人の一生の間にほんの数回しか譲渡されないかもしれない。しかし、今日では家宝と呼ばれるような耐久性のある収集品は、何世代にもわたって持ち続けることができ、譲渡のたびに相当な価値を付加することができたし、しばしば譲渡が可能になることもあった。そのため、部族は、宝石や収集品の原料を製造したり、探索したりするという、一見すると軽薄な作業に多くの時間を費やしていた。
富の移転が重要な要素となっている制度では、次のような質問をする:
1. 事象、移転された財の供給、移転された財の需要の間には、時間的にどのような偶然の一致が必要だったか?偶然の一致があり得ないことは、富の移転にとってどれほどあり得ないことか、あるいはどれほど高い障壁になるか?
2. 富の移転は、その制度だけで収集品の閉ループを形成するのか、それとも循環サイクルを完成させるために他の富の移転制度が必要なのか。貨幣の流通の実際のフローグラフを真剣に考えることは、貨幣の出現を理解する上で非常に重要である。多種多様な取引の間で一般的に流通することは、人類の先史時代のほとんどの期間、存在しなかったし、これからも存在しないであろう。完結したループが繰り返されなければ、収集品は循環せず、価値がなくなってしまう。作る価値のある収集品は、そのコストを償却するのに十分な取引で価値を付加しなければならない。
以前、出身校が校舎を建て直すための寄付を集めていたんだけど、
色がばらばらになっているレンガ造りの建物を見た目そのまんまな感じに再現する、って言うんだよね。
似たようなノスタルジックな建て直し計画はよくあるのだけど、俺はそういうのは大嫌いで、作るならパフォーマンス向上にすべての予算を注ぎ込んで作って欲しい。
「今はまだコスパが悪くて市場性は無いけど、最先端の技術をつぎ込めばこんな便利な建物が建てられる。
『俺たちの先輩が寄付を集めて建てた世界初尽くしの建物がこの校舎だ』と今後100年言わせる校舎を建てるから寄付をしてくれ。」
と言われたら、たぶん俺も寄附しちゃうんだけど、
と言われても、どうでもよくなっちゃうんだよなあ。
黒人が合衆国大統領になるのは当然だ。当たり前だが政治的に優秀な黒人も、そうでない黒人も多数いる。そのうちの誰かはアメリカを代表するにふさわしい人物だろう。
女性が首相になる。何が不思議なんだろうか。世の中の半分は女性なんだから、そりゃなるだろう。性別がどうであれ、優秀なら政治能力に問題はない。
しかし、知的障害、あるいは発達障害を持っていて、いわゆる2020年時点での「正常な」受け答えや政治判断が出来ない政治リーダーは?いままでいなかったのではないだろうか?
先に述べたような「障害」がある方は一般的に「政治」をする能力は低いとされる。ここで!差別的思考は捨てましょう。コミュニケーションや思考ができないからこそ、それを「障害」と認識し、周りがサポートする。それが最新の社会と障害者の在り方。
だから、我が国が障害者をトップに立てたのはチャレンジだ。トップひとりが判断や発言をするのではなく、党や内閣といった「チーム」で政治に取り組み「障害」の穴を埋めるという決意のあらわれだ。障害者には、もちろん参政権がある。政治をしてよいのだ。むしろ国会を社会の縮図にして、ただしく状況を判断するためには障害者が必要だ。
我々がすべきは何か?明らかに障害を持っていながら、責任感からそれを隠しているリーダーをバッシングすることか?違う。支えよう。彼が上手く受け答えできず、カンペを読むだけなのは、それが障害のある分野だからだ。いっそインタビューは広報担当と行うべきだ。アメリカでいうところの「広報官」?そういう人を立てるべき。
我々の政治「チーム」は発足したばかり。成長を見守りませんか?
「チーム」への要望としては、ここでテコ入れのためにパラリンピックの開会式でご自身の障害を吐露し、開催の意義を強めつつ、全世界に我々日本の「チャレンジ」を知らしめてはどうかと提案したい。国民はリーダーの障害について認知していないし、諸外国の不信感も募っている。ここは攻め時だと思う。(もちろん、カムアウトは本人の意志で決めること。提言以上のことはしてはいけません。)
コロナがない世界で東京オリンピックが開催されていたら、いったいどんな感じになっていたのだろうと夢想する。
開催直前になると、日本のメディアが現地に押しかけて、その都市の魅力や現地の様子をレポートしたりして、いつもわくわくしてくる。
いつもは海外で開催されるオリンピックが自国で開催されるのだ。
海外からたくさんのメディアや観戦客が押し寄せ、競技以外にも、日本の様々なものが世界中に配信される。
また、東京だけでなく、東京周辺に各国のキャンプがきて、親善イベントなども行われる。
そして、SNSでの投稿や、個人での生配信など、我々の当たり前が、良くも悪くも海外にたくさん伝えられることになる。
開会式も、例のMikiko案で、日本文化の伝統やサブカル、そして今でこそすっかり影を潜めているが、日本の電機メーカーや自動車メーカーなどが趣向を凝らしたハイテクを披露。
競技中継も、フルスペックの5Gで多視点での映像や、立体データを配信して、世界初のVR観戦で、世界中のファンとつながるとか、AIを使った競技分析などが瞬時にでき、日本のITも捨てたもんじゃないね、なんて言って。
肝心の競技の方も、ホームということもあり、いつもよりちょっと多めのメダルが取れちゃったりする。
それを見た日本人観客が街で溢れかえってこ盛り上がり、地方でも、選手のふるさとや卒業学校などのパブリックビューイングで、これまた大盛り上がり。
お店も大盤振る舞いで、酔っ払いが街中にあふれて、外国人観光客と意気投合したりして、それはそれで楽しい思い出に。
メダルを取った選手は、次から次へとテレビ局をはしごし、さんまとかジャニタレとかとキャッキャッとバカ騒ぎ。
ついでに、ネトウヨは、韓国の選手団の一挙手一投足をチクチクツイートして、相変わらずの低脳をさらし、これに応えるかのように、韓国も、日本の対応の悪さや旭日旗を見つけては大騒ぎ。
そして、いつものオリンピックのように、大会も後半に差し掛かり、あぁ、あと数日で終わるなあ、サッカーも決勝か、そして、いよいよマラソンかぁ、とお祭りが終わってしまう寂しさがやってくる。
力を出せず引退するベテラン選手、無名の選手の大健闘、下積み時代の苦労、最後まで応援しながらも亡くなったお父さんとの思い出、ライバル国(多分、韓国)との友情シーン、油断からの敗戦、胸熱の大逆転…
なんだかんだでドラマは必ず起きる(作られる)
これらのドラマがメディアによって繰り返し流されながら、最終日の閉会式の演出を見ながら
「やっぱオリンピックっていいよな」
今回は、自国開催なので、普段オリンピックを見ない人たちも話題になると思う。
そして、なんだかんだで、自国開催オリンピックを誇りに思うだろう。
これからの日本は人口減の影響がどんどん大きくなり、中流国としてどんどん没落していくのは既定路線だ。
そんな中で、このTOKYOオリンピック2020は、日本という国の最後の輝きになるはずだった。
それが、このような形になってしまったのは本当に残念だ。
選手はもちろん、関係者の皆さんが少しでも満足のできる大会になってほしいと心から願う。
特に、運営で陰ながら努力しているスタッフも大勢いるのだろう。(いなきゃこんなイベントできないしね。)
無能なトップのせいで、多くのスタッフがつらい思いをしながら頑張っているのではないかと思う。
オリンピックを応援することが、菅総理を応援することみたいで不服に思う気持ちはないでもないが、それとこれとは切り分けて考えたいと思う。
《ワクチン接種翌日に急死》「主人は泡をふいて搬送先で息絶えた」遺族が訴える厚労省“副反応調査”の問題点 |
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/bunshun.jp/articles/-/47030
に対するコメント
id:teruyastar 1日200人心臓病で亡くなる所全員にワクチン打ってるしなあ。その日の食事も心筋症要因の高齢、男性、高血圧、持病? (糖尿病 高脂血症 肥満 喫煙) に引っかかりそうではある。mRNAは海外でも血栓報告無し https://bit.ly/3r4XudV
6/28付のアナルスオブインターナルメディシンに世界初というモデルナによる 血小板減少性血栓症の報告が載っています。
https://www.acpjournals.org/doi/10.7326/l21-0244
id:cardmics 年間の死者数は約140万人なので、ワクチンを打つ打たないに限らず今日から3日以内に死ぬ人は1万2,000人弱。ワクチン接種率はすでに高齢者の75%なので、ワクチン接種後の突然死はそれ相応に起こりうるよね。
その通り。個別の因果関係はだいたいわからないだろうから、打った人と打たない人との間で(この時点ですでに交絡因子が入り込む余地がある)今後も死亡率に差がないか調べる必要があります。そして個々の死亡例で、上記のような VITT/TTSが起こってないか、各個人の冠動脈疾患のリスクファクターをどのぐらい有していたかについて調べうる限り調べた方がいいですね。
id:kunioya それが確率的なものであったとしても、確率的であるならなおのこと「疑い」レベルで救済しないとワクチントンデモ連中が跋扈することになると思う。まれに心筋炎があることに注意。こういうのは救済すべき
確かに現行の救済制度(https://bit.ly/3wvGQFq)だと、「因果関係が認定された」場合のみ補償となっているのでこの人が救済されるかは微妙・明らかな外因死・治療中疾患による死亡でもない限りは救済対象にした方がよさそうとは思います。
id:T-miura ただの確立の話だとは思うが、紙一枚だと納得しずらいわな。CTのデータ(IAの話だと思うが)、カルテの写しとかもらって、遺族側の費用で第三者に見てもらうみたいな話はできんもんかね?対応はあんまよくないよな?
Ai (Autopsy Imaging) ですね。あれだと、冠動脈の石灰化は確認できても、それが死因と診断することはできません。石灰化した部分の内腔が詰まっているかどうかなど確認できません。
id:shinkuhadouken 虚血性心疾患の冠状動脈硬化症は生活習慣等が原因でありワクチンの結果起きたとは考えにくい。/偶然の産物だと思うのだが、それを遺族に納得してもらうのはとても難しい。/日本人の15%は心臓病で亡くなっている。
冠動脈の動脈硬化はそうでも、プラーク破綻を誘発したり、狭窄部に血栓を形成して急性心筋梗塞から死に至らしめることはありうる。偶然の産物と決めつけるのは早計。
当方放射線科医ですが、MRI検査の時に使うガドリニウム造影剤について痛い目を見たことがある業界です。かつて(20年ほど前)、ガドリニウム造影剤は安全に使える造影剤であると信じられていて、腎機能が悪い患者さんでも、少量だし尿から排泄されるだろうからら、と使っていました。ところが、2006年ごろから、腎機能が悪い人にガドリニウム造影剤を使うと、NSF(腎性全身性線維症,
致死率30%程度といわれる)という疾患を引き起こすことが分かってきました。また、2014年には何回もガドリニウム造影剤が投与された患者さんの脳内に沈着することが日本からの報告で明らかとなり、世界的に衝撃を与えました。この沈着により引き起こされる健康障害は確認されていませんが。ガドリニウム造影剤の発表が 1984なので、そのような副作用が明らかになるまで 22年かかったことになりますね。どんなに有用・必要とされる薬剤でもこのようなこともあるので、発売後のモニタリングは常に必要だし、どんな段階でも予断をもって決めつけると思いもよらない結果を招くこともあるのです。
アラン・ケイらによってAlto上で開発された世界初のGUIベースのオペレーティングシステム (OS) 的存在であるSmalltalkは、パーソナルコンピューティングの方向性をエンドユーザーに示すだけでなく、オブジェクト指向の概念を本格的に取り入れた設計で開発者にもアピールし、このときのオブジェクト指向によるOS(APIやフレームワーク)設計は、現在最先端と言われるOSにも今なお色濃い影響を与え続けている。
1970年代半ばにはすでに、ウインドウシステム、メニュー操作、アイコン付きパレット、WYSIWYGエディタなど、現在のパソコンに匹敵する特徴も備えていた。出資受容の条件に要求してこれを見た、Apple Computerのスティーブ・ジョブズに大きな影響を与え、LisaやMacintoshを開発させるきっかけとなった。
イスラエルの食品技術企業・Future Meat Technologiesが、首都テルアビブから南に約20kmのところにある都市レホヴォトに、世界初の産業用培養肉生産施設を開設したことを発表しました。上記写真はイメージではなく、Future Meat Technologiesが公開した施設の写真です。
Future Meat Technologies Launches World's First Industrial Cultured Meat Production Facility
Future Meat Technologiesは、動物を飼育・繁殖させることなく、また遺伝子組み換え作物を使うこともなく、動物細胞から肉を直接生産するための流通プラットフォームを開発している食品技術会社です。
発表によると、施設は1日にハンバーガー5000個分に相当する500kgの培養肉を生産できる能力を備えています。すでに鶏肉、豚肉、ラム肉は生産可能な状態で、牛肉もまもなく生産できるようになるとのこと。これは従来の畜産の約20倍という高速な生産サイクルだそうです。
創業者で最高科学責任者でもあるヤコブ・ナミアス教授は「培養肉のコスト・パリティ(従来品のコストと同等かそれ以下になる)への到達が市場の予想より早くなると実証したあと、この生産施設は真のゲームチェンジャーとなります」「この施設は当社が独自に開発した培地再生技術を実証するもので、業界標準の10倍の生産密度を実現しています。我々の目標は、誰もが手頃な価格で培養肉を手に入れられるようにするとともに、健康的で持続可能なおいしい食品を生産し、次世代の未来を守ることです」と述べています。
Future Meat Technologiesの生産プロセスは、従来の食肉生産と比べて、温室効果ガス排出量を80%削減、土地の使用量を99%削減、淡水の使用量を96%削減できる見込みだとのこと。
Future Meat Technologiesでは2022年にアメリカで培養肉を販売することを目指しているとのことです。
生きてる内に「たまには本物の肉も食べてえなぁ…」をやれる日が来るのか?
風雲たぬき城(@G3H23) - 26分前
いっつも思うけどここまでやるんだったら豚とか牛とかにこだわらずいろんなDNAを掛け合わせて培養ならではの超うまい肉細胞をつくればいいのに
(╬´◓ω◔`╬)折羽ル子(@orichallcom) - 7分前
その通りで、今は疑似肉という形になってるけど、いずれは「本物の肉より数十倍うまい・・・もうこれでええやん」となると思ってる。たぶん10年後くらい。
ただ、大手情報サイトでは忖度して絶対に書くことができない、買うべきではない明確な理由が一つある。
正直、このスマホに飛びつくのはライカブランドを身に着けたいだけのカメラのことなんててんで理解できていない成金じじいか、パトロンのクレカを自由に使える港区インスタ女子くらいだろう。
その理由とは、画角が35mm換算で19mmという点に尽きる。
カメラの光学的な構造をある程度理解できている人であれば、これがどれだけ無意味なことかわかるはずだ。
センサーサイズを大きくするメリットは、光学的なボケ味を得られることと、電気ノイズが発生しづらくなることで画質が上がることにある。
皆がアホのようにフルサイズカメラを欲しがる理由は、ほとんどの場合フルサイズでしか得られないボケ味に対する憧れと言っていいだろう。
それくらい光学的なボケ味とはセンサーサイズの大きさなくしては得られない最大のメリットなのだ。
しかし、35mm換算で19mmという画角はあまりにも広角すぎる。
基本的に、ボケ味というのは望遠側のほうが得られやすい。平たく言えば圧縮効果というものだ。
そして自然なボケ味を得られるのは、おおよそ30mmくらいの画角からだと考えられている。
フィルム時代の標準レンズが50mm単焦点だった理由は、明るさとボケ味、レンズのサイズなど全てにおいてバランスが良かったからといっていいだろう。
初心者が何も考えずにシャッターを切っても、ボケ味に溢れたフォトジェニックな写真を取ることができる、魔法のようなレンズだったのだ。
フルサイズと画角50mmのレンズはそれほどまでに相性が良い。
それに対し、たかだか1インチ(スマホに乗せるにはすごすぎるが)のセンサーに、超広角といえる19mmのレンズを載せたところで一体どの程度のボケ味が得られるというのか。
寄れない超広角ではボケ味なんてほぼ期待できないと言っていいだろう。
つまり、1インチを載せる意味の大半が失われているといっていい。
一般的なパンケーキレンズと言われる平たいレンズは広角がほとんどだ。
察するに、今現在の技術力では1インチのセンサーを載せつつもあの薄さに収めるには19mmが限界だったのだろう。
繰り出し型のレンズを取り付ければ良いだなんてことは誰でも考えつくようなことだが、スマホとしての厚み、重さ、そして堅牢性などを考えれば採用を見送らざるを得なかったことは想像に難くない。
だからといって19mmはない。
筆者は旅先の写真はフルサイズミラーレスを多用しているが、広角側に関してはもっぱらスマホで撮影している。
広角撮影は基本的にボケを気にしなくてよいし、光学的なことを考えなければ、スマホカメラの画質は気にする必要がないくらいまでにきれいになっている。
逆を返せば、広角側の撮影はセンサーサイズをそれほど敏感に気にしなくてもよいところまで来ているのだ。
もしこれが、換算30mmを超えてくるなら話は別だ。
1インチセンサーカメラの画角30mmは大げさすぎない程度の自然なボケ味を与えてくれる。
装備を軽くしたいときは、今でもRX100で代用することも多い。それくらいに信用できる組み合わせだ。
世界初は今作で果たされた。
次回作はズーム機能は必要ないので、レンズを1cmまで出っ張らせてもいいから画角30mm超えを叶えてほしい。
そうすれば18万7920円も、、、出せません。ごめんなさい。
岡田斗司夫氏主催のSNS「クラウドシティ」はどうなったのかな。
https://www.facebook.com/CloudCityex?sk=app_7146470109
「理屈民族」とは、ついつい理屈でものを考えてしまう、私やあなたのような人たちです。
理屈が嫌いな人や、理屈が苦手な人たちから「なんだか面白くない」「堅苦しい」「ノリが悪い」と思われたり、「そんな理屈ばっかり考えて、人生何が楽しいの?」と真顔で聞かれて苦笑い。
ここでは、いくら小難しい話でも、理屈っぽい冗談でも、難解な哲学の話でも、敬遠されがちな宗教論でもなんでも大歓迎。
その実態は世界中どこからでも、年中24時間アクセスできるSNS。システムとしてはmixiみたいなのを考えてくれたらOKです。
このfacebook案内所では、クラウドシティの紹介をしています。
PDFに透明のOCR領域重ねるのは知ってたけど、そこにベクトルデータも貼り付けられるのか。
これは良いアイデアだし日本企業向きというか、囲い込みがしやすいビジネスだなあ。なぜ今までなかったのか。
原本となるPDFファイルに重ねた「透明なシート」に追記する(プレスリリースより引用)
「PDF」にはいろいろな状態がある。自分で作成したPDFファイルなら、一般的なPDF編集ソフトで問題なく扱える。しかし、謄本などの公的な文書や設計図面などのPDFでは、注釈や編集が制限されているものもある。改ざんを防ぐために当然なのだが業務では困ってしまう。そこで「AxelaNote」を使ってみたい。
「AxelaNote」の特徴は、PDFファイルそのものを「編集しない」ことで、どんなPDFファイルにも「追記できる」ことだ。矛盾して聞こえるが、修正指示などの赤字は原本となるPDFファイルに重ねた「透明なシート」に書き込むことで実現する。
ペーパーレスで、PDFの原稿データに手書きで校正できるのは助かる。いわゆる注釈機能を使った手書きよりも操作性がいい。修正後のデータにaxlファイルをかぶせる修正チェックは効率的だ。書籍の校正では、書き込み履歴をCSVで出力できるので、修正確認の精度も上がる。
https://forest.watch.impress.co.jp/docs/special/1325126.html
ナスがよくとれるので那須市だが、本当は茄子市がよかった、と臆面もなく語る人々がくらすその街にある大学の名前はもちろんナス大学だ
可能性の広がりを名前からも示すため、あえて漢字は使わず「ナス大学」と表記する、と決めた初代学長の苗字は当然「那須」で、そんな調子なので日本初にして世界初のナス学部なんてものが存在する
ナス学部はその名の通りナスについて学ぶ学部で、専攻は三つに分かれる
ナス学部ナス専攻とはなんなのか、医学部医学専攻、文学部文学専攻みたいなもので、漠然としすぎているではないか、というのはごもっともで、ナス専攻の学習内容は多岐にわたる
ときには生物学的にナスをひもとき、ときには歴史上に現れるナスを探し、ときにはナスの持つ記号学的意味を論じ、ときにはナスの絵まで描く
学部のたった4年間ナス専攻に在籍しているだけで、その人間の人生はほとんどナスになってしまう
ナスを見れば飛びつき、ベランダでナスを育て、食事はナスばかり、那須という苗字を得ることを目的に結婚をし、子供ができればナスという名をつけ、ナスだけを与えて育てる