2022-07-13

奈良の銃撃に関するSNSのあれやこれで傷ついた人にむけて(覚え書)

奈良の一件以来なんとなくイヤなことが続くので自分落ち着けるために書く。覚え書。

カルト」の定義あいまいなので使用を控えたほうがいいという意見に関しては、統一教会グレーゾーンにあるような生易しい集団ではないというのが応答として妥当。ここは曖昧さをゆるしてはダメ。なにも許容できないし、しちゃいけない。

ただ、いまSNSを騒がしている言説の多くが、統一教会以外のグレーゾーンだと見なされる宗教者やその近親者にたいして(すくなくともジェンダー人種部落などの属性、あるいは自死いじめなどのセンシティブテーマと同程度の)配慮があるものになっているかといえばなってない、というのはちゃんと気をつけたい。

このあたり、ネットの方々もできるだけお願いします。

宗教二世」という言葉も、現状のジャパンではあまりいい言葉ではない。これは世俗側の言葉で、自分意志ではないものによって「受動的」にその属性にさせられた、というニュアンスがある。近代主体観が前提。

別の言い方をすると、「宗教二世」は宗教を背景とした虐待をうけた人をケアすべき対象として取り上げる枠組みではあるけれど、同じく「宗教二世」ではあるけれど自分がその宗教メンバーであることに疑問を持ってないひとや、より自覚的にその宗教を選びなおした人をケアすべき対象から除外するものとして論じることを含意しているところがある。

自分意志で選びなおしたのなら問題ないではないかという向きもある思うけれど、今回のような事件のなかで「統一教会カルト宗教宗教一般」という形で批判先が拡大していった場合(すでに拡大してるけど)、「宗教二世」というワーディングを被害から救済すべき対象としてことさらに強調することは、そうした言説のダメージからケアを受けるべき人」と「ケアを受けるに値しない人」を社会が選別することを容認することになる、という話。

まぁこのあたりは長い話になるので割愛。分かる人が分かればいいと思います

ここまで読んで、そもそも(新)宗教や「カルト」の信仰者はケア対象ではない、あなた宗教の話をしているわけではない、嫌ならやめればいい、という言葉がおもいうかんだ人、すでに地獄の5丁目くらいにいると思います。気をつけなはれや。

ここで処方箋としていえることがあるとすれば、社会宗教という属性に十分配慮しろ、ではなく、たぶん絶対に世の中は配慮するようにはならないので、社会承認ない宗教に近しい人は自分を傷つける言説からできるだけ距離をとってほしい、というわりと消極的ものかなと思います。逃げていい。向き合わなくていい。

あと「宗教政治」の枠組みで語れることもあるけれど、現状の報道をながめるかぎり「宗教家族」のほうがまだ適切な印象。いずれにせよ過度に「原因」をもとめる言説から距離をとったほうがいい。

まぁ逃げましょう。生きのびましょう。

  • 正しい宗教とカルト宗教の境界をはっきりさせていくべきでしょう。 正しい宗教は次第に宗教組織が要らなくなる。なぜなら迷いから復活して再び人生を正しく生きれるようになるから...

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