はてなキーワード: 生き甲斐とは
何で決まるの?かけた金?入った公演数?積んだ円盤?グッズの数??推しのレート???
全部全部クソ喰らえすぎる、同じ界隈の人間が本当に無理すぎて一部の同担以外片っ端からブロックしてる
レート高い奴のオタクほど金かけられるオタクが正義みたいになってるの推しじゃなくてレート高い推しを推せてる自分が好きなんだろって遠回しな自己愛にしか見えなくて最近本当に無理
勝手にやってるのはいいけど金を必要以上にかけてない人間をゴミ扱いすんのは違うだろまともな教育受けてんのか?親の顔が見てみたいわ
本当は自分が十分にコンテンツに金かけられてる自信がないから後ろめたくてこういう批判になる
今は貧乏学生だけど手に職ついたら生き甲斐が推し追っかけることだけで無為に生きてるお前らより絶対稼いでコンテンツに投資してやるから首洗って待っとけよ
(センター試験で話題になったけど、全文読めるところが見つからなかったので)
底本:原民喜戦後全小説 下(講談社文芸文庫)1995年8月10日第1刷発行
I
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであったが、あのなかの葬いの場面が不思議に心を離れなかった。不思議だといえば、あの本——岩波文庫の魯迅選集——に掲載してある作者の肖像が、まだ強く心に蟠(わだかま)るのであった。何ともいい知れぬ暗黒を予想さす年ではあったが、どこからともなく惻々として心に迫るものがあった。その夏がほぼ終ろうとする頃、残暑の火照りが漸く降りはじめた雨でかき消されてゆく、とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳のなかで目が覚めた。茫と目が覚めている私は、その時とらえどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。泳ぐような身振りで蚊帳の裾をくぐると、足許に匐っている薄暗い空気を手探りながら、向側に吊してある蚊帳の方へ、何か絶望的な、愬(うった)えごとをもって、私はふらふらと近づいて行った。すると、向側の蚊帳の中には、誰だか、はっきりしない人物が深い沈黙に鎖されたまま横わっている。その誰だか、はっきりしない黒い影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のように思えたり、魯迅の姿のように想えたりするのだった。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知ったのは恰度亡母の四十九忌の頃であった。
その頃から私はひどく意気銷沈して、落日の巷を行くの概(おもむき)があったし、ふと己の胸中に「孤独者」の嘲笑を見出すこともあったが、激変してゆく周囲のどこかに、もっと切実な「孤独者」が潜んでいはすまいかと、窃(ひそ)かに考えるようになった。私に最初「孤独者」の話をしかけたのは、岩井繁雄であった。もしかすると、彼もやはり「孤独者」であったのかもしれない。
彼と最初に出逢ったのは、その前の年の秋で、ある文学研究会の席上はじめてSから紹介されたのである。その夜の研究会は、古びたビルの一室で、しめやかに行われたのだが、まことにそこの空気に応(ふさ)わしいような、それでいて、いかにも研究会などにはあきあきしているような、独特の顔つきの痩形長身の青年が、はじめから終りまで、何度も席を離れたり戻って来たりするのであった。それが主催者の長広幸人であるらしいことは、はじめから想像できたが、会が終るとSも岩井繁雄も、その男に対って何か二こと三こと挨拶して引上げて行くのであった。さて、長広幸人の重々しい印象にひきかえて、岩井繁雄はいかにも伸々した、明快卒直な青年であった。長い間、未決にいて漸く執行猶予で最近釈放された彼は、娑婆に出て来たことが、何よりもまず愉快でたまらないらしく、それに文学上の抱負も、これから展望されようとする青春とともに大きかった。
岩井繁雄と私とは年齢は十歳も隔たってはいたが、折からパラつく時雨をついて、自動車を駆り、遅くまでSと三人で巷を呑み歩いたものであった。彼はSと私の両方に、絶えず文学の話を話掛けた。極く初歩的な問題から再出発する気組で——文章が粗雑だと、ある女流作家から注意されたので——今は志賀直哉のものをノートし、まず文体の研究をしているのだと、そういうことまで卒直に打明けるのであった。その夜の岩井繁雄はとにかく愉快そうな存在だったが、帰りの自動車の中で彼は私の方へ身を屈めながら、魯迅の「孤独者」を読んでいるかと訊ねた。私がまだ読んでいないと答えると話はそれきりになったが、ふとその時「孤独者」という題名で私は何となくその夜はじめて見た長広幸人のことが頭に閃いたのだった。
それから夜更の客も既に杜絶えたおでん屋の片隅で、あまり酒の飲めない彼は、ただその場の空気に酔っぱらったような、何か溢れるような顔つきで、——やはり何が一番愉しかったといっても、高校時代ほど生き甲斐のあったことはない、と、ひどく感慨にふけりだした。
私が二度目の岩井繁雄と逢ったのは一九三七年の春で、その時私と私の妻は上京して暫く友人の家に滞在していたが、やはりSを通じて二三度彼と出逢ったのである。彼はその時、新聞記者になったばかりであった。が、相変らず溢れるばかりのものを顔面に湛えて、すくすくと伸び上って行こうとする姿勢で、社会部に入社したばかりの岩井繁雄はすっかりその職業が気に入っているらしかった。恰度その頃紙面を賑わした、結婚直前に轢死(れきし)を遂げた花婿の事件があったが、それについて、岩井繁雄は、「あの主人公は実はそのアルマンスだよ」と語り、「それに面白いのは花婿の写真がどうしても手に入らないのだ」と、今もまだその写真を追求しているような顔つきであった。そうして、話の途中で手帳を繰り予定を書込んだり、何か行動に急きたてられているようなところがあった。かと思うと、私の妻に「一たい今頃所帯を持つとしたら、どれ位費用がかかるものでしょうか」と質問し、愛人が出来たことを愉しげに告白するのであった。いや、そればかりではない、もしかすると、その愛人と同棲した暁には、染料の会社を設立し、重役になるかもしれないと、とりとめもない抱負も語るのであった。二三度逢ったばかりで、私の妻が岩井繁雄の頼もしい人柄に惹きつけられたことは云うまでもない。私の妻はしばしば彼のことを口にし、たとえば、混みあうバスの乗降りにしても、岩井繁雄なら器用に婦人を助けることができるなどというのであった。私もまた時折彼の噂は聞いた。が、私たちはその後岩井繁雄とは遂に逢うことがなかったのである。
日華事変が勃発すると、まず岩井繁雄は巣鴨駅の構内で、筆舌に絶する光景を目撃したという、そんな断片的な噂が私のところにも聞えてきて、それから間もなく彼は召集されたのである。既にその頃、愛人と同居していた岩井繁雄は補充兵として留守隊で訓練されていたが、やがて除隊になると再び愛人の許に戻って来た。ところが、翌年また召集がかかり、その儘前線へ派遣されたのであった。ある日、私がSの許に立寄ると、Sは新聞の第一面、つまり雑誌や新刊書の広告が一杯掲載してある面だけを集めて、それを岩井繁雄の処へ送るのだと云って、「家内に何度依頼しても送ってくれないそうだから僕が引うけたのだ」とSは説明した。その説明は何か、しかし、暗然たるものを含んでいた。岩井繁雄が巣鴨駅で目撃した言語に絶する光景とはどんなことなのか私には詳しくは判らなかったが、とにかく、ぞっとするようなものがいたるところに感じられる時節であった。ある日、私の妻は小学校の講堂で傷病兵慰問の会を見に行って来ると、頻りに面白そうに余興のことなど語っていたが、その晩、わあわあと泣きだした。昼間は笑いながら見たものが、夢のなかでは堪らなく悲しいのだという。ある朝も、——それは青葉と雨の鬱陶しい空気が家のうちまで重苦しく立籠っている頃であったが——まだ目の覚めきらない顔にぞっとしたものを浮べて、「岩井さんが還って来た夢をみた。痩せて今にも斃れそうな真青な姿でした」と語る。妻はなおその夢の行衛を追うが如く、脅えた目を見すえていたが、「もしかすると、岩井さんはほんとに死ぬるのではないかしら」と嘆息をついた。それは私の妻が発病する前のことで、病的に鋭敏になった神経の前触れでもあったが、しかしこの夢は正夢であった。それから二三ヵ月して、岩井繁雄の死を私はSからきいた。戦地にやられると間もなく、彼は肺を犯され、一兵卒にすぎない彼は野戦病院で殆ど碌に看護も受けないで死に晒されたのであった。
岩井繁雄の内縁の妻は彼が戦地へ行った頃から新しい愛人をつくっていたそうだが、やがて恩賜金を受取るとさっさと老母を見捨てて岩井のところを立去ったのである。その後、岩井繁雄の知人の間では遺稿集——書簡は非常に面白いそうだ——を出す計画もあった。彼の文章が粗雑だと指摘した女流作家に、岩井繁雄は最初結婚を申込んだことがある。——そういうことも後になって誰かからきかされた。
たった一度見たばかりの長広幸人の風貌が、何か私に重々しい印象を与えていたことは既に述べた。一九三五年の秋以後、遂に私は彼を見る機会がなかった。が、時に雑誌に掲載される短かいものを読んだこともあるし、彼に対するそれとない関心は持続されていた。岩井繁雄が最初の召集を受けると、長広幸人は倉皇と満洲へ赴いた。当時は満洲へ行って官吏になりさえすれば、召集免除になるということであった。それから間もなく、長広幸人は新京で文化方面の役人になっているということをきいた。あの沈鬱なポーズは役人の服を着ても身に着くだろうと私は想像していた。それから暫く彼の消息はきかなかったが、岩井繁雄が戦病死した頃、長広幸人は結婚をしたということであった。それからまた暫く彼の消息はきかなかったが、長広幸人は北支で転地療法をしているということであった。そして、一九四二年、長広幸人は死んだ。
既に内地にいた頃から長広幸人は呼吸器を犯されていたらしかったが、病気の身で結婚生活に飛込んだのだった。ところが、その相手は資産目あての結婚であったため、死後彼のものは洗い浚(ざら)い里方に持って行かれたという。一身上のことは努めて隠蔽する癖のある、長広幸人について、私はこれだけしか知らないのである。
II
私は一九四四年の秋に妻を喪ったが、ごく少数の知己へ送った死亡通知のほかに、満洲にいる魚芳へも端書を差出しておいた。妻を喪った私は悔み状が来るたびに、丁寧に読み返し仏壇のほとりに供えておいた。紋切型の悔み状であっても、それにはそれでまた喪にいるものの心を鎮めてくれるものがあった。本土空襲も漸く切迫しかかった頃のことで、出した死亡通知に何の返事も来ないものもあった。出した筈の通知にまだ返信が来ないという些細なことも、私にとっては時折気に掛るのであったが、妻の死を知って、ほんとうに悲しみを頒ってくれるだろうとおもえた川瀬成吉からもどうしたものか、何の返事もなかった。
私は妻の遺骨を郷里の墓地に納めると、再び棲みなれた千葉の借家に立帰り、そこで四十九日を迎えた。輸送船の船長をしていた妻の義兄が台湾沖で沈んだということをきいたのもその頃である。サイレンはもう頻々と鳴り唸っていた。そうした、暗い、望みのない明け暮れにも、私は凝と蹲ったまま、妻と一緒にすごした月日を回想することが多かった。その年も暮れようとする、底冷えの重苦しい、曇った朝、一通の封書が私のところに舞込んだ。差出人は新潟県××郡××村×川瀬丈吉となっている。一目見て、魚芳の父親らしいことが分ったが、何気なく封を切ると、内味まで父親の筆跡で、息子の死を通知して来たものであった。私が満洲にいるとばかり思っていた川瀬成吉は、私の妻より五ヵ月前に既にこの世を去っていたのである。
私がはじめて魚芳を見たのは十二年前のことで、私達が千葉の借家へ移った時のことである。私たちがそこへ越した、その日、彼は早速顔をのぞけ、それからは殆ど毎日註文を取りに立寄った。大概朝のうち註文を取ってまわり、夕方自転車で魚を配達するのであったが、どうかすると何かの都合で、日に二三度顔を現わすこともあった。そういう時も彼は気軽に一里あまりの路を自転車で何度も往復した。私の妻は毎日顔を逢わせているので、時々、彼のことを私に語るのであったが、まだ私は何の興味も関心も持たなかったし、殆ど碌に顔も知っていなかった。
私がほんとうに魚芳の小僧を見たのは、それから一年後のことと云っていい。ある日、私達は隣家の細君と一緒にブラブラと千葉海岸の方へ散歩していた。すると、向の青々とした草原の径をゴムの長靴をひきずり、自転車を脇に押しやりながら、ぶらぶらやって来る青年があった。私達の姿を認めると、いかにも懐しげに帽子をとって、挨拶をした。
「魚芳さんはこの辺までやって来るの」と隣家の細君は訊ねた。
「ハア」と彼はこの一寸した逢遭を、いかにも愉しげにニコニコしているのであった。やがて、彼の姿が遠ざかって行くと、隣家の細君は、
「ほんとに、あの人は顔だけ見たら、まるで良家のお坊ちゃんのようですね」と嘆じた。その頃から私はかすかに魚芳に興味を持つようになっていた。
その頃——と云っても隣家の細君が魚芳をほめた時から、もう一年は隔っていたが、——私の家に宿なし犬が居ついて、表の露次でいつも寝そべっていた。褐色の毛並をした、その懶惰な雌犬は魚芳のゴム靴の音をきくと、のそのそと立上って、鼻さきを持上げながら自転車の後について歩く。何となく魚芳はその犬に対しても愛嬌を示すような身振であった。彼がやって来ると、この露次は急に賑やかになり、細君や子供たちが一頻り陽気に騒ぐのであったが、ふと、その騒ぎも少し鎮まった頃、窓の方から向を見ると、魚芳は木箱の中から魚の頭を取出して犬に与えているのであった。そこへ、もう一人雑魚(ざこ)売りの爺さんが天秤棒を担いでやって来る。魚芳のおとなしい物腰に対して、この爺さんの方は威勢のいい商人であった。そうするとまた露次は賑やかになり、爺さんの忙しげな庖丁の音や、魚芳の滑らかな声が暫くつづくのであった。——こうした、のんびりした情景はほとんど毎日繰返されていたし、ずっと続いてゆくもののようにおもわれた。だが、日華事変の頃から少しずつ変って行くのであった。
私の家は露次の方から三尺幅の空地を廻ると、台所に行かれるようになっていたが、そして、台所の前にもやはり三尺幅の空地があったが、そこへ毎日、八百屋、魚芳をはじめ、いろんな御用聞がやって来る。台所の障子一重を隔てた六畳が私の書斎になっていたので、御用聞と妻との話すことは手にとるように聞える。私はぼんやりと彼等の会話に耳をかたむけることがあった。ある日も、それは南風が吹き荒んでものを考えるには明るすぎる、散漫な午後であったが、米屋の小僧と魚芳と妻との三人が台所で賑やかに談笑していた。そのうちに彼等の話題は教練のことに移って行った。二人とも青年訓練所へ通っているらしく、その台所前の狭い空地で、魚芳たちは「になえつつ」の姿勢を実演して興じ合っているのであった。二人とも来年入営する筈であったので、兵隊の姿勢を身につけようとして陽気に騒ぎ合っているのだ。その恰好がおかしいので私の妻は笑いこけていた。だが、何か笑いきれないものが、目に見えないところに残されているようでもあった。台所へ姿を現していた御用聞のうちでは、八百屋がまず召集され、つづいて雑貨屋の小僧が、これは海軍志願兵になって行ってしまった。それから、豆腐屋の若衆がある日、赤襷をして、台所に立寄り忙しげに別れを告げて行った。
目に見えない憂鬱の影はだんだん濃くなっていたようだ。が、魚芳は相変らず元気で小豆(こまめ)に立働いた。妻が私の着古しのシャツなどを与えると、大喜びで彼はそんなものも早速身に着けるのであった。朝は暗いうちから市場へ行き、夜は皆が寝静まる時まで板場で働く、そんな内幕も妻に語るようになった。料理の骨(こつ)が憶えたくて堪らないので、教えを乞うと、親方は庖丁を使いながら彼の方を見やり、「黙って見ていろ」と、ただ、そう呟くのだそうだ。鞠躬如(きっきゅうじょ)として勤勉に立働く魚芳は、もしかすると、そこの家の養子にされるのではあるまいか、と私の妻は臆測もした。ある時も魚芳は私の妻に、——あなたとそっくりの写真がありますよ。それが主人のかみさんの妹なのですが、と大発見をしたように告げるのであった。
冬になると、魚芳は鵯(ひよどり)を持って来て呉れた。彼の店の裏に畑があって、そこへ毎朝沢山小鳥が集まるので、釣針に蚯蚓(みみず)を附けたものを木の枝に吊しておくと、小鳥は簡単に獲れる。餌は前の晩しつらえておくと、霜の朝、小鳥は木の枝に動かなくなっている——この手柄話を妻はひどく面白がったし、私も好きな小鳥が食べられるので喜んだ。すると、魚芳は殆ど毎日小鳥を獲ってはせっせと私のところへ持って来る。夕方になると台所に彼の弾んだ声がきこえるのだった。——この頃が彼にとっては一番愉しかった時代かもしれない。その後戦地へ赴いた彼に妻が思い出を書いてやると、「帰って来たら又幾羽でも鵯鳥を獲って差上げます」と何かまだ弾む気持をつたえるような返事であった。
翌年春、魚芳は入営し、やがて満洲の方から便りを寄越すようになった。その年の秋から私の妻は発病し療養生活を送るようになったが、妻は枕頭で女中を指図して慰問の小包を作らせ魚芳に送ったりした。温かそうな毛の帽子を着た軍服姿の写真が満洲から送って来た。きっと魚芳はみんなに可愛がられているに違いない。炊事も出来るし、あの気性では誰からも重宝がられるだろう、と妻は時折噂をした。妻の病気は二年三年と長びいていたが、そのうちに、魚芳は北支から便りを寄越すようになった。もう程なく除隊になるから帰ったらよろしくお願いする、とあった。魚芳はまた帰って来て魚屋が出来ると思っているのかしら……と病妻は心細げに嘆息した。一しきり台所を賑わしていた御用聞きたちの和やかな声ももう聞かれなかったし、世の中はいよいよ兇悪な貌を露出している頃であった。千葉名産の蛤の缶詰を送ってやると、大喜びで、千葉へ帰って来る日をたのしみにしている礼状が来た。年の暮、新潟の方から梨の箱が届いた。差出人は川瀬成吉とあった。それから間もなく除隊になった挨拶状が届いた。魚芳が千葉へ訪れて来たのは、その翌年であった。
その頃女中を傭えなかったので、妻は寝たり起きたりの身体で台所をやっていたが、ある日、台所の裏口へ軍服姿の川瀬成吉がふらりと現れたのだった。彼はきちんと立ったまま、ニコニコしていた。久振りではあるし、私も頻りに上ってゆっくりして行けとすすめたのだが、彼はかしこまったまま、台所のところの閾から一歩も内へ這入ろうとしないのであった。「何になったの」と、軍隊のことはよく分らない私達が訊ねると、「兵長になりました」と嬉しげに応え、これからまだ魚芳へ行くのだからと、倉皇として立去ったのである。
そして、それきり彼は訪ねて来なかった。あれほど千葉へ帰る日をたのしみにしていた彼はそれから間もなく満洲の方へ行ってしまった。だが、私は彼が千葉を立去る前に街の歯医者でちらとその姿を見たのであった。恰度私がそこで順番を待っていると、後から入って来た軍服の青年が歯医者に挨拶をした。「ほう、立派になったね」と老人の医者は懐しげに肯いた。やがて、私が治療室の方へ行きそこの椅子に腰を下すと、間もなく、後からやって来たその青年も助手の方の椅子に腰を下した。「これは仮りにこうしておきますから、また郷里の方でゆっくりお治しなさい」その青年の手当はすぐ終ったらしく、助手は「川瀬成吉さんでしたね」と、机のところのカードに彼の名を記入する様子であった。それまで何となく重苦しい気分に沈んでいた私はその名をきいて、はっとしたが、その時にはもう彼は階段を降りてゆくところだった。
それから二三ヵ月して、新京の方から便りが来た。川瀬成吉は満洲の吏員に就職したらしかった。あれほど内地を恋しがっていた魚芳も、一度帰ってみて、すっかり失望してしまったのであろう。私の妻は日々に募ってゆく生活難を書いてやった。すると満洲から返事が来た。「大根一本が五十銭、内地の暮しは何のことやらわかりません。おそろしいことですね」——こんな一節があった。しかしこれが最後の消息であった。その後私の妻の病気は悪化し、もう手紙を認(したた)めることも出来なかったが、満洲の方からも音沙汰なかった。
その文面によれば、彼は死ぬる一週間前に郷里に辿りついているのである。「兼て彼の地に於て病を得、五月一日帰郷、五月八日、永眠仕候」と、その手紙は悲痛を押つぶすような調子ではあるが、それだけに、佗しいものの姿が、一そう大きく浮び上って来る。
あんな気性では皆から可愛がられるだろうと、よく妻は云っていたが、善良なだけに、彼は周囲から過重な仕事を押つけられ、悪い環境や機構の中を堪え忍んで行ったのではあるまいか。親方から庖丁の使い方は教えて貰えなくても、辛棒した魚芳、久振りに訪ねて来ても、台所の閾から奥へは遠慮して這入ろうともしない魚芳。郷里から軍服を着て千葉を訪れ、晴れがましく顧客の歯医者で手当してもらう青年。そして、遂に病躯をかかえ、とぼとぼと遠国から帰って来る男。……ぎりぎりのところまで堪えて、郷里に死にに還った男。私は何となしに、また魯迅の作品の暗い翳を思い浮べるのであった。
正確には、「今の家族のように」「(将来出来るかもしれない)自分の家族を」愛せる気がしない、だ。
うちは家族仲が良い。
おそらく異常と言っていいほどよい。
60代の父と、全員成人した息子3人で、可能な限り一緒に行動したがる。
(念の為言っておくと、父は公務員を定年退職後、再就職しているし、私を含めて息子は全員大学又は大学院卒業後、定職についている)
全員アウトドア、スポーツ、インドアと多方面に多趣味だが、内容はほぼ一致している。
専門が、法学、文学、情報科学、材料科学と別れているのも、お互いの知的好奇心を相互補完できる感じでとても良い。
特に私と父は、家族相手にイベントを紹介して一緒に参加するのが生き甲斐みたいなところがある。
正確には、これは父から私に伝染した。
小さい頃は、この父の「楽しませてやろう」という気遣いが鬱陶しいと思うこともあった。
父は期待通りに「楽しめていない」様子を見せると、不機嫌になることもあった。
それのせいで「楽しんでいる」演技をすることもあったように思う。
なんか、人間失格みたいだが。
それがいつの間にか、鬱陶しくなくなっていた。
多少は、断るということを覚えたせいもあるが、自分も家族を楽しませたいと思う気持ちが芽生えてきたからだと思う。
弟2人は、自発的にイベントを提案して企画することはあまりないものの、「次は~したいね」くらいの事は言う。
ここ数年はこう思う。
「流石に、この4人だけが家族、という時期はもうそうは長く続かないだろう。」
そして、こう思う
「この家族以外の誰かを、この家族のように想うことができるだろうか?」
20年近い付き合いになる、なんでも話せる友人(家族にも話せないことも話せる)もいるし、恋人がいたこともある。
しかしながら、最も親しい人は誰かと言われれば、大差をつけて家族3人が入ってくるし、
誰のためなら命がけで行動できる?と問われれば家族以外にそれが出来る気がしない。
その時その時はそれなりに夢中になっていた覚えがあるし恋人を楽しませるのが生き甲斐みたいな時期もあったのだが。
「ぼちぼち婚活も考えたら」
と、家族含め周囲に言われる歳になったが、そんな気持ちがあって、どうもする気が起きない。
生き甲斐が見つかったようで良かった。
ヴィーガンとかいう人々がいるらしい。動物も人間と同じように扱うべきだと考えて動物を食べないとか。ふーん。結構なことだ。
なんとかいう環境活動家がいて、こいつを批判する人は現実から逃避したい人だとか少女が偉そうにしてるのが気にくわない差別主義だとか言われるらしいね。環境保護、立派と思います。
エロ本や萌え表現が存在するだけで女性差別が強化されると思い、男女平等の理想のために表現規制をしたいフェミニストってのがいる。男女平等、偉い偉い。
でもこいつらは、人間の人生に、人生の意味や生き甲斐を与えることにはすこしも興味がない。「平等であれ」という倫理を世界に広げることには興味があっても、社会の片隅でひっそりと生きている独身弱者男性の生きがいが奪われることには興味がない。
人生の意味を語ることは非合理な宗教信者にしかできない。世界はただ存在して、人間は誰かが避妊せずセックスした結果としてのみ生まれ、生物学的必然としてのみ死んでいく。この世界で、子孫を残す望みのない弱者、独身者は、孤独な人間は、何を希望に生きればいいのか?ただ自分の寿命を維持するためだけにクソみたいな労働をして、雀の涙みたいなカネをもらい、家畜の餌みたいな飯を食うだけの人生を浪費する。こんな人生に何の希望があるのか?
虚無にまるっきり等しい人生をごまかすためのものは何だか分かるか。1つは肉を思い切り焼いて食うこと。1つは度数の強い酒を飲むこと。1つはオナニーをすること。強い快楽を脳に浴びせ続けて、絶望を忘れ続けることだ。
上に挙げたような人たちは倫理的に生きることだけを至上命題としている。それも、動物、未来世代、女性と、他者との関係の上での平等を中心にしている。でも僕たちが倫理的であるのは人間関係を円滑にして自分の生存を維持するためであって、全ての動物と地球で仲良くするためではない。環境を大事にしようと思うのは残された子供世代が生きることを考えているから生まれる考えであって、独身で子供を持たない人間にはなんの利益ももたらさない。社会で生きる女性が就職や賃金や地位の面で不利益を受けているのは正されるべきだと思っても、わざわざ見に行かなければ何の影響ももたらさないような表現を規制することが女性の社会進出に役立つ度合いが、弱者独身男性のオナニーの機会を奪うことまで正当化できるほど大きいとは思えない。
僕たちの生きる意味、いや、生の絶望をごまかすための手段が、こんなことで制限されていいとでも思っているのか。
倫理的に生きることは、よく生きることに優越しない。絶望と生存のぎりぎりのラインを生きる人に、そんな強い倫理的要求を課す権利があるなんて、何で思えるんだ。リベラルの欺瞞なんてことが言われるのは、他者と対等に交感しあい友と親しい関係を築くことが人生の意味だなんて大層なことを言いながら、自分達には下品な性欲も食欲もありませんみたいな振りをしつつ、それを代替し人生の意味を補うための家族も友達も金も職業も弱者が欲しいものは全部持っていて、何もない孤独な独身男性に偉そうな倫理的マウントをとるからだ。
現代の倫理エリート活動家どもには、人生の無意味を直視してもらいたい。弱者で孤独で独身で救いようのないゴミ人間も、命を持って生きていることに対して向き合えないなら、お前たちの思想にも活動にも何の意味もない。
少なくとも自己の内面を掘り下げない一般男性よりは自覚的であると言える
比較的ありのままで存在を認められる「かわいい」といった女性特有の強さは
需要どころか排斥対象すらなりえるという自覚から逃れなれない男性にとっては
もはや羨望の対象ですらある。
「宇崎ちゃんは遊びたい」も女性を弱者として性的に消費してるどころか
一億稼げといわれたら宝くじが現実的で説得力ある選択肢になりえるように
女性に接触する唯一レベルで説得力がある可能性という悲しい構図なのだ
前述のようにオタクは弱者で、どう取り繕っても本質的にキモいという自覚があり
自分は何も持っていないと考えている。
だからこそ自分の内面の欲望と向き合い、空想することが生き甲斐になっている。
フェミな方々があげる問題は「持つものが価値をどう保護運用/自己コントロールするか」の話に見えてしまう
それどころか、持つものが持たざる者の逃げ場所を価値の自己コントロールの対象として奪おうとしてるようすらみえる。
大多数のオタクは女性の不利益は是正されるべきと穏当に考えてるが
表現の弾圧は是正のための唯一の手段でも、効果的な手段でも、女性被害の象徴ですらない
リターンなど考えずただ叩きやすい弱者だから叩いてるように見える。
弱者から潰すのは戦争では常套手段とはいえ、禍根を残す虐殺をやる覚悟をちゃんと持ってるのかは疑問である
圧倒的強者である女性にたいしてオタクはできるだけ接触したくないと考えている。
(ただし、いけるという勘違いが発生してしまった場合はこの限りではない傾向がある)
ファンタジーを現実と同一視するどころか、現実の象徴とすらして
オタクこそ現実の女性を積極的に性的消費する第一人者とみなすのは大間違いといえる。
むしろ、現実の女性への性的消費から遠いところにいるのがオタクだ
オタクは自らの欲望と向き合い自給自足にある程度成功している。
男性的な性欲を満たすのに必要なパラメーターは客観的にはけっこう少ない。
たぶんロボットアーム付きルンバみたいなのに遠隔操作か自律動作で家事をやらせるのがどこかで流行るので
触覚も20年以内にある程度解決する可能性が高いのではないかと思う。
タイトルの通りである。この文章にタイトル以上の何がしかは存在しない。面白いオチも無い。所謂お気持ち文章という奴なので、余程暇か、同じ境遇で涙を飲んだことのある腐女子以外は読まないだろうなと思って書いている。ただただ私個人の慟哭が続くだけであり、意味はなさない。そういったことをご了承頂き読み進めて頂きたい。
それからタイトルで嫌な予感がした人は読まない方がいいと思う。NLで好きなカップリングがある人も避けた方がいい。これは別に読んではいけないというのではなく、単に無意味な時間を過ごさせる自信があるからだ。
私がハマっているジャンルは「食戟のソーマ」という週刊少年ジャンプで連載していた料理バトル漫画だ。
「ああ、あの、メシを食うと女の子の服が脱げるやつだろ?」
そう、それである。実際には男の子もおじさんもおばさんもおじいさんもおばあさんも建築物もみんな脱げるが、ともかくその漫画だ。
ジャンプ本誌での連載を終え、その後ジャンプGIGA(ジャンプの別冊雑誌)で短期連載していた後日談も最終回を迎えた。ここで言う「最終回」はそのジャンプGIGAでの最終回のことである。
ここからはその最終回を含めたファンブックのネタバレもあるので注意されたし。
最終回の配信日、夜中を前に私はスマホを前にうろうろしたりもんどりうったり神に祈ったりして配信を待った。具体的には友人たちに、「最終回を迎えた後の精神状態に異常を来たす可能性が非常に高い。ついてはLINEがめちゃくちゃ荒れるかもしれないが今回ばかりはご容赦願いたい」というLINEを送り、「用意周到過ぎでは?」「骨は拾うからな」などという優しいお言葉を頂戴して過ごした。
今まで推しジャンルが最も推している最中に最終回を迎えたことのなかった私は、最終回という現実に自分の身が耐えられるかわからなかったのである。特に最終回では「未来の話」をやるという予告が最初からあったため、主人公・幸平創真くん(推しカプの受)の結婚エンドや子どもができているエンドがあるのではないかとずっと怯えていた。最近のジャンプではNARUTO然りBLEACH然りそうした最終回が多かったので、もう物凄く怖かった。そういったエンディングが悪いとは言わないが、それまでナルトや一護を応援してきたのに突然知らない子どもに未来を託されても全然感情移入できなかったのである。
そして0時。心臓が異常な爆音を奏でる中、最終回が配信された。震える手でページをめくった。
正直な話、良かった、と思った。
最終回の概要を述べると、25歳になった主人公たちのその後が描かれ、今後もそれぞれのフィールドで料理の道を極めるぜ、みたいな終わり方をした。
主人公である幸平創真くんとヒロインの一人である薙切えりなさんの間に恋心のような特別な感情が芽生えているという表現はあったものの、その描き方が絶妙で、明確に付き合ったり結婚したりという宣言は無かった。各キャラの進路やビジュアル変更について色々物申したい事があったが、とにかく結婚エンドは免れたのである。
よかった。へとへとになったものの、私はひとまず布団に横になった。そしてよりにもよって感想を検索してしまった。これがいけなかったのだが、感想の中に見つけてしまったのである。
「葉山くんの指輪の相手はきっと汐見先輩だよね!」というような言葉を。
ハ?指輪…?
慌てて最終回を読み返すと、確かに、葉山アキラというキャラクターの左手薬指にはあったのだ。どう考えても結婚指輪にしか見えないものが。
その葉山くんこそが、アキ創という私の推しカプの攻めだったのだ。
荒れた。
翌日は一日潰れていた。元々の体調不良もあったのだが、完全に気がふれてしまっていてダメだった。
食戟のソーマを2巻くらいまでしか読んでいないオタクのために葉山アキラというキャラクターについて簡単に解説すると、超嗅覚というめちゃくちゃ高性能の嗅覚を持った主人公のライバル料理人で、プライド高めの銀髪褐色だが心を許した相手には世話焼きオカン気質になるイケメンである。
彼が幼少期、海外のスラム街で親もなく彷徨っていたところで、スパイスの取引で騙されそうになっていた汐見潤という女性を助ける形で出会う。彼女はスパイスの研究者であり、葉山の超嗅覚に着目した。日本に連れてこられた葉山は汐見のもとでスパイスの研究者・料理人としての道を歩むようになる。それもこれも潤のため。自分を救ってくれた彼女の恩に報いたいと努力し続ける。
…というようなキャラクターで、これまでも彼女とのフラグはガンガンに立っていた。葉山自身汐見先輩には自分がいないとダメだみたいな台詞を何度も言っていたし、秋の選抜という一年の料理大会で優勝した時の彼は汐見先輩を抱きしめていたし、彼女を人質にとられて闇堕ちしたりしている。(なお闇堕ちからは創真くんが彼を救っている)
自分で書いていて「そりゃくっつくよな…」的な要素しかない。声を担当されている某方がおまけVTRで「彼は多分女性として汐見先輩のこと大事に思ってると思いますよ」的なことをおっしゃっていたこともあり、いい加減な発言をされない声優さんだからきっと原作サイドからもそういう話があったんだろうとは思っていたが…。
それに理解る(わかる)。きっと葉山くんは遠月を卒業と同時に汐見先輩にプロポーズして、けれどまだ未成年だから20歳になってからという条件をもらって20歳にゴールインしたんだろう。もう手に取るようにわかる。私の推しカプ、アキ創なのに。なんでやねん。
だが問題は、最終回に汐見先輩が一ミリも出てこない上に、指輪の相手についても全く触れられていないことだった。ただ指輪のはまった薬指があるだけ。絶妙にぼかされている。それは我々への思いやりなのか、それとも葉山くんと汐見先輩の間に年齢差が10歳以上あるため明言を避けたのかは未だに不明だ。
LINE告知していた皆に案の定悲しみLINEを送ったところ、「ジャンプで生殖エンドじゃないのは評価に値する」「もしかしたら創真くんとのペアリングかもしれない」「モテるから他の女の子を散らすためのファッション指輪じゃない?」などご提案を頂いた。ありがたいことに別ジャンルなのに二次創作会話文まで送ってくれた友人もいた。ありがとうございます。もちろん創真くんが指輪をしていないか探しまくりました。首にチェーンがないかも目を凝らして見ました。無かった。それも伝えたら「そりゃお前、創真くんは指輪なんかに頓着しないから無くしたんだよ」って言ってくれてありがとう。推しは頓着しませんが私は頓着しまくっています。
なお職場の後輩男子に伝えたら「え…そりゃそこがくっつくと思うんですけど…」って戸惑いがちに言われた。わかってるよそんなの!課金してまでアニメソーマ見てくれてありがとうな!君が作って差し入れてくれた化けるふりかけご飯おいしかったよ!でもやめてよそういう正論で殴るの!…というお気持ちになった。
だが、事態はこれでは終わらなかった。
勝手に受けた時間差爆撃で頭がクラクラしている所で、最終回と同時に二つの重大発表があったのを思い出したのだ。一つはアニメ4期決定。そしてもう一つは、ファンブックの発売決定である。
アニメはもちろんのこと、ファンブックは食戟のソーマファンは多分みんな待ち望んでいたもので、私も純粋に嬉しかった。
しかしハッとした。
もしかしてファンブックであの指輪の話題に触れられてしまうんじゃないか?と。
そこからは更なる地獄の幕開けだった。ジャンプGIGAでの最終回からファンブック発売までは1ヶ月以上あり、その間「ファンブックであの指輪について何か言及されたら死ぬ」とずっと思っていた。もう葉山くんと汐見先輩がくっついたと決めつけて脳内妄想を浮気ものにしたくらいの荒れようだった。
ファンブックについては2019年10月27日現在は電子版配信があるが、発売当時は書籍のみだったので、当日に確実に読めるようにAmazonと楽天とhontoで予約して、近場の本屋も何軒か回って予約した。考えられないかもしれないが私が住んでいる地域ではジャンプ単行本の発売日が一日遅れる。本屋は無理だろうと思っていたが、それでも最後くらい売り上げに貢献したかったし、…今思えばそれよりも、駆けずり回っていると気が紛れたのかもしれない。
ファンブック発売日、仕事から帰ってきて最初から順番に読んでいった。
原作者の先生によるキャラ紹介のところに差し掛かる。葉山くんのページにも汐見先輩のページにも結婚の文字は無かった。
しかし先生へのインタビュー記事の中に、その記載はあった。その小さな「こぼれ話」という記事自体、「元々は創真とえりなを結婚させるエンドにするつもりだった」というものなのでジャブとしてはかなり強力だったのだが、最後にこう付け加えてあった。
空笑いというか、やっぱりなというか。全身の力が抜けた。
この文章の凄いところはそれでも「結婚」の二文字を頑なに出さないところで、あの指輪が何の意味で誰との間の物なのか情報としてはゼロということだ。ある意味二次創作者には優しい。
でも、身勝手な言い分だとわかっていても、他の誰も結婚していないのに、葉山くんだけどうしてと思ってしまった。
他のキャラをくっつけるとファンが暴徒と化すから?(特に創真くんがどのヒロインとくっつくかについては論争が凄かったようだ。)でも葉山くんと汐見先輩はほぼ公式みたいなものだから大丈夫だと思った?単純に公式の推しカプだった?
私がこんなにもショックを受けていても、周りはそうでもないみたいだった。そもそもソーマクラスタの友人がそんなにいないので全体がどうだったのかはわからないが、感想を検索した限りではおめでとうとかよかったねとか、当たり前に二人の関係を受け入れる文言ばかりだった。
元々その二人が好きな人たちが喜ぶのはわかるが他カプクラスタの人たちが祝福しているのも見て、「ああ、これを喜べないファンは私だけなんだ…」と膝をついた。だから二人をくっつけるエンドにしたのかな、だってこの世でこんなに醜く喚いてるの、私だけだもんね。そんな風なことを思って苦しかった。
別ジャンルに喩えて恐縮だが、あっちが刀剣乱舞ならこっちは歴史修正主義者なのである。歴史という概念としての正しさで言えば向こうが圧倒的上。こちらがどんなに原作を読み込んでも、些細なやりとりに萌えを見出しても勝てる筈がない。もちろん上下や勝ち負けなんていうものは二次創作界隈には無いし、意味もない。彼と彼女のカプを好きなファンの人たちと交流はほとんどないけれど、偶然出会った折には皆さんとても優しく接してくれる。カプは何なんですか、と問われるとちょっと困るけれども…そりゃ刀剣男士も隣に突然歴史修正主義者が現れたら驚くよね…ごめんね…という気持ちになる。
つらつら書いたが、ファンの中ですらひとりぼっちになってしまったみたいで、みんなと同じように楽しめなくて、自分だけ公式から置いていかれたみたいで、悲しかった。公式から認知されていないファンなのかなとか(むしろ認知されていたら困るのだが、この時は理性もなくなっていた)、自分勝手にぐるぐる考え込んでしまって鬱々とした。
心にぽっかり穴が空く、という表現があるが、この時の私は頭にがらんどうの穴が空いていた。考えるだけでつらくなるから妄想すら躊躇われて、大好きなカプなのにできるだけ考えないようにしようとしていた。
空いた穴を埋めたくて現実逃避したくて、久しぶりに他のアニメを見たり、他のゲームをしたりしてみた。でも何をしても推しカプ変換してしまう。パロったら楽しそうだなとか、中の人が同じだなとか、トロに推しカプの知識を授けよう…とか、そんなことばかりだった。
さっき突然刀剣乱舞の話を引き合いに出したが、とうらぶも好きだったので、そちらで妄想の息抜きをしようかなとも一瞬思ったが、まるで逃げ道に利用しているみたいでダメだった。とうらぶの私の推しに顔向けが出来ない。
何をしても楽しくなくて、しんどいなあと思った。指輪ネタも無理になってきた。今後どのジャンルでも指輪を贈るネタが無理とか笑える、と笑っていた。
誰かに、自分の思い描いた形になってほしいという理想を押し付けるなんて、なんて傲慢なんだろう。それは作者様に対しても、他のファンの人たちに対しても、作品の内容に対しても。
結局のところ、「自分がどうありたいか?」ということしか私の自由にできる事はない。それがわかってはいても認めるのがずっと辛かったんだなと思う。
それから、自分の妄想や推しカプをあんまり卑下するのも良くないな、と思った。マイナーカプでも、公式から半ば否定されても、私が好きになった二人だから、自分勝手に大事にしたいと思う。
私にできるのは妄想することだけだから、今後も自分が萌えている内は推しカプについて考えていくしかない。苦しい気持ちや後ろめたい気持ちを抱えては、時折下ろして一休みしながら。
…などとまともなことを書いてはみたものの、正直に言うと一日一回は推しカプがくっつかない世界に未練はないので明日地球が終わらないかな?とか思ったりする。何を生き甲斐にしたらいいのかよくわからない。そんな風にぼんやり生きている。
余談だがAppleMUSICに入ったので推しカプソングにできないか色々聞いていたらOfficial髭男dismの「Pretender」を聴いてしまった。コンフィデンスマンJPの曲ということくらいしか知らなかったのに歌詞で死にかけた。
……。
このお気持ち文章を書く前に読んでいた記事でも別のオタクの方がこの曲を推しとの別れの曲としてとらえており、だからApple MUSIC一位なのかな…などとぼんやり思った。
お気持ち文章は以上で終わりです。面白いオチも何もなくてすみません。
食戟のソーマ21〜23巻にアキ創の料理バトルが収録されています。攻めが受けを俺の天使にします。よかったらそれだけでも読んでください。よろしくお願いします。あと最終巻36巻に何回読んでもよくわからない葉山くんによる「俺の幸平創真語り」があります。
あと何故だかよくわからないのだが原作以外からは推されることが多くて、今回大阪であったコラボカフェでも上記の料理バトルで二人が出した料理が同じプレートにセット盛りされてきた。美味しかった。ありがとうございます。
最後に、友人から送られたLINEが強かったので載せておきます。同じように苦しむ腐女子に届きますように。
高校を卒業してしばらくした頃、所謂ネットワークビジネスに手を染めた同級生が何人か居た。彼らはアツい仲間だの、人生逆転だの、そういった言葉をかつての仲間たちに振りまいて何人かの人生をともに陥れようとした。
本当に儲かるんだぞ、ってことの証拠に彼らがこぞってInstagramに載せるのは、ルイヴィトンとモエシャンドン、そして肉寿司だった。
俺の周りでは、こうした詐欺にのめり込んでしまう者の大半が元高校球児だった。生き甲斐を失った空虚感に餌を蒔かれたことが、簡単に想像できる。
あまりに稚拙で下品な誘いに、どういう生き方をしていたら引っかかってしまうんだと、こちらからしたら想像もつかないくらい馬鹿げたことだけど、それも仕方ないことなのかもしれない。それぐらい彼らの世界には野球しかなくて、それに人生を捧げていたわけだから。
部活に熱中し汗流す学生時代を過ごすのはとても素晴らしいことだけれども、
何も知らない大人にならない様、これから各高校では、このようなケースを未然に防ぐ教育を、被害者のOBを招いて講演をするなどして行うべきではないかと思う。
実は既にクリニック行ったりして、ぼくがAGAのようだということはわかっているし、手元に保険の効かないクソ高い薬もある。薬はよく効くと評判のフ◯◯◯◯◯ドが主成分の内服薬だ。
でも、まだ飲むのを躊躇している。理由は単純に副作用が気になるからで、あまりないらしいけど性欲減退やEDが考えられるとクリニックで説明された。あと、その時は説明されなかったけど、ネットで調べるとポストフ◯◯◯◯◯ド症候群という重い症状に見舞われている被害者らしき人たちを見かける。その人たちはどうも性欲減退やED以外にも無気力やうつなどの症状が酷いらしい。
もしこの薬を飲んで、副作用もなくフサフサになったら何も言うことはない。人類が生み出したこの薬に感謝するほかない。でも、もし、たいした効果もなくEDになったら…?
断っておくけど、ぼくは可愛い女の子と生エッチして中出しすることが生き甲斐なんだ。これまでどんなストレスフルな日々を送っていても、可愛い女の子に生中出しして全てリセットしてきた。それができなくなったら元も子もない。仮に効果があってフサフサになっても、それができなくなったら何も嬉しくない。そう気づいたとき、ぼくはハゲ治療をはじめるのをやめることにした。
同じく老健勤めてるけど、子供たちが結婚しないで親を看取るケースがあった。子供たちが配偶者いない方が、親って楽しそうなのよな。その人は孫の顔見れなかったと言ってたけどね、そんなの些細なことじゃんって思うくらい、子供たちが休みの日は外食やお茶に行ってたし、何かあったらすぐ駆けつけるし。
子供の配偶者って、親から見たら他人なんだよな。娘がいたら、まだ気にかけてくれて安泰なケースが多いんだけど、悲惨なのが全員結婚してる子供たちが男兄弟だけの家族。いいとこの大学出て、一流企業や弁護士などの家系だけど、顔を見に来ない、嫁も面倒見ませんと宣言しているのか、洗濯物を取りに来なかったりか、外部委託している。それでも、私は男の子を生んだ!子供を四人育てた、全員国立大学に行かせたと事あるごとに言っているから、何がその人の生き甲斐になるかはわからん。
まだそんなに長く生きてないけど人生の3分の1くらい悩んで付きまとってくる問題
私は元々ツイッターのアカウントは一つだった ファンアートを描いたり日々の事柄を垂れ流したりしていた
美大を受験するにあたって身の回りに絵を描く友達が小中高の時以上にドワッと増えた。でも絵を描くからといって皆オタクなわけじゃないので、しばらくツイッターの存在は隠して友達との会話は日々の課題についてやら人間関係についてが主だった。
近年若者の友達づくりはSNSが結構大きな役割になってるような気がする 。ツイッターで気になってたんだ〜みたいな話はよく聞く snsをやってた方が絶対に友達は増える
それは置いといて、仲良くなると、プライベートな部分にもお互いに足を踏み入れると思う その友達はオタクではなかったけれどツイッターを教えて2人だけでふぁぼをしあったりしていた。その友達経由で周りの友達からもどんどんフォローされるようになった。
でもイラストを描くのはやめれなかったので別のアカウントを作った。その垢でハマったゲームのキャラやオリジナルやらをちょぼちょぼ描いていた。しかしなんでかそれも段々と知り合いにフォローされるようになり(どういう経緯だったか忘れた)
イラストは描くけど、女の子が微笑んでいる感じの、親に見せてもちょっと恥ずかしいくらいのイラストを載せるアカウントになった
大学生になってしばらくして制作への鬱憤みたいなのが謎に爆発して爆爆ドエロBLがどうしても描きたくなってしまい新しくアカウントを作った
・この世は美しい…みたいなのをコンセプトにしているイラスト描き
人格は2人でも描いている人間は1人なのでどうしても絵柄や色の癖等でバレたりする。でも、このバレは大体同じ穴の狢であることが主なので、バレた瞬間は割とショックだけどこれについてはしょうがない
同じインターネットの星の仲間
頑張って現代社会で生き抜こうね
オナムナ(同じ穴の狢)達は配慮のある人が多く、アカウントを見つけたとしてもソッと見なかった事にしてくれたり無闇矢鱈に言いふらしたりしない多分 そう信じたいだけかも 言うとしてもまたオナムナに言うくらいだと思う(自分がされて嫌なことは人にしてはいけないって幼稚園で習ったから…)
私の経験上、腐女子忍者は現実の話をしても雲のようにフワフワと掴み所のない話をする人が多いのとリア垢の更新頻度が4日か5日感覚(これは本垢の更新に重きを置いているためリア垢が疎かになってしまう)で微妙にインターネットで生き抜いてきた匂いの漂う語彙のツィートをする…気がする…
同人活動してて思うのは生きてる時間、思考をかなり費やしてしまう。生活の大半がオタクなので日々の話のネタもオタクオタクオタクになってしまい、普通の会話をしようとするとゴキブリが出たとかセブンの親子丼がうまいとか部屋に羽アリが湧いて最悪とか虫コナーズはすごいとかなんかそういう…そういう話しかできない…
オタク話だったら限界原稿女だから描き文字のドキ…を間違えてゴキ…って描いちゃって1人で笑っちゃったよみたいな話ができるんだけどな
最近は大学の友達と会うと虫の話か進路の話しかできなくて困った
もっと面白い話のネタたくさんあるのに!聞いて!同人の印刷代がやばすぎてサラ金に手を出そうとしたら審査普通に落ちてワロタとか言いてえ
とまあオタクとリアルの距離が、美大系は近いためバレの確率が高くBLにさして興味の無いひともオタクアカウントを見つけてしまう確率が高いというぼやきでした
他の人はどうしているんだろう
私の場合はセキュリティがガバガバなのと、自分の快楽優先で描きたいものを描いてるため2つの人格の絵が全く別物の作品に切り離せないところです なるべく別物になるように意識はしてる
生きていることは恥ずかしいなあ
憎しみ続ける事は生き甲斐になり得るし、なりに辛いとしてもそれは憎しみの根源が言っていい事じゃない。クソバイスをするのは憎しみを煽るだけ
そう信じていた頃の自分が嫌いになっただけだ。
エロゲに熱中していた頃の自分、エロゲに熱中しているというだけで自分が他人と違うと調子に乗っていた頃の自分の痛さに気づいただけ。
その痛さの中で結局何も手に入らなかったから。
痛いことやっていたおかげで何かしらの物が手に入ってたら、その頃の自分が今の自分に必要だったと感じられたんだろうけど、そうじゃないから無駄にしか思えないんだろ。
でも増田はそうじゃなかった。
エロゲコミュニティを通して生涯の友を作った人間、創作活動という生き甲斐を得た人間、なんか知らんがメンヘラが直った人間、増田はそのどれでもなかったんだろ。
そういう思い出に切り替わっているんだろう。
よくあることだ。
増田が恥じているのは、あの頃の自信満々に人とは違うと言い張っておきながら結局何もやってなくて、結局何者にもなれなかった自分だろう。
それを受け止めろ。
許してやれ。
弱い自分を許す機会が訪れたんだ。
その手をちゃんと掴んで抱き寄せてやれ。
バッドエンドも。