はてなキーワード: 生き甲斐とは
私は「65歳以上」は、免許を一律返納すべきという立場を取りたい。
なぜ65歳かというと、年金を貰えるのが65歳だから、定年退職する年齢を65歳と仮定しての線引きである。
例えば、トラックやバスの運転手などの職業ドライバーも、定年で「引退」すると考える。
再雇用云々……は今は置いておいて、例えばバス会社が運転手を雇うのは「65歳の定年まで」とすれば、それが運転を引退する年齢にすべきだと思うのだ。
よって、この年金を貰うラインを、一応「現役」か「引退」かの無慈悲に引くラインとして採用したい。
だから、トラックやバスなど、プロ運転手に給料を払う企業に対して、厳密にその「現役」と「引退」の年齢ラインをしっかり決めて欲しい。
安心して雇い、安心して給料を払えるのは、何歳の運転手までか。
職業運転手は、人命や大切な荷を運ぶプロだ。事故を起こされたら会社もたまったものじゃない。
なぜなら、高齢者はどうしても、認知・判断・操作能力が、衰えていくからだ。
60歳から65歳になって、年齢が若返ることはもうない。時間は過ぎる。
池袋の暴走事故の遺族は「少しでも運転に不安のある人は免許を返納してほしい」と訴えた。
私もそう思う。
足が衰え、ガニ股になり、バックなどで腰をひねった際、身体の柔らかさが衰えた身体では足の位置がずれてしまい、
その甘い感覚のまま、ブレーキに添えていたはずの足はアクセルにずれ、思い切りアクセルを踏んでしまう。
なぜなら「ブレーキを踏んだのに進んでいる」→「アクセルと踏み間違えている」→「ブレーキを踏みなおそう」という、
むしろ「ブレーキを踏んでるのにどうして進むの?」とパニックになり、踏み間違えたアクセルを踏み続ける。
その間も、轢いた歩行者を踏み続けていることになる。無慈悲だ。これは殺人と等しい。
「年を取っても元気に運転できる人がいる」とか「田舎では移動手段がない」とか、しまいには「生き甲斐」とか言い出す始末。
要は車を取ったら不便になるから、ギリギリまで運転したいということ。
そして「家族が顔色を窺って、免許返納を遠回しに勧めて」ほしいとか言っている。
なぜそこまで気遣いをしなければならないのか。
であれば、「一律」に「平等」に免許返納の年齢上限を設けるべきだ。
18歳未満は運転できないのと同じだ。
福岡市逆走暴走事故は、事故のほんの十分前はまともに運転をしていたそうだ。
もしかしたら当時意識を失っていた(突然体調不良になった?)のかもしれないと、事故の原因を調査中だ。
高齢者は、いつどうなるかわからないから、運転はやめるべきだという事実が露呈したと言える。
ほんの十分前まともに運転していた人が、一瞬でまともな運転ができなくなったのだ。
それが「年を取る」……ということなのだ。
これが一番言いたいことだが。
「歩行者の命」に関わることだ。
健康寿命の長い、特異な人に合わせないでほしい。
平均点以下……むしろ運動神経の悪くおぼつかなくなってきた人に合わせて、年齢制限を決めて欲しい。
運転偏差値なるものがあるなら、30とか20とかの人に合わせて、年齢制限を決めて欲しい。
車は、踏んだら動く。
座ってるだけで移動できる。
けれども、最低限「安全な操作」ができる「身体能力」が必要だ。
それは、高齢になるとどうしても不足してくる。スポーツと同じだ。
プロであればあるほど、自分が全盛期の動きができなくなったとすぐに気付く。
自動車の運転にも、職業運転手の定年退職と同様に、年齢に上限を決める。
どうか、運転免許は「できない」人に合わせて年齢上限を決めてほしい。
私はペーパードライバーだ。
45歳までに車を買えなかったら、返納しようと思っている。
45歳以上になったら、ペーパードライバー講習を受けても無理だろうと思っているからだ。
21歳で免許取得したのに、自動車そのものも維持費も高く、いまだに持つことができない。給料が低いのだ。
だからどこにでも歩いていく。汽車に乗っていく。バスに乗っていく。そして歩く。
齢90の祖母、65の父もそうだ。
祖母は免許を持っていない。運転できる祖父が亡くなってからは、ずっと歩いている。バスに乗ったり、バスがなければ歩いている。
祖母のような高齢者でも、車がなければないでなんとかやっている。
父は車の維持費が大変で、55歳ごろ車を手放した。
車を手放したらタクシー代が…という人は、車のほうが金食い虫と言えないだろうか。
父は、バスの通る場所に引っ越したし、祖母は、生協の宅配を利用して日々の買い物は賄っている。
車って、一度持ってしまうと手放せないんだなと、高齢者の誤操作による事故のニュースを見ていて、日々思っている。
そして不思議だ。
実家には車のある時期もあったが、私自身は車を持ったことがない。
そういう人間からしてみれば、なぜそこまで車に固執するのか不思議でならない。
事故のニュースだって、決して交通の便が悪くなさそうなところで起きている。本当に不思議だ。
おまけに、高齢者が若かったころ、そもそも車なんか発明されて間もなく高価で手が出せなかったのではなかろうか。
便利なものはなかなか手放せない。仕方ない。踏めば走る。便利だ。
ちょうど赤ちゃんが生まれたり、保育園に預けたり、小学校に入学したりと、育児に奮闘する友人が増えてきた。
私も夫も子どもは大好きで、友人や親戚の子に会った後は、天使だったね!と盛り上がるし、人の子でこんなに可愛いのだから、自分が頑張って産んだ子だったらもっと可愛いのかも、と思う。
ただ、だから私も欲しい!とはならないことに、あるとき気が付いた。
絶対にいらないとは思っていないけど、私は今のところ子どもを持つことに積極的になれない。
だから「子ども楽しみだね」「そろそろ…?」とか悪気なく笑顔で言われると、毎度反応に困る。親以上の世代ってこの辺のデリカシーない人多いですよね。
「子ども可愛いよ」「最初はいいけど、子どもがいないと生き甲斐ないよ」とか言われるけど、子どもがいる人に、子どもがいないことへのデメリットを語られても…ねぇ、という感じ。
逆に、子どもがいない人に、子どもがいることのデメリットを語られても…ねぇ、と思うだろうけど、そういう人には今のところ出会っていない。
話が逸れたけど、世の中のお母さんたちがどのようにして「子ども欲しい!」と思ったのか、純粋に気になってしまった。
結婚、出産、的な感じでごく自然の流れだから、愛する人との証とか遺伝子を残したいから、可愛いから、夫や親のため、本能的に、
色々書いたけど、そもそも、子どもが欲しいことに理由なんて無いのか。ただ単に私が、積極的でないがゆえに考えすぎなだけかもしれない。
学生時代なんか無意識に漠然と、「結婚→出産」が頭にあった気がするけど、いざ、現実的に考える時期になったら、全く積極的になれなかった。
身体が弱い。
自問し始めたきっかけの一つかもしれない。健康なお母さんでも危険は沢山あるけど、普通より高いと言われる様々なリスクを冒してまで欲しいと思えない。怖い。
あらゆるところで意見が述べられているとおりで、ハードモードすぎる気がする。
あとお金の心配。中高大で海外留学したいと言われたら?全部応えてあげられる?とか。田舎出身で、私立の概念や教育の選択肢が無かったのに対して、都会は選択肢が多くて怯えている部分がある。
そして夫といるのが楽しい。
お互い信頼しあっている夫と、夫婦でこのまま暮らすのも良いよね。お金も時間も二人で、二人のために使うのも良いよねと思っている。
子ども可愛い大好き=子ども欲しいだとずっと思っていたけど、こういった理由を超えるほどの、子ども欲しい!という感情が私には無かった。
色々あるけどそれでも欲しい!と、いつか思うのかもしれない。
どんな選択をしようと、それぞれの後悔やら喜びやら色々あるのだろうし、その時にどう感じようと自分の選択に責任を持つしかない。
日本社会は表向き実力主義、成果主義を掲げつつ、未だ学歴主義体質が根強いと言われている(渡辺,2006)。そのような社会の中で、大学進学者の割合が初めて5割を超え(文部科学省,2009)、数十年前と比較して高学歴化が進んでいる。全入時代までは至らないが、志望大学に拘らなければ受験生の9割超が大学に進学できる時代となった。今後は大卒の肩書きのみでなく、大学の知名度や質を重視する傾向が強まり、受験競争はさらに激化するとも考えられる。ここで問題となるのが、受験という競争に伴う敗者と勝者の存在である。彼らが過剰な挫折感や劣等感、あるいは優越感に囚われた場合、学歴コンプレックスとして諸々の心理的、社会的な問題を引き起こす。しかし現状は、定義自体が曖昧であるため、研究者独自の概念や言葉で当問題が扱われている。そこで、今回は心理学分野での学歴コンプレックスに関する研究に注目し、考察と今後の展望を述べることとする。
学歴コンプレックスとは、不満足の原因を自己あるいは他者の学歴に関連づけることで感じる、劣等感や自尊心のこと(鷲田,1995)であり、学歴に対して劣等感を抱く場合と学歴への誇大な自尊心を抱く場合の2層に分けられる。両層に共通する主な特徴は、以下の3点に集約される。第1に、自己の実力不足や失敗を過度に学歴に帰属すること、第2に、自己だけでなく他者をも学歴で評価すること、そして最後に、学歴ばかりに囚われ学業という本来の目的を見失いかねないことである。これらの根底には、学歴が高いほど将来は報われると考える「学歴社会意識」(安藤,2007)や有名大学の進学のみに価値を見出す「学校歴主義」(野田,1996)といった学歴志向の存在が窺える。層別に見ると、劣等感層では上述の志向に加え、入試時に第1志望に落ちて仕方なく所属大学に入った「不本意入学」(伊藤、1995)がコンプレックスの主要因となっている。そして、不本意感から多浪や仮面浪人、退学を繰り返す再受験症候群や、国公立大の進学者を優遇する国公立大学至上主義下での私大進学者なども本層に含まれる。一方、誇大な自尊心層では、学歴社会の勝者であるがゆえに、学歴に比例して自己を過大評価する傾向がある。その裏には人柄や実力よりも学歴イメージが先行する、レッテルとしての学歴の影響が見られる。その他、学歴に見合った社会的待遇でないと受け入れられない学歴保証の希求や、就職時に多い高学歴者の挫折体験等の問題も挙げられている。これらの学歴コンプレックスに伴い、失敗感、挫折感からくる無気力や自尊心低下、不本意感に由来する不適応や抑うつ状態といった心理的問題に加え、充実感や生き甲斐の欠如、自我同一性拡散の深化など、生き方そのものに関わる問題の存在も示唆されている。また、学歴志向や進学観が親子間で継承される(吉川,2005)ように、親子間でのコンプレックスの継承や家庭内の学歴格差によるコンプレックスなど、個人のみでなく世代間に学歴問題が発展する可能性もある。
先行研究は、学歴コンプレックスを多側面から検討し、日本独自の学歴観や学歴の持つ意味、学歴が認知や思考に及ぼす影響について言及した点で、学歴問題の諸相と今後の研究可能性を提示した意義を有する。今後の展望としては、同じ状況下で不適応に陥る人とそうでない人との相違や学歴にまつわる不適応への対処法など、臨床実践に向けた研究を進めていく必要がある。
安藤聡一朗 (2007).学歴社会意識とスチューデント・アパシーとの関係についての考察 学習院大学人文科学論集,16,137-165.
池上知子 (2004).「学歴社会」に対する意識と大学の自己同一視との関係 愛知教育大学研究報告(教育科学),53,79-86.
伊藤美奈子 (1995).不本意就学類型化の試みとその特徴についての検討 青年心理学研究,7,30-41.
吉川徹 (2005).7-106間移動を考える.日本教育社会学会大会発表要旨集録,(57),44-45.
文部科学省 (2009).平成21年度学校基本調査.2010/02/02情報取得
野田陽子 (1996).学歴観の構良智 (学生とその親の学歴観の分析をとおして― 淑徳大学研究紀要,30(II),87-113.
鷲田小弥太 (2005).コンプレックスに勝つ人、負ける人PHP研究所渡辺山.
京都大学に進学してから、何にも目標を持たずに、シューティングゲームにのめり込み、思い出したかのようにDTMをやり、それが生き甲斐であるかのように自身に思い込ませながら生きてきた僕ですが、ここ京都大学にやってきてから3度目の春を迎え、また違った感情を抱くに至ったので、これまでの人生への懺悔も兼ねてここに記しておきたいと思います。書いてはみたものの、恥ずかしくて特に見返したりもしない雑文となることをお許しください。
僕が京都大学に進学しようと思ったのは、高校3年生の時だった。親族に会う序でに京都へ観光に行き、銀閣寺など見物したそのまた序でに、京都大学へ足を運んだのだった。
そこで僕が目にしたのは、混沌と洗練が入り混じった新鮮な光景だった。
立て看板はどれも、その存在自体がお手本となりうるようなものではなかったが、ベニヤ板に塗られた厚さ数ミリもないような塗料から感じられる深い熱意に、この大学の学生が持ちうる矜持のようなものを自然と感じ取っていた。
そんな単純な理由から受験し、何とか合格を得て入学した。真新しいスーツに身を包んだ出来立てほやほやの京大生達と、入学式、ガイダンス、授業を経て交流した。人生の中でも最高に刺激的な春だったと思う。
交流を重ねるごとに自ずと分かることだが、実際の京都大学生皆が独特の熱意を抱えているわけではなかった。その多くは、勉強が出来たから、学問への熱意があったから、親が教育熱心だったから、そこにいるのだった。
さらに言えば、京都大学理学部では、3回生次に振り分けがあり、それまでは学生として勉強をやりつつ自身の学問的興味の対象を絞っていかねばならなかった。
元々真面目に勉強をやるようなタイプではなかった僕は、秋あたりから、徐々に学校に行くことをやめてしまった。行かなくたって単位くらい取れるというちょっとした甘えのつもりだった。でもそんなことの積み重ねが、毎日授業に出ているクラスメイトと顔を合わせることへの罪悪感、恐怖心へと変わり、ついには眩しい大学生達に紛れること自体への恐怖心に成長してしまった。
朝起きて、時計を見る。そろそろ行かなきゃな…とは思う。う~ん、今から風呂入って行くのしんどいな…とも思う。今日くらいいっか…。といった調子に、クズ人間をやっていた。
そんなこんなで、無い能力に甘え、拾える単位すら落とし、どんどん自分の進路を狭めてしまった僕は、「せめて毎日大学に行っていれば」という自責の念と、「やっぱ自分に大学生なんて向いていないんだよ」という開き直った感情のどちらも捨てきれないまま、2度目の春を迎えてしまった。
葛藤はあったものの、そんな堕落した生活を覆すことは出来ず、状況は悪化していくばかりで、2回生は家からも出ないような生活が続いた。それは自暴自棄のようでもあったが、ただ将来のことを考えていないだけというのが正しそうだった。それでも、決して裕福ではないのに、「教育は財産」と金銭面を負担してくれている親に対する罪悪感は常にあった。連絡を取るのもしんどくなっていった。一方で、知り合いに対しては、自身の生き方と辻褄を合わせるかのように開き直って、人間性を疑われてもおかしくないような言動を繰り返した。
しかしそんな生活にも必然というか幸いというか、終わりは来る。2回生後期も終わり頃というころ、僕はこれ以上、親にも、そして将来の自分にも甘えることが出来なくなった。
親の元に単位数不足の通知が行って、親と担任を交えた三者面談をやったのだ。
そこで、自分のこれまで2年間の過ちについてすべてを話した。それだけなのに、あれだけ怖くて見ることさえ出来なかった京大の学生用サイト(KULASIS)も見ることが出来た。最後の数週間ではあったが授業に出た。人と同じ、当たり前のことをすることの清々しさといったらなかった。そして、罪悪感に埋もれていた、僕の周りのすべての人に対する、申し訳ないという気持ちを取り戻した。
丸々一年大学に行っていない自分に学生をやる能力が残っているか、まだまだ不安はあったものの、ようやく谷底から抜け出せたと思えた3回目の春だった。
この2年間、僕という存在そのものを批判されても文句は言えない甘えた生き方をしてしまった。たった2年で、僕は自分のこれまでの人生を否定してしまった。
この増田に女増田たちが「あんた恵まれてるんだから黙れ」「勝ち組のくせに」「アタシのが可哀想なのに」って反応をしてしまっているのが地獄すぎるな…。
他人の生き方否定して比較して最底辺比べごっこして「比較的マシな方の口を塞ぐ」からこんな社会になってるのに…。
本当に女性のために意識を変えなきゃいけないのは、そういう他者批判だけが生き甲斐の嫉妬女たちなんじゃないの?
元増田は自分の生き方を決めて被害者意識から抜け出した女性なのに、被害者ぶってる!なんて噛み付きはあまりに文盲すぎる、
家庭をつくることで社会に参画しているのにその数に入れてもらえないという問題は、本気で考えなければいけないことだ。
全ての人間を戦場に駆り出さなければ平等じゃないというのが比率問題の欠点。
一つ言えることは、「仕事第一、結婚や人生は二の次」というその思考スタイルは、ぶっちゃけ昭和のお方とかブラック企業の方のメンタルと全く変わらないので、正直結婚には向いてませんね、としか言いようがない。あなたが言ってるのは、結局「仕事の邪魔にならない結婚ならしたいなあ」じゃん。
どんなに仕事が忙しくても会いたいのが恋人だし、大切にしたいのが家族であり家庭でしょ。それは、それが自分という人間の拠って立つ場所であり、生きている意味だからでしょ。まず「この人と結婚したい」が先。後のことは、後。じゃないと幸せにゃならんよ。
俺も「自分の仕事好き人間」だから、仕事にやり甲斐や生き甲斐を見出すのは全然構わんと思うけど、人生における優先順位ってものがあるでしょ。そこ間違ってると社会人として何か欠けた存在だなあと思ってしまう。
「今楽しくて充実しているからいいじゃないですか! 何が悪いんですか」
ハイハイ。パチンコや競馬に金と時間と人生をぶっ込んでる奴も、だいたい同じこと言うからね。あるいはアル中やジャンキーも同じこと思ってるからね。
それに対する返事も同じだね。
「もう少し大局でものを見た方がいいんじゃない? 同じ充実感を得るにしても、もう少し違った金と時間と人生の使い方ってあると思うよ」
まあそゆこと。
どうせこれからしばらく生き甲斐絶つなら、これまで抱えてきた感情とその感情を向けてきたあらゆる対象もろとも心中するくらいの心づもりでいようと思ったので巨大感情をぶつけてから一時撤退することにしました。
誰が見てくれなくてもいいけど見てくれた誰かが刺されてくれたら、それで好きだったその人から嫌われてももう良いやという気持ちで文章にします。
後を濁す気満々で申し訳ない。
(一部方々におかれましては重複してお伝えしている内容ではありますが良かったら今一度受け止めて下さい。)
(一度鍵垢でべらべら喋って怒られたことをまた喋ってるのでいよいよ距離を取られたら寂しいなあと思っていますが極力これきりにしたいので許して下さい、出来ればやっぱり嫌われたくないです)
というのも数値や関係が一目で可視化されている文化圏の中で交流を兼ねながら創作活動をするということが自分には致命的に向いてないと思ったからです。
数値が見えるというのは時として嬉しいものなんですが時としてすごく残酷だと思います。
とりわけ数値で自己と他者とを比較できてしまうという点においては自身の実力を図る手段であり、時として自信になり得る要素でもありましたが、交流していくにあたっては自分にとってはデメリットでしかありませんでした。
まず、自分の創作物というのは贔屓目も謙遜も抜きに見ても、描けない人から見たら描けてはいるもの、絵の上手い人から見たら稚拙だと思われる傾向のものだったと思っています。
なまじ創作物に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたので、そのときのジャンルやCPによっては目に留めてくれる人が多く、その中にはとても絵の上手い方もいらっしゃった、くらいの。
その辺りの側面はひとまず抜きに、「好み」とかの話でなく、絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を私は持っていませんでした。
主観的なものなんだから一概にそんなことはない、なんて言い出せばそうなんですが創作活動を続けていく中で「絵を描く層」を限りなく客観視したとき自分が感じた自身の立ち位置は少なくとも「どちらかといえば上手くない」というものでした。
(「上手くない」「どちらかといえば上手くない」「「どちらかといえば上手い」「上手い」の4段階として)
私が今から話すのはフォロワの中でも上記4段階において「上手い」に属する人=神絵師の方々に対しての感情です。
「神絵師」という判定こそその人の主観でいくらでも変わる認識ですがpixivで1千ブクマを安定して得てるとかフォロワが何万居るとかそういう数値的なものでなく、此処で記す「神絵師」というのはあくまで『絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を持てていると私が判断している人』というものであることをまず始めにご理解下さい。
前述の通り、私は自己の脳内ヒエラルキーにおける絵が上手い人種ではありませんでしたが、
前述の通り、なまじ創作物(主に漫画のことなんですが)に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたのでそこを見てくださった方であったりあるいは横の繋がりであったりで神絵師の類にあたる方々との繋がりがそこそこにありました。
絵がどうとかどうでないとかありにしても無しにしても、とにかく自分と繋がって関係を築くことを良しとしてくださった方なわけですから、その時点で神絵師だとかそうじゃないだとか抜きに交流していければ完結する話なんですが、自分に関してはそれができなかった為しちめんどくさいことになりました。
好きな作品についてや日常の雑談について語るにあたっては「同じ路線の感性」があれば絵の良し悪しとか関係なく楽しめます。
でも、関係を持った人たちが「絵を描く人」である以上、日頃の会話の中にはどうしても「自分たちの作品について」の話題が時として出てきます。
特に女性間で顕著なんですが作品を作る人という括りであればどっちにしろこういった話題が出てくる瞬間が私はとにかく苦手でした。
「Aさんは本当に絵が上手い」「そういうBさんの絵に私は憧れてるんだよな」
フォロワの間でそういう話になる度に私は心底しんどくてたまりませんでした。
そういう流れになるたびに身を潜めて出ていかないようにしました。
実際Aさん、Bさんは自分の中では神絵師で、私自身本当に大好きな作品を生み出す方々ではありましたがその流れで私が「わかる、AさんもBさんもどっちも最高なんだよな」とか話題に乗るなんて死んでもできませんでした。
万一にでも「そういうムツさんだって漫画上手いじゃん」とか言われたらそれがその人にとっての本心であろうと私は本当に死にたい気持ちでいっぱいになるからです。
それがその人にとっての本心であろうと。
何でしょう、流れの中とかでなくふと出てきた言葉だと真に受けられるんですけど。
万一にでも気を遣われたという可能性が拭えない流れの中で褒め言葉を貰うのは作品に限った話でなくて苦手なんですけど作品に関しては過剰になってしまいがちです。
というのも私は自分の中で完全に勝手に「神絵師」と「そうでない自分」とを区切ってしまっているからだと思います。
私はいくら親しい人であったとしてもその人が自分の中で神絵師という括りとして認識されているだけである一定の話題に対してはその人達に対して勝手に距離感を感じてしまっているように思います。
そういう垣根抜きに自分の作品を良いと思って下さってる方に対してその認識が失礼なことなんだと分かりながらも区切らずにはいられませんでした。
自分のことを目に留めてはくれない神絵師が多いのは自分が神絵師ではないから、という落とし所が必要だったからです。
…例えば、金銭的な問題を考えなくて良いものとするのであれば安くて味はそこそこのものより高くておいしいものばかり食べていたいと思うのは普通の感覚だと思います。
性格が同じような人であれば顔が普通の人より良い人を選びたいと思うのも普通の感覚だと思います。
自分の絵は誰が見ても上手いものではないから絵の上手い人が自分の作品を見てくれているというのは基本的にすごいことだと思っていて、ありがたいことだと思っています。
(絵を描く人描かない人関係無しに、自分の作品を見て下さってる方々には感謝しかないのですが「顔の良い人達とばかり付き合いのある顔の良い人が普通の自分と付き合ってくれている」ことが特にすごいという話です。)
普通、神絵師はそうでない自分の作品をまず目に留めようとしないんだという当たり前の現実をそれでも私には受け入れて納得するための理由が必要でした。
作品柄であったり人脈であったり、万人が見てくれる創作物なんてまずありません。
ただ、割合的な問題としてやはり「自分と繋がりのある神絵師達」と繋がりのある神絵師には私は見て貰えない傾向にあったなと思うので。
尚、ここまで誰がどうとかそういう話でなく自然の摂理の惨さを私が受け入れるのが下手くそという話です。
誰も悪くはなくて強いて言うなら勝手に意識している自分ただ一人が悪いです。
「作品を見てくれる人が一定数いる」という事実がまず本当にありがたいことでその点については本当に本当にありがたいと思っていて、
正直、神絵師でない括りの中で自分の作品を見て何かを感じて下さった方は本当に多い方だと思えていて、自分はむしろ贅沢な類なのだと思っています。
贅沢な類だと思えていたからこそ神絵師の括りには居なくても自分は創作者としての現状にはとても満足していました。
それでも自分が神絵師の括りには居ないことで発生する「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」に対する現実は神絵師とそうでないものの区切りがあるという根拠を踏まえておかないと納得しきれませんでした。
だから私は神絵師になりたいとかそういうわけでなく(いや朝起きて気付いたらなってたとかならなりたいですけどそもそもとして私は絵を描くのが好きなわけでなく自己解釈をアウトプットする手段として絵を描いてるタイプなので絵を描く努力とかしたくないから結論として「なりたいわけではない」になるんですが)、それでも「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が自分より大きいという意味で「神絵師」という人達が羨ましいと思っています。
(ある神絵師に先日とうとう「神絵師になる努力もしてないのに羨ましいって感情を一方的にぶつけてくるのはずるいと思う」的なことを言われてしまいましたが神絵師になりたいわけでもない(=厳密にはなるための努力を諦めきっている)のに一方的に理不尽な感情をぶつけるのは確かにずるいなと思いました。本当にごめんなさい。)
そんな具合で、私は自分の中で持てているものを見て頂けてることを最大限ありがたいと思いながら、それでも自分では持てないものを持てる人達を私は心底羨んで憧れていて、大好きだと思いながらも一線を引いてしまっていてそんな一線が交流をすると、時々とてもめんどくさい感情を自分の中で生み出していました。
最近だと神絵師分類のフォロワ2人と限界さぎょいぷで盛り上がっている最中「次のイベントどうする~~申し込もうぜ~~」みたいな流れでやいやいするまでは良かったんですけど
「隣接しよう~~~」ってなったとき正直私は心底死にたいと思っていました。
そこで嫌と言えば良かったのかもしれないですけどフォロワ2人的には「仲の良い人が隣に居て欲しい」以上も以下もない感情から出た提案でしかなくて、そこに自分みたいな神絵師だとかそうでないだとかの汚い区切りとか全然加味されていないことが完全に分かっていたので自分の薄汚い感覚でNOとは言えなかったし言ったとしてその理由が「神絵師の隣は現実を思い知らされて嫌だから」だとか完全に「えっ…」て感じだと思うし自分自身、垣根抜きに親しい付き合いをしてくれる二人と気の合う関係を築けてることが何より嬉しかったからNOなんて言いようがなかったんですけど。
神絵師にサンドされた日には死ぬと思っていましたが実際サンドされて死にたいと思っていました。
ジャンルでの活動が長く、自分の本を楽しみにしてくださってる方が一定数いてくださったことは知っていたので両隣は大盛況で自分のスペースだけ閑古鳥なんて事態にはならないことは分かっていたんですがそれでも胃は少し痛かったです。
実際、両隣のフォロワと繋がっているもの自分とは繋がっていない神絵師の方が自分のスペースを避けて両隣に挨拶しているとことか見えたりしたので。
よく見てるなって感じですけど私はたまに神絵師フォロワのフォロワを覗いてわあ、こんなに神絵師からフォローされてる…とか思いながら薄暗い感情になったりとかする性悪自滅くそ野郎なので
(いやでも必要なんですよ…とある神絵師(私は一方的に好きなだけ)の作品についての話を神絵師フォロワ(神絵師とは相互)とするにあたって相手は相互フォロワの気安さとして喋るけど私は一方的に好きな人としての温度差がそこにあることを予め認識して精神を防護しておく必要があるから…)
この辺りをくまなく喋ると大体「見なくて良いとこまで見て、考えなくても良いとこまで考えすぎてるところが生き辛そう」って言われます。
本当にその通りだと思います。
いやそれでもそうやっていろんなところに目を向けるからこそ自分を見てくれる一人一人に対する有り難みを感じられているとも思っていて、だからこそ持てる力の範囲でも自信を持てているとも思っているので私は一長一短なんだと思っています。
逆に自分なんかよりよっぽど「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が遥かに広い神絵師のはずなのに自己肯定感の低い人達見ると本当に嫌になります。
大体そういう人達って軒並み「ネットの外のリアルの自分が人間的に問題がある」ところを引きずってるんですけど、そうでなくて、少なくともネットにおける「絵が描ける」ことそれだけで「描けない人」がどう逆立ちしても手に入らない沢山の自信の種と関係の間口がごろごろしてることに気づいて欲しいなあと常々思います。
いやまずフォロワの多さといいねの多さとブクマの多さに目を向けて欲しい。
あいつら大体「カップリングの力だから」「旬のジャンルだから」「女の子だから」とか何とか言うんですけど、過大評価を真に受けない保険にしてるんだか知らないですけど、私からしたらその発言は軽はずみだとしても本当に好きな人も多くて付けてくれてるであろう何百何千の人達からのいいねを蔑ろにしてるようにも取れるから私はそうやって付けられる自信を一向に付けない人を見るのが腹立たしくて嫌いです。
(と思う感情すら自分の劣等感を正当化するためのエゴだと言ってしまえばその通りだとも思うので押し付けるのは良くないですよね、本当に各位には申し訳ない。でも言わなかったとしても内心そう思ってることには変わりなかったです。)
でも気の合う話ができて一緒に居て楽しいと思う人達だってその人達です。
私はその人達の人柄が好きで作品が好きで絵柄が好きで、何より一緒に居て楽しいと思えるからこそ、少しでも自信を持って欲しくてついついそういう感情を吐露しがちなんですが先日いよいよ怒られました。
そういう感情はネット上では見せたくなくて、少しでも信頼してる自分だからこそ打ち明けた部分だったのにSNSで鍵垢で、主語こそださなかったもの特定されかねない形で引用してしまったので。
本当に申し訳ないことをしてしまったなあと思うと同時、それでもやっぱり私は大好きなその人がいつまでも持てる自信を持てないままでいることが嫌で嫌で仕方なかったです。
という感情だけ主張しておけば何かまだ良い感じな風に見えなくもないんですけど私そこに対して「自分の持てないものを持ってる人が自信が無いと惨めな気持ちになる」ってろくでもない私情までぶつけてるから駄目なんですよね
すいません、ごめんなさい、結局私は自分の感情をエゴ込みで吐き出さずにはいられない性分のクソ野郎でした。
でも本当に、もうどうしたら伝わるのか私には分かりませんがそういう感情を吐き出した人達のことが、自己肯定感が低いところを除けば私は本当に大好きです。
前述したようにその神絵師当人にとっては「親しい人との関係」の中に自分の神絵師物差しみたいなくそ概念を突っ込まれて区別した上で会話をしてしまうから、私個人が抱く劣等感由来のあらゆる感情って本当に仲良くしていく上で心底不要なものなんだなと痛感しています。
それでも私にとっては自信の糧になった部分もある切っても切り離せない要素です。
そこを踏まえない友達付き合いを私が徹底できれば何よりなんですけど、付き合いを続けていく中でどうしても一方的な劣等感を押し付けてしまう場面というのは今後どうしたって出てきてしまうように思っています。
冒頭で述べたように極力これきりにしたいとは思いますけど性根としてそういう感情が根付いてることには変わりないです。
ああ、なんか、そういう見方をされていたんだなあと感じてしまったらどうしようもないのかもしれませんがこんなくそみたいな性根を抱えた自分とも、また喋ったり遊んだりして頂けたら嬉しいなあと思います。
自分のことだと思ってる思ってないに関わらずとにかく私というろくでもない人間と関係を築くことを良しとしてくださってるあらゆる方々、本当にいつもありがとうございます。
本当にろくでもない性悪なので自分から遊びに誘うことも憚れる上、実際これからしばらくイベントを断つ身の上でお会いできる機会なんてフォロワが関西に遊びに来てくれるときくらいしかないと思いますが遊びに来た際には誘って頂けたら喜びます、と誘い受けをして締めたいと思います。
あと良かったら前述の記事同様に拡散の上、思ったこと述べて貰えたら嬉しいです。
賛否や縁を切りたい等内容は問いませんのでご意見ご感想お待ちしております。
ここまで吐き捨てきってしまって、またSNSというかツイッターをフォロバする形で性懲りも無く再開するかは正直ちょっと分からなくなってきましたが、ひとまず今まで本当にありがとうございました。
またお会いできたら嬉しいです。
それでは。
どうせこれからしばらく生き甲斐絶つなら、これまで抱えてきた感情とその感情を向けてきたあらゆる対象もろとも心中するくらいの心づもりでいようと思ったので巨大感情をぶつけてから一時撤退することにしました。
誰が見てくれなくてもいいけど見てくれた誰かが刺されてくれたら、それで好きだったその人から嫌われてももう良いやという気持ちで文章にします。
後を濁す気満々で申し訳ない。
(一部方々におかれましては重複してお伝えしている内容ではありますが良かったら今一度受け止めて下さい。)
(一度鍵垢でべらべら喋って怒られたことをまた喋ってるのでいよいよ距離を取られたら寂しいなあと思っていますが極力これきりにしたいので許して下さい、出来ればやっぱり嫌われたくないです)
というのも数値や関係が一目で可視化されている文化圏の中で交流を兼ねながら創作活動をするということが自分には致命的に向いてないと思ったからです。
数値が見えるというのは時として嬉しいものなんですが時としてすごく残酷だと思います。
とりわけ数値で自己と他者とを比較できてしまうという点においては自身の実力を図る手段であり、時として自信になり得る要素でもありましたが、交流していくにあたっては自分にとってはデメリットでしかありませんでした。
まず、自分の創作物というのは贔屓目も謙遜も抜きに見ても、描けない人から見たら描けてはいるもの、絵の上手い人から見たら稚拙だと思われる傾向のものだったと思っています。
なまじ創作物に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたので、そのときのジャンルやCPによっては目に留めてくれる人が多く、その中にはとても絵の上手い方もいらっしゃった、くらいの。
その辺りの側面はひとまず抜きに、「好み」とかの話でなく、絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を私は持っていませんでした。
主観的なものなんだから一概にそんなことはない、なんて言い出せばそうなんですが創作活動を続けていく中で「絵を描く層」を限りなく客観視したとき自分が感じた自身の立ち位置は少なくとも「どちらかといえば上手くない」というものでした。
(「上手くない」「どちらかといえば上手くない」「「どちらかといえば上手い」「上手い」の4段階として)
私が今から話すのはフォロワの中でも上記4段階において「上手い」に属する人=神絵師の方々に対しての感情です。
「神絵師」という判定こそその人の主観でいくらでも変わる認識ですがpixivで1千ブクマを安定して得てるとかフォロワが何万居るとかそういう数値的なものでなく、此処で記す「神絵師」というのはあくまで『絵の技術的な側面において「絵を描いている人込み」で比較的誰が見ても「絵が上手い」と思われるものを生み出せる技術を持てていると私が判断している人』というものであることをまず始めにご理解下さい。
前述の通り、私は自己の脳内ヒエラルキーにおける絵が上手い人種ではありませんでしたが、
前述の通り、なまじ創作物(主に漫画のことなんですが)に解釈や感情を埋め込む行為に関しては長けている方だと思ってはいたのでそこを見てくださった方であったりあるいは横の繋がりであったりで神絵師の類にあたる方々との繋がりがそこそこにありました。
絵がどうとかどうでないとかありにしても無しにしても、とにかく自分と繋がって関係を築くことを良しとしてくださった方なわけですから、その時点で神絵師だとかそうじゃないだとか抜きに交流していければ完結する話なんですが、自分に関してはそれができなかった為しちめんどくさいことになりました。
好きな作品についてや日常の雑談について語るにあたっては「同じ路線の感性」があれば絵の良し悪しとか関係なく楽しめます。
でも、関係を持った人たちが「絵を描く人」である以上、日頃の会話の中にはどうしても「自分たちの作品について」の話題が時として出てきます。
特に女性間で顕著なんですが作品を作る人という括りであればどっちにしろこういった話題が出てくる瞬間が私はとにかく苦手でした。
「Aさんは本当に絵が上手い」「そういうBさんの絵に私は憧れてるんだよな」
フォロワの間でそういう話になる度に私は心底しんどくてたまりませんでした。
そういう流れになるたびに身を潜めて出ていかないようにしました。
実際Aさん、Bさんは自分の中では神絵師で、私自身本当に大好きな作品を生み出す方々ではありましたがその流れで私が「わかる、AさんもBさんもどっちも最高なんだよな」とか話題に乗るなんて死んでもできませんでした。
万一にでも「そういうムツさんだって漫画上手いじゃん」とか言われたらそれがその人にとっての本心であろうと私は本当に死にたい気持ちでいっぱいになるからです。
それがその人にとっての本心であろうと。
何でしょう、流れの中とかでなくふと出てきた言葉だと真に受けられるんですけど。
万一にでも気を遣われたという可能性が拭えない流れの中で褒め言葉を貰うのは作品に限った話でなくて苦手なんですけど作品に関しては過剰になってしまいがちです。
というのも私は自分の中で完全に勝手に「神絵師」と「そうでない自分」とを区切ってしまっているからだと思います。
私はいくら親しい人であったとしてもその人が自分の中で神絵師という括りとして認識されているだけである一定の話題に対してはその人達に対して勝手に距離感を感じてしまっているように思います。
そういう垣根抜きに自分の作品を良いと思って下さってる方に対してその認識が失礼なことなんだと分かりながらも区切らずにはいられませんでした。
自分のことを目に留めてはくれない神絵師が多いのは自分が神絵師ではないから、という落とし所が必要だったからです。
…例えば、金銭的な問題を考えなくて良いものとするのであれば安くて味はそこそこのものより高くておいしいものばかり食べていたいと思うのは普通の感覚だと思います。
性格が同じような人であれば顔が普通の人より良い人を選びたいと思うのも普通の感覚だと思います。
自分の絵は誰が見ても上手いものではないから絵の上手い人が自分の作品を見てくれているというのは基本的にすごいことだと思っていて、ありがたいことだと思っています。
(絵を描く人描かない人関係無しに、自分の作品を見て下さってる方々には感謝しかないのですが「顔の良い人達とばかり付き合いのある顔の良い人が普通の自分と付き合ってくれている」ことが特にすごいという話です。)
普通、神絵師はそうでない自分の作品をまず目に留めようとしないんだという当たり前の現実をそれでも私には受け入れて納得するための理由が必要でした。
作品柄であったり人脈であったり、万人が見てくれる創作物なんてまずありません。
ただ、割合的な問題としてやはり「自分と繋がりのある神絵師達」と繋がりのある神絵師には私は見て貰えない傾向にあったなと思うので。
尚、ここまで誰がどうとかそういう話でなく自然の摂理の惨さを私が受け入れるのが下手くそという話です。
誰も悪くはなくて強いて言うなら勝手に意識している自分ただ一人が悪いです。
「作品を見てくれる人が一定数いる」という事実がまず本当にありがたいことでその点については本当に本当にありがたいと思っていて、
正直、神絵師でない括りの中で自分の作品を見て何かを感じて下さった方は本当に多い方だと思えていて、自分はむしろ贅沢な類なのだと思っています。
贅沢な類だと思えていたからこそ神絵師の括りには居なくても自分は創作者としての現状にはとても満足していました。
それでも自分が神絵師の括りには居ないことで発生する「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」に対する現実は神絵師とそうでないものの区切りがあるという根拠を踏まえておかないと納得しきれませんでした。
だから私は神絵師になりたいとかそういうわけでなく(いや朝起きて気付いたらなってたとかならなりたいですけどそもそもとして私は絵を描くのが好きなわけでなく自己解釈をアウトプットする手段として絵を描いてるタイプなので絵を描く努力とかしたくないから結論として「なりたいわけではない」になるんですが)、それでも「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が自分より大きいという意味で「神絵師」という人達が羨ましいと思っています。
(ある神絵師に先日とうとう「神絵師になる努力もしてないのに羨ましいって感情を一方的にぶつけてくるのはずるいと思う」的なことを言われてしまいましたが神絵師になりたいわけでもない(=厳密にはなるための努力を諦めきっている)のに一方的に理不尽な感情をぶつけるのは確かにずるいなと思いました。本当にごめんなさい。)
そんな具合で、私は自分の中で持てているものを見て頂けてることを最大限ありがたいと思いながら、それでも自分では持てないものを持てる人達を私は心底羨んで憧れていて、大好きだと思いながらも一線を引いてしまっていてそんな一線が交流をすると、時々とてもめんどくさい感情を自分の中で生み出していました。
最近だと神絵師分類のフォロワ2人と限界さぎょいぷで盛り上がっている最中「次のイベントどうする~~申し込もうぜ~~」みたいな流れでやいやいするまでは良かったんですけど
「隣接しよう~~~」ってなったとき正直私は心底死にたいと思っていました。
そこで嫌と言えば良かったのかもしれないですけどフォロワ2人的には「仲の良い人が隣に居て欲しい」以上も以下もない感情から出た提案でしかなくて、そこに自分みたいな神絵師だとかそうでないだとかの汚い区切りとか全然加味されていないことが完全に分かっていたので自分の薄汚い感覚でNOとは言えなかったし言ったとしてその理由が「神絵師の隣は現実を思い知らされて嫌だから」だとか完全に「えっ…」て感じだと思うし自分自身、垣根抜きに親しい付き合いをしてくれる二人と気の合う関係を築けてることが何より嬉しかったからNOなんて言いようがなかったんですけど。
神絵師にサンドされた日には死ぬと思っていましたが実際サンドされて死にたいと思っていました。
ジャンルでの活動が長く、自分の本を楽しみにしてくださってる方が一定数いてくださったことは知っていたので両隣は大盛況で自分のスペースだけ閑古鳥なんて事態にはならないことは分かっていたんですがそれでも胃は少し痛かったです。
実際、両隣のフォロワと繋がっているもの自分とは繋がっていない神絵師の方が自分のスペースを避けて両隣に挨拶しているとことか見えたりしたので。
よく見てるなって感じですけど私はたまに神絵師フォロワのフォロワを覗いてわあ、こんなに神絵師からフォローされてる…とか思いながら薄暗い感情になったりとかする性悪自滅くそ野郎なので
(いやでも必要なんですよ…とある神絵師(私は一方的に好きなだけ)の作品についての話を神絵師フォロワ(神絵師とは相互)とするにあたって相手は相互フォロワの気安さとして喋るけど私は一方的に好きな人としての温度差がそこにあることを予め認識して精神を防護しておく必要があるから…)
この辺りをくまなく喋ると大体「見なくて良いとこまで見て、考えなくても良いとこまで考えすぎてるところが生き辛そう」って言われます。
本当にその通りだと思います。
いやそれでもそうやっていろんなところに目を向けるからこそ自分を見てくれる一人一人に対する有り難みを感じられているとも思っていて、だからこそ持てる力の範囲でも自信を持てているとも思っているので私は一長一短なんだと思っています。
逆に自分なんかよりよっぽど「見て頂ける人の母数・持てる関係性の上限」が遥かに広い神絵師のはずなのに自己肯定感の低い人達見ると本当に嫌になります。
大体そういう人達って軒並み「ネットの外のリアルの自分が人間的に問題がある」ところを引きずってるんですけど、そうでなくて、少なくともネットにおける「絵が描ける」ことそれだけで「描けない人」がどう逆立ちしても手に入らない沢山の自信の種と関係の間口がごろごろしてることに気づいて欲しいなあと常々思います。
いやまずフォロワの多さといいねの多さとブクマの多さに目を向けて欲しい。
あいつら大体「カップリングの力だから」「旬のジャンルだから」「女の子だから」とか何とか言うんですけど、過大評価を真に受けない保険にしてるんだか知らないですけど、私からしたらその発言は軽はずみだとしても本当に好きな人も多くて付けてくれてるであろう何百何千の人達からのいいねを蔑ろにしてるようにも取れるから私はそうやって付けられる自信を一向に付けない人を見るのが腹立たしくて嫌いです。
(と思う感情すら自分の劣等感を正当化するためのエゴだと言ってしまえばその通りだとも思うので押し付けるのは良くないですよね、本当に各位には申し訳ない。でも言わなかったとしても内心そう思ってることには変わりなかったです。)
でも気の合う話ができて一緒に居て楽しいと思う人達だってその人達です。
私はその人達の人柄が好きで作品が好きで絵柄が好きで、何より一緒に居て楽しいと思えるからこそ、少しでも自信を持って欲しくてついついそういう感情を吐露しがちなんですが先日いよいよ怒られました。
そういう感情はネット上では見せたくなくて、少しでも信頼してる自分だからこそ打ち明けた部分だったのにSNSで鍵垢で、主語こそださなかったもの特定されかねない形で引用してしまったので。
本当に申し訳ないことをしてしまったなあと思うと同時、それでもやっぱり私は大好きなその人がいつまでも持てる自信を持てないままでいることが嫌で嫌で仕方なかったです。
という感情だけ主張しておけば何かまだ良い感じな風に見えなくもないんですけど私そこに対して「自分の持てないものを持ってる人が自信が無いと惨めな気持ちになる」ってろくでもない私情までぶつけてるから駄目なんですよね
すいません、ごめんなさい、結局私は自分の感情をエゴ込みで吐き出さずにはいられない性分のクソ野郎でした。
でも本当に、もうどうしたら伝わるのか私には分かりませんがそういう感情を吐き出した人達のことが、自己肯定感が低いところを除けば私は本当に大好きです。
前述したようにその神絵師当人にとっては「親しい人との関係」の中に自分の神絵師物差しみたいなくそ概念を突っ込まれて区別した上で会話をしてしまうから、私個人が抱く劣等感由来のあらゆる感情って本当に仲良くしていく上で心底不要なものなんだなと痛感しています。
それでも私にとっては自信の糧になった部分もある切っても切り離せない要素です。
そこを踏まえない友達付き合いを私が徹底できれば何よりなんですけど、付き合いを続けていく中でどうしても一方的な劣等感を押し付けてしまう場面というのは今後どうしたって出てきてしまうように思っています。
冒頭で述べたように極力これきりにしたいとは思いますけど性根としてそういう感情が根付いてることには変わりないです。
ああ、なんか、そういう見方をされていたんだなあと感じてしまったらどうしようもないのかもしれませんがこんなくそみたいな性根を抱えた自分とも、また喋ったり遊んだりして頂けたら嬉しいなあと思います。
自分のことだと思ってる思ってないに関わらずとにかく私というろくでもない人間と関係を築くことを良しとしてくださってるあらゆる方々、本当にいつもありがとうございます。
本当にろくでもない性悪なので自分から遊びに誘うことも憚れる上、実際これからしばらくイベントを断つ身の上でお会いできる機会なんてフォロワが関西に遊びに来てくれるときくらいしかないと思いますが遊びに来た際には誘って頂けたら喜びます、と誘い受けをして締めたいと思います。
あと良かったら前述の記事同様に拡散の上、思ったこと述べて貰えたら嬉しいです。
賛否や縁を切りたい等内容は問いませんのでご意見ご感想お待ちしております。
ここまで吐き捨てきってしまって、またSNSというかツイッターをフォロバする形で性懲りも無く再開するかは正直ちょっと分からなくなってきましたが、ひとまず今まで本当にありがとうございました。
またお会いできたら嬉しいです。
それでは。
1文にまとめると勉強を頑張る為に同人活動を休止してツイッターを消すことにしました。
というだけの話です。
ただ自分にとっては同人活動もツイッターも、生半可な気持ちで断てるようなものではなかったのでここから語る事の経緯は自分の感情を整理するための自己満足です。
えらく長い上読んでもこれっぽっちも楽しいものではありませんが、それでもお付き合い頂ける方は読んでみてください。
勉強を今一度頑張ってみたいと思いました。
思ってみたもの、今まで散々頑張ってこなかったことなので正直既に全然自信がないんですけど。
本当に自信がないです。散々頑張らなかった人生なので。
ただ、自信無いなりに、まず頑張る為に今まで頑張れなかった原因たる要素を外的要因から潰していこうと思ったのです。
その1つが自分で学費を持った上で、勉強をする為に学校に入ることでした。
ざっくり勉強と申し上げましたが4月から資格を取得するために専門学校に通うことにしたのです。
同資格を取得するにあたって大学に行っていたのですが、親の金で通っていた当時は正直な話どこか甘えていた部分があったと思います。
実家から独立して社会に出て数年、時間もお金も有限なんだと本当に今更痛感しました。
勉強する為にお金を出して与えてもらった時間を使って勉強をろくにしてこなかった今まで、本当に勿体ないことをしてきたなと思いました。
大学当時、資格取得の試験に落ち、翌年仕事をしながら自主学習しても身が入らず結局試験は以来受けていませんでした。
フルタイム勤務に月20~40の残業が発生した状態で実際時間もなかったのですが、結局仕事をしているから、と勉強から逃げていたと思います。
今一度、腰を据えて勉強する為に学校へ行きたいのだと親に伝えたときも父親からは甘えていると言われました。
本当に、その通りだと思いました。
私が社会に出て数年働いても全く届かない数百万というお金を出してもらい4年間大学へ通い、試験には落ち、卒業しても得られたものは何もない状態で社会に出てのんべんだらりと数年を過ごした私には2、3年だとしても学校へ通う為の資金などはなく。
またどこか親に頼ろうという気概が自分の中にはあったように思うので。
実際、学費と学校へ通う間に生計を立てていく問題を本気で考えたのはその後でした。
まず、今年から資格取得の為に受けられる給付金制度が拡充したことを知りました。
次に、検討していくうち決めた4月から行くことになった専門というのが本来2年制の学部でしたが、大学で同資格取得の為の科目を専攻していた関係で前例もある特例として1年制として受け入れて頂けるということでした。
資金的にも現実的な額面になってきたこと(それでも情けない話ではありますが結局親に前借りする形になりましたし、口座の残高はパート勤務でもしないと工面できない程度にしか残せていませんが)、
特例の1年制というのは学費的にも大きかったですし何より親の金で無闇に過ごした時間が多かった大学での4年間が少しでも無意味にならないように思えたこと、
新年に引いたおみくじが末吉にしてかつて類を見ないレベルの手厳しさであった上で「学問:自己の甘えを捨て全力を尽くせ」と言われていたこと、
年齢も正直先日27になりまして、あと数年で三十路というところまで差し掛かっている身としてはあまりにも将来性のない日々を送っていたこともありました。
ともかくその他いろいろ踏まえても今踏み切らないともうどうにもならない気がしました。
フルタイム勤務はもう無理なので今の仕事は今月いっぱいで辞めます。
前述の通り隙間時間で入れるバイトを探して当面はやっていきます。
学費を振り込んだ今残った口座の残高数十万円は試験半年から数ヶ月前にはバイトも辞めて勉強だけ集中するためのお金なので来年の今頃には本当にほとんど一文無しの予定です。
口座に余裕がなくて本当に良かったです。
長い目で見ればリターンがあるからとか言って本でも作れば向こう数ヶ月はご飯が食べられなくなる寸法です。
資格が取れなければ本当に何も残らない状況で、これで頑張れなければ本当にただの屑だと思います。
要は、自主的に意欲を持って頑張れない自分が頑張る為にまずあらゆる退路を断つ必要があったのです。
もう後が無い環境を意図的にでも作って追い込まないと自分は間違いなく何かに甘えてしまう人間だったので。
そんな感じで経済的・将来的な逃げ道を絶つ環境を整えることを決めたからにはしておかなければいけないと思ったもう1つ。
この文面を此処まで読まれる方でしたら私が見事なまでの限界同人オタクなことはご存知のことと思います。
高1頃から同人活動を少しずつ始め、彼此10年以上同人誌を作ってきましたが、作成ペースは年々悪化の一途を辿り、前年では15冊発行してましたし、もうここ何年も年間10冊超ペースで発行している有様でした。
正直、学生時代勉強に身を入れきれなかった大元の原因が同人活動にあったと思います。
原稿をしている間は人間的な生活が送れない、みたいな限界同人オタクあるあるも私からしてみれば「人間的な生活を送らない理由にするため原稿をしている」ような節がありました。
自己解釈をアウトプットすることが人生で何よりの生き甲斐なのは間違いないのですが、それが同時に生活を怠る免罪符にもなっていました。
イベントに参加して自身の本を取ってもらう、気の合うオタクと喋る、時として感想を貰う。
同人イベントにサークル参加されたことのある方であれば分かる方もいると思うんですけどこの一連の流れって本当に癖になってしまうんですよね。
ただでさえ自己解釈のアウトプットが生き甲斐だった私に関してはもはや本を作ってイベントに出る行為は依存症みたいなものだったと思います。
原稿にかける時間が人生で何よりの優先事項で、次点が最低限の生活を成り立たせるための労働、あとは気が向いたときに行う基本やれなくても仕方のないこと。
自分の中では完全にそういう考え方ができていました。
自己の思考をアウトプットすることそのものが生き甲斐な自分にとってツイッターでのツイート行為もまたある種の依存行為だったと思います。
自分の交友関係は社会に出ている間に学生時代の関係がほぼ残らず、今やツイッターで形成されているものでほぼ占められていたのでツイッターを完全に消してしまうことは自分の人間関係の大半を喪失させてしまうことのように思っていて、それが余計に自分の中でこのツールを離しがたいものにしていたようにも思います。
というか消すまでしなくても程々に運用したらいいのではって話なんですが。
物事を切り替えていくのが本当にへたくそで、特に一つの思考に耽るのが楽しい性分だったことも助長してツイッターでひとたび1つの話題を見つけると数時間でも半日でも延々とそのことについて考えてはツイートをして時間を浪費する日々でした。
共通の話題で盛り上がる人が居ると余計に、自分以外の誰もその話題をしていなくても一人でもいつまでも。
やらなければいけないものできればやりたくないことが後に控えている程にその傾向が強かったように思います。
その手軽さが現実逃避すらも容易にさせてしまっていたと思います。
自身の思考に共感を得てくれる存在が数値として見えるこのツールでは欲している感情が簡単に満たされてしまって、少しでも苦しさを感じる現状に対する手軽な逃げ場になっていたと思います。
息抜きと現実逃避というのはニュアンスとして紙一重だと思うんですが私は息抜きのつもりで一度楽しいことを始めるとそのまま本来の楽しくない作業には戻れなず逃避になっているタイプでした。
人生において欲している感情を与えてくれる要素は現実から逃げる為の要素でもあると思います。
自身にとってツイッターと同人活動は人生において欲している感情を与えてくれる要素のほぼ全てでした。
だから、本当に本当にすべきことを前にツイッターを、同人活動を並行するという可能性を少しでも残せないと思ったのです。
今生の別れでも何でもない、本当に一時的な措置であって数年後の私が目標を達しているいないに関係なくきっと私はツイッターも同人活動も再開すると思うのです。
人生の中でみれば些細な制限に対してここまで長文の記事を作るなんて自分でも正直馬鹿げているなとも思うのです。
これは少しでも隙があればきっとまた今までのように現実にある目前のすべきことから逃げだしてしまう自分に対して仕方ない、仕方ないと言い聞かせる為の文章です。
ここまでしないと、ここまでしても尚駄目かもしれないどうしようもない自分をせめて戒める為にこの文章を作っています。
いくら生き甲斐だったとしても生き甲斐を続けるだけの人生に将来性なんて何もありません。
自分の生き甲斐はあくまで趣味であって、万に一つでも趣味を続けた先にそれが将来性のある何かに繋がるとは微塵にも思っていません。
自分の中で此処まで分かってるなら私は学生時代からもっと勉強をする習慣に慣れておくべきだったと今更のように思います。
結局、その場で満たされる感情やもしかするとなんて夢を見ることでこのままでは良くないと分かっていた現状から逃げ続けていただけだったんだと思います。
手遅れだと諦めるには何もしてこなかったですし半端な気持ちで居続けて「もう手遅れだろう」とか「どうにかすべきだった」なんて言う前に、私はまだどうにかなるものならどうにかしたいと思っています。
逃げ道をいくら塞いだところで1日寝て過ごせば日々は過ぎてしまうわけですから自分が本当に頑張らない限り、どうにかしたいと気持ちだけ口にしたところで結果には何も繋がりません。
ここまで包み隠さず全部言って、それで1年後試験に落ちたら何かもういよいよどのツラ下げてという感じなので正直、どう転ぶにしても後々くまなく喋りすぎたことを後悔すると思ってるんですけど、こうして状況を明記すること事体が退路を断つ一環でもあるので致し方なかったのでした。
最後に「頑張ろうと思います」なんて口だけ言っても仕方ないので自分では言わないでおきます。
(今見直したら冒頭1行で言ってましたけど)
なので此処まで読んでくださった方におかれましては「頑張ってください、応援してます」なんて軽はずみにでも本気でもどんな心づもりでも言えるその言葉を自分に向けては出来れば言わないで頂けたら助かります。
それでも結果を残して戻ってこれたときには軽はずみでも良いので「おめでとう、お疲れ様、おかえりなさい」などのお声を頂けたらとても嬉しいです。
最後の最後に、これからの1年、このブログやフォロー数0のアカウント、もしくは本垢そのものが浮上しても息抜きレベルだと思えるものでしたらどうか見逃してください。
最後まで現金な感情にお付き合い頂いてしまってすいません、ありがとうございました。
それでは。
野球、サッカー、バレーボールといった集団スポーツ系部活出身者は、今の世の中では雇わないほうがいい。以下、その理由を述べる。
この手の集団スポーツ系出身者は、特定人物の行動を周りの人達の前で批判する行動特性が身に付いてしまっている。集団の中ではぐっとこらえてあとで個別に呼び出して指導という行動が取れない。
部活の練習ではその行動がないと練習が成り立たないので仕方がないが、社会人としては今の世の中なら間違いなくパワハラ扱いされる行動だ。
彼等は身内から応援をもらえることを生き甲斐にして学生時代を送ってきた。だから、周りからあまり喜ばれない汚れ役や雑用は避ける傾向にある。社会人は時にそういう仕事をしなければならない機会があるが、彼等はそういう仕事をかなり嫌がるため、使いづらい。
試合とかで常に外部から評価され続けた影響か、自分はここまでの人だから、とガードを張る傾向にある。つまりあまり成長しない。ちなみに評価がやたら高い人はそもそもそのスポーツの道でプロになっていく。
吹奏楽、ブラスバンド、演劇部といった集団芸術系部活出身者は、今の世の中では雇わないほうがいい。以下、その理由を述べる。
この手の集団芸術系出身者は、特定人物の行動を周りの人達が居る場所で批判する行動特性が身に付いてしまっている。集団の中ではぐっとこらえてあとで個別に呼び出して指導という行動が取れない。
部活の練習ではその行動がないと練習が成り立たないので仕方がないが、社会人としては今の世の中なら間違いなくパワハラ扱いされる行動だ。
彼等は観客から拍手をもらえることを生き甲斐にして学生時代を送ってきた。だから、周りからあまり喜ばれない汚れ役や雑用は避ける傾向にある。社会人は時にそういう仕事をしなければならない機会があるが、彼等はそういう仕事をかなり嫌がるため、使いづらい。
コンクールとかで常に外部から評価され続けた影響か、自分はここまでの人だから、とガードを張る傾向にある。つまりあまり成長しない。ちなみに評価がやたら高い人はそもそも芸術の道でプロになっていく。
まず、エリート女性を目指すことが困難なのは自分の偏差値を見れば分かる。もし専門職に就けても、仕事ゆえに家庭を持たないのは淋し過ぎる、仕事と家庭を両立させるために疲れ果てるのはいやだ、経済的自立のために生き甲斐も意味も見出しえない仕事をするのは耐えられない。これら不快な条件を全部排除してくれるのが、第四のコースなのだ。
夫は経済のために必要だ。子どもは夫よりなお重要だ。出産と育児は体験価値のあるイベントであり、女性なら一度は体験してみたい。そして、保育園に預けて子どもに淋しい思いをさせたくはない。
大衆は、フェミニストの「啓蒙」するところには行かなかった。娘は、母親の期待するところにも行かなかった。
結婚が女性に保証してくれる三大特典――保証された年収・達成義務からの解放・豊富な余暇時間――は、決して手放さず、その上に立って、社会から認められ、仲間に羨ましがられる仕事に就きたい。子どもがいても、生活臭のない、社会と繋がった仕事をしていたい。生活のための労働は、奴隷(男)にさせ、自分は貴族のように意義ある仕事を優雅にしていたい……。
もう30代前半になってしまった。
どうにかしようと思って就ける範囲の職で何社か働いてみたけどストレス耐性が低すぎてすぐ辞めてしまう。
神経質だったり人の話が理解できなかったり朝が弱かったり人と一緒にいると疲れたり集中しなきゃいけないのはわかっててもボーっとしてしまったり頭が真っ白になってしまう。生きてて辛い。
もう、俺の脳みそはとっくの昔にだめになってしまったんだろう。
ITは慢性的な人手不足?俺には無理だろう。無能はいりません。皆そう言うよ。どれだけ学習意欲を高めても働き出すといっきにリソースが消費して逃げ出したくなるんだ。
発達障害じゃないのかって?精神科で検査したよ。カウンセリングやウェクスラー検査を通して貴方が生き辛く感じている特性は確認できました。しかし言語性と動作性に差はありませんでした。貴方は発達障害ではありません。
きっと俺みたいな低スペックに苦しむ人間は世の中には沢山いるんだろうけどフォーカスがあたらないのはこの世界が俺みたいな健常者の皮をかぶったゴミのための世界じゃないからなんだよな。
幼い頃から生きていてずっと眠かった。歳を重ねる度に眠気が増してきた。
俺の馬鹿な脳みそでもうっすらと世界の仕組みが、得られることの無い自己肯定感や自己効能感を通して分かったんだろうな。「貴方はこの世界ではただのボトルネックです。社会のためにスリープ状態に移行します。もしくは強制シャットダウンをしてください。」
時々安楽死について調べてるのはきっとそういうことなんだろう。
精一杯仕事して仕事帰りに飲みに行く気力体力能力もあってプライベートでも胸張ってられる人たちはもう俺とは同じ動物じゃないんだろう。彼らは彼らなりの苦労があるのはわかる。そして彼らと自分との悩みの次元が違うのもわかるし、彼らと一緒にいると自分が彼らのストレッサーになることもわかる。
もしも安楽死制度が出来たら直ぐに使いたい。俺は幸い健康診断の成績だけは良い。だから、俺みたいな今日にでも死にたい奴の臓器は、明日を生きたい人に使ってあげて欲しい。こんなことでしか役に立てないが、せめて最期ぐらい役に立てるなら嬉しい。
わがまま言えば、臓器提供代金が欲しい。親の生き甲斐や夢を黒く塗りつぶした獄つぶしとして出来るのは、その代金を親に全額渡すことぐらいだ。