はてなキーワード: 生き甲斐とは
数ヶ月前に二次創作用のツイッターで興味深い経験をしたから、ここに綴っておこうかと思う。
生きづらくなかろうか…と、感じた話で、おそらく私の二次創作への熱量なんてそんなもんで、相手にしたらとてもとても大事なことだったのかもしれない。
あるフォロワーさん(Aとする)からDMをいただいたことがはじまりだ。
ちなみに、私の二次創作垢は、ジャンルごった煮だ。そこを分かって繋がってる方々ばかり。
始まりのDMについては、私も改善できることだから、そうしようくらいで話が終わったが、以前から気になっていて繋がっていようか悩んでいたことがあるということから、Aの生きづらさや拗れさせてしまっている部分が見えてしまった。
・Aの作品に対して反応が少ないのはなぜか。Aが嫌いなのか。(TLを見逃したという理由は受け付けられない)
・嫌いな作品でもマイナージャンルにいるなら、推しカプの作品には反応をすべきだ。(自分はそうしているからみんなもすべき)
・Aは、大手にいた頃にパクリを疑われないためにと他と違った作品を書くためにと特殊設定を書くようにしているから、作風は変えられない。
以前から、自身の作品へのいいねやブクマがないことへの不安や反応がないことへの疑問を投げかける呟きはあったが、こんなにも悩んでいたのか…と初めて知った。
と、同時に、私にはこんなにも自分の二次創作へ熱量をもっていないなぁと感心した。
正直、ツイッターでのいいねやRTは、見逃した、流れたが理由だ。ジャンルごった煮のため、200も繋がりがあれば、TLは流れるし、支部にあげているならツイッターのホームにわざわざ見に行ってまで、新しい作品を確認には行かない。
Aのマイルールについては、私はずーっとツイッターにいられるわけじゃないから、見てあげられない、ごめんね…な状態だ。
私は、アラサーの腐女子だが、Aはアラフィフのサイト全盛期からの腐女子。
たぶん、ツイッターの流れとサイトの流れに付いて来られなかったのかもしれない…。
情報交流ツールとして流し見する私と反応をもらうためのツールとして使っているAと。
兎にも角にも、Aは、反応が欲しかったのだなぁと思う。
そして、他と差をつけるために推しカプの名前だけしか合っていない設定でも、書かなくちゃならないくらい、二次創作から離れられず、生き甲斐なんだなぁとも。
それに拍車をかけるように、マイナー界隈なのに、なぜか「文章も絵もできる両刀はすごい!」という風潮がでてきたのもあるだろう。
Aは、文章だけでやってきたが、その風潮にのり、自分の二次創作も!と思ったようだ。方や、私は、絵は表現方法じゃないから描かない。二次小説を気まぐれにアップする。時たま、有難いことにたくさんの人に見ていただける時もある。(ジャンル次第だけど)
ジャンルもごった煮で、思い立った時にふらっと二次創作を投下して、同人誌の原稿にも追われず(数年前に社会勉強でサークル参加して満足した)、好きかって喋って、TLにいないことが数日あったりするような私へ、
少なからず気に食わないことがあったのだろう。
いろいろしてるのに、なぜこんな奴に…そう思ったのかもしれない。
ただ……ここでやはり、Aが気持ちをぶつけた先が私だったことが、ほんとうに申し訳ないなと思った。
こんなに自分の作品を見て欲しい、サークル活動もして、絵も文も両刀になろうとするAの気持ちを想像することはできるが、理解は難しい。
これが、私のようなものではなく、同じくらい二次創作に熱量を注ぐ誰かだったら、もっとAも救われたんじゃないかと思う。
ツイッターという架空の世界で作り上げた、顔も知らない私というキャラクターに嫉妬して、ぶつけて、なのに、私には興味深い経験をしたと思われて…この食い違いがごめんねだ。
Aの生き甲斐は、二次創作であり、承認欲求を満たしてくれる誰かの存在を感じることだったのかもしれない。
だけど、私みたいな、熱量が違う相手に嘆いても、私はAの思う存在にはなれない。
だって、二次創作は他人のふんどし借りて楽しませていただいているものだ。
そんなに苦しくなってまでやらなくてもいいんじゃないかと、Aが可哀想になってきた。
改善できない旨を伝えても、Aからは、「フォローは外しません」ときた。
私のたった一つのいいねとRTでは、マイナー界隈は救えないし、狭いコミュニティの見せ合いっこなのに。
私はあまり気にしないから、そのままにしていたら、Aは二次創作作品を電子書籍化して販売をするまでに至ってしまった。
(これにも議論はあるようだが、私は電子書籍化はしてはいけないと思っている。たとえマイナーでも界隈に無用な火種は持ち込むのはどうかなと…
まぁ、正直なとこ怖くなった。公式から万が一にも目をつけられたらと)
そして、ついにブロ解をしたが、数時間後にAからフォローが来てしまった。
どうも、Aはマゾヒストなのかな?と、私のことにばかり囚われていないか?と。
最終手段は、私が消えてあげることだ。
大した熱量もなく二次創作をしている私にこれ以上、囚われていては可哀想だ。
その後のことは、特に情報ツールとしてしか使ってないアカウントに思い入れはなかったため、削除してしまっから、Aがどうなったか分からないけれど、二次創作を続けているんじゃないかと思う。
私は、変わらず二次創作を気まぐれに思いたったら、投下して、好きなことして過ごしている。
ただ、Aはどうしてあんなにも顔も知らない私に執着してしまったんだろう。
二次創作をほんとうに楽しんでいるんだろうか。
生きづらくないかなぁ…と今も思い出す。
最近、同人女シリーズという漫画が話題になっていて(やっぱり私には理解が完全じゃない部分もあったけど)、ふと数ヶ月前の経験を思い出して綴ってみた。なんの関係もないもな。
備忘録かもしれない。
非モテに苦しむ増田(https://anond.hatelabo.jp/20201006215439)を読んだので俺も書こうかな。
毎日散歩するんだよね。2時間くらい。病気が少し良くなってきて社会復帰した頃に始めて、もう10年近く歩いてる。
季節や時間によって雰囲気ががらっと変わる景色とか、差し込む夕日に照らされた木々とか、面と向かって話すと絶対馬の合わなさそうなオバちゃんやおっさんが頑張って歩いてる姿とか、いいと思うんだよ。
大嫌いだった歩きたばこも、まあ散歩してるんなら家で吸ってるよりは健康的なのかねという気もしたりして。
何年も毎日決まった場所で見ていたシャム猫がふらっと見なくなって、今年の夏は超えられなかったか、と寂しくしていたら、数日前に少しズレたところでおっさんに撫でられてるのを見てほっとしたりとかさ。
折り返し地点にしてる湖のある大きな公園ではいつ行っても子供達やカップルが楽しそうに遊んでいて、気取った格好でギター弾きながら歌ってる人がいる日はちょっと長居して耳を傾けてるし、ヤンキーっぽい子らがやってるスケボーを遠くから見るのも悪くない。
中間地点にある中くらいの公園でやたら多く集まって屯してる犬の飼い主達には少し眉をひそめちゃうけどね。
昔から、俺はどこに行って何をやっても「ズレた人間」なんだけどさ。容姿だけじゃなく行動もね。
タイトルでは「非モテ」なんて書いたけど、ホモソーシャルなコミュニティにも溶け込めた試しなんてないよ。
そのくせ独りぼっちは嫌だったから、ウザがられても必死に周囲について行こうとして、上手くいかなくて自滅したりして。
親や実家がヤバかったり虚言癖があったりしたのもいけなかったんだろうな。学生時代は黒歴史を量産してたよ。
女性との関係なんてもう笑っちゃうくらい接点ないから、今では自分の性器が排尿とオナニー以外に用途があるなんて信じられないくらいだ。
昔はそういうのを嘆いて「俺は不幸なんだ」と絶望したものだけどね。
こう言っちゃ何だけど、体力がいるんだよね。絶望って。
親に依存して狭いコミュニティの中で毎日息苦しかった頃には何も考えず絶望出来てたけど、周囲が自分にそれほど目を向けなくなるとエネルギーが足りなくてね。
まあ、「あれ?俺普通じゃね?」とか勘違いして痛い目を見た後には多少補充されるんだけど。
でも20代の頃になんとなく気付いちゃったんだよね。「世界って本当はこんなにゆるかったんだなあ」って。
先に書いた散歩で見る世界もそうだし、こうしてネットで見る世界もそうだし。わざわざ近付いて行って交流したり自分と比較する必要なんてなくて、美しいものは素直に美しいと思える外野でいいんだ、って。
綺麗な女性を見たら「おお、美人!」とか「カッケー」とか「エロいなー」とか思っとけばそれでいいじゃん、と。
お付き合いしたりセックス出来ないからといってその人の価値が低くなるわけじゃないんだよな。こちらとしては視界に入るだけで眼福なんだからそう悪い話じゃない。
まあこんな事、口に出したらセクハラだし男からすら軽蔑されるから内心だけだけどね。
自分に期待してあれが出来ないこれも出来ないと思うより、色々なものや人を遠くから見て、自分以外の何かに面白いとかスゲーとか感じてた方が幸せだと思うんだよ。
そういうものを無邪気に追っかけてる内に自分の趣味や生き甲斐が増えていたりするし。
よく「自己肯定感」って言うけどさ、あれは「自分に興味がなくてどうでもいいから能天気に肯定出来る」って話なんじゃないかとすら思う。
当時この人達をこのまま推して良いのかと不安になるほど、運営はグダグダ。結局殴ってしまったメンバーはアルコール中毒や鬱だと診断され休暇。事件があったことも公表せず、加害者との前向きな示談で終わったらしい(泣き寝入りではなく、これからも活動してほしいから休んで元気になってとのことだそうだ)。
わりと名の知れたグループで、リークしてしまえばそれこそ炎上したのではないかと思えるほど結構な勢いでビンタしていた。運営のグダグダ加減、ファン同士のいざこざで疲れに疲れきっていた私はそれこそリークでもしようかと考えてしまっていた。あることないことかいてもらって、大打撃うけて、もうこいつらいったんやめた方がエエんちゃうかと。
リークする寸前で、メンバーの今後の生活とファンの生き甲斐をわたし個人の感情だけで失くそうとしている事実に気付き、やめた。
暴力ダメなもんはダメだけど本人達が前向きな示談で終わってるならいいじゃん。私に被害があったわけでもないしそこまで関係のない話。でもリークしそうになった。その人たちの人生を失くそうとしてたのだから間接的に殺人しようとしていたみたいなもんで。リークする前に気づけてよかった。
フィクションならではの派手なデザインを見るのが生き甲斐なだけで恋愛・肉体関係には大して興味がない、腐女子でないオタク女です。
何気なく「AB」と言うと「AとBのふたり」ではなく「A✕Bというカップリング」という意味を、外側から付けられてしまうのがめんどくさい。
「肉じゃが」とは「肉✕じゃが」であり、そうでない場合は「和製ビーフシチュー」と呼ぶことを推奨されるみたいな独特の棲み分けが当たり前に行われていて、何故かこちらの肩身が狭い。何だその長い非公式コンビ名。
AとBを指す時に「キキララ」「かに玉」「東名(高速)」みたいな感覚で「AB」が使えない。「けいおん」や「キムタク」なんかと同じで4音ってキャッチーで使いやすいのに、それをある一派に単一の意味付けで専有されてるのってなかなか理不尽じゃなかろうか。あと公式コンビ名が「コブクロ」「テ■マス」系のネーミングだったらどうするのかちょっと気になる。
以下更に与太話。
腐女子は(主に自戒として)自らをマイノリティと称するのをずっと見てきた。でもオタク全体として見ると腐女子でないオタク女の方がよほどマイノリティだ。うちの兄は左利きなのだけれど、私はそれと同じかそれ以上に驚かれる人種になっていた。
オタクご用達本屋でソシャゲ関連本を買ったら、流れ作業でBLフェアのオマケを付けられそうになる度に、このタイトルを買う女性客=腐女子と思われてるんだなぁとげんなりする。まあK川の本買うと露出度高い美少女が付いてくるパターンとかもよくあるけど。
小学生の頃、裁縫セットを兄の物と取り違えて持って行った事があった。左利き用のハサミはあまりにも使い物にならなくて半泣きになったのを覚えている。兄にとっては多分、世の中の殆どのハサミがこういう代物なのだろう(それで慣れてるのだろうし泣きはしなかったと思うが)
世の中はマジョリティのデザインで出来ているんだと、その時から何となく感じている。
腐海では名前の表記順の前後が大層重要らしいのは知っている。そういった都合上「AB」にも「BA」にも組み換えられるパーツとしてキャラ名を使うのは便利で、そう感じる人たちがマジョリティだから、CP名というシステムはこんなにも広く根付いたんだろう。
でも表記順を重視しない側は、キャラ名より検索するのも覚えるのもめんどくさい(率が高い)非公式ワードに押し込められる事を望んだのだろうか?
ちなみに男性作家の多い美少女・百合界隈だとその辺の窮屈さは感じない反面、成人向けは袋綴じしなさいって習わなかったのか!?とキレながらブロックする事案も多いのでまた別の頭痛が痛い。
さておき。
成り行きとはいえ界隈のお作法は知ってる身としてこれからも配慮という名の自衛はするし、何かが変わるなんて期待もしていない。
でも、たまには自分たちはマジョリティ側でもあるって自覚して、マイノリティの名の下の結束の外にも目を向けてみてくれる人もいて良いと思う。
新型コロナ流行前と比べて、自粛期間中の生き甲斐って何%くらいだろう。
自分はリモート勤務でも特に支障なく収入も減っていないけど、好きな旅行ができず仲間に会いに行くこともできないので、70%くらいに感じている。
だから寿命が1.4倍の速さで失われていく感覚。自粛期間がもし1年間続くなら人生が0.3年減るようなもので、自分の平均余命の1%に相当する。
もし自粛せずに流行前と同等の生活をして感染する確率が1%以下なら、自粛した方が失うものが大きいことになる。
自粛で生き甲斐がもっと減る人も多いだろう。その場合はより失うものが大きいし、自粛期間が長期化すればさらに大きい。
もちろん他人に感染させる迷惑もありうるからそう単純ではないけど、感染拡大のリスクばかりが喧伝されて、自粛で失われる人生が無視あるいは過小評価されていないだろうか。
田舎叩き駄目!とかいうのずっと都会に住んでる奴が言ってると思うと逆にムカついてしょうがない
人の悪口を言うくらいなら○○をすればいいじゃない!私は○○をしてるよ!楽しいしおすすめ!とか思ってるんだろうな
(○○の中には雑誌に載ってるオシャレカフェ巡りとか古書店巡りとかライブハウスに行くとかそういうのが入る)
ねえわそんなもん一個も
あったとしてもぶらっと行けるような範囲にはないし知り合いに会って行動を監視されて後で弄られる率が高すぎる
サブカルコンテンツはテレビとネットで画面越しに摂取するしかなくてサブカルホットスポットなんてふしぎ発見で見る遠い外国の風景と一緒
ネット見るのが好きなオタク以外は趣味というか身近なコンテンツが「人間」しかない
人間をじろじろじろじろ観察してそれを元に自分なりに何か考えて人に話すのが生き甲斐になる
文化が違いすぎる
好きだった音楽関係の仕事をしていたが、職場の人間関係に悩み、鬱で休職をし始めて数ヶ月経った。
生き甲斐だと思っていた音楽だったが、今となっては楽器に近づくのも怖くて、音楽を聴くことすらも疲れてしまう。
散々寄り道しながらも、自分には音楽しかないと思い、ようやく進んだ道だったが、どうやら心が折れてしてしまったようだった。
この間の通院から、カウンセリングによる治療が始まったのだが、職場で受けたストレスを振り返る場面があった。
私は周囲の期待の一方で、先輩・上司からの「指導」に精神的苦痛を覚えており、それを隠しながらも期待に応えようとしなければならないことに葛藤していた。
そのストレスを、何を支えに乗り越えていたのかと聞かれた時、私は酒を飲んで誤魔化していたとしか答えられなかった。
心理士は、例えば好きな趣味とか、ペットとか、家族や恋人や友人とか、大切にしているものとか、そういったものがあったはずだろうと問う。
ワークシートに目を落とすと、人生のサポート資源という欄に、いくつもの項目が書けるように設定してあったが、私が書いたのは酒、たったそれだけだった。
帰りの待合でもう一度考えるが、何も浮かんでは来なかった。
確かに、私は多くの人の支援があって生きてきたし、感謝している。しかしながら、それが人生の原動力であったかと言われたら、異なるように思えた。
私の勝手な我儘を、音楽の勉強をさせてくれた両親には借金もある。
歳の離れた恋人とは、価値観の違いからの衝突が増えており、私はいつ別れ話をしようかと考えあぐねていた。
学生時代の友人や会社の同期とも、もう随分連絡をとっていない。特に病気になって会社を休むようになってからは、どうにも気まずく、殆どの友人と疎遠になっていた。
何より、自分を自分たらしめるものと信じて疑わなかった音楽は、今では向き合うことも苦しいものになってしまった。
自分には音楽しかない、そう言い聞かせて進んできたのは、思い込んでいただけであって、音楽はそもそも自分のものではなかったのだ。
私の精神的支柱なんて脆いものである。確固たるものなど、端から持ち合わせていなかったのであった。
あまりに専門性の高い仕事を選んでしまったために、他業種への転職の潰しは効きそうにもなかった。
コロナ禍の現在、自ら職を失うことがどれだけ馬鹿げたことであるか、資格も大した職歴もない自分が転職をすることが、どれだけエネルギーが要ることか、考えるだけで気が滅入ってしまった。
全てふりだしに戻ってほしい。
仕事のことも、恋人のことも、人生も、全て清算してしまいたい。
待合では、小さい子どもが母親に抱きかかえられながら、どこかで覚えたのだろう読経の真似事をしていた。母親は疲れの滲んだ悲愴な表情で、やめなさい、静かにしなさいと繰り返している。
救急隊員が担架を運んでくる。毛布の隙間から、冷たい顔が見える。
しばらくして、両親らしい男女二人が処置室に案内される。
緊張感に覆われた空間に、ヒーリングミュージックにアレンジされたショパンが流れ続け、別れの曲はクライマックスを迎える。
私は心臓をばくばくさせながら、焦燥を必死に隠して、薄汚れたジャックパーセルの爪先を睨みつけていた。
私の人生はまだ続くのだろうか。
スノトラで命を救われた方の沼落ちブログを読んで、私も命救われたしな…と思い、私もスノトラに対する気持ちをアウトプットしようと思いました。
嵐担なので地に落ちるまでの嵐に関するお話が長いです。
全体的にちょっと長めかもですがご容赦ください。
2019年1月27日、日曜日だった。私がその報道を見たのは確か18時ごろだったと思う。LINEニュースの速報だ。嵐が活動休止するのだという。
私は嵐が好きだ。担当は松本潤くん。彼のビジュアルから入ったものの、好きなところは数えきれず、ストイックさや直向きさ、とても可愛らしいところ、でも魅せ方をしっかりわかっているところなど挙げたらキリがない。
潤くんとの出会いは遡ること19年前。当時小学2年生だった私のクラスではみんながみんな嵐が好きだった。
そして、シャーロキアンの母の影響でミステリーが好きだった私は当然のように金田一少年の事件簿も好きだった。
レンタルビデオ屋に行けば専らディズニーか堂本剛の金田一を借りていた。
そうして二代目実写版金田一少年を見た私は、人生の生きがいに出会う。
しかしながら、それ以降は好きな芸能人を聞かれると、ほぼ毎回松本潤と答える程度で強くは追っていなかった。
追っていなかったものの、嵐が出ていたならばテレビは見たりしていた。
そんな私が、中学卒業から高校1年にかけて何のきっかけでもなく松本潤に強い感情を抱くようになる。中学では、松潤のこと好きだなと思う程度だった女が、ある日突然、嵐の大ファンになるのだ。こわい。親も驚いたと思う。
今考えると当時の嵐は10周年に向けて動いており、私も世間の熱気に当てられたのかもしれない。
それ以降は嵐が出ていたならばリアルタイムで見ていても録画をし、円盤に焼き、雑誌はほぼ全て買い、切り抜きしてファイリングし、ジャニーズショップにも足繁く通った。
また、当時はK2やA2、N3と言った掲示板全盛期でもあり、登下校時には毎日のように掲示板を見て楽しんでいた。アタス子とか覚えてる方いますか?
そうして、青春を嵐と共に過ごした私は事務所担寄りのオタクへと変質し、生き甲斐は松本潤、ひいては嵐となった。
時は過ぎ、高校卒業、大学入学、大学卒業を経て上京、就職、転職をし、嵐にめちゃめちゃ注力しているわけでもないが、やはり生き甲斐は潤くんであった、2019年1月27日。私は目の前が真っ白になった。
その頃にはもう嵐が大好きで仕方がなく、彼らがステージの上でキラキラした衣装を身につけて歌っているの見ると反射的に泣く程度にはクソデカ感情が育っていた。
あの日はちょうど埼玉での泊まり込みの出張最終日で翌日の朝に帰京し、事務所作業の予定だった。
出張中の移動は主にレンタカーなので、休憩に立ち寄ったセブンイレブンの駐車場で私はあの速報を見た。その日の仕事は22時半頃までだったが常に泣きそうな中、ふと緩んでしまうと泣いてしまう状態で仕事をした。
仕事が終わり、宿泊先のホテルに入った途端、封を切ったように、涙が出た。
その日は日曜日。翌日は月曜日である。つまりNEWS ZEROに櫻井翔が出るのだ。
最早、どうしたらいいのかわからなかった。人はショックすぎることがあると頭が真っ白になるというのは本当なんだと体感し、また泣いた。
一人で過ごすことはできなくて、28日の夜には私用で上京していた友達に、ZEROまでの時間、飲みに付き合ってもらった。
そして泣きながら見たZEROで櫻井翔は言ったのだ。有働さんに「復活はあり得ますか?」と聞かれた櫻井翔は答えた。「あり得ます。」と断言した。希望だと思った。
翌29日はちょうど仕事が休みだった。朝起きてまた泣いた。ボーッとつけていたワイドショーでその類の報道が流されまた泣いた。あの3日間は生まれた時以来、人生で一番泣いた日だったのではと思う。
私はやば目のオタクなので、潤くんが結婚した時など、嵐に関してショックな出来事があってもダメージを軽減しようと、常からイメージトレーニングをしていた。例えば、潤くんの婚約発表、披露宴、結婚記者会見、おそらく50年以上先にはなるだろうが一番辛い告別式などである。
ただその中で何よりも想定していなかったことが活動休止であった。嵐として5人が並ぶ日が来なくなるなど、微塵も考えていなかったのである。
そこから私の虚無の日々が始まる。多くの方もそうだろうが、私は辛い時には音楽を聞いたり、推しを見たりすることが多い。
しかし、今その辛い原因は他でもない私の生き甲斐なのだ。潤くんを見たところでまた泣いてしまう。嵐の曲を聞いたところでまたさらに泣く。
後押しして欲しい時にはファイトソングを聴き、辛いことがあればHappinessを聴いた。夏を感じた日にはSummer Splash!を聴き、気持ちの整理がつかない時には、感謝カンゲキ雨嵐を聴いた。
嵐によって開けられた穴は、他では代替えできないほどに大きなものだった。
嵐がSNSを始め、サブスクを解禁した時もそれはそれで嬉しかったが、やはり辛かった。
2021年なんてこなければいいと思ったし、もう全てがどうでも良かった。
嵐が活動休止する2020年12月31日までは前を向いて生きようと思っていたが、それ以降は本当にどうなろうが、どうでも良かった。
いくら櫻井翔が明言してくれたところで、希望があったとしても、やはり不安は拭えず、生き甲斐が例え一時的であっても無くなることの恐怖が強かった。
日を追うごとにその感情は強くなり、2021年以降の自分が全く想像できなくなった。
この頃は本当にたくさんの人に心配をかけたと思うし、ジャニオタでもないリア友からLINEやリプをたくさんもらった。今思うと、とてつもなく申し訳ない。
そんな風にカスみたいに生きていた時でも嵐がテレビに出ていれば当然見る。そうやって見ていた、あれからちょうど10ヶ月後の 2019年11月27日。その日放送のベストアーティストで私は天使に出会う。
当時、Jr.について詳しくは知らないものの、ジャニオタの端くれとして1月にSnow ManとSixTONESがデビューするらしいというのは知っていた。が、しかし私が知っていたのはSnow Manはラウールという単語のみで、 顔と名前が一致していたのは、B.I.shadowであった SixTONESの松村北斗と髙地優吾のみであった。
そんなほぼ無知な私が見たのは、D.D.のコココガチャで魅せ方をよく熟知した、金髪の、足の長い子だった。一目で目を奪われた。こんな子がいたのかという衝撃は凄まじく、やっとラウールという名前と顔が一致した私は、個性的な9人のメンバーに引っ張られ急転直下のスピードでSnow Manに落ちていく。
当時のSnow Manはデビュー前であり、未来があって、輝きに満ちていた。
楽しいと思った。嵐が決めたことや嵐を決して否定するわけではないが、後ろを向けば期日が見えていた推し事と、先が続いているような感覚を得られる推し事はやはり大きく違った。
もし、嵐が出ないのであれば見ることができないと思っていた2020年のカウントダウンコンサートも、それ以降の歌番組も、Snow Manが出るならば見ることができると思った。
全く見えなかった私自身の未来も同時に見えたような気がした。
そして友達に誘われ、Snow Man目的で見た素顔4で私はまた出会いを果たす。
私はディズニーが好きでパークに行きたくて上京した。そんな女なので当然ミュージカルも好きである。そしてTravis Japanの夢のHollywoodは非常にツボな曲であった。
楽曲と衣装が好きだなあと思いながら見ていた夢ハリで、センターの子がいきなり「みんなで一緒に〜!!」と会場に向けて煽り始めた。煽ること自体はおかしくもないが、その煽りの後に続いたのはコールアンドレスポンス等ではなく、タップダンスであった。タップダンスを!?みんなで一緒に!?!?と私は大層混乱した。混乱しながらもこれがきっかけでTravis Japanのダンス動画等を見るようになる。
今の時代は非常に素晴らしく、ジャニーズJr.のオリジナル楽曲でさえもYouTubeのジャニーズJr.公式チャンネルに上がっていたりする。しかも定点カメラのダンス動画だって上がっているのだ。すごい。
そこで私はTravis Japanがダンスに特化したグループだということ知った。
統率の取れたシンクロダンスや、ジャンルの幅広く取り入れられている振り、そしてしっかりと身についている歌唱力や、耳に残る歌詞に心奪われた。
そして来たる外出自粛期間。例に漏れずテレワークとなった私はTravis JapanのYouTubeの動画を全て見た。第一印象が「みんなで一緒に〜!」だった宮近海斗くんは時々ボケるのが可愛らしい、ダンスばりうまなリーダーだと知った。他にも才色兼備でたまにボケるのがまたかわいい川島如恵留くん、何をしてもかわいい上に自分で「俺かわいいから」と言って憚らない七五三掛龍也くん、顔が小さく手足が長いのにヒモ気質な中村海人くん、ボケ役なのにリアコ枠でふとした時にとてもかっこいい吉澤閑也くん、独自の感性をしっかりと持っているかわいいお顔の松倉海斗くん、魅せる時は魅せるのにちょっとおバカでかわいい松田元太くん。
そして思う。私、この子たちはちゃめちゃに好きだわ…と。
ところで、ジャニーズはブログをやっている。会員登録をし、月額料金を払えば所属タレントのうち、ブログが開設されている子のものは全て読めるのだ。ありがたい。
そこで嵐やSnow Manのブログを読んでいた私は、当然のようにTravis Japanのブログ、とらまるを読むようになる。
Travis Japanは甲乙つけがたいほどに7人全員が好きだと思ってしまい、いわゆる箱推し状態である。なのでとりあえず全員のブログを読む。当たり前である。
ブログを読み進めているうちに、川島如恵留くんの文面に興味をそそられるようになった。
如恵留くんの展開するアイドル観、勉強観、その他全てにおいて、人間として尊敬に値すると強く感じた。
さて、皆様は7月27日現在の最新の定期更新分は拝読済みだろうか。
最新の定期更新分で如恵留くんはこう書いている。
「貴方が辛い時に、生きていきたいと思える理由の一つに、僕らの存在が力になれたら」
それを読んだ時、ラウールやSnow Manに会えるまで2021年なんてクソだと思っていたこと、Travis Japanに会うまで全てがどうでも良いと思っていたことを、恥じた。
また、如恵留くんがそう言ってくれるなら2021年以降も生きようかなと思った。
結局生き甲斐だった嵐の穴は大き過ぎて、ひとグループじゃ埋められず、Snow ManとTravis Japanのふたグループに出会うまで埋め切ることはできなかったけれど、私は今とても楽しく生きているし、来年以降も楽しく生きることができるのだろうなと思う。
ラウール担として恥ずかしくないよう、ずっと二の足を踏んでいたダイエットにも取り組むようになったし、如恵留くんを見習って勉強をしようかなという気持ちにもなっている。
アイドルって本当にすごい。
私はきっと来年もアイドルを追うことができるのだろう。本当に楽しい。
アイドルによって開けられた穴はアイドルによって塞ぐことができるのだと体感した。
今現在も嵐、Snow Man、Travis Japanともに色々なことがあるし、このご時世、グループの存続に関して全く持って問題ないなんてことはなく、薄ぼんやりした不安を抱きながら日々を過ごしているけど、スノトラの16人に出会えるまでのことを考えると、なんてことはないなと思う。
毎日が楽しく、笑顔で過ごせる。私は今日もアイドルに生かされ、明日もアイドルのことを想うのだ。
嵐に色々あってから本気で死ぬことも考えたが、本当に生きていて良かったと思う。ありがとう、Snow ManとTravis Japan、そして嵐。本当に大好きです。
よく「子供のため」と言って、一般の大人が楽しむある特定の分野の娯楽を禁止しようとする別な大人(親など)が居るが、それが、大人(親など)のエゴイズムであって、「子供のため」にならないことになぜ気づかないのか。つまり、その子供にサービスを提供する一般の大人が、その娯楽を奪われることによって生き甲斐をなくし、だんだん減ってしまって、結果的にその「子供」が将来的に不利益を被る可能性をどうして考えないのだろう。
そのわかりやすい例が少子化だし、自殺者の多さだろう。皆が子供を育てないのは、金がないからじゃなく、大人(親など)が、この世をそもそも楽しくないものにしてしまったからだ。行政が補助金として、いくら金を積んだってダメなのだ。あらゆる娯楽を許容して初めて、子供を産み育てる苦痛が贖われうる社会になるのだ。
それなのに、大人(親など)が「子供のため」だと、大人の娯楽を規制したがために、それが生きづらさからの少子化につながり、その「子供」の世代に、「子供」にサービスを提供する人間がほとんど居なくなってしまうという先送りした因果応報。それは、「子供のため」を理由にして、自分の気に入らないものを潰そうとするエゴイズムを通す大人(親など)から「子供」への素敵なプレゼントなのだろう。まさに「素晴らしき新世界」。ある意味での環境破壊だとも言える。その「子供」自身だって、大人になったらいつかその生きづらさに困り果ててしまうだろう。その頃にはその大人(親など)は居なくなっているから、「子供」が嘆き悲しもうがもう関係ないのかもしれないが。
そして、そもそもその子供を出産した行為自体だって、大人(親など)の娯楽の一つの結果だろう。なに御立派なこと言ってるんだか。子供には出産に至る行為をさせない気なのだろうか。それでいて、子供が成人年齢になって孫を求めてたら満点大笑い。お前(親など)が大人の娯楽を規制するよう努力したせいで、出産につながる行為のやり方がわからないし、相手も尻込みしてんだよ、っていう。
というか、子供を出産することこそ、子供に対する最初にして最大の虐待ではないのか。ここは大人(親など)がまず直視すべき問題。この世に産んだから、子供はあらゆる苦難を乗り越えなくてはいけなくなったのだ。大人の娯楽を社会に対して抑圧するより、出産という自分自身の最大の虐待行為をまず反省すべきではないのか。つまり、怒りの矛先は、社会でなく自分自身に向けるべきである。それこそ、愛すべき自分の「子供」のためにだ。娯楽の反省は社会に対してでなく、子供に面と向かって謝るべきではないのか。
つまりは、「子供のため」と言って、大人の娯楽を抑圧することで生きづらさからの少子化を招き、子供自身の未来を制約するよりも、まずはその出産を子供に「ごめんね」って謝れば許されると思う。それが二重に子供のためだと思う。
ということを書いたのは、最近、分割統治により、他人の趣味や娯楽を抑圧する趣味の人間が増えてきて、怖くなってきたからだ。
一般論として、法的理由も無しに不快感だけで他人の趣味や娯楽を抑圧してはいけない、という事実には皆同意するのに、具体論になると、自らの不快感を唯一の正義として、嬉々として他人の趣味や娯楽を抑圧して楽しむ人々が増えてきたように思う。その一例が「子供のため」というものだ。
いつか同じようにして、自分の趣味や娯楽が不快感だけで抑圧される可能性は考えないのだろうか。自分の趣味や娯楽は不快感が無いと信じているのだろうか。その子育てだって、単なる趣味や娯楽の一つでしかないのに。それとも、自分の趣味や娯楽に矛先が向かないように、他人の趣味や娯楽を槍玉に挙げているのだろうか。みんながもっと趣味や娯楽や自由を限りなく追及するようになればいいのに。
勤労の義務、納税の義務を果たすだけでは社会的義務を果たしているとは到底言えない。次世代を産み、育てることは全ての動物に備わった本能であり、この社会の義務だ。
そこに理由を付けて逃げている奴は、どんなに仕事ができようと勉学に秀でようと足を引っ張る役立たずなんだよ。
天才的な発明で世界を変えるレベルなら別だが、大多数がそうじゃないだろう。少なくともここで燻ってる奴は大抵そうだ。
子を、家庭を持たない人間は、社会的義務を果たす人間からすれば「義務を放棄したダメ人間」としか映らない。
子の為に仕事を休む人がいれば、独身者は進んで手伝え。社会的義務を果たしていないんだから、代わりに働く償いくらいしろ。
もう良い歳なんだから。
増田(この増田で引用している増田、つまり君だよ)は勘違いをしているみたいだね。
上は、元増田(君が引用している増田)からの再引用だけど、元増田が本当に書きたかったのは、「『増田ガール』じゃないか!(ガールじゃないか!)」って意味なんだよ。
「バカー」と「大好き」ぐらいの違いがあるけど、きっと、元増田はカタカナ入力できない昔のキーボードを使っていたんだね。
ところで、「増田ガール」とは、結城浩著「数学ガール」みたいに、ある分野に卓越すると、教えを乞う女の子が現れてその子たちと親しくなって生き甲斐を得られるその現象のことだよ。
えっ? 実際にそんな女性が現れる訳がない?
そんなことはどうでもいいんだ。現象としてネーミングをつけ周知することによって、実現の可能性が生まれるんだ。フレーミング効果ってやつだね。
例えば、「増田ガール」こそ、最近はコロナ関連で特に姦しい、レスバではしゃぐ増田たちが本当に必要だったもの、なんだよ。だから、元増田は卒業式の「呼び掛け」手法で、
と復唱しているわけだ。カタカナが入力できない昔のキーボードだから伝わりにくいけど、復唱部は増田たちの心の声を現しているんだね。レスバをする増田たちが微笑ましく見えてくるね。
だから、「レースクイーン」のように「増田クイーン」と呼ばれないのも、そこに理由があるよ。
言うには、「レースクイーン」のように、ただ観戦して励ましてくれる女性では、増田たちのレスバ心(老婆心)を満たさないようなんだ。「教えを乞う」という要素が、論破を生き甲斐にする彼らにはどうしても必要なんだね。
増田(この増田で引用している増田、つまり君だよ)も、「増田ガール」の存在に期待して、7年と言わず、今後も生きて増田を続ければきっと良き日を迎えられるよ。カラスの咥える御手紙みたいに、教えを乞う女性が現れるよ。わかったかな。
だと思う。今はほぼ書いてないが。話題になっていたらしいので読んでみた。
一言で言えば原作と他人の二次創作は切り離した方が精神的にはいいと思います。
それは解釈の問題だったり自分の力量が関わっていますが、自分が書く推しと原作の推しがはっきりと乖離してる自覚があります。
ではなんでキャラ改悪二次創作が生まれるのか、自分の思ったことを書いてみる。
真面目に二次創作してる人はイラっとくるかもしれない。あくまで偏った個人の意見です。あと腐視点。
・あるシチュエーション・要素が好きで好きで仕方ない
・他に書きたいものがあっても原作の設定を間借りすることに意味がある
1つ目は性癖の問題。どのカップリングに行っても、必ずあてはめるシチュエーションがある人はいると思う。
きっと元記事の筆者は、好きな要素を優先させるより原作考察から発展した二次創作が読みたいのだろう。
だがこの世には萌え先行というタイプがいる。とりあえず好きなものに好きな推しを足し算して萌える。原作に馴染ませようとする人から、最悪辻褄が合わなくても萌えれば正義な人まで様々。
どちらが支持集めるかは、正直タイプに関係ない気がする。二次創作者は考察してるつもりでも読者の捉え方と一致するとは限らない。
そして読者は全員が全員原作を考察しているとはいえないと割り切った方がいいと思った。
私は推しが自分好みのことしてくれるだけで興奮するので、それを書いている。ここの捏造が原型を留めていないと改悪と呼ばれるのだろう。
改悪とわかっているのに書く理由は、「そこに原作があるから」だ。
2つ目はそもそも原作を下敷きにしたIFが見たくてやっている。これが原作の否定に見えるかもしれない。
IFといっても、これも考え方が色々だ。公式でないカップリングの存在自体がIFだとか、そもそも原作以外はIFとみなすこともできる。
現パロやオメガバース、女体化など世界観ごと置き換えるパラレルから、「もしもAじゃなくてBを選んでいたら」レベルも全部IFだ。
たまに根幹を守ったままIFに落し込む作品に出会えると感動もひとしおだ。脱線した。
元記事によると界隈では原作設定を無視したパラレル設定が流行したということだろう。それをまるでA×Bの本流みたいにされると違和感がある気持ちはわかる。
ではなぜそれが流行るのか。それは書いた人がめちゃくちゃ文章が上手い人なのかもしれないし、単に大手の人の性癖に刺さって拡散されたからかもしれない。
でも極端な話、「このキャラがこんなことする訳ない!」という話は「絶対に原作じゃやってくれないこと」だ。
ギャップ萌えといえば聞こえがいいか。怖いものみたさかもしれないが。
それらは原作があってこそ「ありえない」と感じられる。その「ありえなさ」に説得力や文章力がついて面白かったりすると、ある種のIFとして読めてしまう。
最初は「○○さん次元のA×B」と消費していたつもりが、あまりに斬新だったり強烈だと侵食されてしまうこともしばしば。
他人の解釈に影響されやすい人って意外といると思うんですがどうだろう。
こんな風に原作を踏み台にして、二次創作が前面に出ていることが「リスペクト不足」にみえているのではないか。
それは…書いている本人にしかわからない。ヤバめな欲求だって表に出さなければ、普通の原動力だ。
諦めるぐらいなら二次創作するなという意見もあると思う。まっとうな正論だ。
まず、よっぽどの上手い人じゃないと一次創作で書いても人に見てもらえない。
一次創作に持ち出すとして、設定はどこまで寄せたらパクリになる?見た目?世界観は?
それに二次創作でついたフォロワーを失いたくないという人もいるだろう。二次創作を求められたらどんなに歪んでいても「推し」を書くことでしか界隈にいられなかったりする。
最初は原作の推しが好きだったけど、だんだん自分の欲望を優先させたくなった人もいてもおかしくない。
というか三次創作まで発展してしまうような影響力がある人のことは全然わかりません。それを持ち上げる人のこともわかりません。
交流がとても楽しくてそっちの方が本音だったり、推しを改変することに生き甲斐を覚える人なのかもしれないし、あるいは本気で原作に沿ってると確信して書いているのかもしれない。
正しい推しより原型のない萌え、原作よりキャラ改悪が支持される界隈。
それはつまり仲間内で騒ぐ燃料として、その人の二次創作が選ばれただけです。
正直良さはわからないけど、この二次創作いいね!と言っておかないと輪に入れない。本気で面白い解釈だと思っている。三次創作を通してさらに仲良くなりたい。なんか流行っているから乗ってみた。
推しカプが好きという名目で集まっているけど、その内実は人それぞれ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いってことですよね。考えすぎです。界隈のとばっちりです。
大体元ネタがある創作をインターネットに上げて、それに賛同するのって不思議な現象ですよ。
あんなIFが見たい。推しを書いて人に求められたい。同志で仲良く萌え語りしたい。書きたいものが書きたい。
表では言わないけど原作への尊敬だけが創作の原動力ではない人ばかりだと勝手に思っています。
リスペクトゆえに言えないけど、本当は自分の書いた推しが原作より好き。むしろ原作より面白いものが書ける自信がある…人もいるかもしれない。
とにかく共通設定が守られている(と作者が考える)だけで『二次創作』でくくれるって中々乱暴で懐広いですね。すごい。
また話がズレた。
そこまで考え込んでしまうなら、二次創作は等しく人形遊びの発表で交流ツールだと思ってみるのはいかがでしょうか。
原作にまで悪影響を及ぼしているなら、尚更二次創作を切り離して同姓同名の別人だと見切り付けるべきです。
リスペクトしたら面白くて萌えるものになるとは限らない。していなくても読者は萌えるときがある。そんなもの。
創作者の方々、原作からわざとキャラを改変させている際は注意書きを忘れずにしていただきたいです。
なぜなら、キャラ崩壊が性癖なんです!!!大好物なんです!!!