はてなキーワード: 漠然とは
フリーランスだが子供が生まれて保育園に落ちて、「覚悟」が変わった。
今までは子供が生まれて覚悟が決まるという漠然としたセリフに具体性がなくそんなもんかと思っていたけど、ようやく当事者になってわかった気がする。
住む場所を選べない。正確には選べるけど保育園事情などが最優先。
現実的に考えて東京や都心部に住むには妻と子を養える稼ぎがないと無理。
東京で2LDK住んで妻と子を養うとなると額面900万でカツカツレベル。
かと言って地方に行こうにもベッドタウンとかだと保育園激戦区。
住む場所を選んでられないので、キャリア優先と贅沢言ってられない。
夢やキャリアを諦めてでもとにかく稼がないといけない。
出産や育児でキャリアを諦めた妻も家にいるからと言って楽ではない。
よほど穏やかな妻でないとピリピリすると思う。
45歳。専門職。
去年の 10 月〜11 月。仕事が詰まっていた。休暇はほぼない状態であった。その仕事を内容はともあれ、一生懸命に行ったけれど、上司(相性が悪く、かなり嫌われていると感じる。この春に定年)からはコメントすらなかった。悔しく、心苦しかった。喪失感のような、漠然としたやるせなさに包まれているような感覚を覚えていた。
人づてに、他の部の部長からも「でもアイツはパーソナリティに問題があるんでしょ?」という言葉があったと言われているとの話も聞かされた。
そのときには、モヤモヤとした違和感を感じる程度だったが、その後、だんだんと不安や苦しさが強くなった。
「もし、他の部でもそんな印象なら……今の部長が変わったとしても、いくら頑張っても、組織の幹部にそう思われてしまっていては、もう無駄なのではないか」「部長が変わることをひとつの希望として身を削ってきたが、それでは協力はこれからも得られない
のではないか」「今だって、平社員のままだ」「資格や働きながら進学などをしてきた、私の 10 数年は無駄だったのではないか」という考えが頭から離れなくなった。ぐるぐると考えが頭をめぐり、休日も気持ちが休まらない状況が増えてきた。
12 月中旬から後半になると「ずっと気が休まらない」と感じることが多くなった。休暇中でも「不安や苦悩で頭がいっぱい」だと感じる、些細なことですぐに涙が出る、睡眠が浅く夜に何度も何度も目が覚める、動悸がする、仕事に行こうとすると足が震える、些細なこと不安が高まりやすい、吐き気が出る……などの症状が出現した。これらは、直属の上司にも相談した。
その際には具体的な指示はなかったが、耳を傾けてくれたことはありがたく感じた。
最近は出勤前日、出勤当日の朝は「本当につらい」と感じていることがほとんどだ。「どうしてよいかわからない」という気持ちになっていることも多い。休みの日も「今後どうしたらよいのだろう」という考えがグルグルと頭をめぐり続け、気が休まることがない状態だ。
つらい。
頑張れなくなってきた。
頑張ってきたのに。
増田の想像する「批判してる人や擁護してる人が漠然と抱いている事の顛末」に色々違和感。
「4.脚本はそのまま使われて」と勘違いしている人はあまりいないと思うし、
「5.腹に据えかねた原作者が脚本家を降ろし、9話、10話は自ら執筆することを決意。」は
そもそも「ラストは原作者が用意したプロットを使う」が契約条件に入っていたので、「その理由はスケジュール上の都合」ではない。
「6.だが8話までの改変を修正しきれず慣れない仕事なことも手伝って満足のいくものに仕上げられなかった。」も増田の誤解が混ざっているけど、
「原作者の力量不足」は原作者がそう感じているだけで、実際は「漫画制作とドラマ制作のスケジュールがパンパンで時間をかけて執筆できる状況じゃなかった」の方が大きいのでは。
あと「7.原作者は後悔している。」のではなく原作者は「後悔ではなく感謝している。」と増田は書いているけど、
感謝しているのは「キャスト、撮影スタッフ、読者、視聴者」に対してであって、「日テレ、ドラマのプロデューサー、脚本家」に対してではないよ。
増田や日テレは「客観的にみれば実際には守られている。」というのかもしれないけど、
実際は「日テレが作った脚本は約束通りじゃないことが多すぎて、原作者の尊厳が損なわれた上でブラック労働を無理強いされた挙句、脚本家のモラハラ投稿でメンタルが崩壊した」
という事態になったわけで、この契約自体が「悪魔の契約」だったんだと思う。
約束通りの脚本を提出できない日テレが悪いのに、なんで原作者が日テレの放送スケジュールに間に合わせられるよう頑張らなければならなかったのか?
セクシー田中さんの件、SNSの議論や著名人の発信、スターを稼いでるブコメなどを読んでると、日テレや脚本家を批判する人たちも擁護する人たちもどうも事実を正しく認識できていないように思えて仕方ない。
そこで今一度芦原さんのブログに立ち返って冷静に事実確認をしたい。
まず今現在、批判してる人や擁護してる人が漠然と抱いている事の顛末は以下のようなかんじじゃなかろうか。
1.日テレからドラマ化のオファーがあり、原作者は「原作を忠実に再現すること」を条件に許可をした。
2.しかし実際に脚本が上がってくると大幅に改変されたものがあがってきた。
3.脚本化が自我を出したせいなのか、芸能事務所等の大人の都合によるものなのか真相はわからない。
4.原作者の抗議の声も聞き入れられず、脚本はそのまま使われて原作とは大きく異なるものが8話まで作られてしまう。
5.さすがに腹に据えかねた原作者が脚本家を降ろし、9話、10話は自ら執筆することを決意。
では事実はどうだったのか、芦原さんのブログを元に順を追って確認したい。
→これは事実だ。
ドラマ化のお話をいただき、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただきながら、
最終的に私が10月のドラマ化に同意させて頂いたのは6月上旬でした。
「セクシー田中さん」は連載途中で未完の作品であり、また、漫画の結末を定めていない
作品であることと、当初の数話のプロットや脚本をチェックさせていただいた結果として、
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、
まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、
原作者が用意したものを、そのまま脚本化していただける方を想定していただく必要や、
これらを条件とさせていただき、小学館から日本テレビさんに伝えていただきました。
また、これらの条件は脚本家さんや監督さんなどドラマの制作スタッフの皆様に対して
大変失礼な条件だということは理解していましたので、
→これも事実だ。
私が描いた「セクシー田中さん」という作品の個性を消されてしまうなら、
どうして変更していただきたくないのかということも丁寧にご説明し、
粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1〜7話の脚本の
完成にこぎつけましたが…。
そして、私があらすじ、セリフを準備する終盤のドラマオリジナル展開は
8話〜10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、
私が準備したものを大幅に改変した脚本が8話〜10話まとめて提出されました。
特に9話、10話の改変された脚本はベリーダンスの表現も間違いが多く、
ベリーダンスの監修の方とも連携が取れていないことが手に取るように分かりましたので、
「当初の約束通り、とにかく一度原作者が用意したあらすじ、セリフを
「足りない箇所、変更箇所、意見はもちろん伺うので、脚本として改変された形ではなく、
といったことを、小学館から日本テレビさんへ申し入れをしていただきましたが、
それを小学館サイドが「当初の約束通りに」と日本テレビさんにお戻しするという作業が
数回繰り返されたと聞いています。
最終的に、日本テレビのチーフプロデューサーの方から「一度そのまま書くように」との
指示が出たとも伺っていましたが、状況は変わらぬまま約4週間が過ぎてしまいました。
ドラマの制作スケジュールのリミットもどんどん迫っていましたので、
本当はドラマオリジナルとなる8話〜10話全ての脚本を拝見してオリジナル部分全体で、
何とか改変前の内容に修正させて頂いて、日本テレビさんにお渡しすることになってしまいました。
9話、10話に関する小学館と日本テレビさんのやりとりを伺い、
時間的にも限界を感じましたので、小学館を通じて9話、10話については、
当初の条件としてお伝えしていた通り、
「原作者が用意したものをそのまま脚本化していただける方」に交代していただきたいと、
結果として、日本テレビさんから8話までの脚本を執筆された方は
9話、10話の脚本は、プロデューサーの方々のご要望を取り入れつつ、私が書かせていただき、
脚本として成立するよう日本テレビさんと専門家の方とで内容を整えていただく、
という解決策となりました。
→これも一部事実と異なる。9、10話を納得できるものに仕上げられなかったのは事実だが、それは8話までの出来とは関係なく単に原作者の力量不足ゆえだ。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。
素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。
漫画「セクシー田中さん」の原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を
執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
9話、10話の脚本にご不満をもたれた方もいらっしゃるかと思います。
どのような判断がベストだったのか、今も正直正解が分からずにいますが、
改めて、心よりお詫び申し上げます。
→ここは判断が難しい。原作者は最初に出した条件が守られていなかったと思っているが客観的にみると条件は守られている。それについては後述する。
最後となりましたが、素敵なドラマ作品にして頂いた、素晴らしいキャストの皆さんや、
7の項で書いたように原作者の認識では守られていないように感じていたようだ。だが客観的にみれば実際には守られている。
・漫画が完結していない以上、ドラマなりの結末を設定しなければならないドラマオリジナルの終盤も、
まだまだ未完の漫画のこれからに影響を及ぼさない様「原作者があらすじからセリフまで」用意する。
原作者が用意したものは原則変更しないでいただきたいので、ドラマオリジナル部分については、
要約すると、
1.漫画に忠実にドラマ化すること、そうでなければ加筆修正する。
2.終盤部はこちらで用意したあらすじからセリフまでをそのまま脚本にすること、できなければこちらが執筆する可能性もある。
・原作者は7話までの脚本を加筆修正してほぼ原作通りに仕上げた。
・8話も改変前の内容に修正できた。
これは当初提示した条件通りではないだろうか?
原作者の視点では「思っていたように仕事がすすまなかった」のは事実だろう。
しかしそれはあくまでプロセスでの問題であって、結果をみれば原作者は最大限尊重されていた。
むしろ途中で降板させられた脚本家のほうが日テレから軽くみられていたといえるんじゃないか?
診断されない程度の強迫性障害ですね。強迫的傾向があるとも言われるかもしれない。
きっかけは生来的なものか、普段の生活やストレス、生理的な波。
医療的にはセロトニンが不足していて安心感が得られないため、セロトニン再取り込み阻害薬をつかって脳内のセロトニンを増やし、思考の癖を無くしていく治療が行われます。
友達などに「悩み」自体を相談しないのは正解で、強迫行為を手伝わせると悪化することがある。
自分は重度だったから気持ちがわかるけど、漠然とした不安があって、その不安の整合性をとるために「悩み」をそこに次々と代入してる感じだよね。
大方その背景に不安を生み出す「本当の原因」があるからそれを取り除けば軽くなるけれど、それをすぐ行うのが難しい場合は精神科を受診して早めに治療して、思考の癖を取り除いた方が良い。
目安はその強迫行為で一日の1時間以上を費やしているかどうか。
マッチングアプリってみんなどういう心持ちでやってるのか知りたい。
自分は20代女、地方都市で事務員をしている。仲のいい友人グループの中で自分だけ恋人がいない(なんならまともに好きな人ができたこともないのだが)ため、誰か紹介しようかとか、アプリをした方がいいとかいつも勧められる。
周りがどんどん結婚していく中で漠然とした不安はあるけど、アプリで自分とマッチングしたとして、選ぶ権利があるのは相手だ。全く上手くいくビジョンが見えない。
見た目は死ぬほど不細工ということはないけど、可愛くもない、下の中だと思う。性格も良くないし家事も好きではない。土日は自分より若いアイドルを見に一人で遠出するか、引きこもってゲームをしている。自分だったらこんな女絶対に付き合いたくない。
マッチングして一回会ってみたとして、その後選ばれないのは考えるだけで辛いし、自分に時間を使わせるのも申し訳ない。マッチングアプリしてる人って、こういうことは考えてないんだろうか。眩しい。
友達に言ったら絶対に困らせてしまうから言えないけど、誰か客観的に見て自分は恋愛をしてもいいレベルの人間なのか、教えて欲しい。もし自分に好きな人ができて告白しても、それは気持ち悪くないか、不快にさせないか、とか。
このまま一人で好きでもない仕事をしながら老いていくのかと思うと不安で仕方ないけど、誰かと一緒に過ごすなんてこともできる気がしなくて悲しい。
社内のほぼ全員が社内ニートである会社で働いたことがあるだろうか。
強制的にクビになるまで意地でもしがみつくその根性、そして増やすだけ無駄な仕事を勝手に増やす愚かさ。
利益を追求するチームと、社内ニートとして仕事っぽいことをしているその他のチームがいるのである。
まあ滅ぶ寸前だったら転職すればよい。
しかしである。社内ニートの連中は暇な時間をなんとか仕事に変換したいらしい。
そこでここでは連中が駆使している暇つぶし創出のちょっとしたテクニック集を開陳する。
1. 議論
だれかが議論をするといい始めた時は、大抵暇な時だ。
社内SNSでテキストベースで議論し始めたり、誰か特定の人間を集めて会議室で議論したりする。
だがこれらの議論はあまり生産的ではなく、生産的であろうとするが、無能なので何も生み出さない。
ずれたことを言うことに慣れきっているので、こんな議論さえある:
「俺たちの目的は社会貢献だ。社会に貢献するためには社会の不安定要因を見つける必要がある。ハッタショが社会を不安定化させているのではないか。もしそうだとすると、ハッタショを更生するには周囲のサポートがいるのではないか。もしそうだとすると、サポート要員を確保するために人件費を与える必要がある。もしそうだとすると、利益になるビジネスモデルがない限りそのような人件費は払われない。もしそうだとすると、利益に頼らない方法を見つける必要がある。」
こいつがハッタショについて議論し始めたのは、普段からハッタショにムカついていてスカッとしたい以外の理由はなく、ハッタショを更生するビジネスなどやる気は微塵もない。
「もしそうだとすると」が多すぎて、前提が崩れるとすべての議論が無駄になるのである。
2. 調査
調査というのは議論の次に多い言葉だ。まともな調査をする人もいるが、大抵の場合は信頼できないソースを引っ張り出し、自説を補強する以外のことはしない。
そもそもググって情報を見つけることを「調査」と仰々しくいうほどのことではないだろう。だが、そういって仰々しくいうと、本格的な情報を調べるように見せかけることができる。
信頼できる調査とそうでない調査の違いは、その努力の方向性である。
一時情報源を見るために論文を翻訳する人たちや、バグの原因究明のためにデバッグしている人たちはかなり努力しているが、ツイートを引用するだけの連中は脳が足りない。
3. 発信
社会貢献は世間に影響を与えられてこそであるといい、匿名のアカウントを使って炎上や工作活動を行う。
これを最も好んで「暇つぶし」にしている人もいる。会社の目的に合致していればまだしも、ただのインプレ稼ぎに成り下がっていることが多い。
例えば画像生成AIでどんな絵が生成できるか検証してみました、みたいな連中だ。
まだ未検証のうちはそれでいいかもしれないが、何度も生成してどういうものか分かった段階でまだ続けようとしても生産的ではないだろう。
そもそも画像生成のAIをどうやって利益に変換するつもりなのか。そういう根本的な発想が抜けている。
社員のほぼ全員が社内ニートというのだから、そもそも会社としての仕事がなんであったのか誰もわからない状態になることがある。
そういう時に、誰かが暇潰しのための議論で「こういうツールがあったらなぁ」などといい始める。
それでエンジニアが実際にそういうツールを作ると、「なんかちょっと違うんだよなぁ、僕が研究してきた哲学をもっと含ませて欲しいんだよね」と理解不能なことを言う。
だからツールも作ったきりで発展しない。利益に繋げようという意欲がない。
「インフラの監視」といって、無理やり仕事を作り出そうとする人もいるが、インフラのインシデントが常日頃から膨大に発生するようなことはない。
監視のための仕組みをもっと徹底して導入するだの、k8sを使うだのいって無理やり仕事を増やそうとするが、コストにしかならない。
イベントを開いて人を集めれば、確かに社の知名度を高めたり、イベントから収益を得たりは可能だろう。
ただ利益の決定打には及ばない。場合によってはコストの方が高くつく。
被災地にプレゼントを、などと言うが、被災地が今欲しいのは水と食料であるという基本的な部分の認識すら欠如し、頓珍漢なものをプレゼントしようとする。
8. PoC
会社にまともな仕事は存在するのか?と疑心暗鬼になっているエンジニアがPoCをし始める。
これはこれで、後々役に立つことはある。実運用で適用可能な技術も多い。
しかし、一部のエンジニアは漠然と「すごいこと」をやろうとしており、それが厳密に言語化されないので、PoCの方向性があちらこちらに行く。
利益に貢献するようなサービスを運用しているとして、その運用時にマニュアル作業が発生していることがある。
これらを自動化するツールを作る提案をすれば、暇つぶしもできるし、生産性向上によって時間的余裕を創出できる。
まあ、時間的余裕を創出するからこそ社内ニートがより深刻化するのだが。
最新技術の勉強をするといって、技術書を読む。場合によっては、勉強会を開く。
例えばマイクロサービスアーキテクチャを正しく運用するには、とかそういったことだ。
やっと死ぬことにした。
そもそも18まで生きてられると思ってなかったし、25まで生きてるつもりもなかったのに、気がついたらもう27。
30まではさすがにと漠然と思って過ごしていたけど、ここ数年はまあ別に大人の生活も悪すぎることないし、このまま一旦30まで向かってみるかあと思ってた。
それでも今すぐ死ぬぞ!という勇気もエネルギーもないままに生活が続いて、生活できてるってことはまだ大丈夫ってことで、まだ大丈夫ってことは…で、生きてられてしまった。
でも常に死にたい気持ちがあって、早く大丈夫じゃなくなりたかった。
大丈夫じゃなくなって、死ななくてもいい理由とかが見えなくなりたいと思って。
最近、色々な事がもううまくいかないとわかったり、生活がままならないくらい金が無かったり、好きなはずのものに心動かされるのが煩わしくなってしまったり、一緒に生きていきたいはずこ友人たちとももうどうしたって見えてる世界が違うんだとわかってしまったり、本当に欲しいものが絶対に手に入らない苦しみが歳を重ねるごとに膨れ上がってしていたり、気が付いたら本当に何にも無い、空っぽになってしまった。
だったら別に30なんて数字にこだわる必要もないし、早い方がいいなと気が付いたので、死のうと思う。
たぶん僕が死んだらどの友達も悲しんでくれると思う。わからん。怒るかも。
本当は大好きな人たちともうしばらく生きていきたかったけど、そうもいかないみたい。
大好きな友人たちを「友達が自死した人」にしてしまう事がすごく気がかりではある。
死のうと決めた後、友人たちと旅行の予定があったので、そこで楽しく過ごして思い出作っておこうと思って、死ぬ日は旅行後に設定した。
旅行中、感極まっちゃったりするかなと思ったけど、全然そんなことなく、皆といつも通りすぎるいつも通りを過して楽しかった。
死ぬ前にやりたい事とか、会いたい人とか食べたい物とか、そういうのはじめたらきりが無くて何年あっても死ねそうにないので一切考えないようにしてる。
あと本当に金が無いのでしたくてもできない何も
死のうと決めてからリスカも全くしてない。やっぱ自傷行為って生きるための行為なんだな。
この時にちゃんと死んでおけばよかったと毎日毎日本当に心から後悔しているくらいには、この時よりもずっと状況は悪くなってしまった。
どの道を選んでももうどこにも行けない。
誰も何も悪くなくて、ただ、ここに至るまでに自分が選んできたたくさんのことが、たくさん間違っていたんだと思う。
もうどこにも居場所もなくて、何もかもぼくを必要とはしておらず、ぼくにとって必要なものももう何もなくなってしまった。
悲しんでくれる友達も減っちゃっただろうな。
人が好きで、たくさんの人と楽しく過ごせることだけがぼくの人生の誇りだったはずだった。
それができないぼくは意味がないよなあ。
このままの生活を続けていたら、ぼくは大切で大好きな人たちの幸せも願えなくなってしまう。
そうなる前にいなくならないと。
今1番怖いのは、死ななくても良くなってしまうこと。
本当は最後に会いたい人もしたいことも見たいものも行きたいところもたくさんたくさんあるんだけど、きりがないよな、そんなの。
これで死に損なったらダサいなあ。
ぼくの大好きな人達がこれからも毎日楽しく幸せでいられますように。
心から願ってる。
こんなん言ってるけど実際立ち上がったら足が竦むだろうなあ
昨年末に祖母が亡くなったのだが、先週末、遠方に住む妹を含めて兄妹三人で集まって遺品整理をしていて、流れで、この先両親が亡くなった際に墓をどうするかという話になった。
自分はかねてから自分の代になったら墓を閉じる意向でいたのだけど、妹二人が同意してくれるか分からないな…と恐る恐る聞いてみたら、あっさりと同意してくれた。三人とも子持ちなのだけど、この負債を下の代に残すのはあり得ない、という感覚を共有していた。
そんなわけで、その後はどうやって墓じまいするかちょっと調べていたのだけど、墓の撤去や寺とのやり取りをやってくれる代行業者があり、両親を火葬したあとの骨についても、火葬場によってはそのまま引き取ってもらえるそう。
個人的な統計に過ぎないが、思考ってホルモンの影響を直接受けるし、子供がそこまで欲しくないのは割りと女性ホルモンが弱い状況に起こりがち。
要はレスだったり、セックスで十分な女性ホルモンが分泌されていないと、その手の話や考えは珍しくない。
子供がほしいっていうのは欲求だけど、欲求の源泉はホルモンに過ぎない。
なんとなくほしい気はするけど決定打にかける状態にこそ、そういう意味不明なグダグダは出てくる。
それでも死にかけてる人はとても多い。
出血量がリットル超えただの、旦那さんに母子どちらかは覚悟してくださいなんて話をされてから24時間待っただの、
まー安産だったなんて話を聞くほうが珍しい。
ただでもそういう事じゃないと思うんだけどね。
女性は子供ができたら、自分が自分の人生の主人公じゃなくなるのだよ。
大なり小なり漠然とみんなそう思っている。
そこで終わるんだよ。
だから出産にポジティブになれない女性が多いのではないかと考えている。
じゃあ我々男はどうするべきなのかということに関しては、
付き合い始めのころには当たり前だったそれらが結局一番大事なんだと思う。
他のだれでもない、自分と相手の人生なんだということをですね。
お互いが思うことができれば、色々変わってくるんでねーかな。
「民族」という言葉もミスコンにおける「美」くらいガバガバな概念ではあるが、それでも多くの人に漠然と共有される概念があるから「民族」という括りが一応存在するものとして扱われている。だから、その基準から外れる外見の人がその民族の代表に選ばれるかというと、それはなかなか難しいだろう。
アイヌの中にも北方アイヌ(ほぼロシア人)から南方アイヌ(ほぼ和人)までたくさん民族いるよ。
「民族」という言葉もミスコンにおける「美」くらいガバガバな概念ではあるが、それでも多くの人に漠然と共有される概念があるから「民族」という括りが一応存在するものとして扱われている。だから、その基準から外れる外見の人がその民族の代表に選ばれるかというと、それはなかなか難しいだろう。
だが、「日本」が国名である以上、その代表を決めるのに、その容姿が何民族的であるかということを云々するのは、根底に「日本は大和民族だけのものである」という考えがあることになるので、それはよろしくない。倉田真由美が批判されているのは、その点である。差別というよりその「誤った狭い見識」を批判されている、と見るべきだ。
日本という国には、そもそも複数の民族が所属しており、また何々民族の出身であるから日本国籍を取ることはできない、みたいな決め事もない。「日本」の文化的アイデンティティ自体も、かつて「雑種文化」と評されたように、排外的というよりは国際的にオープンで多様性に満ちたものであり、「日本」の祖型を為した奈良時代、「国風」の栄えた平安時代の文化を見ても、海外(ことに大陸)文化の影響が著しいことは誰でも知っている。
「ミス日本は大和民族的な人間であるべきだ」と主張したら、その瞬間に、アイヌ民族、琉球民族を初め、日本という「国家」が自国に所属すると認める多様な民族出身者の存在をなおざりにすることになる。それは、差別につながりかねない「偏見」に満ちた主張である。これまでも「日本は単一民族国家で…」とか抜かした大臣や総理が、その狭い了見や見識を批判されてきた。彼らは意識してやったのだろうが、倉田はおそらく無意識だろう。従って、この失言を機に彼女が自らのアンコンシャス・バイアスを多いに反省すれば、それで話は終わりだ。彼女の発言は、それ自体が差別ではないとしても、偏見に満ちた誤ったものの見方に基づくものなのだから。
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
何歳を過ぎたら結婚「できない」男になるんだろうか。
37歳独身。彼女無し。東大、いわゆる大企業、身長171cm、たまにイケメンって言われる。
取っ付きにくい性格かもしれないが、難があるという程でも無い。
10年前に彼女に追い込まれて結婚しそうになったけど、親の反対と喚く彼女に疲れて別れた。
その後チラホラ彼女は出来たけど大体「私と○○どっちが大事なの」状態に陥って別れを繰り返している。
面食いって訳でもない。そこそこ整った顔で、できれば年下の、ちゃんと自立してる子がいいだけなんだけど、そういう子を選んでるはずがどうも上手くいかない。
社会人になりたての頃は少なくとも30歳には結婚してるんだろうなと漠然と考えてた。なんの疑いようもなく結婚できてると思い込んでた。
でも現実は結婚どころか彼女もいない。実家の近くに一軒家を建てているはずが、最初に契約した1Kの部屋に住み続けている。
この間今までの家賃を計算してゲロ吐きそうになった。家を買ってたらそこそこのローン返せてたじゃん。
この間元カノの誕生日に飲みに行ったら「結婚するの」って言われたよ。驚きと怒りと虚しさで体が震えた。ワンチャンあると思って前日に買ったゴムが鞄に入ってるのが見つかったらやばいと思って机の下に隠した。見えるわけないんだけどな。
(会っても)大丈夫なの?って聞いたら婚約者が近くで待ってるんだって言われた。婚約者ってなんだよ。彼氏だろ。どうせすぐ別れるだろ。
俺の事を馬鹿にする為に、復讐するためにわざわざ来たんだな。そんな女と付き合い続けなくてよかったって心底思ったよ。
なんでこんな奴らは結婚に向かってて、俺は結婚していないんだろう。
俺は結婚「できない」男なんだろうか。
そんでその甘雨似のアニメキャラのプラモをどうにかこうにか完成させてみた訳よ
何時間もかけて。
まあ、何回かに分けて作ったから、実質的には何日かかかった訳だけだけど
で、完成してみると、こう思う。
プラモって妙に軽くね?
なんか妙に萎える。
フィギュアは妙に重量有るから多少グリグリ動かしても平気そうだなって思えるけど、プラモは妙に軽いからポーズ取らせようとグリグリ動かすのが不安になる。
Aの位置まで腕上げようとしてるのに、手を離してみると少し戻ったBの辺りに反動で戻っちゃうみたいな。
ていうか、なんていうかこうMMD触ったときみたいな、ポーズを取らせるために一から十まで四肢の位置を調整しなきゃいけないのが面倒。
そんで気づくんだよ。そもそもどんなポーズ取らせるかの漠然としたイメージはあっても、それを調整する能力はないって事に。
そしてもう、なんか妥協的にパッケージのあんまかっこよくないポーズでも良いかと再現させてみようとするけど、それも出来ない。そこで気づくんだよ。
パッケージの写真、あんま写りがよくないな。俺ならもっとかっこよくできるで!
なんて思ってたのはとんでもない思い上がりだったんだなって。
よく考えたらプロが作ってプロがポーズ取らせてプロの写真家が取ってるんだから良いもののはずなんだよな。
俺が何かしたところであれ以上のものを作れないんだと思うと、昔も同じ事考えて萎えた事を思い出した。
後写真も面倒くさい。本当に面倒くさい。
背景に私物写り込まないようにするのも面倒だし
光の当て方調整とか角度も考えると球体状の何かの内側から撮らないと無理なんではという気にもなる。
松本人志の「性加害」疑惑をめぐる問題は、いろいろ論点はあるのだろうが、やはり最も重要で深刻だと感じるのは「報道の自由」の問題だ。あまり言っている人がないので、ここで強調しておきたい。
アイドルや芸人が情報番組・ワイドショーのMCやコメンテーターとして大挙出演するようになったのは、2000年代半ばくらいからだと思う。これを問題視していない人少ないのが、昔から大きな疑問だった。
そもそも芸能人は、報道に関わるには利害関係があまりに多すぎる。所属芸能事務所だけではなく、仕事で関係のあるメディア企業、出演しているCMの企業、アンバサダーを務めている政府・自治体などなど。多方面から仕事を得るのが芸能人の本業だから、これ自体は当然のことであり、そうあるべきことでもある。問題は、そうした立場の人物が、報道に関わる番組の重要なポジションを務めていることなのだ。
その問題が象徴されたのが、ジャニー喜多川問題の時の櫻井翔の立場である。昔から「アフラックに大きな不祥事があったら櫻井翔はどう報道するのかな?」と漠然と思っていたが、実際は足元の事務所が大炎上して、もっと悲惨な結果になってしまった。
芸能人が出ているのは報道バラエティに過ぎない、という人もいるだろう。しかし「過ぎない」のであれば、面白ニュースだけを扱うべきであり、政治経済のような公共的な話題や、「被害者」がいる社会問題のような、笑いの文脈に載せるべきではない話題を扱うべきではない。またバラエティであっても内閣支持率に影響を与え、政治の動向を左右することは普通にあり得るのであり、「バラエティに過ぎない」というのは詭弁である。
職業ジャーナリストや局アナや学者は確かに語り口が堅い。それに対してアイドルや芸人などの芸能人は、話術のプロでもあり、語り口がざっくばらんである。これを日本のテレビ視聴者は、「ジャーナリストや学者よりも、アイドルや芸人のほうが忖度なしで本音で自由な報道をしている」と勘違いしてしまった。当たり前だが、現実は全くの逆である。ジャニーズ問題や松本人志問題で、忖度なしに自由に発言できていたのは職業ジャーナリストや学者であって、芸能人はほとんど沈黙を強いられ、せいぜい奥歯にものが挟まったようなコメントしかできていない。
現在爆笑問題・太田の株が若干上がっている。自分も松本に比べればはるかにまともで知性のある人間だとは思っているが、彼が同じ事務所に所属している橋下徹についてほとんど言及しておらず、維新の会についてもほとんど批判的なコメントしていないことは、強調されなければならない。「身内のことは報道できない」という普遍的な力学からは、太田のような人間であっても決して自由ではない。
結局のところ報道番組はMCやコメンテーターは、バラエティ的なものも含めて、多方面に利害関係を持たない局アナや職業ジャーナリスト、学者が中心になるべきである、という大原則を取り戻す必要がある。松本がいなくなった後、芸人がそのポジションに座るなら同じ問題の繰り返しだろう。
安全側での評価:良くないこと(避けたいこと)が起こらないように評価する
例えば、おおよその見積もりが30000円のものを買いに行くときに、足りなくならないように40000円を想定して持っていくのが安全側。
この調査では、暗数で再犯率が変わるリスクがあるが、再犯率を低く見積もってしまって対策をしなくなるのが危険。
再犯率を大きく見積もっている(暗数がもし全部把握できたら再犯率が小さく再計算される)ということは安全側ということ。
狙ってやっていなくても加味したら安全側に動くのか、危険側に動くのかを把握していることは、漠然と「暗数入れていないからダメ」「暗数なんて言ってるのがダメ」というよりも正しい判断に近づくというのがわかると思う。
ドワーフ→人間よりは長生きだけどエルフほどじゃない。体が頑丈。
人間→すぐ死ぬ。勇者や戦士はドラゴンとも戦えるぐらい強いけど普通の人は普通に弱い。
これぐらいは漠然と分かるっしょ?
なんたらランド→悪と戦ってる。プリキュアを探して悪と戦わせる。
ウンタラカンタラー→悪い人達。世界を支配しようとしてプリキュアに邪魔される。
プリキュア→世界を守るために戦ってる。身体能力が高くてビームとか出す。
ね?大差ないでしょ?
幼稚園児でもプリキュアはなんとなく分かるし、男の子だったら戦隊ヒーローを同じ感じに理解してる。
まあこれは理解力ってよりも「目の前の物を素直に受け入れる学習能力」みたいなものに支えられてるんだと思うけど。
フリーレンが理解できない人って、理解力を育てないまま学習能力だけが退化しちゃった人なんだろうな。
親に変な教育をされたり嘘を教えられてトラウマ持ったりして脳に後遺症が残ってる人とかなんじゃない?
そういう人達をいちいちあげつらって「馬鹿すぎwwwwクソワロwwww哀れwwww」みたいに煽ったり「つまりですね我々オタクの民はパンピーより賢いからファンタジーを理解する想像力に長けているのですな(核爆)」みたいに主語でかマウントかましたりするのマジで最低だと思うよ。
人間には得手不得手があるんだからさ、そういう人達だって何かしら特技があって逆立ちしても普通の人は勝てなかったりするものだよ。
たとえば100mを10秒ジャストで走れたりするかもだけど、もしその人に「え?世の中には100mで11秒を切れない大人がいるの?体の病気?生まれつき脚が変な方向に曲がっているとか?」って言われたらイヤーな気持ちになるじゃん?
そういうことしちゃ駄目なんだよ。