はてなキーワード: 公権力とは
容疑者を実名で報じると、今の日本では容疑者や家族に嫌がらせをする人が少なからずいる。
実名報道のメリットより二次被害のほうが大きく感じられ、個人的には実名を出すべきでないと思っている。
しかし、公的な情報として誰もが検証でき、公権力を監視できるため、などの理由で実名報道がなくてはならないと主張するのもわからなくはない。
だから思うんだけど、本当に必要なのは加害者やその周囲に嫌がらせをする人たちをきちんと犯罪として訴え、彼らも実名で報じることじゃない?
そこの抑止力が全く欠けていて、だからモラルがない状態に陥っているんじゃないかと思う。
知り合いの警察(地方の副署長とか)と話していると、彼らは報いを受けさせる意味で「捕まえて実名で新聞に載せてやりたい」みたいなことを言う。
怒りも憤りもわかる。
日本の刑事訴訟では無罪推定の原理が働く。その辺を歩いていて警察に突然連れてこられた全く事件に関係ない人間でも、被害者が確信的にこの人ですと連れてこられた人間でも、同じように裁判を受け、同じ権利を擁する。(尤も、逮捕の要件は厳格なので前者である場合は違法だが)
自分が突然お前は犯罪者だ裁判にかけるなどと言われたら理不尽が過ぎるだろう。言われもない罪でいきなり犯罪者扱いを受けるのだ。これは立派な人権侵害だ。
仮に、全くの関係ないところからではなく何かしらの事件現場の近くを通りかかっていて、それでいて何らかのの手違いで逮捕されたとする。そして裁判が行われた。裁判の時点ではこいつは罪を犯していない、それが前提となる。無罪ではなく、犯した罪を確定させるには証拠が必要だ。しかしその証拠というのも明らかなものでなくてはならない。この場合にお前は犯行直後の現場にいた、という証拠が出される。およそそれは事実である。だが近くにいたというだけで犯人扱いされたらたまったものではない。だから“たまたまそこにいただけではないか“,“呼び出しを受けたのではないか“,“本当に犯行の直後だったのか“など、その証拠に疑問があるのならその証拠は根拠としては弱いものになる。「疑わしきは被告人の利益に」、その証拠に疑問がないと言えなければ、被告人にとって有利に働かせなければならない。もちろんただ近くを歩いていただけで、犯行の目撃者がいるだとか証拠から指紋が採取されたなどの証拠もない。立証はできなかったので、そのまま無罪になる。何もしてないのだから当然といえば当然だ。
だが現場の近くにいた、その証拠だけで認められたらどうなるか。言われもない罪を与えられ不利益を受けることになる。何もしていない人間が罪を与えられる。それは刑事罰だけではない。ひとたび報道がなされれば私刑にも近い社会制裁だって加わる。世間はどうみるか。仕事は、生活は。これで後から無罪でしたなどと言われそう認められて、賠償等の形で補填がされたところで周囲の目や生活が元通りになるわけではないし失った時間は手に入らない。受けた評価は消せない。
そしてなにより、刑事訴訟、刑罰というのは公権力が個人に対して罰を与えるというものなのだ。何よりも慎重にならなければならないものである。公権力が際限なく個人を罰せられるようになることの恐ろしさは戦中をみれば分かるだろう。罪刑法定主義というのはここからくる。刑法というのは、もちろん国民がこういうことをしたら罰せられますよという罰の品書きであり、それにより犯罪を抑制する効果等もあるが、一方で国家公権力はここに書いてあること以外のことで国民個人を罰してはいけないという、公権力に対する抑止力としても働いている。
ここまでは何もしていないのに疑惑を投げかけられた人間を例にとってきたのだから、当然の話をしているようにも思われる。
だが、こうした手続きや前提の話はある程度容疑が固まっている相手でも同様なのだ。仮に自白していてもそれだけが証拠になることは無い。
また証拠があったところで刑法に書かれた罪名と要件が揃っていなければ不当な権利侵害に当たる。
条文にあるから必ずしもそうなるとは限らない。例えば窃盗罪の条文は「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし(10年以下の懲役又は50万以下の罰金に処する)」要は人のもの盗んだら罪になるよという話だ。では、他人の財物とは何か、窃取とはか何か、というのが条文の解釈の話になり、要件にあたる。
ここの条文の文言がどう要件に当たるのか、それは長年法学者や法律家が常に議論している問題である。おおよその基準は最高裁判所が判断した基準が用いられる。(最高裁じゃなくても下級審で決めた判断が使われることはままある)。
未遂罪なども行動のどこからが未遂なのか、学術議論は尽きない。その中で裁判では基本は裁判例が基準になる。
そして基準となるその要件、判断の中に該当しなければその罪には問えないのだ。窃盗でいえば物を盗んだからと言って必ずしも窃盗罪になるとは限らない。もちろん他の罪に該当することだって大いにある。
盗んだのなら窃盗でいいじゃないか、罪をやったと本人が認めているなら有罪でいいじゃないか。
これは違う。司法がアバウトな基準で判決を出したら、それは公権力による不当な権利侵害になってしまうのだ。世論がなんと言おうと、司法は国家権力である以上決められた裁量以上のことはできない。法律ではこうなっていてそのためにはこういったことが必要で、満たしていないけども被害者が可哀想だからお前は有罪だ。
あるいは、どう頑張っても今の法律、司法制度のもとでは無罪だから無罪にしたけど、世間がうるさいからやっぱり有罪にするね。
これは一番やってはいけないことだ。
この間、秋田県警が条例の条文上の“公共の場で“という文言に校内が当てはまらないとして立件を見送った。
立件とは裁判以前のことだ。裁判を起こしても無罪になってしまう恐れが高いのなら前述の通り裁判を起こすことにはデメリットが多い。
ここでずっと例として罪がないのに裁判がされたらという仮定を書いてきたが実際は相当の証拠がない限りは起訴はされない。勿論、今回のように全くのシロって場合は少ないだろうし、不起訴理由は証拠がないから以外にも有り得る。そういった件については課題でもある。
最近頻発する性犯罪被害とその裁判における無罪判定。これに怒りを覚える人々がいてもおかしくはない。犯罪が行われ被害者が精神肉体的苦痛等の不利益を受けていながら刑事罰がなされない。納得いかないのも当然だ。
ただ、裁判の中身もみず、裁判に関する前提を無視してに性犯罪が無罪=不当であるという短絡的な批判をしている人もいるのではないか。過度に感情的な批判もあるような気もする。過度な批判を見ると、性犯罪は全て有罪にしろ無罪判決は取り消せとでも言うような意見すら散見される。
様々な論点や批判はあって当然であり、知識がない人間が口を出すなという問題でもないだろう。
ここまで知ったような口で色々書いてきたが私自身法律を多少かじった程度に学んでいる人間だ。
だが、学者や専門家も論じているようなものを、経緯や前提をも知りえないで批判するのは論点や方向性が違ってきてしまうのではないか。
小林弁護士のツイッター発言が批判されているが、私は彼の発言内容を否定できない。
多分法的知識や前提を丸無視した感情論だけの批判を見ていれば嫌気もさすし、勉強もせず法について語られれば専門家からしたら悩ましいことだろう。
だが、過度な感情論から起こる一部の行動を目にして発したのが自身も感情に任せた言葉を選ばない表現だったのはよくないと思う。
生物学も化学も理解してない一般人が、1歩間違えば命に関わる民間療法を提示して、医師や医学知識あるものが科学的根拠をもってそれを制しようとするのを、これを認めないのはやぶ医者だ、医者にとっては知られたら医者が儲からないから止めてくるんだ、あいつは知識が遅れている、等の批判をしてきたらもう知ったことじゃないとも思うだろう。
だからと言ってじゃあせいぜい病気になってくださいねなんて嫌味を言うのは大人げのないことだろうし、死んでくださいなんて不謹慎なこと医者は言うべきではない。
弁護士だって法律知識があるからと言って、法を知らない人相手に上から目線になっていいわけではないだろう。
全てが全て無罪になることはなければ、全てが全て有罪になることも無い。また特定の犯罪にだけ忖度がかかっているということもないだろう。当然、処罰規定が甘いだとか、要件に疑問があるという声は上がるべきだ。しかし本気で考えていくならどうしてそういう規定になっているのか、どういう背景なのか等を調べるのは自然なことだと思う。
犯罪者に人権は要らないとかって真面目に言うならちゃんともたらす結果についてとか、何故憲法が保障してるのかとか調べるのも大切だと思う。
刑事罰が認められるのは他にも有責性と違法性が必要なんだけど今回は割愛。
あと刑事はそういう証拠を認めさせるのが厳格なものだから認められないことがあっても、民事では両者間のやりとりで事実が認められればいいだけなので勝てることはあること。
ここまで書いておいて色々間違ってたらごめんね
・それらは自分の嫌な記憶と繋がるからで、笑いにすらして欲しくない
・嫌な行動をするキャラクターも嫌いになる
・反論は認めない(主観なので当たり前)追記として、規制を求める物でもない
という事になるが、これでは他の言及が一切の意味を成さない為、より深い考察を提案する。
①ナゼ、触られたり見られるのが嫌なのか?
あらゆる状況でそうであるかどうかを考え、その理由を認めるのは非常に難しいだろう。しかし総てを否定し、許可が要るのであれば、人類は絶滅する事に考え至って欲しい。
大袈裟でもなんでもない。残念ながら種の繁殖を公権力や資本が管理する社会にも未来はないのだ。
②嫌な経験とキャラクターの行為にはどのような関係があるのか?
これは非常に簡明であるので、ぜひ自分を分析して気付いて欲しい。苦痛であるのなら、好きな経験や楽しかった事との関係から始めると良いだろう。
そうして、それが解析できた暁には残念ながら漫画を卒業する事になるかもしれない、と述べておく。嫌な経験だけでも、その逆だけでも作品は成立しないからだ。
これを考える事ができないのは、通常の教育課程で文章の読解は行うが、漫画については行わないせいもあるかもしれない。
本来であれば教育されるべき性質のものでもなく、且つ又、執筆側の思惑を読者が汲まねばならいのは、ある意味で作品として失敗とも言えよう。
しかしこの日誌は自らの内面に踏み込んでいるため、そこで終わらせず、更なる先を理解できれば多くの描き手は本望ではないかと思う。
セワシ君問題の解答候補「セワシ・タイムパトロール隊員説」まとめ・その2
☆ https://anond.hatelabo.jp/20190502082818 の続き
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◇ドラえもんの所有するひみつ道具は「未来デパートの商品」などではなく、政府機関・軍隊・T・Pなど、公権力だけに製造・所有・使用が許可されている非買品である。ドラえもんがその所持を許されているのは、前述の通り英雄の特権であり、その使用はT・Pによって絶えず監視されている。
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そもそも「未来デパート」というブランド名がおかしい。22世紀の人間にとって、22世紀は「現代」なのだから。余談だが韓国には現代グループ資本の現代百貨店というのがあるそうだ。
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危険なひみつ道具の民間所有、特に個人所有が許されているはずがない。特に、時間犯罪を可能にするタイムマシンは製造・所有・使用が厳しく制限されているはずである。
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ドラえもんがひみつ道具を「注文」をすると、T・Pによる審議を経て許可されたひみつ道具だけが「未来デパートから配送された」という体裁をとって送られてくるシステムだろう(許可されなかった場合は在庫切れとかなんとか口実をつけて購入できない)。ドラえもんも騙されている可能性が高い。この裏舞台こそがひみつ道具の「秘密」だろう。
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ヒーローマシンのグラフィックがショボかったのも官制品だからかもしれない
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そもそもセワシの家が貧しいなら、いくつもひみつ道具を持っているのはおかしい。
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ドラえもんに危険なひみつ道具の所有が許されているのは、前述の通り、それが歴史の安定に必要と判断された故。
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他の未来人がひみつ道具やタイムマシンを利用しているような描写もあるが、ドラえもんたちほど無制限には使えないはずだ。
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ドラえもんのひみつ道具使用についても、T・Pよって24時間監視されており、深刻な影響(少数人命の被害程度は容認)があると判断された場合はひみつ道具の強制機能停止か、T・Pによる被害の修復・隠蔽工作が行われているはずだ。秘密裏に。
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おそらく、ドラえもんのひみつ道具は遠隔操作で外部から機能停止できるようなバックドアが設けられており、いざというときはT・Pのオペレータが強制的に機能停止をしているはず(壊れた・電池切れという体裁をとって)。秘密裏に。
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コメントでもあったけれど、宇宙の彼方に飛ばされたバイバイン栗まんじゅうは、タイムパトロールが密かに回収し、解除薬剤のようなものを使って無害化しているはず。秘密裏に。
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時間犯罪者達の持つひみつ道具やそれに準ずるメカは違法開発・違法改造したものだろう。
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気になるのは「ドラビアンナイト」で船乗りシンドバッドが助けたというタイムトラベラーだ。彼はただの旅行者ではなく、任務中に遭難したT・P隊員か政府職員、あるいは時間犯罪者である可能性が高い。
もし彼がT・P隊員だったとすれば、彼がシンドバッドに多くのひみつ道具相当の"王様のコレクション"を与えたのは単なる謝礼ではなく、シンドバッドもまたドラえもん・のび太と同じく、歴史の安定に必要な因子と判断され、利用されているのだろう。
そうなると、絵本世界に入ったはずのしずかちゃんが、現実世界のバグダードに現れたのも、怪奇現象ではなくT・Pの差し金と考えられる。四人はしずかちゃんという餌に釣られて、まんまと呼び寄せられたということになる。
その目的はシンドバッドの保護とアブジルの打倒。アブジルはいわゆる時間犯罪者ではないが、歴史の安定にとって危険な存在なのだろう。歴代ヴィランの中でも、アブジルはずる賢く直接戦闘にも優れた強敵と評判である。倒されなければ歴史を揺るがすとんでもない事件を起こしていたのかもしれない。
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※追記 islecape様の情報より。なんと、ドラえもんは「気象庁専用」と書かれたひみつ道具「天気決定表」を所有していた!そんなものが民間に出回っているはずがない。やはりドラえもんのひみつ道具は公権力に与えられたものとみて間違いないだろう。
※さらに追記 コメントでご指摘。「気象庁専用」というのは「子ども銀行」みたいなジョークかも。
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「セワシT・P説」とは相反するが、「未来デパート」は合法的な店舗などではなく、違法にひみつ道具の売買をしている闇マーケット・非合法組織の類であるという説もある。「未来デパート」とは正規の店の名前ではなく、T・Pによる捜査の目から逃れるための暗号名のようなものであると考えると、ネーミングのおかしさも納得である。ひみつ道具の外見が子供向けのオモチャのようで、その名前のセンスが小林製薬のようなのも、T・Pの目を欺くためのカモフラージュだろう。そして「ひみつ道具」の「ひみつ」とは「犯罪だからT・Pに見つからないように秘密にしなければならない」という意味ということになる。
当然、ドラえもんの違法行為にセワシが関知していないはずはないので、これは「セワシ時間犯罪者説」となる。その場合、ドラえもんが堂々とT・Pと会っている理由が謎だが。ひみつ道具を買うのに必要な資金も時間犯罪で稼いでいるのだろう。時間犯罪で金を稼ぎつつ、その金で次の犯罪に必要なひみつ道具を買うというサイクルだ。「セワシ時間犯罪者説」ではセワシの真の目的は自らの時間犯罪の協力者にのび太を仕立てることだろうか。
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◇ドラえもんの耳と体色と声が修理できないということになっているのは、それらの欠損がドラえもんにとっての「英雄因子」であるとT・Pに信じられており、修理すると歴史に悪影響があると判断されたから。
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正史には「耳を失い、体色が変わり、声が変わってしまったネコ型ロボット」としてのドラえもんの活躍が書かれていたのだろう。そこを改変すると歴史全体に何かマイナスの影響があると判断したのだろう。
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なにかしらのトラウマ体験、肉体的な欠落など、人生に負債を背負っていることが英雄の条件と考える発想は古代からある(例えば英雄ヘラクレスは女神ヘラに気を狂わされ我が子を自分の手で殺してしまった)。耳をかじられたトラウマこそがドラえもんの英雄因子であるとT・Pや政府要人が判断しても不思議はない。T・Pのトップが合田一人みたいな人なのかも。
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修理工場の修理工達や製造メーカーはT・Pからの工作で「修理できない」と嘘をつき、全員で口裏を合わせている。非協力的な人間には抹消(T・Pぼん参照)処分があったかもしれない。
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賢いドラミちゃんは事の真相に気づいているが、T・Pの報復を恐れてドラえもんに真実を話せないのだろう。悲しいね。
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アンチ新ドラじゃないけどやっぱり大山ドラは味があっていいよね。
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◇のび太とドラえもんが歴史の英雄であることは、トップシークレットであり、彼ら自身にも伏せられている。
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ビギナーズラックという言葉もあるように、未来世界や時間犯罪に無知である方がかえってプロの捜査官であるタイムパトロール(以下T・Pと表記)にはできない柔軟な発想ができるという考えなのだろう。
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「自らが英雄であることを知らないまま世界を救う英雄」というのはトリックスター的でもある。
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また、のび太とドラえもんがT・Pの協力者であることが暴露すると時間犯罪者に命を狙われる危険もある。
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◇T・Pも無制限にドラえもんたちの行為を容認しているわけではなく、歴史に深刻な影響(少数人命の被害程度は容認)があると判断された行為にはストップをかけている。空想動物の徴収など。
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おそらく24時間ドラえもんたちの行為は監視・分析されているはず。
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◇セワシT・P隊員説が正しいとすると、「ドラえもん」は「SF(すこしふしぎ)生活ギャグ漫画」の皮をかぶった「時間旅行系ハードコアSF(サイエンスフィクション)漫画」ということになるだろう。
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作者・藤子・F・不二雄の大人向けSF短編集の内容や、彼の幅広い文学に対する造詣と関心を考えれば、そういう背景設定があったことは想像に難くない。
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T・Pぼんや藤子・F・不二雄先生のSF短編集は面白いからみんな機会があったら読んでみてね♪
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◇セワシT・P隊員説というのは詰まるところ「ドラえもんはギャグ漫画であって、のび太は世界を救うヒーローじゃない」というのはやっぱり嘘だったという話だ。
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「世界を救うのはもうやめた」マリーのアトリエでも結局魔王倒してるし(任意だけど)、「俺たちは、正義の味方、なんかじゃない」リジョイスも結局魔王倒してるし、つまりそういうこと。
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※返答2
https://anond.hatelabo.jp/20190503093926 "「恐竜狩りはスポーツとして大人気なんだ」と「恐竜狩りは犯罪でTPに捕縛される」の矛盾はどうなんだ"
この説で言うと、「恐竜狩りは犯罪でTPに捕縛される」が真実で、「恐竜狩りがスポーツとして大人気なんだ」の方がウソだったということになります。ドラえもんに与えられた「子ども騙し」設定の一種でしょう、そういう話をすればのび太が喜ぶだろうと考えての。その後都合が悪くなったので、全員の記憶改竄が行われたはずです。
id:islecape ご注意ありがとうございます。 そうですね、書いてあるから正しいとは限りませんしね。 ただ、「天気決定表」のドラえもんのセリフに22世紀では気象庁が天気を決めているというような趣旨のものがあるらしいので、もしそうならそれも傍証になると思います。
https://www.nikkei.com/article/DGXDZO45715160U2A900C1MM8000/ 孫引きですみません。
"Web等で喧伝される極端なドラミあげドラさげって片倉設定由来みたいな気がする" なるほど。
なんというかドラミちゃん自体が、結構微妙なポジションな気はします。例えばジャイ子なんかは出番が多い文、初期の役割を脱した、キャラの深みを与えられたのに対して、ドラミちゃんは出番が少なくて、「劣等生な兄と比べられる優等生な妹」という初期に役割として与えられたキャラ付けを脱せなかったんじゃないかな~、なんて思います。関係ないけど私は「ミニドラSOS」が他のドラ映画と比べてもかなり好きです。子どもだけの冒険って雰囲気がして。
https://anond.hatelabo.jp/20190506045507 すみません"真相"は不適切なので、各論に変えました。あと筆者、男です。
◇ドラえもんの秘密道具は「未来デパートの商品」などではなく、政府機関・軍隊・TPなど、公権力だけに製造・所有・使用が許可されている非買品である。ドラえもんがその所持を許されているのは、前述の通り英雄の特権であり、その使用はTPによって絶えず監視されている。
→そもそも「未来デパート」というブランド名がおかしい。22世紀の人間にとって、22世紀は「現代」なのだから。余談だが韓国には現代グループ資本の現代百貨店というのがあるそうだ。
→危険な秘密道具の民間所有、特に個人所有が許されているはずがない。特に、時間犯罪を可能にするタイムマシンは製造・所有・使用が厳しく制限されているはずである。
→ドラえもんが道具を「注文」をすると、TPによる審議を経て許可された道具だけが「未来デパートから配送された」という体裁をとって送られてくるシステムだろう(許可されなかった場合は在庫切れとかなんとか口実をつけて購入できない)。ドラえもんも騙されている可能性が高い。
→そもそもセワシの家が貧しいならそういくつも道具を持っているのはおかしい。
→ドラえもんに危険な秘密道具の所有が許されているのは、前述の通り、それが歴史の安定に必要と判断された故。
→他の未来人が秘密道具やタイムマシンを利用しているような描写もあるが、ドラえもんたちほど無制限には使えないはずだ。
→ドラえもんの道具使用についても、TPよる24時間監視があり、深刻な影響(少数人命の被害程度は容認)があると判断された場合は道具の使用停止か、TPによる被害の修復・隠蔽工作が行われるはずだ。
→おそらく、ドラえもんの道具は遠隔操作で強制停止できるような機能がついており、いざというときはTPが使用停止できるようになっているはず(壊れた・電池切れという体裁をとって)。
→気になるのは「ドラビアンナイト」で船乗りシンドバッドが助けたというタイムトラベラー。彼はただの旅行者ではなく、任務中に遭難したTP隊員か政府職員、あるいは時間犯罪者である可能性が高い。もしTP隊員だとすれば、彼がシンドバッドに多くの道具を与えたのは単なる謝礼ではなく、シンドバッドもまたドラえもん・のび太と同じく、歴史の安定に必要な因子と判断され、利用されているのだろう。そう考えれば、絵本世界に入ったはずのしずかちゃんが、現実世界のバグダードに現れたのも、怪奇現象ではなくTPの差し金だろう。四人はしずかちゃんという餌に釣られて、まんまと呼び寄せられたということになる。その目的はアブジルの打倒。アブジルはいわゆる時間犯罪者ではないが、歴史の安定にとって危険な存在なのだろう。
◇ドラえもんの耳と体色と声が修理できないということになっているのは、それらの欠損がドラえもんにとっての「英雄因子」であるとTPに信じられており、修理すると歴史に悪影響があると判断されたから。
→正史には「耳を失い、体色が変わり、声が変わってしまったネコ型ロボット」としてのドラえもんの活躍が書かれていたのだろう。そこを改変すると歴史全体に何かマイナスの影響があると判断したのだろう。
→なにかしらのトラウマ体験、肉体的な欠落など、人生に負債を背負っていることが英雄の条件と考える発想は古代からある(例えば英雄ヘラクレスは女神ヘラに気を狂わされ我が子を自分の手で殺してしまった)。耳をかじられたトラウマこそがドラえもんの英雄因子であるとTPや政府要人が判断しても不思議はない。
→修理工場の修理工達や製造メーカーはTPからの工作で「修理できない」と嘘をつき、全員で口裏を合わせている。非協力的な人間には抹消(TPぼん参照)処分があったかもしれない。
→賢いドラミちゃんは事の真相に気づいているが、TPの報復を恐れてドラえもんに真実を話せないのだろう。悲しいね。
→アンチ新ドラじゃないけどやっぱり大山ドラは味があっていいよね。
◇セワシエージェント説が正しいとすると、「ドラえもん」は「SF(少し不思議)生活ギャグ漫画」の皮をかぶった「時間旅行系ハードコアSF(サイエンスフィクション)漫画」ということになるだろう。
→作者・藤子F不二雄の大人向けSF短編集の内容や、彼の幅広い文学に対する造詣と関心を考えれば、そういう背景設定があったことは想像に難くない。
誰も結託してるなどと書いてないが………
フェミが公権力とすら関係のない、ロジックも根拠もない表現攻撃をしてることをスルーし庇いだてするヘイターのいうことなど聞くに値しない
これまで散々他人の人権を踏みにじったフェミに人権って必要かな?
そして相手を引きこもりだと決めつけなきゃ死んじゃう病気かな………
何回でも言うが、オタクにも表現の自由があり、それを侵すことは基本的人権の侵害。社会の道理?わかってないのはお前だろ。人権を憎むクズめ。
てか、そんなにオタクの人権を憎むんなら自分がそういうコンテンツ一切見えない所に行けばいいじゃん。この国には表現の自由があるから、それがない国に行けよ。
中学校で理科教師(講師)をしていた。子どもは好きだし教える事も嫌いじゃない。教師は意義のある仕事だし頑張ってる先生も多い。
だけど、何が一番嫌だったかと言うと『公権力への忖度』なんだよな。おれの勤めてた学校では『社会科』『国語科』『音楽家』の先生が優秀だった。
あるとき1人の社会科の先生が業務効率化の提案をしたのだけど、管理職のせいで全く受け入れられなかった。
教頭も校長も『体育科』上がりのワンマンで、頭も悪くてクズ。教育委員会の人間も似たような感じだった。本当に保守的であれじゃあ何も変わらない。
そんなクズに忖度し続ける人生は嫌なので、教員採用試験を受験するのを辞めて、都内の外資系IT企業に転職した。
転職してから4年、今は教員の給料も遥かに超えているし、教員に比べて業務量も少ない。年収で言うと800万円くらい。
とはいえ金に困ってる訳でもないし、教育は意義のある仕事。たとえ給料が安かろうが「働いてもいい」という気持ちになる事もある。もともと教育が好きなのかもしれん。
だけど、それにしても講師の給料は安すぎだし(月収30万ちょいで頭打ち)、何より保守的な上に忖度を求められるから、気持ち悪くてやってられない。
あれじゃあ教師という仕事に魅力を感じている若者も、講師でさえもしなくなると思うよ。
学校は少子化にも関わらず教師不足で、その原因は体力的にも精神的にもキツイからだと思ってる。教員は「全ての業務がアナログ過ぎる」ので、業務量も非常に多い。
毎日の部活動、出血確認、配布物、行事などは効率化できる部分は多くある。
たとえば、部活動は外注すればいいし、出血確認はオンラインで自動で行う。配布物は全デジタルにすれば良いし、行事(運動会・体育祭)なども手軽にできる簡素なものにする。
精神的な部分はモンスターペアレンツに対しては、モンスターティーチャーになって対応。親に細かい事はギャアギャア言わないようにする。教育委員会も教師そ守るバックアップをする。
そんな風にして極限まで教師の負担を減らせるように環境をセットアップ。
これなら俺も「また教職に戻ってもいいかな」なんて検討できる。まあ何処の自治体であれ、こんな改革できるところなんてないだろうが。
業務を遂行する上で合理的な理由があるならば。相当、難易度高そう
公権力を形成する地位の国家公務員など外国籍が適当ではない職ならば要件に含まれても致し方なしだけど、これは違うのよね?
実際に採用されているかは別として、それ以外の公務員であれば外国籍でもなれるので、民間の業務での妥当性のある職は存在しなそう
こういう求人してもいいの?
自由やで?
もちろん、職業安定法第5条の4及び、平成11年告示第141号 (社会的差別の原因となるおそれのある個人情報などの収集)に該当するので、
職場における女性が従軍慰安婦的な扱いになっていて、仕事のストレスは女性社員(あるいは取引先とか周辺の女性)で発散、みたいな構図になっている。
昭和の日本ってやばい国だったんだよね。仕事中にセクハラして愛人作って、それで経済大国で、ジャパン・アズ・ナンバーワンだぜ、ってとんでもないアナーキーな国だったんだよね。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』って映画があったけど、かつての日本って国全体があの映画みたいな状態だったわけだよね。
島耕作って今後はそういう風に読まれるようになると思うよ。経済成長していたころの日本がいかに無秩序だったか、って。極東のアジアに、とんでもない国があったんだよね。
昭和がひどくて、今は開化されている、というのは、いわゆる切断操作っぽい立ち位置にみえるんだけど、ほんとかな。
確かに、昭和のほうが、猥雑なもの、汚いものがよく目についた。
新宿から歌舞伎町あたりを歩くと、そこらじゅう吸い殻や空き缶、チラシ、ガムが落ちていた。
今の時代は、表面的にはきれいになってきているけど、暗部がますます見えにくくなっているだけじゃないのかな。
歌舞伎町浄化作戦の頃、店舗型風俗が消えて、派遣型になったあたりが時代の境目で象徴的だと思う。
技能実習生は徴用工問題と地続きだと思うし、セックスワーカーの性奴隷的な扱いについても、
興行ビザで入国するアジアの女性たちが、慰安婦の時代よりマシなのか疑問に思うところもある。
貧困からセックスワーカーになるプロセスはそれほど改善されているようでもなさそうだし。
性の消費という観点からみればポルノもずいぶん様変わりしたけど、昭和の時代よりよくなったとはとても思えない。
ポルノ映画館は化石となり、街はきれいになったかもしれないけど、パソコンを開けばネット上に日々あふれかえるポルノがある。
それこそ昭和の比ではないのだけど、わいせつなものが表にでてこなくなったので、もはや公権力が管理する術がなくなっただけ。
そういうのを秩序だった社会とは誰もいわないと思う。
今はただ、昭和ほど現実を作品として可視化しにくいのだろうか。今のリアルな現実を映し出す作品が脚光を浴びていないだけなんじゃないかな。
籠池夫妻が、2015.9のゴミ埋め戻しの件を知る中道組から酒井弁護士を紹介されて、埋め戻しの件を盾に近畿財務局に対して恫喝を始めた瞬間の交渉記録。
(2016.3.11)
〇応接日時 平成28年3月11日(金)15:30~15:50
豊中市野田町1501番地、土地:8,770,43㎡(大阪航空局処分依頼財産)
工事業者と打合せをしているが、本地には撤去してないゴミがまだ埋設されており、それを撤去しないと校舎が建築できないことがわかった。
設計業者から伺ったが、ゴミが地中に残っているのは、財務局から全部取るなという指示が出たと聞いている。ゴミを撤去する費用がかかり、更に工期も伸びてしまう。
どういうことだ。また、だましたのか。
相)9月4日に業者([黒塗り][黒塗り])と財務局と航空局で打ち合わせをしている。
当)誤解があるかもしれないので、9月4日の件は確認させていただくが、業者から今までその内容を聞いてなかったのか。
相)議事録は本日、初めて確認した。国で何とかすべきものだろう。
相)支障があるから連絡しているのだろう!(激高)現地で確認しろ。
週明けの月曜日は如何か。
相)(調整後)3月14日、月曜日の16:00に現地に来い。
以上
*
毎日新聞 - 森友学園 財務省が国会に提出した交渉記録のPDF
https://cdn.mainichi.jp/item/jp/pdf/20180523moritomo.pdf
の808pより(pdf上では818p)。
*
ちなみに810pには3月14日、籠池夫妻が(おそらく)酒井弁護士を伴って近畿財務局に乗り込んできた様子が記録されている。
2015.9.4のいわゆる「場内処分」を学園側に黙って行った件を突かれているが、近畿財務局は
「工事業者は学園の代理人だと思っていたので、当然報告されていると思っていた」と苦しい言い訳をしている。
籠池氏の証人喚問とも一致する。
*
【籠池泰典氏証人喚問】詳報(24)「公権力が私に“人権的な圧力”をかけてきた」『悪いヤツや』とレッテル貼られて…」(1/3ページ) - 産経ニュース
https://www.sankei.com/politics/news/170324/plt1703240010-n1.html
この点は、全くそのとおりだと思う。
もし、管理売春の業者に対する公権力側の監督責任という面が【現代的な意味での奴隷】として定義されて、責任を問われるのであれば、
売春防止法以降の、事実上の管理売春の容認から斡旋業者の放置、それらも論理的には同罪ということにならなければおかしい。
戦時の慰安婦だけの問題ではない。では、なぜ売春全般の話にならないのか。
売春防止法の制定の背景として、管理売春そのものが国際社会から悪とみなされていたがゆえに、
国際社会への早期の復帰を目指していた日本は、GHQから公娼制(管理売春)が廃止されて以降、法の制定を急ぐ必要があった。
しかし、売春そのものに対する罪悪感は日本人には微塵もなかった。むしろ吉原など貴重な観光資源だと行政も認識していた。
売春防止法施行直前の55年、新聞社が開催した「吉原を語る座談会」において、地元と議会議員らが次のようにアドバイスしている記録がある(婦人新風1955年4月号)。
みつ豆でも気軽に食べにゆける吉原でなければならないのじゃないか・・・気軽に遊びにいって、そして飲んだり食べたりしているうちに最後にお互い同志気があったときに目的を達するというふうにすればよい。
当時は、東京都も警視庁も、吉原を観光資源として積極的に活用していこうという感覚だった。
こうした過程を経て制定された同法は、風営法とセットで完全なザル法。今に至るまで。
赤線がトルコ風呂と名を変え、トルコ風呂がそーブランドへ名を変え、名前は変わっても実態は管理売春の黙認だ。
現在でも、サービス提供する施設に寝泊まりさせられているなど、一昔前だとジャパユキさんと呼ばれ、
いわば監禁同然の扱いで働いている出稼ぎ外国人女性が存在する。それは興行ビザで来日しているフィリピン人であったり、韓国であったり、中国であったりする。
個人的には、アダルトビデオについての人権問題も含めて、日本の風俗産業のあり方を行政として放置していることのほうが、我々世代の責任問題だし、よっぽど気になる問題。戦時世代の悪のついての責任よりも、だ。
ところが、同じ論理だからといって、現在の日本の管理売春の黙認を、現代の奴隷制だとして、非難されているかというと、、
実は、アメリカの国務省の人身売買報告では、かなり以前から非難されている。
技能実習生とセットでね(余談だが、技能実習生についても、結局、問題の根っこは同じで、戦時の徴用問題とパラレルだ。)
そして第一次安倍政権のとき(05年頃)にも日本政府としての対応が迫られていた。外圧に近い形で法整備が求められた。
日本政府は、国際組織犯罪防止条約の「人身取引議定書」と「密入国議定書」の批准を受けて、刑法を改正し、2005年、人身売買罪を創設した。
この制定過程において、05年6月8日の国会の法務委員会で次のような答弁がある。
○江田委員 ・・・人を支配する行為全般について、この人身取引に対して実効性のあるものに今回の法改正はなっているということでございます。
次の質問をさせていただきますけれども、この人身取引議定書の要請を満たすため、これにつきましては単に形式的に文言を対照するだけでは私は足りないと思いますが、人身取引議定書の理念を十分に取り込んだ法律やその運用になっていなければならないと考えております。
・・ 売春をさせている者が、この外国人女性は売春することに承知しているんだ、同意しているんだから人身取引とは言えないだろうというふうに開き直るケースが多いと聞いております。成人の女性が家族を貧困から救うために、親からの働きかけなしに自発的にみずから売春を希望して売られたような場合など、人身売買について被害者の同意がある場合のようにも見えます。
しかし、・・人身取引議定書が、「女性及び児童に特別の考慮を払いつつ、」と規定していることからしても、女性や児童の特性を考えて、売春をすることについて承知しているとの事情、これを過大視するというのはいかがなものかと・・、今回の法律案につきましても、売春をすることについて同意をしている場合であっても人身売買罪が成立するのかどうか、そこを法務当局にお伺いいたします。
○大林政府参考人 御指摘のような事例におきまして、表面上被害者がみずから売春をして金銭を稼ぐことに同意していたといたしましても、本来は、不特定多数の相手方と性交等を行うことなどを希望しているものではなく、家族を貧困から救うため金銭を稼ぐには売春によるほかはないと考えてやむなく売春に及ぶに至ったと見る事案がほとんどであろうというふうに思われます。このような場合には、被害者の同意は自由かつ真摯な意思に基づくものとは認めがたく、当然に犯罪の成立が否定されるものではない、このように考えております。
○江田委員 ・・今、法務省の方からは、その事情を考慮して、勘案して、売春をすることに同意している、そういうふうに見かけられる場合であっても人身売買罪は成立、適用されるということでございますので、私どもの申し入れの内容にも沿った法律案の改正になっているかと思います。実効性が上がることを期待しております。
売春行為が好きでそうした職業につくことなど、そんなに多くは考えられないだろうから、貧しい国からの移民のケースでは、多くの場合に適用がありそうだということになる。
人身売買罪の創設は、対外的なアピールとしては政府として大きな動きだったとは思う。
しかし、アピールとしはそうかもしれないが、風俗に関するさまざまなザル法は放置され続けている。
出稼ぎ外国人の母国はどう対応しているか、というのも気になるだろう。
同法の制定過程において、出稼ぎ労働者の有力な送り出し国のひとつ、フィリピン政府は、当初「就労機会を奪うな」などとごねていて、実態把握の動きが遅かったという報道はみたことがある。なるほど、そういう背景は重要だなと思う。
慰安婦問題に戻ると、私は、いつになったら、慰安婦問題が現在進行形の風俗問題に飛び火するんだろうという視点で十数年前から関心をよせていた。
しかし、そういう気配は微塵もないなかで、慰安婦というフレーミングだけがヒートアップしていったように思う。
慰安婦の問題に封じ込めたいというメカニズムがどこかに働いているんだろうとは思う。
それは社会的にも経済的にも、そして文化的にもいろいろあるんだろう。
我々の心理かもしれないし、自国もしくは相手国の政治経済的な背景かもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20181020134642
とりあえず反論を考えてみた。おそらく、所々ボロもあると思うので、そこは指摘してくれ。
まず、
元増田は郵便配達モデルをIPブロッキングと比べているが、少し指摘したい部分がある(瑣末かもしれない)。
ここでは、北朝鮮という"国"がブロックされる宛先の例として挙げられているのだが、これは認識がズレている気がする。
・住所 = ドメイン
と並置されるので、「特定の緯度/経度(住所)への郵便配達が禁止となる」という感じだ。
"国家"を対象にすると、話が大きく変わる(特定の国同士のネット通信遮断みたいな話になる)と思うので、第一にここは正確に比較すべきと言いたかった。
個人間の通信(信書・電話・電波・電子メールなど)の内容及びこれに関連した一切の事項に関して、公権力や通信当事者以外の第三者がこれを把握すること、および知り得たことを他者に漏らすなどを禁止すること。通信の自由(つうしんのじゆう)の保障と表裏一体の関係にある
とある。
通信の秘密は、「通信の自由(つうしんのじゆう)の保障と表裏一体の関係にある」というところに注目したい。
近代国家的な構図としては、初めから"国家権力(権力領域増やしたい)"と"市民たち(自由にできる空間増やしたい)"が対立しているところから、話がスタートする。
なので、郵便と構造が似ているからといって、それは国家が介入することの妥当性を意味しない。
それは明確に別の領域であり、参照こそすれど、別に考えるべきだと思われる。
(あと、やはり "物理" と "情報" の違いは大きい。"裸で街を歩くこと"と"裸の写真を街に置くこと"くらいに違うと思う。)
もうネット空間はソドムとゴモラ並みの無秩序だから、規制もやむなしという意見はもちろんありうる。
しかし、それは国に「"特定のIP"へのアクセスを暴力的に排除する」権利を移譲することであり、副作用が懸念される。
正直、この国が法律に関して、
ってのを、きちんとやってくれるならいいんだけど、Coinhiveの一件などを鑑みるに、国家にIT絡みの権利を渡すとあんまいいことなさそう...という不信感も反論の一因である。
新潮45自体を潰さなくてもいいじゃないかという意見はまぁあるが新潮社にだって無理に存続させる義務もないだろと。
営利企業が悪評のついたブランドを一旦休止するなんて普通じゃない?
「表現の自由」は一般人が横槍を入れにくい公権力の介入に対して歯止めをかけるものであって、民間プラットフォームがそれをどの程度運用するかは個々の裁量の範囲内だろう。
もちろん、マスコミとしてある程度表現の自由を保障する責務はある。でも今の時代新潮45じゃなくても論説を載せる場所なんていくらでもあるでしょう。嫌なら自分のブログやTwitterで意見垂れ流せばいい。(現にそうされているようですが)
一言でまとめると「自分が支持し、主張する立場の恣意性(非論理性)に無自覚な人間が多すぎる」。
青識亜論まわりでいま丁度燃えているけど、個人的な印象論の範疇で言えば、フェミニストやLGBT側の立場の人間は、「自分が他者を抑圧している可能性」というものに無自覚すぎるんですよ。
「自分が、自分自身にとって大事だと思う権利を守るために、それを侵害する他者の権利を抑圧する」、これ自体は別に珍しくもなんともない。だけど、それを無自覚にやるのは流石に問題がある。丁度、「ラノベの表紙が気持ち悪い」「LGBTが気持ち悪い」「殺人」を等価に置いた社会学者がいたよねという話題でもそれは結構散見される。
今更こんなことを言わなきゃいけないくらいに人類の知性は発展してこなかったんだという事実を目の当たりにするのは悲しいけれど、「論理的に等価である」というのは別に珍しくもなんともないんですよ。
「LGBTが気持ち悪いと思う権利」も、「ラノベの表紙が気持ち悪いと思う権利」も、誰にだってあるんです。
そこから一歩進んで、「LGBTが気持ち悪いと発言する権利」も、「ラノベの表紙が気持ち悪いと発言する権利」も、誰にだってある。ただし、そこには発言したなりの責任が伴う。「LGBTが気持ち悪い」と発言することによって、LGBTである人々を抑圧することはあるでしょう。それと同じことで、「ラノベの表紙が気持ち悪い」と発言することによって、ラノベの表紙を描くことをライフワークにしているイラストレーターさん・ラノベの表紙によって生きる糧を得ている人々(ざっくり言うと女性から切断された「キモくて金のないおっさん」を例に挙げておきますが、もっと単純にそれを単純に「いいイラストだなー」と思いながら受容する人々[男女問わない])を、抑圧することもあるでしょう。
では、その二つの何が違うかって、「何かを気持ち悪いと発言することで、どれだけの存在を保護しようとしているのか。そうすることで、どれだけの存在を切り捨てることになるのか」という違いでしょう。
LGBTへのヘイト発言を禁止することで救われるLGBT当事者の気持ちの価値は、LGBTへのヘイト発言を禁止された人々の気持ちの価値を上回る。LGBTに対するヘイト発言は、LGBT当事者を下手すると死にすら追いつめてしまう可能性があるし、そういった想像は容易だからだ。
では、それと論理的に等価であるところの、「ラノベを気持ち悪いと発言する」ことの場合はどうなのか。ラノベを気持ち悪いと言われることで抑圧される対象は、発言を受けたことでLGBT当事者と同程度に守るべきなのか。これは個人的な見解だが、同程度の重みを持たせることは、少なくとも想像の範疇では難しいのではないかと考えている(これは、あくまで個人の想像の範囲である)。
だけど、そこから一歩進んで、「気持ち悪いから規制すべき」という話になると、話は別だ。
「LGBTは気持ち悪いからその権利を規制すべき」となったら、まあ、少なくない人間が直感的におかしいと思うだろう。「気持ち悪い」という内心の権利を守るために、他者の人権を制限するというのは、保護法益のバランスが全く取れていない。
では、「ラノベの表紙が気持ち悪いから、ラノベの表紙を制限すべき」という話になると、直感的におかしいと思う人が減る、という印象が、本増田にはある。減る理由はわかる。当事者の属性の違いだ。LGBTである人々の存在は、少なからず想像がつく。フェミニズムが守ろうとしている「女性」という存在も同様である。それに対して、「ラノベを表紙を制限することによって抑圧される人々」の存在がやや想像しづらいというのは、まあ、わからなくもない。
ラノベの表紙は「娯楽」である。娯楽に対して、LGBTというのは在り方そのものである。在り方そのものと、娯楽とであれば、そこの比重が異なるのはわかる。だが、世の中には、少数であっても、「ラノベの表紙を書くのが生業である人々」「ラノベによって救われている人々」が存在する筈なのだ。そこにあるのは、人類の数%(1億人近く)の権利を守るために、数千人の権利を縛るべきかどうか、という利益衡量の問題である。人類の半分である女性の権利を守るために、何千万人と存在するミソジニーな人々を抑圧すべきか。あるいは、女性の権利を守るために、ラノベに関係する人々の権利を抑圧すべきか。
ここで本増田が言いたいのは、「お前の発言で抑圧される人々がいるから、ラノベの表紙を気持ち悪いと言うな」という話ではない。
現実世界において権利と権利がぶつかるのは当然であって、そのような現実において、ある特定の立場の人々を「守らない」という選択をするのは、仕方がないことだとは思う。だけど、その「守らない」という選択をしたことから目を背けるのは、誰がどう取り繕ったとしても、欺瞞でしかありえない。
LGBTを気持ち悪いと思ってしまう人間にとって、それは仕方がないことだ。だが、発言した瞬間に、LGBTの人々を敵に回す覚悟が必要だ。
それと同時に、ラノベの表紙を気持ち悪いと思う人間が、それを口に出し、主張する場合、「他人を抑圧する」という現実から目を背けてはならない。
況んや、「規制すべき」という話になると問題はかなりでかくなる。ここに来ると、「規制すべき」という形で、表現の自由の問題が関わってくるからだ。
「表現の自由」は、誰かが誰かから抑圧されないための権利である(それは主に公権力であることが多かったが、それ以外の私的権力からの抑圧を防ぐためでもあろう)。それは、どんな人間にとっても、本来的に備わっているものである、と法学は人権の定義をそのように構築してきた。それを制限するためには、それなりの整合性、具体的には「保護法益がどの程度大きなものなのか」を精緻に検算しなければならないと、様々な判例の構築によってその線引きを見積もってきた。世の中の人々が考えている以上に、表現の自由はものすごく大きなものなのだ。
それに対して、気軽に「ラノベの表紙が気持ち悪いからそれを制限しよう」と言い出す人たちは、その権利の重さをどの程度理解しているのだろう。「ラノベの表紙が女性を扇情的に描くことで、女性蔑視・女性の「モノ化」・男尊女卑的な観念等を強化する」というのは理解できる。そして、それを守ることがそもそも男尊女卑的な、フェミニズムが批判し続けてきた構造権力を強化するから全く擁護できない、という話もわかる。
だけど、それを主張することで、逆に自分たちが誰かを抑圧する可能性について無自覚か、目を背けているひとが多すぎやしないだろうか。
最悪、抑圧が発生するのはいいよ。民主主義ってものは絶対に少数派の意見を切り捨てる(厳密に言えば、多数派は少数派の意見を最大限聞かなくちゃいけないのだが、本題から逸れるので一旦措く)ので、仕方がない、避けようがない部分もあろう。でも、「そもそも自分たちは誰も抑圧していない」と言いはじめるのは、何か違うんじゃないか?
俺が、青識亜論は少しむかつくけどそれ以上に彼を擁護したくなるのは、それが原因だ。青識亜論は特権性について何度も言及していた。市民社会において、どのプレイヤーも、プレイヤーとしては等価な筈なんですよ。市民が市民を抑圧することはできない。市民は抑圧に対して抑圧に反発する権利がある。その権利が、あたかも存在しないようにふるまう少数派が多すぎる。
せめて、「私は少数派の権利を守るために多数派の権利を抑圧する立場に立ちます」くらいの大上段はふるってほしいものだ。本増田はその権利を守る。