はてなキーワード: 公権力とは
あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告
さすが津田氏の本業だけあって、文章だと何を考えてどのようなことをしてきたのかがきちんと伝わってくる。普通に危惧されるくらいのことは可能な限り対処してきたのか、とか。これを読んでしまうと津田氏のトークやイベントコーディネートのスキルは文章力に比べて相当劣るように感じてしまう。
この文章で何度も出てくる「検閲」という言葉だが、他人の言葉の引用部分を除くと津田氏本人はかなり慎重に使っている。これは今回の炎上のキーポイントでもある。
辞書的な意味で検閲とは、公権力が表現物を検査し発表を禁止することである。
https://kotobank.jp/word/%E6%A4%9C%E9%96%B2-60273
しかしながら、図らずも今回あきらかになったように作品展示を中止する要因としては公権力ばかりではない。むしろ現代日本ではそれ以外の方が多いようだ。
(3) キュレーター
(4) アーティスト本人
(5) 一般市民
このうち公権力によるクレームや強制力によって排除されるのが狭義の「検閲」。
主催側の立場は「金は出すけど口は出さない」のが理想ではあり今回もわりとそうだった。ただし事業である限り本来の主旨に合わないものやデメリットがメリットを上回る場合は、主催側が展示会の方向性に意見する自由はあって当然。
キュレーターはむしろ何を展示して何を展示しないかの権限を任されているので、それを行使するのが本業。
アーティスト本人の意向。ときとしてキュレーターの意思よりもアーティストの意思は尊重される。ある意味当然だがこれが強すぎると美術展がキュレーターの思惑とズレることがあり得る。そして今回ズレた。
声の大きいのが実は一般市民。ネガティブ、ポジティブに関わらず主催に対して意見を言うことは原則として問題ではないが数が多すぎると窓口業務に支障が出る。
そしてそれが悪い方向にエスカレートすると反社による脅迫になる。
実際のところ多数の一般市民からの苦情や反社からの脅迫が原因で、このままでは来場者やスタッフの安全性が確保できない、という判断を主催側、キュレーターがすることで展示中止となっているものが多いようだ。
「表現の不自由展・その後」各作品の展示中止理由について調べてみた。
https://censorship.social/artists/
ちなみに「《平和の少女像》は正式名称を「平和の碑」と言い、「慰安婦像」ではない」という言葉が津田氏のエントリーにも作品のキャプションにもあるが、これはかなり微妙な言い方で、「慰安婦像」という“名称”ではないものの、慰安婦を表現したものであり、日本政府に慰安婦問題の謝罪を求める目的で作られた一連の像のひとつであることは作者が明言している。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E5%A9%A6%E5%83%8F
https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%8F%89%ED%99%94%EC%9D%98_%EC%86%8C%EB%85%80%EC%83%81
https://en.wikipedia.org/wiki/Statue_of_Peace
これらを見ると、多くの場合主催側やキュレーターが公共性や展示会の主旨を理由に展示中止しており狭義の検閲にはあたらないように見える。また、天皇関係のうち3作品は、富山県立近代美術館事件に関するもので、これは反社(右翼団体)による脅迫が契機となっている。
表現の不自由展実行委員会は、表現の自由 vs 公権力による検閲 という構図に見せたがっている。ただ公立美術館や芸術祭の主催自治体は、公権力というよりも主催側という立場であり、中止の判断も現在の体制では安全性が確保できない、公共性ポリシーに反するなどである。
そこを巧妙にすりかえて、「検閲」という強い言葉を使うことにより強大な国家権力に立ち向かうアーティストという演出をしている。
現代日本における検閲らしい検閲といえば、表現の不自由展実行委員会メンバーである永田浩三氏の受けたNHK番組改変問題があり、こういった経緯の作品があれば説得力は増したと思う。
https://ja.wikipedia.org/wiki/NHK%E7%95%AA%E7%B5%84%E6%94%B9%E5%A4%89%E5%95%8F%E9%A1%8C
ここからは完全に余談。
津田氏のエントリーには、候補として上がった作品として、会田誠《檄》や、鷹野隆大《おれとwith KJ#2》、ろくでなし子《デコまん》シリーズが挙げられている。
鷹野隆大《おれとwith KJ#2》は男性器が写った写真を展示していたところ、通報されて警察から注意を受けたというもの。明確に違法な図画を作品としてクローズドな場所に展示するのはOKかNGかという議論は見たかった気がする。
https://www-art.aac.pref.aichi.jp/collection/pdf/2014/apmoabulletin2014p54-63.pdf
ろくでなし子作品が展示スペースの都合で候補から落ちたという件、カヌーみたいな大きなものではなく手のひらサイズ(実物大?)のものもあるので、スペースなんかどうにでもなるだろうと思ったものの、慰安婦や天皇がらみの作品のすぐ横にデコまんがあったらそれはそれで別の意味が発生しそうなのでやむなしか。
掲示されていた「年表」にそれらが含まれているか知りたかったがよくわからない。ネットに上がっている写真を見ると「イケメン官能絵巻」の文字が見えるので「年表」にはエログロも含まれているのかも。誰か知っていたら教えてください。
あいちトリエンナーレで津田大介さんが監督の「表現の不自由展・その後」について、納得できない点を頭の整理を兼ねて書いてみます。
憲法上の「検閲」とは次の通りであり、本展における河村市長、官房長官のいずれの言動もこれに該当しないことは明らかなので、憲法上の検閲ではあり得ません。
「行政権が主体となって、思想内容等の表現物を対象とし、その全部又は一部の発表の禁止を目的とし、対象とされる一定の表現物につき網羅的一般的に、発表前にその内容を審査した上、不適当と認めるものの発表を禁止することを特質として備えるもの」(判例)
したがって、本案件で「違憲」と言い出した者(例えば大村知事等)は明らかに失当です。というか憲法上は事前の規制を重く見ているため、事後的に批判した河村市長や官房長官(この二者には取り止めさせる権限なし)よりも事前に強く要請した大村知事(実行委員長として権限あり)の方が判例の趣旨からして危なそうです。
『あいちトリエンナーレ2019「表現の不自由展・その後」に関するお詫びと報告』を読んでもわかるように、津田大介さんは「検閲」という言葉を「何らかの理由により効率の美術館で展示できなくなったもの」と自らに都合よく恣意的に用いています。
憲法上の検閲でないとしても、この意味で検閲という強い言葉を用いることはミスリードです。本件の場合、事後的にも発表が禁止された事実はありません(あいちトリエンナーレ以外の場所で公表を続けることも十分可能です。)。
「公権力が,表現行為ないし表現物を検査し,不適当と判断する場合には発表を禁止すること。公表以前に行う事前検閲,公表後に行う事後検閲とに分れる。」(ブリタニカ国際大百科事典・コトバンク)
ヘイトスピーチ規制法の正式名称は「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」とあるように、「本邦外出身者」をターゲットにしているため、本件展示が法律上のヘイトに該当しないことは明らかです。
(法律の規定する範囲が狭すぎる、という議論はあると思います。例えばDV防止法は成立当初、男性は被害者とは規定されていない法律でした。)
「自国であった負の歴史を思い起こさせる作品を展示することが、その国や国民に対するヘイトにあたるとは考えていません。」「大浦さんは昭和天皇の肖像は日本人としての自画像であり、天皇批判ではないとしています。」とあるように、津田大介さんは、自国民同士のヘイトは想定していないようです。
ただし、国民を分断し、他のグループにに対して差別的言動を行うことは十分に考えられます。
津田大介さんは、過去、RADWIMPSのHINOMARUという楽曲を「国威発揚」であるとして激しく批判をしています。また、そういった批判を受け、RADWIMPSは謝罪に追い込まれています。
更にTwitterにおいて『今後もどんどん「国威発揚」の依り代として芸術が利用(寄生)されていくんだろう』ともコメントしています。
昭和天皇の写真を焼く行為に比べてはるかに穏当(少なくともヘイト的な要素はありません。)なものに対してこのような反応を見せており、極めて左派的な思想であると思われます。
津田大介さんは「不自由展実行委によって拒絶」、「そのまま展示することはコンプライアンス的にハードルが高」(い)、「展示スペースの都合」という理由で、会田誠さん・鷹野隆大さん・ろくでなし子さんの展示はしなかったと言っており、言外に自身の政治思想は反映されていないことを含ませています。
少女像や昭和天皇の写真の焼却などが選定されたのは自らの意思ではなかったかのようです。
しかし、その一方で『約80組の作家選びは当初、学芸員に任せるつもりだった。ところが、上がってきたリストを見て「ピンとこない。これはまずい」と方針転換。自ら決定権を握った。』(7/8北海道新聞インタビュー記事)とあるように自ら選定していったことを明かしています。
津田大介さんの言動をまとめると以下の通りになります。少なくともダブルスタンダードと言われることはやむを得ないでしょう。
1.検閲の意味は憲法どころか辞書よりも広くとるが、ヘイトの意味は狭く(法律通りに?)とり、いずれも自らに都合よく解釈した。
2.過去に保守的な楽曲に対して激しく批判し、更にそれに公金が用いられることに慨嘆したが、自らの政治思想に沿った展示を公金を用いて行った。
3.自らは中立かのように装いつつ、自らの思想に反する展示はテーマに合致したとしても排除した。
津田大介さんは今回の謝罪文で『自国の現在または過去の負の側面に言及する表現が安全に行えない社会となっている』とコメントしています。
しかし、前述のHINOMARUに対する批判を行ったにも関わらず今回のポストが手に入れられたということは、少なくとも「日本が好きという者を批判しても言論界ではプラスにはなってもマイナスにはならない」ということを体現したと言えるでしょう。
このエントリでいう「現代アート=既存の権力」について、コメントしている人たちが考える「権力=○○」が違いすぎて話かみ合ってない。
>「これはアート! わからないお前は勉強が足りない!」とか言っている人たちがいる。
素直に読めば、これは「アートをやっている人たち」を指すであろう。確かにこれはある。古参のオタクがニワカの新参をマウントするやつ。
ただ、その後の「権力」「カルト」というところを見ると、この増田は現代アートそのものに懐疑的である。
コメントは当然ながら、あいちトリエンナーレを意識した書き込みが多いが、このエントリ自体もそれに触発されたものと考えるのが自然だ。
そう考えると、この増田はあいちトリエンナーレをどのような視点で見て、このエントリを書いたのだろうか。
もし、作品撤去の件を肯定的に見ている場合、「あんなものを芸術というなんて、頭おかしい」という意味でこのエントリを書いたのだろう。
だからアートを「カルト」というし、「津田は現代アートという権威を借りてヘイト展示をやったんだ」という論理が成立する。
一方で、作品撤去を弾圧と考える人々もいる。そうした人々にとって権力者とは政府・政治家・公権力(あいトリに政治家が発言した件)であり、
「アートで社会にメッセージを送っただけなのに表現の自由を奪われた」となる。
また、タイトルの「醜い優越感」というキャッチーなキーワードも気になる。
増田はアートになんてこれっぽちも関わりなく生きてきた人間なのか、自分には理解できないものに対するひがみのようなものも感じる。
「これはアートだ、と言えば何やってもいいのか」というやっかみの気持ちもあるのだろう。
「自称現代アートに詳しい人たち」は常に「アートなんて分からない人たち」を置いてきぼりにしてきた。
特に、全国各地にある公立の美術館だって、一般市民にアートを教育普及するための施設であったはずなのに、「自称アートに詳しい人たち」に私物化されてきただけであった。
だから、ネトウヨにとっては「税金を使ってこんな展示をしてくれやがって」という気持ちになることはよくわかる。
しかし、今回の津田芸術監督はそうした「自称アートに詳しい人たち」側の人ではないのである。
むしろ、「自称アートに詳しい人たち」からは「素人のお前なんかにできない」と散々コケにされている側なのである。
だから、津田さんにとっては「権威=美術業界」(=アートではない)からもけなされ、ネトウヨや公権力からも弾圧され、泣きっ面に蜂である。
今回のあいちトリエンナーレは自分は既存の日本における美術業界の権威に風穴を開けてくれることを期待していた。
だが、日本社会に立ち込めるネガティブな圧力を改めて浮き彫りにしてくれることとなった。
今回の件について、美術業界の批評家や美術史家、美術学芸員といった人たちから、まともな「批評」がなされるのだろうか。
これからも日本の美術業界は「自称アートに詳しい人たち」の自己満足展覧会と「クールジャパン」的な何かをやるだけの、一部の人たちの既得権益として温存されるのだろう。
僕は自由とは、ルールがない事ではないと思っている。むしろルールがあってこそ、それを守ってこそ自由があるのではないか。
誰にでも殺人をして良い自由があれば、刺された誰かの身体の自由は失われる。
自由は種類がありすぎる。その中で、どの自由を「皆が」選ぶかだと思うのだ。
最近のアンパンマンのパンチは暴力的でないか、というトピックには衝撃を受けた。アンパンマンが暴力的という発想を考えたこともなかったので、面白いと思ったのと同時に、これで表現が縮こまっていってしまうとしたら怖いなと思った。
最近の声を上げる人たちは怖すぎる。
独断と偏見で言わせてもらうと、日本人は周りに従いやすいから、初めに声を上げた人と同じように喋ったり、考えたりしてしまうからだ。
だからこそテレビや本などの表現は、そういう人たちを刺激しないように気を使ってしまって、そして日に日に穏やかに、牙の抜けたものになっていってしまっている気がする。
万人を納得できる表現など存在するわけがないし、単に見なければ良いだけの話なのに、彼らは正義感を燃やしたがる。公権力よりも、もっと取り締まりが激しい秘密警察みたいで本当に恐ろしい。
彼らを慮って外に出られなくなった今の日本に、表現の自由はどう存在して良いというのだろうか。
ならいっそ、ここまでの制約の中なら表現していいよというルールを決めておけば良いのではないだろうか。
そしてそれは納得だとかそういうのをすっ飛ばして、ルールとして確固に存在すればするほど良いと思う。そうすれば誰にも邪魔されず、表現はほんの少数の誰かの正義とぶつかって消滅するなんて馬鹿なことは無くなるんじゃないだろうか。
今から教育でどうにかするには、遅効性すぎるし、今の大人達全てに教え直すのは非現実的だ。
この話題で議論が始まって、皆が互いに互いの意見があることを、そして表現に正解がないことをなんとなくでも、ぼんやりでもわかってくれるのが本当は一番良いし、すっきりしてる。
表現の自由がバッシングと公権力により侵害されたとかいう前にさ。
芸術じゃないでしょ。それ。
イデオロギー的に偏った展示したら、政治的意図しか感じないよ。
大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES
まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」と厳しく批判。
問題意識はおおむね間違ってはいないんだけど、簡単に”検閲”っていってしまうあたりが気になる。
検閲というのは、基本的には”発表前の事前抑制”を指す。特に最高裁の定義はそうだ。だから、憲法違反だとか裁判で負けるとまでは言い切れないのだよ。
ここでもし仮に、意思決定者である大村知事が、内容についてよい悪いと意見をつけ、中止させたら事後抑制であっても憲法問題が発生すると思うけどね。
菅官房長官の発言のほうがよっぽどマズイ。どこまでがよくて、どこからがアウトか、ちゃんと基準をもって整理しとかないといけない。
そもそも、こんなふうに、すぐに公権力の弾圧だと言い出す傾向は、日本人が歴史的に経験してきた言論弾圧の記憶に根差しているんだと思うけど、条件反射的に検閲!っていってしまうのは、
これはあたかも、韓国が日本の行うことに対して、なんでもかんでも、報復だの侵略だのと認識する、生の強迫観念とさして変わらないんだよ。
元増田にグダグダ書いたけど、俺が一番違和感を持つのは例えばこういう運動のこと。
「少女像」展示再開求めデモ集会に200人「表現の自由の弾圧だ」名古屋 - 毎日新聞
デモに来た埼玉県の女性会社員(25)は「作品を見たかった。主催者側へのひどい脅しなどがあったので続けられない状態になったのだろうか。悔しい」。上滝浩子弁護士(京都弁護士会)は「公権力を持つ立場にある人が干渉的なことを言えば、表現活動が萎縮する。そうさせないために憲法は表現の自由を保障している。許せない」と話していた。
繰り返しになるけど、表現活動が委縮したのは、ガソリン持ってくると脅されたからでしょう。
で、それに対して通常、対処しうる危機管理以上のことが現場で可能だったの? 例えばガソリン怖いのをみんなで耐えるの?主催者だけではなく客も巻き込むんだよ?
できないものを無理じいして、できなかったら検閲だなんだって騒いで無理な注文をして困らせるのが表現の自由を守るってことなの?
そういう理由で起きる表現活動の委縮って誰かのどんな努力でどうにかできるものなの?というのが俺の最大の疑問。
委縮しないようには何をすれば?という観点でいうと、例えば、テロを抑止する、という話とよく似ていて、
社会にあふれる憎悪を鎮静化させる、みたいなフワっとした話にしかならない。
****
行政が危機管理対応としたという話と、行政が言論を弾圧した、という話を混ぜるなよ。ナイーブすぎるだろ。
****
もう少し思想的な背景に突っ込ませてもらうとさ、
そもそも、脅迫含めて暴力的な言論というのは、表現の自由の副産物として、
そういう過激な行為が起こりうることは覚悟しておかないといけないかもしれないんだよ。
アメリカを例にとる。意見が異なる者同士が過激な形でぶつかり合う、というのは、17世紀のヨーロッパがプロテスタントの宗派争いで経験済み。
たとえ激しくいがみ合っていても、政府はどちらか一方が正しいとは言わない、と。
その経験があって、アメリカに渡った巡礼始祖が社会の約束事として決めたのが、合衆国憲法修正条項に引き継がれ、表現の自由の原型となっていく。
1970年代の連邦最高裁の言葉を借りれば、社会が不協和音に満ちていることこそ強さの証である、みたいな覚悟をもって、
ヘイトなど多少の過激な言動を認容していく、というのがアメリカ的な背景としてはある。
つまり、もし仮にアメリカ的な感受性で対処するとすれば、脅迫があったが、ま、今回は引きますが、へこたれずまたやりましょうね!ということなんだよ。
ところが日本の場合、そういう歴史もなければ、不協和音のなかで生きる覚悟もない。
むしろ日本の空気として強いのは行政による言論弾圧の記憶なんだよね。
それならそれでいい。表現の自由を基礎づける歴史的な記憶というのは、その国の歩んできた歴史文化によって異なるのは当然だからだ。
でもその背景について、客観的な整理と自覚がないと、ただ無意識にオブセッシブな態度を表明しているようにしかみえないわけよ。
だいたい横から出てきた名古屋市長なんてそもそも中止となんの関係もないじゃん。
そこはちゃんと危機管理対応と弾圧を冷静に切り分けてもらわないと。
展示が表現の不自由がテーマということで、ついでにひとつ言及しておきたいんだけど、
ムハマンド風刺画問題というのがあるよね、フランスで大きな騒ぎになったりもした。
これは、暴力行為が表現の自由の副産物だという文脈では読み解けない。
アメリカとはかなり異なる歴史的な背景があって表現の自由の価値が基礎づけられているからだ。
簡単にいうと、カトリックの絶対正義が猛威を振るっていた時代に、
こんなんじゃ、まともな社会設計ができん!という問題意識からスタートしている。
まずはカトリックを批判する権利が必要だということで「神を冒涜する権利」として始まったのがフランスの表現の自由であり、例の過激な政教分離なんだよね。
だからムハマンド風刺画事件でも、フランスのメディアは「涜伸の権利はいずこに」という形で問題提起をしたりしたわけだよ。
ただ、おれは別にそんな話を今回の展示に期待しているわけじゃ全然ないんだけどさ、でもなぁ。
そんなたいそうなタイトルを銘打っておきながら、さまざまな国の作品を展示しているのに、他人の作品をコピペみたいに持ってきてパッチワークかよ。
ネットでみつけた一般客のコピペした解説文や評価をみても、テーマである”不自由”の背景がよくわかるものではなかったね。
そのうえ雲行きが怪しくなったら中止と。芸術監督は残念がってメソメソと泣いて、みっともないってちょっと思ったりした。
行政もだよ。リスクを想定したうえで、あらかじめ退避の基準を明示しておくんだよ。この場合、判断と行動のスイッチとなりうる事象をリストアップしておくんだよ。
そのうえでリスクシナリオと判断基準について主催者と合意しておく。
そうしないと、あ、ヤバいと思ったんで引き揚げました、みたいに、行き当たりばったりな説明しか主催者にできないだろが!
そりゃ、突然中止に追い込まれたと思うわな。
まとめると、
表現の自由という観点でも主催者の問題意識は感覚的なものでしかないし、
表現の自由についての問題整理とリスク管理、この二つをしっかり持っておかないと
なんだだ危なっかしいだけだ。
という感想をもった。
追記:
大村知事「河村市長の主張は憲法違反の疑いが極めて濃厚」…県には”京アニ放火”に言及した脅迫メールも | AbemaTIMES
まさに公権力を行使される方が、"この内容は良い、悪い"と言うのは、憲法21条のいう検閲と取られてもしかたがない。そのことは自覚されたほうが良かったのではないか。裁判されたら直ちに負けると思う」と厳しく批判。
おおむね間違ってはいないんだけど、このあたりに、日本人が感覚的に扱う、表現の自由の手つきの危うさがある。
検閲というのは、基本的には”発表前の事前抑制”を指す。特に最高裁の定義はそうだ。憲法違反だとか裁判で負けるとまでは言い切れないのだよ。
たぶんもっとたくさんいる
当選して二週間で「表現の自由」という自分の守備範囲ど真ん中にボールが飛んできたのに見事に何もせず、すべて終わってから毒にも薬にもならないコメント(脅迫を非難する言葉すらない!)をツイッターに投稿するという無能っぷりを発揮してしまった山田太郎さんの今後について考えてみたい。
「菊タブー」という言葉に代表されるように、日本で最も激しく時に暴力を伴って「表現の自由」を脅かしてきたのは極右だったというのは常識である。
「表現の自由」を守ると言って参議院議員になった山田太郎にとって、極右や公権力による「反日」表現への暴力や殺人をほのめかしての脅迫という問題は、真っ先に反応してみせるべき問題だったはずだ。
この問題に対して事実上何もせず、極右と重なる部分も大きい自分の支持層を気にして脅迫を非難することすらしなかった山田太郎は「表現の自由」について何もできない無能であるということを当選二週間で明らかにしてしまった。
山田太郎に名誉挽回の機会は与えられるだろうか?おそらくないだろう。山田太郎がその存在感を示すためには、以下のステップを踏む必要がある。
今回の件を通じて、山田太郎が自民党内で権力を持つ政治家に反対することすらできないヘタレであることは明らかになったし、そもそも今の自民党は党内からの異論を受け入れるような体制にはなっていない。待ちの姿勢でいる限り、山田太郎には永久に名誉挽回の機会はやってこないのである。
待ちの姿勢でいる限り、金輪際チャンスがやってこない山田太郎が活躍するためには攻めるしかない。
「表現の自由」に関する大きな問題で、支持層であるエロマンガ・エロゲー愛好者たちにもウケが良く、話題性も大きい問題とは何か。例えば刑法175条である。
第175条
1 わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役若しくは250万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。
刑法175条に関するよくある誤解として、刑法175条がなくなると子供がエロ本を読み放題になるというものがあるが、刑法175条はゾーニングについては一切触れていない。刑法175条は子供にエロ本を見せることを禁止する法律ではない。
もう一つの誤解が、「わいせつ」の定義である。日常会話で「わいせつ」と言った場合はエロ動画やエロマンガなど性的な描写を含むもの全般を指すが、刑法がいう「わいせつ」は事情が異なる。現状の警察による判断では、刑法上の「わいせつ」は無修正の性器が描写されているかどうかだけである。
だから、男女が性交をしている様子を映した動画でも性器にモザイクがかかっていれば「わいせつ」ではないし、芸術写真でも性器が無修正でうつっていれば「わいせつ」だというのが警察の考えである。
これはおかしいということは長く言われてきたことであるし、「表現の自由」への直接の侵害だと多くの人が訴えてきた。
もし山田太郎が主導したことで刑法175条が廃止されエロマンガ・エロゲー・エロ動画へのモザイクが不要になったとすれば、これはエロマンガ・エロゲーを愛好する支持者からも評価されるし、左派からも評価されるし、「表現の自由」に関心の無い一般国民からも評価されるだろう。
しかし当然この問題はそこまで簡単ではない。まず、「エロを無修正にするために活動しています」と大っぴらに言うのは世間体が悪い。選挙区内の女性有権者の印象を気にする議員はあまり積極的には賛同してくれないだろう(この点、比例選出でエロゲー・エロマンガ愛好家を支持者に持つ山田太郎は都合が良い)。
次に、日本コンテンツ審査センター(かつてのビデ倫)という天下り先を失うことになる警察とそこから献金を受ける自民党議員が猛反発するだろう。エロ動画からモザイクをなくすことは、警察から利権を奪うことにつながるのである。
これらの万難を排して刑法175条を廃止し、山田太郎が「表現の自由」の守護者としてその名を歴史に残せるか、正直に言うとあまり期待はできない。しかし、今回の件で失った名誉を取り戻すためにはそれくらいのホームランを打つ必要があるということもまた事実なのである。
「表現の不自由展」は、日本における「言論と表現の自由」が脅かされているのではないかという強い危機意識から、組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集めた展示会らしい。
昭和天皇の写真を燃やしたり、慰安婦像に似た像もあり、案の定猛烈な批判を受けて、展示中止された作品も出始めた。
個人的には不愉快だけど、中止する必要なんてないし、中止させられること自体がこの国の表現の自由の尊重具合を図らずも測ってしまっている。
快不快で判断するのは、個人レベルではいいけど、公権力側がそんな判断をするのを国民が認めて、その先明るい未来が待っているように思える脳みそがあるなら食ってみたい。きっといい具合に発酵している。
無修正ポルノやヘイトスピーチは、日本の現行の法規では違法だから、表現の自由にかかわらず、取り締まり対象だね。
(無修正ポルノが違法というのはおかしい、という議論は置いておく)
あと表現の自由を履き違えてるアホ
出典:https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190802/k10012018791000.html
edo04 表現の自由戦士の皆さま!出番ですよ!
h1roto これは芸術としても陳腐だし表現の不自由というコンセプトにも逆行してて(左派コンテンツだけ並べるとか…)酷い。でも封じられるべきじゃないし政府には「別に知らんから勝手にやれ」くらい言う器が欲しいところ
rgfx 「あーもー補助金ださないからねー」って真正面から権力を傘にきて恫喝しにきてるじゃないですか。たまげたなあ。擁護する余地ないでしょこれ
hate_flag 「はたらくくるま」の戦車への抗議を批判した連中はこの官房長官発言も批判しろよ。それとも「自民党のやる言論の自由弾圧はいい弾圧」とか思ってんのか?
kazatsuyu 表現の不自由展とやらの趣味がいいとは思わんが、これは検閲だし圧力だと思うよ。つーか「補助金引き上げるぞ」が圧力だと分からない人って……
grdgs 「言論の自由表現の自由があるからこんなもんで済んでるんだよね」肉豚発言にも程があるなw 「政府様が我ら臣民に言論表現をさせてくださっている」まで遠くない / id:shinichikudoh 詭弁にも程があるなw
shinichikudoh 表現の自由とかいうけど僕のブコメに文化庁からの補助金は出てないよ。好きに表現したいなら金なんて貰わずに勝手に表現すればいいだけの話。ただし昭和天皇の写真を燃やしたのは皇族への恐喝に思えるので許せない。
youkass912 東京新聞の望月記者もそうだけど、言論や表現の自由を規制したくて仕方ない政府に、何故わざわざきっかけを与えるようなことをするのだろう。しかもその手段は、本人たちの目的も達成出来ない稚拙なものなのに。
rci さっそく大物が釣れましたなあ
sink_kanpf う~ん、学術的で国際的にも認められてる案件を、補助金を出すかどうか学術でなく政治的な理由で公権力が検討判断するというのは、客観的に言ってテンプレかつド直球の「表現の自由」案件^^;
tekitou-manga 森羅万象担当3権の長ちゃんの名代であらせられるところの官房長官サマが文化庁の補助金の使い道に口を挟むのは至極当然であると考える
t-murachi これをきっかけに展示物が取り下げられると「表現の不自由」としてはまさに完成することになるね。個人的には時事問題を痛切に取り扱っているわけで、極めて文化的な内容だと思うけど。
anigoka 反社ズブズブの吉本にはクールジャパンするのに少女像置いただけで打ち切り検討ってさすがネトウヨヤクザ政権 Nッポン国をぶっ壊~す
raic 完全に圧力。アウト。
zakinco 検閲
misafusa こういうのを「言論弾圧」と言う。一般市民がイベントや展示物に反対するのはいくらでも好きにやればいい。マスコミを使ったっていい。だけど公権力が「俺らの気に入らない展示をするなら金を出さない」は論外だろ
white_rose うわあ……/この発言を擁護する人は今後一切表現の自由なんて口にしないでほしい。こんなわかりやすいのってないよ。
大別すると、検閲・弾圧と補助金取りやめの違いを理解できないアホと表現の自由を履き違えてるアホとアベガーと反日嬉ションパヨクってとこか
https://b.hatena.ne.jp/entry/4671687466976236546/comment/zyzy
エロ漫画を描く行為を批判したら「きちがいふぇみがぁぁぁぁぁ、まなざしむらがぁぁぁぁぁ」してた人達が、ただの批判だからと言う権利はないんだよね。エロ漫画を描く行為への批判を受け入れて初めて権利も得る。
うん、後者については、まあそうだね。
(エロ漫画を描く行為を批判したら云々という点が分からなかったけれど。一部フェミニスト?zyzy?はエロ漫画:男性向けも女性向けも含むのだろうけれど――を描く行為を、どういう脈絡で批判したのだろう)
その表現の内容が、あまりにも妥当性を欠いていれば、批判者は多くなり、また、例えば一般企業など、社会的信用を重視するところは離れていきやすくなるね。
その覚悟をもって、それでも表現したいなら、その表現自体が犯罪でないならば「公権力で」抑え込むべきものではない(=表現の自由)。
ただ、さっき書いた通り、スポンサーや関係者などが「この表現を放置していたらウチの信用も落ちる」と判断して取り下げる(取り下げさせる)のは構わないし、
逆に言えば、「ウチの信用がたとえ一時的には落ちたとしても、この表現を守りたい」と判断して継続するのも構わない。これらの態度も立派な「表現の自由」。
で、
zyzyはさ、自分の普段の言動(主にブックマークコメント)が、まさに「きちがいふぇみがぁぁぁぁぁ、まなざしむらがぁぁぁぁぁ」だと思われていることは自覚している?
少なくとも私は、zyzyのブックマークコメントを見てちょくちょく、「この人おかしい」と感じているし、多分、結構多くの人が、同じことを思っている。
実際、メタブックマークや増田などでも、時々批判されているよね。そして、その多くは結構真っ当な批判だと思うよ。
その批判、zyzyはきちんと受け止めている?
自らを省みている?
「きちがいみそじにすとがぁぁぁぁぁ」とかレッテル貼って無視を決め込んでいない?
自分の表現の権利を主張する上で、その表現に対する批判を一番に受け入れるべきは、zyzyだと思うよ。
自由に「きちがいふぇみがぁぁぁぁぁ、まなざしむらがぁぁぁぁぁ」とでも書けばいいと思うよ。
それを見て、「ま、この程度の人だよな」と、私も判断させてもらうから。この判断も表現の自由(というか、思うだけなら内心の自由かな。増田に書くことが表現の自由)だよね。