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【皐月賞】イスラボニータ DNA検査で2000メートル問題なし! ― スポニチ Sponichi Annex 競馬
「エクイノム・スピード遺伝子検査」とは、競走馬が持っているミオスタチンと呼ばれる遺伝子の型を解析し、距離適性を判定するもの。この遺伝型は3種類あり、「C/C型」は短距離傾向(最適距離1000~1600メートル)、「C/T型」は中距離傾向(同1400~2400メートル)、「T/T型」は中・長距離傾向(同2000メートル以上)。
要するに、筋肉ムキムキだと短距離ランナー、細身だと長距離ランナーになって、その筋肉の付き具合にミオスタチン遺伝子が関係していますよ、ミオスタチン遺伝子を検査すれば、その馬が短距離向きか長距離向きかが分かりますよ、という話なんですが、問題はこのときの距離分類です。
大まかには、「1200m」前後が「スプリント」、「1600m」前後が「マイル」と呼ばれ、この二つを合わせたのが「短距離」(狭義には「短距離=スプリント」であることも多いです)、マイル以上クラシックディスタンス(=2400m・「ダービー」など重要なレースが行われる距離)未満が「中距離」、そしてクラシックディスタンス以上が「長距離」と呼ばれるイメージです。
さて、以下のPDFの中で、冒頭の距離適性診断の元となった研究内容が紹介されているんですが、
雄における C/C 型(青色)の個体群は、主に 1,000~1,800m の範囲で勝利頻度が高く、C/T 型(赤色)の個体群は、主に 1,200~2,000m の範囲で勝利頻度が高く、T/T 型(黄色)の個体群は、主に 1,800m以上で勝利頻度が高いことが示されました(図3下段左)。
1000~1800が短距離、1200~2000が中距離、1800以上が長距離…ってだいぶ雰囲気が違いますよね。「距離別の勝利頻度(雄)」グラフを見ると、なんと「1600m=マイル」の時点でC/C型とT/T型が拮抗していることが分かります。
「イスラボニータはどこまで距離がもつのか」。オーナーブリーダーの社台ファームが(中略)競走馬理化学研究所(栃木県宇都宮市)に検体用の血液を送付したところ、中距離傾向の「C/T型」だった。
「1400メートルから2400メートルと適性距離に幅がある鑑定結果だが、要するに中距離(傾向)ということでしょう。ダービーはぎりぎりの距離。少なくとも皐月賞は全く問題ない」と胸をなで下ろした。
おや、先ほどの研究報告によれば、「C/T 型(赤色)の個体群は、主に 1,200~2,000m の範囲で勝利頻度が高く」だったはずでは?
「距離別の勝利頻度(雄)」のグラフを見ても、C/T型が他と比較して優位なのは1600前後のみであり、2000以上では完全にT/T型が圧倒していることが分かります。
ここにきて、研究における「短距離(1000~1800)/中距離(1200~2000)/長距離(1800~)」という定義と、慣習的に使われている「短距離(1000~1600)/中距離(1600~2400)/長距離(2400~)」という定義とが混同されているのではないか、という疑念を抱かざるをえません。
もちろん、あらためて大規模に調査したところ結果が変わった可能性はありますし、あるいは長距離向けに鍛えればC/T型でも2400mまではカバーできるということなのかもしれませんが…。
ちなみに、このニュース記事に登場している「イスラボニータ」という馬は、昨日の「皐月賞(2000m)」において、見事に勝利しました。おめでとうございます。はたして日本ダービー(2400m)ではどうなるでしょうか。
ボカロ原理主義と会話したんだが面白い - ゴールデンタイムズ
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51837091.html
まあ、要するに古くからそのジャンルに関わってきた「古参」な人たちが、そのジャンルにミーハー的に入ってきた「新参」に対して、○○も知らないくせにと叩いたり排除したりするんだよね。最終的にそのジャンルは衰退することが多いんだよね。だって、ジャンルを広げようとしても広がった先から叩いていくんだから。
クラシックとかジャズはそういう文化があるし、ロックでもある。まあ、上の記事はボーカロイドっていうものだけど、変わらないよね。
音楽以外だとサッカーもある。日本代表だけ見やがってとか、イケメンいるからってスタジアムきやがってとか、排他的な人たちはゴール裏っていう応援スペースで多々見かける。
で、自分たちはそのチームにマイナスの影響を与える行動を取っているってことが分かっていないのか分かっているのか。
寿司板前もな。何年も修行しないと駄目だろ。魚に対してニワカな癖に厨房に立つんじゃねえって!!と。こんな感じ。
アメリカとか行くと○○が趣味なんだーって言ってても、全然詳しくなかったり、上手くもなかったりするけど、楽しんでるんだよね。下手でも知らなくても楽しもうぜ!的な。
趣味。趣味ってきくと日本だとそんなんで趣味とか言うなとか、そういう文化があるじゃん。
まあ、そういう文化があるからこそ、先鋭化されて凄いやつがでてくるんだろうね。趣味でも。仕事でも。そういうオタク気質というか、極める気質が日本の町工場の強みの源泉なんだろうし。
何が言いたいのかというと、別に言いたいことなんかありゃあしないんだけど、極端だから真ん中ぐらいでバランスを保てるといいよね。初心者やにわかを叩き過ぎるとジャンルの裾野が広がらないから、そのジャンルが衰退していくからさ。
アロマ買ってやるとか、
「電気代気にしなくてもいいからエアコンつけていいんだよ」とか
胎教用クラシックCDと無線ヘッドホン買ってやって「胎教にもいいんだし聞いてみたら?」とか
ドロ甘に溺れるくらい優しくしてやるべし。
まず、あなたが大学でオーケストラをやろうと思っている理由は何ですか?
友達に誘われて?大学デビュー?新しい分野にチャレンジしたい?高校でやってた?
理由は何でも構いません。クラシックに興味を持っていただけるだけで私は嬉しいです。
そんなあなたの素晴らしいキラキラした瞳を「こんなはずじゃなかった…」と濁らせないために少し話をしようと思います。
ピアノを弾いていた方なら憂鬱な基礎練習を思い出していただければ言いたいことはわかるでしょう。
運動部だった方、自分の技能を上げるためにそのスポーツをやり続けるだけでなく、長時間の筋トレなどがあったと思います。
ただ、弾けた時の感動や舞台で浴びる拍手の音には何物にも代えられない価値があるように私は思います。
一つ一つ先輩に手ほどきを受けながら習いましょう。
大学ほどにもなると大抵経験者はいます。上手く弾けなくたって構わないのです。あなたのスピードで練習していきましょう。
焦って形にならなくて結局何だったのかわからないまま終わってしまった…と言うのが一番避けてもらいたい状況です。
大学のオーケストラは定期演奏会があると思います。自分が乗る曲の好きなフレーズを見つけ、「ここだけは弾ける」という部分を決めて…と言うのも極論としてはアリだと思います。
周りの人に流されず、音楽を練習し、勉強し、その中で楽しみを見つけられればと思います。
次に、経験者の方。貴方の主義や性格にそのオケは合っていそうですか?
あなたの入ろうとしている大学オケの過去の演目を調べてください。知らない作曲家がいますか?
意味の分からない演目があったら歓迎会などで先輩にそこはかとなくその曲が決まった経緯を聞いてみましょう。
あとこれは新入生の方にも言えますが、サークル費を調べてみましょう。
低すぎるのもどうかとは思いますが、若干高めな上その印象を抑えるために比較対象が都内私大オケになっているものには気を付けてください。
サークル費の高さはどこに流れているのか注意が必要です。ホールや指揮者・トレーナーの先生に充てていると言うのなら大丈夫でしょう。
ただ、サークル費を稼ぐためにバイトを頑張って単位を落としたり身体を壊しては元も子もないのです。
学生の本分は勉強です。自分の限界と相談をしながら楽しい大学オケ生活を楽しんでください。
言いたいことは実際はこのくらいだけです。
オーケストラは50人、100人規模の「アンサンブル」です。指揮者やコンサートマスターなどの存在はありますが、大人数で1つの音楽を作り上げる中で他では味わえない感動があります。
そして、音楽を通して様々な事を学んでほしいと思います。技術、感情、人との交流…そこには様々なものがあります。
辛いことも、嫌なこともあります。人が多くなればサークルの中でも苦手な人・嫌いな人は出てくるでしょう。
その人と何とかやっていくのか、辞めるのかは貴方次第です。
音「楽」という字面だけ見て、音楽は楽しまなければならないモノだと思い続ける必要性ははありません。
曲自体にも悲しみやジレンマを表現したものもありますし、音楽が全て楽しいものだとは私は思いません。
…
オーケストラほど「音楽」と言うもののために、これだけ多くの人と交流するは他にはないと思っています。
貴方の4年(6年)が楽しい大学生活と共にあることを祈っています。
最後に皆さんが失敗しないために私の知っている2人の学生オケ「失敗経験者」の話をしたいと思います。
後味の悪い小話ですので気分を害したくない方はここまででお帰り頂いた方が良いかと思われます。
また、これはどちらも大学以前にクラシック経験があった知り合いの話ですので初心者の方には参考にはならないかと思います。
(さらに、当人たちから聞いた話ですのでそのオケの悪い部分だけが誇張されている可能性も否定できません。)
それでは、1人目から
1人は割と厳しい高校吹奏楽の経験者で、(わかる人にはわかるかもしれませんが)吹奏楽部のようなドロドロとした中でひたすら技術と音楽理解を追い求めて行ったタイプです。
彼女が入った大学のオーケストラは割とゆるめのほんわかしたタイプのオケでした。
定期演奏会は有名作曲家を並べたもので、オケのメンバーもやる時はやるものの基本的には飲み会やおしゃべり多めといった雰囲気だったそうです。
彼女は2年目以降は(練習の鬼と言えばいいのか)練習一辺倒になり、周りから頼られつつも1歩引かれていたように感じていたそうです。
彼女は最後まで大学オケをやり切り、音楽だけは楽しかったと言っていました。
私としては個人的には仲間や先生方ともっと楽しんで欲しいかったなと思います。
2人目は逆にポップス曲や有名曲をやってきた高校オケ経験者で、入った大学オケが性に合わなかったと言っていました。
そのオケは技術メインで(技術一辺倒が悪いとは私は思いません)、各パートにトレーナーが付くほど本気な大学オケだったそうです。
彼は経験者と言うこともあり、サークルの枢軸といいますか、選曲などかなり重要な部分に関わっていたようです。
しかし、オーケストラがトレーナーや名誉顧問(?)のような人に半分牛耳られていて、定期演奏会の曲の案を出しても中々許可が下りず、毎回1,2曲不本意な曲を入れて妥協していたようです。
(夜な夜なサークルの選曲係系の幹部と一緒にヤケ酒をしていたとか。)
彼はさらに、高校オケの音楽の雰囲気と大学オケの頭でっかちな音楽のギャップにも耐えられず、役職交代のタイミングで退部届を出したそうです。
後味は悪いですが、話をこのぐらいで閉めさせていただきます。
(回避するためにインカレと言う手段もありますね。インカレはそれはそれで苦労はありますが、私は悪くない選択だとは思います。)
年寄りの妄言に最後まで耳を傾けて頂きありがとうございました。
これを見た人の中には「これは全く馬鹿げた意見だ!聞く必要もない!」と言う人もいると思います。
様々な人が音楽に、学生オケにそれぞれの思い入れ・考えを持つことは当然の事ですし、私とは真逆の事を思う人間がいることにも何ら疑問はありません。
ただ、こういう意見があると言う事を頭の片隅に入れて頂ければと思います。
私は皆さんに学生オケをするなとは言いません。むしろ積極的に参加して欲しいと思っています。
お返事どうも。
言いたいことはわからなくはないんだけれど。
それに対してお金を払おうと思う人が、批判されるのは変な話だ。単なる個人の趣味に難癖つけてるのと同じだと思う。レス増田は違うのかもしれないけれど、そういう意見も見るので、これは愚痴。
いや、そういうことじゃなくてね。あるいはそういうことであっても別に構わないのであってね。
あなたみたいなのは「近視や肥満の人の野球大会」を感心して観ているようなものだ、と言っているの。近視や肥満が野球選手になる上で致命的な欠陥でないというのは、例えば古田敦也とか中村剛也とかその辺の例を挙げればわかってもらえるよね。
で、もしあなたが近視とか肥満というのに何か特別に感情を揺さぶられるという特殊な感情の持ち主であるという自覚があり、なおかつあなたは純粋に「野球」というものを楽しんでいるのではないという自覚があるのでないかぎり、それは「個人の趣味」とは言えないと思うよ。
もちろん、そういうことが全部悪いとは言わない。例えば将棋の女流棋士制度というのは実際そういうものだからね。将棋というゲームには男女差はないのだけれど、実際問題として普通のプロになる基準をクリアできる女性がこれまで現れなかった(最近一歩手前まで来ている人はいる)からこそ、普及だとかいろんな大人の事情で別の制度が設けられている。で、女流棋士が実力で普通の棋士(これまで全員男性)に及ばなくともそれなりにファンがついているのは、良くも悪くも色んな意味で「女である」ということを売り物にしているから、と言わざるを得ないよね。「男社会を切り崩す」というジェンダー的に「正しい」見方であれ、オヤジのスケベ心であれ、そういうあらゆるものを換金していることになる。で、将棋連盟の側もファンの側もそれについては百も承知であるわけだ。
そういったことを自覚した上で「そんなことは百も承知だ、それで何が悪い」というのであれば、それはそれでまあ「個人の趣味」と言えなくはないと思うよ。
でも、佐村河内やフジ子・ヘミングの件についてそれが当てはまるのかな。将棋と違って、クラシック音楽において身体障害は致命的な不利とは限らないわけだ。野球における近視や肥満だってそう。少なくとも「近視・肥満野球」については、野球ファンは「そんなものをプロ野球と同列に並べないでくれ」というよね。で、それについて文句を言うのであれば、文句を言う方がおかしい。
あるいは「リケジョ」という言葉について考えてもらってもいいよ。科学界における女性はクラシック界における身体障害者よりもっと障壁が少ない場所にいる。そして、科学には「女性枠」なんてものは当然ない。つまり「リケジョ」というのは女性が理系に進むことへの本人や親の偏見を取り除くための方便でしかない。にもかかわらず「リケジョ」っていう概念はジェンダー的に不適切だとヒステリックに叩かれるし、実際それなりの危険がある概念であることは間違いはないよね。
そして、クラシック音楽への「障害者枠」については少なくとも「リケジョ」よりもはるかに社会的にまずいものだ、ってのはわかるでしょ?
障害者が障害を使って金を稼ぐ事自体が健常者と同じ扱いではない、という観点は、分からなくもないけれど、それを言ったら、年寄りに席をゆずるな、年寄りだから働かず年金貰って生活するなんて甘えだ、子供も身の回りのことや収入も自分でやれ、と言いたくなる。言わないけれど。
少なくとも、そういう年齢に甘えてる世代よりは、自分の障害を使って自分の稼ぎを自分で得ようとする彼等彼女等の方が、マシだと思う。
野球の例でいうと「マスターズリーグ」ってのがある。これは、かつての名選手が今となっては無様な姿をさらす草野球を、笑いのネタになることを承知で売り物にしてるというものだね。これが問題でないのは、選手の側も観客の側も野球の技術ではなく別のものを求めている、という共通了解があるからだね。
でも、クラシック音楽はそうではないでしょ。一部のマニアを除いてはなかなか敷居の高い世界だし、ポスドク問題と同じでなかなか商売にならない厳しい世界。ファンを獲得するには、結局本当に質の高い作品の質の高い演奏を世に出し続けて、それに偶然触れた人が急に感化されるのを待つしかないっていう厳しい世界でみんなやってるわけだよ。
そんな中で、「現代のベートーヴェン」とかいって粗悪な作品を売られることは、本当に質の高い作品や質の高い演奏家がスポイルされるリスクを高めてしまう。「クラシックなんてたいしたことないじゃん」と思われてしまったらそのせいで才能ある音楽家が何人も葬られることになるかもしれない。女流棋士とかマスターズリーグとちがって、「本物」のおまけではなく、「本物」と競合してしまうんだよ。
そういう意味で、何が「本物」であるかがわかりにくい世界で、「本物」と勘違いさせて贋物を売り出すというのは問題のある商売だと思うよ。ホメオパシーとかと同じだと思うけど。
クラシックに詳しい知人も同じように佐村河内を批判していたのだけれど、その時はいまいち納得できなかったが、ようやく理解できた。
佐村 河内の作品が本当に彼の作品だったとしても、そもそも大した作品では無かった、もっと高いクオリティの作品を提供する身体障害者は居る、というのは理解できた。
佐村河内や新垣の作品の良し悪しは自分には分からないけれど、彼らの作品が詐欺うんぬんの話はさておき、彼らの作品の良し悪しはさておき、身体障害者の作品へお金を払おうということ自体は、人に批判されるものじゃない。
身体障害者に甘い、同等に扱うべき、純粋に作品の良し悪しで評価する、というポリシーで批評する人が居ても、
同情心から作品を賛美する人が居ても、どちらが居てもいいと思う。
今のご時世、どこぞの王族貴族が音楽家を養えるわけでもないご時世なのだから、そういう人達も取り込まないと、クラシック音楽業界自体が続けられないと思う。間接的には、コアなクラシックファンにもメリットがある事だと思う。
障害者が障害を使って金を稼ぐ事自体が健常者と同じ扱いではない、という観点は、分からなくもないけれど、それを言ったら、年寄りに席をゆずるな、年寄りだから働かず年金貰って生活するなんて甘えだ、子供も身の回りのことや収入も自分でやれ、と言いたくなる。言わないけれど。
少なくとも、そういう年齢に甘えてる世代よりは、自分の障害を使って自分の稼ぎを自分で得ようとする彼等彼女等の方が、マシだと思う。
それに対してお金を払おうと思う人が、批判されるのは変な話だ。単なる個人の趣味に難癖つけてるのと同じだと思う。レス増田は違うのかもしれないけれど、そういう意見も見るので、これは愚痴。
ええとね、「大江光」「和波孝禧」「辻本伸行」「フジ子・ヘミング」「川畠成道」あたりでぐぐってみてからそういうことは言おうね。
クラシック界ではもともと、障害と結びつけてお涙頂戴物語で売り出すって手法はこの数十年常套手段だったわけ。
その一方で、こういう人たちはそういうお涙頂戴物語で下駄を履かせて貰ってるだけで、実際の演奏はたいしたことないって批判もあった。
実際、上に名前を順不同で並べたけど、正直言って実力はこの中でも千差万別だからね。障害がなくても売れてただろう人も、そうでない人もいる。
で、本当の意味で「障害者を受容する」ってことは、「障害者」を特別扱いしない、する必要がない状態のことを言うってのはいいよね。例えば近視なんて昔なら弱視とかわらない視覚障害者だったわけだが、今となってはメガネかコンタクトがあれば「健常者」と区別する必要は全くない。パイロットの採用試験とか除けばね。
その上で、「特別扱い」されずとも芸術家として高い尊敬を受けてる人ってのはクラシック界にはもともといっぱいいるわけ。ベートーヴェン自身がまずそうだし、それからたとえば現役で世界的に有名な例でいうとパールマンとかクヴァストホフとかかな。こういう人の音楽を聴くとき、この人たちが身体障害者であることなんて誰も意識してない。
はっきり言うと、ディープなクラシックファンはベートーヴェンやパールマンやクヴァストホフは尊敬してても、佐村河内守(発覚前)とか大江光とかフジ子・ヘミングなんてのは馬鹿にしてたりするわけ。理由は単に「腕が良くない」から。二流音楽家がお涙頂戴物語のせいで超一流の椅子を奪っていると、眉を顰めているといってもいい。小保方晴子にたいしてアカデミアが厳しいのと同じ理由の一部とも重なるだろうね。
そういう意味では、佐村河内だのフジ子だのを甘やかす「社会」というのはバリアフリーの思想の観点でも、クラシック音楽への理解の観点でも、はっきり言って底が浅いとしか言いようがなく、批判されても仕方ないと思うよ。
今回のSTAP細胞事件と佐村河内騒動の共通点は、一般人にはよくわからない分野である、ということだ。
それをマスコミが前者では30歳の一見どこにでもいる女性が成し遂げた偉業、日本すごい、リケジョすごいと囃し立てた。
後者では耳の聞こえない作曲家がこんな凄い曲を書いた。現代のベートーベン、奇跡の作曲家だ、と喧伝した結果である。
結局、マスコミは一般人と同じで何がすごいか、わかっていないのだ。先端科学は勿論、クラシックに関心なんてない。
実際のところ、中身なんてどうだっていいのだ。
彼らは大半の一般人はバカであり、ミーハーであり、新しいものが大好きだ、と思っている。
これは別に今回に限ったことではなく、森口ips細胞騒動のときは嘘を鵜呑みにし
日本人がノーベル賞をとれば『すごい、すごい』とよくわからないのに騒ぐ。
いいかげん、マスコミを見限るべきだと思う。
毎日メディアで浅田真央選手が6位入賞という事を連日賞賛している。
そりゃそうだ。
転倒を繰り返し絶望と言われた16位からまさかの自己ベストを更新。
それ自体はすばらしいしスゴいと思う。
でもこのストーリーが逆だったらどうなった?
ノーミスからの自己ベスト更新で堂々の1位から転倒を繰り返すも6位入賞。
結果は同じだが多分報道のされ方は違うんじゃないかな。
最初の演技で多少失敗してからの成功の方が同じ結果でも賞賛されるならそっちの方がいい。
俺はそう考えちゃう。
結果よりもストーリー重視の競技ってもはや競技ではないでしょ。
ちなみにチッ、うっせーよコーチの指導のもと史上最年少でメダルを取った15歳の少年は対した扱いされてないでしょ。
結果を見ればこの少年の方が全然すごいしもっと賞賛されてもいい。
恐らく世間的にチッ、うっせーよコーチの印象が悪いのと、この少年にメダルを取るまでの苦労や苦しみが感じられないからでしょ。
定時にきて定時に帰り500万の売上を作った営業マン。
誰よりも朝早く出社して誰よりも残業して500万の売上を作った営業マン。
耳が聞こえない全盲の障害者が苦しみながら作曲したクラシック。
評価されるのは後者。
日本て何なんだろう。
夕食の時にふと父親が口にした。
「明らかに選考時点で滑れてなかったし、結局結果が出せないんだから辞退して若い選手に機会を譲るべきだった」と。
でも腰の怪我を押して出場し、結果個人SPで棄権したプルシェンコは素晴らしいらしい。
「日本人だったら絶対根性論で滑ったけど今後のことを考えてあそこで棄権できるのはプロ」だという。
そんな父親が好きになれない。
優秀な人は自分が思った通りのことをするしそれが正義だと思ってるフシがある。
欧米礼賛がすごい。全く同じことでもアメリカだったりヨーロッパの出来事だと「素晴らしい」なのに日本だと「これだから日本は」
某IT系一流企業で働いてるくせに技術に関する知識だったりリスペクトが全く感じられない。口を開けば「プログラムを人間が書く時代はもう終わる。だからやる意味もない。」
そのくせ今PMとかやったりしてる。
でも職場ではかなり信頼されてるらしい。
基本的に問題の切り分けが全然できてなくて、すぐに話を一般化したがる。議論にならない。
日本史とクラシックがすごく好きで、父親が帰ってきた後にそういう話を二人でするのはすごく楽しいんだよ。
でも最近こんな嫌なところばかりが見えて悲しい気持ちになってくるよ。
これがはっきりしないから評価に不満が出る。
この場合、選手はオーケストラ、スタッフは作曲家(及びその段階で関わっていた人物)だ。
この時、曲を評価するのか、オーケストラを評価するのかで評価基準は大きく異なる。
オーケストラの評価をするなら、曲の解釈、一体感、技術面などを見るだろう。
曲自体の評価をするなら、曲の構成、アレンジなどを見るだろう。
フィギュアスケートで謎なのはどっちを評価したいのかよく分からないという点。
私には、オリンピックの性質上、選手(オーケストラ)を評価しているのだと思っているが。
だったら、演出自体に関する評価は、極力排除するべきであるはずだ。
演出自体が点に影響するのであれば、事前に演出自体の点数を公表するべきだ。
と思ったぴょん。
意外と「ぴょん」に反応があってワロタ。
え?これは既にあるのでは?
構成できちんと出る。
deneb-y
スノボハーフパイプやスキーモーグルと変わんなくね?ジャンプやステップ、スピンといったような「技」の完成度・出来栄えを見るってのが大基本→それが出来た選手を評価する。
文章力無くて申し訳ないが、ここで言ってる「演出」というのは、あくまでもPCSの一部の話。TESの話ではない。
表現する人(選手)を評価するのであれば、音楽とか振り付けとか自体(これを文中では「演出」と呼んでいた)の質(芸術性)が点数に影響するのはおかしいよね、ということが言いたかっただけだ。
極力選手以外の人の手による部分は排除するべき、あるいはそこにも基準を設けた方がいいと思うわけだ。水着にしてもスキー板にしてもボブスレーの乗り物にしても選手以外が関わる部分には基準あるわけで。
TESの評価についてはフィギュアも他の評価競技と同様。綺麗に高くジャンプした方が点数高くなるのは当たり前。
歩夢君の完璧なダブルコークテンよりもiPodの完璧なキャブダブルコーク1440の方が評価が高いのは当たり前。
むしろモーグルとかハーフパイプとかより、技術(ジャンプとか)に明確な基礎点が決まってるフィギュアの方が厳密といえる。
Harnoncourt
音楽関係にたとえるのはイマイチ適切でないぴょん。フィギャーには楽譜に相当するものがないぴょん。音楽にたとえるならピアニストなどソリストのコンクールだぴょん。流派や派閥があるあたりも同じ構図だぴょんw
うむ、完全にその通りだ。オケでの例えは間違ってた。
そう考えると、折角ショートとフリーで2回もやるんだから、ショートは全員同じ曲同じ構成(個々の技の難易度は演技者次第で変わる)でやるか、あるいは大会側で事前に吟味して用意した幾つかのプログラムから選ぶ形にするのが正解かもしれないと思ったぴょん。
637 :ソーゾー君:2014/02/16(日) 14:36:44 ID:wkFlx6KQ
「団塊世代、エリート一族、有名大学卒業のエリート」←コイツ等・・思いっきり洗脳されてるからな・・
ひっくり返るから思考停止するんだよ・・洗脳の恐ろしいのはこれなんだよ・・
>>621も俺もひっくり返ると言う感覚が少ないの・・知らないだけだからw
選民思想に洗脳されてるエリート達の嘘も知らないし興味ないの・・
「クラシック?芸術?文学?しらねーよ・・」と言う連中を洗脳出来ると思う?
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1387207762/
実はゴーストコンポーザーが作曲していたものだし、そもそも聾ではない疑惑もある佐村河内だが、もともとの物語は全聾の作曲家の生んだ奇跡の音楽みたいな話なわけだ。作曲にとって最も重要な感覚である聴覚を失いながらも名曲(?)を生み出したというのは(今から思えば)信じがたいことではあるが、しかしベートーヴェンという先例があるので受け入れられる素地はあったのだろう。従来より楽聖の全聾説には疑問が挟まれているが、よほどクラシックに関心でもなければ知らなくても当然である。もちろん、仮にベートーヴェンが全聾でなかったとしても、難聴を抱えながらあれほどの傑作群をものしたのは奇跡だ。
そして私はもうひとつ似たような奇跡を、そしてベートーヴェンよりはるかに信じがたい奇跡を知っている。すなわち、塙保己一である。
日本文学・日本史を主とする一大叢書『群書類従』、『続群書類従』を、そして『大日本史料』のベースとなった「史料」を編纂した保己一は全盲であったという。信じがたいことである。単に読んだもの(読んでもらったもの)をほとんど記憶しているというだけならば、問題は記憶力のみであり、そういう異能者の話は稀に聞くので信じられないではない。たとえば、井筒俊彦の家を訪れたアラブ第一の学者が、本棚にずらりと並ぶ本を見て、「本が焼けたらどうするんだ。お前は火事ごときで研究ができなくなるのか」と笑ったとか。もちろんこの学者は必要な物はすべて記憶していたわけだ。
しかし、編纂である。複数の本から善本を選び、校合して本文を確定するのだ。しかもその中には大量に漢文(変体漢文)が含まれているのである。これらの作業に最も重要な感覚が視覚であることは言うをまたない。目で見れば即座に違いがわかり、どの漢字を使っているかを認めることができるのだから。つまり保己一は編纂作業に最も重要な感覚を失いながら、日本史に燦然と輝く大偉業を成し遂げたのだ。
正直信じられない。意味がわからない。実際には、プロデューサーやディレクターの役割を果たしたのであって、実務にはそんなに噛んでなかったのか。仮に編纂実務に携わっていたとしたら、どのように行っていたんだろうと疑問に思っているんだけど、その点について詳述したものが見当たらなくて困っている。なんかいいのないかな。
佐村河内守の話
を煽った以外はなにも悪い事はないと思う。
どれも皆無だろう。残念ながらクラシック愛好家であっても
プロであっても同じだ
なのは、間違いない。才能があっても華が無い。
会見をみてもわかるが『苦難を乗り越えた雰囲気のある作曲家』とアカデミック畑
出身の斜視で風貌にも華の無い現代音楽ならば、前者をとるだろう。
たとえ片手間に作った曲であって、ゴーストライターを使った
佐村河内を完全な悪者にはできない。
いう見方もできる。
ある。
あった事を彼は忘れてはいけないと思う。
いくつか記事見たりはてブ見ても「誰?」って反応なかったから驚いたのね。
やっぱはてなに寄り付く人たちってスノッブ気質の人が多いんだなーと思ったわ。
現代音楽とかクラシック界とかまったくわからんし、お偉いらしい先生様とか登場人物誰も知らないしな。あ、キダタロー氏は知ってた。
大勢の人を騙したなー! 被爆者/障碍者という神聖にして侵すべからずな存在を騙ったなー!(建前)
この純粋で凡百とは違うきらめく感性を持った俺様が認めてやった美しい幻想を打ち砕いて恥をかかせやがったなー!(本音)
って、「一杯のかけそば」だな。
まあ汚い手法だったとは思うけど、かんたんに付け込んでがっぽり儲かる入れ食いの生簀があったから網突っ込んだってだけの話だもんね。
幼少期
・泥遊びをさせる
・とにかく体を動かして遊ばせる
・英語でディズニー・アニメを見せるなど、マルチリンガルになれる基礎を作っておく
・格闘技を習わせる
・勉強は最低限で、体力を作り、集団の中でリーダーになる経験をつませる
・人生の中で唯一、犯罪まがいのことをしても許される時期を満喫させる
・不良に憧れるバカ女の彼女ができるから、連れ込めるようにボロアパートを借りて一人暮らしさせる
・卒業するまでにやることやって、さっさと反抗期を落ち着かせる
・語学だけはできるので、半年ぐらい受験勉強して中の上の高校に入らせる
・高2までは勉強よりバイトしてバイク買ったり楽器買ったり、友達と夜通し遊び歩いたりする経験をさせる
・受験は高3から始めて、一浪させて得意の英語を武器に早慶文系に入れる
・ずっと真面目に生きてましたって顔を覚えさせる
ブクマあたりでははてな村ネタとして消費されてるようだけど、似たようなこと時々考えてるのでマジレス。
とはいっても、俺は小説書いてるわけではなくて趣味で楽器弾いてる立場だから少し前提条件が違うかもしれない。それはあらかじめ承知してもらった上で読んで欲しい。
で、結論からいうと、あなたが斬新な発想が失われたと思っているのは別に「はてな」に出入りしているのが原因ではないと思う。単にあなたが大人になったからだよ。
ゲスパーを承知で言うと、あなたの若い頃の作品が「セミプロに近い実力」であったとしても、そこからプロのレベルに至るまでには見た目よりずっと大きな断崖があったはずで、あなたは現在その断崖にはまるべくしてはまっているだけだと思う。
例として、クラシック界では題名のようなことが言われる。全く当たっていない訳ではない。上手な子供はレッスンの課題で小学校高学年ぐらいでモーツァルトなんかを次々与えられて、なかなか魅力的な演奏をしたりする。一方で、超絶技巧の難曲を弾きこなす音大生に、古典的で簡素なモーツァルトを弾かせてみると機械的で散々な演奏になることもまたよくある。そうでなくても音大生の演奏って力任せで面白くないことが多い。結果、このあたりの曲には音大を卒業してからも苦手意識を持ちっぱなしという人が意外と多くて、巷のピアノ教師なんかじゃ、40代とか50代になってはじめてモーツァルトのような古典的作品のすばらしさがわかった、なんてことを言っている人が意外なほど少なくない。だいたい、中高生あたりの間にプロになるための修行に着手したあたりで、この辺の作品は練習課題にしか見えなくなってしまったりするらしいんだね。
ただ、聴き手の立場で言うとこれは理解に苦しむ現象ではあるんだ。モーツァルトって純粋で単純素朴みたいに言われるけど、聴いていて触発されるのは、憂愁とか諦念とか憤慨とか、なかなかどうして複雑な「大人の感情」も多分に含まれている。子供がこの辺の感情を消化して表現できることなんて到底できない以上、子供がどれだけ上手に演奏したって限界があるんだよ。
じゃあ子供がどうして音大生よりもマシな演奏をすることがあるかというと、逆説的だが子供は「何も考えていない」からだ。ちょうどあなたが超自然的なものについて突き詰めて考えずに感性で処理していたのと同じようなもの。そうすると、わからない部分は「適当」に弾くことになる。しかしモーツァルトの作品は音楽的に無理がなく自然に作られているから、「適当」でも一応それなりに形になってしまったりはするし、それを聴く大人は「深み」を勝手に読み取ってしまって、子供の演奏を褒めてしまったりするわけだ。実はその演奏にあらわれた「深み」は全部作曲者のおかげなのにね。
ところが音大生は違う。歳を食ってしまえば、怖いもの知らずでもはや「適当」になんか弾けやしない。一見なんてことなさそうな作品なのに、あれこれ試しても本質に触れた気がしない。だからこそ迷う。悩む。その結果何もわからなくなり、技術と理屈だけで無理押ししたような演奏になってしまう。そして聴き手からは「子供の方が上手だ」と酷評されることになるわけだ。
でも、これって退歩なんだろうか?違うよね。子供時代の、曲に乗っかっただけの「適当」な演奏が、自ら曲のよさを引き出す成熟した演奏に進化するまでの過程には、「曲に振り回される散々な演奏」という段階をどうしても通らなければいけないということでしかない(もちろん、その辺をあっさりクリアしてしまう人もいるのだけれど、そういう人は並以上の才能に恵まれていた一般化できない存在であることは明らかだから今はおいておく)。
あなたの今の状態って、そういうことじゃないの?「作品」という表面では長いスランプかもしれないけれど、あなた自身は過去より確実にものを理解できるようになった(「はてな村」がそういう訓練の場として適切か、についても言いたいことは大いにあるがこれも今はおいておく)。この状態で元の場所に引き返そうったって、戻った先に進歩があると思う?戻った先は「退行」じゃないの?
そうじゃなくて、あなたが今やるべきことは、強化されたあなたの頭で、あなたの過去の作品のよさと限界を冷静に分析することじゃないの?そして分析した結果、摩耗した感覚があったらそれを再度取り戻し、同時に過去の作品の限界を超える方法も模索していく。そういう格闘の先にしか、あなたの進歩はないように思えるんだけれど、どうだろうか。
と、全部あなたの話をネタにして自分語りしてみた。的外れだったら「ゲスパー乙」で片付けてもらって構わない。しかし、現在の気づきから再度ナイーヴさに逃避してしまうのではあなた自身の進歩を殺してしまうのではないかと心配になったんだ。
役に立とうが立つまいが、何かを考えるきっかけになってくれれば幸い。
「音楽を聴きながら勉強すると能率が落ちる、聞くならクラシックとかな」
というのはよく聞く意見で、俺もそれを盲信していて、仕事中に音楽を聴くのはためらっていた。
だが、聞き出してから、考えが変わった。
①作業時間が見通せる
作業用BGMは短いものは15分~3時間といろいろな長さがある。
これらを聞きながらやると、「1時間勉強すっかなー」と初めて、ずーっと音楽聞きながらやっていて、「お、30分たったかー」と、一種のタイマーになる。
遊びの時も、音楽が終わると、「あ、1時間たったな、終わりー」と一種の区切りになってよい。
②気分によって変えられる
まあ、仕事をやるときでも、気分ってのはその時その時によって違うくて、ここをコントロールするのは難しい。
だけど、「テンションが足りない→テンション高める音楽」 「落ち込んでいる→癒し系の音楽」 「集中できている→瞑想系のBGM」と、気分に合わせて音楽を選べばそこそこ調子に合わせて仕事をできる。
気分自体はコントロールするのが難しいから、気分に合わせて音楽を使って仕事をするわけです。
③作業に集中できる
作業していて、単調な作業だと、どーしても、『飽きる、別の事を考えだす』となるんですが、飽きようとするとBGMが耳に入りますし、別の事を考えるより先に耳がBGMを聞くので、細かい精神の動揺を自然に処理してくれます。
ノイズキャンセラーというか、スタビライザーというか、安定剤というか、緩衝材というか。
疲労もたまりにくいです。
作業時間であると同時に、『音楽を聴く時間だ』ともとらえられます。
作業と考えると苦痛ですが、『あの作業用BGM集どんなのかな~』って聞く時間だと思うと多少は楽しんで作業を肯定できますw
イヤホンを片側の耳だけにつけると、そっちの脳みそが使われるように思います。
事務的仕事なら左耳で聞く。
どっちかの脳みそ使って疲れてきたら逆側の耳だけにイヤホンつければ片側の脳みそが休まって使ってなかった方の脳みそで仕事できる。
う~ん、でもこれはプラセボかもw
⑦感覚を満たすことができる
満足している状態で仕事するのと、体が満足していない状態で仕事するのでは疲労や飽きが全然違うかなと思います。
⑧無限の楽しみ
<デメリット>
やっぱ、言語を入れるとキツイですね。ですから、『音楽』というよりは『BGM(バックグラウンドミュージック)』を選ぶ感じで。クラシックとかjazzとか。
②音楽が無いと集中できない、、?
ツィメルマンは、現役ピアニストの中では一番うまい、と私は思っている。彼の音が一番好きだ。
だから毎年彼のコンサートだけはなけなしの金をはたいてS席で聴くことにしている。
今回も、非常によかった。
彼は、フォルテは単に力で弾くものではない、単にデカイ音を出せばよいというものではない、というのを体現していて、
相変わらず全然大袈裟ではない自然な動きで物凄く深く豊かなフォルテを出していた。
ピアニッシモも珠玉のうつくしさだった。透明できらきらした全く濁りのない音だった。
彼はいつもそうだけれど、ただ漫然と弾かれる音などただの一音もなく、かつ重過ぎない。
うまくいえないのだけれど、ツィメルマンは抜群のリズム感というか拍子感というか、
クラシックに似つかわしくない言葉でいうのならグルーヴ感のようなものを持っていると思う。
ショパンのバラ3、4とか、とても心地よく体を揺すってしまうような。
私は曲に入り込みすぎてあまりにアゴーギグをきかせたルバートな演奏は苦手で、
彼はそのへんの匙加減がちょうどよくて、流すでもなく入り込むでもなく、
その曲にうまくのっていけるような拍子感を出してくれる。
主題を繰り返す解釈は初めてだったのでちょっとそこだけ戸惑ったけれど、
その意味で31番がとてもよかった。第一楽章もよかったし、フーガもとても気持ちよかった。
ちょっと急ぎ過ぎている気がしたし、珍しいことに濁っていた音があった。
この解釈はもう一度聴いて考えたいと思った。が、実際は貧乏なので一回きりしかいけない。
一番感動したのは32番第二楽章だった。
それにしても、このまま時が止まってほしいと思う瞬間が何度もあった。
32番のトリルとか、あまりにもうつくしくて、ぞくぞくして、しあわせで、
このままこの空間にいたい、元の日常に帰りたくない、と思った。
この音をずっと心にとっておきたい、そう思うのに、
演奏会が終わって、荷物をとって、会場を出て、駅へ向かって、電車に乗って。
そのうちにどんどん消えていってしまう。
家に着くころには、大切に包むように心に刻みつけてきたはずなのに、
テクノロジーが発達してたいていのものは再現できる時代になったけれど、
あの音は一回きりでもう戻ってはこない。
時を止めておきたいなんて思うことはそうそうないのだけれど、
そう思わせてくれるのだから、
ツィメルマンは腰痛のため今回のコンサートスケジュールを大幅に変更した。
ミスタッチもあった。
どの程度のミスタッチが演奏そのものの価値を損ねるかは人によって許容量が違うだろうけど、
今回ぐらいのミスタッチだったら私は気にならなかった。
ただ、昔よりは確実に増えていた。
当たり前なのだけれど、これほどの人でも加齢には勝てない。
ポリーニを見てよくそう思っていたのだけれど、ツィメルマンだって例外ではないと今回思った。
その先も、聴きにいけるだけ、聴きにいくだろう。
時間を、止めたい。
ていうか。
あなたが完璧主義なのは知っている。要求レベルが高いのはわかっている。
だけどもう完璧じゃなくてもいいから、少なくともこの感動を思い出すよすがとしたいから、
CD出してくれ。
金があれば全会場聴きに行くさ。でもないんだもの。
ショパンのソナタと今回のベートーヴェン出して下さい。お願い。
‐ 2020年12月、トーキョー ‐
より便利により早くより安価に物が動き人が動くことが可能になったものの、
今はすっかり人々の生活に定着したタブレット端末によりAamazonのサイトで
いわば職人道具と化していた)
パートナーとは恵比寿か代官山に食事に行こうかとも提案したが、
お気に入りのイタリアンレストラン「アリエッティア」がなくなったこともあり
家でテレビでも見ながら食事をして過ごそうということになっていた。
24日のクリスマスイブは贔屓にしているコメディアンのバラエティ番組が放送されるので
外に食事をするより家でのんびりするほうが私は気に入っている。
40歳になっても動画サイトで二次元のヒロインとクリスマスを過ごす、
という内容のタグを漁る習慣は抜けないでいる。
クリスマスのシーズンに聴く音楽は大抵iTuneストアで購入する。
ビートルズの【ラスト・クリスマス】、ジョンレノンの【イマジン】
ドリームズカムトゥルーの【WINTER SONG】、山下達郎の【クリスマス・イブ】は
毎年欠かさず聴くようにしている。
今年はそのプレイリストに流行りのアイドルソングか今季で一番お気に入りの
アニメソングを入れようかと思っている。
大学時代からの熱心な趣味(と言って差し支えないだろう)であるアニメ鑑賞は
この歳になっていても続いている。むしろその病的な情熱はより強くなったと言っていい。
1週間地上波の番組を全て録画することができるHDDレコーダ**(ソニー製)には
パートナーが呆れるのも無理はない。
週末はたいてい道場に行くか図書館に行くことを日課にしている。
気が向けば隣町のラーメン屋までドライブに行ったり、都心まで足を伸ばして
外出するのが億劫な場合はネットワークゲーム(すでに7年もやっている)
に興じて一日を過ごすこともある。
本は主に日本文学やミステリー、SF、技術書、ビジネス書、自己啓発書などを中心に
読んでいる。東野圭吾が未だに現役なのには驚きを禁じ得ない。
自分で創作した小説まがいのものをWEBにアップすることもたまにあるが本格的な長編を
完成させたことは一度もない。いつかしっかりとした長編SF小説を買いてみたいがそれは
まだずっと先のことのようだ。その夢が叶うのはあるいは老後かもしれない。
ライブなどもたまにいく。
ロックフェスの数もだいぶ少なくなってきたが
それでもライジングサンフェス、ロックインジャパンフェス、サマーソニック、
フジロック・フェスティバルなどの主要なフェスには根強い音楽ファンが毎年何万人も
参加している。初音ミクなどのVOCALOIDのDJもだいぶ定着してきたようで
アニメ色がより強くなったのは2000年代では考えられないことだ。
相変わらず邦楽ロックが中心にミュージックステーションとかに出演するようなアーティストを
好んで聴いている。ジャズやクラシックにも挑戦したいと思っているが
若いころに比べるとだいぶ腹も出てきたのでなるべく運動はしようと考えている。
年に1度はするようにしている。
なんでも手を出してすぐに飽きる癖はなかなか抜けないようだ。
月に一度は料理をする。
(ちなみにオニオンフライを下品にならない程度に散らすのが美味しさのコツだ)
酒は相変わらずビールを中心に飲んでいるが
バーボン、日本酒、焼酎、ウィスキー、ワインなども好んで飲むようになった。
たまに燻製を作ったりすることもある。
行きつけのバーも随分増えてきた。
新宿のゴールデン街や池袋のショットバー、中野の立ち飲み屋などに
行くのが週末のささやかな楽しみだ。
焼き鳥屋や蕎麦屋で晩酌するのが好きだが家庭的なイタリアンレストランだったり
本格的なソーセージを食べさせてくれるドイツ料理、泡盛が飲める沖縄料理、
銀座では映画を見たり、老舗のスイーツを買いにいったりするのが好きだ。
みんなそれなりに年をとり良くも悪くも変化していった。
インターネットの高速通信網は日本中に貼り巡り(それは私に生物の毛細血管を連想させる)、
かつて”スマホ”と呼ばれるものを肉体に移植するのが普通になったが、
脳の情報をデジタル情報に置き換えて肉体を必要としなくなる時代が到来するのはまだ先のようだ。
人類がテクノロジィに踊らされているという状況はいつの時代も変わることはない。
願わくばテクノロジィが戦争の為でなく人類の平和のために使われることを
ひどく薄いインスタントコーヒーとともに。
2008年に、「勉強を続けよう」と思い、近所にある喫茶店に朝通うようにしてみた。
その喫茶店は朝5時半から営業している。会社に行くのが7時からなので、だいたい6時30分くらいにその喫茶店に行って、30分程度勉強をしながら朝ご飯を食べるというのを続けた。
注文するのはモーニングセット、400円。これだけ。でも、平日は毎日行くから、そのお店の僕による売り上げは月1万円程度にはなる。1つの席で売り上げが1万円というのは悪くはない数字だと思う。
これを4年近く続けたのだが、体調を壊してから、その喫茶店に朝行くのをやめてしまった。
「いつもレジにいたお姉さんは今も元気でやっているだろうか」と思いつつも、中途半端に数回程度そのお店に行くのがどうも行きづらい。
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しばらく体調が悪い月日が続いたが、今年の夏頃から体調が復活したので、また勉強を続けようと思った。でも、朝に喫茶店で勉強するのは30分だけと短いと感じ、夜に喫茶店へ行くことにした。残念ながら、朝に行っていた喫茶店は夜20時には閉まるので、ゆっくりとはできない。だから、別の喫茶店を色々回って、自分に合う喫茶店を見つけた。
20時頃にその喫茶店へ行く。ホットレモンティー400円を注文する。注文するものは大抵一杯の飲み物だけ。注文したものを飲みながら、勉強する。まずは仕事の技術書を読む。Kindle版の洋書の電子書籍をiPad miniに入れているので、それを読みながら、分からない事項は日本語版の本を参照しながら読み進める。一区切りついたら、今度はPDFにしている別の技術資料を読む。Good ReaderというアプリでiPad miniで読む。これも一区切りついたら、今度はKindleの英語の小説を読む。自分の好きなSF小説を読みながら、自分の身に付いていない単語を3つだけ、新たにマーキングする。このマーキングしたものは後でweb単語帳に登録する。次はCASIOの電子辞書端末を取り出す。ここで、ふと思った言葉の英語を調べる。また、英英辞典を読みながら、自分が知らない単語をマーク登録する。あっという間に10個程度の単語がリストにあがる。疲れたので、クラシックを聞く。電子辞書端末にクラシック名曲2000フレーズというのがあるので、それを聞いてみる。自分の知っている曲であらたに名前を知ることができると嬉しい。気分転換できたら、今度は「応用物理 数学演習」という参考書を取り出す。自分が知らなかった事項をマーキングしたり、知っていたことの復習をしたりする。だいたい、1時間半から2時間程度になる。最後に、その日覚えたいと思う英語フレーズを頭にたたきながら、喫茶店を後にする。家に帰る頃には、そのフレーズは身に付いている。
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この、夜に行く喫茶店だが、満席になるのを見たことはない。時間帯がいいのか、あるいは、もともとそういう程度の客の入りなのかは知らない。満席になった時は、営業妨害になるので、すぐに出て行こうと思うが、そうでない限りは、ゆっくりと自分が満足いくまで、上記のような勉強をしようと思う。
なお、勉強に少し疲れた時、ふと、右隣や前方を見ると、同じように勉強している人の姿を見ることも、まあまあある。こういうのも、勉強を続けていくモチベーションになるかと思う。
自分に合う喫茶店を見つけるには、色々な喫茶店に行ってみればいいと思う。無理に合わない喫茶店に通うよりは、よりリラックスして何かを続けることができると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20131111183828
http://anond.hatelabo.jp/20131112173817
それで続けて書くのもなんだが、こんなやり取りを思い出してしまった。
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某男性「女って、基本、創造性が無いよね。どんな分野でも最初から始めたり考え出したのは男ばかりだし」
私「えー、そんなこと無いでしょう。女の作家とか芸術家とか大昔から大勢いるし…日本だったら紫式部とか、樋口一葉とか。今だったら少女漫画家とかイラストレーターとかすごい人がたくさんいるし、女のシンガーソングライターなんていくらでも居るじゃない。近代以降なら科学者だって結構居るし」
某男性「でも、それって、たいてい男が始めて苦労して定着させたジャンルに後から入ってきて認められた、ってパターンでしょ。物語や日記だって最初に書き始めたのは男でしょ。漫画だって今の形を作ったのは手塚治虫とかトキワ荘出身者とか、劇画でも梶原一騎とか、みんな男でしょ。少女漫画だって最初は男が書いてたんだから。科学だって、新しい法則や分野を作り出すレベルの発想や発明をしているのは男だし、そもそも科学っていう分野を作ったのは男。音楽だって、クラシックもジャズもロックも始めたのは男。まあ単体ではすごい女性もいるけど、どれも大抵、一ジャンルを築き上げたりしたってわけじゃないからね。あくまで、男が完成させた枠内での成功だったり、多少変えたってぐらいだから」
私「……看護婦とかは? あれはナイチンゲールが始めたんでしょ?」
某男性「看護だって医者ありきだし、医学を始めたのは男じゃん。俺が言いたいのは、女が最初から始めて、女が独自に生み出して、女が自力で創り上げた文化はまず無いって事」
私「……(じゃあ、結局、何だと言いたいんだ…)」
某男性「まあ、何かのスタッフとか助手とか、補助的な仕事なら男より出来るけどね。それくらいの立ち位置が女には丁度良いし向いてるし、元々そういうふうに出来ているんだよ」
私「……(ああ、私が今の進路を諦めて、俺の仕事の手伝いをしてくれってことかな…もし今の進路に進んでも俺を超えられない、俺を超えるなと言うことか…?)」
某男性「結局、女が独自にやれることって、子供を生むことぐらいじゃないの? それでもまず男の精子が必要だし。……聖母マリアも神様が孕ませてるし。そうそう、神様も男だからな!」
私「……」
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