はてなキーワード: フジ子・ヘミングとは
世間では無趣味な人をクラッシクの枠へマニアックそうな気配を感じるからという理由でブチ込む?
ぶち込まないやろ?
ワイだってエディ・ヒギンズやフジ子・ヘミングウェイなんかが好きだか(ほかにもいるけど一例)
ただ、それだけをもって、ジャズやクラッシクおたく、あるいはジャズやクラッシクが好きだなんて言わない
音楽には様々なお約束ごとがありジャズにもクラシックにもあるが
ただ、知識がなきゃ音楽が楽しめないなんてことは当然ないので、
好きではなく、“楽しんでいる”って表現するね、楽しむのに知識は要らないからだ
ガチの人が親切であーだこーだいうかも知れんが、少なくとも批判めいたものは回避できる
しかしオタク文化にはそういったものが全く無くなってしまったよね
オタクを自称する人とコミュニケーションをとるとお約束があまりに通じない
さらにはお気持ちで勝手にオタクの歴史や現在の状況を創造してしまう
まぁリアルではそういう人いないし、ネットも集まる場を考えれば良いだけなので、
実害はないのだけど悲しいね
お返事どうも。
言いたいことはわからなくはないんだけれど。
それに対してお金を払おうと思う人が、批判されるのは変な話だ。単なる個人の趣味に難癖つけてるのと同じだと思う。レス増田は違うのかもしれないけれど、そういう意見も見るので、これは愚痴。
いや、そういうことじゃなくてね。あるいはそういうことであっても別に構わないのであってね。
あなたみたいなのは「近視や肥満の人の野球大会」を感心して観ているようなものだ、と言っているの。近視や肥満が野球選手になる上で致命的な欠陥でないというのは、例えば古田敦也とか中村剛也とかその辺の例を挙げればわかってもらえるよね。
で、もしあなたが近視とか肥満というのに何か特別に感情を揺さぶられるという特殊な感情の持ち主であるという自覚があり、なおかつあなたは純粋に「野球」というものを楽しんでいるのではないという自覚があるのでないかぎり、それは「個人の趣味」とは言えないと思うよ。
もちろん、そういうことが全部悪いとは言わない。例えば将棋の女流棋士制度というのは実際そういうものだからね。将棋というゲームには男女差はないのだけれど、実際問題として普通のプロになる基準をクリアできる女性がこれまで現れなかった(最近一歩手前まで来ている人はいる)からこそ、普及だとかいろんな大人の事情で別の制度が設けられている。で、女流棋士が実力で普通の棋士(これまで全員男性)に及ばなくともそれなりにファンがついているのは、良くも悪くも色んな意味で「女である」ということを売り物にしているから、と言わざるを得ないよね。「男社会を切り崩す」というジェンダー的に「正しい」見方であれ、オヤジのスケベ心であれ、そういうあらゆるものを換金していることになる。で、将棋連盟の側もファンの側もそれについては百も承知であるわけだ。
そういったことを自覚した上で「そんなことは百も承知だ、それで何が悪い」というのであれば、それはそれでまあ「個人の趣味」と言えなくはないと思うよ。
でも、佐村河内やフジ子・ヘミングの件についてそれが当てはまるのかな。将棋と違って、クラシック音楽において身体障害は致命的な不利とは限らないわけだ。野球における近視や肥満だってそう。少なくとも「近視・肥満野球」については、野球ファンは「そんなものをプロ野球と同列に並べないでくれ」というよね。で、それについて文句を言うのであれば、文句を言う方がおかしい。
あるいは「リケジョ」という言葉について考えてもらってもいいよ。科学界における女性はクラシック界における身体障害者よりもっと障壁が少ない場所にいる。そして、科学には「女性枠」なんてものは当然ない。つまり「リケジョ」というのは女性が理系に進むことへの本人や親の偏見を取り除くための方便でしかない。にもかかわらず「リケジョ」っていう概念はジェンダー的に不適切だとヒステリックに叩かれるし、実際それなりの危険がある概念であることは間違いはないよね。
そして、クラシック音楽への「障害者枠」については少なくとも「リケジョ」よりもはるかに社会的にまずいものだ、ってのはわかるでしょ?
障害者が障害を使って金を稼ぐ事自体が健常者と同じ扱いではない、という観点は、分からなくもないけれど、それを言ったら、年寄りに席をゆずるな、年寄りだから働かず年金貰って生活するなんて甘えだ、子供も身の回りのことや収入も自分でやれ、と言いたくなる。言わないけれど。
少なくとも、そういう年齢に甘えてる世代よりは、自分の障害を使って自分の稼ぎを自分で得ようとする彼等彼女等の方が、マシだと思う。
野球の例でいうと「マスターズリーグ」ってのがある。これは、かつての名選手が今となっては無様な姿をさらす草野球を、笑いのネタになることを承知で売り物にしてるというものだね。これが問題でないのは、選手の側も観客の側も野球の技術ではなく別のものを求めている、という共通了解があるからだね。
でも、クラシック音楽はそうではないでしょ。一部のマニアを除いてはなかなか敷居の高い世界だし、ポスドク問題と同じでなかなか商売にならない厳しい世界。ファンを獲得するには、結局本当に質の高い作品の質の高い演奏を世に出し続けて、それに偶然触れた人が急に感化されるのを待つしかないっていう厳しい世界でみんなやってるわけだよ。
そんな中で、「現代のベートーヴェン」とかいって粗悪な作品を売られることは、本当に質の高い作品や質の高い演奏家がスポイルされるリスクを高めてしまう。「クラシックなんてたいしたことないじゃん」と思われてしまったらそのせいで才能ある音楽家が何人も葬られることになるかもしれない。女流棋士とかマスターズリーグとちがって、「本物」のおまけではなく、「本物」と競合してしまうんだよ。
そういう意味で、何が「本物」であるかがわかりにくい世界で、「本物」と勘違いさせて贋物を売り出すというのは問題のある商売だと思うよ。ホメオパシーとかと同じだと思うけど。
ええとね、「大江光」「和波孝禧」「辻本伸行」「フジ子・ヘミング」「川畠成道」あたりでぐぐってみてからそういうことは言おうね。
クラシック界ではもともと、障害と結びつけてお涙頂戴物語で売り出すって手法はこの数十年常套手段だったわけ。
その一方で、こういう人たちはそういうお涙頂戴物語で下駄を履かせて貰ってるだけで、実際の演奏はたいしたことないって批判もあった。
実際、上に名前を順不同で並べたけど、正直言って実力はこの中でも千差万別だからね。障害がなくても売れてただろう人も、そうでない人もいる。
で、本当の意味で「障害者を受容する」ってことは、「障害者」を特別扱いしない、する必要がない状態のことを言うってのはいいよね。例えば近視なんて昔なら弱視とかわらない視覚障害者だったわけだが、今となってはメガネかコンタクトがあれば「健常者」と区別する必要は全くない。パイロットの採用試験とか除けばね。
その上で、「特別扱い」されずとも芸術家として高い尊敬を受けてる人ってのはクラシック界にはもともといっぱいいるわけ。ベートーヴェン自身がまずそうだし、それからたとえば現役で世界的に有名な例でいうとパールマンとかクヴァストホフとかかな。こういう人の音楽を聴くとき、この人たちが身体障害者であることなんて誰も意識してない。
はっきり言うと、ディープなクラシックファンはベートーヴェンやパールマンやクヴァストホフは尊敬してても、佐村河内守(発覚前)とか大江光とかフジ子・ヘミングなんてのは馬鹿にしてたりするわけ。理由は単に「腕が良くない」から。二流音楽家がお涙頂戴物語のせいで超一流の椅子を奪っていると、眉を顰めているといってもいい。小保方晴子にたいしてアカデミアが厳しいのと同じ理由の一部とも重なるだろうね。
そういう意味では、佐村河内だのフジ子だのを甘やかす「社会」というのはバリアフリーの思想の観点でも、クラシック音楽への理解の観点でも、はっきり言って底が浅いとしか言いようがなく、批判されても仕方ないと思うよ。
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2011/09/post-346.php
フジ子・ヘミングについて冷泉彰彦が書いた文章を「いまさら」見たので,わたしの雑感を書く.
私が聞いた時,彼女の調子が悪かったのかもしれないが,彼女の「音」にはまったく感慨を覚えなかった.個人的に感想としては,演奏が始まる前,調律師が調律していた音の方が,よっぽど「ブリリアント」であった.おまえはなぜヨーロッパのオーケストラを聞くのか,と問われたら,こう答えるだろう.「音が違うから」と.それだけ,日本のオーケストラとヨーロッパのオーケストラでは,音がちがう.ピアノ演奏はあまり聞いたことがないが,少なくとも一人立体的な音を出している人はしっている.アルゼンチン出身の女性が出していた音は,立体的でたいへん美しかった.
たしかに,フジコの演奏を予断なく聴いて感動している人に水を差すようなことはしない.しかし,朝日新聞に出ているような広告をみたり,フジコがそういった過去を持っていることと彼女の演奏を結びつけたりといったことが過剰であると見受けられるためにクラシックファンに批判されているのではないか.
クラシックの音楽を解釈するために,人生観そして世界観に絡めて理解するというのは理解できる.しかし,それは立ち現われている音と「わたしの」人生観,「わたしの」世界観を絡めて解釈する行為であって,演奏者個人の来歴はさほど関係ない.演奏者個人の来歴が関係してくるのは,演奏に対しての価値判断が行われる場所においてであろう.つまり,フジコの演奏を聴いて,「天涯孤独だから」演奏に感動するというのはあまりよろしい態度ではないとわたしは思う.よって,「ブレンデル引退コンサートに巨匠の人生が凝縮されている」とわたしは述べない.「ブレンデルはさすがに引退か」とは思うが,そことは離れた場所で演奏を聴き判断する.そして演奏を判断するためのものとして,「音」「技術」「技巧」というものがあるのである.どんない偉大な経歴であったとしても,その場で聞いてしっくりこなかったのであれば,しっくりこなかった感動したのであれば,感動したと思えばよい.その場所に,「フジコの半生はこんなで」とか「ブレンデルの引退コンサートだから人生が云々」という話は関係ないのである.そういった話を引きはなして,演奏を聴かないがためにフジコファンは「耳がない」と馬鹿にされるのである.(フジコの弟が大声でブラボーと曲毎に叫ぶのも興ざめ)
物語を作って,物語の登場人物をステージにのせ,半生を聴衆に回顧させ,お涙頂戴芸をやっているから,フジコは批判される.それにわたしから言わせてもらうと,最初にフジコなんぞの演奏を聴いてしまった方がかわいそうである(フジコの演奏をすべて私は否定したいのではない,最初に出したアルバムは良いと思う.その後は練習不足がたたってか,年なのかしらないが全然ダメだと思っている).
ピアノの演奏には,お涙頂戴芸以上に素晴らしい芸術がある.それの根幹となっているのが各人が出す音である.フジコは全くそこができていない(というよりも年で,もうまともな音が出ないのではないか.長年鍛錬してきた他の老ピアニストと違って彼女にはブランクがある).その点から,フジコはさっさとお涙頂戴芸をやめるべきだし,フジコの演奏を非難しているのは,頭の固い日本の馬鹿クラシックファンだという発言をするのもやめていただきたい.
あとCDだといくらでもごまかせるので,実演聞いて判断するべき.
わたしのおすすめのピアニストは,ハンガリー出身でいまはイタリアに住んでるおじさんとか,ルーマニア出身で最近日本に演奏に来たのにおなかが痛くなって残念ながら帰ってしまったおじさんとか,アルゼンチン出身で体調不良でコンサートをキャンセルしてしまったおばあさんとか,もっといろいろいるがこの辺で.