はてなキーワード: 全聾とは
生まれたときから全身不随、全盲全聾、犬でも「待て/お手」程度の指示は区別して理解できるのにその程度の言語理解も不可能な重度知的障害者で短期記憶能力にも致命的な障害があるという人は、就学年齢になったらどうされるんだろうか?
教育を受けさせる義務が例外規定があることを私は知らないのだが、例外がないとしても一体こんな人間に何を教えればいいというのだろうか?押し付けられる養護学校も困るのではないか。何を教えても暖簾に腕押し状態だ。
でもまあ自分が発達障害の病院付属のデイケア体験してみたとき、なんか気に食わなかったからそのカウンセラーの指示に対して理解してないふりをもともとのデイケアの規定の1時間ずっとしてたら、なんてことなく今日はこれで終わりみたいな感じで切り上げられた。
それと同じようにこういうのに対して養護学校も、理解しないことをわかっていようが形として教えることはして、終了時間になったらそそくさ職員室に逃げていく感じなのかな。
しかしそうだとしたらそんな形で守ればいいみたいな遵法精神ってかえって問題だよねと。
就学前に植物人間、同世代が高校生になるタイミングで奇跡的に回復という場合、国にはこいつに義務教育を施す用意はないらしい。
法律で就学年齢過ぎてるからそれで終わりって、デイケアのカウンセラーが時間経ったら自分の仕事は終わりだといわんばかりに行っちゃうのと同じ。
何年か前に、聴覚障害を持った音楽家が別人に作曲させていたことが問題になったが、彼は問題だったのだろうか。
まず、彼は何ら法を犯していないし、作曲活動上の倫理に悖ることもしていない。代理作曲なんて何も悪いことではないし、作曲家が楽譜を読み書きできなくて問題があるわけではない。
全聾の作曲家とか現代のベートーヴェンとか囃し立てたのは、NHKであって、佐村河内は特に悪くない。そもそも、曲が良いかどうかは、曲を聴いて各自が判断すれば良い話。良い曲だと感じたなら誰が作ってたかなどどうでもいい。
聴覚障害自体が嘘だったと言う人がいるが、少し考えればそれはありえないと分かる。障害者手帳を交付してもらうには医師の診断が必要なので、それを言っている人は医者が診断書を捏造したと言っていることになる。そんなことをするメリットは無い。
それにしても一番卑怯なのはゴーストライターの方じゃないだろうか?何がきっかけかは知らんが(分け前が不満だったのか、週刊誌にバレそうになったのか)、ノコノコ出てきて「告発」という形で、自分だけ正義面。客観的にみると彼こそが、聴覚障害者を広告塔に利用して作曲していたと考えられる。それが良いタイミングで相方を裏切って、自分は正直者だという論理は浅ましい。そういう論理が結果的に通用したことも空恐ろしい。
ところで
たとえばノーベル文学賞を受賞した作家の作品がゴーストライターによるものだったとしたら、作品の内容が素晴らしいので作者は誰でも良いとはならないでしょう。
基本的に有能ほど優遇されて無能ほど冷遇されるじゃん でもある程度以上無能になると逆にめちゃくちゃ優遇されるというか、許されるようになる
知的障害ボーダーの人がクズ扱いされる一方で重度の障害者を悪くいうことは社会的に許されない、みたいなさ
自活能力があるのに自活しないのはクズだから野垂れ死んでOK、でもないなら弱者だから社会として放ってはおけない そういう風潮があるように感じる
流石に重度の障害者が羨ましいとは言わない 手足が先天的にないとか全盲とか全聾とかすごいキツいだろうし、同情する
でも彼らは少なくとも何もしないでも人生に対して完全に被害者でいられるんだよな 何もしなくても許されるだけの属性を生まれつき備えてる
俺みたいな健常者(扱いされる人間)はそうもいかない 何もしないでいるとクズのフリーライダーってことになる 働ける力があるのに甘えて何もやっていない穀潰し、人間の風上にもおけないカス野郎になる
例のゴーストライター騒動で、「虚言癖」というのがクローズアップされている。「嘘をつくのは良くない」というのは簡単だけど、実は結構解決の難しい話題。
嘘にもいろいろあり、明らかに人をおとしめるための、詐欺などの嘘もあるけど、一方で佐村河内のような虚言癖は、自己防御の方が強いんだろうと想像する。
実際、自分にもある程度の虚言癖がある。かなり自覚しないと分からないのだけど、いざという時になると、どうしても嘘を言ってごまかしてしまう。社会人になって気がついて、「あ、俺、嘘ついてる」と少しずつ自覚を強めていくようになった。良くネットでネタにされる、「今何してた」って聞かれて「寝てた」って答えるという、アレのもうちょっと高度なバージョンで、それが無意識に発動している。仕事でミスを指摘されると、相手が責めている訳でもないのに、どうしてもそれっぽい言い訳を繕ってしまう。それが日常的に起きるので、自分でも気がつかないくらいだ。だから、嘘をつきそうになると、「本当のことを言わないと」と自分を言い聞かせたりしている。一方で弱音が吐けず、強がりの意味で嘘をつく時もある。
嘘をつくトリガーというのがどこにあるかは、人それぞれだろう。自分の場合は、いわゆる毒親問題だ。自分の父親は、自分の小さい頃から、何かミスをするとすぐにあれこれ文句を言ってきた。なので、どうしても人と本音で接したくないという思いが強くなる(本音を話すだけ徒労だし、嘘でも言ってその場を逃れないと精神的な圧迫が強いから)。そうなると、自分が厳しい状況に置かれそうになると、どうしても嘘をついて逃れようとしてしまう。
虚言癖を持つ人間を単に「誠意のない人間」と理解するのは難しい。実際、佐村河内もきちんと新垣に金を払ったり、人を集めたり、やるべきと思ったことはやっていたみたいだしね。まじめな人が体調が悪くても「大丈夫です」と毎回答えてしまうのも、虚言癖の一種と言っても良いかもしれない。
といって、「虚言癖を許容しろ」とは言うつもりはない。実際、逃げるためについた嘘で大きなトラブルを引き起こす事例は後を絶たないし、信用してくれた人にも迷惑だから。虐待する親が自分の子供について容易に「虚言癖がある」と"嘘"をいうこともある(報道ではそう書かれるけど、多分もっといい加減に「こいつが嘘をついてんだよ!」みたいな発言なんだろうな)。だから、精神的に弱い人の防御反応としての「嘘」と、騙したりおとしめたりしたいが故の「嘘」は表面上見分けがつきにくい。
佐村河内にしたって最初から金銭をだまし取る目的で全聾を装っていたとは、ちょっと考えづらい。「全聾の作曲家」というポジションがヒットに結びつくとは、事前には考えられないからだ。どこかで自分の音楽的才能がないのをごまかすために「耳が悪いんで」と言いだして、結局引っ込みがつかなくなって全聾を通し、その証明のために障碍者手帳を入手し...、みたいな成り行きかなと思う。だからといって、彼のやったことが一種の詐欺に当たることは否定できないし、それを拒否するものでもない。
ただ、虚言癖を一概に攻撃するだけで終わる病だなんて思ってほしくない。どこかで「嘘をつかないとやってられない」心理的状況があるのだろう。それを「社会の問題」と広げるつもりもないけど、また「一個人の自覚と責任」みたいな安易な理解で終わらせてほしくもない。まあ、難しいんだけどね。ぶっちゃけ言えば、JR北海道の件だって、虚言癖の変形だろうしね。
実はゴーストコンポーザーが作曲していたものだし、そもそも聾ではない疑惑もある佐村河内だが、もともとの物語は全聾の作曲家の生んだ奇跡の音楽みたいな話なわけだ。作曲にとって最も重要な感覚である聴覚を失いながらも名曲(?)を生み出したというのは(今から思えば)信じがたいことではあるが、しかしベートーヴェンという先例があるので受け入れられる素地はあったのだろう。従来より楽聖の全聾説には疑問が挟まれているが、よほどクラシックに関心でもなければ知らなくても当然である。もちろん、仮にベートーヴェンが全聾でなかったとしても、難聴を抱えながらあれほどの傑作群をものしたのは奇跡だ。
そして私はもうひとつ似たような奇跡を、そしてベートーヴェンよりはるかに信じがたい奇跡を知っている。すなわち、塙保己一である。
日本文学・日本史を主とする一大叢書『群書類従』、『続群書類従』を、そして『大日本史料』のベースとなった「史料」を編纂した保己一は全盲であったという。信じがたいことである。単に読んだもの(読んでもらったもの)をほとんど記憶しているというだけならば、問題は記憶力のみであり、そういう異能者の話は稀に聞くので信じられないではない。たとえば、井筒俊彦の家を訪れたアラブ第一の学者が、本棚にずらりと並ぶ本を見て、「本が焼けたらどうするんだ。お前は火事ごときで研究ができなくなるのか」と笑ったとか。もちろんこの学者は必要な物はすべて記憶していたわけだ。
しかし、編纂である。複数の本から善本を選び、校合して本文を確定するのだ。しかもその中には大量に漢文(変体漢文)が含まれているのである。これらの作業に最も重要な感覚が視覚であることは言うをまたない。目で見れば即座に違いがわかり、どの漢字を使っているかを認めることができるのだから。つまり保己一は編纂作業に最も重要な感覚を失いながら、日本史に燦然と輝く大偉業を成し遂げたのだ。
正直信じられない。意味がわからない。実際には、プロデューサーやディレクターの役割を果たしたのであって、実務にはそんなに噛んでなかったのか。仮に編纂実務に携わっていたとしたら、どのように行っていたんだろうと疑問に思っているんだけど、その点について詳述したものが見当たらなくて困っている。なんかいいのないかな。