はてなキーワード: クラシックとは
精神障害者保健福祉手帳3級で障害年金受給している兄がいる。
そんな兄から昨日メールが来て「とにかく、将来的な展望が持てない状況なので、お金の方を工面していただけませんか?」と。
親のことを嫌い、さんざん家庭をめちゃくちゃにしたのにまだ実家に寄生している。
そんな俺は兄の姿を見てきて、こんな奴になっちゃいかんとそれなりに自分で努力してきたつもり。
実家から離れて、家庭を持って暮らしていたら、こんなメールがきたからびっくりだ。
自分で親のことを毒親という割りには実家からでない。もはや生活体系が矛盾している。
嫌いな親と同居する兄がいる一方で、親とは比較的良好な関係を築いていた他の兄弟が実家にいない状況。
手帳を取得したのは昨年で、年金の受給を始めたのは最近になってからだ。
働けない理由ばかり探して、医者に就労不可って診断書書いてもらったとさ。
親がストレスか。ストレスフリーになりたいなら、とっとと実家からでて行けばいいだろ。
それができないのですか?
13万円/月貰っておいて、実家に住んでおいて、貯蓄がないとか。
それも障害のせいですか?
障害年金貰っているから、障害が続く限り、ずーーっと年金はもらえるじゃん。
それでも足りないのですか?
実家にいるのに足りないのですか?
車持っているよね?あれイランよね?あと、定期預金やっていたよね?解約しているよね?
お金の工面っていったい、いくらで、いつまで援助すればよいのですか。
こちらが会いたいと言っても会ってくれずに、メールでお金をちょうだいって俺はネット銀行かなんかですか?
社会的に還元すべき資源がないとおっしゃっている方になぜ投資をしないといけないのでしょうか。無期限に。
私にどんなメリットがあるのでしょうか。
私も安月給です。兄の傷病手当金に毛が生えたような月給で家庭を養っているのです。
兄を生かしておかなければ犯罪になるでしょう。死ねとは言えませんからね。
障害者のことを悪く見ているつもりはありません。
私自身、障害者福祉関係の仕事をしており、日中は様々な障害者の方と接しています。
精神障害者の方であっても、前向きに直向きに、がんばって生きようとしている方々をこの目で見ています。
まずは義務を履行してほしい。
実際、小学校のときとか校長室に呼び出されて「君はわが校はじまって以来の神童だよ」って言われてたし、自分でもそう思ってた。
小一のときの絵は県で入賞したし、祖父が何かのついでに教えてくれた連立方程式の解き方で算数の問題解いてたし、周りが誰も英語なんかやってないころに辞書引きながら英語の本読んで先生びっくりさせてたし、このままいけば東大余裕だろって言われてた。
あと、よく世の母親がやるらしいんだけど赤ちゃんのころに「生まれてくる前はどうしてた?」って聞くのがあって、だいたい共通して「お母さんを選んできた」って言うんだとさ。で、俺が母親から聞いたところじゃそういう話以外に英語とか数字を答えたつって近所でも神童騒ぎになったっぽい。中学になってからそのときのビデオ見せてもらったら確かに「142857…」って言っててこれ数学じゃ有名な数字だから俺自身びっくりしたしな。
で中学入ってからも適当に学校いってたら天才から秀才くらいにレベル落ちた。普通にトップ3にはいたけど、県内トップの私立高校に進んで10位以内とかカッコわるいから県内2位の高校に進んでトップとろうと思ってた。でも高校も適当にやってたら進学クラスから外されて、結局地方の私立大学で今に至るってわけだ。
そういう意味では自業自得かもしれないけど、やっぱこんな腐った時代じゃ地方の大学出てまともな就職なんてできないってのがふざけた話だよ。たかだか20年、勉強の手を抜いただけで残りの50~60年苦しみながら過ごすの確定してるとか完全にキツい。もうそんなキツい思いするのわかってたらいっそ死んで新たな人生やり直したいって思うじゃん?
俺はそう思うよ?
だからこうして自殺したわけだけど、なんか死ぬって結構変な感じですこしずつ感覚が切り離されていくのな。最初は全身が痛いだけだったんだけど、あ、死んだなって思ったと同時に痛みが消える。最初は視覚、つぎに触覚、嗅覚と切れていって聴覚だけが残る。どこからか大音量で音楽が鳴ってて、あぁクラシックの宗教音楽ってこの死ぬときの音楽からまるパクリしたんだなってのがわかる。
マンション下でつぶれてる自分を見下ろしながらぐんぐん空をのぼっていく感じがして、光の雲にのみ込まれる。
そこじゃ神がめんどくさそうな顔で俺を見てまたおまえかって言う。
言い古された扱いになるがクラシック音楽と日本の伝統文化は共通点が多い
まず、落語は古典のボリュームの多さである。時そばやじゅげむのようなレパートリは
得てしてクラシックで言えばバッハやモーツァルトといっても過言ではない。
落語は噺家の解釈によって話の結末やちょっとした表現がかわるがクラシック音楽によ
っても再現性を大事にする研究や、古楽器を用いて当時の音や編成を再現するピリオド
奏法。
または逆転の発想として「もし今現在作曲家が生けていればこう作曲しただろう」という
解釈のもとに再現性よりも表現性重視のネオピリオド奏法なんてものもある
噺家によって解釈が変わるのはまさに指揮者が変わって表現が変わるクラシック音楽そのも
のといえるであろう。
言い古された扱いになるがクラシック音楽と日本の伝統文化は共通点が多い
まず、落語は古典のボリュームの多さである。時そばやじゅげむのようなレパートリは
得てしてクラシックで言えばバッハやモーツァルトといっても過言ではない。
落語は噺家の解釈によって話の結末やちょっとした表現がかわるがクラシック音楽によ
っても再現性を大事にする研究や、古楽器を用いて当時の音や編成を再現するピリオド
奏法。
または逆転の発想として「もし今現在作曲家が生けていればこう作曲しただろう」という
解釈のもとに再現性よりも表現性重視のネオピリオド奏法なんてものもある
噺家によって解釈が変わるのはまさに指揮者が変わって表現が変わるクラシック音楽そのも
のといえるであろう。
よく知らない人と好きな音楽は、という話題になった時がめんどくさい
音楽ファンではないし、売れ線の邦楽をあまり聞かないから余計に面倒だ
「売れ線の洋楽と、ミュージカル、クラシック、プログレや懐かしいアニソンをおつまみにする」
くらいの消費が正直なところで、特にこだわりもなく聞きたいものを聞いてる
しかし、だいたい聞いている曲を言うと確実に変な顔をされる
わたしとしては世界市場を勝ち抜いた曲やアーティストは聞きやすかったり力が入ってるので聞いてるだけなのだが
そしてミュージカルやクラシックは地味な趣味だとか、逆に気取ってるとか、興味ないか、そういうのだ
人と趣味が一致する確率なんてそうないのに、さんざんなコミュニケーションを取られてしまう
プログレやアニソンは説明がめんどくさいし人を選ぶのでそもそも聞いてるとは言えない雰囲気だ
政治と野球と宗教と、それから好きな音楽の話はしてはいけないと決めているのだ
逆に聞かれた場合は、おつまみに聞く昭和懐メロと答えたり(古い曲をあげるとネタだという雰囲気になるのが嫌だ)
やはりメインでは聞かないがPerfumeやサザンオールスターズと答える
そうすると「懐メロやPerfumeやサザンに詳しい人」扱いされて困る
そーだよね。
向上心にはつながらないだろうね。
批評家気取りになるしかないんだろうとわたし(2つ上のトピック書いた)もおもう。
マックのクラシックIIが100万円、フォトショップがさらに100万円、みたいなころだもの。
「なにを無邪気に、無防備にたれながしているんだ…見苦しい。
俺みたいなやつにつつかれたらどうするんだ」くらいにおもっていたはずだ。
今思えばそれが嫉妬だった。
20年くらい待って状況がかわってきた。
ネットやツールがそろってびっくりするほど創作しやすくなった。
正直、創作してると交流うらやましがられるけど、交流は創作の余得だから。
視界に入るもの全てが、目にとって刺激が強すぎて、というか情報過多だった。
ポスターの字やプリントの題字も、全てが意味を訴えかけてくる。
耳に入ってくる音もそうだ。人の言葉はどれも、バラバラの文法を使ってつむぐ文章であり、頭の中で適切な漢字変換までする必要がある。
学校の先生は、黒板に字を書きながら喋る。私は人の言葉と字として書かれた文章の情報を同時に処理することができなかったので、どちらかを捨てる必要があった。
私は黒板の字を選択した。自分のノートに、自分のペースで、書き写す。チョークの色を変えられたら、こっちも色を変える。筆箱の中にはチョークと同じ色のペンが揃っていた。ただ黄色は紙に書くと見えにくいので、蛍光ペンで書いてから鉛筆でなぞっていた。鉛筆で書いてから蛍光ペンを重ねると滲んでしまうのでそうしていた。
たまに、喋るのがメインで、黒板にはキーワードのみを書く先生がいた。そういうとき、私は、キーワードのみをノートに書いた。話はあまり聞いていなかった気がする。
音に関してもそうだった。全てが耳に入る、ここまではいいとして、それを頭が次々に処理しようとする。
たまたま絶対音感を持っていた私は、例えばクラシックのような音楽は聞くに耐えなかった。これは絶対音感を持っていない人には伝わりにくいのだけれど、絶対音感を持っていると、五線譜に載るようなわかりやすい音の場合、それが「ド」「レ」「ミ」といった風に、言葉として頭が処理をする。つまりクラシック音楽を聞いていると、複数の人が同時に別々の言葉を喋っているように聞こえるのだ。
「ファーミーレードー」「ミラソファー」「レドシラソファミレ」「ラファソラーファソラ」「ソシラソドレミ」こんな感じに。もう、全然落ち着かない。
それから、食事に関しての興味が大変に薄かった。というよりも、周囲の食事に対する興味と、自分の食事に対する興味のギャップがひどすぎて、これには大変に苦労した。
まず、給食の時間になると、周りの児童たちはとても楽しそうにする。献立を気にして、好きなものを多くとる。楽しそうに話をしながら食べて、おかわりまでする子もいた。
一方私は、「食事をする」という行為がそもそも、例えば注射が苦手な子供にとっての注射のように、その度に緊張して、ドキドキして、というかできれば避けたかった。
何も口にできなかったわけではないけれど、周囲がその食事に盛り上がれば盛り上がるほど、自分の食事に対する嫌悪感のようなものが浮き彫りになって、余計に辛かった。
だって、なんだかよくわからないけど食べ物として扱われているその物体を、あろうことか口の中に突っ込んで、歯で噛み砕き、それぞれの味や食感が口の中いっぱいで、それからここが大変なところなんだけれど、飲み込まなければならない。喉を異物が通るという恐怖。嚥下してしまえば、胃という体内の臓器にそれが収まっていく。気持ち悪い。もうこれを元に戻すには嘔吐するしかない。嘔吐はとても怖い。喉をいわゆる汚物が逆流するのだ。胃にこれが残っている限りはその可能性に怯え続けなければならない。なんでこんなことしなきゃいけないの?
そういう私をよそめに、学校の先生は「残さず食べましょう」なんて標語?を掲げたりする。勉強なら、できない子がいても、どうすればいいか教えてくれるのに。体育だって、跳び箱の飛び方とか、鉄棒のつかみ方とか、教えてくれるのに。なんで給食は無条件に「食べれるでしょ?なにさぼってるの?大事なことでしょ?当たり前でしょ?」みたいな顔してくるの。
家では親が「ちゃんと食べなさい」と言う。私は「おなかが痛い」と言って食事を残す。母はがっかりした顔をしたり、呆れた顔をしたりする。結局私の茶碗は、中学に入るまで、幼稚園児サイズだったし、よそわれるご飯もその半分だった。
当時、このように言葉にできたかどうかはわからない。でも、今でもあの感覚は覚えているし、こうして文章に書き起こすことができる。というか、今でもその感覚に陥ることがあるのだけれど、場合によってはなんとか自己暗示をかけて回避する、という術を身につけたので、幾分マシである。
先日ある人にこういうことをなんとなく語ったら、興味深そうにしていたから、文書化してみた。
通勤中にiPod Classicを使っている。ほとんどの時に全体をシャッフルして聴いている。
初代iPod Classicが発売されてちょっとしてから買った。その160GBの容量を利用して今まで自分が聴いてきた音楽をできる限りiPodに入れていつでも聴けるようにしたいと思って、かなり充実したなと思えたのが5年くらい前。160GBでもきつくなったため、その後はあまり増えていない。いくつかの例外を除いてアルバム単位でiTunesに入れている。
結婚以来はあまり積極的に音楽を聴いていたわけではなくiTunesに入っているのは90年代までのものがほとんど。音楽聴くのはそもそも「かっこつけたい」という考えから入りすぐ手段が目的化したという経緯なので「今まで自分が聴いてきた音楽」というのが洋楽・ジャズ・クラシックに偏っていて邦楽はほとんど入っていない。シャッフルして聴くときに邦楽が混ざるのはなんとなく聴きにくく感じるので邦楽はすべて「シャッフル時にスキップする」にチェックを入れている。
iPod Classicを買う前は通勤中に音楽は聴いていなかった。それがこういうミュージックライブラリをシャッフルして聴くようになって5年くらいということになる。最近1年くらいで気付いたのが下のようなこと。
iTunesに入っている曲にしても5年間一度も聴いていない曲もあるはずなのに何を聴いても「懐かしい」と思うことがほとんどなくなった。言い方を変えると「この曲を聴くのは久しぶりだ」と認識することはあるのだけれど郷愁のようなものを感じることがなくなったという感じ。
しかもiTunesに入っている曲ではなくてもどこで洋楽を聴いても懐かしいと思うことがなくなってしまった。ジャズ・クラシックについても洋楽と似た感じ。
邦楽については洋楽と違って手元にある曲だけだが「懐かしい」と思うことがほとんどなくなった。
上に書いた二つの結果、「懐かしい」と思う曲は邦楽で自分が好きだと思っていなかったけど昔流行った曲ばかりということになった。つまりむしろ嫌いだった曲にばかり郷愁を誘われるようなってしまった。例えば"小室ファミリー"の曲とか。
自分の好みの曲というのはある種の傾向があるだろうからその傾向に飽きたとか、加齢で感受性の方向が変わったとかが理由なんだろう。ただユートピアをもたらすと思い描いていたiPodプラス大量の自分好みの音楽がもたらしたのはディストピアだったのかもしれないと少し悲しくなっている。
会社で貸与されたパソコンがVISTAだった。Windows触るの、2000以来なんですけど。 今までマカーだったので。久しぶりに触ります。なかなか新鮮。
でも、ずっとまえから不便だなーと思ってたことがそのままでワロタ。あれわざとなんですかね。仕方ないのでautohotokeyで1日がかりでそこそこ使えるものにしました。。
なんというかWindowsの悪いところ全然なおってねーじゃん。レジストリって今でもあるのね。記憶に間違いがなければあれって確かDOS時代の設定ファイルでファイルがでかくなったから仕方なくDBにしたやつでしょ。あんなのまだ使ってるとか。
OSXはそそもそもUN*X環境なので使いやすいが、WIndowsのCygwinは管理者権限いるのね。最小インストールなら入るけどgccすらインストールできないから段々使わなくなった。rrsyncしたいのに。
地味にフォルダを作るショートカットがない。あるけどALT+w - w- f でしたっけ? めんどいわ。そういやドザの人がWin+Dがショートカットで一番便利って聞いたので使ってみたけど元に戻せないワロタ。ウインドウをたたむのはいいけど元に一発で戻らないのか、これ。
そんなんより何が驚いたかって日本語入力のIME切り替えるのにALT + 英数が未だに使われてるのね。あれ罰ゲームか何かだろ、日本のGDP下げようとしてるだろ。今どきトグルwしかもめっちゃキー遠い。
くっそ効率悪いので右ALT=にIMEオン、左ALT=IMFオフを割り当ててた。
仮想デスクトップとかもないし。これはVirtuaWinをを入れたら作業効率が倍増しました。設定がちょっと面倒です。
あとF1とかINSとか間違って押したら面倒なんですけど。これもキーバインドで殺した。一番いらないのがCAPSLOCKだよなあ。まあこれはMacにもあるけどAirみたいに隅っこに追放して欲しい。Aの横はCtrlがいい(キーバインドで直した)
え?大文字ばっかり打つ時がある?そういう時は小文字で書いたあとvimでggVG+U押せば全部大文字になるよ。
あと、ウインド閉じる共通のショートカットないのね。これすごくない? アプリ依存て。イベントはあるのにショートカットはないっていう。仕方ないのでWin+qでウインドウ右上の「x」印を押した時と同じ挙動をするようにしたらすごく便利になった。
マシンがめたくそ重たいので、タイトルバーとかフォントのデザインをXPにい似た感じ(クラシック表示ってやつ?;)にしたらかなり軽くなった。CPU/GPUが追いつかないならそんな機能いらねーよ。なに考えてるんだ。
それから画面ロックがWin+L固定でここれ地味に両手使うのでマウスの中ボダンにバインドしといた。席を立ってからロック忘れに気づいてもマウスをぽちっとするだけでロック状態になる。便利。それからCtrol+Alt+Delをt同時に送信するボタン買った。結構便利。
他にも何か解決してないクソなシ仕様がある気がするけど、今のろまあまあ快適につかえている。前はmayu使ってたけど、AutoHotKeyいいね。
そうそう、キーボードのNumLockをOFFにしてバーチャウインドウの切り替え(1,3,7,9)に使ってるんだけど、(Shift+Numキーだとアクティブウインドウだけ対象デスクトップに送る)これがが直感的ですごく便利。おすすめ。テンキーとして使う時はNumLockをONにするだけ。テンキー頻用 する人には向かないかな?俺はほとんどテンキー使わないので。
==トラバうけて追記==
まあ久しぶりに触ると悪いところが目立つって話ですよ。フォルダ作るのとかShit+Ctrl+Nでいい気はするけどねえ。逆にWindowsはCtrl+Alt+Delのようなシステムに割り込みをかけてマルウェア防いでるけど、Macだと「全画面モードです」とかしかでなくてあれで騙される人居そうで他人ごとながらちょっと心配になる。WinからMacに乗り換えても同じようにDisると思うよ。でもUN*X使いとしてはシェルのコマンドがほぼほぼ使えるMacがいいかなあ、やっぱり。
あと今更VISTA? は俺が一番いいたい。貸与されたものがそうなってて管理者権限ないんだからどうしようにもないだろ。これフォーマッt-して別のOS入れたらそれだけでイントラに繋がらなくなるし。
根底的に流れるものは知っとかなきゃなのかなぁって私もよく思います。
映画や劇とかもそうかなぁ
俺理系で大学院もでてるんだけど、他の増田もちょっと書いてたけど、工学系の専門知識なんかは多分教養とは言わんよな。
小説(太宰とか)を読む、クラシックを聴く、ようなのが教養って感じがする。
あと歴史とかもそうだな。語学(英語以外のよくわからん国の)もいいかもしれん。
つまり生きていくのになんの役にも立たん知識。そのくせ知っていたら「すごい」「頭よさそう」って言われる知識。
教養を身に着けるメリットは、行動や生き方に品が出る、とういか出そう(教養に見合った行動をするようになりそう)。
周りに対して「俺頭いいぞ」と優越感に浸れる(やり過ぎると嫌われる)。
くらいかな。
下品な奴がどれだけ小説読んでクラシック聞いても、下品なままだったらとても教養があるようには見えんし。むしろただの物知りなバカに見える。
コード進行的にはD7一発であるのイントロのギターのフレーズを取ってみましょう。「ラードーソファ#ーラドレソファ#ーレードラードソファ#ーラドドッドー」。これはひどい、一度も根音であるレが出てこないどころか、スケールとしてはむしろミクソリディアンスケール(ラ シ ド# レ ミ フ# ァ ソ ラ)として解釈したほうがよほど自然なフレーズになっている
これを見る限りレは二回出てきているように見えるのだが。それに、これらの音は(ミとシが無いのでペンタトニックを意図していると見るほうが妥当かもしれないが)Dミクソリディアン・スケールに含まれているものであり、D7にそれをあてるのは定石中の定石ということになるのでは?
7thをトニックにしているのは普通ではないと言えるかもしれないが、クラシック系ではそうであっても、ポピュラー系の教本ではブルース進行がらみで最初の方にそういうものが出てくるので、それも特別工夫しているとは言えない。テンション・ノートの使用に関しても、今時それを使っていない方が珍しいくらい。要するに、これだけみると「音楽オタクにとっても"おもしろい"ことをやろう」としていることは全く分からない。そう主張したいなら、もっと別の例を出すべきだったのでは?
そもそも音楽を聴いている人の殆どは音楽理論なんて知らないし、技術的に難しいことをしているとか凝っているとか、それ自体はどうでもいいことだろう。選民思想云々と言うなら、むしろそれらを理解できる聴き手の方が偉い、理解できない奴は死ぬべき、みたいな考え方の方がよほど選民思想に思える。