はてなキーワード: ヒラリー・スワンクとは
増田、そもそも公平性とはなんなのか、スポーツにどう関わるかについて興味深い議論をしていますね。それを考えると、映画「ミリオンダラー・ベイビー」を思い出させます。この映画を知っていますか?
クリント・イーストウッドが監督し、ヒラリー・スワンクが主演するこの映画は、ボクシングを題材にした感動的なドラマです。ヒラリー・スワンクが演じる主人公は、ボクシングジムのオーナーであるイーストウッドのもとで訓練を受け、厳しい現実の中で勝利を目指します。
「ボクシングは出会った運命を変えるものであり、そこには勝利だけでなく、深い友情や愛も詰まっている」といえるような映画です。競技の中で個々の背景や状況がどう影響するか、そしてそれにどのように対処するかが描かれています。
当該CMのブコメ欄やツイッターでも散見された、「ワンオペ育児を美化している」という意見。
ムーニーのCMに感じたモヤモヤしたものの正体と、あれがリアルだと感じるお母さんに伝えたいこと。 - スズコ、考える。
良くも悪くも今もそれが自分も直面している現実であって、美化したり感動ポルノに仕立てていたりするCMよりよっぽど好感が持てた、と教えてくださった。
なるほど、と思った。
2つ目の引用は別人の発言らしいから、このエントリ主は今もあのCMを「ワンオペ育児の美化」と捉えているんだろうか。最後のコピー<その時間が、いつか宝物になる。>が現状のワンオペを「否定まではしていない」程度ならいくらか同意できる。
けど「美化」とまで言えるとは私は思えない。このCMの意図は、辛い現実にただ「寄り添う」ことじゃないのか。舌鋒鋭く批判したり、頑張ろう改善しようとハッパをかけるだけが「寄り添う」ことではない。むしろ、今つらい人に対する態度としては批判や声高な応援はご法度で、「私はあなたのつらさを知っている、理解している、ここで聞いている」とただ伝えることが最善であったりする。
確かにCMには「もっと部屋は散らかっていて、もっと髪も振り乱していて、もっとボロボロ」な姿は出てこないかもしれない。でもそれなら、現実のママの大半はあんな広い部屋には住んでないかもしれないし、役者さんのように美人ではないかもしれない。夫のいないシンママかもしれない。フィクションとしてのリアリティは、リアルそのものではありえない。必ず作為が存在し、意図が仕込まれる。
この手の炎上案件で問題にされるのは大抵が「意図しなかった意図」である。「リアルな日常を描き、応援したいという思いだった」(http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/10/unicharm-cm_n_16524060.html)つもりが、「本当はワンオペ育児を美化する意図があるんだろう」と受け取られる。moms don’t cryという楽曲名が「母親は泣くなというつもりか」と受け取られる(実際のところは知らないが、一般的に考えればこれはヒラリー・スワンク主演の映画『Boys Don’t Cry』のもじりじゃないかと思うのだが。ちなみに同作の主人公は性同一性障害であり、タイトルは当然ながら「男の子は泣くものじゃない」というようなよくある抑圧への反抗でもある)。
私は長々と、表現の話をしている。なぜならこれはCM映像という表現への反応から湧き起こった議論だからだ。現実の育児環境についての議論とは、どちらがより重要ということではなく、違うのだ。しかし、冒頭のエントリでは「CMによって抉られた古傷」に関する語りが多く、映像表現への批評は途中から影を潜めてしまう。あのCMのどこがワンオペ賛美であり美化なのか、「肯定してはいけない現実」を肯定していると見えるのか、どの表現がどのように問題であるかは語られない。楽曲か、カット割りか、役者の選定か、舞台設定か、照明か、コピーか、フィクションに込められたどの意図が読み違えられたのか。
CM批評をしたいんじゃないんだ、現状のつらさをなんとかしてほしいんだ、という意見もあると思う。でもそれならCMへの批判を通して伝えるべきではないんじゃないのか。現実の育児環境のここが問題なのだ、と直接に論じればいいだけではないのか。CMへの批判はCMへの批判でしかなく、現実の諸問題を改善する糸口としては遠回りすぎるし、なによりずれている。表現への批判が現実の諸問題を改善するきっかけになることがしばしばあったとしても、最初からそれを期待して表現を的に据えるのは手段が間違っている。CMを端緒とした議論であればまず問題視すべきはその表現であり、現実への対応は別の話だ。
エントリ主や、他のモヤモヤを感じた論者が話したいのはどっちなのだろう。CMの表現問題なのか、現実の育児環境に関する議論なのか。別の問題である二者を混線させてはいないか。その対応はむしろ無力感を増幅させる方向へ働きはしないか。表現は現実へ、現実は表現へそれぞれ影響を与えうるが、別物を同一とみなすのはリテラシーの問題になる。
私はこれを表現に関する議論として読んでいるから、ユニチャームが意図を説明しなければならなかった結果を残念に感じる。それは表現の多様な読み方を否定するものだから。表現への批判は自由に行われるべきだが、批判をしていると思い込んでいる受け手が実際に気にしているのが表現そのものではないのだとしたら、議論はずいぶんな徒労だ。
美化している、賛美しているという批評の言葉を、私はもっと詳しく知りたい。批評は表現の可能性を拡大するものだ。様々な読み方が可能だと知ることは、表現もまた様々な形を取りうる証拠になる。しかしもしあれらが批評の言葉ではなく現実問題に対する心情の吐露なら、使う言葉が違うのではないかと思う。まあその言葉もまた表現の一種ではあるわけで、私のような者にこうして「意図しない意図」を探られることもある。ただし使う言葉を選ぶことで読み取りエラーは減らせるのだ。だからこそ表現に問題があるなら適切な批評がなされてほしい。
この文章もまた、「育児の大変さを矮小化しようとしている」等と読まれるかもしれないが、そういった意図はないと事前に宣言しておく。