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2020-12-22

修羅場の詳細を書くね

〈前提状況〉

私(年下・女)

相手(年上・男)

同居3年目

時系列

・男の取引先の女性社員Aから「男さんに好きだと言われて困っている」という話が共通の知人Bを通して入ってくる

・男、A、Bで話し合いを持つ。私は電話でそれを聞く。

・男が非を認めないので「お前がその立場人間に好きと言うこと自体パワハラだ」と叱る

念書作成して解散

帰宅後、事情聴取普段そう言うことを何も言わない男、「お前とはこの先も一緒にいたい」旨の発言

・私「普段言わないことを今言われて響くと思うか?」

・私、すぐ出て行く金もない、コロナ実家にも帰れないので仕方なくここにいる旨伝える

・本当に心から反省しそう思うなら行動で証明しろ、お前の信頼はないと伝える

・男、泣く

〈所感〉

・私は1分ほど泣いたが、それ以降は虚しくて涙も出なくなった

・Aは可愛いである。私の自尊心プライドボロボロになった

・男の性格は良く知ってるので口汚く罵っても意味がないと分かる。なので感情任せに怒鳴れないのも辛い

・謎の頭痛、腹痛が止まらない

・こんな恥ずかしいこと誰にも相談できない。これが一番辛いかもしれない。

結論

私のクリスマスぶち壊しです。誰か慰めて。

追記

色んな失恋ソングを聴いた結果、一番しみたのはあむろちゃんのBaby don’t cryでした。

2017-05-13

ワンオペ育児を「美化している」?

当該CMブコメ欄やツイッターでも散見された、「ワンオペ育児を美化している」という意見

ムーニーのCMに感じたモヤモヤしたものの正体と、あれがリアルだと感じるお母さんに伝えたいこと。 - スズコ、考える。

美化したい気持ちもわからなくもないけど、でも、なぁ。

良くも悪くも今もそれが自分も直面している現実であって、美化したり感動ポルノに仕立てていたりするCMよりよっぽど好感が持てた、と教えてくださった。

なるほど、と思った。

結局、美化してるかしてないかどっちだという意見なんだろう。

2つ目の引用は別人の発言らしいから、このエントリ主は今もあのCMを「ワンオペ育児の美化」と捉えているんだろうか。最後コピー<その時間が、いつか宝物になる。>が現状のワンオペを「否定まではしていない」程度ならいくら同意できる。

けど「美化」とまで言えるとは私は思えない。このCM意図は、辛い現実にただ「寄り添う」ことじゃないのか。舌鋒鋭く批判したり、頑張ろう改善しようとハッパをかけるだけが「寄り添う」ことではない。むしろ、今つらい人に対する態度としては批判や声高な応援ご法度で、「私はあなたのつらさを知っている、理解している、ここで聞いている」とただ伝えることが最善であったりする。

確かにCMには「もっと部屋は散らかっていて、もっと髪も振り乱していて、もっとボロボロ」な姿は出てこないかもしれない。でもそれなら、現実ママの大半はあんな広い部屋には住んでないかもしれないし、役者さんのように美人ではないかもしれない。夫のいないシンママかもしれない。フィクションとしてのリアリティは、リアルのものではありえない。必ず作為存在し、意図が仕込まれる。

この手の炎上案件問題にされるのは大抵が「意図しなかった意図である。「リアル日常を描き、応援したいという思いだった」(http://www.huffingtonpost.jp/2017/05/10/unicharm-cm_n_16524060.html)つもりが、「本当はワンオペ育児を美化する意図があるんだろう」と受け取られる。moms don’t cryという楽曲名が「母親は泣くなというつもりか」と受け取られる(実際のところは知らないが、一般的に考えればこれはヒラリー・スワンク主演の映画Boys Don’t Cry』のもじりじゃないかと思うのだが。ちなみに同作の主人公性同一性障害であり、タイトルは当然ながら「男の子は泣くものじゃない」というようなよくある抑圧への反抗でもある)。

私は長々と、表現の話をしている。なぜならこれはCM映像という表現への反応から湧き起こった議論からだ。現実育児環境についての議論とは、どちらがより重要ということではなく、違うのだ。しかし、冒頭のエントリでは「CMによって抉られた古傷」に関する語りが多く、映像表現への批評は途中から影を潜めてしまう。あのCMのどこがワンオペ賛美であり美化なのか、「肯定してはいけない現実」を肯定していると見えるのか、どの表現がどのように問題であるかは語られない。楽曲か、カット割りか、役者の選定か、舞台設定か、照明か、コピーか、フィクションに込められたどの意図が読み違えられたのか。

CM批評をしたいんじゃないんだ、現状のつらさをなんとかしてほしいんだ、という意見もあると思う。でもそれならCMへの批判を通して伝えるべきではないんじゃないのか。現実育児環境のここが問題なのだ、と直接に論じればいいだけではないのか。CMへの批判CMへの批判しかなく、現実の諸問題改善する糸口としては遠回りすぎるし、なによりずれている。表現への批判現実の諸問題改善するきっかけになることがしばしばあったとしても、最初からそれを期待して表現を的に据えるのは手段が間違っている。CMを端緒とした議論であればまず問題視すべきはその表現であり、現実への対応は別の話だ。

エントリ主や、他のモヤモヤを感じた論者が話したいのはどっちなのだろう。CM表現問題なのか、現実育児環境に関する議論なのか。別の問題である二者を混線させてはいいか。その対応はむしろ無力感を増幅させる方向へ働きはしないか表現現実へ、現実表現へそれぞれ影響を与えうるが、別物を同一とみなすのリテラシー問題になる。

私はこれを表現に関する議論として読んでいるから、ユニチャームが意図説明しなければならなかった結果を残念に感じる。それは表現の多様な読み方を否定するものから表現への批判自由に行われるべきだが、批判をしていると思い込んでいる受け手が実際に気にしているのが表現のものではないのだとしたら、議論はずいぶんな徒労だ。

美化している、賛美しているという批評言葉を、私はもっと詳しく知りたい。批評表現可能性を拡大するものだ。様々な読み方が可能だと知ることは、表現もまた様々な形を取りうる証拠になる。しかしもしあれらが批評言葉ではなく現実問題に対する心情の吐露なら、使う言葉が違うのではないかと思う。まあその言葉もまた表現一種ではあるわけで、私のような者にこうして「意図しない意図」を探られることもある。ただし使う言葉を選ぶことで読み取りエラーは減らせるのだ。だからこそ表現問題があるなら適切な批評がなされてほしい。

この文章もまた、「育児の大変さを矮小化しようとしている」等と読まれるかもしれないが、そういった意図はないと事前に宣言しておく。

 
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