はてなキーワード: 帰結とは
これに著作権者の言うことだから聞くべきだと言っているブコメがあって驚いた。
著作権というのは憲法上の権利ではなくて、国が著作権法という法律で認めた権利だ。歴史的にも、憲法で表現の自由が規定されるようになった18~19世紀前半には著作権保護はろくすっぽされていなかった。そして、著作権を国家が保護するということは、ある著作物を利用して二次創作をつくる人を国家が抑圧する、という側面をどうしても持たざるを得ない。それが表現の自由に照らして問題ないと思うのはちょっと信じられない。それに著作者が二次創作はダメだと言ったらそれでおとなしく諦める、という淡泊な姿勢も納得がいかない。私は、(性的な表現を含めて)二次創作者は、どうしても二次創作を書きたいから書くんだと思っていた。こんな淡泊な姿勢をとる人が多いということは、実は単なる商売のネタに過ぎないのかな。訴訟になると面倒だから、ということならまだ分かるが。
私は著作権や著作者人格権が必要ないとはまったく思わない。でも、パロディ事件しかり、ときめきメモリアル(メモリカード)事件しかり、日本の著作権法や判例法理は国際的に見ても原著作者保護が極めて強いわけで、それは表現の自由に照らして非常に問題があると思っている。著作権には表現の自由が及ばない、みたいなことを言っている人がいるのは驚きではある。原著作者が権利主張を始めたらいわゆる二次創作物を壊滅させることができる(コミケは単に目こぼしされているだけ)、それを国が著作権法によって認めている、それが問題だと思わないのか。そういう問題意識を持たない人には二度と表現の自由などと口にしてもらいたくない、とすら思う。
~おまけ~
『ウマ娘 プリティーダービー』の「お願い」は、
キャラクターならびにモチーフとなる競走馬のイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮いただけますと幸いです。
本作品には実在する競走馬をモチーフとしたキャラクターが登場しており、許諾をいただいて馬名をお借りしている馬主のみなさまを含め、たくさんの方の協力により実現している作品です。
モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現は行わないようご配慮くださいますようお願いいたします。
というものだった。
https://umamusume.jp/news/detail.php?id=news-0106
これは、そもそも著作権や著作者人格権から来る要求とは考えられない。競走馬は著作物ではないから、著作権や著作者人格権の客体ではあり得ない。馬主が不快に思われる表現をやめよと要求する権利があるとすれば、おそらくは馬主の名誉権などの人格的利益の保護となるだろうか。競走馬ないしキャラクターのイメージを著しく損なう表現をやめよ、と要求する権利があるとすれば、知的財産権というよりは、商品化権ないしパブリシティ権(キャラクターのイメージの毀損については著作者人格権の問題になり得るが)といったビジネス上の権利の問題になるだろう。これを概括して「著作権」による要求と解するのは粗雑に過ぎる。
キャラクターのイメージの毀損については、一般的に性的な表現がすべてそれにあたると簡単に言うことはできないのではないか。たとえばどぎまぎイマジネーション事件※(ときめきメモリアルのもう一つのアレ)の東京地裁は、詩織ちゃんが「優等生的で、清純な、さわやかな印象を与える性格付けが、本件ゲームソフト及び関連商品の売上げ及び人気の向上に大きく寄与している」という一方で、被告が「清純な女子高校生と性格付けられていた登場人物の藤崎詩織と分かる女子高校生が男子生徒との性行為を繰り返し行うという、露骨な性描写を内容とする、成人向けのアニメーションビデオに改変、制作した」ということを問題にしているのであって、一般に性的な表現は許されない、と言っているわけではない。ある改変行為(性的な表現に限った話ではない!)によってイメージの毀損がなされているかどうかは、そのキャラクターがどんなキャラクターなのかということを考察してみないと始まらない。
「モチーフとなる競走馬のファンの皆さまや、馬主さまおよび関係者の方々が不快に思われる表現、ならびに競走馬またはキャラクターのイメージを著しく損なう表現」として、性的な表現一般がそれにあたるのではないかと考えた人がそれなりにいたことは確かに興味深い。
(もっとも、これに関するツイートを見ると、性的な表現に限らず何が「不快に思われる表現」なのかはよく考えてみないといけないはずだというものもあって、結構冷静に考えている人がいるのが分かる。
例:https://togetter.com/li/1239211 ; https://togetter.com/li/1673486)
ただ、私自身は、これは「「何にエロを感じるのは人それぞれだし、どこからエロくてどこからエロくないか線引きなど出来ない」と噛み付いていた人々が「ウマ娘のエロ絵は禁止」の一声で「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」をきちんと自分達で考え始めたの笑う」(https://twitter.com/rtoiuyuiotyuijj/status/1371455240143212545)というのとは正反対の事態ではないかと思う。先ほども言った通り、何がキャラクターのイメージを毀損するかというのは、そのキャラクターがどんなキャラクターで、どんな描写をしたらイメージを毀損するのかを具体的に考えなければ分からないはずである(そして、そうするべきだ、という人も確かにいた)。むしろ、性的な表現一般を諦めるという態度をとった人が少なからずいたということは、「何がエロだと受け取られ、馬主を不愉快にするか」を考えられないから、一般的に性的な表現はやめました、ということになったのではないだろうか? まあ、自分の描くものはあまたある性的な表現の中でも確実に人を不愉快にさせる類のものだからやめました、ということなのかもしれないが。
※どぎまぎイマジネーション事件では、東京地裁は詩織ちゃんのイメージの毀損によってどのくらいの損害が発生したのかという問題をあまり扱っていない。イメージの毀損という無形損害の賠償はどうしても裁判官の裁量、つまりブラックボックスになりがちだとはいえ、ゲームソフトの売り上げの損失(をコナミが証明することは困難だろうが)や、詩織ちゃんを使った事業にどのくらいの問題が生じたのかというような部分で争う余地があったのではないだろうか。それこそ表現の自由の観点に照らせば、「被告の行為によって受けた原告の信用毀損は少なくないと解される」という短い言葉で検討を終わらせて良いとは思えない。判決文の短さから察するに、被告の法定代理人が無能だっただけかもしれないが。
~追記~
(ブックマークより)
法解釈論と立法(法政策)論は別物だからな。増田の言うことは「日本もフェアユースを認めるべき」と前から議論されている。一方現行法上サイゲの「お願い」は正当性がありそれは尊重されるべき。
そんなに厳然と区別できるものではないと思う。ある法解釈の結果、いかなる帰結が発生するかという帰結主義的な考慮を法解釈に持ち込むことは裁判所も普通にやっているだろう※。著作者人格権については、著作権法20条は、著作物の改変について、客観的な名誉侵害等からの保護というよりも、主観的な思い入れを強力に保護しているようにも読める規定になっているわけだけれども、著作権を現実に行使するのが、著作権を管理している出版社やレコード会社といった大資本であることに鑑みれば、その解釈は非常に大企業に有利な体制を作ることになる。立法によってテクストを変更する前に、解釈の可能性が開かれているとき、まず解釈で争うことを諦めるべきではないと思う。
※もちろん、あまり政策的な考慮を重視するべきではないという立場はあり得る。特に刑法の場合、罪刑法定主義との関係上、処罰をする方向へと政策的な考慮を強力に効かせることには問題がある(古典的な例では、電気は財物にあたるかという問題が良く採り上げられる)。ただ、政策的な考慮を一切しないというのは、それはそれで異様な考え方ではないか。
なお、一見してみて、Cygamesの「お願い」が一理もないとは思わない。仮におうまさんのことは度外視しても、ファンコミュニティの維持は大事なことだろうし。単に、著作権には表現の自由は譲るという単純素朴な理解をしている人がいることが意外だっただけである。
メタボ教授「競走馬(種牡馬)は法律上『金融商品』なので単純に損害賠償請求される恐れがある」https://youtu.be/o3glYqYwsHs
金融商品とは何のことだろうか。カッコつきで書いてあるということは、金商法上の金融商品(有価証券、預金債権等、通貨)ではないということかな? キャラクターないし商品イメージ、ブランドイメージの毀損について不法行為による損害賠償請求がされうるというのはその通り。パブリシティ権との関係では馬名の使用について許諾はいらないということになるとしても、後からゲーム中の描写がイメージの毀損になっているとケチをつけられると訴訟を抱えて面倒になるから、馬名の使用を拒否する場合はその馬名を使わない、というゲーム会社の経営判断は理解できる。ただ、この金融商品という言葉遣いは唐突に感じる。
憲法上の権利である財産権と幸福追求権を著作権と著作者人格権という形で具体化しているので著作者の権利は基本的人権の範疇では。おまけは113条11項的なアプローチと思うので著作者人格権の問題なんじゃないかと。
確かに、あらゆる法律上の権利は煎じ詰めれば何らかの憲法上の権利に行き着く可能性が高い。ただ、憲法上の権利である表現の自由と、憲法上明示されていない著作権とをフラットに扱って、何も重み付けをせずに天秤に乗せるべきものなのだろうか? あと、おまけでは「お願い」が著作者人格権の問題ではない、ということではなくて、法的な権利の性質・主体・客体がバラバラな諸要求が一枚のお皿に盛られているので、著作権とひとくくりにするのはまずいということを言っている。
著作権と表現の自由の問題は多分学問的にもまだそれほど論じられてないので表現の自由戦士の中でもガッツリ法学系の人じゃないと考えるのも難しかろうとは。現状の著作権システムを是認するのが不当とは言い切れんが
これは、知らなくてもしょうがないかなという気はする。ただ、こういう論点も考えられるようにしておかないで何が表現の自由かとも思う。実際には、超有名論点にすら関心は持たれていない(性的な表現を制限する刑法175条がまるで問題にされていないようだし)のでそんなのは無理、ということになるかもしれないが。
そもそも「表現の自由戦士」はただのレッテルであって、何でもかんでも表現の自由をゴリ押す人たちのことじゃありません。法律に守られた権利を「お気持ち」でゴリ押そうとする人たちに抵抗しているだけです。
私は「表現の自由戦士」というレッテルは使っていないと思うのだが・・・。「法律に守られた権利」というけれども、ある表現に対する「お気持ち」表明(これもまた表現だ)を差し止める権利が表現の自由に含まれているとは解されない(名誉毀損のような場合は別だが)。それとも、「お気持ち」に基づいて出版物の差止め訴訟を濫発した、みたいな事件があるのかな? せいぜいツイッターでボロクソに言われた程度の話しかないような気がするけれども、それが元増田の言葉を借りれば「自由の制限」とはまことに大仰な話だ。
※以下はこの方に対する直接のリプライではないが、関連する内容ではある。
性的な表現(正確には、わいせつobscenityにあたるもの)というのは、日本やアメリカの判例法理上、保護されない言論と位置づけられている。なぜかというと、表現の自由について司法審査の基準を厳しく設定する理由として、民主的過程の維持や人格の発展といった目的が持ち出されるわけだけれども、ということは、逆にいえばそういった価値との関わり合いが薄い表現は、別に手厚く保護しなくて良いということになる。となると、性的な表現は「法律に守られた権利」とすら言えないのではないか。私は、それで良いとはまったく考えないけれども、それならそれで現在の判例法理を覆す理由付けを考える必要がある。悲しいかな、私は専門家でもないトーシローだし、中々良い案が浮かばない。表現の自由について考えている人は、是非この問題について詳しく調べてみて、知恵を貸して欲しい。なお、定義的衡量(何が「わいせつ」にあたるかという論点で戦う)をいくら頑張っても、いわゆるハード・コア・ポルノにとっては役に立たないということは申し添えておく。
二次創作者やその支持者の大半は「表現の自由」を信奉してるわけでは無いと思ってる。その観点から「表現の自由」という言葉を軽々に使うなというのは分かる / エロ即ち不快表現との理解はびっくりするよね
そう、私も性的な表現がただちに不快な表現にあたると解した人が少なからずいたことが驚きだった。こういう短絡を起こしたということは、将来、あらゆる出版社やゲーム会社がこの手の「お願い」を出したら、性的な二次創作表現は全部ピタリと止むということになるんじゃないかな・・・。
わかるか?何でお前が「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を否定しているか、俺が教えてやる。お前は単に嫉妬してるだけ、ルサンチマンを抱いているだけだ。否定の対象をシン・エヴァに向けてるが、それはお前の人生が満たされていないことの裏返しなんだよ。
※以下、シン・エヴァのネタバレを含むからよ、観てない人は閉じてくれていい。
何でお前がシン・エヴァに否定的か、それはお前の潜在意識、深層心理にある。
戦闘シーンがどうのこうの、展開がどうのこうの、難癖付けて講釈を垂れてるが、その嫌悪感や納得できないという感情の端緒は、ラストシーンにある。
端緒なんだけどラストシーンなんだよ。
すなわち旧劇の人類補完計画後の世界の変わりに提示された、別の理想の世界だからだ。
どうだった?旧劇と違ってたよな。
人類補完計画は行われず、宇部興産に就職したシンジが、マリとイチャイチャしてたよな。
この世界のシンジは、お前に持ってないもの、全て持ってるだろ?
いい仕事といい女、どちらもお前は持ってない。
よくありそうな現実。
だけどお前にとっては現実ではなく、むしろ実現が非常に難しい、フィクションに近い世界。
いい仕事にもありつけず、安月給をちまちま貯め、たまに風俗に行って憂さを晴らす日々。
「シン・エヴァで氷河期世代は救われない」https://anond.hatelabo.jp/20210309164507 と誰かが言ったが、その通りよ。
誰もが皆、シンジのようにいい仕事とパートナーを得られるとは限らない。
現実はシンジが作った新世紀と全く違うほど、残酷な日々だということを。
ラストシーンの新世紀の映像に、お前のような輩は、写ってたか?
安物のB〇arのダウンジャケットを着て、一人とぼとぼホームを歩くオッサンは写っていたか?
秋葉原で買ったアニメ絵がプリントされた紙袋を両手に、汗臭いネルシャツ着たデブは写っていたか?
競馬新聞とワンカップ片手に短波ラジオ聴いてるオッサンはいたか?
不摂生もしくは貧乏で、歯が抜けても直さず、活舌の悪いオッサンはいたか?
頭からフケが落ち、スーツの肩の部分に粉ふいてるオッサンはいたか?
写ってないよな?俺は観なかったぞ。
だからお前の人生は「新世紀には存在しないものとして扱われた」「写す価値のないものとして省略された」ということだ。
だけどお前の人生は続く。
提示された新世紀とは全く違う、いい仕事もいい女もいない、無為で、非生産的で感動が希薄な日々。
こんなことなら…もう…そうだよな。
人生を悲観したことだって、一度や二度ではなく、たぶん人並みよりも多いだろうよ。
人と人との境目がなくなり、単一の生命体になることは、格差がなくなるということ。
愛する対象とも一つになれる。
そういうシーン、旧劇にあったよな。
誰からも愛されないキモくて金のないオッサンでも、人類補完計画後の世界では、愛する人と一つになることができる。
だけどシン・エヴァでネオン・ジェネシスされた人と人の境目がある世界においては、キモくて金のないオッサンは、ただただ孤独な日々を死ぬまで続けて、風呂場で汁になって腐乱死体で発見されるのが関の山だ。
エヴァのクオリティとかではなく、本当は、お前の内面や日常の問題なんだよ。
作品批判で悦に浸り、閲覧数を稼いで、ちっぽけな自尊心を満たした。
それでいいのか?これ読んで目が覚めたか?
シンジは言ったよな。
お前はやってみたのか?
今までの人生で、何かをやってみるという生産的な営み、行動力のある実践、大してやってきてないはずだ。
その帰結が、今の、キモくて金のない残酷なオッサンの日常なんだよ。
自己責任論を言ってるわけではないぞ。
生まれ育った環境の違いや社会の状況も、成功の可否に影響することだってあるよな。
だけど、自分の人生を棚に上げ、あーだーこーだと作品批判、カッコ悪いだろうが。
何でもいいから、お前が生きていたという人生の爪痕、人や社会に迷惑をかけること以外で。
オタク趣味の権化みたいな庵野秀明氏の作り出したエヴァンゲリオン。
元々のオタクとはどんなものかというと、まず漫画、アニメや特撮ものが大好きで、SFが大好き。
つまり、リアルをあまり受け入れたくない人たちの集合である、と私は思っている。
今とは違うが、二十年以上前、20世紀の間は、アニメオタクというのは明らかに差別されていた。
かくいう私は、そんなにオタクではなかったが、ちょっとでもアニメの話をしようものなら、友人に「虹オタ」とバカにされた。
ちなみに私は富野派ではなく高橋良輔派であり、ボトムズに一生添い遂げる気分である。すぐ「むせる」とか言ってくる輩はボトムズをバカにしてると思う。ボトムズこそ真の神話・伝説アニメである。
だから、わかる人にはわかると思うが、エヴァンゲリオンは最初は好かんかった。
要するに、アニメ的に女々しいからだ(女々しいという言葉自体最近は躊躇われるが、単純にアニメ女という色が好かんというだけである)。
男っぽいアニメだからボトムズが好きなのではない、媚びてないから好きだったのである。
レイ、アスカ、ミサト、リツコ、マヤ、マリ(は新劇場版だけど)などの女性キャラは、明らかにありとあらゆる一般的オタクを取り込もうとするイカガワシイものに写った。
なので、ボトムズ派でエヴァ好きには悪いが、真のボトムズ派であった私はエヴァなど毛嫌いしていたし、虹オタと呼ばれるのも嫌だったから決して近づかなかったのである。
でも、あれだけ20世紀の終わりに大ヒットを飛ばしているのを横目にしていると、どうしたって気にはなっていた。
そして時は過ぎ、世間ではあんまり誰もエヴァを言わなくなった頃、蔦屋でDVDレンタル半額セール開催中とポスターを見て、半額ならいいかとTV版エヴァのDVDを全部借りて一気見したのである。
負けた、と思いましたね。
大勢の人がいろんな事を言いますが、私は単純に「とても面白かった」のです。当然ですが、25・26話の非難殺到話だって、私の時期には既にAIRが出てましたので問題ありませんでした。
ロンギヌスの槍がどうとか、ゼーレだの、ガフの扉だの、人類補完計画だの、何がなんやらさっぱりわかりませんでしたが、何度も何度も繰り返し見ることになってしまいました。
個人的には、自分自身の父との関係と、シンジとゲンドウの関係がなんとなく似ていて、共感を感じる部分もありました。
まぁでもそんなに深く考えずに、とにかく面白いと、ハマったのですけど、やはり色々と意味がわからない点が多く、本やネットを調べ始めていたのですが、謎解きはそれなりに興味深いのですが、ある頃から非常に気になる名詞が頻発することに気がつきました。そうです……
庵野はこう考えている、庵野が言いたいのはこういうことだ、庵野の人生観が、庵野はすごい、庵野は……
やたらと、「庵野」とばかり目につくわけです。
ボトムズ命の私にとって、実際、高橋良輔は素晴らしいとは思っていますが、高橋氏の考えなど正直どうでもいいのです。
これはガンダムでもそうだった、富野などどうでもいい。気になるのは、ボトムズならキリコであり、ガンダムならシャアであり、ランバ・ラルであり、セイラさんだ。
この理由の根源は、謎が多過ぎたからであり、相当考えない事には細かいストーリーの意味がわからないからであり、結局そこで「庵野は何を考えているのか」に帰結させざるを得ないからでしょう。
それはわかるとしても、これが正直、私にとっては非常に鬱陶しい。
私はただただ単純にエヴァンゲリオンを楽しみたいだけです。どうでもいいのです、庵野など。
今回の新劇場版だって、存分に楽しみましたが、意味がやはりわからないので、Qとかになると頭の悪い私などはネットで調べたりせざるを得なくなるわけです。
そして、シン・エヴァンゲリオン鑑賞。
正直、noteやブログ記事は鬱陶しいのレベルを遥かに超えて「庵野」祭り状態。なんなんでしょう?
今回もまた、映画館で存分にエヴァを楽しみましたが、やっぱ気になるじゃないですか、世間の評価ってどんなもんなんだろうって。
でも見たら「庵野」だらけ。
もっとも、私も絶賛というわけではありません。
一番つまらなかったのは、エヴァなどの動かし方が下手すぎる、という事でした。
AIRで見た弍号機のあの素晴らしい動きはシン・エヴァには影も形もありません。破まではあったのに、Q以降は全然ダメですね。
なのに、例えば「庵野は変わった」とか「庵野は間違いなく震災に影響を受けた」とか「庵野も歳取った」とか「結婚したからつまらなくなった」とか「会社を背負うようになって保守的になった」とか「また庵野のオナニーか」などなど、一体なんなんだ? と思うばかりの「庵野」だらけ。
わかるよ。君たちは自分でエヴァアニメ作れないもんだから、庵野さんに託したんだ、きっと。庵野さんならきっと自分を満足させてくれる、と。
ところが、その期待が過剰になり過ぎて、シンジがかつて叫んだように「ボクを裏切ったんだ!」と思うくらいに思い込みが強烈になり過ぎたのでしょう。
別にいいけどさ、映画だけを純粋に楽しまんのん? とどうしても思ってしまう。
だったら、自分で書けよ、出来んくせに。
自分の好きな作品を深く考察する、というのは本来は知的な行いであるはずだが、どうにもイメージがよろしくない。特にウェブ上で公開されているような考察は、ほとんどが行き過ぎたこじつけで、作者もそんなこと絶対考えていないだろとしか言いようがなく、その独りよがりっぷりが気持ち悪くさえある。俗に考察厨と呼ばれる彼らだが、何故あのような状態に陥るのだろうか。そもそも考察は見ていて明らかに良し悪しを感じるが、これはどのような基準によるものなのだろうか。考察厨について考察するというメタなことをやってみた。
まず初めに分かっておかなければならないのは、考察(解釈)は自由であるということだ。考察ができるという時点で、それは作中で明示的に語られていない事柄があるということで、それをどう解釈するかは読者に委ねられている。しかし自由だからと言って好きにしてもいいのかと言えばそうでもない。何故なら考察者は作品に隠された作者の意図というひとつの正解を目指しているからだ。つまり考察とは答えの無い問題ではなく、答え合わせの無い問題なのだ。これこそが考察において誤解してはならないポイントであり、最も難しい所でもある。考察者は答え合わせの無い環境で、自分の評価を自力で客観的に評価してやらなければならないのだ。
さて、考察厨の考察で最もありがちなのは、何が何を暗示しているだの、象徴しているだのといった情報を思いつくままに書いてそれで終わってしまっているパターンだろう。作品は無数の要素から構成されており、暗示的な意味など実のところ、いくらでも抜き取ることができる。考えついた人にとってはもっともらしく思えるし、考察者に対して肯定的な人間なら「すごい! そんな意味があったなんて!」と言ってくれるかもしれないが、傍から見るとふって湧いたように唐突なものとなってしまう。これは要するに作者が意図して秘めた要素でない要素を解釈してしまっている状態である。難しいのはこの種の解釈は正解ではなかったとしても間違っていると云う根拠も示せないところだ。多くの人が感覚的におかしいことは分かっても、それを説明することは難しく、結果的に客観性のない考察が横行してしまうことになる。
では、正しく、そして作者の意図に沿う考察とはどのように行うべきなのだろうか。指針となるのはずばり、作品のテーマ、文脈(コンテキスト)、あるいはストーリー構成といった作品に対するマクロな視点である。何らかの意図を込めてデザインされた作品は、論理の展開にも似た一定の流れを踏んでいるものだ。最も分かりやすいのは作品の結論、あるいは一言で言い表した場合のテーマなどで、これは大抵の作品においてクライマックスやエンディング、あるいはタイトルなどの中で分かりやすく提示される。この結論が分かれば大まかなコンテキストを逆算することができ、それに沿う形で抜け落ちた部分を考察していけばいいのである。逆に言えばコンテキストの中で役割を持たない暗示については無視していい。正しいかどうかの判断ができないし、作品作りの過程で偶然そうなっただけの可能性さえあるからだ。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はタイトルが作品のテーマとなっている分かりやすい例だ。作中で主人公は、「ライ麦畑で遊んでいた子供が崖から落ちそうになった時キャッチして助ける、そういう人になりたい」と語ってる(手元に無いので不正確かも)。当初は抽象的な話として語られているが、物語として考えるなら、この話は主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』になった所で終わるのが一番自然だろう。そこで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の具体的な意味が示されており、当然その対になる『崖から落ちそうになっている子供』も存在しているはずだ。ここまでは読めば明らかなことで、考察というより読解のレベルだろう。(とはいえ、このことさえ分かっていない人もいる。念のために言っておくと、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は中二病の人ではなく、中二病の人を『助ける人』こそが主題だ)
ここで定番の『赤いハンチング帽に関する考察』を見てみよう。この考察では、帽子を受け渡すシーンが『キャッチャー』と『子供』の役割の交代を示している、とされている。成程、たしかに主人公は『キャッチャー』になれただろうが、作品を通して『崖から落ちそうになっていた』のは寧ろ主人公の方だ。相手が一緒に『崖から落ちそうになった』結果、主人公は踏み止まった。『キャッチする』と同時に『キャッチされた』とする解釈は、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』がつまりどういう人なのかということをより具体的にしてくれている。作者がその解釈の手助けとして『帽子』という象徴を仕込んだ、とするのは非常に合理的で腑に落ちる話だ。コンテキストに沿った上でコンテキストを補強している、まさに美しい暗示の好例と言えるだろう。
このように考察とコンテキストは相互に補強し合う。ゆえにコンテキストを意識することが考察の最大の指針であり、評価基準となるのだ。
最後に実際上の話として、考察文の取捨選択について触れておこう。考察というは時に長大で、全て読むというのは結構な苦労を伴う。一目で考察の良し悪しを判定できる手段が欲しい、という気持ちは共感できる人も多いだろう。実のところ、このコラムを書いたのは、これを自分の中で纏めておきたかったがためだ。まず経験的な話として、悪い考察文というのは得てして読みづらい。その理由は実はここまでの話で明らかになっている。考察者が全体のコンテキストを意識していない場合、部分部分の考察が全体の中でどういう役割を持つか分からない。つまり、情報としてバラバラで一連した意味が分からなくなってしまうのだ。一貫した流れの無い文章は読みづらい。これは正しい考察の工程と一致しているかどうかと同義、つまりは『読みにくい考察≒間違った考察』であると思っても構わないわけだ。厳しく判別するなら、最初に考察者が全体のコンテキストを明示しているかどうか、というのはひとつの基準になるだろう。全体像を共有する、あるいは用語を統一しておき、その上で個々の解釈を全体の各所に当てはめていく、というのは良い考察なら自然な帰結としてそうなるだろう(考察者が単に情報伝達に慣れていないだけの可能性は残るが)。逆に不味いのは部分の考察からスタートしているもので、これなら先に結論部分を読むのが良さそうだ。結論部分でも全体像に触れていない考察であれば読む価値は間違いなく無い。
1.元々深夜アニメだし子どもが見るものではない。親が規制すべき。
→だいたいここに帰結する。でも現在Amazon primeなどの動画配信サイトで作品を視聴するのがメジャーになりつつあるので深夜アニメという時間帯に放送するというゾーニングが機能しなくなってると思う。
もう少し明確なゾーニング、レーディングを設けていく必要がある。親だって子どもの全てを管理できる訳では無い。
そもそも現在鬼滅の刃は子ども向け商品が数多く出ているので「子どもに人気だから子ども向け商品出せば売れるぞ!!経済回るぞ!!」と後先考えずに売り出した故の弊害だと思っている。
2.聞かれたらちゃんと教えるべき。教えられないのは親の落ち度。
→遊郭の実際の歴史を低学年や未就学児に教えるのはかなり骨が折れる。性教育を年齢に合わせて段階的に教えたいと考えてる親には特に難問。1桁の足し算くらいしか出来ない子に今の子どもの学習内容のみで理解できるように微分積分教えなさいと言われてる状況ぐらい難しい。
言わば遊郭の歴史を教えるには様々な人権意識と性についての知識が頭に入ってるという前提がないとどうしても正しい説明ができない。
重ねてアニメ文化に疎い人だったら遊郭というものの知識自体持ってない可能性だってあるので「説明できない」「どう教えればいいのか分からない」という人が出てくるのは必然と思われる。これは鬼滅の刃がオタク層だけでなく一般層にも広く知られたからこそ出てくる問題。オタクが当たり前に持ってると信じてる知識をアニメなどに普段あまり触れない人が持ってるとは限らない。
3.俺らが子どもの時はおっぱいとか出てる番組とかあったし時代劇で当たり前に遊郭出てたし、賢い子は自分で調べる。気にしすぎ。
→過去、時代劇劇見てた所謂「賢い子」が自分で調べた結果、遊郭は現代のキャバクラ、セーフティーネットとか言ってるから問題なのですが。普段インターネットの情報は鵜呑みにするなとかガキはネット使うなとか言う癖にネットリテラシーがまだしっかりしてない子どもには自分で調べろって言うのおかしくない?懸念の声を上げている人は「間違った価値観、考え方を子どもに知って欲しくない。再生産したくない」んですよ。
あとゴールデンタイムにおっぱい出したりする番組やってたのが正しいとは思わないしことある事に前時代的の考えを「あの頃はよかった」とか言うのやめてほしい。今は令和なので。
4.銀魂でも遊郭やったじゃん。なんで鬼滅だけそんな過敏に反応してるの。
→吉原編やってたあたりの銀魂をリアルタイムで追ってたの多分オタクのみが大半だったでしょ。なんだ、お前たちのところでは小学校の8割方の生徒が銀魂知ってて「オイィイイイッ!!」ってツッコミ入れてたりネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲作るの流行ってたんか。怖。
鬼滅はもう既に子どもの大半が何かしら見てる、読んでるという一大コンテンツとなってしまったのでコアなファンが多い銀魂と比べるのはおかしい。本当に鬼滅流行ってるか懐疑的な人いたら休日のショッピングモールなどに行けばいいと思う。小さい子や小学生くらいの子の大半は鬼滅の和柄マスクつけてるか何かしらのグッズ身につけてるよ。
5. 嫌なら見なきゃいい。見せなきゃいい。
→子どもが気になる、見たいと思うのを親が無理矢理禁止すると後の反動がでかいのオタクが1番分かってるのでは?何度も言うけど子どもの大半が現在何かしら触れている。家で「見てはいけない」と言われても周りの子が見てたらそれは気になるし、隠れて見る子どもも出てくる。隠れて見たら親だって万能ではないので気づけない。オタクならアニメ嫌悪してた親に隠れてアニメ見てたという経験持ちの人いるでしょ。また今は共働きで核家族のケースも多いので大人が鬼滅の刃を子どもより先に履修して見せていいかどうか判断するなんて不可能に近いのでは。無闇矢鱈に見せない、規制するのではなくアニメを一緒に見て、分からない所を教えてあげる親の方が子どものことちゃんと考えてる。
冒頭、指名手配された男が逮捕され、拘置されているところから主人公チームが男を奪還する。派手なアクション!
追いかける警官たちを巻いた主人公たちは、男にもうこの国では暮らしていけないと諭す。
がっくりする男。いやいやながら国外退去はやむを得ないと納得するが、荷物を取りに家に帰りたいと主人公たちに懇願する。
受け入れる主人公。
・は?
・・は?
・・・は??
いやいやいや
どう考えてもヤサは見張られてるでしょ。
・・・・見張られてなかった。
そのあと、男はヤサから取ってきた荷物を誰ぞに渡そうとして飲食店で待ち合わせる。
男が何を誰に渡そうとしているのか直接間接に確認もせず、酒食を喫しながらそれを横目で見守る主人公たち。
・は?
・・は?
・・・は??
さすがお兄さまみたいに主人公の凄さを描写するためにまわりを無能に描写しているわけでもなく、なんなんだこれは。
これはマチカド魔族かなんかのポンコツキャラを愛でるアニメだったんすか?だったらそう言ってくれ。
謎解きが都合よく進みすぎるのはまあ、尺の問題もあるだろうから仕方がない。
そこは問わないよ。
でも-武士の情けでネタばれを避けるけど-ラストのあれもただただ主人公が不用心していた帰結でしかないー敵が一枚上手の恐ろしいやつだった描写ではない-よね?
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こそこそと隠れて机の引き出しを探っているときに、困難な要素がなかった。
時間制限もないし、奇想天外なカギが必要ってこともなく(ミッションインポッシブルやワイルドスピードの奪取シーンを思い出せ)、公爵や侍従長の配下が近づいてく見つかりそうになるってこともない。
見張りのない扉をカギで開けてただ探って出てくるだけ。
増田で不満を撒き散らしているKKOはよく聞くとかなり同情の余地はある
しかしKKOは人間関係上の市場価値が低く、同情してもらえないので歪むのだ
家は都内、親は高学歴で過干渉もネグレクトもなく、わりとどこに出しても恥ずかしくない立派な親だ
俺も特に挫折せず高学歴になり、学問にも金を出してもらい好き勝手に生きてきた
特にほしいとも思わず何の努力もしていないのでパートナーも子もいない
将来への不安も薄いし金の使いみちもそこまで無いので仕事に打ち込むインセンティブもない、貯蓄もほぼしてない
ただ普通に生きていたら選択の自明な帰結としてKKOになっていたのだ
だから社会を憎むKKOたちの気持ちは理屈としては理解はできても共感はできない
政治的に団結もできないのだ
で売っていて、ぼくは首を斜めにかしげたんだ。
なんでこんな値段で売れるの?って。
スーパーの特売って、いくら安くても利益が出る値段設定らしい、そりゃそうだ。
とすると、あのクソデカ白菜の育成コスト、流通コスト、販売コスト、そしてそれぞれに利益が載って78円ってことだ。
ぼくが経済音痴なのが原因なんだろうけど、78円ってものの重さがわからなくなるよね。
だってさ、あんな大きな白菜を作るために畑を結構占有して、ある程度の期間、水、肥料をやって、刈り取って集荷して、ってここでも1個当たり78円未満で、
さらに、あのクソデカ白菜をトラックかなんかで運ぶんだよね。ゆうパックだと県内配送でも1500円以上取られそうに糞デカクソ重なのに。
で、最近は問屋を通すかどうか知らないけど、問屋を通さなくてもお店で受け取って、陳列して、販売して、そこで78円。
どんなマジックを使うとこうなるの?
(追記)
もらったコメントをまとめると、
⇒何か計算すると白菜一個に数分しかかけないで作って売る、ってことになって
すげーって思ったんだけど、ちょっと効率的すぎるんだよね。。。
それともヒトはすでにその域(ステージ)まで達しているのか。。。
⇒ぼくのつたない記憶だと、社会の教科書にさ、だぶついたのは廃棄するって書いていて
うわっ、もったいなーって思ったんだけど、継続的な経済を考えると仕方なしかと思うんだよね
なんで、おおくできたものはトラクターとかでつぶすんじゃないかなと思ったんだけど
・スーパーが客寄せの目玉として利益度外視で売っているんじゃね?
⇒うん、まぁこれはあると思う。けど、週1とか定期的に100円割れなんだよね。
そこまでスーパーが白菜を安くするのは前世で白菜になんかされたんだろうか。
んー、これらは可能性としてあると思うし、そうっちゃそうなんだろうけど
なんかその手があったかってアハ体験できるようなウルトラCとか無いんだろうか。
コメントをよく読むと、コロナによる外食産業需要低下が全体の需要低減につながって
そうも言ってられなくて慣習(余剰白菜を廃棄)を変える(廃棄ではなくて赤字覚悟の値下げ)までに至ったってことか。
でも待てよ、外食だろうが自炊だろうが消費は同じなはずだ。なのに需要は減る?
宇野は音圧戦争の帰結や現状まではわかってると思うよ。彼が根本的におかしいのはそこじゃない。
それを技術で解決したのがYoutubeとかSpotifyとかですね。彼らは音圧が高い曲の音量を下げて、他の曲との音量差を少なくしました。揚げ物使った弁当は弁当箱のサイズを強制的に2/3にするイメージですね。そうして消費者は錯覚に騙されず本当に美味しい弁当を選ぶことができるようになりました。めでたしめでたし。
ここはめでたしめでたしの終点じゃなくて、今も音圧戦争は形を変えて続いている。音圧が高い曲の音量を下げるのを「ラウドネス・ノーマライゼーション」という。配信系プラットフォームはそれぞれノーマライゼーションのアルゴリズム(主にはLUFS、聴感上の音圧を数値化するパラメータ)を定めている。そして音楽エンジニアリング業界は、この制約上限に抵触せずにどうやって聴感上「圧のある」音を出せるか、という一種のハックに向かっている。「測定結果が-14.0LUFSを超える楽曲は強制的に-14.0LUFSまで下げる」ということがわかっているなら、そのアルゴリズムを狙って作ればいい。
君は音圧戦争を生き抜けるか? 音楽ストリーミング時代のラウドネス・ウォー対策 (1/3)
配信時代の音楽制作〜ミックス、マスタリングの傾向と対策 – 今知るべき配信テクニック
音圧戦争から遠く離れてーラウドネスノーマライゼーションの誤解と意義
配信最適化はエンジニアリングやマスタリングだけでなく、基本的なビートの作り方にまで影響しつつあって、これなんかはテクノロジーが音楽を変えるという最新の事例といえるんだけど、それはともかくとして、この話は結局のところ「いまの聴取環境に合わせた、いまの流行り」でしかない。リスナーに目立つように、印象に残るように聴かせる最新のテクニックではあっても、音楽自体の構造が優れているか劣っているかという話とはほとんど関係ない。
ましてポップス=popular musicの一番の評価指標は「どれだけ売れているか」なのだ。現にバンバン売れている楽曲を捕まえてきて、その音圧が今時っぽいかどうかにケチをつける行為には生産性がない。よく繁盛してる飯屋で「店が汚い、食器が野暮だ、なぜこんなに客が入っているのか」と言ってるのに近い。クレーマーがどう言おうが、料理が美味いと思った客が多ければ店は流行る。音楽評論家を名乗るなら、今の技術的トレンドに沿っていない楽曲がなんでこんなに売れているか、という分析に傾注すべきだと思う。
世界的な流れとなっている共同親権制度の導入には、日本のフェミニストから懸念が示されている。
離婚家庭の元夫がDV夫であるケースが少なくないため、共同親権の下で元夫を子供に合わせた瞬間、子に危害を加えるのではないかという懸念だ。
しかし母親や子供を守ろうとするつもりで共同親権制度に反対し、単独親権にこだわってきた日本のフェミニストの理念が裏目に出てしまうこともある。
単独親権を母親が確実に取れるのであれば問題がないが、この記事のように父親が子供を連れ去り事実上の監督者になったり、実際に離婚後の親権を握ってしまう場合がある。
すると父親が親権者の大義名分を得て母親を排除する可能性が強まり、フェミニズムにとっても受け入れがたい事態が起きてしまう。
DV夫の存在を考えると共同親権制度を受け入れることはできないが、単独親権を元夫に握られる母親が出てきてしまうのも困る。
ここまでで明らかになったように、根本的な問題は共同親権と単独親権の違いにあるのではない。
父親に親権を認めてしまうこと、それこそがフェミニズムにとって受け入れがたい帰結をもたらすのだ。
残された道は一つ。
つまり、鬼滅の刃を好むということは、今の日本社会の在り方を肯定するに等しい。
1歩進む。
『鬼滅の刃の最終回で感動した人間は、もう現代日本を批判する資格はない』
まで極論を言ってしまっていいと考えている。
さて、最終回の話になる。
一行で暫定今世紀最大傑作である鬼滅の刃の最終回を説明するとこうだ。
「鬼滅隊のみんなは不幸を乗り越えて現代日本で楽しく暮らすよ!みんなも幸せにな!」
娯楽作品の締めとして、その終わり方が面白いか、面白くないか、という低レベルな話はここでは行わない。
論旨
で、ある。
私が強烈な違和感を感じたのは、以下の事象のサイズに矛盾があるからだ。
A.現代の日本に生きづらさを感じている人、政治に不満を持っている人、自分が不幸だとSNSで喧伝する人の声の大きさ
(『お前の見ているタイムラインが悪い』という言葉は頭の隅に追いやって欲しい。普遍的な話である。つまるところ、「普通にトレンドを追い、普通にSNSやニュースメディアを利用している人」を対象にこの記事を書いている。)
普段のAの声を信じるのであれば、日本という国は今、「ダメな国」ということになる。
事実、私もそう思う。
(こういう記事を書くと、『鬼滅の刃』という作品、もしくはその作品の感想を書く場所の雰囲気を守るためか、途端に日本の良い所が叫ばれ出すのが面白いのだが)
だが同時に、Bの声を信じるのであれば
『ダメな国に転生してきた鬼滅隊の面子、ダメな国に子孫を残している炭治郎達は不幸』という話になるのではないだろうか?
・そもそも無粋なことは言うな
という話は全面的に正しい。
つまり、『えー、でも現代に転生とか可哀想…100年後とか、異世界とかにすればいいのに』『北欧の○○に転生した方がハッピーエンドでしたね』という声が、
普段のAのこの国に対する批判の声と比べたら少ないのだ、と言っている。
(作品に現実を持ち込むな、というのは間違っている。大正時代のファンタジーをわざわざ現代日本に帰結させたのは作者であり、むしろ現代日本について考えないことは作者のメッセージ性に対する冒とくである)
普段、やれ日本はだめだ、政治がだめだ、だの言っている口で鬼滅の刃の最終回を褒めてはいけないのだ。
「こんな現代日本に転生してしまうなんて、こういう課題に直面するだろうなあ」と常に批判的な態度を表明するのが筋だ。
では何故そういった声が散見されないのか?
簡単なことだ。
つまり心の底で、大多数であるお前達は現状に満足しているのだ。
鬼に家族を殺された鬼滅隊が苦難の先にたどり着く約束のパラダイス「天国」であると内心認めているのだ。
何が政治に興味を持てだ、何が自民党批判だ、何が失われた30年だ。
その鏡が言っておられる。
もし違うと言うのなら、最終回を批判するべきだ。お前達はそれをしないではないか。
「これはハッピーエンドではない」と、普段世界に対して向けている嫌悪感を叫ぶべきだ。
でもやらない、ならばもうこれは同意だろう。
多くの人と共に、同じ価値観のハッピーエンドに酔いしれる。これは最早セックス以上の快楽だ。
だが、真剣に世の中を憂うならその快楽に負けてはいけないはずだ。
何のことはない。
我々は、口では色々と文句を垂れつつも、もう先へ進む気が全くないのである。
世の中や政治に対する不信感など、所詮はごっこ遊びのようなもので、この国の人々は、ほとんどは「現状が幸せ」なのだ。
『鬼滅の刃』はそれを私に伝えてくれた。