つまり、鬼滅の刃を好むということは、今の日本社会の在り方を肯定するに等しい。
1歩進む。
『鬼滅の刃の最終回で感動した人間は、もう現代日本を批判する資格はない』
まで極論を言ってしまっていいと考えている。
さて、最終回の話になる。
一行で暫定今世紀最大傑作である鬼滅の刃の最終回を説明するとこうだ。
「鬼滅隊のみんなは不幸を乗り越えて現代日本で楽しく暮らすよ!みんなも幸せにな!」
娯楽作品の締めとして、その終わり方が面白いか、面白くないか、という低レベルな話はここでは行わない。
論旨
で、ある。
私が強烈な違和感を感じたのは、以下の事象のサイズに矛盾があるからだ。
A.現代の日本に生きづらさを感じている人、政治に不満を持っている人、自分が不幸だとSNSで喧伝する人の声の大きさ
(『お前の見ているタイムラインが悪い』という言葉は頭の隅に追いやって欲しい。普遍的な話である。つまるところ、「普通にトレンドを追い、普通にSNSやニュースメディアを利用している人」を対象にこの記事を書いている。)
普段のAの声を信じるのであれば、日本という国は今、「ダメな国」ということになる。
事実、私もそう思う。
(こういう記事を書くと、『鬼滅の刃』という作品、もしくはその作品の感想を書く場所の雰囲気を守るためか、途端に日本の良い所が叫ばれ出すのが面白いのだが)
だが同時に、Bの声を信じるのであれば
『ダメな国に転生してきた鬼滅隊の面子、ダメな国に子孫を残している炭治郎達は不幸』という話になるのではないだろうか?
・そもそも無粋なことは言うな
という話は全面的に正しい。
つまり、『えー、でも現代に転生とか可哀想…100年後とか、異世界とかにすればいいのに』『北欧の○○に転生した方がハッピーエンドでしたね』という声が、
普段のAのこの国に対する批判の声と比べたら少ないのだ、と言っている。
(作品に現実を持ち込むな、というのは間違っている。大正時代のファンタジーをわざわざ現代日本に帰結させたのは作者であり、むしろ現代日本について考えないことは作者のメッセージ性に対する冒とくである)
普段、やれ日本はだめだ、政治がだめだ、だの言っている口で鬼滅の刃の最終回を褒めてはいけないのだ。
「こんな現代日本に転生してしまうなんて、こういう課題に直面するだろうなあ」と常に批判的な態度を表明するのが筋だ。
では何故そういった声が散見されないのか?
簡単なことだ。
つまり心の底で、大多数であるお前達は現状に満足しているのだ。
鬼に家族を殺された鬼滅隊が苦難の先にたどり着く約束のパラダイス「天国」であると内心認めているのだ。
何が政治に興味を持てだ、何が自民党批判だ、何が失われた30年だ。
その鏡が言っておられる。
もし違うと言うのなら、最終回を批判するべきだ。お前達はそれをしないではないか。
「これはハッピーエンドではない」と、普段世界に対して向けている嫌悪感を叫ぶべきだ。
でもやらない、ならばもうこれは同意だろう。
多くの人と共に、同じ価値観のハッピーエンドに酔いしれる。これは最早セックス以上の快楽だ。
だが、真剣に世の中を憂うならその快楽に負けてはいけないはずだ。
何のことはない。
我々は、口では色々と文句を垂れつつも、もう先へ進む気が全くないのである。
世の中や政治に対する不信感など、所詮はごっこ遊びのようなもので、この国の人々は、ほとんどは「現状が幸せ」なのだ。
『鬼滅の刃』はそれを私に伝えてくれた。
普段、やれ日本はだめだ、政治がだめだ、だの言っている口で鬼滅の刃の最終回を褒めてはいけないのだ。 「こんな現代日本に転生してしまうなんて、こういう課題に直面するだろう...
「この国は地獄だっ…!」とか大袈裟な言葉を使いすぎた弊害