はてなキーワード: 中間層とは
自分が通う予備校はほとんど浪人生、現役の高校生は全体の3割程度しかいません。なので自習室はほぼ浪人生、夕方になるとチラホラ高校生がいるといった感じです。もはや浪人生の学校です。
浪人生には色んな人がいます。自分の通う予備校にはスクールカースト上位層、中間層、下位層の順番で人数が少ないです。なので下位層が1番多いです。上位層はいわゆるパリピみたいな人たちばかり。イケメンや美人が多いです。しかもみんな頭が良い。うちの予備校は、といっても他の予備校も同じだと思いますが、頭の良さでクラス分けされています。上位層の方々はみなさんその頭の良いクラスの人たちばかり。私大文系のトップクラスにいる人はもちろん、国公立文系(一橋志望の人が多い)トップクラスの人や、東大コーストップクラスの人など。それにお金持ちが多い。上位層にいるイケメンの多くは全身コーディネートで予備校の前期分の学費が払えるほどの服をまとっています。
中間層は上位クラスから下位クラスまで様々な人達がいます。上位層より人数は多いですが、下位層よりは圧倒的に数が少ないです。中間層といっても、その中にも明確にスクールカーストが見えます。上位層の人たちとも仲が良いけれど、一緒にいる人たちは中間層という人もいます。
予備校に入って今1番驚いていることが浪人生の恋愛のいざこざがややこしすぎることです。傍から見てると面白いんですけどね。
上位層の人と付き合っていて、いざこざがあり破局したカップルの女の子の方はいつのまにか予備校に来なくなりました。
とある女の子は好きな男を追いかけて都合の良い存在になっていましたが、いつのまにかその男はめちゃくちゃ美人の女の子と付き合っていました。その遊ばれた女の子もいつしか予備校で見なくなりました。
そういえば上位層の人に廊下で土下座させられている男子も見たことあります。理由は知りませんが、浪人生を土下座させる浪人生って地獄絵図かよと思いました。
ストーカーもあります。見て聞いている感じでは、男→女にストーカーというより、女→男にストーカーの方が多い気がします。ストーカーする女も、ストーカーされる男もどちらもブスなときは本当にいろんな意味で救いようがねーなと思ったりします。
私立志望の恋人と同じ大学に行きたいから国公立志望だったけど私立志望に変えた人、何人も見てきました。国公立志望で何教科も勉強してきた時間が無駄になるのに、いつ別れるか分からない恋人のために志望校を私立に変えるなんてすごいなぁと感心してしまいます。
あと、隠しているつもりなんだろうけど隠せていないカップル。
そういう男女はお互いの距離感がほかの人といるときと違いすぎるのですぐ分かります。そういうカップルをこの前ホテル街の近くで見て色々と察してしまいました。
昔の発言が掘り起こされることが多いが最近のコラムと経歴を調べてみた。
竹中平蔵氏は複数の内閣会議に「東洋大学教授・慶応義塾大学名誉教授」を肩書にし有識者として参加している。
それと同時に竹中平蔵氏自身は民間企業の会長(株式会社パソナグループ取締役会長)である。
竹中平蔵氏はこのコラムでは、通訳案内士、民拍、Doornobなどの規制緩和を訴えている。
しかし、パソナは自治体や観光協会などの団体を対象にした「インバウンドビジネス」を行っている。
例として、(宿泊施設インバウンド対応支援事業補助金事務局 、パソナ『観光立国ソリューションサービス』、
竹中平蔵氏自身「公に近い民間」という規制緩和から離れた人物であるにも関わらず(であるからこそ?)、
自身の関係のない部分は「規制緩和」を主張しているようにも見える。
おそらく竹中平蔵氏は非正規問題を引き起した当事者として今の非正規問題を語れないのでは?
2.「非正規」について語れない。
そもそも日本では観光業は非正規の比率が他の職業に比べて多い。
例えば、通訳案内士は数が足りていないので柔軟な発想で(資格取得規制を緩和)というコラムがあるが、
格取得後、多くの合格者が就業しない理由として「生計を立てられない」を挙げているのには全く触れていない。
あるいは、「シェアリングエコノミーを利用することによって低迷する日本の中間層に大きな利益がある」とするが、
「日本の中間層の低迷」に言及できても、「日本の低所得層」についてはコラムでは触れられていない。
観光地の魅力としてはフランスやイタリアを引出し、規制緩和ではアメリカ中国を引き出すが、
(例えばアメリカでは懲罰的損害賠償があり、誰でも訴訟をする文化がある、中国は政府の統制力が大きいなど。)
非正規問題、労働問題について語れないので問題の認識もできなくなる。
そもそも、コラム上で竹中平蔵氏が問題としている日本の現状は竹中秘蔵氏自身の政策が行われた結果ではないのか?
例えばパフォーミングアートが日本の伝統芸能を取り上げたコラムでは、
「毎日どこかで外国人が観たり聴いたりできるようにはなっていない。」
としているが、日本人が平日にパフォーミングアートを見たり聞いたりできる労働環境にないからではないのか?
「他の国に比べパフォーミングアートが日本で圧倒的に不足している。」
「パフォーミングアートを継続的に楽しめる環境はまだまだ整備されていない」
「欧米などでは、寄付制度も充実している。日本では民間資本やファンが文化を支援する構図がまだまだ成り立っていない。」
「寄付の税制改正なども含めて、文化へのアクセスを充実させていく」
他のコラムを見ても多くが
「欧米に遅れる日本」、「規制緩和」、「労働力の安売り」に帰結している。
これ以外にも「2000万人の観光客が1週間滞在すれば40万人の人口増と同じ効果」という
「インバウンド効果を一時的なもので終わらせないためにも、日本人の不断の努力が必要」としながらも
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/IB-TK/
第2回通訳案内士制度のあり方に関する検討会の開催結果について(概要)
イタリアで大地震がおこり、多くの建物が倒壊、なくなった方も多いようだ。
海外で地震があるたびにネットでよく見るのは、日本の耐震技術はすごいという書き込みである。
一方で日本における建築という職業のイメージはどうであろうか。
昨今テレビを付ければ豊洲市場のことばかりであるが、反対派の意見をざっとまとめれば、
莫大な税金を投入しておきながら、ゼネコンとか議員が大半を懐に入れてるんだろう、って程度のものだ。
違うという人もあるかもしれないが、私が見たところ99%は要はそういうことだ。
何が言いたいかというと、建築というと何か汚い業界というイメージをもってる人が大半でなかろうか。
まぁ、いろいろあろうが、あまりいいイメージをもってる人はないだろう。
一方でよく知りもせず褒め、一方でよく知りもせず貶す。
この人達の頭のなかで建築業界は一体どうなっているのか甚だ疑問である。
建築業界に身を置いている側からすれば、事実と違うことがまかり通っている。
だからこそはっきり言おう。
震度7が来ても日本の建物は潰れないと思っている人がいたら、その幻想は捨てなさい。
これは手抜き工事した建物がそうだとか、設計ミスした建物がそうだとかいうのではない。
日本の建物は設計からして震度7に耐えるようにはできていない。
大地震が来たときは、想定通りの壊れ方をするように決めた法律なのだ。
すなわち建物は壊れてもいいから、最低限中の人の命は守る。これが大原則である。
阪神・淡路大震災を経験した世代の人間ならば、中間層がまるごとぺっちゃんこになった映像は見たことがあるはずだ。
ああいう壊れ方がすれば、確実に中の人の人命は損なわれるだろう。
あれは柱が壊れているから上の層が支えられずああいう壊れ方をしたのである。
だからああいう壊れ方はしないよう、柱は健全であるよう設計している。
逆に言えば壁に穴が開こうが、梁にヒビが入ろうが、全然OKなのだ。
「(人命を損なうような壊れ方では)壊れません」と答えるのだ。
じゃあなんで建築基準法はそんな決め方をしたのか、大地震が来ても無損傷になるように設計すべきなのではと思う人もあるかもしれない。
はっきり言えば、建築基準法は貧乏人でも家が持つことができるように定めたものなのだ。
あまりにも安全性を追求すれば家は建てることができないが、弱すぎる建物を建てれば倒壊したときに周囲の建物にも被害を及ぼすだろうし、
商業施設などならそこに来ていた人の人命もそこなうことになる。
頭が悪すぎて、憲法上の基本的人権と普通の人間という幻想を混同しているんだろうな。おまえらには前者はあるが後者は無いのに。
天才秀才がずっと努力して学び続け、意識的に掴み取ったポジションを、ほんとは俺がそこに座るはずだったのにと愚痴る以外にお前は何をした?
この国の土地バブルが弾け、債権バブルが弾け、ITバブルが弾け、国内の中間層が軒並み底辺層に落ちていく激流の中で、滝に挑む鯉のようにあがきまわったことが一度としてあるのか?
2ch向けに3行にしてやろう。
普通なんてものは、天才秀才が努力して勝ち取るものになってしまったんだ。
さあ壊れた頭で必死で考えろ。考えろ考えろ考えろ。
一人の人間に作業が集中しているということ自体がマネジメントの失敗を表している。
「会社のため」という理由に依存することは今この社会状況においては正しいのだろうか?
実際に数十年にわたって一つの会社に存続し続ける人はたくさんいるので、
ただ、結果としてはマネジメントの失敗を覆い隠しており、
末端の作業者は自分の作業範囲を厳密に守ったほうがマネジメントの技術は向上する。
末端にあまりにも多くを負っていて、中間層が責任を取らない構造になっている。
未来に向けて正しい努力をすれば、日本で貧困になる事はまずない。
昔は市や県で一番の成績でも進学を諦めざるを得なかった苦学生が居た。今はそこまで出来るなら生活費付きの奨学金が出る。
県や市でトップまで行かずとも、普通の人よりちょっと能力が有る人は、普通の仕事をして貧困層から抜け出せるようになった。
今、貧困層から抜け出せない成人は、一般人が救う価値を見いだせない人だ。
怠惰で能力が無く、不細工で自制心が無く、約束を守らない嘘つきで、人脈も人的資産も無く、お金はもちろん持ってない。
そんな親に育てられた子供も9割方は同じ道をたどる。
誰もが救済を納得する貧困層はもう居ない。そんな人は自力で上がれるシステムが整っている。
次に行うのは、普通より劣った能力や意思しか持てない、それでも生きている人間を救う事。
しかし我々は、そのような「劣った人間」に金を分け与える事を良しとするだろうか?
正直に言えば、放置したい気持ちが有る。が、貧困層は生きている。
自分の安全の為に、彼らに生活の糧を分け与える。それと同時に、なるべく多くの人を中間層に引き上げて、世の中を過ごしやすくしたい。
もちろん、出来る範囲でね。
画面にヒビのはいったiPhoneをいじりながら焼き鳥をつまむ。
テレビでは夕方のニュース。隣国に出来たディズニーランドについて放送している。
開園と同時に嬉しそうになだれ込む人々。ミッキーとじゃれる太った女の服装は野暮ったくて、それはかの国が大して所得のない中間層でもこのようなレジャーを享受できるだけの経済力を手に入れたことを示していた。
場面が変わる。園内の水飲み場で汚れた足を洗う人々。昼食時に地べたに座り込んで弁当を食べる人々。「マナーの悪さが問題に…」というテロップ。
だけれども最も醜悪なのは、わざわざ中国のテーマパークまで行って、中国人の“マナー”とやらに口出しする日本人の方だ。
他人の家に上がり込んで、「箸の持ち方がなってないですね」「味噌汁を飲むときの音がうるさいですね」と口をはさみ、「これだから◯◯家は…」という輩がいれば誰だってキチガイだと思うだろう。
日本はそういうキチガイじみた行動をとらなければ自尊心が保てないところまで落ちぶれてしまった。
ビールで焼き鳥を流し込もうとジョッキに口をつけると、隣の親父が「これだから中国人はなぁ!」とテレビに向かって悪態をついた。
秋葉原事件後、似たような自暴自棄からの暴走がちょくちょく出てるけど、
このまま中間層は使い潰されて死んでいくんだろうなーと思ってた。
ある意味、某中東の「やれば48人の処女とあの世でセクロスできる権利」
という謳い文句と変わらないのだが、
自分勝手な理屈で自分勝手に行動するから、恐ろしくタチが悪い。
そして何より問題なのは、クソ真面目に働いてすり潰されていった中間層には、とてつもなく相性がいいってことだ。
これは私見だが、秋葉原事件は、自分を見てくれない世界への叫びだったと思ってる。
こんなに頑張ったのに、どうして認めてくれないの、と。
こんなに悪い事を放置してるのはいけない、なら、排除するのは正しい事だ!
犯人はリア充カテゴリの住人であり、友人から「バグちゃった」という証言から、
そして、サイコパスを育てた土壌が、昨今のブラック企業である。
明らかに過酷な条件で、低賃金で働かされ、問題が放置されたまま仕事が続いていく。
別の仕事で再起を図るも、これも出来ない。
この末にあるのは、自分を終わらせる自殺か、暴走する秋葉原事件のような他傷への道しかないと私は思ってた。
ところが、相模原事件で新たな可能性が出た。社会正義による殺戮である。
60年代大学闘争のようなイデオロギーの対立ではなく、この社会に属する者として、より良い方向に持って行こうとする、混じりっ気なしの善意なのだ。
その為なら、この身を喜んで犠牲にしようという、尊い自己犠牲なのだ。
狂っている。
社会に属する者として正気を保ちながら、狂気としか言えない行動を実行してのけたのだ。
この事件がただの殺戮でない事は、職員を生かしていた事からも読み取れる。
もしただの快楽殺人者なら、職員も患者も関係なく実行していただろう。
だが彼はそれをせずに、とても良い笑顔をSNSにアップして犯行を始め、終えた後、通報とほぼ同時刻に自首。
よくネット上で「富める逃げ切り団塊世代vs借金を擦り付けられた若者世代」
なんて対立軸が出てきたけど、この対立は、あくまで政治的に対立していく者だと思っていました。
これを解決するのは、いわゆる少人数による大人数への暴力行為なのですが、
戦後重犯罪最少記録を更新し続ける「おとなしい若者」には絶対不可能だと思っていました。
だが、相模原事件で新たな可能性が提示された。社会正義と自己犠牲である。
これって本当に恐ろしいですよ。
仕事感覚で殺人を行うキチガイが生まれるってことなんですから。
そして、それはブラック企業で慣らされた若者世代にとって、とても容易に現状を変革できる手段なんです。
超えちゃいけないラインをガッツリ超えてます。
となると、本当にやるかやられるか、なんですよ。
今後、増えていくんじゃないんですか?
まぁ、なんというか、お先真っ暗ですね。ご愁傷様でした。おわり。
http://anond.hatelabo.jp/20160413011057
まだ見てくれているかな・・・?①について補足すると言って時間が経ってしまいましたね。遅くなってしまいゴメンなさい。
※ラブライブ!論争の流れは下記のページにまとめました。興味のある方はご覧ください。
http://kato19.blogspot.jp/2016/04/lovelive-hihan.html#nagare
正直なところ『逃げていた』っていうのはあります(笑)やっぱり大好きな作品を納得いかない理由でけなされるのはストレスが溜まるものですからね。でも、ずっと小骨が引っかかっているような気分でいましたので何度か読んでは感じたことを書き留めてまとめました。
既に多少批判派が増えてもうんざりするほど思考停止の絶賛派のファンであふれかえっている状態で何故絶賛派は未見の人がアニメラブライブ批判派になることについてそこまで敏感になり、怖がる態度を見せるのかという部分が気になりました。
これは今だから思うのですが、当時の自分の感覚としては、本当に怖いというか危機感を持っていたんですよね。増田氏とは観測範囲が違うのかもしれませんが、今も当時も増田氏が言うほど絶賛派が多いとは思いません(あくまで劇場版についてです)。検索では完全否定派のブログも目立ちますし、完全否定ではないですが批判的な内容のブログも少なくないと思います。しかし当時は絶賛派の感想がひと段落した後も、ときおり注目されるのは否定的な言説で・・・このままだとアニメ史において駄作として記録されるかもしれないという危機感はありました。(増田氏は正反対に絶賛で記録されるのが許せなかったのでしょうが・・・)つまりお互い同じような危機感を持っていたのかもしれません。とはいえ、増田氏のような原作派(初期作品群派)は確かに少数でしたので『多勢に無勢』感というのはあったのでしょう。私としては大勢いる批判派の一派という感覚で十把一絡げにしてしまったところはあります。そのあたりは認識不足でした。
とありますが、自分が記事を投稿したのも最近の間に留まる話ですし、そんなに熱心な批判派が存在するような心当たりがないのですが…。
おっしゃる通り、ネガティブ派を単なるアンチも含めて大雑把に捉えていたことは反省しています。個人としてある程度継続的に批判意見を提供していたのは、おりあそ氏(ともう一人いたのですが失念)ぐらいかもしれませんね。とはいえ、当時は肌感覚として否定的なイメージで塗りつぶされる恐れを感じていました。(増田氏にとってはアニメ版によって初期作品の設定などが塗りつぶされるという恐れがあったわけで・・・サンシャインが放映されている現在ではその感覚をさらに強くしているのかもしれませんね。)ただ私が増田氏に強く反応したのは、明らかに誤解している点(絶賛派はウソをついている)を否定したかったからです。
強調されている『海外ドラマのパクリ疑惑』について真偽の検証はしていません。しかし仮に盗用されていたとして『だから駄作』なのでしょうかね?当該作品は未見ですが有名作品だとすれば、それに似ていると言うことは逆に面白いということの証左になってしまいます。海外ドラマのファンなら白けるのもわからなくはないですが、見ていない人にとっては『だから駄作だ』といわれても、それこそ内容と関係ないじゃん?と感じるわけです。『よく似た脚本の海外ドラマがあってそちらはもっと面白いよ』と言われて『じゃあそちらも見てみるか』ということがあっても、『よく似た脚本の海外ドラマがあってそちらはもっと面白い。だからこのアニメは面白くない』といわれても、それは別の問題です。
ラブライブが好きなら検証する義務があるのでしょうか?視聴者にそんな義務があるはずもありません。問題があるとすれば製作側の問題で、面白いと感じたファンが何か対応する話ではないはずです。なぜ増田氏がそこに拘泥するのか?それはやはり、自分の愛する初期作品が『盗作』などという行為に汚されたという『怒り』や『不快感』なわけでしょう。原点が初期作品群であり、アニメ1期から強い否定感情のある増田氏にとって、2期はもう内容云々の問題じゃないわけです。
結局の所、絶賛派は作品内容の是非がどうであれ布教をしたい、ファンである状態を共有したいというのが強く、作品を批判する人を減らしたいというのが最前面にきているのではという疑念が深まったような感があります。
『作品内容の是非がどうであれ布教をしたい』これは明らかに間違いです。繰り返しになって恐縮ですが、少なくとも自分は素直に素晴らしい出来だと感動したのですから。ただ、そう思わない人がいたとしてその人の感覚が間違っているとは言いません。しかし自分にとっては間違いなく真実なわけですよ。『ファンである状態を共有したい』ここが増田氏の論理の最も疑問な点ですが、これは私たち絶賛派よりもむしろ『中間的な層』(劇場版はついていけなかったけどイベントの一環として楽しんだ層)にいる可能性はあると思います。増田氏はそういう中間層も絶賛派に加えているのかもしれません。だから絶賛派である自分は、ラブライブ!ファンの中でも多数派ではない感覚があるのかもしれませんね。繰り返しになりますが『ファンでありたいために駄作を傑作と思い込もうとしている』などということはありえません。本当に傑作だと思っているのですから。具体的な点は以前ブログに書いた通りです。その感動が甘い・幼稚だというならともかく、嘘をついていると言うニュアンスになると間違っているとしか言いようがないです。
『作品を批判する人を減らしたい』これは当たらずも遠からずです。最初に書いた通り、批判派はこの作品を『駄作』として後世に伝えようとしているように見えたのです。絶賛派が一通り感想をあげた後、上塗りするよいうに駄作のレッテルを貼っていく。劇場版を見ていない多くの人は分かりやすいレッテルに影響されます。はっきり言って劇場版は『難解な作品』です。なんの準備もなく初見で見れば理解不能です。それだけに、今後のアニメファンに誤解した歴史が伝わって欲しくなかったのです。増田氏の言うような歴史、つまり『絶賛している人も本心では駄作だと思っていたのにラブライバーでありたいがために絶賛していた』などという明らかに間違った認識が広まらないようにしたかったのです。もちろん発言は自由ですがら、私としてはきちんと反論を公開しておく事でバランスを取りたかったのです。
いや、そこまでは言ってないのですが・・・面白くないなら(嫌いなら)仕方ないですよ。でも絶賛派をおかしい人呼ばわりすることに反論しているわけです。盗作問題と面白いと思う感情は別。目をそらしていると言われればそうなのかもしれませんが、絶賛したファンに『直視して反省せよ』というのでしょうか?まあ、本音を言えば私は劇場版の絶賛派でTV2期の心理的ウエイトは低いのが正直な所でもありますけどね。それよりも、増田の本当の目的は『初期作品の擁護』であって、そのためにアニメ版の粗探しをしているのは明白なわけです。だから私は増田氏が本当の目的である『初期作品の良さを広める活動』に徹するべきだと主張したのです。
初期作品を愛する増田氏から見て、ある意味『乗っ取ってしまったような形』になったことは申し訳ないなぁとおもいつつも、アニメ版が初期設定と連動していない問題と、アニメ版の評価(特に劇場版)は別にしてもらいたいなぁと思います。そうは言っても感情的に割り切れないとは思いますが、私はアニメ作品としてのラブライブであり、劇場版はその流れの到達点として捉えているので。
その点については正直ホッとしているのですが、そこが論点にならないとすると、結局は譲れない根本問題になってしまいますね。増田氏の言うとおり、私はたしかに初期作品群の『ラブライブ!』を全くと言っていいほど考慮していません。しかしそれを『蔑視につながっている』は飛躍のしすぎでしょう。差別はされている方が感じることだとは思いますが、申し訳ないが蔑むような気持ちはありません。無視すること自体が蔑視であるというなら仕方ありませんが・・・。ですから私は、増田氏は思うところをポジティブにアピールして欲しいと主張していたのです。
あと、レストランの喩えは恣意的すぎるように思います。『この例えにおいては料理の種類や味というのが作品の物語性やキャラクター』っていうのもいくらでも言い換え可能です。1歩譲って小説ならともかく『アニメ作品』においてどれが一番重要かなんて切り分けることに意味を感じません。特に劇場版においては、多少整合性に疑問があったとしても適当に補完できる程度の問題なわけで・・・まあ、また堂々巡りになってしまいますが。増田氏のこだわりは残念ながら理解できません。
結局のところ『お互い理解できない』で終わってしまうのは仕方ないのですが・・・もし後世の人がこれを読んだとして、これだけの極端な絶賛と批判がある作品だった事は知って欲しいかもしれません。とても一言では片付けられない・・・色んな思いが乗っかった作品(群)でした。
http://yamifuka.hatenablog.com/entry/20160704/1467643021
http://b.hatena.ne.jp/entry/yamifuka.hatenablog.com/entry/20160704/1467643021
しかしブコメ何言ってるの。年収が気になるのは親世代だけで、成績優秀な高校生は基本めぐまれてるので生涯年収で大学を選んだりしません。
では、なぜ成績優秀な高校生が医学部ばかりに行くのかというと「偏差値が高いから」。
2の高校生が医学部に行く理由は「偏差値」。そして2の高校生が医学部の多数派。
まず前提。自分の偏差値より大学の偏差値が下すぎると適切ではない、という考えが一般的にある。受験一般そうだろうけど、偏差値70の人は、65の学校ならありだけど50の学校はふつう受けない。
次。偏差値トップ層(進学校の上位層)は、偏差値75とかある。センター試験9割超えるのが当たり前の層。そういう人たちが偏差値を踏まえて大学を選ぶと、医学部ばかりになる。なぜなら医学部の偏差値が高いから。
東大とか京大とかある?あるけど、地元指向が少しでもあったら選択肢は地元大学の医学部しかない。なので偏差値トップ層は現状の偏差値では医学部に多く進学することになる。
そして次が問題、偏差値中間層。中間層なので偏差値65とか70くらい、医学部も大学を選べば行ける、理系なら東工大以上ならあり、文系だと偏差値的に低すぎない?っていう人たち。
この層の人は、強く興味ある分野があるなら医学部以外を選ぶだろうけど、高校生からそういう人は少ない。とりあえず大学に行く。そしてとりあえず行く大学を選ぶとき、偏差値トップ層が医学部に行きまくるのを見ているため、自分も医学部を受ける。
中間層なのでふつうに頭がいい程度なのだけど、すごーく頭がいい人たちに囲まれている楽しさを知っているので、トップ層がたくさんいるところに通いたいと考える。友達が医学部に行くから僕もー、というわけではない。偏差値高いやつと競い合うのはたのしいし刺激的だし快適。負けたくないという気持ちもあるだろう。
こういうサイクルがある限り変わらないだろうから、偏差値80くらいあるようなトップ層が安心して受験できる医学部以外の学部がいくつかあれば、この問題は解消すると思います。
個人的にも文系の特に教育学部あたり、旧帝大以上の教育学部の偏差値が軒並み20くらい上がらないと先行き不安。頭いい人材が教育にまわってほしいけど、現状の偏差値で医学部行けるやつに教育学部もいいよなんて言えない。
最近、学生さんに、研修病院の選び方について聞かれることが多くなってきました。
多分、普通の人よりもプチ転科してみたこともあったりとかして、色んな施設経験しているのもあってだと思うんですが
同じことをいちいち語るのもめんどくさいし、何回か語っているうちに言いたいこともまとまってきたような気がするのでまとめてみます。
まず大原則として
「できるやつはどこにいったってできるし、できないやつはどこに行ってもダメ」です。
なんか身もふたもないようですが、いわゆる有名研修病院でもダメなやつはホントだめだったし、場末の市中病院でもこれはっていう子はいました。
最初の二年間が姿勢とか方法論とか一番大事な時期だなんていう人はいますけど、僕はそんな姿勢とかなんて生まれてきてから二十歳になるまでできまっちゃってる
で、二年間で学べる事ってすごく少ないことなので、どこにいってもできる子はその環境の中で学び取ることができることを探して、指導医だけじゃなくて
患者さんやコメディカルにいろいろ教えてもらってぐんぐん成長します。
二年間でもうその環境から学ぶことないわーってなるなんてとんでもなく優秀かバカかどっちかだと思います。
医学部には入れている時点で頭はいい子ばっかりなので、あとは自分の研修先の環境について考えて、質問してくるぐらいなのでまぁ、「できるやつ」の方のカテゴリーに
いるんじゃないかと考えると、そういう子に対しては基本的には好きなとこいきなーっていうのが研修病院の選び方としては言えることだと思ってはいます。
上には「どこでも」ってさらっと書きましたが、実は「誰が行ってもあんまり良くない病院」っていうのが数少ないながら存在します。
指導する気とかまったくないんだけど加算取りたいがために臨床研修指定とかとってる病院です。
こういうとこ行くと、完全に放置されるか、いきなり一人前に扱われちゃってやらすだけやらすくせに教えてもらえないなんてことが起こりえます。
そういう病院はたいがい、いわゆる有名臨床研修指定病院じゃないわりに大学とのかかわりがあんまりない私的グループ病院だったりするので
あと、「誰が行ってもたいがいうまくいっちゃう病院」ってのも存在すると思います。
初期臨床研修制度がはじまってだいぶたつので人気研修病院は様々なタイプの研修医がやってきたはずです。
そうするとどんな困ったちゃんに対してもそれなりの免疫と対処法が蓄積されているはずなのでそれなりの扱いをしてくれるでしょう。
あと、そういう病院は同期も多くて自分を客観化したりとか、助けてもらえたりなんてことがたくさんあります。
もちろん多人数ならではの人間関係のめんどくささなんかもあるかとは思うんですが、柔軟な対応が
あたりはずれのない選択枝としておすすめできるものなのかもしれません。
それと、指導医もやっぱり人間なので、すごく些少なこと、たとえばこっぴどく振られた彼女に似てるなんていう極めて理不尽な理由で
あんまり教えてくれないなんてことも出てくるかもしれません。そういったときに指導医が各科複数存在する方が安全なので
大規模な人気研修病院っていうのが一番安心なんじゃないかなと思います。
結局は様々、病院ごとにカラーはあるとは思うのですが、直接指導する中間層の医者なんていつ飛ばされるかわかんない人たちばっかなので
マッチングが決まった段階と働き始めた段階では全く話が違うなんてことはよくある世界です。だから、あんまり前情報とかは
どこに行こうとできる人はそれなりにできるようになることは増やせるはずなのであんまりそこらへんは気にせずに、「おおはずれ」の病院だけ除外して
あとは、住んでみたい土地柄とか、給料とかそんなんで決めていいんじゃないかなーって思うし、少しでも安全パイをとりたければ
がんばって有名研修病院を受験してください、ってことなんじゃないかと思っております。
あ、ちなみに初期研修の先の進路設定については一部を除けば基本的にはどこでもウェルカムな世界なので、自分さえ強く持っていれば
どこの病院からでも希望の医局であったり病院であったり行くことはできると思います。(それなりにコミュ力は必要としますが)
なので、将来的にこの大学でやりたいからその関連病院でしなきゃいけないとかあんまり思わずに決めたらいいと思いますよ。
もちろん、人間関係ってのは財産なので今あるクラブの上下関係とか知り合いとかを活かしたいなら自分の大学とかかわりがあるところでやったほうがいいと思うし
三年後に少しでも楽したいんなら、初期研修を三年後に自分がやりたいところの関連でやって人間関係を築いた方がいいと思います。
でも、初期研修の間にやりたいことって結構変わりますからね。あんまり気にしない方がいいんじゃないかなー。
最後に、こういう質問を僕にぶつける学生さん、僕は神経内科なので神経内科が好きに決まってるので神経内科の仲間になってもらえるようにうまく誘導する答えを発するにきまってます。
この記事とかで
http://diamond.jp/articles/-/88551
三行にまとめると
こういう話なんだが、これ全く逆じゃね?
こう言われる人々が真っ先に淘汰されるだろうってのが今の流れだろ。実際には
大量に集められた情報をつなぎ合わせて、意味を推察する分析は、コンピュータが得意とするところだ。ここ4年ぐらいで爆発的に進化してきている。そう考えると、ここで挙げられている「微妙に高給取りの、中途半端な頭脳労働者」、つまり上の下ぐらいが一番淘汰される可能性が高いんじゃないか。
例えば販売員が不要になって、コンサルティングが残るという話があるけども、すでにネット通販では「あなたにおすすめ」「これを買った人はこれも買ってる」「この作家が好きな人はこの作家も好きだけどいかが?」とかおすすめするのが当たり前になってる。
これがリアルに持ち込まれなかったのは情報の集約と、顧客識別に問題があったわけだが、これはすでに技術はできた。
あと数年以内にTカード当たりがカード不要の顔パスサービスなどと言い始め、顔認識がコンビニのレジに搭載されて、店員側のレジ端末にその客に対する対応の仕方や、よく買うタバコの銘柄、●×の商品を勧めろ、と言った情報が表示されるようになるんじゃないかと思う。
こうなると、昔は研修に研修を重ねて経験によって案内していたような上級販売員の様なことを、一山いくらのパート従業員ができる様になる。同じようなことは、経営方針の分析などもそうだし、製造業などの方針決定や、製品設計の初期段階における実現性・妥当性分析などもそうなるだろう。
それから、この手の記事で一番抜けているのは、経営改善はコストが高いところから削減されると言うことじゃないのかと思う。そして「代替可能になる」と言うことと「実際に代替される」という所は大きく違うのだが、その読みが足りないような気がする。
改善活動で使われる手法に「パレート分析」って言う物がある。要求度を分析して、要求度の高い順番に並べる。これの目的は影響が大きいところから手をつける対象になる。ここだけみると、コストが高い部門がまず真っ先に改善の対象になるはずなんだが、なんで今まで対象じゃなかったか、と言うと代替不能だったからだ。それが代替可能になったとなれば、まずそこから片付ける事を考えるのでは。
と言うわけで、こういう所で「考える力を身につけて創造的な「職種」になる事ができれば生き残れる」というのは全く間違いなのでは。
昔、最先端の花形職業として「タイピスト」というのが合った。活字を直接指定するような特殊な日本語タイプライターを操り、漢字混じりの文書を直接作成する仕事だった。タイピストはみんなのあこがれで、専門技能者として給与も高かったそうだが、電子ワープロの開発できれいさっぱり消えてしまった。
彼らは創造的な仕事かどうかという話ではなく、彼らが高給取りだったからこそ、そこを改善する為の装置は高く売れるだろう考えられ、資本が投資されて開発されたという面があると思われる。
そう言う面では、安全だと言われる筆頭格の医者なども技術さえ開発されたら危ない。高給取りなので、1人の医者に3人分の仕事をさせる装置を1人分の医者の給料で売れよく、医師一人分の給料が高ければ高いほど開発に投入できるリソースが増えるわけだから。
資本家にもなりきれず、給与所得者という「使われる」立場から抜け出すことができず、一方で単純労働者よりもコストが高い、こういう所が真っ先に狙われるのではないか。
そしてその結果どうなるかというと、職がなくなる、んじゃなくて、給料が安くなると言うことなんじゃないかと。
高価なセミナーを受講して、苦労して身につける必要があったスキルが、今後はコンピュータの支援を受ければ低賃金のバイトでもできる様になる。このとき、低賃金バイトの給料+コンピュータによる支援システムの総合計とコストを比べられることになると言うことになる。
今だって製造ラインのかなりの部分はコンピュータとロボットで代替だ。最先端の映像認識技術と、ロボットアームを扱えば一瞬で魚の大きさを判別して分別することもできるし、大きさと形状を認識して三枚に下ろすことも可能だし、そう言う装置は販売されている。でもそれが現実に使われないのは、そんなものを頑張って入れるよりも、おばちゃんたちを最低賃金で雇った方が安いからだ。
あるいはあらゆる物を数値制御で作り出すマシニングセンタや、立派な研究開発施設をもって一品物ならばあらゆる物が作れる設備がある大企業が、町工場のおっちゃんたちを職人職人と持ち上げるのは、お金をかければラインに入れられるが、それよりも彼らは安く挙げるからだ。職人さんたちは頭を下げて依頼しに来る大企業の担当者よりもずっと給料は安い。
と言うわけで、中途半端な知能労働者、それこそダイアモンドとか東洋経済とかプレジデントとかそう言う経済ポルノ雑誌をありがたがって読んでいるような層が一番危なくて、彼らは実家住まいでないと生きていけないような薄給で働かされている中の下以下の貧困層と競争を強いられる時代になるのでは。
しかしその貧困層は途上国の労働力と戦うことを迫られるわけだが、10年後にはまだあるだろうと思う。その頃には政治体制がいろいろな変革を迫られる状況になるとは思うが、その後も、今から20年後、30年後というスパンでみたときも、今と同じく社会に最低限の人権が残る程度だと仮定すると、それでも貧困ビジネスのような物は残るかなと思う。
そのとき(30年後ぐらい?)上流階級になるには、普遍的な価値を独占する資本家になるか、時たまおきる新商売の中で先行者利益を独占できるような「強運」(実力ではない)に賭けるか、そんな金持ちの彼らにかわいがられる芸術家や宗教家になるかぐらいしか方法がなくなってくる、ような気がする。
結局、に中間層が消え去って貧富の格差が増大するが、今の流れだと自分は高所得者層に入れるだろうと思っている人々の多くが脱落してくるんじゃね、と言うありきたりな結論になっちゃうわけだけど、ただそんな社会はいろいろと持たなくなって、経済的な面でも持続的成長は止まるだろうと思うので、額面通りのインダストリアル4.0が来るとしてたらここらの前提になる部分はどこかでひっくり返るんじゃないだろうか。
今はてブトップの保育園落ちたが共産党のやらせだったって言うの見て。
基本的に党派性関係なく意見が一致できそうな話題なのに、共産党のやらせだからダメだそうな。(いや、やらせの是非について言ってるんじゃないですよ勿論)
今こういう人たちってネット上に結構入るけどもしかしてこの流れってまずいんじゃないかなぁ。
トランプは言っていることは過激だけど、TPP脱退、累進課税の強化等々経済政策に関してはサンダースさんと似通ったところがあるらしいそうな。
ただ、以前はそうではなかったらしいとの情報もあり、明確なことはいえない。
でも、そのように考えると、トランプの言動には明確な方向性があって、それはアメリカの労働者層や下流中間層の気持ちを代弁するポピュリストであるという点なんだよね。
上記の左派的な経済政策や移民・難民排斥、日中への口撃や、世界の警察の役割をやめるという発言やメキシコに壁を云々は、実際イスラム過激派のテロも多発していると考えるなら、やはりいってしまえば内向きの、アメリカにもともと住んでいた特に労働者の気持ちを代弁していると考えるべきだよね
そこにはポピュリズムはあるがイデオロギー的なものは存在しないと思う。
そのように考えるなら、日本でトランプに相当するのは同じくポピュリストの橋下さんといえると思う。橋下さんはトランプみたいに差別発言はしないから橋下さんには失礼だけど
彼がいつも言ってるのは既得権益の打破で、トランプもイラク戦争を明確に批判しててそんなのに金をかけずにインフラ整備とかやるべきだったと言ってて従来のエスタブリッシュメント層の政策への批判という点では一致している。(だから従来の共和党支持者からは受けが良くないらしい)
翻って安倍さんだけど彼の経済政策って別に左派的じゃないよね?
それなのにとても富裕層とは言えない、彼の政策で首が絞めれるかもしれない人たちが彼を支持してて、彼を批判する野党やメディアを叩いて回ってる。
なんかこの紅衛兵とかナチスの親衛隊みたいに取り巻きが血眼になって反対者を攻撃する感じ?
いや、こういうのがこのくらいで収まればいいんだけどたまーに現実世界に影響与えちゃうこともあるじゃん
あまり言いたくないけどこういう日本みたいな首相への個人崇拝みたいなのって、他の民主主義の先進国でも見られることなのかな
見られないとしたらほんとに怖いなぁ