はてなキーワード: クラスメイトとは
学生時代、生徒会だか学校だかが「折り鶴を折って被災地へ送ろう!」と言い出し、朝礼の時間に一人一羽折り鶴を折ったことがある。
まだインターネットが市民権を得ていなかった頃の話なのでそれが良いことであるとか悪いことであるとかそういうことも当然知らなかった。
なお折り鶴一つ満足に折れないので(あの細長くして半分にするところがいつもわからなくなる)もたもたしている間に隣席のクラスメイトに奪われて最後まで折ってもらった。
屋外プールだから虫や葉っぱが浮いてたし、誰かがおしっこしてそうだし、いつも指をしゃぶったりおちんちんをボリボリ掻いているあの子と同じ水に入るのが嫌だった。
プールで先生の指示通りに動く時間(内容は忘れた)が終わり、自由時間になった。
私はこれ以上プールに入りたくなくて、プールサイドで体育座りしていた。
先生に「プールで遊ばないの?」と聞かれても「ひなたごっこしてるのーあったかいよー」と、自分ができる最声のほのぼの笑顔で答えた。
「プール嫌いだから…」とは言わなかった。嫌いなものは克服させようとしてくると思った。あくまで「プールも好きだけどひなたごっこはもっと好き」という雰囲気を醸し出した。
ひなた「ごっこ」が正しいのか「ぼっこ」が正しいのかまだ覚えられていなかった。
普段の仲良し同士ではなく、スイミングに通っているかどうかで分かれているように見えた。
たまにプールサイドを歩く蟻が体を登るので気をつけなければいけなかった。
それでもプールの中の死んでる虫よりプールサイドの生きてる虫の方がまだマシだと思った。プールには虫の血が溶けていると思った。
「園庭で蟻の巣を掘って遊ぶ事もあるけど、その時はなんか靴とか服で守られてるじゃん…でも今守られてないじゃん…だからやだ…靴を登って肌までくることもあるけど、うーんなんだろ。それはすぐ払える感じがする…なんでだろ…」
「プールに入っても虫、入らなくても虫。やだなあ。私だけ早く上がって着替えてみんなを見てたいなあ。見学ですって言えば…見て勉強してまーすって楽しそうに笑顔で…いやー無理だろうなあ。そこで怪しまれるのはなあ」
そんなことを考えていた。
しばらくして、先生がみんなに自由時間はおしまいだと言った。私は嬉しかった。
プールの時間はいつも最初に先生の指示通りに動く時間があって、その後は最後まで自由時間だった。つまり自由時間が終わるということは、プールの時間も終わるということだった。終わるはずだった。
「はーい。では今から増田ちゃんの時間でーす。増田ちゃーん、泳いでいいよー」
えっ
一瞬で色々なことが頭を駆け巡った。
「増田ちゃん、みんなでバチャバチャやってるのが怖くて入れないのね…かわいそう…増田ちゃんもプールに入りたいはずよね。増田ちゃんがプールに入れるようにしてあげなくちゃ!」か?
それでこんな事をしたのか?えっやだ要らない。けどここで断ったら先生かわいそう。
それとも「あなただけプールに入らないなんてダメだよ。嫌いだからってやらないのはダメだよ」ってこと?
私怒られてる?プールに入りたくないことバレてる?!「好きなものはみんなと違うけどこの子なりに楽しんでるのね」みたいに思ってもらえるような雰囲気だしてたのに通用しなかった?!
あの先生は優しいけど、他の厳しい先生や普通くらいの先生はどう思ってるの?あっダメだ顔を見ても読み取れねえ!
一瞬でそこまでしか考えられず、私の口から出た言葉は「や、いいです…」だった。言った直後「〇〇だからいいです」みたいに理由を言えば良かったと思ったが、結局何も思いついていなかった。
きっとみんな「増田ちゃんだけ1人でプールにはいれてずるい」と思ってるはずだし、そんな顔をしているはずだと思った。怖くてみんなの顔を見れなかった。ほのぼの演技も多分出来ていなかった。
「増田ちゃんだけ自由時間にプールにはいれなかったのよー。みんなは遊んだから次は増田ちゃんの番よー遠慮しないでー」みたいな事を先生は言った。
みんなの顔は見てないけど、きっと「そうなんだ。なら次は増田ちゃんの番だな」って顔をしていると思った。
先生はあくまでも優しく提案している。ここで断ったら「増田ちゃん、嫌な事でもやらなきゃダメよ」と、みんなの前で優しく怒られるかもしれない。
みんなにも「折角俺たちの自由時間削って増田ちゃんに譲ってあげたのに断るなんて、俺たちの削り損じゃん」と思われるんだろう。私だったらきっとそう思う。
さっさと入らないと、みんなは「早くしろよ」って顔をし始めるはず。それは怖い。
「あ、うん…」みたいなことを言ってプールサイドのハシゴまで歩いた。
虫の血やおしっこやいつもおちんちん掻いてる子の事は考えないようにして、ゆっくりハシゴをおりた。
プールに入ったけれど何をしていいかわからなかった。適当に水面を叩いてみたけど間が持たない。
「はいったよ。もういいよね」と思いながら先生の顔を見ると「泳いでみて〜」といわれた。もうだめだ。
泳ぐったって…スイミングに通ってる訳でもないし、泳ぎ方わからない…あ、前お父さんと温水プールに行った時「バタ足は膝からじゃなく太ももから動かすんだよー」って言われたっけ。そうするか…でも太ももから動かしたらなんか沈みそうだな。見た目もかっこ悪そうだな…。太ももから動かして「スイミング通ってないのに生意気」とか思われるのも嫌だな…。膝から動かして「泳ぎ方知らないけど頑張ってます」感を出した方がいいかな…うーん、そうしよう…
おずおずと見よう見まねで膝から動かすバタ足をした。水しぶき(=頑張ってる感)が沢山上がってますように!と祈った。
息継ぎの仕方は知らないから、泳いだのは少しの時間だったと思う。顔を上げて先生の方を見ると、「はーい頑張った増田ちゃんに拍手〜」と言われた。
ああ、うん。
その時、相手は困ったような顔をして「少し考えさせて」と返答された翌日、生徒会の副会長であり学年女子の中心人物であった女に
「○○があんたに告白されて気持ち悪くて困っていると言ってるの、もう○○に接触しないでくれる?」
と教室でしかも怒鳴り声に近い口調で言い放たれた・・・・あまりに勢いに驚いたけど翌日から奇異の目で見られるようになった。
その出来事以来、中学の3年間は「キモい奴」と言うレッテルが学年の女子だけでなく男子にまで広まり、黒板消しを投げつけられたり
後ろからいきなり蹴られたりして怒ると「キモい奴が口答えすんじゃねーよww」と中傷されるようになった。
今考えるといじめなのだが当時は「自分はキモいから、そんな目に合うんだ」と何となく納得して・・・・教室の隅で大人しく過ごしていた。
高校に入ってから人間関係がリセットされたおかげで楽しい時期を過ごしたが、唯一できないことがあった。
それが「告白」だ、好きな人がいたけど結局遠くからたまーに眺めるだけ・・・生徒会の役員にもなったし運動部でそこそこの成績を残した
影響で充実していたが「好きな人に告白をする」が出来ないまま卒業した。
勇気を出そうとすると中学時代の自分が頭の中で「おまえ、キモい奴と思われてるのに告白なんてしたらまたサンドバックにされるぞ?」と何度も何度も呟いてきて
どうしても想いを伝えるに至らなかった。どうしても勇気がでなかった。
大学に入ってからも恋愛に至っては中学時代の自分が頭の中で「おまえ、キモい奴と思われてるのに好きなんて言ったらまたサンドバックにされるぞ?」
大学卒業してから今年で15年・・・・・彼女いない歴=実年齢の童貞、もう青臭く「告白」で恋愛できるような年齢は過ぎてしまった。
大人の対応を迫られるようになり、ビジネスで性を持ち出すことがジェンダー問題的にまずいと言われてから女性には気を使い男女の認識を消して対応している。
プライベートな話や内面に関わる話はセクハラと言われやすいので会社内では誰と話しても仕事仲間以上の感情は抱かないようにしている。
ふと、仕事の休憩中に好きな人に「キモい」と言われると言うことがなければ今頃隣に好きな女性が座っている人生もあったのかな・・・と思う時がある。
過去の亡霊に取りつかれているのは良くないと思いつつもやっぱり中学時代に受けた仕打ちは大きかった。
成人式で中学時代の奴らと出会ったがお酒の力もあり最後は楽しく同窓会を終えたが、俺に「キモい」と言った女は結婚して子持ち、俺が一目ぼれした女性は同棲している彼氏がいると
同窓会の席で隣で座っていた元クラスメイトの女性に教えられた。なんとなく気になって自分が聞いたわけだがモヤモヤとした何とも言えない感情だけが残った。
処刑から1日も立たずに麻原彰晃の霊言披露が告知されて早速ネタにされている某科学だが
高校の時、既にネタとして各所で有名となっていたので、たまにネット上で話題になると昼休みに弁当を食べながら友達と爆笑していた。
新興宗教の動画を昼間に見てると考えるとなかなか気持ち悪い気もするがニコ動のネタ動画とかと正直変わらない感覚で見ていた、スマホもあったし。
卒業後は進学で地元を離れたこともあり、高校の同級生とはあまり関わりが無かったのだが、年末に帰省して久々に集まることになった。
自分はSNSは大学で始めてTwitterも実名ではやらないことにしていたので全く知らなかったが、クラスメイトがやたら幸福関連のツイートをRTしているのだという。クラスの中には選挙活動への協力を打診されたひとや合宿を手伝って欲しいと言われたひとがいたことも発覚。フォロワーのプロフィールにはHAPPYSCIENCEの文字。
そういえば…とFBを開き、そいつのページを開くと「友達リクエストが送信されました」のまま。もう半年以上経っているはずだ。
自分たちにとっては完全にネタにしか見えないがあいつには儀式だったんだな…と思うと反省、よくその場でキレられなかったなと思う。地元には小さな施設もあったけど活動は見えなかった。個人的には完全に面白動画なのだが。
ちなみに友達じゃなくても公開設定になっているものは見られるので普通に信徒同士で交流していることが確認できる。
オウムが騒がせていたころは物心つく前で記憶も無いしどんな感じかもわからない。今残っているのは事件の映像か尊師マーチぐらいでこちらもネタとして度々浮上しているが
あんま一緒くたにするのも良くないんだけど
友人というのが、どうにも子供の頃の定義で止まっている気がするんだ
でも相手のことを深くは知らないし、丁寧語だし、一緒に馬鹿なこともしない
学生の頃は
大人になるほど人生は長く、その人を全て知ることは不可能に近い、どうしても浅くなる
なんだろうな
死刑執行のニュースで思い出したんだけど、小学校3、4年の時の担任の先生が、オウム真理教の信者だった。新卒で可愛らしい雰囲気の女の先生で、私は何度かお手紙を書いて渡したことがある。綺麗な字のお返事をもらった。
先生がオウムだと分かったのは、それから何年も経って私が大学生だった94年のことだ。写真週刊誌のオウム真理教の記事に写真入りで出たからだ。とはいえ私はその記事を見た記憶がない。たぶん地元の友達から聞いたのだ。当時私は京都の大学にいて地元を離れていたし、それ以上の続報はなかった。
友達の友達くらいの距離だったけど、学校帰りにみんなでご飯を食べに行った時に、その男子学生も来ていたことがある。オウムと麻原がいかに素晴らしいか、屈託無く力説していたが、彼も間もなく学校に来なくなった。滋賀のほうの教団施設に行くと言っていたとかいなかったとか。
話がそれたが、当時は田舎の小学生独特の残酷さで、担任の先生には酷いことを言ったりしたりするクラスメイトもいた。先生が教室で泣き出してしまったこともある。もしかしたらそれで教職が嫌になって出家してしまったのかもしれない。若い新卒の先生だったし、大学在学中に勧誘されてた可能性もあるけど。
週刊誌に出てた以外に知ってることはないけど、今日のニュースを見てからずっと頭から離れなくなってて、ブコメに書くには長くなりそうだったので、ここに記した。
小学校四年時
家から漫画を持ってきて読むことにした。我ながら中々のワルである。
読んでいたのはスーパードンキーコングのコミカライズ作品というキワモノ。
それをクラスメイトのメガネ君に見つかって珍しいから読ませてと頼まれて読ませてあげて以降
お互いの漫画を学校に持ち寄って休み時間に読むというのが俺とメガネ君の休み時間の定番になった。
クラスで漫画を読むなんてことをしていれば当然目立って、先生にチクられて怒られたら辞めようくらいに思っていたが
そうはならずに読書仲間が一人二人と増えていき、あっという間にクラス中に漫画の回し読みが蔓延した。
読書仲間の増加で漫画の供給が追い付かなくなってきたので、俺は家にある漫画を教室のロッカーにストックした。
すると読書仲間もそれに追随してくれて教室のロッカーがあっという間に漫画だらけ。
更に女子が少女漫画を持ってきだすと、漫画持ってない奴が図鑑を段ボールで持ってきたりして
こうなってくると貸し借りのトラブルが発生するのは自明の理である。
そこで図書委員だったメガネ君の提案で貸出票と管理用ノートを作成。
俺とメガネ君は貸出票の作成と管理に追われて漫画を読む暇もなかったが、
お互いを館長・副館長と呼び合って楽しくやっていた。
漫画図書館の名声は他所のクラスにまで広がり、俺はいい気になっていたが
他クラスの奴が借りにきだした時点で、担任の先生からストップがかかった。
先生はクラスで漫画図書館が運営されていること、その首謀者が俺だということを見抜いていたのだ。
教室が漫画だらけなんだからバレて当たり前っちゃ当たり前なんだが……
先生は「授業に支障はきたしていない」「皆で楽しく図書館運営している」といことで黙認していてくれたのだ。
ただ他所のクラスにまで波及してしまっては担任一人で責任を負えない。
私は今30代後半です。
高校は地方の公立進学校へ行き、ほとんど全員が大学へ進学するようなところでした。
うちは貧乏だと思い込んでいた自分は、どうせ自分は大学へ行けないんだ、と諦めていました。
でも高卒で働く自分も見えず、もともとデザインが好きだったので、
デザイン系の進学校へ行き、奨学金を借りて「専門士」を取りました。
たくさんのクラスメイトたちが、今でのデザイナー、編集者、ライターなどとして働き、
今ではそれなりの地位になっていたり、独立していたりして、大卒でないからダメだ、というのはあまり感じません。
私自身、デザイナーとして働き、海外へ出て、その後もIT系のデザイナーとして経験を積み、
大卒の資格なしでも、それなりにいい職場で働かせてもらっています。
でも、海外では、仕事上のビザはたいてい大卒が最低ラインです。
私は経験でカバーしてビザを取ってきましたが、いつも実はハラハラしています。
それも経験でカバーしてきましたが、これもいつも、ハラハラです。
大学は出ておいた方が、色々と、楽です。
私もそれは、さんざん言われました。
でも私には、学費のあてがなかった。
4年も払えるあてがなかったのです。
国公立でもだいぶ高いのです。
シングルマザーには手当がついたり、学内に保育女があったりする国もあります。
教育はすべての国民の権利だ、と考える国がたくさんあるのです。
留学って死ぬほどお金がかかる、お金持ちの特権だと思っていたのですが、
大学や国によってそんなことはないのです。
そんなこと、知らなかったので、留学とか海外とか、自分には関係ない話だと思っていました。
海外で最初についた仕事はすごくお給料が安くて、海外に出たい若者を搾取しているような仕事でした。
仕事内容はデザイン業務以外に、現地スタッフのマネジメントというのもあり、
給料は安くても責任の重い、まあ今となっては修行だったと思えますが、正直搾取の対象でした。
海外にいると、大学の名前なんて超トップスクール以外誰も気にしません。
アフリカの小国から来た同僚の大学の名前を聞いてもさっぱりです。
やっぱり学士が欲しい、というのもあありましたが、
正直、15年も仕事をしていると、今の仕事に関わる学士レベルの勉強は物足りません。
でも、基本、学士がないとマスターコースには入れません(MITなどの一部のコースでは大学を出ていなくてもマスターに入れるコースがある)。
もう40も目前です。
でも、もう手遅れ、っては思っていません。
まだいけると思ってます。
あの頃自分がどんな子だったか思い出せなかったから、何を話せばいいかわからなかった。
何を着ていくかも迷いに迷って、このあいだ男友達から「女子大生っぽいね」と言われた格好をしていった。
派手になったなあと言われた。
元カレはセッターを吸っていたけど、私はカバンに入ったキャスターのことを黙っていた。
半分払おうとしたら1000円しか受け取ってくれなかった。
何味のパフェにしようか悩んでいたら、勝手にストロベリーをふたつ頼まれた。
あの頃友達のいなかった私の唯一の心の支えで、付き合ってもいたのに、初めてのツーショットだった。
母に「懐かしいひとと会ったよ」と写真を送ったら「ふたりとも大きくなったね」と返信がきた。
「大人になったからね」とふたりで笑って、ふと、ホテルに誘われたらどうしようと思った。
何度か、帰ろうともまだ一緒にいようとも言いだせない沈黙が訪れて、大人ってなんだろうかと思った。
パフェに入っていた白玉を長いスプーンですくって口に運んだ。昔から、パフェで一番美味しいのは下のシロップに沈んだ白玉だんごだと信じてる。
「帰る」
「うん、駅まで行くよ」
「うん」
手を繋いで歩いて帰っているところを、教室の窓からクラスメイトに見られて照れたりしていた。
手を繋いだこともない、前戯以外のキスもしていない、話した時間も全部合わせて3時間ほどの選択科目のクラスメイトと1ヶ月前にしたセックスを思い出しながら改札を通った。
駅までどころか玄関までも見送ってくれなかったな。もうフルネームを思い出せない。
ちらりと振り返っても姿は見えなかった。
探すのは悔しいから、見つからなかったな、と諦めてホームへの階段を下った。
駅まで歩いているとき、
って言われて、
髪も染めたし、カラコンもするし、タバコを吸うし、パチンコ屋でバイトしてるし、オフショルだって着るし、よく知らない男にヤリ捨てられるし、THE NOVEMBERSとか好きだし、全身脱毛したし、男友達とその彼女が別れたとき喜んだし、レースの下着履くし、あなたに会って「ホテルに誘われたらどうしよう」とか思ったよ。
「大人になったはずなんだけどな〜」
と笑って返した。
ガチャポンを100円ずつ出し合って回した初めてのデートを思い出した。
でもまだ友達は少ないし、小説もサッカーも好きだし、やっぱり彼氏とは長続きしないよ。
またいつか、って別れたけど、もう一生会わないだろうな。
能力の低い人ほど自己評価が高い傾向にあること。この現象に「ダニング=クルーガー効果」という名前が付いていること。これらは最近知ったことだ。私の人間としての欠陥が、一般人の誤差の範囲内では収まらないことを決定的に(薄々勘ぐってはいた)悟ったのはここ1.2年なので、実に20年前後、私は自分の事を過大評価していたことになる。ダニング=クルーガー効果というやつを身をもって体験したわけだ。
「自分の欠陥にどうして気が付かなかったのだ?」
能力の高い人はこんな疑問を持つかもしれない。勿論、いわゆる「しでかした」ことは数多くあるし、その出来事自体に言い訳をし続けてきたわけではない、とは思う。でも、それだけで自分を見限ることはできなかった。中学でも高校でも、それを「天然」だとか、「ボケ」だとか、そんな言葉に置き換えてどうにかやってきた。だけど、今はそうはいかない。
「人は、変えられるものは未来だけだと思い込んでいる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」
これは、平野啓一郎氏の「マチネの終わりに」の一説であり、またこの小説のテーマでもある。その通りだと今は思っている。友人と笑い合った学生時代、私の一言・行動で笑ってくれたと思っていた私は、実は笑われていただけだったのではないだろうか。笑いながらなんとなく言われた一言が、今はずっと、頭の片隅でリフレインする。お前、頭おかしいんじゃねえの……。
ダニング=クルーガー効果というやつは実に厄介だ。能力の低いものが自分をよく見がちであるというのは事実だし、研究というのはそういうものなので文句のつけようはない。だが、ただ残酷である。自分の能力を高く見積もっていたものが、その実ずっと低かったことを知った時、その人はどうしたらいいのだろう。自覚ができたのだったら改善のための努力をすればいいじゃない、と言うのは簡単だ。だって、その自覚が今までの過去を全否定するのだから、直ぐに切り替えて良い方向に迎える人はそれほど多くないのではないか、と私は思う。どのくらいの時間がかかるのかはわからないけど、自分を受け止めてやるだけの時間が必要だ。……と、こんなことを考えているんだからそりゃ能力も低いわけだ。
自覚を持ってからの自分の活力のない生活の中、私は高校の時のクラスメイトを思い出した。彼は人気者になりたがっていたが、会話の中で人を弄るのが下手くそだったし、(こんな自分が言っても説得力はないだろうが)空気が読めない人間だった。彼は多分、人付き合いと言う観点から自分の事を過大評価していたのだ。そのことに気が付いたのは何時だったのか今となってはわからない。知らぬうち、彼の口数は驚くほど減っていた。大声を張り上げることもなくなっていたし、休み時間に誰かに話しかけるのも見かけなくなって、自習やら読書やら、独りで時間を過ごすのを見ることが多くなった。正直に言って、彼が苦手だった私はそれがありがたくもあり、また少し申し訳なかった。自分も多分、状況は多少違えど同じような状態になっている。そう思うと、私が彼に向けていた視線が現在は自分に突き刺さっているのである。
はぁ~どうすりゃいいんだろうねほんと。
>>亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災や災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。
なんだろ
普通の日本人様方はそう思ってんだ
吹田市民です。
私のスペック。30代男性。大阪市内の会社に勤務。妻、30代、専業主婦。
自宅。築40年のマンション。古い。6階。
朝、いつもアラームは8時20分に設定している。(始業は10時なので、ゆっくりめ起床)
妻も既に起きていて、本能的に体を寄せ合う。
阪神大震災の時は、目覚めた時、既に揺れており、部屋が平行四辺形にグラグラ揺れていたのを覚えている。
違ったのは、振動の長さ。阪神大震災の時は1分ぐらい続いたと思うが、今回は15秒ぐらいで済んだ記憶がある。
震源に近かったせいか、緊急地震速報は、揺れの最中から鳴り出した。
玄関にいき、下履きを持ってきて、泥を払った上で、室内用として使用する。(ガラスや陶器が割れて散乱しているので)
ダイニングの食器棚が倒壊し、食器は約半分が使い物にならない。
書斎のPCモニター(24インチ液晶)が机から落ちていた。正常に動作するかどうかは、未検証。
書斎の本棚が倒壊し、再起不能なほどに壊れた。当然、中の本はすべて書斎内に散乱。
寝室は、引き出し式のクローゼットが私の寝床に倒れていた。すぐに飛び起きていなければ、頭直撃コースだったに違いない。
それ以外は深刻な被害はなかった。
続いて、風呂に水を貯める。ガスの元栓を閉じる。ベランダなど、すべての扉が開くかどうかをチェック→正常に開いたので、問題なし。
自分と妻のワイモバイル回線→音声通話は不可だったが、4Gは通信できた。
我が家は、基本的に必要なものしかストックしないという妻の方針のため、非常食になるようなものがない。
会社の上司に連絡。電車がいつ動くかわからないこと、部屋の中に割れた食器と家財道具が散乱していることを伝えると、出社しなくて良いとの連絡。
(家の惨状を写真に撮って送ったら、たいそう驚かれた。上司は京都に住んでいるので、ここまでひどくなかったのかもしれない)
確認したところ、こういうときに必要なものとしては、2リットルのミネラルウォーターが2本と、昨晩沸かしたお茶約1リットル弱しかない。
そこで、コンビニへ買い出しに行くことにした。
買ったものは、昼食の弁当×2、非常食相当のカップラーメン×2、朝食相当のカロリーメイト×1、紙パックのお茶1リットル とりあえず、夕方まではしのげる量の食料を確保。
自宅に戻り、午前中の間はテレビとネットで情報収集しつつ、下手に動いて余震にやられないよう、寝室で待機。
正午過ぎにお昼を食べて、そこから部屋の片付けを開始。
下履きを履きながら、室内の割れ物を回収していく。みかんのダンボール箱相当で、3箱分ぐらいの、ガラス・陶器の割れ物が発生。
細かい割れ物は新聞に包んで、特に営利で凶器になってしまいそうなものは、ガムテープとラップで養生してから、マンションのゴミ捨て場に捨てに行く。
同じような割れ物が、たくさん捨てられていた。
片付け作業中、1時間に1回ぐらいの割合で、テレビをつけて情報収集。私はずっとつけっぱなしにしたかったが、妻はこういう状況で災害の放送をずっとつけていると、精神的にもよくないと反対。
私も納得して、必要以上に情報に接しないよう心がけた。単純に、片付けにも集中できるという意味で、効果は高かったと思う。(私はテレビ見ながらの作業は、ついつい手がお留守になりがちなので)
5時になり、ライフラインの疑問が解決しないかと思い、マンションの管理室に行ってみる。
水道水がにごっていること、ガスを使っていいのか、この2点を尋ねに行った。
ガスは、一定の震度に達すると自動的にストップするので、再始動の手順がガスメーターに記載されていることを教えてもらった。
昨晩の残り物、白ごはん、ねぎ焼きが残っていたのでそれを電子レンジで温めて、惣菜といっしょに食べた。
室内の掃除はあらかた終わり、あとは細かい破片を取るために粘着ローラーをかけるだけとなった。
夜は、寝室とは別の、一番家具の少ない部屋で寝ることにした。
念の為、天吊の灯具は外した。寝るにしか使わない部屋なので、当面困ることもない。
翌日は普通に出勤するも、一部でJRが動いていないため、阪急で出社。30分の遅刻。
妻は、最後の片付けをしていたようだ。
一部の交通機関を除き、平常運転だったようだが、街の中には様々な傷跡がのこっていた。
マンションや駅のエレベーターは、軒並みストップ。点検して安全が確認されるまで封鎖。
公共施設の多くで、天井や壁に亀裂(クラック)が入っており、これも点検修理が終わるまでは近づかないよう、カラーコーンなどで規制線がはられている。
街ゆく車の中には、工事関係の車が目立った。かんでん○○とか、ガスサービスセンター○○といった、インフラ系関連会社や、
○○ビルテクノ・サービスといった、ビル管理系の車がよく目につく。
自分の会社の自席は奇跡的になにも倒壊していなかったが、いくつかのモニターは倒れていたようだ。
あと、うちの会社の部屋だけエアコンがついておらず、昨日今日と暑い中、汗をふきふき仕事をしている。
マスコミの報道内容とか、ヤフーニュースのトピックを見ていると、地震の扱いは過去の地震と比べて小さいように思う。
死者の数は1桁、翌日から通常営業できるようになったせいか、さほど深刻に受け止められていないように思うが、
実際に震源の近くで暮らしているものからすると、余震に怯えたり、想定外の後片づけに悩まされたりと、色々苦労をしている。
ただ、これだけの震度でありながら、犠牲者の数が少なく済んだのは、阪神大震災の経験が大きいと思う。
私は小学生の時に自宅で震度7を経験したが、揺れ方だけ見れば、あの時の悪夢と全く同じだった。
それにもかかわらず、倒壊損壊した建物、火災になった建物がわずかばかりであったのは、過去の教訓が行きていると思う。
当時幼いながらも、そのことで、人の生死なんて、いつどうなるかわかったもんじゃない、と感じた。
改めて今回思うのは、儚さだ。人の命もそうだし、割れた食器たちを拾い集めている時も、同じ気持ちを抱いた。
しかし、22年前と比べると、確実に社会は変わったと思う。もちろん、前向きな意味で。
マグニチュードや震度だけ見れば、当時より少し小規模だが、被害の規模は明らかに小さい。
建築物は、確実にあの時よりも丈夫になっている。
情報インフラも発達し、被害状況がほぼリアルタイムで分かるようになった。
色んな課題を抱えているこの社会だけど、耐震性というか、カウンターディザスタネスとでも言えばいいのか、
亡くなったクラスメイトの命も含め、過去震災や災害で命を落とした人々の尊い犠牲の上で、私達は日々暮らしているのだと実感した出来事だった。
なんかふと思い出したんだけどわざわざ友達に言う内容でもないし、でもちょっと聞いてほしかったのでかきます。長文書くのなんて読書感想文以来だから支離滅裂だけど良かったら読んでください。
中学三年生の修学旅行でこっぴどく怒られた。理由はヘアアイロンの持ち込み。同室の子に見られてちくられた。
私は酷い天パで、小学生のときそれはそれはいじられた。子どもならではの無邪気な言葉でも深く傷付いたし、耐えられなくて不登校になったことも、自分で髪の毛をうなじくらいまで切ったこともある。みんなは忘れていても、その瞬間の相手の顔も言葉も、私だけは鮮明に覚えている。ある時どうしても欲しいとねだって、誕生日、クリスマス、お正月分のプレゼントとしてちょっと高いヘアアイロンを買ってもらった。これは私にとっていわば革命で、思い通りにまっすぐになる感動で泣いてしまった。余談だけど天パのままの自分が写った卒アルや写真を見るのが耐えられなくて、まとめて箱に入れて神社で燃やしてもらった。
修学旅行を迎える頃には既に縮毛矯正を2回、ストパーを6回していた。風呂のときはまっすぐになる(と聞いた)シャンプー、コンディショナー、トリートメントをし、温風と冷風を交互にしながら乾かし、髪が枕に擦れないよう座ったまま就寝。毎朝5時に起きて1時間かけて丁寧にブロー、その後も軽く1時間はヘアアイロンを使ってうねった髪を伸ばし、急いで支度して7時20分には家を出る生活をしていた。
修学旅行まであと1ヶ月くらいになってから配られた修学旅行のしおりを見ると「ヘアアイロンの持込、使用は禁止」の文字があり絶望した。どうしようどうしようどうしよう。夜どれだけ気を使っても朝起きると大惨事、ヘアアイロンで伸ばさないと天パが目立ってしまう。私にとってそれは苦痛以外の何物でもなく、死んだほうがマシなのではと思うくらいだった。たった一文で修学旅行に行くのを本気で躊躇った。
ちなみにキャンプのときはお風呂に入らなかったため、ケープでガチガチに固めたら3日間そのまま保つことができたので事なきを得た。ケープすごい。
担任の説得、そして修学旅行の代金の積立を支払っていたのもあり、修学旅行には参加することになった。けれど頭にあったのは天パがバレてしまった時の屈辱だけだった。
そして修学旅行1週間前、偶然クラスメイトの会話が聞こえてきた。内容は携帯を持っていくか否かだった。しばらく盗み聞き(?)していたが、満場一致で持っていくことになったらしい。携帯ももちろん禁止だったが、クラスメイトが当たり前のように持っていくと聞いた瞬間、私の中で何かが弾け、同級生がルールを破って携帯を持っていくのなら私もヘアアイロンを持っていこうと決意した。
荷物検査はあったが生理用品や歯ブラシ、ハンドタオルなどを詰めたポーチに隠して入れた。生理用品が入っていたら遠慮して奥まで見られないだろうと考えたからだった。
1日目の夜は民宿だった。体内時計を駆使していつも通り5時に起床。私はすぐに寝落ちてしまったが他のみんなは夜遅くまで起きていたらしく、5時の時点では全員爆睡していた。何故か布団をしまう押入れの中にコンセントがあったため、押入れの戸を閉め、埃っぽくむせそうになるなか必死に髪を伸ばし続けた。本当はブローもしたかったが音で周りを起こしてしまいそうだったのでやめた。実はドライヤーも禁止だったが、濡れたまま寝ては風邪をひいてしまうと民宿の方がこっそり貸してくれていた。
一通り終えて腕時計を見ると7時前だった。9時にはホールのようなところに集合していないといけないので7時ぴったりにみんなを起こし、民宿の方の手作りの朝食(すごくおいしい)を食べてから各自準備をしてホールに向かった。
2日目の夜はホテルだった。民宿とは班が違い、もっと少人数になる。疲れがあったこと、そして先生の独断で決まった班だったから仲良い子がいなかったことなどが重なりあまり会話もせずに就寝。
朝起きたら5時半だった。ベッドの上のコンセントを使い、班の子達に見られないよう床に座り込み必死に伸ばし続けた。だが6時半になるかならないかのとき、ひとりが目覚めてしまった。何か(電源がついていることを示すライト)が光っていたのが不思議だったのかゆっくり近づいてきて、突然の事だったので隠すこともできず見られてしまった。終わったと思った。でもその子は何も言わず準備を始めたので心の底からほっとした。ヘアアイロンは元のポーチにしまった。だんだん他の子も起きはじめ、おはようと挨拶を交わして顔を洗いに行く。しばらくして生徒が起きているか見回っていた先生がドアを開けて入ってきた。するとヘアアイロンを見た子がよく通った声で「この子ヘアアイロン持ってるんですけど」と言った。頭が真っ白になった。奇しくもそれは携帯を持ち込んでいた子だった。
朝食はホテルの大きなホールで学年全員でとった。だが見せしめのように入口に置かれた私のヘアアイロンが気になって気になって何も喉を通らなかった。
それからは何も覚えていない。いつのまにか駅に着いていた。どうしたらいいか分からなくて立ちすくんでいると担任に呼ばれた。当たり前だが怒られた。声が大きい先生なので生徒に限らず通行人にも全部聞こえていたと思う。とてつもなく恥ずかしかった。正直持込みがバレたことより、ヘアアイロンを使わないといけない髪だということが知られてしまったことのほうが恥ずかしくてたまらなかった。親が迎えに来るまで20分くらい説教されたあと、ヘアアイロンは返された。帰りの車の中で泣いた。母親は私がどれだけ髪に執着しているか知っていたからか、乗った瞬間のおかえり以外は何も言わなかった。
ルールを破った私が全面的に悪いって分かってたけど本当に本当にしんどかった。
私はその後父に頼み込み、卒業してからするつもりだった引越しを夏休み中になるよう早めてもらった。卒アルを受け取らないようにするためだった。転校前の学校にも転校先の学校にもお願いをし、卒アルの個人写真には私が写らないようにしてもらった。(かなり経ってから友達が持っていた卒アルを見せてもらうと集合写真には多少入っていた。)すると業者さんが気を使ってくれたのか私専用の写真集を作ってくれた。私も写っていてがどれも小さく、どちらかというと友達の写真がメインだった。思い出の写真は1枚も残らないものだと思っていたので本当にありがたかった。
転校先で友達はできなかったけど、高校はちゃんと通えてるし、卒アルを受け取らなかったのは正解だと思っている。
また、中途半端なタイミングでの転校だったから内心ズタボロでいい高校には入れなかった。
悪いことをしたので自分に返ってきたのかなと思っています。自業自得です。
それと努力の甲斐あってか今はかなりまっすぐになっていますが、それでも気を抜くとすぐうねります。笑
天パに限らずコンプレックスを持っている子、たくさんたくさんいると思います。コンプレックスは簡単には直せないし、本人の気持ち次第で短所になったり長所になったりするものだと思います。気にしないようにって言われても余計気にしちゃうとか、そういうのも痛いほど分かります。だけどこれは逃げなんかじゃないので、自分の納得のいくまで整形でも何でもして気持ちを和らげて、強く生きてくれると嬉しいです。いい話風に終わりたかったけど私のルール違反がいい話になるわけないのでここで終わります。脱字修正しました。長々と読んでくれた方ありがとうございました!
皆さんはハム太郎の原作の絵本を読んだことがありますか。私は幼女の頃に読んだ「とっとこハム太郎 あいしてるでちゅ♡」という絵本が未だに忘れられません。
ストーリーを一言で表すと、「ハム太郎が人間の飼い主との種族を超えた叶わない愛に苦しむ」というものです。
以下詳細なあらすじ(ネタバレ有)
ハム太郎はあいちゃんという小4の女の子に飼われているハムスター。あいちゃんの事をメスとして真剣に愛している。ハム太郎は毎日あいちゃんにハムスター的な求愛行動を取っているが、もちろんハム語を解さない愛ちゃんには一切伝わらない。(なぜかハム太郎側は日本語がわかる)
あいちゃんと仲良く暮らすハム太郎だったが、ある日異変に気付く。あいちゃんはどうやらクラスメイトのスズキくんのことが気になっているらしい。しょっちゅう家に遊びに来るスズキくんとあいちゃんの様子を見ながら、ハム太郎は嫉妬に苦しむ。ハム太郎はスズキ君に対抗心を燃やし、自分と比較してみたり、スズキ君の手を噛んでみたり、更にはもっと最低な行為をしでかしたりもする。そんな行動も虚しく、あいちゃんとスズキ君の仲はどんどん深まっていく。
ハム太郎は、大好きな愛ちゃんが他人との初恋を経て、小学生の女の子から一人の女へと成長していく様を間近でひたすら見せ付けられ続けることとなる。そんな日々の中でハム太郎は、自分の力ではどうにもならないことがあるということを徐々に知っていく。ハムスターとしての自分を自覚し、最終的にはペットとして愛ちゃんの側で幸せに生きることを受け入れる。
*
あいちゃんとスズキ君がおうちで宿題デートするシーンで、タンスの奥にこっそり引きこもってるハム太郎が言う台詞
「どんなに頑張っても僕には入れない宿題の世界。あいちゃん。はやくタンスの奥の僕に気付いてよ。」
切ない(;_;)
実家は狭かった、精神的にも経済的にも貧しかった、うるさかった。
自分の部屋がない、限られた小遣い、周りに合わすためのゲーム、両親の喧嘩、姉の癇癪。
学者が夢とか幼稚園のとき言っていたけど、そんなことは誰にも聞いてもらえなかった。
両親、姉、祖父母、教師、クラスメイト、こんな繋がりしかなかった。
誰もかれも悪気はなかった。ただ中身のない、文脈のない乾いた笑いで過ごす。
いや、信頼を前提としたからかいというのに慣れていなかった、というか、信頼していなかった。
大学に行こうといった。反対された。
とめどない姉の癇癪。父親のうつによる自殺。時代遅れな母親の大学進学への無理解。
死にたかった。やっぱり自分なんて、夢を持っても、こんな家庭に生まれてしまって、何も抵抗できない。
他の家庭とは違う。子供の自立を考えようとしない。皆自分のことしか考えていない。
はい終わり。こんな世界もうイヤだ。生まれてこなければよかった。
結果的に推薦で大学に合格したけど、溜まりに溜まった鬱が溢れて、学校に行かなくなった。
父の自殺もあり、死が近くなった。自殺しようと思ったが、できなかった。
本能で死んでないだけ、踏み切れる気力もない。
ただただ、植物状態になっていた。
生きる意味など無い。気づいたのは遅かった。
大学のサークルにも入ったが、不毛な承認ゲームしかできなかった。
こんなことが自分の居心地の良い場所で、自分自身のことについて考えられるとは思わなかった。
難しいと思っていた学問も、時間をかければ自分で進めていけることもわかった。
実家がおかしいこともわかった。不毛な承認ゲームも無駄だとわかった。
育ちがいい家庭の重要な要因とは、「いつか自立するであろう子供」に対し、
自分の経験と他人の経験、また、現在の様々な業界の情勢を織り交ぜた、極力客観的な意見が言える親が居ることであり、
そんな人間、周りを見ても簡単に見つからないっていうことをやっと理解できた。
周りに居ないなら自分で獲得するしか無い。そのために本、映画、音楽などというものがある。
作品というのは、絶対に全てを知ることのできない他人と、意志を共有するプロトコルにもなりうる。
そのプロトコルを作る人間、使う人間というのがあって、どちらが偉いというわけではない。
でも、意識しなくても、自分でなにかプロトコルを構築した人間というのは、
他人に対して謙虚になれる。自分の意志で自分で作っているわけだから自信もつくようになる。
ていうかなんか作ろう。創作なんて馴染みがなかった。
酔いどれ20歳児でした。
たまたまなのか親が意図してそうしていたのかわからないが、幼い頃に自分の容姿についてどうこう言われた記憶がない。
両親や親戚、友だちに「かわいい」とも「ブス」とも言われたことがなく、自分がどうなのかも考えたことがなかった。
まだオシャレでかわいい、値段も大人顔負けの子供服が登場する前の世代だったというのもあるのかもしれない。
周りの友だちの顔についてもあまり感想はなく、学年一飛びぬけてかわいい女の子だけはさすがに「かわいい!」と思っていた程度。
そんな私が初めて容姿について言及されたのが中学一年生である。
クラスメイトの男子に何か言ったときに、「イラン人みたいな顔のくせに!」と返されたのである。
ショックを受けたかというとそうでもないのだが、自分の顔についての第一報がイラン人。
今になるとよくわかるが、私の顔立ちは濃いのだった。彫りが深い。
だがファーストインパクトがイラン人だったお陰で、その後顔について何を言われても何も揺らがなくなった。
「ネパール人は大体お前みたいな顔だった」、「ロシア人っぽい」、カレーを売っていたら「本場の方ですか?」、
「何人のハーフですか?」、「イタリアに顔がそのままの彫刻があった」。
一番気になっているのは「アメリカ人っぽい」という感想。それは結局どんな顔なんだ。
国内編では「沖縄っぽいですね」、「え?北海道?あ、アイヌとか?」、
知らないおじさんに急に話しかけられて「梅宮アンナに似てるって言われたことない?」、
「荒川静香に似てる」「アンジェラアキに似ている」「平井堅を思い出す」「斜め後ろから見ると松潤」。
多分私の顔はその人の思い描く「濃い顔」に類似として分類されるのだ。かつ男顔。
なんで急にそんな顔にまつわるアレコレを思い出したかというと、娘が産まれたのである。
我が子はやはりかわいい。自分の子だからかわいいだけだとは思う。
しかし行く行くは顔の骨格が発達して濃い顔になるかもしれない。
私は子どもを現在の自分の思うままに「かわいい」と口にして育てて良いのだろうか。
エロ漫画家さんへ。
いつも楽しく拝見しています。
けど今日は苦言を言いたい。
世の中わかってないエロ漫画が多すぎるんです。
僕が見たいのは「セックスのグラビア写真」じゃなくて「セックスの一連の流れ」なんです。
ひたすらおっぱいを強調した構図とか、どこぞのAVから取ってきたポージングとかいらんのです。
エロい1枚絵をひたすら並べたらエロ漫画になると思ってませんか?
そんなものはマンガではいらんのです。グラビア写真見ときます。
その雰囲気に没入できることによって、よりエロく読めるんです。
女性側の気持ちの機微とか細かな反応とかしっかり描いてくださいよ。
ご清聴ありがとうございました。
========
なんか思いのほか反応があったので追記
ちょっと誤解されてるのだけど「セックスにいたるまでの流れ」だけが好きでなく(けどコレも大事だが)
セックスは非日常なのでやっぱり日常がきちんとわかってる人の方がエロいじゃないですか。
美人の風俗嬢より日常知ってる同僚やクラスメイトの方が実際やるとエロいんです。
そんな娘を一手一手攻めて反応があって〜という方が良くないですか?
TBSラジオ「荻上チキSession-22」の、6/7放送分のアーカイブを聞いて、同じTBSラジオの「アルコ&ピースD.C.GARAGE」が炎上していることを知る。
アルピーのラジオはANN時代から、「不要な奴をあえて主人公にする」「半端なやつにこそ価値がある」っていうような企画をやってきた。今回は(勝手に)「不要」と見なした相手が全然半端ではない、マーベルと黒人とヒスパニックの歴史を背負ったヒーローだった。そこを配慮せずに企画を発信してしまった「アルコ&ピースD.C.GARAGE」は、見識の浅さを批判されてしかるべきだろうと思う。全体的に、私もSession-22の荻上さんに同意だ。
という前提の上で、アルピーの一ラジオリスナーとして、アルピーのラジオ文脈的なものを知ってほしいという気持ちもある。上にも書いたが、アルピーのラジオは、ANN時代(=2012から2016までやってたアルコ&ピースのオールナイトニッポン時代)からずっと不要な奴を主人公に祭り上げるという企画をやってきた。
ANNの「平甲子園」とかそうだった。平甲子園は、「我こそは不要」というリスナーを募って、野球チームを作ろうという企画。
・友達がいないから、教室で地図帳の日本地図の県境をずっとなぞっている。日本はすぐになぞり終わったから世界地図に移行した。
・PTAの副会長だけど、ぜんぜん意見が取り入れられない。私がいなくても行事も会議も滞りなく進む。絶対私は必要ない。
・卒業式のサプライズで、クラスメイトが担任の先生が好きな歌を届けるという企画をしていたが、自分だけ知らされていなくて、一人だけ歌詞カードを持たずに俯いていた。
など、何か聞いてて涙が出てきそうなエピソードが集まり、数ある不要エピソードから選りすぐられたリスナーが、野球チームを結成。最終的に、このチームは甲子園を飛び越えてメジャーリーグでレッドソックスと対戦し、「不要なやつなんていない」ということを証明する。
アルピーのラジオには「何者でもない不要な奴」を敢えて中心に据える企画を打ち、アルピーの二人の演技力とトークで「何者でもない」やつを「何者か」にしてしまう。という流れがある。
アルピーのラジオは、学校でいうと、スクールカースト上位にはいられない、成績もよくない、オタクやマニアというほど何かを極めたわけでもない、中途半端で居場所のない人を主人公にする。みたいなことをずっとやってきた。
だから、今回も、「キャプテン」ではなくて、「キャプテンには内緒だぞ」というファルコンに価値が見出されたのだ。
アルピーのラジオを聞いていると、端々に、学校の成績は悪くていじめられっ子だった平子っち、ガチ川崎ヤンキーには逆らえない酒井ちゃん、みたいな、「何者にもなれなかったアルピー二人の学生時代」エピソードが出てくる。アルピーのラジオには、パーソナリティ二人の、「男社会の中で男らしさを達成できなかった自分」みたいなものが流れていて、半端者たちがこのラジオに集う。佐藤多佳子さんの『明るい夜に出かけて』の主人公――大学を休学してコンビニでアルバイトをする行き場を失くした青年――も、その一人だった。
このような背景があるからこそ、酒井ちゃんも「キャプテンには内緒だぞ」なファルコンを好きになったんだろう。
Twitterのアルピーファンが指摘しているように、DCGではここ最近、ずっとファルコンの話をしていた。酒井ちゃんは同じTBSで放送しているうしろシティのラジオにゲスト出演した時すらファルコンの話を持ち出した。この回で、酒井ちゃんは、キャプテンアメリカ好きの金子さん(うしろシティ)に「キャプテンよりもファルコンがいいんだって!」と主張し続けている。酒井ちゃんがファルコンを好きなのは確かだ。
しかし、アルピーのラジオにおいては、「不要さ」こそが「主人公」の証となる。この文脈が炎上に繋がった。
確かに、アルピーのファルコン理解はめっちゃ「浅い」。マーベルを深く掘るでもなく、歴史的な文脈を踏まえて映画を見るような「見識」もない。
黒人の歴史とかよく分かんないけど、ファルコン、マジおいしいキャラじゃん!
みたいなノリしかない。だから、今回の炎上はなるべくしてなったと思う。でも、そういう軽くて半端なノリこそが、リスナーの居場所でもあった。アルピーのラジオは学校の端っこでノリで話してたことが日本中、世界中に発信されてしまったみたいなところがあり、アルピーもリスナーも「そういうつもりじゃない」と言いたいだろう。
だけど、パロディするなら、原作の文脈に乗るのは当然であって、怒っている人たちに「そういうつもりじゃない」と言ったって、自分からその文脈に乗りに行ったのだから言い訳しようがない。アルピーにはアルピーの文脈があるように……いや、それ以上に、遙かに長く、ファルコンにはファルコンが切り開いてきた文脈と歴史がある。だから、炎上させてしまった側から、「そういうつもりじゃねえんだよ」と言うようなものではない。指摘は真摯に受け取るべきだろう。
私は、「半端なやつ」と思って企画のネタにしようとしていた相手が大ヒーローだった、というこの滑稽さにこそ、アルピーDCGらしさを感じる。
原田マハさんの「生きるぼくら」を読み始めた。主人公は、高校でいじめられて中退して引きこもりになった24歳。
その、いじめの話を読んでいると、自分が中学時代に受けていたいじめを思い出して、気分が沈んで黒い気持ちになってきたので書き出してみることにした。
読んでも教訓はないし、得るものもないことだけ注記しておく。
自分は、地方の市街地にある公立中学校に通っていた。そこで、クラスメイト2人からいじめられたのだった。
1人は、近所の、小学校からの遊び友達で、粗野な面もありつつ話も発想もおもしろく、遊びを発明したりとクラスの中心人物。もてていたと思う。スポーツ推薦で私立高校に進んだけれど怪我をして中退した。高校以降は部活の試合などで数回しか会っていない。
ペーパーテストはできなかったけれど、いまでも、頭のよさや自信を尊敬している。中学校ではいっしょに登校していて、登校中にお菓子をわけてくれるのが楽しみだった。
もう1人は、サッカー部の肩幅の大きい人間。愛嬌があっておもしろい人間だった。いじめ問題が解決した1年くらい後の出来事ではあるけれど、一番印象に残っているのは、家庭科の性教育の班発表で避妊についてコンドームの実物をくばったりしたこと。そのときに彼が言っていた、コンドームは失敗する可能性も少なくないから、コンドームをつかってかつ外で射精することが重要、と言っていた教えはいまでも記憶にある。
彼らからは、直接打撃的ないじめを受けたわけではない。恐喝されたわけでもない。言葉ではなにか言われたかもしれないけれど、人格を否定するほどではなかった気もする。「生きるぼくら」で主人公が受けていた体に見えないところに暴行されたり、母の弁当をぶちまけられたりというほどではない。
一番、くやしかったのは、羽交い絞めにされて学ランのズボンに、黒板消しをなすりつけられたこと、何度かあった気がする。柔道技をかけられて、力の差でなにもできなかったこともある。ほかのことはあまり記憶が明瞭ではない。
悔しさか悲しさか情けなさかで泣いていたのを覚えている。殺意めいたものも感じていたと思う。
いじめ自体は、親や先生が動いて、わりとすぐに収束した。今思うと、相手の家に乗り込んだ父はほんとすごかったし、母には心配をかけたし、先生も相手と1対1で話し合いをしてくれてちゃんとしていた。
いじめがあったことがどう親や先生に伝わったかは、そのころまったく気にできなかった。自分が30歳近くになったころ、母が地元の印鑑屋さんで自分の実印をつくってくれたのだけれど、そこの印鑑屋の息子が自分の同級生で、先生にいじめが起きていることを伝えてくれたということを聞いた。そのころは自分の殻に閉じこもっていたのか、彼の名前や顔も思い出せなくて、申し訳なく思っている。ほんとうに感謝しています。地元に住むことはなさそうだけれど友だちになりたい。
いま、冷静に考えると、いじめ自体もなよなよしていて腹立たしい自分に対するちょっかいがエスカレートしたもので悪意はなく(だからこそいじめはやっかいではある)、自分に人格が確立されていれば言葉で跳ね返せた、とは思うのだけれど、難しい。積極的に近寄りたいとは思わないけれど、恨んではいないし、いまならあの頃はいろいろあったね、と話ができる気もする。たぶんだけれど、2人とも、このあとはいじめを止める側に回っている気がする。
そして、冒頭で黒い気持ちになったというのは、いじめられたことそのものではなく、いまもサッカー部の彼に対して抱いてしまう暴力の衝動。
太ももにシャープペンを突き刺して、二度とサッカーできないようにするところを想像したり。事故とみせかけて階段でもたれこんで突き落とすのを考えてしまったりしてしまう。いじめられた当時から同じことを考えていたのか、そのあと繰り返し想像して強くなっているのかは混同してわからないけれど、10年たった今でも、いじめを想起するたびにこれらの暴力的な衝動をイメージしてしまう。そして、そうすることで心を慰めてしまっている自分を発見して暗い気分になる。いつか克服できるだろうか。
でも、もうすこしいじめが続いていたら、そういう想像を実現させていたと思う。そして、相手も自分も破滅していただろう。
行動に移すまえに、いじめを止めてくれた親や先生、名前も忘れた友人に感謝している。いじめた相手には複雑な気持ちを持っているけれど、どこかで幸せに生活していてほしい。自分はこれからもその衝動を抱いて生きるだろうけれど、行動には移さないと思う。