はてなキーワード: 資質とは
祝…と言いつつ不安も満載なのだけれども。少年チャンピオン連載の「実は私は…」が、アニメ化するとの話で、大変嬉しい。週刊少年チャンピオンからのアニメ化と言えば、近年では「みつどもえ」「イカ娘」「弱虫ペダル」に続く作品となる(んだっけ?)が、単発ギャグ的な枠でなく、コメディ・ストーリー系の作品でアニメ化されるというのは、こうして見ると、なかなか高いハードルだったのではないか。
「実は私は…」は、あまりアップトゥデイトな作品とは言えない。ギャグにスピード感やキレがあるとは言い難いし、非日常バトル・ゲーム的な話がやたらと増えた昨今、展開は非常にユルく、かつ日常的だ。かといって、そういう方向で多産されているありがちなエロ萌え系(言い換えれば、インターネット環境が日常でなかった頃の青少年向け代替エロ漫画の方法論を用いた類型)でもない。多様なキャラクター(宇宙人とか吸血鬼とか未来人とか痴女とか)を登場させるが、非日常的な性格異常者や極端な悪人・アンチヒーローなどもいない。あくまで日常的な、人間臭い、そしてもどかしいほどに進行の遅い恋愛コメディが延々と展開される学園もの…要は、'80年代高橋留美子的な、古典的手法のドタバタギャグコメディだ。
この作品の美点は、一言で言って丁寧さだ。その特長は、4大誌の他社(講談社、集英社、小学館)ではなかなか実現しにくい資質であるように思われる。たとえば、恋愛感情への気付きとか、直面したときのとまどいなどを、キャラクターごとに丁寧に描き分けて、かつ無理がない。また、キャラクターの掘り下げ方一つとっても、たとえば第68話で、タダのバカエピソードと思われる回に、食べ放題の回のエピソードを伏線として、さりげなく岡田・みかんのサイドストーリーを2ページ差し込み、ぐっとキャラクターに深みを増してきたのには、感心させられた。脇役キャラクターが使い捨てでなく、とても丁寧に扱われている。
また、個人的に、ヒロイン白神葉子の関西弁が非常に自然(ネイティブから見て)であることも、ポイント高い。印象的な口癖である「ちゃうねん」などは、その使い所・表情などをひっくるめて総合的に非常に納得のいく丁寧な使い方がされている。確かに、作者は神戸出身なのだから「自然な関西弁」自体への理解は当然高いのだろうが、それを作品の中に効果的に落とし込むのは、また別問題だ。関西出身のクリエイターでも、作品に関西弁を上手に使える人というのは限られる。
そして、最後にストーリー構成の丁寧さも重要なポイントだ。時間の経過とともに少しずつ進行し変化していく感情や人間関係、それに伴う呼び方の変化、成長していく人間像、などが、コメディに見せかけた中にもしっかりと描かれている。短編作家か長編作家かの分類で言えば、作者の資質は間違いなく長編作家のそれに属していて、長いストーリーをしっかり構成する意識があり、安定感がある。
正直、そういったこの作品のよさが、アニメ化でどうなるのかいくらか不安が残るところではあるが、自分の好きな作品が評価されるのはやはり嬉しいので、経緯を見守りたい。
元増田です。
昔は研修医の待遇が酷くて、当直バイトをして糊口をしのぐ、ということがあったそうですね。
現行制度の下では、「初期研修医」がバイトで当直をすることはできません(2年間の研修を終えた「後期研修医」ならばできます)。
厚生労働省Webサイト内にある「医師臨床研修に関するQ&A」(http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/rinsyo/qa/kenshui.html)より引用します。
「医師法第16条の2では、『診療に従事しようとする医師は、臨床研修を受けなければならない。』、同法第16条の3で『臨床研修を受けている医師は、臨床研修に専念し、その資質の向上を図るように努めなければならない。』と規定されています。また、臨床研修に関する省令において、『臨床研修病院は、届け出た研修プログラム以外の研修プログラムに基づいて臨床研修を行ってはならない』と規定されています。
就活と恋愛は似たようなものなので、明確に言語化できる「理由」があるとは限らないが、恋愛と同じく明確に言語化してしまうと大変いたわしい結果になるかもしれないので、あまり突き詰めない方がよいのでは。
たとえば、恋愛でよく言われる「優しい」「親切、マメ」というのは、会社に置き換えてみれば
・「優しい」=会社の都合を聞いてくれそう、素直そうで洗脳しやすそう。
・「親切、マメ」=体が丈夫で、遅刻欠席しなさそう。会話の受け答えが的確でピントがずれてない。
…ってことになるだろう。ただし「美人、イケメン」はそのまま。対人関係に高い影響力をもつ資質であり、営業職でなくても重要だからな。
まるで夏の台風のように一瞬で辺りを巻き込んで大きくなり、かき回したあげくあっという間に消え去ってしまった
オチューンはウォッチャーとしての資質が問われ、以前よりもその影は薄くなってしまった
アンビバレントは消えるとも言わずにツイッターの更新すらしなくなった
今ではコウモリさんとサイバーメガネがツイッターで一悶着ある程度で、その存在感はピーク時からは見る影もないほど縮小している
本当に夏の終わりの台風のようなできごとだった
祭りの後の少しの寂しさと、翌日からの平穏で退屈な日々に思いを巡らせ、台風の目が大きくなるのをじっと待つのだ
2015年に登場する新たな主役たちに盛大な手斧を
「男性は女性との恋愛に関心はなく、ただセックスしたいだけなのではないか?」
という問いは、非常に本質的で重要なものでありながら、まともに回答できる男は少ない。
良識的な答はこうだろう。
「そういう男ばかりではないよ。現に俺は違うし」
これは嘘ではない。嘘ではないが余りにも考察が浅い。
私の現時点での回答はこうだ。
「男らしさ、男性性に忠実に答えるならば、確かにその通りである。しかしそのことを自覚的に肯定できる男は多くはない」
まず私としては、「セックスしたいだけ」に隠れた「女性との恋愛に関心はない」という部分を重視したくて、冒頭のように設問した。
このことはこれまでの日本の「家父長的夫婦関係」に最も端的に表れている。
主人と家内。
「家父長的夫婦関係」とは、男女関係から恋愛要素を排除したシステムだ。
男は性欲を満たしたいが、女の主体性は認めたくない。よって、主体的な男女の交わりである恋愛にも関わりたくない。
このような男の無意識の集合体を理想的に実現したのが旧来の日本の夫婦関係であるというのが私の理解だ。
意識的に「自分は女性の主体性を認めておらず、ただ性欲のはけ口として見ている」ということを肯定できるほどマッチョな男はそれほど多くはあるまい。
少なくとも私にとっては醜悪で認めがたいことである。
極めて男性的な思想家であるブッダは、この醜悪な男性性への解法として、「性欲そのものを捨てる」ということを提案した。しかしこの提案は余りにも現実的でなかった故に、彼の思想は宗教となった。
ところが女性の社会進出が加速し、お見合いが衰退した現代日本において、まるでブッダの思想を体現しているかのような「草食系男子」、「絶食系男子」が顕著になってきていることは注目に値する。
現代では「自然な男性」、「男性性に忠実な男性」は確実に挫折する。
モテない。まったくモテない。というか、そもそも女性と会話できない。
これは物理的に会話が発生しないという意味ではない。男子校でもなければ女子と会話する機会程度はあるだろう。
さすがー。しらなかったー。すごーい。センスいいー。そうなんだー。
実際の言葉は「さしすせそ」よりは大分高度だろう。ただその本質は「さしすせそ」である。
女性は「男性性に忠実な男性」、つまり「女性の主体性を無意識に認めたくない男性」の無意識に沿うように「さしすせそ」で主体性の無さを演じる。
そうして「男性性に忠実な男性」はますます男性性に忠実になる。圧倒的にモテない存在へと進化してゆく。
ここで「さしすせそ」の欺瞞に気づいたモテない男性は自らの性欲を否定する方向に傾き、気づかないモテない男性はキモいアプローチをしてフラれることになる。
しかしあるとき、モテない男性が何らかのきっかけで、男性性に忠実ではない行動、女性の主体性を認める行動を選択することがある、そして本当の意味で女性と「会話する」。
これは嬉しい。
素晴らしい成功体験とともに、これまでの自らへの「男性性の要求」に自覚的になり、「男性性の要求に懐疑的になれば、女性と相互に主体的に話ができる」という条件がインプットされる。
女性との主体的な交わりを通してその条件はますます洗練されてゆくが、一方で「男性性の要求」が消失するわけではない。男性性との終わりなき闘争の始まりである。
自らの性が完全に充足されているとき、人は最高に幸せな状態だと言えるだろう。
かつての男性の性は社会の中で完璧に実現され、満たされていた。
自らの中の決して実現されることのない男性性に自覚的になったとき、どのような選択をするかに、現代の男の資質が問われている。
Q1. 博士課程ってなんですか
A1. 博士後期課程の略。学部4年、修士課程2年過ごしたあとに、さらに(通常)3年間大学に在籍して研究を行う。
Q2. なんで博士課程に進学するんですか
私の場合、M1の初めはD進も考慮しつつ、夏頃には就職する気マンマンだったが、12月下旬にふとD進しようと思い立ったのでD進した。
Q3. 普段どんな生活してんのさ
A3. 朝7時前後起床、眠かったら二度寝。早ければ9時ごろ大学に行き、勉強 or 研究 or 事務作業。
混むのが嫌なので11時半すぎに昼食(半分くらいはぼっち飯)、18時〜19時ころ大学を出る、という生活の繰り返し。
気が向かなかったら平日休んだり、気が向いたら休日も大学に行ったりとフレキシブルな生活がおくれる!
多くは一人飯なので、好きな時間に好きなものを食べられる!!!
A4. 学費はだいたい国立の場合年60万円くらいかかります。
学振という制度を使うと、額面月20万円がお給料として貰える+最大年100万円研究費が貰える。
基本的には博士課程学生は年収240万円が上限なのだが、お給料貰えるインターンシップに参加すると学振の給料を止めてインターンシップ先から給料を貰うことができるので、さらなる高みを目指すことが可能。
学振を取れなかった場合でも、先生によっては毎月RA代(学振と同額支給する先生も!)を出してくれるので、そういう先生を選ぶことで金銭問題はあまり問題とならない。
Q5. 学振について
A5. 日本学術振興会特別研究員。DC1とDC2の二つがある。
DC1は修士2年生の時に申請して、通れば博士1年から三年間上記の給料+研究費が貰える制度、
DC2は博士1年 or 2年の時に申請して、通れば博士1年から二年間上記の給料+研究費が貰える制度。
給料がもらえるのはありがたいし、何より先生から自立できるのが一番大きい。先生に気を使わずに色々買えるし色々旅できる。
おおまかに言って、研究計画、業績、研究者としての資質の三軸で評価されるらしい。
しばしば、DC1は業績あれば通ると言われるがそれはおそらく嘘で、一つでも大きく欠けてしまうと通らないっぽい(有利なのは確かだが)。
また、研究計画は盛ればいい、というのもおそらく嘘で、所定の年数で博士課程学生が一人でできそうな研究計画(×(1+ε))くらいでいいっぽい。
Q6. インターンについて
A6. 博士課程では数ヶ月研究関係のインターンシップに参加する人がぼちぼちいます。特にD2の夏休みくらいがベストシーズンのようです。
どのようにインターンを探すのかについて、3通りくらいある。
1つめは、メンターになって欲しい研究者に直接コンタクトを取る方法。やったことないけど、効果は一応あるっぽい?
2つめは、会社や研究所のインターン募集サイトから自分で申し込む方法。このパスはあまり有効でなかったりするらしいので、中に知り合い/メンターになってほしい研究者がいればその人に頼む方が確実だとかそうでないとか。
3つめは、先生経由で紹介してもらう方法。誰かいい人いませんかメールが他の研究者や採用人間からくることがあるらしいので、それに紹介してもらう。
インターンで何をやるのかは場合によって大きく異なるらしいので、打ち合わせが必須。特に研究をやりにいったのに論文にできない/ならないような仕事をやって帰ってくるとか、準備不足で行って時間が足りずに終了となる場合もあると思うので、打ち合わせは念入りにしておくと後々楽だと思います。
また海外インターン、準備とか後片付けとかとても面倒くさいのですが、年取ると多分もっとめんどくさくなるので、博士課程にいるうちに一発覚悟をキメてやってみると後々の就職活動の幅が広がっていいのかなと思いました。もう少し歳を取ってから初海外生活となると多分キツイ。
Q7. 楽しいこと3つ
A7.
(1) 平日の昼間に遊ぶことができる
(2) かなり多くの時間をやりたいことに費やせる
(3) 学会で色々なところに行ける
Q8. つらいこと3つ
A8.
(1) 論文通らない
(4) 学部・修士で卒業した人たちと違う世界にいる気がする(みんな働いてて偉い!)
(5) 「今何やってるの〜?」「学生」の気まずい瞬間
Q9. 現時点で後悔していること
A9.
研究業界で名の知れた研究室や、研究業界の主導権を握っているような研究室の人と仲良くなるのは大事なような気がしますが、やっぱり学生の頃からそういう環境に身をおいてみたかった。
D2の頃に三ヶ月の海外インターンに参加してとても楽しかったので、D1の時も参加できたらよかったなぁと。一つ応募していたのは落ちてしまったのですが、複数応募しておけばと思います。
・じっくり勉強をすること
業績を稼ぐのに焦っていて、じっくり勉強する時間が少なかったような気がします。じっくり考えましょう。
A10.
自発的に動ける、かつ、困ったら人に助けを求められる人。
なんか書いてほしいことあったらコメントにお願いします。もう一回くらいアドベントカレンダーで書くかも。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S11412485.html?iref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S11412485/
身内に「かなり重篤なギャンブル依存」がいるという「嘘」(と判断する理由は後述)から話を始めて、カジノに理解があるかのように装っています。
――ほう!
「優れたビジネスマンですし、他の面ではいたってノーマルな人物なのですが、ことギャンブルとなると熱くなる。若いころは競馬場へ行って1日でボーナスをすってしまうというようなこともありました。海外出張の時はカジノに通っていました。なぜそんなふうにお金を無駄に使うのか聞いたことがあります。これで負けたら全財産を失うという時のヒリヒリする感じが『たまらない』のだということでした」
この人は「優れたビジネスマン」なんでしょ。エリートで「ボーナス」を擦っても大丈夫なくらい資産に余裕があるだけじゃないの? それとも本当に「全財産」かけてるの? 「ヒリヒリする」たまらない快感にお金を払っているだけなんでしょ? それなりに合理的に生きているんじゃないの? 「かなり重篤なギャンブル依存」のエリート???
――依存症は青少年や地域社会、治安への悪影響と並んで反対派、慎重派が最も懸念する点です。やはりカジノはやめたほうがいい、と。
「僕は別に賭博をやめろというような青臭いことは言いません。ただ、なぜ人は賭博に時に破滅的にまで淫するのか、その人間の本性に対する省察が伴っていなければならないと思います。賭博欲は人間の抑止しがたい本性のひとつです。法的に抑圧すれば地下に潜るだけです。[中略]だったら限定的に容認した方が『まし』だ。公許で賭博をするというのは、計量的な知性がはじき出したクールな結論です」
このあたりは、まだ事実認定としても、主張としても妥当ではないかと思います。
――カジノ法案は、政府内に管理委員会を置いて、不正や犯罪に厳しく対処するよう求めています。推進派の議員らは、十分な依存症対策も取る方針を明確にしています。それなら賛成できますか。
「賛成できません。法案は賭博を『日の当たる場所』に持ち出そうとしている。パチンコが路地裏で景品を換金するのを『欺瞞(ぎまん)だ』という人がいるかもしれませんけれど、あれはあれで必要な儀礼なんです。そうすることで、パチンコで金を稼ぐのは『日の当たる場所』でできることではなく、やむをえず限定的に許容されているのだということを利用者たちにそのつど確認しているのです。
面白い見解だけど、パチプロもいるし、妥当性があるかどうかははっきりしないのではないでしょうか? 実証研究など知っている人がいたら教えてください。
いや、サイコロと違って競馬には不確定な要素が多すぎるからでしょう。確率論の教科書には「パスカルの賭け」の話が載っているのを知らないとは!
なぜ「白昼堂々」「市民が」「生業として」なんて極端な想定を持ち出すのかな。それに「生業」にできるんならいいんじゃないですか。
「賭博が分泌する毒性」だって。こういう馬鹿な比喩を使うことについて「あまりに無自覚だと思います」。依存症のメカニズムくらい勉強してよ。 『快感回路』とか。
[中略]
――しかし観光振興の起爆剤になり、自治体財政にも寄与する可能性はある。デメリットを上回るメリットがあるとは考えられませんか。
「安倍政権の経済政策は武器輸出三原則の見直し、原発再稼働などいかに効率的に金を稼ぐかにしか興味がない。でも、当然ながらリスクが高いほど金は儲かる。
「リスク」という言葉をご存知ない? 『リスクにあなたは騙される』なんてことにはなりませんように。あ、それに質問をはぐらかしてますね。・・・・・・というか、仮に内田先生の言うとおり、博打はリスクが高いから儲かるのなら、「デメリットを上回るメリットがあるとは考えられませんか」の答えは、たぶんイエスですね。
安倍政権でも麻薬の合法化はやらんでしょう。論点のすり替えっぽくなってますね。
それに戦争って儲からないよ。アメリカが儲かっているように見える? これについては『戦争の経済学』もある。知らないんだろうなぁ。きっともう頭の中に「金儲けは悪い → 戦争は悪い → ゆえに戦争は儲かる」というバカな公式が成り立っちゃっているんだぜ。
ほら! 思ったとおり。
そのとおり。為政者の大事なお仕事の一つは、内田先生の嫌いなお金儲けの算段、つまり「経(世)済(民)政策」です! まさか「経済」の語源を知らないの・・・・・・。
首相は営利企業の経営者じゃないし、国家は金儲けのためにあるんじゃない。福島の原発事故対策、震災復興、沖縄の基地問題の解決の方がはるかに優先順位の高い国民的課題でしょう。厳しい現実から目を背け、なぜ金儲けの話ばかりするのか」[中略]
なぜ? 原発事故の処理にも震災復興にも基地問題にもお金がいるんだよ!
――理想を高らかにうたうのは大切だと思いますが、現実的な議論をすることが、成熟した大人の態度と言えるんじゃないですか。
「それのどこが『大人の態度』なんです? 人間は理想を掲げ、現実と理想を折り合わせることで集団を統合してきた。到達すべき理想がなければ現実をどう設計したらいいかわかるはずがない。それとも何ですか? あなたはいまここにある現実がすべてであり、いま金を持っている人間、いま権力を持っている人間が『現実的な人間』であり、いま金のない人間、権力のない人間は現実の理解に失敗しているせいでそうなっているのだから、黙って彼らに従うべきだと、そう言うのですか」
現実を見てもいないくせに「現実と理想を折り合わせる」とか偉そうに! 後半、内田先生はインタビュアーがトンデモ発言をしたかのように言いがかりをつけて、自分が正しいかのように見せかけていますね。藁人形論法という詭弁の一種です。気をつけましょう。
――理想を語らず、目先の金。嫌な世の中になりました。
「[中略]有権者は独裁的に物事を決めていく安倍さんを『決断力がある』と見なして好感を持った。合意形成に時間がかかる民主制より、独裁的な方が政策決定の効率はいい。そう思うようになった。
この効率のよさを知らないとは言わせません。チャーチルが独裁的に動かなければ、おそらくイギリスはナチスに占領されたはずです。独裁の問題はその先にある。
それならもう国会なんか要らない。安倍さんがどれほど失政をしようと『劇的に失敗する政治』の方が『決められない政治』よりましだ、そういうニヒリズムが蔓延しています」
そう思っているのは、ニヒリストなのは、世間じゃない、あなたでしょう。誤魔化そうとするんじゃないよ。
――ニヒリズム……。
「米ソ冷戦の1960年代、米ソの外交政策に対して日本人は何の発言権もなかった。国内でどんな政策を行っても、ある日、核ミサイルが発射されれば、すべて終わりだった。そういう時代に取り憑(つ)いていた虚無感を僕はまだ覚えています。いまの日本には、当時の虚無感に近いものを感じます。
ほらね! あなたは、自分の勝手なニヒリズムを、世間に責任転嫁して、新聞紙上で垂れ流してるのよ。だらしないこと。
グローバル化によって海外で起きる事件が日本の運命を変えてしまう。どこかで株価が暴落したり、国債が投げ売りされたり、テロが起きたり、天変地異があれば、それだけで日々の生活が激変してしまう。自分たちの運命を自分たちで決めることができない。その無力感が深まっています」
「『決められない政治』というのは政治家の個人的資質の問題ではなく、グローバル化によって、ある政策の適否を決定するファクターが増え過ぎて、誰も予測できなくなったので『決められなくなった』というシステムそのものの複雑化の帰結なのです。何が適切であるかは、もうわからない。せいぜい『これだけはやめておいた方がいい』という政策を選(よ)りのけるくらいしかできない」
自分が「決められない」意気地のなさを「システム」のせいにしてさ、恥ずかしくないの? 「もうわからない」「できない」と言う前に、勉強しましょうよ。
[中略]
「民主制のもとでは、失政は誰のせいにもできません。
安倍政権批判を貫徹する勇気もないらしい。というか、民主制を維持しようとする気概もない。つまり、ただただ虚無感に打ちひしがれて、僕、内田樹と一緒に諦めましょう、と。最後まで何のまともな提案もないんですね。新聞に載せることですか?
民主制より金が大事という判断を下して安倍政権を支持した人たちは、その責任をとるほかない。もちろん、どれほど安倍政権が失政を重ねても、支持者は『反政府的な勢力』が安倍さんのめざしていた『正しい政策』の実現を妨害したから、こんなことになった。責任は妨害した連中にあるというような言い訳を用意することでしょう。そんな人たちに理屈を言って聞かせるのはほとんど徒労ですけれど、それでも『金より大切なものがある。それは民の安寧である』ということは、飽きるほど言い続ける必要があります」(聞き手・秋山惣一郎)
たしかに『金より大切なものがある。それは民の安寧である』なんてお題目が、たいそう立派な「理屈」だと思って、それで何かを提案した気でいるんだから、「そんな人たちに理屈を言って聞かせるのはほとんど徒労です」よね。よく分かりました。
(もう正直ね、あまりに腹がたったので、言葉が荒くなってしまったようです。とはいえ、内田樹先生への批判として理屈は書いてあると思いますし、その理屈が本旨です。「あまりの酷さに腹が立った!」ということを伝えるためにも、文章は(概ね)そのままにしておきます。各自で不適切な表現を割り引いてくださいませ。)
そんな当たり前のことに子供ができるまで気づかない能天気さこそが子供作るのに必要な資質だよなって思う
損とか得とかじゃなくて、増田みたいなあんま何も考えないで生きる人が減ったから少子化なんだよ
その原因は教育の普及な
この滲み出るアホっぽさこそが必要。
一旦数千万人くらいまで人口は減るかもしれないが、マイルドヤンキー()層の拡大と共に少子化も改善していくだろう。
国としての知的水準は落ちるけどね。まあそこはしゃーない。おそらくそういうものなんだろう。
セックスしてーからするわ!ガキができたら産めばなんとかなんだろ!!高校でたらクルマの整備とかすればいいんだよ!!ガハハ!!!みたいなのが多数派になんないと子供なんて増えるわけねー。
よくいままで生き延びてこられたな、としか申し上げられません。
ここをどこだとお考えです? いったいあなたは今まで‥…いえ、すいません。
言っておきますが。
リスティングとは、彼らの生理的な嫌悪を解消するプロセスにおける初歩的な段階の反応行動でしかありません。
なぜあなたは「彼ら」と御自分が「対等」に扱われるべきとお考えなのですか?
はてな村でもサークルでもいい、あなたはあるジャンル・ある傾向の本を読みたい・語りたい・学びたいと思ってそこにいらした。
場に集うのは当該分野のプロフェッショナルです。
鼻持ちならない教養主義者ではあるかもしれません。しかし、あなたよりはその分野に詳しい猛者揃い。
なぜそこであなたは彼らと「対等に話せる」などと錯覚するのですか?
なぜそこで話されている言語を自分も共有できるなどと勘違いするのですか?
思い上がりも甚だしい。
正規の医者が大学入りたての医大生と医療について対等な話ができるわけがない。
そりゃあ、『ブラックジャック』や『ブラックジャックによろしく』を読んだ程度の知識はあるかもしれません、
しかし、それは医師たる資質を得るための知識としてはクズ同然です。
そんな貧相な知識に基づいて、いくらあなたが高邁な御意見を述べようと、その見解もまた漏れ無くクズだ。
もうおわかりでしょう。
すなわち、豊富な知識とそれを正しく運用するための教養、この二つはすぐに手に入るものではない。
市民から尊敬される専門読書人になるためには、長く辛い修練が必要なのです。
その高みにたどり着くまで、あなたは何者でもありません。
二級村民ですらありません。
無に等しい何かです。
もしくは、スタンプラリーのようにリストに則って粛々と読了スタンプを押す機械です。
本とは偉大なものです。いかなる分野のものであれ、傑出した本であれば相応のオーラを放ちます。
そのオーラが人間未満の状態の何かの脳を刺激して、なにごとかを口走らせることもあるでしょう。
野蛮とはそういうものです。
はてな村とはそういう場所だ。サークルとやらもまあ、似たようなもんだ。日常も同程度に地獄と似ている。
誰か生きた人間だと考えるか。
いつか、いや、すぐにでも死ぬぞ。
かつての俺のIDのように。
少なくとも、自分が影響しうる範囲(世界)の仕組みはちゃんと理解して、他の誰よりも順応し、他の誰よりも効率的な対処方法を感覚で
とらえている。
正直、大したものだと思う。
ただ、真似できないことが残念なことかどうかはまた別の話。
でも、これを堂々と言ったところで、単なる負け犬の遠吠えにしかならないのはよく知ってる。
クズの解釈は人それぞれかもしれないから、これはあくまで俺の意見。
たとえ、自分の目の前で死にかけている人がいたとしても、自分の都合を優先できるやつのこと。
自分の言動で、他人が傷ついたり、不幸になっても気にならないか、そもそも気づかない奴のこと。
他の誰よりも、自分が大好きな奴のこと。
この定義だと、金持ちも貧乏人も、頭のいい奴も悪い奴も、女も男も全く関係ない。
ただ、貧乏人の一般人であれば、こんな奴がいたとしてもそれほど問題ない。
でも、これが金持ちの権力者だったらどうだろう。特に自分の上司、または会社の経営者、果ては政治家だったりしたら。。。
この手の人種は、自分愛が強くて出世欲、金銭欲が常軌を逸していることが多い。
普段から人を蹴落とすことしか考えてないから、意外にその道には長けてくる。
自分が望むものを手にするためなら、良心も羞恥心も感じずにいられる。
だから、世の中というピラミッドの、割と上層階にいることが多い。
もしかしたら、上層階への上がるための資質なのかもしれないとすら思う。
しかし、このクズ連中の存在は、他の人間にとっては不幸でしかない。
そりゃそうだよな、金もあって権力もある人間が、自分のことしか考えられないクズなんだから、その周囲にいるまじめで愛すべき
じゃあ、多くの善良な人たちはどうすればいいのか?
ただただ、耐えるのか。良心の呵責に悩まされながらもある程度順応するのか。
もちろん、好んで群がるコバエのよな連中もいるのは事実だが、所詮、コバエはコバエ。
そんな連中のことはどうでもいい。
耐えるか、自分を騙して順応するのか、それしか選択肢がないってのは公平じゃない。
わがまま放題のクズに、一矢報いることを真剣に考えたっていい。
もちろん、行動に起こしたっていい。
もろともクズ道に落ちることさえなければ、大義はこの人たちにある、と思う。
行動に起こすことは、良くも悪くも変化をもらたらす。
事件現場で感じる「まっただ中にいる」という雰囲気、しらみつぶしの聞き込みから垣間見える知らない住宅街の暮らし、微妙に核心をほのめかしてくる人間的な警察幹部との泥臭い応酬・・・
刑事裁判における被告のクズ丸出しの態度と声、高慢な検察官のオフレコ放言、資格は取ったもののまるで資質が欠けている弁護士たちの無理筋な屁理屈・・・
人間として確実に異常な議員たち。これまた異常に優秀でどこか抜けている官僚たち。家柄からして違う貴族という言葉がふさわしい外交官たち。会社に最適化して別の生き物のようになっている企業人たち。
どいつもこいつも癖のある奴らがぐちゃぐちゃに動いている。
ああ、こうして世の中は動いているんだなあとわかる。大きな社会という機械の心臓部に入り込んで歯車を一つ一つ見て回っているような感覚だ。
そしてその歯車たちは喋り、愚痴を言ったり自分の立場を正当化したり、時には恫喝してきたりする。
この感覚は絶対に紙面では表現できない。出していい情報しか出すことができないから。ネタ元を完全破壊するような真似はできない。
報道という営みの中で一番楽しんでいるのは記者だと思う。裏を知っているからこそニュースを読むのが楽しいのだが、何も知らない一般の人が読んでて果たして本当に面白いのだろうか?
どんな相手にも敬意を払え、払えない奴とは付き合うな・・・と言いたいところだけど、それが出来れば苦労しないよな。
そんな尊大な増田は、一度リーダーシップを体系的に学ぶといいかもね。アメリカ海軍のそれとか、かなり参考になると思う。
人の上に立つ者は実務能力よりもリーダーシップで評価される。要するに下っ端とリーダーとでは求められる資質が全く違うんだよ。
それは他の増田も書いているけど器の大きさが一番大事とも言い換えられる。
もっと具体的に書くならリーダーたる者「是非あの人の指導を受けたい」と誰からも言われるくらいにならないとダメ。
まあ意識高い系の部下やイエスマンは求めずとも言うだろうが、無能な怠け者からも同じような台詞を言わせてナンボなのがリーダー。
残念ながら今の増田じゃ、いずれ「誰がお前なんかについて行くんだよ、テメエ一人だけで勝手にやれよ」くらいの事を部下から言われる日が来るだろう。
もし無理だというなら、最終決定権を持つリーダーになってはいけない。
参謀格もしくはサブリーダーとして、あくまで職務命令を具体的なタスクに落とし込んだり、リーダーに助言を行う立場に甘んじるべき。
そしてリーダーから「お前な、少しは部下の気持ちも考えろよ」「言ってることは正しいけど、今このタイミングでやるのは面倒なだけだからほっとけ」などと叱られ、たしなめられながら生きていくのが一番。
http://anond.hatelabo.jp/20140730014718
もちろんその中には公平な選考を行っている者もいるのでしょうが、私が実際に交流を持った彼らの選考基準は、それはもうひどいものでした。
面白さというものを計るに当たって、読む人間の趣味嗜好が反映されることは少なからずあります。
ですが、作家志望の彼らが選考で基準にしていたのは、なんら客観性もなければ、直感というには理屈に凝り固まった独自の創作ルールでした。
少し前に“……”の使い方を巡って持論を展開し非難を浴びた下読みの方がいらっしゃいましたが、彼などまだ生やさしいほうです。
元増田がしているのはラノベ新人賞の下読みの質が低下しているという話だが、
これは何も小説に関わる人間たちの間でのみ起きている問題ではない。
「人が何かを選ぶ」という要素が入るあらゆる部分で起こりうる問題だ。
とりわけ『面接』という「人が人を選ぶ」場所において頻繁に起きている。
選考基準としての指標などはあるだろうが、
たとえば面接官が
「こういったチャラチャラした学生は面接で嘘をつくものだ。全部の点数を2段階低く見積もっておいた方がいいだろう」
つまり、公平をきすために用意されていた数多の指標全てに面接官の主観が入りこむ隙間があるのである。
つまり現代の面接制度は「面接官自身の選考者としての資質」に大きく左右されてしまうのである。
そのことに関して「人事課など元々左遷先のようなものだから仕方がない」などと言う者すらいる始末だ。
そもそも全ての企業がその会社独自の求める人材をキチンと定義づけられていない事が問題なのかも知れない。
会社が求める人材が明確に定まっていないから、人事の主観が入る隙間がいくつも開いてしまう。
「優秀で」「よく働き」「誠実で」「素晴らしく」「俺と趣味があって」「健康的で」「サビ残も沢山する」、
はっきりと絞るべきなのだ。
「キチガイ上司ともコミュニケーションが取れる根性がある人」「エクセルがメチャクチャ上手い+雑用を苦にしない」、
そういった求めている人材の明確な基準を示せない企業に、「いい人材がこない」などと嘆く資格はない。
「どんなラノベを求めているか」という指標を示さずに「面白いラノベほすい~~^q^」などとのたまって応募を募るのだから、
当然賞全体の選考基準はガバガバになってしまいその隙間に下読みの主観が潜り込んでしまうのだ。
「日本語ができていれば通ります」という選考基準が通じた時代が終わったのなら、今度は基準を増やしていかなければならない。
「ヒロインがシコれる文章」「共感できる主人公」「おっさん向き」「小中学生向け」、大きな括りを一つ増やすだけでいい。
それだけで何を選ぶべきかが明確になる。
このたび何が言いたいのかというと、ここ近年におけるラノベ新人賞下読みの質の低下についてです。
ご存じの方も多いでしょうが、一時期のラノベブームの影響で新人賞に応募されてくる作品の総数は未だなお増加傾向にあり、併せて選考にかかるコストも増加の一途を辿っております。
選考においてもっとも頭数を必要とするのが、私のような下読みと呼ばれる一次選考に携わる人員です。
送られてきた大量の作品をある程度ふるいにかける役割ですね。この辺は今さら説明せずとも巷に情報が溢れているでしょう。
この下読みというやつは、出版社や作家や編集者との個人的なツテだったり、専門に業務を請け負う会社だったり、あるいは下読みを行っている者からの紹介だったりと、様々なルートで集められるのですが、応募数増加の影響でどうしても人手が足りなくなり、本来であればラノベ新人賞の選考に関わるべきではない資質の持ち主までもが下読みとして選考に加わっているのが現状です。
つい最近下読み作業に関わるようになったばかりの方々と直接に交流してみて、そう実感せざるをえませんでした。
下読みたる者、古今のライトノベルに精通していなければダメだとか、特別の目利きでなければダメだなどとは考えておりません。
ライトノベルすらよく知らない一般の方の視点などは、素直で好ましいとすら思います。
だったら、何をもってしてラノベ新人賞の選考に関わるべきではない資質の持ち主と感じたのかというと、つい最近下読み作業に関わるようになったばかりの彼らが、極めて個人的な尺度で、それも読者ではなく創作者としての視点で作品の選考を行っていたからでした。
この、ラノベ新人賞の選考に関わるべきではない資質の持ち主というのは、つまるところ自らもまたラノベ作家志望者であるにも関わらず、下読み作業に関係している方々のことです。
ここ最近下読みをやってみたいと手を挙げる者の大半が、この作家志望者の方々だったりします。
もちろんその中には公平な選考を行っている者もいるのでしょうが、私が実際に交流を持った彼らの選考基準は、それはもうひどいものでした。
面白さというものを計るに当たって、読む人間の趣味嗜好が反映されることは少なからずあります。
ですが、作家志望の彼らが選考で基準にしていたのは、なんら客観性もなければ、直感というには理屈に凝り固まった独自の創作ルールでした。
少し前に“……”の使い方を巡って持論を展開し非難を浴びた下読みの方がいらっしゃいましたが、彼などまだ生やさしいほうです。
・自分なりの描写へのこだわりを他人の作品にも押しつけようとする。
文章力とはすなわち比喩の上手さであると語ってみせた彼は、綺麗な比喩を用いていない文章は幼稚な文章だと断じ、平易な文体で書かれていた作品をまったく評価しようとしませんでした。装飾過多でギトギトになっている文を「描写が実に細かな文章だ」と満足げに評価したときは呆れたものです。
なお、ストーリー自体の良し悪しを判断する物差しは持ってないようで、そこを踏み込んで聞いてもぼんやりした答えしか返ってきませんでした。
この彼も自分なりの面白さを計る物差しを持っていません。彼にとって作品の良し悪しとは、創作指南書だったかハリウッド脚本術だったかの教えであるところのエンタメ作品のセオリーに則っているかどうかなのです。
主人公の成長、変化がないからダメ。冒頭で盛り上がらないからダメ。構成の黄金パターンは決まっているのだからはみ出ているのはダメ。
偉い人の言ったことを盲信するにもほどがあります。
ラノベとは萌えであると思い込み。女の子を活躍させているいるかどうかで作品の良さを判断する。
「サブヒロインの印象が薄いから、これは駄目な作品」とは彼の言。
ざっと一例ですし、皆が皆ではありませんけれど、今の下読みにはこのレベルの文盲が本当に紛れ込んでいます。
間違った理屈を信じ、素直な感性で良し悪しを判断できなくなった彼らの読書スキルはその辺の中高生以下でしょう。
私が実際に接した彼らはラノベ作家志望なのにも関わらず、進んでラノベを読んだりはしないというのだから考えものです。そのくせ文章力やら構成やらに関してばかり口うるさい。
そうでなくったって、作家志望者が選考する側に回るのはどうなのかとの懸念もあります。
モラルもまたひどいもので、下読みした投稿作の内容をSNS上で仲間に漏らすなどのことも平気で行っているようです。
私は高次の選考を行う方々の話も聞きますが、近年、本来であれば一次で落ちてしかるべき作品が下読みから上がってくることが目立つと言われていました。
その原因には間違いなく下読みの質の低下があると思っています。
・追記
他でも散々言ってきたのでここでも念を押しておきますが、日本語さえ出来ていれば一次は通ると言われてたのは今や昔です。
応募総数の増加を見ればわかりますが、真っ当な下読みに当たったとして、一次選考の突破が以前とは比べものにならないほど狭き門になっているのは事実です。
いつの何処の話だよ?
それに、東大はある意味特別だったから新聞に載せてたところもあるけど、
そもそも高校の発表を載せてたとこなんてあるのか?何時の時代だ?
そしてお前もその資質をちゃんと継いだのか?
神童だと言われて育った。2歳で平仮名を全部覚え、3歳になる頃には、保育園で他の子達に絵本を読み聞かせていた。保育士の間で変な子がいると噂になり、近所の教育大で知能検査を受けることになった。その後、両親が大学に呼び出され、しばらくして算数の教科書と問題集を持って帰宅した。それを読んで勉強するようにと言われ、試しに読んでみると、何を言っているかが大体理解できた。分からないところは親に聞きつつ、小学校に入る頃に分数の勉強を終え、小4の途中で高校の微積分を終えた。
学校は楽しくなかった。あらゆる授業で、5分で済む話に1時間以上をかけていると感じた。全部の質問に手を挙げていたら、1週間もしないうちに、もう手を挙げるのは止めろと教師に言われた。漫画やゲームをしていると取り上げられた。教師ももてあましていたのだろう、途中から、図書室で借りた本なら、授業中に読んでいても何も言われなくなった。ただ、小4の途中で、読みたい本は大体読んでしまった。同級生からは面倒な存在として扱われていた。
地元には目立った進学校はなかった。親戚の家から通うかと言われたが、某有名校の中学受験の問題集に目を通したところ、代数は使わず鶴亀算で問題を解けと書いてあるのを見て、これは意味がないと感じた。まがりなりにも、三角関数も虚数も指数関数も勉強してきて、それでもxもyも使わずに鶴亀算で解答しないといけないのかと思うと、情けなくなった。教師や親戚など、事情を知っている周囲の大人からは、〇〇くんは特別だから、と言われた。でも、特別でいいことなんて、何も思いつかなかった。
その直後、小6で反抗期が訪れた。もう勉強は止める、と親に宣言し、地元の中高でそのとおりに6年間を過ごした。授業は聞かず、ノートはとらず、教科書も学校以外では開かなかった。それでも成績は概ね上位だった。別に天才だったからではない。必要な勉強の大半を、小学生の頃に済ませてしまっていたからだ。運動部に入り、服に気をつかいはじめ、カラオケやビリヤードに行くようになった。「特別」な子はもう卒業だった。孤独な努力を続けるのは、もう飽き飽きだった。
その後は平凡な人生だ。大学4年間を引き続き遊んで過ごし、それなり以上の会社に潜り込んだ。同僚からは、理屈よりもむしろ調整能力で評価されている。運よく社費で留学することになったとき、壮行会で、〇〇が留学とはな、きちんと勉強してこいよ、と何人かに言われた。こう見えても昔は神童だったんですよ、と冗談めかして返事すると、その場の皆が笑った。僕も笑った。
「幸せか、と訊かれれば、だろうね、と答えるしかない。」村上春樹の小説のうち、この台詞だけは、今でも折に触れて思い出す。
今、この日本全体で、かつての僕のように、指数関数や三角関数を学習したのに小学校で分数の足し算をさせられている子供が、一学年に少なくとも数人はいるだろうと思う。そのほぼ全てが、最近報道であったようなカナダやアメリカでの飛び級のチャンスには恵まれず、中学受験のために鶴亀算をやるのだろう。又は、その選択肢を見限って、自分の知的好奇心よりも、同年代の子に溶け込むことを優先するのだろう。もし、それを少しでも、日本にとって人的資源の無駄だと思うなら、飛び級制度の抜本的な拡大をぜひ支援してほしいと思う。
他の主張を落としめることで自分の主張を際立たせるやり方がスマートでないのは承知の上で、あえて言えば、
総務省の「和製ジョブズ」発掘プロジェクトよりも、飛び級の抜本的拡大の方が、絶対に将来の日本を変えるチャンスを秘めていると思う。
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追記:
「ガチの神童ではない」のはおっしゃるとおりというか、少なくともガチの天才ではないと思います。SPIやGMATのような類の試験では、今でも苦労せず高得点が出ますが、単に事務処理能力が高いだけで、何かを考え抜いて新しいものを生み出す資質とは違うのでしょう。「二十歳を超えれば只の人」というのは、自分でも折に触れて実感するところです。元神童の典型例のひとつとして読んでいただければと思います。
今の境遇には満足しています。過去に後悔があるわけでもありません。ただ、昔の自分を幼かったなと感じるだけです。
そういえば、授業を集中して聞けない癖は今でも抜けておらず、留学先では苦労しています。自分の意思の弱さの問題だと言われればそのとおりですが、この点については、幼い頃の境遇に原因を求めたくなる気持ちもないではありません。幸い、今は周囲が競争して手を挙げる環境なので、自分も積極駅に参加することで乗り越えようとしています。
鶴亀算に対する思い違いについては以下のとおりです。僕は面白がって取り組むタイプではありませんでした。パズルとして楽しむよりも効率を求めてしまうのだと思います。http://anond.hatelabo.jp/20140722211051
天才のまま、知の最前線を走り続けている人がどれだけいるのかについては、僕自身も知りたいところです。そのような人達をみて、飛び級がなくても問題はないというか、飛び級があればもっと早くその才能が世に出た筈だというかは、ひとつの判断でしょう。
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追記2:
引き続きコメントありがとうございます。
>「本当の天才」でないとしても、学習意欲・知的好奇心のある早熟な子供に既知の退屈な授業をする必要はないと思う。飛び級というのは「本当の天才」だけを特別扱いする制度ではない。
まさに我が意を得たりという思いです。ありがとうございます。
>そこで頓挫したなら、ただ早熟なだけだろ。その壁が越えられない自称天才達なんて掃いて捨てるほどいる。
そういう「自称天才」の子達が、小学校の頃に互いに出会えたらよいのではというのが、この日記で主張したかったことの一つでした。競い合う環境は能力の啓発を促します。それで「本当の天才」が生まれなくとも、何人か何十人かの「秀才」の知的好奇心が満たされ、かつ能力が底上げされるなら、充分に価値があるのではと思います。
あと念のためですが、僕は自分を神童だったと言ってはいるものの、天才だとは言っていません。この点分かり辛かったとしたら失礼しました。はてなは高学歴が多い印象だったので、元神童や現役の天才達が自分達の経験を語る流れがメインになるかと思っていましたが、僕が天才に該当するか否かの議論に焦点が当たってしまったのは残念なところです。今からでもぜひ!もっと!
ちなみに、天才でないという指摘はそのとおりだと思っているので気になりませんでしたが、「賢い人が書いた文章ではないように感じる」というご指摘には地味に凹みました。論理的な文章を書けることが重視される職業なので。。まだまだ至らない身だと胸に刻み、精進してゆきたいと思います。そのせいもあってか、釣りか否かの論議が続いているのは哀しいところですが、増田で書く以上は仕方ないのでしょうね。